寺杵法百
真装順肥西理
「「一寸
教次正高光熊 寺霊寺本寺本
|
小 lI
真謹元理安思 勝詣正宝養宝 寺川寺名寺名
真 肥 竪 」
光 部 覚 事
寺崎 寺長
正思
覚
寺崎農
④ 本
l
正願旦7
覚崇主
| | ー 西嬰正且
教詮国語寺金寺岡
⑤
盛前今井川門出前小
g m
芝 山 中 津 肥 後 八 代 肥 後
本願寺︵|浄喜寺
l l
浄喜
寺|
l
宝蓮坊||浄喜寺||順因寺⑥ 本 願 寺
「寸一寸 蓮霊泉裳本訴 照嵩慶重通主 寺家寺来寺厄
舟思
後熊 寺本
@ の六系統があったとしている︒このことは中世における真宗の九州伝播期から言えるようで︑民が報告されたところ
の︑現存する又は存在したという記録を持つ方便法身尊像の裏書十点を見ても︑①の興正寺系が永正二年四月二十八
日の専想寺蔵を始め︑永正六年・大永二年・大永三年の四点︑②の仏照寺系が明応四年・永正二年・天文十八年の三
点︑③の善法寺系が明応二年の一点︑⑤の浄喜寺系が明応二年のて品︑系統不明が享禄元年の一点と︑そのほとんど
がこの六系統に含まれる寺院に所蔵されている︒ところで︑ここにあげた方便法身尊像十点の所在地は︑豊前四点豊
後六点であり︑すべて東北九州の瀬戸内海に面した地域に限られている︒これは真宗の九州伝播が海上交通によって
逸速く豊前豊後地域に及んだことを示唆しているが︑本稿が問題とする筑後地域におけるそれへの解答を与えてはい
: ︑ ︒
φん
︑U
筑後における方便法身尊像は︑現存するもの二点︑記録によって知られるもの一点がある︒ ⑤
﹁寛
文十
年寺
社開
基﹂
によると︑御原郡横隈明願寺︿現在小郡市﹀には︑永正十三年三月十日付の実如下附方便法身尊像が存在するとしてい
る︒また現存するものは︑久留米市真教寺︑及び三井郡北野町明善寺にそれぞれ︑
筑後
真宗
教団
の構
造
一 一
五
筑後
真宗
教団
の構
造 大谷本願寺釈実如︵花押︶
永正三年丙子六月三日
教行寺門徒方便法身尊像
摂津嶋上郡
富田郷
願 主 釈 慶 俊 方
位 法
身7
像T宇
願
H
醐日j 日
徒門円 日
本
口 十月 (
日 花押
'−ノ
一一
六
(真教寺蔵〉
(明善寺蔵〕
源流に直接関わるものとは考えにくい︒ という裏書を持つ方便法身尊像があるが︑文面の如く︑その所蔵される寺院へ下附されたものではなく︑筑後真宗の
そこで筑後の真宗に関する最古の史料としてあげられるものは︑
︿天 文六 年四 月廿 七日
︶条
一︑勧之物筑後普西跡門弟中より百疋来
MW ︒
︵天 文十 五年 月十 十八 日条
︶
一︑
為斎
於筑
後国
真教
寺志
︑
取次
防周
に︒
調之
︑
何五
疋百
出之
云々
︒
﹁天
文御
日記
﹂の
次の
二ケ
条で
ある
︒
︵以
下略
﹀
⑤
この二ケ条は︑三井郡仁王丸真教寺︵現在久留米市︶に関する記事であり︑天文六年には︑真教寺開基善西の没後︑
その
門弟
中が
百疋
を本
願寺
に献
上し
おて
り︑
さらに同十五年には寺号を称していることから︑この天文期にはすでに︑
筑後教団の萌芽をある程度認めてよいようである︒
さて︑この地域の真宗寺院は︑先の六系統の内どの系統に属していたのであろうか︒それを実証する史料は多くな いが︑近世初頭の東西本願寺の下附物控である﹁申物帳﹂及び﹁木仏之留﹂
﹁御
様影
之留
﹂を
参考
にし
てみ
ると
︑興
正寺
と系
考え
られ
る寺
院は
︑
﹁木
之仏
留﹂
﹁御影様之留﹂に見える筑後の全寺院二一ケ寺中僅かに二ケ寺︑仏照寺系
①
さら
に﹁
申物
﹂帳
に見
える
全寺
院六
一ケ
寺中
︑
一四
ケ寺
は三ケ寺である︒これに対し︑真教寺末寺院は四ケ寺あり︑
が真教寺末であることから︑筑後では興正寺系や仏照寺系よりむしろ︑真教寺系
l
すなわち日浦氏が提示した六系統@
に則して言えば︑③善法寺系が支配的であったと考えられる︒
ところで︑筑後の真宗寺院個々の成立時期やその事情を記した文献に︑
⑤
⑪
﹁寛
文十
年寺
社開
基﹂
及び
諸郡
誌が
ある
︒ 筑後真宗教団の性格を考えるために︑これらの検討から始めてみると︑
まず﹁寛文十年寺社開基﹂に記載される有馬 藩内真宗寺院は二一五ケ寺あり︑その開基年代は表
I
の如くである︒現在の寺院数が一三五であるから︑北筑後では
この
寛文
期に
︑ ほぼ現在に匹敵する規模の教団が存在していたと言えよう︒
さて
表ー
によ
れば
︑開
基年
代に
二つ
の大
きな
山︑
θ
永正J
天文期︑︒天正
J寛
永期
を見
るこ
とが
でき
る︒
θ
永正天文期は︑本願寺教団が東国西国へ教線を伸長した時期で︑実如は永正の動乱を切抜け︑
⑪
この永正期に教団の基盤をかためると共に︑全国的に教線を拡張した︒九州においてもその痕跡は認められ︑先に紹
一門
一家
の制
を定
める
など
︑
筑後
真宗
団教
の構
造
一一
七
筑後
真宗
教団
の構
造
一一
八 表
「 寛 文 十 年 寺 社 開 基
」 真 宗 分
武 上 下 三 生 竹 山 御 御
言十
土 妻 妾 滋 葉 野 本 原 井
2 I 2 I 2 前以文明 3 I 3 I 1 1 1 文明 o I o I 長享 1 I 1 I 1 延徳、 1 [ 1 I 1 応明
、
1 ] 1 I 1 文亀 s I 9 ] 1 2 5 1 永正 10 [ 16 [ 3 5 3 3 1 1 大永 2 1 3 I 2 1 禄牟 1s ] 22 [ 3 1 文天 2 I 2 I 1 1 弘治 1 I 3 I 1 2 禄永 3 I 3 I 1 1 1 フ亀ロ
16 [ 21 I 6 9 1 1 2 2 正天 5 I 7 I 2 1 1 3 禄文 13 ] 13 ] 1 4 1 3 4 慶長 s I s I 1 4 フ手じ口 4 I s I 1 3 1 1 2 寛永 o I 3 I 1 1 1 寛文正保 1 I 2 I 1 1 不
明 90 I
ば
21 1 言十i 吋
21 1 在現介した十点の法便法身尊像は︑多くこの時期に下附されており︑
@ を見ても︑天文期に急激な増加を示している︒ また圭室文雄民が紹介した肥後真宗寺院の成立年代
次に②天正J
元和期は︑筑後において目紛しく政治情況が変化した時期に当り︑天正十五年秀吉が九州に進攻する と︑筑後は毛利秀包等の支配下におかれた︒その後関ケ原の戦いが終結した後︑慶長六年田中吉政が入封し︑筑後を 一円知行したが︑二代忠政に後嗣なく廃絶し︑元和七年有馬豊民・立花宗茂に分割統治され︑ここに幕末まで続く有 馬藩が成立した︒この間︑筑後の国人・土豪層は︑それぞれの大名に給人被官化するものもいたが︑政権の変化によ
⑬ り︑余儀なく浪人する者も少くなかったようである︒
このような時期に開創された寺院が多いことは︑ ⑬
﹁紫
雲殿
由縁
記﹂
に見
える
︑
テ︑音ニ聞ク寺院トナレリ 国々ニテ建立ハ多ク其所ノ郷土格或ハ大キナル百姓ニテ︑其家頼下百姓等辻本トナリ︑或ハ庵主道場寺号ヲ望申
という時代性︑すなわち兵農分離進行段階で︑大名の家臣にならず︑また純粋な百姓にもならない︑在地の小名主層
⑬ が寺院化していく時期に相当していたためであろう︒表
I
の左端に︑諸郡誌によって︑筑後の国人やその家臣の名を⑮ 開基者と伝承している寺院数を示したが︑その数が全体で七二%︑天正J元和期には八O%の高きに達しているのは︑
この
こと
の現
われ
であ
ると
思わ
れる
︒
表 II
草野
氏関
係寺
院
ところで︑こういう国人やその家臣の名を開基者と伝承する寺院が多いことは︑開基年代の差にかかわらず︑全般
的 に も 言 え る よ う で
、 永
正J
天 文 期 に し て
も、六O%の数字に至
光 浄 源 浄 西 法 称 正 真 長 光 寺
伝 徳 光 顕 誓 円 揚 円 教 福 蓮 院
寺 寺 寺 寺 寺 寺 寺 寺 寺 寺 寺 名
主年中主0~九護回主二主之初
主元主JG;克盟ニ n
主克
基関年
ム ム ム
O
ムO
ム00
ムム 種別革 草 手 1 4 出 E 至 I 宝 E 語 i 手 王 f 手 2 言 1 語 !
基関地 丸 丸 島 丸
Oi
−−
−草
野氏
の一
族と
伝承
する
ム・
・・
・・
・草
野氏
の家
臣等
と伝
承す
る
筑後
真宗
教団
の構
造
って
いる
︒天
元和期は先述した理由によりその数が著しく高正J
いのであるが︑基本的には筑後真宗寺院の当初からの性格と考え
てもさしっかえないと思われる︒そこで︑この国人層やその家臣
⑫ を開基とする寺院のうち︑特に草野氏の名に託している寺院につ
いて
若干
考察
して
おき
たい
︒
草野氏関係寺院は北筑有馬藩領の山本・竹野・三井三郡に一一
ケ寺存在しており︑それを表
E
に掲げた︒これ等一一ケ寺の開基年代は︑寛
E
J天正の聞に広がり︑異常に早い例も見られるが︑
おおむね有馬藩全真宗寺院の開基年代と並行している︒この表
E
⑬ ﹁草野文書﹂中︑草野氏の所領を示す四点と比較すると次の
を
二 九
筑後
真宗
団教
の構
造
一 一 一
O
よう
な結
果と
なる
︒
⑬
まず
文亀
二年
一一
一月
三日
付﹁
大友
義長
判草
野太
郎知
行宛
行状
﹂に
よれ
ば︑
山本
郡全
域と
︑竹
野郡
内の
二ケ
所︑
三井
郡 の内に三ケ所等が宛行われているが︑このうちに山本郡に属する西誓寺・源光寺︑
@
三井
郡の
中村
長福
寺︑
また竹野郡﹁綾野﹂光伝寺︑及び
﹁大
城﹂
光蓮
寺の
所在
が草
野太
の郎
所領
中に
含ま
れて
いる
︒
@
﹁大友義長判草野太郎知行目録﹂には︑三井郡中に一六ケ所︑下妻都中に一ケ所の知行地が見られ︑この中にも浄徳
同郡
次に永正六年正月廿四日付
寺の
開基
地﹁
江戸
﹂︑
また真教寺・法円寺・浄顕寺が開基された﹁仁王丸﹂を見ることができる︒
@
二月二十四日付﹁大友義鑑袖判知行目録﹂に見られる三井郡四ケ所のなかには︑称揚寺の所在﹁八重亀﹂が含まれ︑
@
年次不詳十月八日付﹁草野長門守宛右述親照等連署奉書﹂には︑正円寺が開基されたと伝承する﹁八丁島﹂が﹁扶持
さらに天文三年十
分﹂として認められていることが解るのである︒
@
このように︑草野民関係寺院の所在は︑秋月氏や問注所民等︑北筑に勢力を持つ豪族と錯綜した知行関係を保って いた草野氏の所領地と完全に重複していることから︑これらの寺院の伝承を全面的に認めることはできないにしろ︑
草野氏が知行する村々での名主層が
︵そ
の中
には
草野
民の
流れ
を汲
む者
がい
たか
もし
れな
い﹀
︑
それぞれの寺院を開
基する主体であったことは疑いのないところである︒この一一ケ寺中六ケ寺までが︑草野氏の家臣を開基者と伝承し ていることの理由はその点にあったと考えられる︒ともあれ︑以上の如く草野氏関係寺院の例を見る限りでは︑国人 の名︵あるいはその家臣︶を開基者に宛てる寺院の多くは︑村落における名主的性格を持っていたのではないかとい
う想
定が
でき
るよ
うで
ある
︒ ところで︑・本願寺教団は︑元亀元年織田信長と戦場を聞き︑同年十月九日顕如は諸国に挙兵の撒を発したが︑その
@
一通に﹁筑後坊主衆・門徒中﹂宛のものがある︒この撒に対
L︑筑後の教団がどのように対応したか明白でないが︑