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ドキュメント内 道徳教育の研究 (ページ 45-56)

をつくることになるものである。 rしつけ」は世の中にはしてよいことと悪いことがあるとい う善悪に対する鋭い感受性を強めることによって良心の芽を育てるものであり,かつ欲求否定 の能力を伸ばし強力な自己統制を可能ならしめるものであるからである。錬成の道はあるきま った唯ひとつの型にはめられるものではない。精神の発達段階に応じて,ある時は「しつけ」

を主とし,ある時は目的的引回による方法を主とするということでなければならない。

 最後に「しつけ」の方法について特に留意すべき点についてのべることにする先ず第一には しつけするものの辛棒強さが大切である。ある学校の一年生のA学級はいつでも下駄箱に子供 の履物がきちんと整傾されている。B, Cなどの学級は始終教師が注意しないと整頓が乱れ

る。B, C学級では注意をすると二,三日はよくゆくがまたもとにかえってしまうのに対して A学級は教師が注意をあたえる必要がない程にうまくいっている。両者のこの差違は実は両者 のしつけ方のちがいから生れたものである。A学級の教師は入学当初から約三週間毎日子供の 校舎に入ったり出たりするたびに下駄箱の前に行って指導したとのことである。そうしてその 間少しの例外をも許さないように必ず整頓を実行させた。B, Cの学級の教師は子供は先生の 命令したことは必ず守るものであり,二,三回履物の整頓のしかたを指導すれば簡単なことだ からできると考えて,入学当初の二三目の間指導しただけである。B, C学級の子供は始終教 師に「あんたがたはどうしてお約束が守られないのでしょう。何度先生から注意されるのです か。一ぺん言われたら忘れない子になりなさい。」と叱られる。叱られて整頓するがまた忘れ る。そのシーンをくり返す。こ鼠で問題は一見すこぶるなんでもないようなことでもそれをや りぬくということは大変なことであり,ことに幼いものにとっては困難なことであるという教 師の認識が欠げていること,教師のしつけに対する努力と忍耐の如何に大切であるかを知らな いということにある。「しつけ」とはしつけるものとしつけられるものとの根くらべであると 言ってもよいであろう。しつけるものにその努力と忍耐を欠ぐ場合,「しつけ」は子供の道徳 性の発達に却って悪い結果をもたらすものであることは留意すべき大切なことである。次に

「しつけ」の方法に於て留意しなければならないことは,しつけるものとしつけられるものと の間に愛惰と信頼の人聞関係がしっかりとうちたてられている時「しつけ」はもっとも道徳的 な効果をもつものであるということである。このような基盤のない場合の「しつけ」は子供の 精神衛生に暗い影をなげかけるものとなろう。

(4)人間が欲望の機制によって左右されることはすでに述べたことであるが,人間が自覚的な 主体者であるためにはこの機制の支配を脱して自己のあり方を自己自身によって決定しうるよ

うにならなければならない。それは容易なことでないとしても,また完全にそうすることがで きないとしても自覚的主体者となるための努力をしてゆくべきであろう。この努力を効果あら しめるためには,自分の内面に発生する心理的機制のもつ法則を知ることである。自然法則を 知ることにより自然界を支配することができるように,心理的法則を知ることによって欲求の

メカニズムを支配することができるからである。

 子どもたちは自分かつてな欲望に理窟をつけてこれを満足させようとしたり,自分のまちが

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つた行動に理窟づけをして自己の正当性を主張したりする。いわゆる「合理化」とよばれる防 禦反応の機制に支配される。このような場合にその理窟づけがどこでまちがっているかを理解 させ,正しい理論を見つけ出すように指導し,人間はともするとこのようなものの考え方に陥 ることを知らせるならば,子供は次第と「合理化」という心理的機制の支配から脱することが できるようになるであろう。同様なことは「近道反応」「逃避反応」「投射反応」等々につい てもいうことができよう。このように弱い人間のおち入りやすいものの考え方行動のしかたに ついて知り,この知識によって自己の考えや行動を批判吟味する能力を反省の能力と名づけて よいであろう。現代の教育はたしかにこのような反省の能力を育成することに欠陥があったと 言ってもよい。勿論特殊的には勝れた教師によってこの教育が効果的に行われている幾多の事 実はあるとしても,わが国の教育実践の一般的状況に於てそう言えるのではないだろうか。こ のような反省の能力を育成するためには,許容的な環境のもとに子供たちが自己を赤裸々に露 呈するようにしなければならない。私の先生は正直に自分の思ったこと,したことは何んでも 打ち開けられる先生であると子供に信頼されることが先決条件である。また私たちの学級では どんなまちがったことを発表しても笑ったり軽蔑したりしないで,皆で一緒に考えてくれ,ま ちがっていれば教えあいするのだという,学級の子供たち相互に温い友情が盗れていることが 大切である。このような許容的な環境が設定されていではじめて子供たちは自分を赤裸々にあ らわすことができる。その自分を赤裸々にあらわすしかたは話し合いの型,生活学究の型,日 記による型など種々あると思う。

(5)人間はたとえどんなさ占いなことでも,自分が善いと認めたことを,抵抗にうちかって実 行した時には何んともいえないすがすがしい喜びを感じるものである。このような喜びの経験 がつみかさなってゆくところに強い意志が育成されるものである。子供たちが自分の欲望に打 ち勝って自分の意志を貫徹したことについて語り合うことも,強い意志をかたちづくるのにょ い効果をもたらすものである。身近に接触している人間の行動は強い感銘をあたえるものであ

るが,また丈学,映画,演劇などにそうした行動が描かれている場合も,読んだり観たりする 者に強い感銘をあたえるものである。したがって上にあげたようなことを多く取りあげるよう 常に留意することが大切である。しかしこの場合にも意志貫徹のしかたについてのいろいろの 方法を体得させるようにするのが効果的である。その方法には「行動修正」,「自己抑制」,

「関心転換」「代償」等々が考えられる。例えば「関心転換」の一つのしかたとして,私は次 のようなある人の体験を聞いた。「私はいたらぬ欲望が生じて困る時,燈火などを吹き消すよ

うな具合にしっかり深呼吸してぶっと息を吹き出します。するとその欲望が消えます。」この 話を聞いて時々やってみた。勿論十度が十度その通りにうまくゆくわけではない。しかしこの 話を聞いた意義はその人の型をまねるにあるというよりも,自分でもてあましている欲望でも 自分の気持のもちかたで処理できるということ,関心転換,には工夫がいることに深い感銘をも つたことである。

      (小  松  昌  幸)

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註 1   2   3   4   5   6   7   8

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1.L,Childs, Education and Morals,1950, P.15 0p. cit, P。15

0P. cit, P J6

スラヴソン 「集団心理療法入門」 小川太郎・山根清道訳 昭和31年 14頁 森 昭 「みんなで進める道徳指導」 昭和34年 32頁

Brubacher&Others;The Public Schools And Spiritual Values,1944, P.148 スラヴソン 「集団心理療法入門」 小川太郎・山根清道訳 昭和31年 221頁

R.M. Maclverはその著Social Causation,(1942)の申で外在的な伝統的道徳は道徳的な価値自 律性をもつ創造的入間にとって手段的価値をもつもので,自律的創造的人間はそれに動態的評価を 加えることによって道徳を実現してゆくことを述べている。G. H:. MeadはMind, Self, and Sooiety,(1952)の中で, Meは社会的行動体系が個人の内に内面化された意識領域であるとし,

Meが1を強く支配していることを認めながらも1のもつNovelityを強調しそこに人間の行為 の自由性創造性を明らかにしている。

森 昭 「教育の実践性とは内面性」 昭和33年 138−140回

忌ege1;Grund linien Der Philosophie Des Rechts, Neu Herausgeben von Georg Lasson,2Auflage,1921 S.118

福武直,日高六郎共著 「社会学」 昭和33年 珍頁

Brubacher&Others一;The Public Schools And Spiritual Valuesy l944, P.P.132−133

第五,道徳教育と放送の問題

 (近代社会に於ける新しいCommunieation mediaの意味について〕

「初めに言葉ありき」という旧約聖書に出て来る文字は・人間が社会という組織の申で生活 しでいく生きものであることを言った事であろう。つまり・その社会をつなぐことばという 人問相互あCommUnicationのmediaの存在が今あるような人間たらしめたわけである①。

その人間社会は,最近になって文字という新しいmediaの発見し・それによって・質量共 に,高度な交明社会を実現するに至った。更に印刷活字の出現は・文字の貴族性・封鎖性を大 衆化し,広汎化することに役立ち,それによって・今日の偉大なる人類丈化が築き上げられ るに至った。然し人間嫁迎の発展は止るところを知らず・19C末紀より20Cの初頭にかけて・

いともつ玉ましく現れてきた,映画,ラジオといった娯楽品が・実は・新しい社会への大きな 変動の原動力であったという・ことに誰も:気付いたものはいなかったであろう。エジソγは「映 画は数年たてば,教育方法に革命を起し教科書の使用にとってかわる②」と予言したに拘らず 当時の人々は,単なる娯楽としての興業的価値以上のものを認めようとはしなかった。マルコ ニーの電信の発明も,多くの便利な幾多の発明品の一つとして以上の価値を考えようとはしな かった。しかし,実は此等が言葉や文字と共に人間相互のCommu鷺icationのmediaとして 大きな社会変革の原動力を内包していたわけである。丈字自身が人間社会に果した使命は,単

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