吉守 フ
︒
実 の 命 者 が 無 き に 由 り て
︑
︹ 生 命 体 が
︺ 非 存 在 で あ る か ら
︑ 世 尊 は 仏 は
︹ 命 者 と 諸 殖 と の
︺ 生 命 体 が
︹ 諸 組
︺ そ の も の で あ る と も
︑
︹ 諸
はず
︒殖と︺異なるとも説かれなかった︒ 真︹実︺我を執して有と為る
︹ 者 ︺
lま
則ち見の牙に傷つけられ︑
俗我を擁して無と為る︹者︺
lま
便ち善業の子を壊す︒
‑異
を言
(の
たま
)
烏命者都無と記さない理由
o H
仮我を按無するから命者都無と説かない
仮︹設された︺我を楼無せんことを恐れて
亦た
︹命
者が
︺
ず︒
( 一
)
謂はく︑績の相続の中において︑
業・果を有するを︹仮りにu
︺命
者と
す︒
若し命者無しと説かば︑
彼︹の筏嵯︺は此︹の業果を有する命者︺
を擁して無と為せばなり︒(二) 都て無なりとも説きたまは なぜならば︑我の存在することを認める
︹者
︺は
︹有 身見
を相
とす
る︿
・﹁
︺牙 の
ような見によ
って
害なわれるであろうし︑
︹仮我を認める︺世俗︹我︺に到達しない
︹者
︺は
善の
子︹
すな
わち
善業
︿・
F︺が壊れることに
なるであろうから︒
一五六上口
四右
吋
四七
o =
一五六上
呂 四 右 吋 四 七
O ロ 三 O
七中出そして︑また施設されたものも非存在︹と
考えること︺勿れとて︑
︹命者が︺存在しないとも説かれなかった︒
( 一 )
なぜならば︑殖の相続において善︹業︺・不
善︹業︺の果が存在するのに︑こ︹の離の
相続︺において︑生命体が存在しないと説
示することによって︑彼︹の仮説︺の生命
体と称されものは存在しないであろう︹と
考える︺からである︒(二) 若し我有りと説くことを信ずれば︑見の牙が身を傷徹す︒
若し
偲名
我を
棄(
す)
つれ
ば︑
善子は即ち堕落せん︒
三
O
七中Z
復た備を説きて言はく︒
人の賞に無きに由るが故に︑
悌は
一
・異 を記
した
まは
ず︒
亦た無なりと説くことを得ず︒
般我無しと執すること勿ればなり︒
是れ陰の相績の中に
善・悪の果有り︑との理にでも︑
(仮の)命者を説いて楼無す︒
命者無しと説くに由りてなり︒
第 一 章 プ ドガラ説を破す
,......、
一
、、J
第 一 編 慣 子 部 のプドガラ説を破す /
'"旬、
一 一
、、J
第二 各 論 57
︒
ω正法の器でないから仮の命者を説かない諸離の中に仮名の
命者有りと説きたまはざるは︑ 一
五六上
NN
四右目︒四七
05
三
O
七中民生命体は諸殖において施設されたものとし
てのみ︹存在する︺︑ともお説きにならなか
った
︒
発 問 者 に
︑ 真 空 を 解 す る に こ の 場 合
︑ こ の よ う な 人 た ち は 力 無 き こ と を 観
︹ 待
︺ す る に 由 り て な り
︒ 空 性 を 覚 知 す る こ と が 不 可 能 で あ る
︹ か ( 三 ) ら
︺
︒ ( 三 )
民間者の意楽を観待するから命者の有無を論じない一
五 六 上 陸 四 左
N
四七
O=
一 ニ
O
七中包是 く の 如 く 筏 嵯 の こ の よ う に
︑ 我 が 存 在 す る の か 存 在 し な い 意 楽 の 差 別 を 観
︹ 待
︺ す る が 故 に
︑ の か と パ ト ウ ス ヤ に 問 わ れ た け れ ど も
︑
︹ 世 彼
︹ の 筏 嵯
︺ が 我 の 有
・ 無 を 問 へ ど も
︑ 尊 は 何 も
︺ お 説 き に な ら な か っ た
︒ 仏 は
︹ 我 の
︺ 有
・ 無 を 答 へ た ま は ず
︒
︹ そ れ は
︺ 質 問 者 の 意 楽 を 顧 慮 し て
︹ お 説
きにならなかったの︺である︒
しかし︑︹生命体が︺存在するならば︑存在
する︑と︑なぜ言われなかったのか︹それ
は命者が存在しないからである︺︒
( 四
)
( 四
)
忠世間についての無記
E
世間は常住なり等の無記(第一I
四句
)を
会通
す c総 説 一 五 六 上 包 囲 左
hp
四七
05
三
O
七中自何に縁りて︹仏は︺﹁世間は常︹住︺なり﹂等一﹁常住な世間﹂等についてもまた︑
を記したまはざるか︒一意楽を顧慮して記説されない︒
亦た問者の阿世耶を観︹待︺一するが故なり︒
己我が世間であると執する場合
一 五
六上ミ
問者が若し︑我を世間と為す︑と執すれば︑一
我の体は都て無なるが故に︑︹﹁世間は常住なり﹂一
等の︺四の記は皆な理に非ず︒一 質問者の
四左品四七
0 5
一ニ
O
七中自まずもし︑世間は我である︑と認許されるな
らば︑こ︹の我︺は無いから︑︹﹁世間は常なり﹂
等の︺四種を記説することは理に合わない︒
58
彼の
人は
未だ
︑
異空の理を正しく説くことを堪受せざれ
手品
︑
我有るか我無きかを問ふに︑
故(
こと
さら
)に
︑我
無し
と答
へた
まは
ず︒
,〆~、
一 一
‑一ι一一F
、句目〆
若し問の意を観ずるに由らば︑
有に於いても︑何ぞ記したまはざるか︒
前の︑理繋無きことに同じて︑
難に堕するが故に記したまはず︒
( 四
)
第 三 節 プ ド ガ ラ に つ い て の 積 子 部 と 論 主 と の 論 争
世間は常住なり等の問に︑悌の亦た記したま
はざるは︑問ふ人の意を観ずるに由るが故なり︒
一若し彼れが我を執して世間と矯さば︑
一我︺は無きが故に︑︹﹁世間は常住なり﹂
一四の答は理に麿ぜず︒ 此︹の等
の︺
︒
N世間は生死の有情であると執する場合一五六上自四左∞四七O N O
三O七中出
若し︑生死︹の有情︺を皆な世間と名づく︑また世間は一切の輪廻︹するもの︺である︹と
と︹問者が︺執すれば︑仏︹の﹁世間は常住な認許される︺ならば︑こ︹の﹁世間は常住なり﹂
り﹂等︺の四種の記も亦た皆な理に非ず︒等の四の記︺もまた理に合わない︒
調はく︑若し︹世間が︺常︹住︺ならば︑︹有情
は︺浬繋を得ること無けん︒
若し︹世間が︺是れ非常ならば︑︹有情は︺便ち
自ら断滅し︑功力に由らずして威く浬繋を得ん︒
若し︹世間は︺常にして亦た非常なりと為すと
説かば︑定んで応に︑一分{の有情︺は浬繋を得
ること無く︑一分の有情は自ら円寂を証すべし︒
若し︹世間は︺非常にして非非常なりと記さば︑
︹有情は︺則ち浬繋を得るにも非ず︑浬繋を得
ざるにも非ずして︑決定相違して︑便ち戯論を
成ぜ
ん︒
︒
ω結一五六中仏四左目︒四七一ωO
一 二七下
町
然る
に︑
聖道に依りて般浬般市す可し︒故に四
を定んで記することは皆な理に応ぜず︒離繋子
が雀の死生を問ふが知し︒仏は彼れの心を知る
︹が故︺に︑定んで記することを為さず︒
芯世間は有辺なり等の無記(第五1
八)
を会
通す
﹁︹世間は︺有辺なり﹂等の四にも亦た記した
まはざるは︑﹁︹世間は︺常︹住︺なり﹂等︹の
四︺と同じく皆な失有るを以つての故なり︒
寧んぞ︑此︹の﹁有辺なり﹂等︺の四の義が﹁常
なり﹂等と同じきことを知らんや︒ 世間が常住であるならば︑に至らないであろう︒
︹世間が︺非常住であるならば︑すべてのもの
は断滅に至るであろう︒
︹世間が常住・非常住の︺同様であるならば︑
決定して或る者は般浬繋に至るであろうし︑或
る者は︹般浬繋に至ら︺ないであろう︒
︹世間が常住・非常住の︺両様でないならば︑
般浬繋に︹も至ら︺ないであろうし︑不般浬繋
にも至らないであろう︒ いかなる者も般浬繋
それゆえ︑般浬般市は聖道に依るから︑四種︹の
いずれ︺とも決定して記説されない︒それはニ
ルグランタ声聞の雀のごときである︒
一五六中︒五右同四七一品三
O
七下
︒
それゆえ︑まさに﹁世間は有限である﹂等と
いう四種についても︹質問者の意楽を顧慮して︺
記説されない︒なぜならば︑こ︹の﹁世間は有
限で
ある
﹂等
︿・
F︺の四句も︹﹁常住なり﹂等の
四句と︿・己同じ意味であるからである︒ 若し彼れが︑一切の生死︹の衆生を︺を世間と名づく︑と執すれば︑此れに答ふることも亦た理に臆ぜず︒何を以つての故なるか︑といふ
若し世間が常住ならば︑︹衆生は︺一人として般
浬繋を得るもの無からん︒
若し︹世間が︺常住に非ずんば︑則ち一切︹の
衆生︺は皆な断滅して︑自然に般浬繋す︒
若しこを具さば︑必ず定んで︑一
分︹
の衆
生︺
は浬
繋を
得ず
︑
一分︹の衆生︺は自ら︹浬繋を︺
得︒
若し二に非ずんば︑麿に︑︹衆生は︺浬繋を得る
に非ず︑︹衆生は︺浬繋を得るに非ざるに非ざる
こと
を成
ずべ
し︒
第一章 プ ドガラ説を破す 第 一 編 積 子 部 のプ ドガラ説を破す
浬繋は道に随属することを至得するに由るが
故に︑是の故に︑定んで四の答を矯す可からず︒
誓へば︑尼乾の弟子の握る︹手︺中の雀を記さ
ざる
が如
し︒
此の義に由りて︑﹁世間は有漫なるか﹂等の四
の聞にも︑悌は亦た記したまはず︒此の閲の問
も前の四義と同じなるが故なり︒
第二 各 論
何を以って然なることを知るか︒
59
外道の︑噛底迦と名づくるもの有りて︑先
に﹁世間は有辺なり﹂等の四を問ふことを以っ
て︑
復た
方便
を設
けて
矯(
いつ
わ)
りて
世尊
に問
ふ︒
﹁諸々の世間︹の有情︺は皆な聖道に由りて能
く出離することを得ると為んか︒一分︹の有情
が出離することを得る︺と為んか﹂と︒
尊者阿難は因りて彼れに告げて臼はく︒﹁汝は
此の事を以って巳に世尊に間へり︑今︑復た何
に縁りて︑名を改めて重ねて問へるや﹂と︒
故に︑後の四は義が前︹の﹁世間は常
り﹂等の四︺と同じきことを知んぬ︒
︹住
︺な
払如来死後有り等の無記(第九
i
十二句)を会通すE
正叙︑問者の意楽を観待するから不記︿慣子部﹀復た︑何の縁を以って︑世尊は﹁如
来は死後有り﹂等の四を記したまはざるか︒
︿論主﹀復た問者の阿世耶を観︹待︺するが故
なり
︒
問者は︑巳に︹生死を︺解脱せる我を名づけて
如来と為すと妄計して︑而も発問するが故なり︒ 同様に︑遊行者ウクティカが︑この同じ四句を間い︑また﹁世間のすべて︹の者︺がこの道によって出離するのか︑あるいは世間の一部︹の者︺が︹出離するの︺か﹂と問うた︒
尊者阿難は﹁ウクテイカよ︑汝は最初に世尊
に︹﹁有限なり﹂等と︿・己問うたことと同じ聞
を︑今︹世間のすべての者がこの道によって出
離するのか等というFF︺この異門によって問う
た﹂と言った︑ということがすべてである︒
一五
六中
ロ
五右
︒
四七
一吋
一 ニ
O
七中ロ 外道にして郁低柄と名づくるもの有りて︑此の四の聞を以って︑悌に復た問ふ﹁一切の世間︹の衆生︺は此の道に由りて出離することを得ると矯んか︑世間の一分︹の衆生が出離することを得る︺と為んか﹂と︒60
﹁如来は死後にも有る﹂︹等︺という四句につ
いて
も︑
問者の意図を顧慮して記説されなかった︒
なぜならば︑彼れは︑解脱した我が如来である
と考えて︑質問したからである︒ 大徳阿難は言はく﹁部眠柿よ︑是の義︑汝は
初に於いて己に世尊に問へり︒今︑何故ぞ︑復
た方便を以って更に此の義を間ふや﹂︒
第 三 節 プ ド ガ ラ に つ い て の 慎 子 部 と 論 主 と の 論 争
﹁如来は異なりて死する
等の四の聞にも︑
間ふ人の意を観ずるに由るが故に︑
した
まは
ず︒
何を以つての故なるか︑といふに︑彼の人は︑
己に解脱せる我を如来と名づくと執するが故
に︑此の間を矯せばなり︒
︹ 後 ︺
にも
有る
か﹂
悌は亦た記
足プドガラ論者の過失を挙げる
己論主反詰・・・プドガラが死後有るとなぜ記されないか一五六中目玉右∞四七一忌三
O
七下エ今︑応に︑我有りと計する者に﹁仏は何に縁一しかし︑プドガラ論者は﹁なぜ世尊は︑生き一我有りと執する人に︑躍に︑此くの如き問︹即
りて︑現︹生︺の補特伽羅有りと記するも︑如一ている者のプドガラは存在する︑と記説しなが一ち︺﹁云何ぞ︑世尊は︑︹現︺生に人存して有る