て
一
︑
繁絹について
素絹とは辞書には臼絹で作
った僧衣で素絹衣の略であ
り︑また別字として轟絹とも書かれる︒字の意味から
言
えば︑粗末な白絹で製せられた法衣のことである
︒
註1素絹の起こりは﹃素絹記﹄
に依れば︑平安時代中期の
感和年間(九六一i
六九
三
)天台宗第十八代座
主良源上註2
人が村上天皇より下賜されたものとされ︑
﹃素絹記﹄ ︑﹃山註3註4門僧服考﹄
には﹁恭なくも素絹の衣服を賜り﹂あるいは
﹁素絹此の衣体台家の宮住に限りこれを著る
︒当時他宗註5
またはこれを著用す
︒
本意にあらず﹂として素絹は天台
の名
誉
ある法服であると位置づけている
︒素絹について註6
井筒雅風氏著の
﹃法衣史﹄
に依れば︑素絹の形式は天
皇
が大嘗祭の重要な神事の時のみ召される御斎衣と︑襟
ロ 円
lill
‑ qr
中
~~
芳 隆 田
総丈に違いはあるものの︑きわめて類似しており︑この 御斎衣が素絹へと変化したものではないかと指摘してい
註7註8る
︒ ﹃ 南都北嶺両寺法服記
﹄に
は︑
慈慧
大師
の頃
︑
法服は
壊色の編杉︑祷であ
った
めた
︑ 天子本命の寺として不相 応であるので以後素絹衣を衆僧に被着せしめたのである
と普及の一因をあげている︒
このような起源と原因から 他宗へにも普及してい
ったのであろう︒
註9註日
素絹の形式については︑
﹃僧服集要
﹄
﹃
南都僧俗職服記﹄註
u
﹃顕密威儀便覧巻上﹄に記載が見える︒これをまとめる
註ロ註日
と︑白の生絹もしくは練絹の無紋の生地(これを無地と
註M註
江 川
いう)で製せられたもので︑襲無く︑僧綱襟付かず︑機
註M山袖にしない︒長さ一
身半︑単衣で︑帯で結
ぶ ︒
本来は白註日絹であっ
たものが︑色物でも作られた
︒
その色について
註叩註日
は︑法中相応の色︑官に従うとされる︒
素絹の着用につ
註口いては﹃僧服集要﹄に﹃南都僧衣服聞書
﹄
を引
き︑
﹁着用
晴の目
︒
法事には着用せず︒夜陰参龍並びに饗宴などに 着用するなり︒のち略儀たるなり︒﹂として︑素絹の品格
註M
を示している
︒しかし﹃南都北嶺両寺法服記
﹄には素絹 は顕教の法事︑密教の法会何れにも用うと書かれている︒
註凶
一方﹃賎櫨噺絵﹄
には﹁坂衣卜テ公界へ出ス︑坂ノ上下
ノ用︒
又ハ武者ノ時太万刀ヲ差可為ソ﹂と素絹を解説し ている︒この坂衣と呼ばれるものは明らかに今日の半素 絹のことであろう︒以上諸本を当たり︑加えて井筒雅風
註7 氏の論を勘案すれば︑朝廷の礼服が法衣に取り入れられ︑
官位に準じた色物も用いられ
長さ一身半の法衣から坂 の往来や僧兵姿に便利な等身大の略儀な法衣へと変化し 用途に応じて並立して今日に受容されていると推せ
られ
る
︒長い素絹
を長
素絹
︑
等
身大の素絹は半素絹または切 素絹と呼ばれる
︒
長素絹から半素絹が製せられてきた課程に︑名誉ある 法衣から略儀な法衣へ用途と評価とが変わり
﹂れ
まで
の法衣に比べ活動的で便利な半素絹が日常的な法衣とし て使用され︑今日素絹というと
ともすると半素絹を指 すようになってきていると思われる
︒
二︑浄土宗の素絹
註日﹃
新訂浄土宗法要集上巻
﹄
には素絹として長素絹と半 素絹が挙げられている
︒
他の法衣と比べて素絹の大きな 特徴は︑身頃の取り方︑身頃と裳とを分けるあまおい(悶 覆)︑裳にある壌とにあると言うことが出来る
︒その形式
an T
︒
aとして(以下の寸法は鯨尺)
O
身頃が長く︑あまおいの下左右脇と後ろ中央部の ケ所に長き一尺前後の八乃至十六の壌が付く
O
無地の単衣のものである︒
O
共布で巾二寸二
分乃
至五
分︑
長さ六尺前後の石幣(せ
きたい)
と呼ばれる別帯で腰部を前結びに結ぶ︒
O
我が宗に於いては白絹を用いず色物を用いる︒使用の註初
色については宗規の定めに依る
︒
O
長素絹は︑晴れの大法要の折り︑導師の被着するもので︑長さ一身半︑堂外を歩行する時は︑石帯とは別の 紐にて裾をかかげ等身大の長さにして歩き︑堂内に入 りてはこの別紐をほどいて裾を曳いて歩く︒裾を長く 座上に曳くことから古来宗派により座曳(ざぴき)と も呼ばれた
︒
O
半素絹は長素網を等身大に身頃だけ縮めたものである︒
明治の中期には宗門学
註お
枝の制服に黒の半素絹が用いられたと言う︒ 他宗では切素絹とも呼ばれる︒
以上他の法衣との違いを挙げてみた
︒
現行
の
﹃浄土宗規﹄ 註却
の﹁被着法服﹂の頃には︑何故か 素絹の名が抜けており
﹃浄土宗法要集﹄
とは合致してい t
︑
04JC?u・昭和十六年(一
九 四 二 の法服規則に依れば︑半素絹 は教師の正装として規定されているのに対して︑長素絹 は権僧正以上のしかも第
一礼装として規定され︑大僧都
以下教師資格所有者たりといえども︑その被着は認めら
註幻
れていない︒ここに我が宗に於いても長素絹と半素絹と の聞に品格の違いがあ
ったことを知り得ることが出来る
︒
江戸末期の増上寺の学僧大雲(一八一七
i八七六)の著
註幻
﹃啓 蒙随 録
﹂に﹁吾宗法服一一一
二一
種ア
リ
﹂として︑道具衣︑
直綴と共に素絹を挙げている︒﹁但シ素絹ハ本山檀林職ノ 外普通ニハ用ヒス﹂﹁素絹ハ正服ニ非ス﹂として︑我が宗 で は 道具衣を正服とし︑直綴(献紗衣)を通常の法衣 その中間に素絹を位置付けていたと︑肉親い知
註幻
ることが出来る︒本山檀林職以外の被着を認めないこと と
捉え
て︑
を考慮すれば︑ここで
言
う素絹は長素絹のことであろう
と推
測出
来る
︒ 時代を遡り︑新田大光院に晋董した江戸中期の学僧義
海
(? 1
一七五五)が元禄十年(
一六九七)に著した
﹃偽
註 幻
像帳峨義図説﹄
帖之坤には種々の法衣が解説されている にも拘わらず︑素絹の解説がない
︒
しかし緋衣は諸山門 跡︑高僧︑僧正︑園師が勅許を得て被着すべきものと規
定し
その形式として﹁この衣の所裁は直綴とは梢か異
る︒
頗る素絹を努髭とする︒裳を長く地に曳く﹂(原文は
斗一位川凶
漢文)とあり︑義海が素絹を知らなか
ったとは到底考え
られない︒
このことからこの時代素絹は我が宗に於いて
一般的な法衣として用いられなかったのではないかと考
える︒
それから約百年後の寛政元年(一七八九)
の増
上 寺資料には短い文ではあるが︑長素絹と思われる素絹に
註お
ついての説明がある
︒
また平成六年(一九九四)六月号
の﹃宗報
﹄
に大橋俊雄師の
﹃黒田虞洞
﹄伝が掲載されて
いるが
明治二十年(一八八七)
その文中にー明治四
十年(一九
O
七)まであった浄土宗大学の学生の制服が
註
町 四
黒の素絹であ
ったと記されている
︒
これはあきらかに半 素絹であろう
︒
以上私の知り得た資料から考慮すれば︑足利末期以後
註幻
我が宗の法衣として︑禅系の法衣が用いられてきたが︑
江戸末期には教家系の素絹も用いられてきたと思われる
︒
﹂のことは
我が宗の法衣の中︑素絹が系統的に特異な 住置を占める法衣であることに
気が付
く ︒ 上にあげた江
戸時代の資料にあらわれる素絹は長素絹のことを指して
いると思うが︑当時の一般僧侶は長素絹の被
着は許され
ず︑半素絹も法要に使用されることは無か
ったのであろ
ぅ︒
明治期に入り︑時代の急激な変革があ
ったにせよ 初学の学
生の制服に黒の半素絹が使われたことを思えば︑
それ以前より他の法衣に比べ︑活動的なこの半素絹があ るいは道中着として
一般に用いられていたのではないか
と推せられるが︑この点についての資料を私には見出す ことが出来なか
った︒
一︑
今日の浄土宗に於ける素絹の受容
註初
今日の浄土宗では︑宗規の被着法服の項に表れるよう に素絹が全国的に広
く
用いられているわけではない
︒関
‑ 136‑
西では地域により昔は︑五
重
相伝の要偏道場の伝灯師が 長素絹を被着することがあったり︑個人的に火葬の回向 に黒の半素絹を着用される方もあられた
︒とも聞いたが︑
今日では日常的に素絹が用いられることがない
︒関東で
もどこの寺院に行
っても素絹があるという訳ではないが︑
東京を中心に考えると︑ここ
二
十年半素絹を見る機会が 増えてきた
︒
東京の法衣底への調査では︑年々半素絹
の
注文が増︑える傾向にあり︑ある法衣底では︑部内の揃い
として半素絹の注文を受けたとのことである
︒
昭和未期
から今日にかけ︑東京での葬儀の形態に変化
が出
てい
る︒
特に自宅葬から斎場葬に︑座法が正座から侍座にと急激
に変わりつつある︒狭い控え所を思えば袖畳みの法衣が
適しているが︑傍座の法衣は襲の始末を思えば半素絹が
適している︒こんな要因からか半素絹の需要が延びてい
るのではないか︒
園︑これからの素絹
現代社会に於いても︑時により僧侶としての正装にて
公式の場所に出なければならぬ時がある︒こんな折り 大袖の法衣では不便すぎる︒かといって︑我が宗の道衣
(改
良服
)
ではいかにも略衣すぎる︒こんな要望からか︑
法衣底への調査でも
﹁略
素絹
﹂
の需要が近年とみに増え
ているとのことである︒
﹂の略素絹というのは
昭和
三十年代の初め(一
九五
六1五七頃)︑増上寺椎尾緋匡台下が従来の道衣よりもう
少し法衣に近くかつ晴儀にも被着出来うる道衣をとの
要望から半素絹を道衣の寸法に縮めて小袖とし︑扶を
かが
膿り仕立てにしたもので︑素絹を略したことから
し、
つ
しか略素絹と呼ばれて普及してきたものである︒﹃浄土宗
法要集
﹄に認められたものではないが︑東京近辺で時折
目にするので素絹に因み略素絹にもふれてみた︒
以上半素絹の需要の延ぴと︑正規な法衣ではないが略
素絹の普及を聞くにつけ二十一世紀の社会にも適応出
来うる法衣を考︑える時代を迎えているのではないかと思︒
︑
﹁
註 ノ
﹃素絹記﹄大日本保教全書九服具叢書第二P2831P302
2
良源
(A
D9
12
19
85
)
慈慧大師︑元三大師と尊称され︑
日本天台中興の祖と仰がれる︒
3
﹃山門僧服考﹄大日本側教全書九服具叢書第P3691P
q︑υ
勾
︐ ・
nノ
4
﹃素絹記﹄
﹁恭
賜 二素絹之衣服一 中略他家一一分絶︒云ニ先規一 云二今範
一 ︒
誰仁違二於王命
一 ︒ 何宗背
二於院宣一︒濫混ニ自他
之威儀
一 ︒ 恋著ニ素絹之上表一乎
﹂ 大 日 本 偽 教
全書日服具叢書