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イ 固
人
研
内九
(平成七年度浄土宗総会学術大会一般研究)
心理療法と浄土教
ー 内 観療法にお け る ﹁ 悪 人 正機 ﹂ │
はじめに
内観療法(以下︑内観)は両親
・電偶者などから﹁し
ていただいたこと
﹂ ﹁し
て返
した
︑﹂
と
﹂﹁迷惑かけ
たこと﹂
を指導者に話していくことにより︑病気が治
つ
たり︑修養的効果をもたらすものである
︒奈
良県大和郡
山市の吉本伊信が浄土真宗に伝わる身調べという修行を
もとに開発した︒毎年︑日本内観学会
が聞
かれ
︑
医療
教育・
宗教などの面から活発な論議が行なわれている︒
内観国際会議も第
二
回が
一九九五年九月
オーストリア
のウ
ィ
ーンで聞かれ
世界に広まる内観の様子が報告さ れた︒(内観のやり方の詳細および参考文献については
﹃教化
研究
﹄第五号参照)
石
隆 信 l l
ノ' E ︐
内観と仏教・浄土教
三つの
質問
︑
﹁していただいたこと
L・﹁して返したこ
」と
﹁迷惑をかけたこと﹂
を確立したのは吉本である が︑似たようなことは吉本も
言
うように仏教の祖師方が
既にしていた︒
そのことは残された
言
葉からもうかがえ
①釈尊 る
﹁他人の過去を見るなかれ︒他人
のなしたこととなさな かったことを見るなかれ︒ただ自分のなしたこととなさ
なか
ったことについて
それが正しかっ
たか正しくなか
ったかをよく反省せよ
︒﹂
ウ ダ
ナ│
ヴァルガ十八章
九節 円LnU
(中
村元
訳)
我々は普段の生活では︑他人がしたこと︑中でも他人か
らかけられた迷惑や他人がしてくれなかったことばかり
に眼を向けがちである︒内観では逆に︑主に自分が他人 にかけた迷惑に眼を向け︑正しいものの見方を身につい
ていく︒吉本も
一二
つの
質
問のうち︑最後の﹁迷惑をかけ
たこと﹂を調べることにもっとも時間をさくように言つ
ている︒
②法然上人
﹁十
悪
の法然﹂
悪とは﹁迷惑をかけたこと﹂に他ならない
︒我々浄土教
師は加行で十の戒について﹁よく保つや否や﹂と問われ
﹁よ
く保
つ﹂と答える︒しかし答えるだけで何もしない︒
法然上人はそれらの戒を保とうとしても保てない自分を 見 て
﹁十
悪
の法然
﹂と
お
っしゃったはずである︒もちろ
ん︑小罪をも犯さじと思うべ
し︑であるから︑﹁よく保つ﹂
と答えて︑守ろうとすることは大事だが
その後がもっ
と大事なのである︒守ろ
うとしても守れない自分︑﹁して
返した
こ﹂
とは少なく
﹁迷惑かけたこと﹂ばかりである
という自分を見つめる︑
ということは宗祖法然上に還る
という意味でも意義深いものだと思われる︒
③親驚上人
﹁地
獄
一定すみ
かぞ かし
﹂ 自分は地獄に落ちるしかないほどの罪を犯している
と いう所まで自分を見つめたときが実は浄土の蓮の台の上 に救われているときであるが︑内観をすることによって
﹁迷惑かけたこと﹂を深く思い出していくと︑親驚上人 に近い心境に到る者もいる︒この心境は同時に莫大な﹁し ていただいたこと﹂も思い出すことにつながり︑救いに
到る︒もちろん我々の立場から言
えば
︑
死んだら浄土に
行く︑念仏すれば浄
土に行ける︑
ということは当たり前
である︒しかし
やはり︑信機信法のうちの信機を通つ てこそ︑憾悔をしてこそ︑本当の安心が得られるのでは
ないか︒
内観はその機悔を現代人にも非常に取り組みゃ
すくしたものである︒
内観と悪人正機
悪人正機説については既に親驚上人よりも以前に法然
上人が唱えられていたということは梶村昇の研究でも明 らかにされており︑真宗側も認め始めた
︒
その説の背景 には︑人聞がここまで進化できたのはすべての動物の中 で人聞が一番自己中心的であり︑悪であるから
という
考えがあると思われる
︒
猿人の出現が約百万年前︑更にクロマニオン人
が二i
三万年前
・・
・・
・・
ホモ
サピ
エン
ス・
・・
・・
・︒
この
長 い長い危険に満ちた時代を︑我々の先祖が自己保存と 種族保存に努めて生きて残
っ
てきたからこそ︑今日 我々はここに生きて存在しているのである
︒人聞が今
日生存しているのは全くその強き食と性との欲望と
﹂れを充足させるための巧妙な神経系統の働きによる
のである︒
内観という特殊な心理的操作を実行する以 前の自己はあるがままの自己であり︑所謂﹁日常的自 己﹂である
︒
この日常的自己が性欲と食欲と自己保存 欲とからなる自己本位︑自我
主義の
醜い存在でしかな 進化論的にも脳生理
学
的にもやむを得ない 当然の事実でもある
︒ いことは
すべての動物の中で
人間にだけ宗教があるのは人聞が
一番
高
度な動物だからというよりも人聞が
一番自己中心
的で
︑ 悪の存在だからであり︑
それゆえに人間には宗教
‑信仰が必要なのである
︒
浄土教に限らず︑多くの宗教
で言
われることである
︒
多くの偉大な宗教者が︑悪人正 機のような説を唱えるゆえんである
︒
他人の欠点に
気
づく人はあ
っても︑自分の悪性に気づ
く人は少ない︒
自分の悪性を自覚しない﹁善人
﹂
でさ
えも︑救われるのであるか
ら
︑自分の悪性を自覚する
‑ 104 ‑
﹁悪
人﹂
が どうして救われないことがあろ
う
という
親鴛の﹁悪人正機﹂
の説は︑機悔の絶大なる宗教的功
徳を述べ
たものである
︒
法然上人ほどのお方が自らを﹁
三学
非器﹂とか﹁十悪の 法然﹂と称したことを考えれば善人などいるわけがない
︒
自分を悪人であると自覚し
そういう自分こそが正機で あると確認していく作業が内観である
︒すなわち︑﹁迷惑
かけたこと﹂ばかりであるのに﹁していただいたこと﹂
も莫大である
と確認していくのである
︒
善人と思い込
んでいるうちは不満が先に出てきて︑救われにくい︒浄
土教的な意味での悪人という自覚がないと︑今︑生かき
れていることへの喜びは強く出てこない︒内観は浄土教
の難しい教えを非常にわかりやすく教えてくれるもの︑
浄土の教え方を実体験させてくれるものである︒
内観と念仏
法然上人が既に念仏を選択してくれたのだから我々は
単に念仏を称えていればよい︑
というのでは教えになら
t
︑ ︒
六dLやはり︑憾悔をし︑自分の罪を見つめてこそ
阿
弥陀仏の救いの光も強く感じられるのではないだろうか︒
念仏するということはその光の御名を呼ぶことである︒
内観で主に両親に対する自分を調べていくと︑今︑
生 か
されていることへの喜びを感じていく︒両親の先には先
祖︑その先には我々のいのちの根源であるところの阿弥
陀仏がいるのであり
吉本が その名前を呼ぶのが念仏である︒
︒ ︒
﹁内観と念仏は同じである﹂と言うゆえんである︒
今後︑癒しという観点から諸問題(内観でなぜ病気が
治るのか︑念仏による癒し
・ ・
・・
・・
)を
考え
てい
きた
い︒
駐 (1)
﹁精
神の
弁証
法的
発展
とし
ての
内観
﹂
﹃内
観と
精神
奥村
吉
衛生﹄
序文
内観
研修
所
奈 良
一九七八年
(2)
﹁宗
教と して の内 線﹂
﹃昭和薬科大学研究紀要十
楠 正
ロ 可
﹄一九七八年九
Ol
九一頁
心理学が専門の楠は法然上人が既に悪人正機説を唱えていたこ とを 知ら ない
︒
(3)
﹁内
観で
浄土
を﹂
﹃宗教の世界﹄
四 月 宗教 世の
一九七九年
界 社
五i三八頁(昭和五十三年十二月卜八日︑和順会館での浄
土宗教講師会・保護司会合同研修会で吉本が行なった講演の記
録
(東京教区・長安寺)