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31人hl人 の郡長
9‑ 5 第6図 河原智弘 さん ,n家 ,I)平 面図
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(C) 上層 とみ られ る住宅構造 例 占. 河原智弘 さんの家
弟占図は御津町細= 'Jj河原智弘 さんの家JJ)平面図で 参ろ。こ,D家は大庄屋で あ
っ
た家 で, 母屋,新屋,四つ'J3蘇.長屋門,それに (士や )や物置な どrJ3‑連の建物,J35つ,Jj部分か ら な っている建物 であるo建鼻年代性,母屋そ ,D他が約 25 8年前 (正徳 の頃か ),新屋 が天 保 (約150年前 )'D も,DであるO との家忙ついて歴史的に見る と,当河原家壮 「津高郡虎 倉城主伊賀久隆JjD被官で,天正占年 (1.578)辛喜多在家 に敬は され た とき,多 く,jB嶺官 とともに舟に乗 って字甘川をT って粧 工 (Lと9 )忙住みつ いた。我官た ち'jj多 Eは加茂郷一 帯 に分散 して帰鹿 し,帝体制,n下で彼等の中に比大 庄屋,庄屋 をつ とめた Dして,由緒 ある 門閥を誇 って土豪的勢力を筒 も現存 してい るもの が相当数 あった
」(「
」内,Jj多 目 i,谷 口 先生'n吉川弘文飴刊
「岡山落」 畔 上もo)字甘川を下 った老壮そ'Jj沿岸 に住 みつ き,河原'Jj 一族 の中で金川
に住んでいる者 もあって,現在 で も紙='Jj河原 さんを本河原 (もとがわ ら )と呼んでい る。前掲 'J3 「簡LL
J 鮮 」
忙 も士穀的性格 を持 った これ ら破官か ら大 庄屋や庄屋 にな った者達は,鰭体制 'D下では藩 当局か らに らまれた とあるが, この内鹿家で も新屋 を建 て売 時それが穀華 であった乃で,韓当局か ら開門を くらってい るの もそ'J31つ'Jj例 で 参ろ うo家の方 も大庄屋格忙な る と,前 'n例5と収ペ で も一変 して くるO部屋'Jj間取は三 間ずつが 三列並び,長屋 門が設け られ 新屋 も肘属 して地 てられてい るo部屋 も家族用'j3も'jDだけ で
9‑ 5.写真1占.河原 さん,I)家'jB全食 (灘 氏撮影 )
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な く,女 中部屋や下男部 屋 ,そ れ に出入Dの取 人 た ちが泊 る長屋門 も参る。 (ぎ し き )紘 (か (ざ しき )と (在か ざ しさ)'n二つ VUzD, (なん ど )ち(卦 く夜ん ど )と (なん ど )
・n二つ とな る。 出入 口 も冠婚 葬祭 ,J3時 に だけ 使 いふ だん は閉 じて ある (玄関 )と坊 さん たけ が 出入 9す る (坊 さん入 口 )と, ふ だん使 われ る (内玄関 ),それ に事
例
につ け られた (秦∩ )が ある。天 井は土間 も含 めてすべ て板 張 9で あるが,土 間以 外 'A天井 は二 歪榊造 てつ (千 ま と )天 井 に覆 ってい るo仏 側は前 'n例5'jつよ うをお しいれ と背中 参わ
せ忙
在 った半独 立的 夜 も,Aではを (,板場 と丑 を敷 い た二丑 を含 め てほほ 四畳 ほ どの独 立 した部 屋 にな って い る○写束 16は こID家 ,n全 景 で あるが,木 'Jj蔭に75:っていて母 屋 'n方 が エく見え をい'/3が残念 で ある。左に見 え る'Jjが新屋 で ある。 母屋 'J3屋根 牲 このク ラスでは,や
比
9人母屋進 9 とな 9,軒
には庇 がつけ られ てい る。 その為 か家 が広い割
に比 , 上'D屋根 が大 き く見えないo屋 棉 ,jD部分 と庇 'n部分 ,Jj傾斜 が臭 ってVlて, 同一.物 と見えない 串
に も上る と思 うo これ まで見 て来 た例 には 見 られ なか っ7tも,Dに.写束 で見 られ る 上うな 石垣 が ある。 これ は故地 の 立地 条件に も上る と思われ るが, ま るで娩 'Jj石垣 を思わせ る エうで他 を正 す る忙十分 で あるo長屋門 (写真
17
) も庄屋 ,大庄屋 ク ラスV C
を っては じめて見 られ る も'Dで あるo右 ,n方 に見え るY)は部 屋 で,六丑 相 当の部屋 が三 つ あって,そ ,n音 吐 出入 り'Jjこび き聴 ∧や大工 , 植 木屋等 が泊 っていた部屋 だそ うで あるO 現在 では貸間 に してい る。 これが街 中 に ある家で あった ら, これ だけ で もアパー トに使 え るで 参ろ うo門'Jjむ こ うに′」、さ く見え る'J)が母 屋 ,A9‑ 5・写寅 17. 耳線 を示 す長屋 門
‑500一・・・・
9‑5,写真19.頑強を化濃萩'j3扉
‑ 501‑
9‑ 5. 写寅 18.
曲線 を持 った 新 屋 ,n屋根
内玄 関 で 参る。
写真 1ad.新屋 で あるO と,/j新 屋 忙は 茶室など設け られ ていて, 客用 あるいは 安 ら ぎ,憩い 'n為 ,/)ち,nで あろ うが,写 実 で 見 られ る 上 うに二階 建 てで入母 屋造 A, しか も屋 根 は薗藤 でな く外 側 にそ っ ていろo 神 社や寺 (我 々が泊 った妙党寺 '
n屋 根'j3上 う(,rC)では , これ とは逆 に内 側 にそ って棟 もうん と高 くを D,非 常
作
ス マー トな印象 を受 け るが, こ ゝでは屋 根 が まる く外 に出 てい る為 にずん('D と した感 じを 受け るo何 故 こ,D 上 うな手 法 を とった'Dか はわか らな いが,民 家 とし ては めず ら しい'Dではないか と思 BO L か し これ も女帝 さを表 わ す‑ つ 'jj手 法で抹ないか と も思 わ れ,今 は使 われ ていな い'Dで見 る形 もない が, こ'Jj新屋 にはそ うい っ7t点 が多 く見 られろo項:近にを っ
て二階 ,jD屋根丑 を修理 する必要 が あって大 工 に登 って もらった ら,屋根裏 には ピッシ リと柱 がつ ま ってい て∧間 が入れ ない くらい あるそ うで ある。又新屋 に附属 す る便所 には坐 が敷か れ ていたそ うで あるo これ ら も栄華 さを表 わ す例 で 参ろ う。 こ,Jj上うに と'Jj新屋 が,民 家 と しては諸事VC穀華に出来 てVlたためK,紡 当局 か ら閉門を くらったの で あるo写真 で見 る と 二階は板張 ,D エ うに見え るが, これは雨戸 で 参って内側 には障子 がは め られ てい る,Dで ある。
写真 19は四つ 'JD萩 の うち'J3‑ つ,化生 萩の扉 で あるO と'D蔵 は全 く,D土蔵 で表の扉 も写 真 の 1 うに土で塗 9込 め られ てい る。虜 は こ,n士穀 ,Jjも,rjが‑番外で,未 払 鉄張 D,そ し
てす戸 'jj計四枚 が
入
ってい る。 こ'Jj激 につ い て紘 お もしろい話 が ある。近年 にな って こ,n土 蔵 が施陣に阻 わ れたが,僻別頑 強 vc出来 てVlた為 につ いに 目的 を兼 さすに逃 げ た ら しい とい ラ,j3で あるoそれは表,jj扉 は四韮 忙な ってか D,古風を鍵 がか ゝつ ていて, とて も泥棒 の手 には負 えなか った'Jjで 参ろ うO‑ ソゴを使 って屋根 姓か ら入 ろ うとした らしいが, こ'D蔵に
壮屋根 は 参るが まるで士 で出来 た ビル「 テ 'D 上うな も'Dで・屋根 は上VC'J3せ てあ + るだけ だ とい う○それで止 むを得 ず士
載 ,J3壁 を
くD抜 きK
か ゝった ら しい。 ところが と,D壁 は二重 VTCな ってい て, その間 に砂 を ピ ッシ リとつ めてあった 為,
壁 に穴 を開け て も上か ら砂 が落 ち て くる'Dで,そ こか ら仕入れない'J)で あるo結局 お手 上げ にな って逃げ た ら しいo泡棒の侵 入 に 上って始 めて知9
得 た泥価対熊 だ と言 えるO と'Jj化装蔵 '
J)前 には (第
占園参牌 )
, これ まで'J3 例 で紘 見 られなか った (けLlうべや ) が あるo(写真20 ) 写真 に 見える鏡 仕後年 'Jjも,Dで あろ うが,そ 'J)他 の引出 しな どは十分時 間を経過 した も 'J)'Jj上 うに見え るO と'Jj(け し 上うべ 千 )は母屋 'Jj義 口 と板 を渡 して通行 出 来 る よ うにな ってい る。
9‑i 写其 20.化装戒 ,I)扉 ,Jj前 に作 られたイ蟻 垂
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9‑ 5 写真 21. か くれ天井'J)畳 9ロ
!えrL上 った ら梯 子をあげ る (森 華氏膨 )
写英 2 1は (か くれ天 井 )'D登 DD, 写美 22はそ'n内部 で ある。 と,A (か く れ天 井 )は こ'n家 の一番奥 ま った所 (お (75ん ど )か ら便所 に通 じる廊 下の天井 にわか らない 上うに作 られ てい るO 見た ところ普通'n天井 で あるが,下か ら開け て登 9,上 に あが った ら梯子 をはず して, 上 にか (しふたをすれ ば下か ら紘わか ら ない訳 で あるo上 は割合広 (て 5^や 10
^仕楽 に隠れ る歩 が出来そ うで ある。 こ れ は強訴 な どと,jn家 に一朝事 ある時の為 を考 えて作 られた も'Jjで あろ うが, かそ われ る立場 'Jj者rJ)逃 げ場所 としてお もし ろレヽo
(2)商家 'D場合
写真25は御津町金川'n江 田文二 さ んの家の 見取囲で あるO と'n見取図は おそ ら (家相 見に見 て もら う為'D も'Jj
9‑ 1 写 真 22. か くれ天 井 ,D内部 (森 喪 氏膨 )
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9‑ 5. 写実 25.江田文二 さん,D家rJ3平 面図写井 (藤沢先生撮影 )
で あろ うo家相 見は例5で触 れた ・tう忙, i‑'jD方 向 には何を建 てた ら良い とか悪 い とか を示 唆 す る,Jjで ある. この家は近世後 籾の金 川村 rJj商家 で
,
油屋 を営 なん でいた家 で ある。写共 25で左,n方 の,享 を横 向 きにir・いた所 が.写真24に見える道路 で ある。 これ まで 見て来 た典家 ,Jj様相 と性全 く臭 って くる。先ず家 の位直 も商策 をす る とい う関係か ら道路 に面 した9‑5. 等美 24.商家 ら しい格子森や生 を 見せ る正 面
‑らD4‑
ものに
を
D,それに従 って家の向 きもは ゞ東北 にな ってVlるo 図面'Jj上での名 目では南 に向 いてい るように見え るが,入口は北側 しかないので北 向 と考 える。家'j3外観 も変 って くる。 切妻で,間口は道路 に而 して長 (.商売 を しやすvl上 うに広 く取 IJて ある。部屋の間取 D も それに とも在 って異 って くるO と'n家,n担物は写其 25に出てVlものが全部ITはを (,家の 北側即 ち道路 をおいて反対側に米#ヤ触れを建 ててい7㌔(C) 船頭集落uj家
写真
2
5は近世後脚'Jj御汚町金川 に見 られた船頭銀箔'Jj家で ある。旭川'J3姫防のす ぐうし ろに位催 し,高聯舟 に乗 っていた船郭の家である。良家 と商家 とを較べ て見て, この舟面鏡91 5.写真25.旭川'Jj埴妨 'J3す ぐ裏VEある船頭集落 'J)家 (藤沢先生撮影 )
港,Jj家が似 ている点 を持 ってい るとすれ ば,外観上商家 に似 てい 右上う忙思われ るO今真 申'j3家を例 に とって見 る と, こ 'n家は中二階 で二階 は物置 にな ってい る〇 人 El,D土 間 と六丑が 一 間四畳 半が二間で や ゝ奥 に長vl家で あ る。家はほゞ東 に向 vLているが,商家 と 同様に方 向には無頓 潜 で ある とい うエi), 立地条件等'jj制約に 上D,そ うい う書 にはか まってかれなか った'jjが実状 で比をVlか と思 う○
む す び
以上25枚r/)等寅 と6枚の園を通 して御砕町の民家を追 ってみたが,そ'n主眼壮 あ (まで漁家で ある○従 って枚数 も調査客質 もそれに重点 が荘かれたO民家 とい う場 合何 を指 すJnかそ'n対象 がは っき9 しないo曲家を含 めて商家,船頭典落, あるいは鹿家'D中に も主 に米 茨を作 ってVlる'D も曲 家 で あれば,萄妻をや っている,I)も出家で ある50又時 間的に制限 を考 えなければ,現在建築 され ているサ ラ リー マン1n文化任.宅 も民家VC入 るか も知れをいoしか し民家 について軒かれた本 を見る
‑505‑
と, ど'J3本 に も文化住宅は 出ていないoたいてい古vl良 家 が出てVlるO と'Jjレポー トでは それに従 vl, さらに範 囲を限定 した も'Dに選 点 を置いた。 そ'J)狭 い範 関の中を縦 に見て来 た訳 で あるが,中 層 に位思 す る と思 われ る例は,現在 で も多 く裁 っていてサ ソブルには苦労 しなか ったが,下層 と思 われ る古い家が少 ない'Jjは ど うvlう訳 で あろ うかoこれは, こ'Jjレポー ト'jD範 囲には人 らなVlか も 知 れないが,そ ,Jj理 由,Jj一つ と思われ る も,I)を あげ て終
D
に したVloそれは,調査対
魚
にな った家 で開いた事 で あるが,大 き在家 VCは土地 も財産 も参ってそ れ以 上'Jj財 を覆す例は あま
9見 られず, 明治以後 壮子 弟'Jj教 育 vcそ 'J)刀を傾け て現状 を維持 す るか没落 す る。それ に対 し,下層・n者は子弟,Jj教育を する余裕 が72VHjjで外 へ働 ら
生
に出 し,それ が成功 して家を 建 て古vl家は壊 され る とい う'Jjで ある。 む うん小 さい家 では使 う往 な と も粗 末 で あるか ら, vlたむ・Jjも早いで あろ うo こ,Jj許 ,J3すべ てが美央 で ある と仕官 えないに して も,そ 'Jj一端 を示 してい る と いえ るで あろ うo
(大 下 紀 行 )
‑ 50占‑
第 1 0 章 教 育
第 1節
学校 教 育 の歴 史1. 県立金川高校,D沿革
明治17年7月,腺下 に 1枚,j3両Lil中年故 に入学 するための予備 学校 として,陶山市府屋町薬 師院内に,私正岡山普通予備学校 が開設 されたo併発年限仕 1年 ITあったo
明治19年5月,学制改革 に 上り,校名を私31噂通学硬 と変更,女子部 も加え られた。
明治2 1年,更に岡山普通学校 と変更,漣常中学校第 1学年 と同等'j3年科 を相投,明治29年 に中辛校合 が改正 されて,苗等小学牧
上
9す ぐに中学校 に入学 することがで きる 上うにな ってき たので岡山中学校 に入学する もnが渡 って 重たO明治
32
年,池田頚政 僕,n後攻 を得 て.名 を 「君 に鹿毛」
「正 しVIJとVlう意味を もっ.賓虚 字枚 と改め,中学校 5年 まで,J3毎度の学科 を埋れ 剛 J」中学校の4年 に連絡 していたo教員窄成 部は 1年 で あったo明治5占年,金川村 が中辛按牧舎超奴をひ きうけ. 上( 5 7年 lB,文部省
上
9開校,J3命を う け て金川 に,私立金 川中学校が開設 された白的敵弾象見境成所は 上(58年尋常小学校正教見習 成所'J3欝可 を うけ たO上級進学に備 えて補習科 も扱け られたo大正
12
年,町長'Jj管理 'n下 に,而LLJ換金川中等故 として新 たに発足 したが,一時的な対罪 で あD. 上( 15年 1月財団荘∧私正金川 中学校 として発足 したO昭和22年,学制改革に エP,併 設新制中学校 を増 設 し,御持郡金川町外5ケ村組合正金川 中 学校,D経営委託 を うけ たo 上く25年,学制改革 に よって.岡山瓜金川高等学校 と校名を変更 し, 普通,家庭'J32線程を設置 したoA,一九 晋年学校を統合 して.定時制'jj御印南等芋硬 が設置
されたo
昭和2 7年,上地 移管につVlて組 合金融が もたれ, 2 9年 5月5 1日,実質県立移管 とな D, 簡山県立金川高等学校 とな9,現在にいた っている0
2. 私立早便 として'n特色
金川高等学校は私立 として発足 した○私立 で もろが故,経営 面には,度 々危椴 が あったけれ ど.
しか し,私立 で参るが故 につ ちかわれて きた社風 を忘れ て比な らないo
大正 5年,父服部康雄の あ とをつ ぎ服 部舵
姓
tt金川中学枚'jj校長に就 任 したO彼は 自由主義を となk,平等 と博愛,I)教育方針 を うちだ した0両‑主喪,I)教育を排 し,∧間を塾忙仕 まった もrJ3 忙仕正 てあけ ることを掩い,個∧ 個∧の個性を帝正 し,それを引 きだ してい く,Jjが教育者,Jj任務とLてい7t0
‑5ロ7‑