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2. レオナルド・シャーシャとジャーナリズム

2.3. 全国紙での仕事

2.3.1.飛躍的に広がる作家活動49

シャーシャは、『オーラL’Ora』や『ウニタ L’Unità』『リナッシタ Rinascita』とい った特徴のある媒体に加えて、より一般的に普及した媒体にも本格的に関わり始める。

1969 年からイタリアで最も読まれている全国紙『コッリエーレ・デッラ・セーラ Corriere della sera』、1970年からスイス・イタリア語圏の『コッリエーレ・デル・テ ィチーノCorriere del Ticino』、1972年から全国紙『ラ・スタンパLa Stampa』、その 他に、地方紙の『シチリア日報Gionarle di Sicilia』や『南部イタリア新聞La Gazzetta del Mezzogiorno』、ジェノヴァの新聞『19世紀 Il Secolo XIX』、全国紙『レプッブリカ La Repubblica』、週刊誌『エスプレッソL’Espresso』『エポカEpoca』などへの執筆も 多数行っている。(Traina 1999:124-127)

こうして活動の場を全国へと広げて著名な作家になっていった。新聞ではコラム欄 rubricaも担当した。『オーラ L’Ora』での“雑記帳 Quaderno” “余談と一致 Incidenze

& coincidenze”や、『コッリエーレ・デッラ・セーラ』における“黒を重ねる Nero su

nero”“辞典Dizionario”、『ラ・スタンパ』の“雑記帳Taccuino”もしくは“シャーシャの雑

記帳 Taccuino di Sciascia”、『コッリエーレ・デル・ティチーノ』の“手動印刷機 Il

torcoliere”、『エスプレッソ』の“事典L’enciclopedia”がある。(Traina 1999: 124-125) 1969年2月ジョヴァンニ・スパドリーニGiovanni Spadoliniに誘われて『コッリエ ーレ・デッラ・セーラ』に書き始めた。そしてスパドリーニが1972年に編集長を降り るとともに、『ラ・スタンパ』に書き始める。1970年代はシャーシャにとって政治と結 びついた作品が多かった。作品もまた『権力の朝 Il contesto』(1971年)、『トード・モ ード Todo modo』(1974年)、『マヨラナの失踪 La scomparsa di Majorana』(1975

48 マリオ・アリカータ(1918-1966) レッジョ・カラブリア生まれる。ローマ版『ウニタ』に 執筆し、1962年にはミラノ・ローマ統一版の編集長に任命された。晩年は、1966年アグリ ジェントで起こった建物崩壊という大参事について、安全性を無視した手抜き工事に原因が あるとし行政責任を追及した。La frana di Agrigento e l’appello all virtù, in «Rinascita», Roma, XXIII,47, 1 dicenbre 1967, pp.26-27 および

http://guida.archivigramsci.it/index.php?option=com_content&view=article&id=3&Itemid

=792参照。

49 この項は特にTraina 2009を参照。

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年)、『モーロ事件 L’affaire Moro』(1978年)など政治的・社会的にも物議をかもした 作品が並ぶ。(OAⅡ: XXXⅦ-XXXⅢ)

そしてまたシャーシャ自らが政治に関わっていく。1975 年パレルモ市議会議員の候 補リストに挙げられる。1978年モーロが誘拐・殺害事件が起こると、1979年急進党か ら立候補し1983年まで下院議員を務め、「モーロ事件真相究明委員会」の一員になる。

政治活動に加えて加速度的に執筆の場と社会的活動範囲が広がっていった時期である。

より近接した距離で政治を描いており、作品に伴って論争も多くなったことは注目の現 れでもあり、知名度・影響力を示している。

新聞のコラム欄に残した執筆活動をまとめたものが、1979 年エイナウディ社より出 版された『黒を重ねるNero su nero』を始めとする評論・エッセイ集である。『黒を重 ねる』は大部分が1969年からの『コッリエーレ・デッラ・セーラ』『スタンパ』『オー ラ』に載せた記事で構成されている。構成記事は1969~1972年『コッリエーレ・デッ ラ・セーラ』掲載分、1972~1977年『ラ・スタンパ』掲載分、1978年『オーラ』掲載 分である。1979年5月原稿入稿し、1979年9月に出版されている。(OAⅡ:1389-1418)

『黒を重ねる』について、シャーシャは次のように言及している。

私にとって大変意味のある本だ。人生10 年間という意味で。ユーモア、不機嫌、

選択、憂鬱、論争といったものを映し出す。そして1969年以降に書いた本全てを 観念的には内包する本である。Un libro che per me significa molto: dieci anni di vita, uno specchio di umori, di malumori, di scelte, di malinconia, di polemiche.

Un libro che può anche contenere, e idealmente contiene, tutti i libri che ho scritto dal’69 in poi... (OAⅡ: 1391)

『黒を重ねる』にはモデルがあり、それはジュール・ルナールの『ジャーナルJournal』 であったが、最終的にはヴィットリーニの『公開日記Diario in pubblico 50』に近くな ったと述べている。多忙を極めた中で残した1970年代の記録である。『黒を重ねる』つ まり<黒の上に黒Nero su nero>は「現実の黒いページに書かれる黒い文字」を意味す る。イタリア語には「(契約書などに)明記するmetter nero su bianco」という成句が

50 一方で、ブランカーティの『ローマの日記 Diario romano』の重要性と日記形式の影響を述 べる論文もある。(OAⅡ: 1390)

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ある。「白に黒を重ねるNero su bianco」としたが、より悲観的に表現したかったので

「黒を重ねる」になり風刺的な意図があったと、1979年9月12日掲載の『シチリア日 報』のインタビューで答えている。(AOⅡ:1390)。

『黒を重ねる』で取り上げられているテーマは様々である。トライナが指摘するよう に、新聞のコラム欄ではジャーナリスティックなテーマや論調は抑えられており、文学 や演劇などについて述べている(Traina2009: 124-125)。しかし小説のテーマや社会活 動においては「政治への接近」が特徴として挙げられる。

2.3.2.劇場の幕としての新聞

シャーシャにとってジャーナリズムとは何だったのか。読者でもあり書き手でもあっ た。さらには新聞の書き手であると同時に、作品に新聞を滑り込ませ、その新聞の思想 や社会的状況までも描いてきた作家であった。

シャーシャは新聞を〈幕sipario〉に例えている。

新聞を読むと暗い気持ちになる。まさに新聞やジャーナリズムについて暗い気 持ちになるのだ。新聞は幕のように私の前に現れる。より正確にいうと、背後で 動くものや、そこにある物体、準備される場面といったものをいくらか予見させ る緞帳のようだ。慣れた目や、鍛えられた目を必要とする。鋭さということでは ない。それだけでは十分ではないのだから。経験すること。皆が持っている経験 によるのだ。

そして新聞は恐ろしく均一である。いくらかの違いを、事実についての書かれ たもののなかに掴めるだろう。しかし事実の判断についての違いはまれである。

もちろん最も流布している新聞について言っている。小さい新聞やそれほど流布 していない新聞では、新聞よって事実への評価は変わる。我々は小さい新聞やあ まり普及していない新聞を読むことを習慣化し、印刷部数の多い新聞をおろそか にすべきなのだろうか?

不確定な恐れが新聞を苦しめているようだ。方針を持つと言う恐れや、正確な 判断で事件を取り上げるという恐れ。誰か・何かの得になる動きをすることへの

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恐れ、危険な審議にかけることの恐れ、確実なものを掴むという恐れ、望む安全 がわずかばかりの危険な場所に身を置くことを恐れるかのようだ。実際、最大の 危険がまさにここにある。つまり危険への恐れをもつこと自体が危険なのだ。

La lettura dei giornali mi dà neri pensieri. Neri pensieri sui giornali appunto, sul giornalismo. I giornali mi si parano davanti come un sipario. Più esattamente come un velario, poiché qualcosa di quel che si muove dietro, degli oggetti che ci stanno, della scena che si prepara, la lasciano intravedere. Solo che ci vuole un occhio abituato, un occhio allenato. Non acuto, ché non basta.

Esperiente. Di un’esperienza che tutti hanno.

C’è poi, impressionante, l’uniformità. Qualche differenza nel riferire i fatti si può cogliere. Ma raramente nel giudizio sui fatti. Parlo, naturalmente, dei giornali più diffusi. Tra i piccoli e meno diffusi, la valutazione dei fatti muta da giornale a giornale. Dovremmo abituarci a leggere i piccoli meno diffusi e a trascurare quelli dalle alte tirature?

Una indefinita paura sembra attanagliare i giornali. La paura di avere una linea, di assumere i fatti in un giudizio preciso. È come la paura di fare il giuoco di qualcuno o di qualcosa, di mettere in discussione quel che è pericoloso discutere, in pericolo quel po’ di sicurezza cui ci si vuole aggrappare. E in realtà il maggior pericolo sta appunto in questo: nell’aver paura di un pericolo).

1978年7月13日『オーラ』、 p.1

『黒を重ねる』 所収(OAⅡ:1094)

この文章は『黒を重ねる』に収録されたが、元は『オーラ』に掲載された記事である。

新聞によって生じる論調の違いや、取り上げるテーマの違い、それはシャーシャ自身が 書き手としての経験したものであろう。小さい新聞やあまり流布していない新聞とは、

『オーラ』『ウニタ』『リナッシタ』のような媒体であり、大きな新聞とは『コッリエー レ・デッラ・セーラ』『ラ・スタンパ』『シチリア日報』などである。発表媒体が大きく なるほど、均一的で論調が抑えられていくことを指摘している。有名な新聞が伴う一種 の制約は、シャーシャの作家活動にも言える。

さらに興味深いのは、ジュゼッペ・アントニオ・ボルジェーゼ Giuseppe Antonio

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Borgese (1882- 1952 年)についての『若き作家の肖像のために Per un ritratto dello scrittore da giovane』(1985年)という評伝である。ボルジェーゼの叔父が保存してい た若きアントニオの手紙を元に構成させている。パレルモにほど近いポリッツィ

Polizzi で過ごした幼少期から、パレルモ大学での生活やその後の執筆活動を文学やジ

ャーナリズムとの関わりから追っている。ボルジェーゼの手紙から、シャーシャが 12 歳の頃に初めて見た1932年のパレルモと、ボルジェーゼが 12 歳の頃に見た 1884年 のパレルモにを比較し、当時の生き方、習慣、行動を教えてくれるものとして興味深く 読み、その差が最小限であることを記している。ボルジェーゼは19世紀初頭に『オー ラ』でも執筆していた。『オーラ』が創刊して間もない頃である。この評伝のなかでシ ャーシャは、ボルジェーゼが“文人ジャーナリストgiornalista letterario”になりたかっ たのだ、と説く。そしてボルジェーゼが“文芸ジャーナリズムgiornalismo letterario”を 作りたいと思っていたのだ、と記す。敬愛するヴィタリアーノ・ブランカーティ

Vitaliano Brancatiとも親交のあった、この著名なジャーナリスト、文芸批評家、作家

でもあったボルジェーゼは、ジャーナリズムの隆盛期を支えた人物である。シャーシャ の中にはいつも南部イタリアの知識人への意識がある。それは彼らへのオマージュでも あり自ら受け継ぐ血でもある。

小結

シャーシャにとって新聞は、「批判的読者=観察者」と「書き手」の二重の意味合い を持つ。読み手として、新聞を劇場の〈幕 sipario〉に例え、その背後で動くめくもの や、準備される場面を予見する目が必要だと述べた。これは「作家は真実を直観的に見 抜くものだ」と言ったシャーシャの言葉にもつながる。全国的に有名になっていくなか で書き手としての制約を受けながらも、時には読者と対話し、見えない読者にも発信し 続けた。

シャーシャの文学の傍らには、いつも共産党に対する親近感とジャーナリズムとの関 わりがあった。第1にカルタニセッタでの反ファシストの知識人たちとの出会いである。

反ファシストの意識は南部イタリア解放過程のなかでで共産党の果たした役割とも結 びついている。第2に1955年からの『オーラ』への執筆である。それまで『ガッレリ