• 検索結果がありません。

し 、

ドキュメント内 教化研究 No.07 (ページ 143-153)

繁絹について

素絹とは辞書には臼絹で作

った僧衣で素絹衣の略であ

り︑また別字として轟絹とも書かれる︒字の意味から

えば︑粗末な白絹で製せられた法衣のことである

1素絹の起こりは﹃素絹記﹄

に依れば︑平安時代中期の

感和年間(九六一i

六九

)天台宗第十八代座

主良源上2

人が村上天皇より下賜されたものとされ︑

﹃素絹記﹄ ︑﹃山34門僧服考﹄

には﹁恭なくも素絹の衣服を賜り﹂あるいは

﹁素絹此の衣体台家の宮住に限りこれを著る

︒当時他宗5

またはこれを著用す

本意にあらず﹂として素絹は天台

の名

ある法服であると位置づけている

︒素絹について6

井筒雅風氏著の

﹃法衣史﹄

に依れば︑素絹の形式は天

が大嘗祭の重要な神事の時のみ召される御斎衣と︑襟

ロ 円

lill

‑ qr

~~

芳 隆 田

総丈に違いはあるものの︑きわめて類似しており︑この 御斎衣が素絹へと変化したものではないかと指摘してい

78

︒ ﹃ 南都北嶺両寺法服記

﹄に

は︑

慈慧

大師

の頃

法服は

壊色の編杉︑祷であ

った

めた

︑ 天子本命の寺として不相 応であるので以後素絹衣を衆僧に被着せしめたのである

と普及の一因をあげている︒

このような起源と原因から 他宗へにも普及してい

ったのであろう︒

9

素絹の形式については︑

﹃僧服集要

南都僧俗職服記﹄

u

﹃顕密威儀便覧巻上﹄に記載が見える︒

これをまとめる

と︑白の生絹もしくは練絹の無紋の生地(これを無地と

M

いう)で製せられたもので︑襲無く︑僧綱襟付かず︑機

M袖にしない︒長さ一

身半︑単衣で︑帯で結

ぶ ︒

本来は白絹であっ

たものが︑色物でも作られた

その色について

は︑法中相応の色︑官に従うとされる︒

素絹の着用につ

いては﹃僧服集要﹄に﹃南都僧衣服聞書

を引

き︑

﹁着用

晴の目

法事には着用せず︒夜陰参龍並びに饗宴などに 着用するなり︒のち略儀たるなり︒﹂として︑素絹の品格

M

を示している

︒しかし﹃南都北嶺両寺法服記

﹄には素絹 は顕教の法事︑密教の法会何れにも用うと書かれている︒

註凶

一方﹃賎櫨噺絵﹄

には﹁坂衣卜テ公界へ出ス︑坂ノ上下

ノ用︒

又ハ武者ノ時太万刀ヲ差可為ソ﹂と素絹を解説し ている︒この坂衣と呼ばれるものは明らかに今日の半素 絹のことであろう︒以上諸本を当たり︑加えて井筒雅風

7 氏の論を勘案すれば︑朝廷の礼服が法衣に取り入れられ︑

官位に準じた色物も用いられ

長さ一身半の法衣から坂 の往来や僧兵姿に便利な等身大の略儀な法衣へと変化し 用途に応じて並立して今日に受容されていると推せ

られ

︒長い素絹

を長

素絹

身大の素絹は半素絹または切 素絹と呼ばれる

長素絹から半素絹が製せられてきた課程に︑名誉ある 法衣から略儀な法衣へ用途と評価とが変わり

﹂れ

まで

の法衣に比べ活動的で便利な半素絹が日常的な法衣とし て使用され︑今日素絹というと

ともすると半素絹を指 すようになってきていると思われる

二︑浄土宗の素絹

註日

新訂浄土宗法要集上巻

には素絹として長素絹と半 素絹が挙げられている

他の法衣と比べて素絹の大きな 特徴は︑身頃の取り方︑身頃と裳とを分けるあまおい(悶 覆)︑裳にある壌とにあると言うことが出来る

︒その形式

an T 

aとして

(以下の寸法は鯨尺)

O

身頃が長く︑あまおいの下

左右脇と後ろ中央部の ケ所に長き一尺前後の八乃至十六の壌が付く

O

無地の単衣のものである

O

共布で巾

二寸二

分乃

至五

分︑

長さ六尺前後の石幣(せ

きたい)

と呼ばれる別帯で腰部を前結びに結ぶ︒

O

我が宗に於いては白絹を用いず色物を用いる︒使用の

註初

色については宗規の定めに依る

O

長素絹は︑晴れの大法要の折り︑導師の被着するもの

で︑長さ一身半︑堂外を歩行する時は︑石帯とは別の 紐にて裾をかかげ等身大の長さにして歩き︑堂内に入 りてはこの別紐をほどいて裾を曳いて歩く︒裾を長く 座上に曳くことから古来宗派により座曳(ざぴき)と も呼ばれた

O

半素絹は長素網を等身大に身頃だけ縮めたものである

明治の中期には宗門学

枝の制服に黒の半素絹が用いられたと言う︒ 他宗では切素絹とも呼ばれる︒

以上他の法衣との違いを挙げてみた

現行

﹃浄土宗規﹄ 註却

の﹁被着法服﹂の頃には︑何故か 素絹の名が抜けており

﹃浄土宗法要集﹄

とは合致してい t

04JC?u

昭和十六年(一

九 四 二 の法服規則に依れば︑半素絹 は教師の正装として規定されているのに対して︑長素絹 は権僧正以上のしかも第

一礼装として規定され︑大僧都

以下教師資格所有者たりといえども︑その被着は認めら

註幻

れていない︒ここに我が宗に於いても長素絹と半素絹と の聞に品格の違いがあ

ったことを知り得ることが出来る

江戸末期の増上寺の学僧大雲(一八一七

i八七六)の著

註幻

﹃啓 蒙随 録

﹂に﹁吾宗法服一一一

二一

種ア

﹂として︑道具衣︑

直綴と共に素絹を挙げている︒﹁但シ素絹ハ本山檀林職ノ 外普通ニハ用ヒス﹂﹁素絹ハ正服ニ非ス﹂として︑我が宗 で は 道具衣を正服とし︑直綴(献紗衣)を通常の法衣 その中間に素絹を位置付けていたと︑肉親い知

註幻

ることが出来る︒本山檀林職以外の被着を認めないこと と

捉え

て︑

を考慮すれば︑ここで

う素絹は長素絹のことであろう

と推

測出

来る

︒ 時代を遡り︑新田大光院に晋董した江戸中期の学僧義

(? 1

一七五五)が元禄十年(

一六九七)に著した

﹃偽

像帳峨義図説﹄

帖之坤には種々の法衣が解説されている にも拘わらず︑素絹の解説がない

しかし緋衣は諸山門 跡︑高僧︑僧正︑園師が勅許を得て被着すべきものと規

定し

その形式として﹁この衣の所裁は直綴とは梢か異

る︒

頗る素絹を努髭とする︒裳を長く地に曳く﹂(原文は

漢文)とあり︑義海が素絹を知らなか

ったとは到底考え

られない︒

このことからこの時代素絹は我が宗に於いて

一般的な法衣として用いられなかったのではないかと考

える︒

それから約百年後の寛政元年(一七八九)

の増

上 寺資料には短い文ではあるが︑長素絹と思われる素絹に

ついての説明がある

また平成六年(一九九四)六月号

の﹃宗報

に大橋俊雄師の

﹃黒田虞洞

﹄伝が掲載されて

いるが

明治二十年(一八八七)

その文中にー明治四

十年(一九

O

七)まであっ

た浄土宗大学の学生の制服が

黒の素絹であ

ったと記されている

これはあきらかに半 素絹であろう

以上私の知り得た資料から考慮すれば︑足利末期以後

我が宗の法衣として︑禅系の法衣が用いられてきたが︑

江戸末期には教家系の素絹も用いられてきたと思われる

﹂のことは

我が宗の法衣の中︑素絹が系統的に特異な 住置を占める法衣であることに

気が付

く ︒ 上にあげた江

戸時代の資料にあらわれる素絹は長素絹のことを指して

いると思うが︑当時の一般僧侶は長素絹の被

着は許され

ず︑半素絹も法要に使用されることは無か

ったのであろ

ぅ︒

明治期に入り︑時代の急激な変革があ

ったにせよ 初学の学

生の制服に黒の半素絹が使われたことを思えば︑

それ以前より他の法衣に比べ︑活動的なこの半素絹があ るいは道中着として

一般に用いられていたのではないか

と推せられるが︑この点についての資料を私には見出す ことが出来なか

った︒

一︑

今日の浄土宗に於ける素絹の受容

今日の浄土宗では︑宗規の被着法服の項に表れるよう に素絹が全国的に広

用いられているわけではない

︒関

‑ 136‑

西では地域により昔は︑五

相伝の要偏道場の伝灯師が 長素絹を被着することがあったり︑個人的に火葬の回向 に黒の半素絹を着用される方もあられた

︒とも聞いたが︑

今日では日常的に素絹が用いられることがない

︒関東で

もどこの寺院に行

っても素絹があるという訳ではないが︑

東京を中心に考えると︑ここ

十年半素絹を見る機会が 増えてきた

東京の法衣底への調査では︑年々半素絹

注文が増︑える傾向にあり︑ある法衣底では︑部内の揃い

として半素絹の注文を受けたとのことである

昭和未期

から今日にかけ︑東京での葬儀の形態に変化

が出

てい

る︒

特に自宅葬から斎場葬に︑座法が正座から侍座にと急激

に変わりつつある︒狭い控え所を思えば袖畳みの法衣が

適しているが︑傍座の法衣は襲の始末を思えば半素絹が

適している︒こんな要因からか半素絹の需要が延びてい

るのではないか︒

園︑これからの素絹

現代社会に於いても︑時により僧侶としての正装にて

公式の場所に出なければならぬ時がある︒こんな折り 大袖の法衣では不便すぎる︒かといって︑我が宗の道衣

(改

良服

)

ではいかにも略衣すぎる︒こんな要望からか︑

法衣底への調査でも

﹁略

素絹

の需要が近年とみに増え

ているとのことである︒

﹂の略素絹というのは

昭和

三十年代の初め(一

九五

六1五七頃)︑増上寺椎尾緋匡台下が従来の道衣よりもう

少し法衣に近くかつ晴儀にも被着出来うる道衣をとの

要望から半素絹を道衣の寸法に縮めて小袖とし︑扶を

膿り仕立てにしたもので︑素絹を略したことから

しか略素絹と呼ばれて普及してきたものである︒﹃浄土宗

法要集

﹄に認められたものではないが︑東京近辺で時折

目にするので素絹に因み略素絹にもふれてみた︒

以上半素絹の需要の延ぴと︑正規な法衣ではないが略

素絹の普及を聞くにつけ二十一世紀の社会にも適応出

来うる法衣を考︑える時代を迎えているのではないかと思︒

素絹記大日本保教全書九服具叢書第P2831P302

良源

(A

D9

12

19

85

)

慈慧大師︑元三大師と尊称され︑

日本天台中興の祖と仰がれる︒

山門僧服考大日本側教全書九服具叢書第P3691P 

qυ

n

素絹記

素絹之衣服 中略他家一一分絶先規 今範

誰仁違於王命

何宗背

於院宣一︒濫混自他

之威儀

恋著素絹之上表一乎

全書日服具叢書

ドキュメント内 教化研究 No.07 (ページ 143-153)

関連したドキュメント