一一︼
ギ>
‑129‑
遺 構 軒 丸 瓦 軒 平 瓦 土 拡 1(S K14 炭層
) 2(S K14
炭層)3(S K14 炭層
) 4(S K14
炭層)5(S K14 炭層
) 5(S K14)
6(S K14 炭層・ 下層)
7(S K14炭層 とS G20下層が接合)
8(S K12) 9(S K14)
10(S K23)
S G20下層 11、 12、 13、 14、 15、 6279‑C 16(3棠ミ)、 17、 18、 19、 6664̲D、 664■G
S G20上層 20、 21、 22、 21と同籠か (2点)、
6276A、 軒丸型式不明 (5点)
23、 24、 25、 26、 27、 28、 29、
66411、 666311、 66631 そ の 他 5(2点)、 13、 14、 6276A、 6234A b、 梵
字丈軒丸 (2点)、 薬師寺報告56と同籠か (2点)、興福寺食堂報告38と同地か(1点)、
巴文 (3点)、 軒丸型式不明 (5点)
9(3点
)、 10(1点)、 16(2点)、 6663、6641‑G、 6664‑D、 薬師寺報告236と同 疱、薬師寺報告264と同籠、薬師寺報告275
と同絶、軒平型式不明 (2点)
42 点 37 点
表12 第223‑3次調査出土軒瓦一覧
師寺初 出 の瓦 で、全 体 の文 様構 成 は不 明。26は 報 告 285に 類 似 す るが、 異 疱 で あ る。上 外 区 に寺 の刻 印 を押 す。27は報 告270と同抱 で あ ろ う。 28は 報 告344と 同抱 で あ る。 ただ し、右 端 の唐 草 と右 外 区 との間 の間隔 が、 28で は狭 くな って お り、
28は報 告344の絶 の両 端 を切 り縮 め た ものか。 29は 薬 師 寺 初 出 の瓦 で、 同 施 と思 わ れ る ものが、興 福 寺 (瓦又 資 料
)に
あ る。軒 平 瓦 の顎 の変 遷
層 位 的 に は、土 墳→S G20下層 →S G20上層 の順 で あ り、 こ の順 で 出土 した軒平 瓦 の顎 の変遷 をみてみ よ う。 まず、S K14e s K12出土 の6・
7・ 8・ 10はいず れ も、顎部 と平 瓦部 凸面 との段差 が1.5cm前後 あ り、 深 い段 顎 と な って い る (顎 I)。 次 に、S G20下層 の16・ 17・ 18はいず れ も、 顎 部 と平 瓦 部 凸面 との段 差 が0.5cm程度 で あ り、浅 い段 顎 で あ る (顎 Ⅱ)。 た だ し、 顎 Ⅱの 中 に は明瞭 な段顎 (16・ 18)と 不 明瞭 な段 顎 (17)と を含 む。 最 後 に、S G10上層 の23・ 26・ 28・ 29では、丸 み を もった曲線 顎 (顎Ⅲ
)と
な って い る。 た だ、 曲線 顎 とは言 って も、0.2〜0.3cm程度 の段 差 は残 って い る ものが多 い(23・26
・28)。以上 の よ うにS K14。 S K12→ S G20下層 →S G20上層 出上 の軒 平 瓦 は、 顎 I
→ 顎 Ⅱ→顎 Ⅲの変遷 をた どる ことが、大筋 にお いて認 め られ る。 これ を同一 抱 の 時 間 の経 過 か ら再 確 認 して み よ う。顎Iの10の瓦
(I段
階)は
、抱 の下 外 区 の線 を太 く彫 り直 した もの にな る (Ⅱ段 階)と
顎 Ⅱに変 化 して い る。17の瓦 は、 抱 傷` i■=岳F、 ̲,. '
驚 24
配
5図71 S G20上層出土軒瓦
(1/4)
10(I段階)
17(II段 階)
10(II段 階)
篤
図72 同疱例 による顎の変遷
= 善
17(Ⅲ段階)
‑131‑
図73 層位 による顎 の変遷
の最 も少 な い ものが興福寺食堂・ 五重塔 で出土
(I段
階)し
て お り、顎 Iの形 態 を示 す。本 調 査 区SG20下層 出上 の17は、興 福 寺北 円堂 1975年 出土 例 と同 じ く、唐 草文 右 第3単
位 の左 側 に抱 傷 が 出現 す る段 階 と思 われ るが (Ⅱ段 階)、 顎 Ⅱの形 態 に変 化 す る。 そ して、瓦 当面全 体 に抱割 れが生 じた もの (Ⅲ段 階)で
は、 顎 Ⅲ とな って お り、 この瓦 で はわず か の段差 も持 たず丸 みを もった曲線顎 とな って い る。以上 に よ って、基 本 的 な流 れ と して、平 安 後 期 の軒 平 瓦 が、深 い段 顎 か ら浅 い 段 顎 へ、 そ して丸 み を もった曲線 顎 へ と変 遷 した ことを確 認 した。 これ は1978年
―‑132‑―
に上原真人が「古代末期 にお ける瓦生産体制 の変革」『古代研究』13・ 14で述 べ た「平瓦部が厚手で段顎 を有 す る製品」が古 く、「薄手 の平瓦部か ら瓦 当 に向 け て緩 やか に厚 みを増す製品」が新 しい とす る説 を、基本的には、層位 的 に立 証 し た もので あ り、上記論文 は、南都 の瓦 の分析 において も高 く評価で きよ う。 そ し て、今回の出土例 は、それを さ ら´
に細分 させ る可能性 を示す資料 と して貴重 で あ る。ただ、 これですべてが解釈 で きる訳で はない。以下 に問題点 を列記 し、 ひ き つづ き興福寺等 の出土例 を再検討 したい。
まず、上原真人が指摘す るよ うに法金 剛院境 内 出上 の瓦 が興 福寺 食 堂 と同抱
(法金剛院報告第56区‑26。 39。 40。
41)で
あ る こ とが注 目され、 さ らに興 福寺 大湯屋 と同抱例 (法金剛院報告56図‑29・42)が
あ る。興福寺大 湯屋 は天 治 元年 (1124)6月 焼失、8月 に復興 に着手 し、再度 の焼失 は大治四年 (1129)で 、翌大治 五年 に再建 を始 めた ことが知 られ る。一方、法金剛院の瓦葺建物であ る塔・ 経蔵 は長承三年 (1134)7月 に立柱上棟 が行 われ、保延二年 (■36)に
供 養 され て い る。 したが って、 これ らの同抱瓦が12世紀前半 の中葉 頃 に製作 された可 能 性 は き わめて高 いようである。 これ らの軒平瓦 は「薄手 の平瓦部か ら瓦当に向 けて緩 や か に厚 みを増す製品」であ る。ところが、平瓦部が薄手 の瓦 は、興福寺で多量 に出土するが、薬師寺・ 西大寺・
法隆寺等 で はきわめて少 ない。 したが って、各寺院 の瓦屋 ごとに製作技 法 が少 し ずつ異 な る可能性 は捨 て きれないので あ る。
た とえば、平安後期 の法隆寺 の軒平瓦の中には折 り曲げ手法 による製 品が存 在 す るが、 この手法 による もの は薬 師寺 にはな く、興福寺 で も法隆寺 と同疱 か と思 われ る資料 にその可能性 を指摘 で きるだけである。
今回判 明 した薬 師寺 の軒平 瓦 にお ける顎I→顎 Ⅱ→顎 Ⅲの変遷 は他寺 院 に も適 用 で きるで あろ うか。興福寺 において は、顎 Iの 形態、つ ま り深 い段顎 の軒 平 瓦 を永承再建時以降、治暦三年 (1067)の 中金堂・ 講堂再建 までの11世紀 中葉 か ら 11世紀後半 の中頃 まで と し、平瓦部 が薄 い顎 Ⅲに近 い形態 の ものを12世紀 段 階 に お くことは可能である。 しか し、いままで に発掘 で出上 した平安後期 の興福 寺 の
―‑133‑一
軒 平 瓦 で顎 I・ 顎 Ⅱの形 態 の ものが比 較 的少 な く、平 瓦部 が薄 い顎 Ⅲ に近 い形 態 の ものが多 い ことを いか に解 すべ きで あ ろ うか。興福寺 の堂宇 は11世紀 中葉 か ら 11世 紀 末 まで焼失 。再建 を繰 り返 して い る。承暦二年 (1078)の五 重 塔 。西 金 堂 再 建 や康 和 五 年 (1103)の中金 堂 。講 堂 再 建 の瓦 を どれ に比定 した らよ い の で あ ろ うか。発 掘 資料 で は顎 I・ 顎 Ⅱ は少 な いが、今 後 の発 掘 で増加 す るの で あ ろ う か。 そ れ と も、平瓦部 が薄 い顎 Ⅲ に近 い形 態 の ものが、興福寺 で は11世紀 末 又 は 後 半 頃 まで遡 るので あ ろ うか。今 後検 討 を要 す る課題 で あ る。
次 に薬 師寺 か ら出土 した顎 I・ 顎 Ⅱの形 態 を もつ軒 平 瓦 で他 寺 との同抱 例 を求 め る と、6・ 10・ 16な ど は顎 I・ 顎 Ⅱの形 態 を示 して い るが、7と 同抱 の 西 大 寺 例 や薬 師寺報告258と同施 の西 大 寺 例 で は顎 Ⅲの形 態 で あ る。 ま た顎 Ⅲ を もつ23と 同拒 と思 わ れ る興 福 寺例 は直線 顎 で あ る し、28の よ うに両 端 を切 り縮 め た もの が わず か に段 差 を残 し、 それ よ り古 い と考 え られ る両端 を切 り縮 めて いな い もの が ゆ るやか な丸 みを もち段差 が ない とい う資料 もあ る。今後、 ほ とん どすべ て の 瓦 が抱 傷進行 の経過 によ り、顎 I→顎 Ⅱ→ 顎 Ⅲ と変 化 す る と言 い切 ることはで きず、
む しろそ の中 に顎形態 のバ ラエテ ィを考 え た方 が よいだ ろ う。 このバ ラエ テ ィの あ り方 は、一 つ の瓦屋 内で の工人 差 の場 合 と、疱型 が移動 して他寺 の瓦屋 で の技 法 的 な差 が生 じる場 合 とが あ り うる。
次 に直線 顎 の軒 平 瓦 9であ るが、 これ はS K14出上 で あ るが、顎 Iの段 階 よ り や や新 しくな る可能性 もあ る。 これ と同絶 の薬 師寺 での軒平瓦 は顎 Ⅱ又 は顎 Ⅲ の ものが多 い。 また、S G20上層 か ら も直線 顎 の24が 出上 して い る。直線 顎 の形 態 を もつ ものが、顎 I・ ⅡoⅢ とどの よ うなか か わ りを もつか、 これ も検 討 を要 す る。
以 上 の よ うに、薬 師寺 で は大 勢 と して顎 I→顎 コ→ 顎 Ⅲ の変 遷 を示 して い るが、基 本 的 には製作技 法 は変化 して いな いよ うで あ る。顎 Iは顎 は りつ け の 手 法 が明 瞭 で あ り、 いず れ も平 瓦部 は厚手 で あ り、凹凸 のあ る板状 にひ ろげ た粘 土 を三 枚 程 度 合 わせ る。顎 Ⅱで は、顎 部 を含 んで粘土 を貼 りつ ける ことに変 わ り は な く、顎 Ⅲで も顎部 に粘土 を薄 く貼 りつ けて い る。平安前 。中期 の瓦 と顎 Iと の 関係 、顎 Ⅲの瓦 と鎌 倉 の瓦 との関係 も今後 の検討課題 で あ る。
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(山崎信 二)
C.木
製 品・ 石製 品・ 土製 品等木製 品 は、S G20整地 土 か ら下 駄1点と部 材 1点 、S K12か ら棒 状 品 1点 な どが 出土 した。 また、S K12・ 14か らはモ モの種子 な どが 出上 した。下 駄 は小 判 形 の 平面 形 を呈 す る小 型 の連歯 下駄 で、半哉 す る。板 目材 の木 表 を台 の上面 と し、 前 壷 は中央 に、後 壷 は歯 の内側 に穿 孔 されて い る。全長17.3cm。 石 製 品 はS K12か ら大型 砥 石 が1点出土。土 製 品 は、S K12・ 17・ 23か ら窯壁 片 、S G20か ら建 物 の壁 上 の ほか、鋳 造 な い し鍛 冶 に関連 す る炉 壁 片 や輔 羽 口 あ る い は窯 壁 が 出土 。 その ほか に鉱 滓 も出上 して い る。冶金 関連 の遺 物 は池 内堆 積 土 層 中 にのみ含 まれ る。輪 羽 口 に は基 部 片 が あ り、残 存 す る長 さ1lcm、 ラ ッパ状 に開 く基 部 の 直 径 が 9.5cm(内型6.4cm)、 先 端 の直径7〜8cm(内径2.7cm)であ る。輪 羽 日 と して は一 般 的 な形 態 で あ る。
4
ま とめ(小池伸 彦)
薬 師寺北門 を入 ってす ぐ東 の一郭 は、11世紀代 には狭い範囲 に炭土壊が処々あっ た。 この土墳 は、近 くに恒常的 に火を焚 く施設 があ った ことを示す。輔羽 口や鉱 滓 は出土 してお らず、鍛冶関係 で はない。土 師窯 の可能性 もな くはないが、焼 け 歪 んだ土器 は瓦器椀 (完形
)が
1点出土 したのみで、決定 で きない。 いず れ に し て も生産 に関わ る区域 ない しは厨房的な区域 であ った と推定 され る。池 の造成 は11世紀末 ない しは12世紀初頭 頃であ る。処 々に石 を置 き、 出島が あ るな ど、単 な る溜池 で はな く観賞用の池であ った と推 測 で きる。おそ ら く、池 の 北 に建物 を設 けた子院 の形成 があ ったので あろ う。薬師寺 の子院 と して は、 た と えば、東北院が元永元年 (1118)、 喜多院が承安
5年
(1175)に 登場 す るが、今 回 発掘 した子院名 はわか らない。この子院 は、池 の焼土層 か らみて、12世紀末頃 に火 災 にあ ったよ うで、池 自体 もこの時期 には機能 を停止 して しま う。(毛利光俊 彦)注
1)横
田賢次郎・ 森田勉「大宰府 出土の輸入中国陶磁器 について」『九州歴史資料館 研究論集』419782)川越俊―