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説 く 経 に つ い て

己﹁一のプドガラ﹂と説く点について論主破・・・五離の総衆を一のプドガラと説く 匙論主破

E

化生有情は五離であり︑プドガラではない

誰か﹁化生有情有ること無し﹂と言

ふ ︒

仏の所言の如く︑我れも﹁︹化生有情芯有り﹂

と説くが故なり︒

謂はく︑︹五︺離の相続して能く後世に往くこと︑

胎︹生︺・卵︹生︺・湿︹生︺に由らざるを化生

有情と名づく︒此︹の化生有情︺を接︹無︺し

て無と為すが故に︑︹この見は︺邪見の摂なり︒

化生する諸離は理実には有るが故なり︒

思プドガラを接無する邪見は存在しない

又た︑此の邪見が補特伽羅を誘ることなりと

許さば︑汝等は応に︑是︹の邪見︺は何所断な

るか︑を言ふべし︒

︹此の邪見が︺見︹所断︺・修所断なること︑理

として並びに然らず︒補特伽羅は︹四︺諦の摂

に非ざるが故なり︒︹亦た︺邪見は応に修所断な

るべからざるが故なり︒

若し

経に

一五 五 中

=

一左⑦四六八∞

一 二

O

下︒

そこで︑誰が﹁化生の有情は存在しない﹂と

いう︑このようなことを言ったか︒

実に有情が存在するように︑そのように世尊

が﹃人経﹄において分別されたと我々は言

う ︒

それゆえ︑およそ︑来世に化生する有情と称さ

れる︹五︺離の相続を援無する者︑彼れには﹁化

生の有情は存在しない﹂というこの邪見がある︒

なぜならば︑諸離は化生するからである︒

一五 五

中エ一

左︒四六八尽

O

六下呂

この邪見がプドガラを楼無することであるな

らば︑︹この邪見は︺何の所断になるであろうか︒

実にこ︹の邪見︺が見︹所断︺・修所断であるこ

とは理に合わない︒なぜならば︑プドガラは

(四︺諦に摂まらないからである︒

一五

中口

︹ 経

に ︺

何人か

﹁自

然生

の衆

生無し﹂と説く ︒

悌世尊が衆生を分別したまふが知く︑我れも

﹁亦た爾なり(

自然生の衆生有り)﹂と説く︒

是の故に︑若し人は︑齢生の中に於いて自然生

の五陰の相績にして世特聞にて立てて自然生の衆

生と名ゃつくるものを接無せば︑此の人は邪見︹即

ち︺自然生の衆生無しと謂ふ︹見︺を起こす︑

と説く︒諸陰の自然に生ずること有るに由るが

故なり︒

﹁世

﹂宮

H

﹁ 世

一﹂大正本

章 プ ド ガ ラ 説 を 破 す

第 一 編 慣 子 部 の ドガラ説を破す

是れ汝の所説の︑人を援︹無︺することが邪

見なり︑とせば︑︹この邪見は︺何諦を見て減せ

らる

るか

此の邪見は︑謄に見諦に由りて減すべからず︑

亦た謄に修道に由りて減すべからず︒何を以つ

ての故なるかといふに︑人は四諦の撮に属せざ

るが

故な

り︒

一一一一 右

各 論

四六八エ三

O

六下

回⑦

し汝

が︑

有る別な粧を読と属して︑

︹五

︺陰

に非

︑さ

るこ

とを

癒す

︑︹

即ち

人は

gv

il 

47 

色﹁プドガラが生じる﹂と説く点について論主破・・・生じるものは有為法であるからプドガラも有為法になる

E

論主破︑非有為法非無為法であり殖と不一不異であるプドガラを破す 己非有為法非無為法としてのプドガラを破す

E

論主難・・・プドガラは生じるので有為法になる

或いは︑補特伽羅は応に︑有為︹法︺の摂な

り︑と許すべし︒

︹前掲の︺契経に

世間に生

︹ じ 在 ︺

す︒

と説けるを以つての故なり︒

鳥積子部救・・・プドガラが生じるとはプドガラが別の離を取ることである一五五中日︒

此こに言

ふ﹁生﹂は︑離の新たに起こるが如諸離が新たに出現するから︹生起する︺ょう

きに非ず︒に︑そのように彼︹のプドガラ︺が生起するの

ではない︒

なら

ば︑

一の補特伽羅有りて︑世間に生じ在す︒

と説ける[この補特伽羅は︺応に離に非るべし︑

と︹積

子部が︺謂はば︑︹これも︺亦た理に応ぜ

ず ︒

此れは総︹殖の緊

y N T

︺の中に於いて仮りに﹁一﹂

︹補

特伽

u︺と説くが故なり︒

世間において︑︹衆多の極微をu︺一

麻・

一米 ︑

︹多

くの

穀麦

u

と説くが如し︒ 一来︑︹多念の音声をu

何の

義に依りて﹁世間に生じ在す

﹂と

くか︒

世間において一のプドガラが現起して生

起す

る︒

と説かれるから[このプドガラは︺諸離ではな

い︑と︹積子部が︺いうならば︑そうではない︒

なぜならば︑集合しているものに対しても︑ご﹂と仮説するからである︒

例えば︑世間で︹八事から成っていても

F

?と

一胡麻・一穀物︹という︺がごときであり︑

そして︹多くの豆を戸︺一来集︑︹多音節を巴

語︹という︺がごときである︒

一五

五 中 冨 二 右

ω

あるいは︑プドガラは有為

説かれるべきである︒

︹なぜならば︑プドガラは︺

が認められるからである︒ 四六八広

︹ 法 ︺

O

六下呂

である︑と

生起を有すること

どのようにして

︹ 生

起す

るの

か 二右# 一の人が世間に於いて向生して生ずると

とは︑多くの人を利益し安柴せんが為なり︒

と言へり︑贋説すること経の如し︑此の経の言

に由るが故に︑人は︹五︺陰に非ず︑と言

はば

是の

義は然らず︒

来の中に於いても一を偲説するに由るが故な

Mツ ︒

48 

へ ば

︑ [ 八

事所成なるも︺一

麻 ・

一米

と説

き︑

︹多

音の

或いは

し︒ 一衆に於いて一一言と説くが知

︹ 亦

た ︺

一山 ・

一屋と説くが如し︒

節 プ ド ガについての積子部と論主との論 争

臆に︑人は即ち是れ有馬なり︑

と説

くべ

し︒

汝は

︑[

が︺生ずることを有

す︑と

許すに由る

が故なり︒

四六八広三一

O

六下ど

陰にして先に未だ有らざるものが後に有るが

如くに人も生ずといふことは︑爾らず︒

爾ら

ざれ

ば︑

云何︒

此れは今時︑︹補特伽羅が

y z

義に依りてなり︒

世間において︑能嗣者の生じ︑記論者の生ずと

くが

如き

は︑

有情が︺明論を取るが故なり︒ 別の殖を取る

又た︹世︺聞において︑芯拐の生ずること有り︑

外道の生ずること有りと説くが如きは︑︹有情

が︺儀式を取るが故なり︒

或いは世︹間︺において︑老者の生ずること有

り︑病者の生ずること有りと説くが如きは︑︹有

情が︺別の位を取るが故なり︒ ︹プドガラが︺別な離を取るからである︒

8

論主破

︒同経によって︑プドガラが別離を取ることを破す

﹁ 作 者 は 認 め ら れ な い

﹂ と 説 く 勝 義 空 経 一 五 五 中 目 二 右 吋 四 六 八

S

O

六下目 仏の巳に遮したまへるが故に︑此の救は成ぜそうではない︒遮されているからである︒す

ず︒

﹃ 勝 義 空 契 経

﹄ の 中 に 説 け る が 如 し

︒ な わ ち

︑ 世 尊 が

﹃ 勝 義 空 経

﹄ の な か で

業有りて異熟有るも︑作者は得可からず︒

謂はく︑能く此︹生︺の趨を捨し及び能く

余︹生︺の離を続くる︹作者は得べからざ

る︺なり︒唯だ︹五組相続のu︺法に仮︹立

せられた作者︺を除く︒

と︒

故に

仏は巳に遮したまへり︒

ロ﹁能取者は無い﹂と説く頗鞠具那経

﹃ 頗 鞘 具 那 契 経

﹄ に 亦 た

︑ 一

例えば︑︹有情が︺明知論を︹習

︺取

する

から

︑ 祭記者が生じ︑文法家が生じると言

われ

︹有情が︺儀式を︹受︺取するから︑

じ︑遊行者が生じると︹言われ︺ ︑ 比正が生

︹有情が︺別な状態を︹受︺取するから︑老人

が生じ︑病人が生じる︹といわれる︺︑というが

ごときである︒

諸比圧よ︑このように実に業は存在し︹業

の︺異熟は存在するけれども︑しかし︑法

として仮立された︹作者︺を除いて︑これ

ら︹此世FF︺の諸離を捨てて︑別な︹彼世 の ︿

w

︺諸

離を

結生

する

とこ

ろの

︹業

の︿

・己

作者は了得されない︒

と遮されている︒

一五五中昌二

右 呂 四 六 八 隠

そして︑﹃パルグナ経﹄に︑ 三

O

六下

NC

︹人

の︺

生ず

るこ

とは

︑ に由るが故なり︒

警へ

ば︑延若師の生じ︑毘伽羅論師の生ずるが

如きは︑︹有情が︺明慮を取るに由るが故に説き

て生と名づく︒

文た︑比丘の生じ︑道人の生ずるが如きは︑︹有

情︑が︺相を取るに由るが故に説きて生と名づく︒ ︹人が︺別の陰を取る

一 章 プ ド ガ ラ 説 を 破 す

又た︑老者の己に生じ︑病者の巳に生ずるが如

きは︑︹有情が︺別の位を取るに由るが故に説き

て生と名づ

く ︒

第 一 編 積子部の プド ガ ラ 説 を 破 す

是の義︑然らず︑機せらるるに由るが故なり︒

一粧の中に於いて︑悌世尊は己に此の義を捜した

まへり︒

何の

一艇

にて

か︑

とい

ふに

︑﹃

県賞空経﹄同

に於いてなり︒

艇に

云はく︒

比丘よ︑此くの如く業有りて果報あるも︑

作者は得可からず︒︹作者は︺賞に有ること

無きが故なり︒是れ︑能く此︹生︺の陰を

棄捨し往いて彼︹生︺の陰を取る︹作者は

得可からず︺︒唯だ法に於いて世に流布せる

語にて立つる所の人を除く︒

各 論

又た

︑﹃

頗求

那一

組﹄

の中

に於

いて

49 

我れは終に﹁能取者有り﹂と説かず︒

と説けり︒故に︑一の補特伽羅︹なる実我︺が

能く世間に於いて諸殖を取り捨すること︑定ん

で無し︒ パルグナよ

は言わない︒

と説かれる︒それゆえ︑諸離を︹取る︺いかな

る能取者も存在しないし︑︹諸殖を捨てるいかな

る︺能捨者も存在しない︒ ︹私は﹁或る者が︺取る﹂と

N所説の輸を破す

コ作者となる体に関して・・プドガラ・心心所・身のいずれも作者にならない一

五五

下回

又た汝は︑所引の﹁︹能︺嗣者等の生ず﹂

と い ま た 先 ず

︑ あ な た 方 は 祭 加

者ないし病人の何

ふ其︹の能一刺者︺の体は是れ何にして而も︹そについて︹作者のご輸えとするのか

れに︺能く此︹の作者こを愉ふるか

若し是れ我に︹作者を輸ふ︺と執せば︑彼れ

は極成せず︒︹非有なるが故なりと︒

若し心心所に︹作者を晴ふ︺と︹執︺せば︑

彼︹の心心所︺は︑念念に減し新新に生ずるが

故に︑︹此れを︺取り︹彼れを︺捨すること︑成

ぜず︒

若し是れ身に︹作者を輸ふ︺と許せば︑亦た

心等の如く︹身も︑念念に滅し新新に生ずるが

故に

︑此れを取り彼れを捨すること︑成ぜざる

なり

︒ もしプドガラ︹を作者の喰えとする︺という

ならば︑そ︹の警愉︺は成立

しない

︹プ

ドガ

は存在しないからである芯

また心心所︹を作者の喰えとするという︺な

らば︑︹それも成

立 ︺ しない

︒これらは刺那ごと

に新たに生じるのみである︹からである︺︒

また︑身体︹を作者の喰えとするという︺な

らば︑それもまた同様に︹剃那ごとに新たに生

じる

から

︿咽

戸成

立し

ない

ロ特に身について

色所取・能取に関して・・・明論などと身体とは異なる一五五下卓二左品四六九

ω

又た︹所取の︿"己明等が︹能取の︿ト︺身とまた︹能取者の︿ト︺身体と︹所取の︿

u

異なること有るが知く︑︹所取の︿

WC

殖も亦た知論・儀式と︹の両者が異なるものである︿ト︺

応に︹能取の︿wF︺補特伽羅と異なるべ

︒ よ

に︑

︹所

取の

︿

wF︺殖と︹能取の戸﹁︺プドガ

ラとの両者は別ものであることになる︒ 我れも亦た﹁衆生が能く陰を取る﹂と説

かず︑唯だ諸法が相績して起こる︹と説く︺︒

と説けり︒此の経に由りて是の故に︑一

の人と

して能く諸陰を取りて能く諸陰を捨すること有

ること無し︑と知る

︒ ︒

50 

二左H四六八

N ω

O

七上

ω

汝 ︑

今︑何之さなる延若師の生じ乃至︑病者

の生ずることを執受して︑︹それを︺立てて人の

嘗と矯すか︒

若し我︹を人の警と為す︺と執すれば︑此れは

成就せず︒

︹我

︺非有なるが故なり︒

若し心と及び心法と︹を人の替と為すと︺執す

れば︑彼れは︑刺那剃那に未だ曾

って

有らざる

ものが有るが故に︑警と属す可からず︒

三節 プドガラについ て の 積子部ととの論争

若し身︹を人の警と為す︺と執すれば︑亦た

心の如く︹身も︑剃那剃那に未だ曾って有らざ

るものが有るが故に︑警と属す可から

ず ︺

二 一

O

七上

︹ ︒

能取

の︿

w

︺身

が︹

所取

の︿

句﹁

︺明

相と

︹異

なるが︺如く︑︹所取の︺陰と及び︹能取の︺人

とは︑謄に差別を成ずべし︒

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