第9章 1882 年ドイツ帝国職業=営業調査の成立
終び 19 世紀ドイツにおける営業統計の展開
はじめに
以上において、ドイツ社会統計における 19 世紀を通じた営業統計の形成・発展過程を追求してき た。それは、当時の経済統計を集約した営業統計の端緒を掴み、営業表として国家統計表の一要素と なった段階から独立の直接全数調査として営業統計が産み出されてくる、この 1810 年代末から 80 年 代初めにかけての 60 年以上に及ぶ展開プロセスを解明することである。営業表の果した統計形成史 上の歴史的役割を確認しながらも、その限界を明らかにし、営業表ではなく直接調査として営業調査 が実現してゆく経緯とそれを促した契機を取り出すことである。
当時の最も重要な経済統計であり、かつその営業表段階の克服に大きな困難を抱えていたのが営業 統計であり、その近代化プロセスにこそ人口統計を越えた統計調査に固有の難問が集中的に現われて くる。それがどのように解決されていったかを解明することによって、行政統計作成のドイツにおけ る拡充を促進し、のみならず他国にはみられない高度の統計制度を作り出した要因を究明することが 可能になると考えられる。
以下では、本書の結びとして、論題ごとに取り上げられた論点を整理し、その検討結果を説明し、
その中でドイツ営業統計の展開にみられた特質を明らかにする。
Ⅰ.営業表段階の営業統計
1.プロイセン王国営業表1.19 世紀以前に商工業振興政策の基礎資料として、いくつかの領邦国家で営業実態に関する統 計作成が試みられている。そうした事例の中にあって、後のドイツ営業統計への道筋を切り開いてい ったのはプロイセン王国での営業表作成である。プロイセン絶対王政の中央統括部署として総監理府 があったが、そこには各地方官庁から行財政に関する報告・数値資料が集結するシステムが構築され、
そうした資料の中に各地の営業活動についての報知も含まれていた。これらは総監理府第 5
省に集ま
ってきた主要産物、また特定地域での手工業や工場の経営振興に関する数量であり、内局によって所轄され内部資料として統計表に集約されることになる。 旧プロイセン時代においては総監理府の内局
が統計中央部署としても機能し、重商主義政策の下、商工業育成と輸出拡大を施策とする財務行政の 一環に営業統計作成が組み込められていた。この作業を継承し、国家統計表の一枠として営業表の定 期的作成が軌道に乗るのは 19 世紀に入ってのプロイセン改革以降のことである。1810 年の統計局再建と同時に、ホフマンによる包括的な統計表が提示されている。そのホフマン 表においては生業手段とされた部門に最大のスペースが当てられ、そこには営業経営における各業種 の形態とそれぞれにおける就業者数とその身分構成/物的営業手段の種類と数量、これらが多様な表 示項目の下で記載されている。1819 年には、プロイセン国家統計表の中で営業表が独立する。もと もとの人口統計中の手工業者の身分別構成数といういわば職業統計表の枠を越え、さらに製造・流通 部門やサーヴィス分野を追加させることによって当時の商工業の実態をその就業者と使用施設の面 から捉えようとする。さらに、3年おきの作成を継続させ、かつ同じ枠組みの中での記載業種と表示 項目の拡張を計りつつ、1845年に至り初めて一般に公開された統計表集成『1843年の官庁調査によ るプロイセン国家の統計表』の中の 1843年営業表にゆきつく。
43年プロイセン王国営業表は5本立ての統計表の最後のもの、すなわち「1843年に対する全プロ イセン国家の営業表」として公表されている。この営業表は記載欄の連結方式を取り、表頭の欄数は 165に及ぶ。表側は25
県+ベルリン市の計
26地域区分である。連結されている表頭欄ではあるが、これは内容的には、①手工業者、②工場、③商業・運輸業・その他の3部門に分かれる。
①の手工業者部門は
45業種の手工業ならびに機械技工について、そこに就業している者を親方と「自前で働く者」
/職人・徒弟という職業身分別構成で表示している。
前者は業主層・独立営業経営 者層とよばれ、その数はまた営業(=経営)施設数に一致するとされることから、この部門では手工 業の営業経営数と就業者身分別構成が映し出されることになる。再三に渡り指摘してきたように、そ 214216
もそも営業表の出発点は都市手工業を対象にした手工業者表にあり、ツンフト制が堅固であった時期 には親方とその下で働く職人・
徒弟による都市圏での小規模経営の実体をほぼ正確に伝えうるもので
あった。その資料源として都市住民名簿やツンフト記録、また営業税台帳が利用可能であった。しか し、19 世紀中葉、営業の自由化がさらに進展する中では、旧い図式はその妥当性をますます失って ゆく。親方身分をもたない業主層に対して「自前で働く者」というカテゴリーがすでに最初の 19 年 表から用意されている。また一部の業種には労働者というカテゴリーも挿入されている。こうしたこ とは資本主義経済の下、手工業の中で進行しつつある構造的変化を反映したものであり、伝統的手工
業の衰退、そうした中でも根強く残り続ける業種、簇生する零細な独立経営(者)、いくつかの業種 で現われてきた手工業から工場制への移行、親方から工場企業主へ転身、資本と労働の対極分化とい
った新たな事態がこの部門の数量の背後に隠されている。②の工場部門は明らかに手工業部門と記載内容を異にした別種の統計表とみなされなくてはなら
ない。そこでは営業体の物的構成、すなわち生産施設数、ならびに機械・道具・装置という物的生産 手段の種類と数量の分布を捕捉することに主眼が向けられている。営業経営の物的設備面を主たる記載項目にすることから、これは手工業者部門の職業統計とは性格を異にし、経営面に比重を移した統
計表というべきである。手工業者表から出発したのが営業表ではあるが、その後それを押しのけて大 きく拡充してゆくのがこの工場部門の統計表である。43 年営業表では、鉄工場・銅工場・製錬場に始まり、種々の製造工場、さらには繊維工業に至る当時の工業生産の基幹をなす
24業種が取り上げ られている。工場部門の統計数量を辿ることによって、物的生産力の担い手としての営業設備(工場施設と機 械・装置)の地域(県)別分布とそれを通じて国全体の生産力レベルが推量可能となる。かかる意味 で工場部門の統計数量は工業生産力を規制する物的設備に関する貴重な経済統計といえるものであ る。しかし反面、工場生産に従事する就業者の表示はまったく貧弱である。それはわずか数業種にお ける労働者数と工場に附属する織物関連業と染色・染物業の就業者数の記載に留まる。後に述べるよ うに、これは当時の営業税資料には施設と機械・装置は記録されても、そこにおける就業者数は課税 の査定対象外であるために表示を欠いていたことによる。従い、先に経営統計としての性格を帯びて いるとはしたが、営業経営内の人的構成が不明という大きな欠陥をもっている。
ここで注意しなくてはならないことは工場という概念である。そこで工場というのは経済的に独立 した機械制生産施設のみならず、具体的には問屋制の下にある家内工業やマニュファクチャー、さら には家内労働者をも包摂した範疇なのである。手工業が特定顧客の注文あるいは局所的需要をまかな う生産主体(単位)であったのに反し、工場とは大市と市場販売を通じて遠隔地取引に従事する大規 模経営体とされ、問屋商人や仲介業者によってその経営体に組み入れられた小生産者とその物的生産 設備・手段(例、織機や紡錘)も工場部門に含められているのである。機械制工場生産が未熟な段階 で、生産力レベルよりも交易(流通)レベルに重点をおいた結果、こうしたものも当時は工場として 包括されていたのである。従い、
綿布や亜麻布の織物生産では家内工業経営者や家内労働者によるも
のが圧倒的であったが、これらは問屋制下に組み込まれて遠隔地販売にかかわるという点のみから、生産力レベルでは手工業に属するにもかかわらず営業表では工場部門に配列されるという捩れをも つことになる。
①と②では物的財貨の製造・加工・精製にかかわる営業体が取り上げられたのに反し、③商業・運
輸業・その他部門では財貨の販売と運輸、また旅客運輸、旅館経営・酒場経営といったサーヴィス営
業をも含んだ不生産的営業が現われてくる(8 分野)。ここでは記載項目がある業種では施設や営業 手段、別の業種では就業者(営業主)といったように不統一であり、さらには「楽師」や「(家事と 農業での)奉公人」といった職業階層も入っており、その他の雑多な業種のいわば「避難所」ともい える部門であり、営業表の性格に不透明さをもち込むもとになっている。2.以上、87営業種が記載項目をさまざまに混在させながら、165
欄で連結されているのが 1843
年プロイセン王国営業表である。それは当時の商工業経営の外延的拡がりを利用可能な資料にもとづ いて描写しようとする試みであり、結果として当時のプロイセン国家における生産・流通・サーヴィ ス局面での人的編成と物的構成に可能な限り切迫した資料であり、こうした意味で当時の最も包括的 な経済統計ともいえるものである。外延的拡がりというのは営業表の営業体が経済的単位としてではなく、あくまで技術的単位・点的 存在として捉えられていることを意味する。ある営業内でいくつもの作業場が併存する場合、そのそ れぞれが独立の営業体として計上されている。経営内にある有機的関連は不問にされ、関連する製造