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ドキュメント内 教化研究 No.07 (ページ 109-116)

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イ 固

内九

(平成七年度浄土宗総会学術大会一般研究)

心理療法と浄土教

ー 内 観療法にお け る ﹁ 悪 人 正機 ﹂ │

はじめに

内観療法(以下︑内観)は両親

・電偶者などから﹁し

ていただいたこと

﹂ ﹁し

て返

した

︑﹂

﹂﹁迷惑かけ

たこと﹂

を指導者に話していくことにより︑病気が治

たり︑修養的効果をもたらすものである

︒奈

良県大和郡

山市の吉本伊信が浄土真宗に伝わる身調べという修行を

もとに開発した︒毎年︑日本内観学会

が聞

かれ

医療

教育・

宗教などの面から活発な論議が行なわれている︒

内観国際会議も第

回が

一九九五年九月

オーストリア

のウ

ーンで聞かれ

世界に広まる内観の様子が報告さ れた︒(内観のやり方の詳細および参考文献については

﹃教化

研究

﹄第五号参照)

隆 信 l  l 

' E

内観と仏教・浄土教

三つの

質問

﹁していただいたこと

L・﹁して返したこ

﹁迷惑をかけたこと﹂

を確立したのは吉本である が︑似たようなことは吉本も

うように仏教の祖師方が

既にしていた︒

そのことは残された

葉からもうかがえ

①釈尊 る

﹁他人の過去を見るなかれ︒他人

のなしたこととなさな かったことを見るなかれ︒ただ自分のなしたこととなさ

なか

ったことについて

それが正しかっ

たか正しくなか

ったかをよく反省せよ

︒﹂

ウ ダ

ナ│

ヴァルガ十八章

九節 Ln

(中

村元

訳)

我々は普段の生活では︑他人がしたこと︑中でも他人か

らかけられた迷惑や他人がしてくれなかったことばかり

に眼を向けがちである︒内観では逆に︑主に自分が他人 にかけた迷惑に眼を向け︑正しいものの見方を身につい

ていく︒吉本も

一二

つの

問のうち︑最後の﹁迷惑をかけ

たこと﹂を調べることにもっとも時間をさくように言つ

ている︒

②法然上人

﹁十

の法然﹂

悪とは﹁迷惑をかけたこと﹂に他ならない

︒我々浄土教

師は加行で十の戒について﹁よく保つや否や﹂と問われ

﹁よ

く保

つ﹂と答える︒しかし答えるだけで何もしない︒

法然上人はそれらの戒を保とうとしても保てない自分を 見 て

﹁十

の法然

﹂と

っしゃったはずである︒もちろ

ん︑小罪をも犯さじと思うべ

し︑であるから︑﹁よく保つ﹂

と答えて︑守ろうとすることは大事だが

その後がもっ

と大事なのである︒守ろ

うとしても守れない自分︑﹁して

返した

こ﹂

とは少なく

﹁迷惑かけたこと﹂ばかりである

という自分を見つめる︑

ということは宗祖法然上に還る

という意味でも意義深いものだと思われる︒

③親驚上人

﹁地

一定すみ

かぞ かし

﹂ 自分は地獄に落ちるしかないほどの罪を犯している

と いう所まで自分を見つめたときが実は浄土の蓮の台の上 に救われているときであるが︑内観をすることによって

﹁迷惑かけたこと﹂を深く思い出していくと︑親驚上人 に近い心境に到る者もいる︒この心境は同時に莫大な﹁し ていただいたこと﹂も思い出すことにつながり︑救いに

到る︒もちろん我々の立場から言

えば

死んだら浄土に

行く︑念仏すれば浄

土に行ける︑

ということは当たり前

である︒しかし

やはり︑信機信法のうちの信機を通つ てこそ︑憾悔をしてこそ︑本当の安心が得られるのでは

ないか︒

内観はその機悔を現代人にも非常に取り組みゃ

すくしたものである︒

内観と悪人正機

悪人正機説については既に親驚上人よりも以前に法然

上人が唱えられていたということは梶村昇の研究でも明 らかにされており︑真宗側も認め始めた

その説の背景 には︑人聞がここまで進化できたのはすべての動物の中 で人聞が一番自己中心的であり︑悪であるから

という

考えがあると思われる

猿人の出現が約百万年前︑更にクロマニオン人

が二i

三万年前

・・

・・

・・

ホモ

サピ

エン

ス・

・・

・・

・︒

この

長 い長い危険に満ちた時代を︑我々の先祖が自己保存と 種族保存に努めて生きて残

てきたからこそ︑今日 我々はここに生きて存在しているのである

︒人聞が今

日生存しているのは全くその強き食と性との欲望と

﹂れを充足させるための巧妙な神経系統の働きによる

のである︒

内観という特殊な心理的操作を実行する以 前の自己はあるがままの自己であり︑所謂﹁日常的自 己﹂である

この日常的自己が性欲と食欲と自己保存 欲とからなる自己本位︑自我

主義の

醜い存在でしかな 進化論的にも脳生理

的にもやむを得ない 当然の事実でもある

︒ いことは

すべての動物の中で

人間にだけ宗教があるのは人聞が

一番

度な動物だからというよりも人聞が

一番自己中心

的で

︑ 悪の存在だからであり︑

それゆえに人間には宗教

‑信仰が必要なのである

浄土教に限らず︑多くの宗教

で言

われることである

多くの偉大な宗教者が︑悪人正 機のような説を唱えるゆえんである

他人の欠点に

づく人はあ

っても︑自分の悪性に気づ

く人は少ない︒

自分の悪性を自覚しない﹁善人

でさ

えも︑救われるのであるか

︑自分の悪性を自覚する

‑ 104  ‑

﹁悪

人﹂

が どうして救われないことがあろ

という

親鴛の﹁悪人正機﹂

の説は︑機悔の絶大なる宗教的功

徳を述べ

たものである

法然上人ほどのお方が自らを﹁

三学

非器﹂とか﹁十悪の 法然﹂と称したことを考えれば善人などいるわけがない

自分を悪人であると自覚し

そういう自分こそが正機で あると確認していく作業が内観である

︒すなわち︑﹁迷惑

かけたこと﹂ばかりであるのに﹁していただいたこと﹂

も莫大である

と確認していくのである

善人と思い込

んでいるうちは不満が先に出てきて︑救われにくい︒浄

土教的な意味での悪人という自覚がないと︑今︑生かき

れていることへの喜びは強く出てこない︒内観は浄土教

の難しい教えを非常にわかりやすく教えてくれるもの︑

浄土の教え方を実体験させてくれるものである︒

内観と念仏

法然上人が既に念仏を選択してくれたのだから我々は

単に念仏を称えていればよい︑

というのでは教えになら

t

︑ ︒

dLやはり︑憾悔をし︑自分の罪を見つめてこそ

弥陀仏の救いの光も強く感じられるのではないだろうか︒

念仏するということはその光の御名を呼ぶことである︒

内観で主に両親に対する自分を調べていくと︑今︑

生 か

されていることへの喜びを感じていく︒両親の先には先

祖︑その先には我々のいのちの根源であるところの阿弥

陀仏がいるのであり

吉本が その名前を呼ぶのが念仏である︒

︒ ︒

﹁内観と念仏は同じである﹂と言うゆえんである︒

今後︑癒しという観点から諸問題(内観でなぜ病気が

治るのか︑念仏による癒し

・ ・

・・

・・

)を

考え

てい

きた

い︒

(1) 

﹁精

神の

弁証

法的

発展

とし

ての

内観

﹃内

観と

精神

序文

内観

研修

(2) 

﹁宗

教と して の内 線﹂

﹃昭和薬科大学研究紀要十

ロ 可

九七八年

Ol

九一頁

心理学が専門の楠は法然上人が既に悪人正機説を唱えていたこ とを 知ら ない

(3) 

﹁内

観で

浄土

を﹂

﹃宗教の世界﹄

宗教 世の

九七九年

i八頁(昭和五十年十月卜八日︑和順会館での浄

土宗教講師会・保護司会合同研修会で吉本が行なった講演の記

(東京教区・長安寺)

宗﹁福祉﹂事業展開の

考察

ー ー

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