章云1句前
!fii,¥句後
訓示。、、持れ '6"
叉@ 町
場 所
1:長す.④
@
可
イl
千 主 カ ま
生 す る
σ 〉
人聞はいつかは死にその肉体は滅びる︒ではいっ
たい
何が往生するのだろうか︒浄土宗では魂︑霊魂があって
それが往生するといってよいのだろうか︒
釈尊は霊魂や死後の存在のことについて︑無記︑すな
わち無解答の立場をとったといわれる︒南伝大蔵経の中
の﹃
マ
lルンキヤ小経﹄
(漢
訳﹃
箭喰
経
﹄)で︑弟子の﹁マ
ールンキヤの子﹂が釈尊に︑世界は有限か無限か・霊魂
と身体は同一か異なるかなど形而上学的問題についての
明確な答えを求め︑解答がなければ修行をやめて還俗す
る︑と
言っ
た︒その時釈尊は︑有名な毒矢の誓えを示さ
れた︒それは︑ある人が毒矢で射られたときその人が
﹁自分を射た者はどういう地住の者でどういう名で
どんな体格でどんな肌の色でどこの地域の者なのか
力
、
竹
真 道 内
また︑自分を射た弓は普通のものか特別なものか︑弓の
弦は何でできているのか︑矢柄は何製でその羽は何か
その矢柄は何の筋で巻かれているのか︑またその矢はど
んな種類なのかそれらがわからなければ
‑144 ‑
﹂の
矢は
抜
き取らない﹂と
言っ
て矢を抜かなかったなら︑結局その① というものである︒そしてこ人は死んでしまうだろ
う ︑
の醤えの後︑釈尊は形而上学的問題については記説しな
い
﹀}
lv
その理由について﹁マlルンキヤの子よ
し か
らば︑なにゆえわたくしはそれを記説しなかったのか︒
マ!ルンキヤの子よけだしそれは目的にかない︑清
らかな修行の基礎とならず︑厭離︑煩悩の止滅︑こころ
の寂静︑すぐれた智慧︑正しいさとり︑ニルヴァl
ナ(
浬
② 繋)の獲得に役立たないからである︒﹂(早島鏡正訳)と
述べられている︒
つまり︑霊魂や死後の存在の有無を議論するのは︑煩
悩の毒矢を抜くのに何の役にも立たないというのである︒
しかし︑法然上人は登山状の中で﹁かはねはつゐにこ
けしのしたにうつもれ︑たしまゐはひとりたひのそらに③
まよ
ふ︒
﹂と
言われている︒この登山状が法然上人の真説④ かどうか疑わしい点があるとしても︑現に浄土宗ではこ
の登山状や︑﹁一切精霊生極楽
上品蓮台成正覚菩提行
願不退転引導三有及法界﹂という一切精霊備が法要で
読まれており︑﹁たましい﹂や﹁精霊﹂という
言葉を使用
しているのである︒また浄土宗は︑法然上人の
﹃ 一
枚
起請文
﹄に﹁た︑往生極楽のためには︑南無阿弥陀偽と
往生するそとおもひとりて︑申⑤
すほかには別の子細候はす︒﹂と説かれているように口に 申して︑うたかひなく︑
南無阿弥陀仏を称え︑心に阿弥陀仏の救いを信じて極楽
往生を願うことを宗旨とするのであるから︑死後のこと
に思いを馳せるのは︑宗旨に沿ったことといえる︒
それではもし︑在家の人から﹁私の何が往生するので すか﹂と質問されたら︑能化として﹁それは魂です﹂と答えてよいのだろうか︒魂とは辞書で調べると﹁人間さらにはひろく動物・植物などに宿り︑心のはたらきをつ
かさどり︑生命を与えている原理そのものと考えられて いるもの︒身体を離れて存在し︑また︑身体が滅びた後
⑥
も存在すると考えられることも多い︒霊魂︒﹂とある︒こ の魂の存在を認めることは︑根本仏教の無我説や先にあ げたの釈尊の無記の教えに違失しないのだろうか︒
法然上人は魂の有無についてはっきりとは何も述べら
れていない︒
これは釈尊と同じ立場をとられたとも考︑ぇ
悪世の罪深い凡夫に残された悟りへのられる︒
つま
り︑
道は︑極楽往生を信じて口にお念仏を称えること
それ
だけでありまたこれをまず第一にしなければならない
のであっ
て︑魂の有無を議論するのは毒矢を抜かないで
あれこれ議論するのと同じく︑何の役にも立たない
と
されたのではないだろうか︒
しか
し︑
そうは
言っ
ても在家信徒からの霊魂の質問に︑
能化は﹁そういうことを考えるよりもまずお念仏しなさ
い﹂とだけ答えるのでよいのだろうか︒その一方で︑法 事でおつとめするときは別回向で
﹁
OO
家先祖代々之精 霊追善増進菩提﹂ととなえて︑霊魂が存在するような立 場でお経をあげていて矛盾しないのだろうか︒
﹂こで私は唯識の教えから
﹂の問題についての一私
案を提示したい︒
輪廻する主体は何かということ
﹂れについてはイン
ドでも︑釈尊滅後部派仏教の頃からいろいろ議論され やがて紀元三世紀から五世紀にかけて大乗仏教の稔伽行 唯識学派が︑根本仏教の無常・無我説に合致した教説を 完成させた︒その唯識派によると︑
人聞の心作用を総称 して﹁識﹂とする︒それを細かく分けると︑眼識・耳識 鼻識
・舌識
・身識
の五つの感覚作用︑意識という意識 思考作用(以上の六つを前六識という)︑末那識という寝 ても覚めても働いている自我執着作用︑
阿頼耶識という 心の根源にあって識を統率する作用
の八つになる︒こ の識は虚妄分別といわれるように
分別作用であって 火の玉のような物体ではなく︑常に活動し変化している
動きそのものなのである︒例えて
言
えばそれは川の流れ のようなものである︒川は水という物体ではなく︑水の 流れている状態を指して川という︒水の溜まっているの は川とはいわない︒それと同じく識は霊魂という何か一 つの物体ではなく
心の活動している状態を指していう のである
︒
だから活動していなければ識ではない︒ょっ て︑常に動き変化しているのだから無常・無我説に違失
しない︒
では個としてのまとまりはどうなるのかといえば
‑ 146 ‑
凡 夫の生死について
﹃成唯識論
﹄
で次のように述べられて い ヲ
h v
︒
まず︑個々のいのち(命根)について
それは体温(媛)
とこころ(識)
が持続保持されている状態とする
︒
身 体 は︑識の中心である阿頼耶識の働きにより生じ︑この身
⑦
体が生じる時体温も生じる︒
羅 漢 と 滅尽
五E と 出 世 間 阿 道 頼 の 耶位 識 で と 滅 末 す 那 る、識市 )留の み
(末那識は阿生まれる直前は︑
で︑感覚と意識 の前六識はない︒阿頼耶識の働きで赤子としての肉体を
受けると︑体温(媛)が生じ︑感覚作用と意識作用であ る前六識が︑これも阿頼耶識より生じる︒そして
そ の 人が善の行為または不善の行為をなす︑﹂とにより
︑
そ の 潜在影響力ともいうべき業の習気︑すなわち業種子が その人の阿頼耶識に蔵される︒阿頼耶識には前世の業に
より貯えられた業種子が既にあるが﹂れが中心となり
我執からおこした煩悩障の種子がこれを助けて︑両者の 力 で この世のいのちが続いて行く︒やがてこれらの種
⑨ の力が尽きたとき︑死にいたる︒死と子(特に業種子)
は体温がなくなり︑身体が壊し︑前六識が滅することで
⑮ ある︒しかし死んでも第七末那識と第八阿頼耶識は活動
を続
け︑
阿頼耶識内に蔵されている︑
生前になした善・
悪の行為の業種子の力が中心となり︑我執から起こした 煩悩障の種子の力が加わって︑次の世にまた生まれ
体を受けるのである︒
﹃成唯識論﹄人間それぞれに阿頼では以上のように
耶識という識がありそこに︑その人が行っ
た行為が︑後々 その人に影響を及ぽすいわばエネルギーとして貯えられ︑
その力によって次の世にまた生まれるのである︒前六識
は死で滅し阿頼耶識の働きにより生でまた新しく生ま
れる︒だから凡夫は前世がどのようなものであったか覚 えていない(記憶は第六意識の活動によるから)
︒阿頼耶
識は徴細な心の作用で自覚できないが︑
無始よりこのか
たずっとその人の行為が残す力によって変化しつつ動き
続けている︒心理学でいう無意識よりももっとその人す
べてを統括する根源的な心作用である︒
よって何が往生するのかという問いに︑唯識の教︑えか
ら答えるならそれはその人の阿頼耶識(凡夫の場合は
﹂れに︑表層にはあらわれない深層の自己執着作用であ
る第七末那識がついているが)といえるであろう︒
もつ
と簡単に言
えば
︑﹁
識
﹂
とい
える
︒ 肉
ゆえに︑何が往生するのかと聞かれたとき﹁識﹂と答
えるのも一つの答え方といえよう︒しかし︑在家の人に
﹁識﹂
とい
っても簡単に理解してはもらえない︒それを
説明するために唯識の復雑な教説を話したならますます
相手は混乱してしまうだろう︒
そこで﹁心(こころ)﹂と答えればどうだろうか︒魂や 霊魂というと︑霊感商法などでいわれる︑人を脅かす霊 魂と誤解される可能性がある︒よってもっとやさしくわ
かりやすい
言葉で︑こころ
といえば少しはわかっ
(心
) てもらえるのではないだろうか
︒
心なんて死んだらなく なるのではないか︑という質問には︑﹁心の奥底には表面 には現れない心の源泉があってそれはずっと続いている︑
気絶して意識を失っても生きているのは
その心の源泉 が活動しているからであり︑死んで意識がなくなっても 心の源泉はず
っと 働き続けて行く﹂という答えはいかが
だろ
うか
︒
﹂の答え方は唯識説を取り入れたものではあるが︑浄 土宗の根本聖典である三経一論のうちの
一論とは
﹃往
生
論﹄
すなわち天親菩薩が著されたものであり
その天親
菩薩は唯識説の大成者で
あるから
また︑﹃往生論﹄が
天
親整ロ薩の真作ではないとしても
﹃往 生論
﹄の
内容は︑唯 識説がその根底にあるとみられるから︑浄土宗の本義か らそれほどはなれているとは思われないのである︒
①早島鋭正著﹃人類の知的遺産3・ゴータマ 駐
ブッ ダ﹄ (昭 和五 四年
講談社発行)二六四1二七O頁を要約した︒
②前掲書二七二頁
③石井教道編﹃昭和新修法然上人全集﹄
(昭
和
三十年平楽寺舎底発
行)四一
八頁
④﹃浄土宗大辞典3﹄(昭和五五年山喜房仏金目林発売)九O頁上
⑤石井教道編﹃昭和新修
法然上人全集﹄四
一六 頁
06 44
可i ⑥尚学図書編﹃言泉﹄(昭和六一年小学館発行)一四五八頁D
⑦佐伯{疋胤校訂﹃新導成唯議論﹄(昭和一五年法隆寺発行)三八頁
・
﹃成唯議論述記﹄
大正新修大蔵経四十三巻
二八一頁中
⑧﹃新導成唯議論﹄一九七頁
⑨前 掲書 三六 一二
1
三 ﹂ ハ
四頁
⑬前掲書三五六頁
(総合研究所︑滋賀教区・宗安寺)