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ドキュメント内 教化研究 No.07 (ページ 153-177)

章云1句前

!fii,¥句後

訓示。、、持れ '6"

叉@ 町

場 所

1:長す.

④ 

l

千 主 カ ま

生 す る

σ 〉

人聞はいつかは死にその肉体は滅びる︒ではいっ

たい

何が往生するのだろうか︒浄土宗では魂︑霊魂があって

それが往生するといってよいのだろうか︒

釈尊は霊魂や死後の存在のことについて︑無記︑すな

わち無解答の立場をとったといわれる︒南伝大蔵経の中

の﹃

lルンキヤ小経﹄

(漢

訳﹃

箭喰

﹄)で︑弟子の﹁マ

ールンキヤの子﹂が釈尊に︑世界は有限か無限か・霊魂

と身体は同一か異なるかなど形而上学的問題についての

明確な答えを求め︑解答がなければ修行をやめて還俗す

る︑と

言っ

た︒その時釈尊は︑有名な毒矢の誓えを示さ

れた︒それは︑ある人が毒矢で射られたときその人が

﹁自分を射た者はどういう地住の者でどういう名で

どんな体格でどんな肌の色でどこの地域の者なのか

真 道 内

また︑自分を射た弓は普通のものか特別なものか︑弓の

弦は何でできているのか︑矢柄は何製でその羽は何か

その矢柄は何の筋で巻かれているのか︑またその矢はど

んな種類なのかそれらがわからなければ

‑144 ‑

﹂の

矢は

き取らない﹂と

言っ

て矢を抜かなかったなら︑結局その① というものである︒そしてこ人は死んでしまうだろ

う ︑

の醤えの後︑釈尊は形而上学的問題については記説しな

}

lv

その理由について﹁マlルンキヤの子よ

し か

らば︑なにゆえわたくしはそれを記説しなかったのか︒

マ!ルンキヤの子よけだしそれは目的にかない︑清

らかな修行の基礎とならず︑厭離︑煩悩の止滅︑こころ

の寂静︑すぐれた智慧︑正しいさとり︑ニルヴァl

ナ(

② 繋)の獲得に役立たないからである︒﹂(早島鏡正訳)と

述べられている︒

つまり︑霊魂や死後の存在の有無を議論するのは︑煩

悩の毒矢を抜くのに何の役にも立たないというのである︒

しかし︑法然上人は登山状の中で﹁かはねはつゐにこ

けしのしたにうつもれ︑たしまゐはひとりたひのそらに③ 

まよ

ふ︒

﹂と

言われている︒この登山状が法然上人の真説④ かどうか疑わしい点があるとしても︑現に浄土宗ではこ

の登山状や︑﹁一切精霊生極楽

上品蓮台成正覚菩提行

願不退転引導三有及法界﹂という一切精霊備が法要で

読まれており︑﹁たましい﹂や﹁精霊﹂という

言葉を使用

しているのである︒また浄土宗は︑法然上人の

﹃ 一

起請文

﹄に﹁た︑往生極楽のためには︑南無阿弥陀偽と

往生するそとおもひとりて︑申⑤ 

すほかには別の子細候はす︒﹂と説かれているように口に 申して︑うたかひなく︑

南無阿弥陀仏を称え︑心に阿弥陀仏の救いを信じて極楽

往生を願うことを宗旨とするのであるから︑死後のこと

に思いを馳せるのは︑宗旨に沿ったことといえる︒

それではもし︑在家の人から﹁私の何が往生するので すか﹂と質問されたら︑能化として﹁それは魂です﹂と答えてよいのだろうか︒魂とは辞書で調べると﹁人間さらにはひろく動物・植物などに宿り︑心のはたらきをつ

かさどり︑生命を与えている原理そのものと考えられて いるもの︒身体を離れて存在し︑また︑身体が滅びた後

⑥ 

も存在すると考えられることも多い︒霊魂︒﹂とある︒こ の魂の存在を認めることは︑根本仏教の無我説や先にあ げたの釈尊の無記の教えに違失しないのだろうか︒

法然上人は魂の有無についてはっきりとは何も述べら

れていない︒

これは釈尊と同じ立場をとられたとも考︑ぇ

悪世の罪深い凡夫に残された悟りへのられる︒

つま

り︑

道は︑極楽往生を信じて口にお念仏を称えること

それ

だけでありまたこれをまず第一にしなければならない

のであっ

て︑魂の有無を議論するのは毒矢を抜かないで

あれこれ議論するのと同じく︑何の役にも立たない

されたのではないだろうか︒

しか

し︑

そうは

言っ

ても在家信徒からの霊魂の質問に︑

能化は﹁そういうことを考えるよりもまずお念仏しなさ

い﹂とだけ答えるのでよいのだろうか︒その一方で︑法 事でおつとめするときは別回向で

OO

家先祖代々之精 霊追善増進菩提﹂ととなえて︑霊魂が存在するような立 場でお経をあげていて矛盾しないのだろうか︒

﹂こで私は唯識の教えから

﹂の問題についての一私

案を提示したい︒

輪廻する主体は何かということ

﹂れについてはイン

ドでも︑釈尊滅後部派仏教の頃からいろいろ議論され やがて紀元三世紀から五世紀にかけて大乗仏教の稔伽行 唯識学派が︑根本仏教の無常・無我説に合致した教説を 完成させた︒その唯識派によると︑

人聞の心作用を総称 して﹁識﹂とする︒それを細かく分けると︑眼識・耳識 鼻識

・舌識

・身識

の五つの感覚作用︑意識という意識 思考作用(以上の六つを前六識という)︑末那識という寝 ても覚めても働いている自我執着作用︑

阿頼耶識という 心の根源にあって識を統率する作用

の八つになる︒こ の識は虚妄分別といわれるように

分別作用であって 火の玉のような物体ではなく︑常に活動し変化している

動きそのものなのである︒例えて

えばそれは川の流れ のようなものである︒川は水という物体ではなく︑水の 流れている状態を指して川という︒水の溜まっているの は川とはいわない︒それと同じく識は霊魂という何か一 つの物体ではなく

心の活動している状態を指していう のである

だから活動していなければ識ではない︒ょっ て︑常に動き変化しているのだから無常・無我説に違失

しない︒

では個としてのまとまりはどうなるのかといえば

‑ 146 ‑

凡 夫の生死について

﹃成唯識論

で次のように述べられて い ヲ

h v

まず︑個々のいのち(命根)について

それは体温(媛)

とこころ(識)

が持続保持されている状態とする

身 体 は︑識の中心である阿頼耶識の働きにより生じ︑この身

⑦ 

体が生じる時体温も生じる︒

羅 漢 と 滅尽

E と 出 世 間 阿 道 頼 の 耶位 識 で と 滅 末 す 那 る、識市 )留の み

(末那識は阿生まれる直前は︑

で︑感覚と意識 の前六識はない︒阿頼耶識の働きで赤子としての肉体を

受けると︑体温(媛)が生じ︑感覚作用と意識作用であ る前六識が︑これも阿頼耶識より生じる︒そして

そ の 人が善の行為または不善の行為をなす︑﹂とにより

そ の 潜在影響力ともいうべき業の習気︑すなわち業種子が その人の阿頼耶識に蔵される︒阿頼耶識には前世の業に

より貯えられた業種子が既にあるが﹂れが中心となり

我執からおこした煩悩障の種子がこれを助けて︑両者の 力 で この世のいのちが続いて行く︒やがてこれらの種

⑨ の力が尽きたとき︑死にいたる︒死と子(特に業種子)

は体温がなくなり︑身体が壊し︑前六識が滅することで

⑮ ある︒しかし死んでも第七末那識と第八阿頼耶識は活動

を続

け︑

阿頼耶識内に蔵されている︑

生前になした善・

悪の行為の業種子の力が中心となり︑我執から起こした 煩悩障の種子の力が加わって︑次の世にまた生まれ

体を受けるのである︒

﹃成唯識論﹄人間それぞれに阿頼では以上のように

耶識という識がありそこに︑その人が行っ

た行為が︑後々 その人に影響を及ぽすいわばエネルギーとして貯えられ︑

その力によって次の世にまた生まれるのである︒前六識

は死で滅し阿頼耶識の働きにより生でまた新しく生ま

れる︒だから凡夫は前世がどのようなものであったか覚 えていない(記憶は第六意識の活動によるから)

︒阿頼耶

識は徴細な心の作用で自覚できないが︑

無始よりこのか

たずっとその人の行為が残す力によって変化しつつ動き

続けている︒心理学でいう無意識よりももっとその人す

べてを統括する根源的な心作用である︒

よって何が往生するのかという問いに︑唯識の教︑えか

ら答えるならそれはその人の阿頼耶識(凡夫の場合は

﹂れに︑表層にはあらわれない深層の自己執着作用であ

る第七末那識がついているが)といえるであろう︒

もつ

と簡単に言

えば

︑﹁

とい

える

︒ 肉

ゆえに︑何が往生するのかと聞かれたとき﹁識﹂と答

えるのも一つの答え方といえよう︒しかし︑在家の人に

﹁識﹂

とい

っても簡単に理解してはもらえない︒それを

説明するために唯識の復雑な教説を話したならますます

相手は混乱してしまうだろう︒

そこで﹁心(こころ)﹂と答えればどうだろうか︒魂や 霊魂というと︑霊感商法などでいわれる︑人を脅かす霊 魂と誤解される可能性がある︒よってもっとやさしくわ

かりやすい

言葉で︑こころ

といえば少しはわかっ

(心

) てもらえるのではないだろうか

心なんて死んだらなく なるのではないか︑という質問には︑﹁心の奥底には表面 には現れない心の源泉があってそれはずっと続いている︑

気絶して意識を失っても生きているのは

その心の源泉 が活動しているからであり︑死んで意識がなくなっても 心の源泉はず

っと 働き続けて行く﹂という答えはいかが

だろ

うか

﹂の答え方は唯識説を取り入れたものではあるが︑浄 土宗の根本聖典である三経一論のうちの

一論とは

﹃往

論﹄

すなわち天親菩薩が著されたものであり

その天親

菩薩は唯識説の大成者で

あるから

また︑﹃往生論﹄が

親整ロ薩の真作ではないとしても

﹃往 生論

﹄の

内容は︑唯 識説がその根底にあるとみられるから︑浄土宗の本義か らそれほどはなれているとは思われないのである︒

①早島鋭正著﹃人類の知的遺産3ゴータマ

(

講談社発行)1O

②前掲書二七二頁

③石井教道編﹃昭和新修法然上人全集

(

十年平楽寺舎底発

行)四

④﹃浄土宗大辞典3()O頁上

⑤石井教道編﹃昭和新修

法然上人全集

06   44  

i ⑥尚学図書編﹃言泉﹄(昭和六一年学館発行)一五八頁D

⑦佐伯{疋胤校訂﹃新導成唯議論﹄(昭和一五年法隆寺発行)三八頁

成唯議論述記

大正新修大蔵経四十三巻

二八一頁

⑧﹃新導成唯議論﹄九七頁

1

三 ﹂

⑬前掲書三五六頁

(総合研究所︑滋賀教区・宗安寺)

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