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ドキュメント内 一一/___ー/・ 一 山午.- __ 山 (ページ 126-151)

1

31人hl人 の

郡長

9‑ 5 第6図 河原智弘 さん ,n家 ,I)平 面図

‑498‑

(C) 上層 とみ られ る住宅構造 例 占. 河原智弘 さんの家

弟占図は御津町細= 'Jj河原智弘 さんの家JJ)平面図で 参ろ。こ,D家は大庄屋で あ

た家 で, 母屋,新屋,四つ'J3蘇.長屋門,それに (士や )や物置な どrJ3‑連の建物,J35つ,Jj部分か ら な っている建物 であるo建鼻年代性,母屋そ ,D他が約 25 8年前 (正徳 の頃か ),新屋 が天 保 (約150年前 )'D も,DであるO との家忙ついて歴史的に見る と,当河原家壮 「津高郡虎 倉城主伊賀久隆JjD被官で,天正占年 (1.578)辛喜多在家 に敬は され た とき,多 く,jB嶺官 と

ともに舟に乗 って字甘川をT って粧 工 (Lと9 )忙住みつ いた。我官た ち'jj多 Eは加茂郷一 帯 に分散 して帰鹿 し,帝体制,n下で彼等の中に比大 庄屋,庄屋 をつ とめた Dして,由緒 ある 門閥を誇 って土豪的勢力を筒 も現存 してい るもの が相当数 あった

」(「

」内,Jj多 目 i,谷 口 先生'n吉川弘文飴

「岡山落」 畔 上もo)字甘川を下 った老壮そ'Jj沿岸 に住 みつ き,河原'Jj 一族 の中で金

に住んでいる者 もあって,現在 で も紙='Jj河原 さんを本河原 (もとがわ ら )

と呼んでい る。前掲 'J3 「簡LL

J 鮮 」

忙 も士穀的性格 を持 った これ ら破官か ら大 庄屋や庄屋 にな った者達は,鰭体制 'D下では藩 当局か らに らまれた とあるが, この内鹿家で も新屋 を建 て売 時それが穀華 であった乃で,韓当局か ら開門を くらってい るの もそ'J31つ'Jj例 で 参ろ うo

家の方 も大庄屋格忙な る と,前 'n例5と収ペ で も一変 して くるO部屋'Jj間取は三 間ずつが 三列並び,長屋 門が設け られ 新屋 も肘属 して地 てられてい るo部屋 も家族用'j3も'jDだけ で

9‑ 5.写真1占.河原 さん,I)家'jB全食 (灘 氏撮影 )

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な く,女 中部屋や下男部 屋 ,そ れ に出入Dの取 人 た ちが泊 る長屋門 も参る。 (ぎ し き )紘 (か (ざ しき )と (在か ざ しさ)'n二つ VUzD, (なん ど )ち(卦 く夜ん ど )と (なん ど )

・n二つ とな る。 出入 口 も冠婚 葬祭 ,J3時 に だけ 使 いふ だん は閉 じて ある (玄関 )と坊 さん たけ が 出入 9す る (坊 さん入 口 )と, ふ だん使 われ る (内玄関 ),それ に事

につ け られた (秦

∩ )が ある。天 井は土間 も含 めてすべ て板 張 9で あるが,土 間以 外 'A天井 は二 歪榊造 てつ (千 ま と )天 井 に覆 ってい るo仏 側は前 'n例5'jつよ うをお しいれ と背中 参わ

せ忙

在 った半独 立的 夜 も,Aではを (,板場 と丑 を敷 い た二丑 を含 め てほほ 四畳 ほ どの独 立 した部 屋 にな って い る○

写束 16は こID家 ,n全 景 で あるが,木 'Jj蔭に75:っていて母 屋 'n方 が エく見え をい'/3が残念 で ある。左に見 え る'Jjが新屋 で ある。 母屋 'J3屋根 牲 このク ラスでは,や

9人母屋進 9 とな 9,

には庇 がつけ られ てい る。 その為 か家 が広

い割

に比 , 上'D屋根 が大 き く見えないo屋 棉 ,jD部分 と庇 'n部分 ,Jj傾斜 が臭 ってVlて, 同一.物 と見え

い 串

に も上る と思 うo これ まで見 て来 た例 には 見 られ なか っ7tも,Dに.写束 で見 られ る 上うな 石垣 が ある。 これ は故地 の 立地 条件に も上る と思われ るが, ま るで娩 'Jj石垣 を思わせ る エうで他 を正 す る忙十分 で あるo

長屋門 (写真

17

) も庄屋 ,大庄屋 ク ラス

V C

を っては じめて見 られ る も'Dで あるo右 ,n方 に見え るY)は部 屋 で,六丑 相 当の部屋 が三 つ あって,そ ,n音 吐 出入 り'Jjこび き聴 ∧や大工 , 植 木屋等 が泊 っていた部屋 だそ うで あるO 現在 では貸間 に してい る。 これが街 中 に ある家で あった ら, これ だけ で もアパー トに使 え るで 参ろ うo門'Jjむ こ うに′」、さ く見え る'J)が母 屋 ,A

9‑ 5・写寅 17. 耳線 を示 す長屋 門

‑500一・・・・

9‑5,写真19.頑強を化濃萩'j3扉

‑ 501‑

9‑ 5. 写寅 18.

曲線 を持 った 新 屋 ,n屋根

内玄 関 で 参る。

写真 1ad.新屋 で あるO と,/j新 屋 忙は 茶室など設け られ ていて, 客用 あるいは 安 ら ぎ,憩い 'n為 ,/)ち,nで あろ うが,写 実 で 見 られ る 上 うに二階 建 てで入母 屋造 A, しか も屋 根 は薗藤 でな く外 側 にそ っ ていo 神 社や寺 (我 々が泊 った妙党寺 '

n屋 根'j3上 う(,rC)では , これ とは逆 に内 側 にそ って棟 もうん と高 くを D,非 常

ス マー トな印象 を受 け るが, こ ゝでは屋 根 が まる く外 に出 てい る為 にずん('D と した感 じを 受け るo何 故 こ,D 上 うな手 法 を とった'Dか はわか らな いが,民 家 とし ては めず ら しい'Dではないか と思 BO L か し これ も女帝 さを表 わ す‑ つ 'jj手 法で

ないか と も思 わ れ,今 は使 われ ていな い'Dで見 る形 もない が, こ'Jj新屋 にはそ うい っ7t点 が多 く見 られろo項:近にを っ

て二階 ,jD屋根丑 を修理 する必要 が あって大 工 に登 って もらった ら,屋根裏 には ピッシ リと柱 がつ ま ってい て∧間 が入れ ない くらい あるそ うで ある。又新屋 に附属 す る便所 には坐 が敷か れ ていたそ うで あるo これ ら も栄華 さを表 わ す例 で 参ろ う こ,Jj上うに と'Jj新屋 が,民 家 と しては諸事VC穀華に出来 てVlたためK,紡 当局 か ら閉門を くらったの で あるo写真 で見 る と 二階は板張 ,D エ うに見え るが, これは雨戸 で 参って内側 には障子 がは め られ てい る,Dで ある。

写真 19は四つ 'JD萩 の うち'J3‑ つ,化生 萩の扉 で あるO と'D蔵 は全 く,D土蔵 で表の扉 も写 真 の 1 うに土で塗 9込 め られ てい る。虜 は こ,n士穀 ,Jjも,rjが‑番外で,未 払 鉄張 D,そ し

てす戸 'jj計四枚 が

ってい る。 こ'Jj激 につ い て紘 お もしろい話 が ある。近年 にな って こ,n土 蔵 が施陣に阻 わ れたが,僻別頑 強 vc出来 てVlた為 につ いに 目的 を兼 さすに逃 げ た ら しい とい ラ,j3で あるoそれは表,jj扉 は四韮 忙な ってか D,古風を鍵 がか ゝつ ていて, とて も泥棒 の手 には負 えなか った'Jjで 参ろ うO‑ ソゴを使 って屋根 姓か ら入 ろ うとした らしいが, こ'D

蔵に

壮屋根 は 参るが まるで士 で出来 た ビル

「 テ 'D 上うな も'Dで・屋根 は上VC'J3せ てあ + るだけ だ とい う○それで止 むを得 ず士

載 ,J3壁 を

くD抜 きK

か ゝった ら しい。 ところが と,D壁 は二重 VTCな ってい て, その間 に砂 を ピ ッシ リとつ めてあった 為

,

壁 に穴 を開け て も上か ら砂 が落 ち て くる'Dで,そ こか ら仕入れない'J)で あるo結局 お手 上げ にな って逃げ た ら しいo泡棒の侵 入 に 上って始 めて知

9

得 た泥価対熊 だ と言 えるO と'Jj化装蔵 '

J)前 には (第

占園参牌 )

, これ まで'J3 例 で紘 見 られなか った (けLlうべや ) が あるo(写真20 ) 写真 に 見え

る鏡 仕後年 'Jjも,Dで あろ うが,そ 'J)他 の引出 しな どは十分時 間を経過 した も 'J)'Jj上 うに見え るO と'Jj(け し 上うべ 千 )は母屋 'Jj義 口 と板 を渡 して通行 出 来 る よ うにな ってい る。

9‑i 写其 20.化装戒 ,I)扉 ,Jj前 に作 られたイ蟻 垂

‑502‑

9‑ 5 写真 21. か くれ天井'J)畳 9ロ

!えrL上 った ら梯 子をあげ る (森 華氏膨 )

写英 2 1は (か くれ天 井 )'D登 DD, 写美 22はそ'n内部 で ある。 と,A (か く れ天 井 )は こ'n家 の一番奥 ま った所 (お (75ん ど )か ら便所 に通 じる廊 下の天井 にわか らない 上うに作 られ てい るO 見た ところ普通'n天井 で あるが,下か ら開け て登 9,上 に あが った ら梯子 をはず して, 上 にか (しふたをすれ ば下か ら紘わか ら ない訳 で あるo上 は割合広 (て 5^や 10

^仕楽 に隠れ る歩 が出来そ うで ある。 こ れ は強訴 な どと,jn家 に一朝事 ある時の為 を考 えて作 られた も'Jjで あろ うが, かそ われ る立場 'Jj者rJ)逃 げ場所 としてお もし ろレヽo

(2)商家 'D場合

写真25は御津町金川'n江 田文二 さ んの家の 見取囲で あるO と'n見取図は おそ ら (家相 見に見 て もら う為'D も'Jj

9‑ 1 写 真 22. か くれ天 井 ,D内部 (森 喪 氏 )

‑585‑

9‑ 5. 写実 25.江田文二 さん,D家rJ3平 面図写井 (藤沢先生撮影 )

で あろ うo家相 見は例5で触 れた ・tう忙, i‑'jD方 向 には何を建 てた ら良い とか悪 い とか を示 唆 す る,Jjで ある. この家は近世後 籾の金 川村 rJj商家 で

,

油屋 を営 なん でいた家 で ある。写共 25で左,n方 の,享 を横 向 きにir・いた所 が.写真24に見える道路 で ある。 これ まで 見て来 た典家 ,Jj様相 と性全 く臭 って くる。先ず家 の位直 も商策 をす る とい う関係か ら道路 に面 した

9‑5. 等美 24.商家 ら しい格子森や生 を 見せ る正 面

‑らD4‑

ものに

D,それに従 って家の向 きもは ゞ東北 にな ってVlるo 図面'Jj上での名 目では南 に向 いてい るように見え るが,入口は北側 しかないので北 向 と考 える。家'j3外観 も変 って くる。 切妻で,間口は道路 に而 して長 (.商売 を しやすvl上 うに広 く取 IJて ある。部屋の間取 D も それに とも在 って異 って くるO と'n家,n担物は写其 25に出てVlものが全部ITはを (,家の 北側即 ち道路 をおいて反対側に米#ヤ触れを建 ててい7㌔

(C) 船頭集落uj家

写真

2

5は近世後脚'Jj御汚町金川 に見 られた船頭銀箔'Jj家で ある。旭川'J3姫防のす ぐうし ろに位催 し,高聯舟 に乗 っていた船郭の家である。良家 と商家 とを較べ て見て, この舟面鏡

91 5.写真25.旭川'Jj埴妨 'J3す ぐ裏VEある船頭集落 'J)家 (藤沢先生撮影 )

港,Jj家が似 ている点 を持 ってい るとすれ ば,外観上商家 に似 てい 右上う忙思われ るO今真 申'j3家を例 に とって見 る と, こ 'n家は中二階 で二階 は物置 にな ってい る〇 人 El,D土 間 と六丑が 一 間四畳 半が二間で や ゝ奥 に長vl家で あ る。家はほゞ東 に向 vLているが,商家 と 同様に方 向には無頓 潜 で ある とい うエi), 立地条件等'jj制約に 上D,そ うい う書 にはか まってかれなか った'jjが実状 で比をVlか と思 う

む す び

以上25枚r/)等寅 と6枚の園を通 して御砕町の民家を追 ってみたが,そ'n主眼壮 あ (まで漁家で ある○従 って枚数 も調査客質 もそれに重点 が荘かれたO民家 とい う場 合何 を指 すJnかそ'n対象 がは っき9 しないo曲家を含 めて商家,船頭典落, あるいは鹿家'D中に も主 に米 茨を作 ってVlる'D も曲 家 で あれば,萄妻をや っている,I)も出家で ある50又時 間的に制限 を考 えなければ,現在建築 され ているサ ラ リー マン1n文化任.宅 も民家VC入 るか も知れをいoしか し民家 について軒かれた本 を見る

‑505‑

と, ど'J3本 に も文化住宅は 出ていないoたいてい古vl良 家 が出てVlるO と'Jjレポー トでは それに従 vl, さらに範 囲を限定 した も'Dに選 点 を置いた。 そ'J)狭 い範 関の中を縦 に見て来 た訳 で あるが,中 層 に位思 す る と思 われ る例は,現在 で も多 く裁 っていてサ ソブルには苦労 しなか ったが,下層 と思 われ る古い家が少 ない'Jjは ど うvlう訳 で あろ うかoこれは, こ'Jjレポー ト'jD範 囲には人 らなVlか も 知 れないが,そ ,Jj理 由,Jj一つ と思われ る も,I)を あげ て終

D

に したVlo

それは,調査対

にな った家 で開いた事 で あるが,大 き在家 VCは土地 も財産 も参ってそ れ以 上'Jj財 を覆す例は あ

9見 られず, 明治以後 壮子 弟'Jj教 育 vcそ 'J)刀を傾け て現状 を維持 す るか没落 す る。

それ に対 し,下層n者は子弟,Jj教育を する余裕 が72VHjjで外 へ働 ら

に出 し,それ が成功 して家を 建 て古vl家は壊 され る とい う'Jjで ある。 む うん小 さい家 では使 う往 な と も粗 末 で あるか ら, vlたむ

・Jjも早いで あろ うo こ,Jj許 ,J3すべ てが美央 で ある と仕官 えないに して も,そ 'Jj一端 を示 してい る と いえ るで あろ うo

(大 下 紀 行 )

‑ 50占‑

第 1 0 章 教 育

第 1節

学校 教 育 の歴 史

1. 県立金川高校,D沿革

明治17年7月,腺下 に 1枚,j3両Lil中年故 に入学 するための予備 学校 として,陶山市府屋町薬 師院内に,私正岡山普通予備学校 が開設 されたo併発年限仕 1年 ITあったo

明治19年5月,学制改革 に 上り,校名を私31噂通学硬 と変更,女子部 も加え られた。

明治2 1年,更に岡山普通学校 と変更,漣常中学校第 1学年 と同等'j3年科 を相投,明治29年 に中辛校合 が改正 されて,苗等小学牧

9す ぐに中学校 に入学 することがで きる 上うにな ってき たので岡山中学校 に入学する もnが渡 って 重たO

明治

32

年,池田頚政 僕,n後攻 を得 て.名 を 「君 に鹿毛

「正 しVIJとVlう意味を もっ.賓虚 字枚 と改め,中学校 5年 まで,J3毎度の学科 を埋れ 剛 J」中学校の4年 に連絡 していたo教員窄成 部は 1年 で あったo

明治5占年,金川村 が中辛按牧舎超奴をひ きうけ. 上( 5 7年 lB,文部省

9開校,J3命を う け て金川 に,私立金 川中学校が開設 された白的敵弾象見境成所は 上(58年尋常小学校正教見習 成所'J3欝可 を うけ たO上級進学に備 えて補習科 も扱け られたo

大正

12

年,町長'Jj管理 'n下 に,而LLJ換金川中等故 として新 たに発足 したが,一時的な対罪 で あD. 上( 15年 1月財団荘∧私正金川 中学校 として発足 したO

昭和22年,学制改革に エP,併 設新制中学校 を増 設 し,御持郡金川町外5ケ村組合正金川 中 学校,D経営委託 を うけ たo 上く25年,学制改革 に よって.岡山瓜金川高等学校 と校名を変更 し, 普通,家庭'J32線程を設置 したoA,一九 晋年学校を統合 して.定時制'jj御印南等芋硬 が設置

されたo

昭和2 7年,上地 移管につVlて組 合金融が もたれ, 2 9年 5月5 1日,実質県立移管 とな D, 簡山県立金川高等学校 とな9,現在にいた っている0

2. 私立早便 として'n特色

金川高等学校は私立 として発足 した○私立 で もろが故,経営 面には,度 々危椴 が あったけれ ど.

しか し,私立 で参るが故 につ ちかわれて きた社風 を忘れ て比な らないo

大正 5年,父服部康雄の あ とをつ ぎ服 部舵

tt金川中学'jj校長に就 任 したO彼は 自由主義を となk,平等 と博愛,I)教育方針 を うちだ した0両‑主喪,I)教育を排 し,∧間を塾忙仕 まった もrJ3 忙仕正 てあけ ることを掩い,個∧ 個∧の個性を帝正 し,それを引 きだ してい く,Jjが教育者,Jj任務

とLてい7t0

‑5ロ7

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