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一 、

ドキュメント内 真宗研究26号全 (ページ 101-105)

は じ め に

大行とは﹁元専光如来の御名を称するなり︒この行は即ち是れ諸の善法を摂し︑諸の徳本を具せり︑極速円満す︒

真如一実︑功徳宝海なり︒故に大行と名づく﹂と︒

現在︑真宗教学界において︑それについて︑大無量寿経等に︑その大行として説かれていないが如く︑同州布︑喧伝

され

てい

るよ

うで

ある

期浄土経典である二四願経に念仏の仏道を﹁行道﹂と説き︑ しかるに︑浄土教思想の経典を精細に調査するに︑雑阿含経︵道教︶のうちに︑既に︑その称名念仏を﹁正行﹂︑初

② 

党行

さら

には

︑正

依︑

大無

量寿

経に

おい

ては

︵ 蔵

訳で

は行

道︶

と名

づけ

てい

るの

であ

る︒

いま

︑そ

の﹁

究行

﹂と

は︑

四八願のうち︑第三六︑常修究行の願についてである︒その究本の本願文は欠損して見

るこ

とは

出来

ない

が蔵

本は

あり

且つ︑その成就文においては︑説訳等は厳存しているので︑党行の相状を知ること

大 行 の 軌 跡

九五

九六

がで

きる

︒党

行と

は︑

︵吋

E P

H V R E

阻 害

O

E

w

国同

各自

由口

同弔

問﹀

一般

には

︑清

浄の

行で

あり

︑浄

戒を

意味

する

が︑

それ

は︑

また︑南無阿弥陀仏と称えること伝由民︶の殊勝の行でもあるのである︒

︑ 諸 訳 本 願 文

いま︑南条博士著︑誠一紐究文和訳仏説無量寿経︵八六頁︶によって列記しよう︒

︵貌

︶一

ニ六

︑説

我得

仏十

方無

量不

可思

議諸

仏世

界諸

菩薩

衆︑

聞ニ

我名

字一

寿終

之後

常修

一一

先行

一至

レ成

ニ仏

道一

不爾

者不

取正

覚︑

︵唐

︶三

六︑

若我

成仏

︑無

量無

数不

可思

議無

等仏

利菩

薩之

衆︑

聞我

名己

︑得

一一

離生

法一

若修

コ行

殊勝

究行

一乃

至到

一一

於大

菩提

一若

不爾

者不

取正

覚︑

︵宋﹀二八︑世尊︑我得菩提成正覚己︑所有十方無量無辺無数仏利︑声聞縁覚︑聞我名号︑修持浄戒︑堅固不退

速坐

道場

︑成

就阿

蒋多

羅三

窺三

菩提

なお

︑蔵

訳を

あげ

れば

︵蔵

﹀↓

ニ七

︑世

尊ょ

︑も

し私

が菩

提を

得る

時︑

無量

無数

不可

思議

懇一

すな

る無

量の

仏国

に於

て︑

何れ

の衆

生に

ても

わが名を聞くこと与なって︑名を聞いたのみによって︑菩提道場の究寛に到るまで︑清浄に行ふこ

と与ならないその聞は私は無上完全円満の菩提に明瞭円満に成仏致しませぬ︑と︒

これ等の四訳において︑同じく︑出

E r

B

口同

吋習

とあ

って

も︑

それ

が清

浄行

であ

る浄

戒で

ある

か︑

或は

念仏

行︵

ぬ由

民︶

を意味するのであるかを確認しているのは︑貌訳と唐訳とである︒唐訳の﹁殊勝究行﹂とは名訳なのである︒

そのことの証明として︑三六願の成就文を見ることとする︒

一 一

そ の 成 就 文 党文和訳仏説無量寿経︑南条文雄著︑二四七頁に︑大経の文において︑

常能修行其大悲者

深遠︑微妙

鹿不覆載

究寛一乗至子彼岸

等六句︑をもって︑第三六︑常修究行の成就文とせられている︒

@ 

天親菩薩の無量寿経優波提舎願生倍︑第十一備に︑

党戸悟深匙リ徴仇手間ニ十忠一正覚阿弥陀法王乱住札タマへ u

とあ

る︒

経文の深遠とは︑念仏の正覚の悟の大音であること︑微妙とは︑その音声十方に聞えて︑

ひび

き渡

ら事

さる

こと

ない

ことである︒その大悲なる者とは︑蔵訳には聖人とするが︑諸の菩薩であり︑常に能く称名念仏するのである︒市し

て︑

それ

等の

人々

は︑

一乗を究寛して彼岸に至るといわれる︒この一乗とは︑

いわゆる三乗に対する一乗ではない︒

党文

より

すれ

ば︑

一趣

︵m

W4

吉田

︶と

あり

︑蔵

訳よ

りは

唯一

の行

通︵

四日

SE m阻 止

BR m 芯とあり︑

いま

一乗

︵井

戸・

可間

口問

﹀と

ある

が唯

有一

乗の

意味

であ

る︒

!¥ 

以上によって知らるるが如く︑

いわゆる浄戒については関係がない︒それは︑

ただ︑念仏行について︑その妙声の 功徳成就が説かれているのである︒

四 心 の 華 文

なお

︑ 一言したいのは︑常修究行の願の成就文の次に︑

決ニ

断疑

網一

慧由

レ心

出 該 於 羅三仏

無 教レ 法

外 ー 等の教語がある︒これについて︑南条先生はその成就文をあげられていない︒この四句のうち︑前二回は念仏者の心

慧功徳を︑後二句は念仏の四念住説において一切法を尽していることを説いているもののようである︒

この

うち

︑念

仏者

の心

慧功

徳を

説く

句で

ある

究文

は︑

田沼

田同

国司

E q

a

と日目であり︑唐訳は︑

⑤ 

藤田博士は﹁他に依存しない智があり﹂と和訳されている︒

﹁不

一一

由レ

他悟

こと

し︑

しかるに︑道教である念仏三昧経においては︑

当一

ニ為

使一

一自

一計

と︑

訳漢

され

てい

る︒

かの

天親

の浄

土論

に︑

説訳

の﹁

心﹂

そ︑

れは

︑他

でな

い︵

田呂

同国

︶︑

自で

ある

浄︒

土教

は三

経一

論に

っよ

て成

立し

てい

ると

いわ

れて

いる

が︑

﹁世尊我一心︑帰命尽十方無暁光如来︑願生安楽国﹂とある︒その我一心の根基が︑道教であ

る念仏三昧経と正依大無量寿経とのうちに顕著にその光吉を見出されるものであることを知っていてよいのでないか︒

︑ 浄 戒 と し て の 発 行 ものが入ってこない︒それが常修先行であります︒. ﹁究行﹂というのは清浄の行でありまして︑男女の聞の美しいことであります︒つまりそこにいわゆる汚らわしい

かくのごとくして男女の自己の内部にある女性を自覚し︑女性は自分の中に男性の光を見出してゆくのであります︒

@ ル ︸ ︒

永い問︑われわれに親しまれて来たものである︒

六 ︑

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