図11. [2009年新しいハワイアン・ホールの展示より poi pounder: 筆者撮影]
5-1 ポストコロニアルの表象批判と博物館における先住民表象の一考察 ポストコロニアルの文化表象批判において、博物館の展示は表象行為の根源にあ る眼差しの仕組みを問われ、他者の文化を展示・表象することの政治性と厳しく向 き合わなくてはならなかった。真正性の創出やイメージの構築といった表象行為の 側面は、権力者の要請に応えながら展示される先住民のイメージを再生産する場と なってきたという批判的考察に対して、文化生成論や先住民自身の反論が論じられ てきた。こうした表象批判に対して、民族の文化や歴史を表象する場としての博物
92
館は、脱コロニアリズムの道程をどのように進んできたか。ポストコロニアルの博 物館の試みとして不可欠の要素は、過去に支配者に押し付けられた「他者」像を修 正し、真の「自己」像を築こうとする先住民の参加である166。(Clifford 1997、荻野 2002)植民地主義のもとで一方的に所有され、分類され、展示されたマイノリティ の文化が、「自らを語る場所」として展示という舞台を創造し始めたという現象は、
ポストモダンの博物館の潮流となってきた。文化人類学者の眼には、多くの場合そ ういった活動は「文化の再生産」の議論の対象となるか、あるいは植民地主義の中 の力関係を真から覆す試みとはなり得ていないと映っている。(荻野2002: 379, 383)
「文化遺産産業」と「アイデンティティ政治」の批判者たちから見れば、こうした 展開はポストモダンの「表層的な文化政治」に特徴的なものということになるのか もしれない。(Clifford 2004:122)また、「文化的商品」化のグローバルなシステムが 働いていることに疑問の余地はないだろう。しかし、それらをすべて含めて、文化 の「再生産」ではなく「節合」という不断の分離と融合のプロセスであるとする考 え方をクリフォードは提唱するのである167。
クリフォードはRoutes (1997)において、この文化の「接合」を可能にする博物 館・美術館を「接触地帯 “contact zone”」として考え、そこにおいて異議申し立てや 協同作業が開かれていくことを期待する。(Clifford 1997:218-250)多様な「観衆」
がもたらす「様々に異なる―美学的、歴史的、政治的な―工程表」を可視化し、多 様化する広範なオーディエンス、ミュージアムの展示活動によって何らかの政治 的・経済的影響力を受ける社会やビジネス、ミュージアムのスタッフなど、博物館 に関わる様々な人々のマルチプルな視点を巻き込むものであることを認識している。
ポストモダンの博物館「ポスト・ミュージアム」の教育性に注目したフーパー・グ リーンヒルHooper-Greenhillも同様に、ポストモダンの博物館は権威的な叙述
(“authoritative meta-narrative”)を一方的に提示するために展示を使うのではなく、
複合的なオーディエンスやコミュニティに対して、各々の多様な経験、知識、価値 観、思想を引き出す手法やコミュニケーションの機会を提供し、そこから生まれる 多角的な解釈について、最終的にはオーディエンスと相互に交渉し合う作業ができ る場になるべきだとしている。(Hooper-Greenhill 2000:103-123)それは、多様化する 社会とともに民族博物館のアイデンティティもまた多面的、複雑なものとなること こそが脱植民地化のひとつの試みであることを意味している。以前にサイードは、
この試みについて、「再構築を通じて脱植民地化をはかるこの修正主義的なプロセス は、いかなるショーヴィニズムや土着主義のプロジェクトをも擁護するものではな く、異種混在性や雑種性をあらためて活用しながら、みずからの歴史を国家の枠を
166 アメリカ本土の博物館は、1970年代以降の市民運動や民族運動のイデオロギーにあわせて、「エン ターテイメント」から「エス二シティ」へとその視点を変化させてきた。その意味で、ポストモダン のミュージアムの「まなざし」の転換は民族運動の結果として可能となった政治的イデオロギーのレ ボリューションというよりむしろ、ミュージアムをとりまく社会的・経済的環境の変質に対応するた めの現実策でもあったという側面もある、とハリソンは指摘する。(Harrison 1994)
167「接合」という概念はスチュアート・ホールの提唱するカルチュラル・スタディーズの伝統から引 用されている。文化の「節合」とは「ひとまとまりの要素がまとめあわされてひとつの文化的一体性 を作りあげていると同時に…葛藤を通じての分離のプロセス」である。(Clifford 2004)
93
超えた立場からより納得のいく形で理解することを目指す解放運動」だと述べてい る。(Said 1979)
先住民を含むマルチプルな視点が新しく導入されるとき、問題になることのひと つは「先住民の文化や歴史をあつかう展覧会(展示)では、必ずその一部として、
現 在 の 政 治 問 題 や 社 会 闘 争 に 注 意 を は ら わ な け れ ば な ら な い の か 」(Clifford 2004:235)という博物館にとって刺激的な課題であり、さらには博物館の展示は「政 治的中立性を主張できるのか」という問いであろう。もしも博物館が真に脱植民地 主義をめざす過程で新たな役割を見出すとすれば、「先住民をめぐる当該社会の問題 が先住民の言葉で語られる展示でなくてはならない」し、「‘展示’の演出の存在を相 対化する視線に立った展示」(荻野 2002:384)を創出することにより政治的中立性 というのが可能になるとする考えもある168。
先住民の展示に関して博物館と先住民コミュニティが共同で展示を創るという新 しいポストコロニアルの取り組みは、グローバルな博物館界では1980年代から始ま り、先住民コミュニティが「博物館制度を再領有するプロセス」(Clifford 1997:222, 243)として、北米の主要博物館では先住民を含む歴史の表象を構築する作業に欠か せないアプローチとなってきている169。そうした作業では、植民地支配下での先住 民の経験を先住民が語るという手法の導入や、先住民文化を単一の固定的な形式で はなく多様な活動として捉える解釈が意識されていることが伺える。例えば、ブリ ティッシュ・コロンビア大学人類学博物館(UBC Museum of Anthropology)におけ る2009年の改装プロジェクトでは、博物館をクリフォードのいう「接触領域」とし て捉え、コミュニティ・先住民・非先住民である博物館学芸員や教育担当者の間の
「異なる知識や経験を出会わせ、歴史的な力関係を変え、西洋美学や博物館学とい った学問的枠組みを超えて資料を解釈」しようとする新しい視点を取り入れた。そ れは「非先住民に対する先住民」という二元的な枠組みの中での共同でもなければ、
先住民の解釈が絶対的なものでもない、様々な垣根を越えようとする試み、すなわ ち「境界」の博物館学であり、いまだ「乱雑で流動的」な進行中の作業であるとい う。(Baird 2009:51-56)
一方これら国家レベルの博物館の取り組みとは別に、クリフォードは「部族(tribal)
ミュージアム」として1980年に開設されたウミスタ文化センター(U`mista Cultural Society)を観察し、その構築は先住民コミュニティが「部族の反=植民地的な歴史 を物語るという目的のために、(博物館という)西洋の支配的制度を変容させた」姿 を紹介した。(Clifford 1997:243)ウミスタでは、「陳列」と「使用」という二つの機
168 ビショップ博物館の展示改変に伴う新しい展開でも、この課題はひとつの焦点になったと考えられ、
主要な変化が観察される。
169 例えば、カナダ文明博物館(Canadian Museum of Civilization)の先住民ホールThe First Peoples’ Hall は、学芸員と先住民から構成される特別委員会の12年間の共同作業で構築され、2003年に開館した。
館長のラフォレLaforetは、「権威・効率・権力」という概念がつきまとう博物館の性質を省みる意味 でも、先住民との共同作業という根本的理念においても「道を照らす」道程であったと誇らしく述べ ている。(Laforet 2008)しかし、この論文“We are Still Here!”(我々はここに生きている!)の響きは、
「先住民の言葉と声によってこそ展示が構築されなくてはならない」という委員会が最重視したテー マが表れているというよりも、この作業が脱植民地主義の道程のまだ一段階であることを示す悲痛な 叫びに聞えないこともない。
94
能を結合させ、文化遺産を「部外者」と「部内者」の双方に対してそれぞれ違った 仕方で演出した点が注目される。また、そこでは従来の「伝統的」部族工芸品に拘 らない新しい「伝統」文化の工芸品が先住民の手によって制作されている170。それ らは「節合された」伝統171であり、こうして、「アイデンティティを演出すること、
文化ゲームを演じることは、ポストモダンの時代の中で生きているということ」だ として、クリフォードは肯定するのである。(Clifford 2004:130)
北米の先住民が関わる展示に新たな実践が試みられているこうした事例は、「既存 の国家的ミュージアムの脱中心化」にしろ、「オルターナティブなミュージアム」に しろ「接触領域」としての博物館が始動していることの証しである。
こうしたポストコロニアル表象の変容の中で、過去において必要とされた「他者」
像に代わって、自らが創る新たな「他者(自己)」像と、それをめぐる歴史や社会へ の新たな解釈が構築されるかもしれない。それが展示という表象の舞台で本質的政 治性をどのように取り込み、どのような語りを創出していくのかをここでは問題に している。ビショップ博物館のポストコロニアルの改変では、過去に植民地主義下 の言説によって構築されてきたハワイ(アン)像の中に自らの歴史や文化の根拠を 求めてきたハワイアンが、北米の先住民の事例のように、博物館という制度を自分 たちの使用のために再翻訳し始めるという「歴史の転換」を確認することはできる のだろうか。また、それが歴史の転換地点になっているとすれば、この再翻訳は具 体的にどのように行われているのか。次項からは、こうした博物館の取組を博物館 が発信した言説により読み解いていくこととする。
5-1-1 ハワイアン・ホール「復元」プロジェクトの広報
ビショップ博物館における展示表象は、ハワイ先住民の民族的アイデンティティ の申し立ての潮流に呼応しないまま新世紀を迎えた。呼応するどころか、1990年代 たて続けに起こった「ハイウェイ3号線(通称“H3”)」建設に係るハワイ先住民の 遺跡発掘調査問題や博物館収蔵品に対する「先住民祖先埋葬物保全返還法(通称
“NAGPRA”)」に基づく返還要求問題を通じて、博物館はハワイ先住民コミュニティ
と激しく対立した172。ビショップ博物館が先住民との「接触地帯」になるためには、
このように傷ついたハワイアンとの関係を修復する必要があった。
前世紀からのこの重い宿題を引き継いで 2001 年に館長に就任したブラウン館長
William Brownは、まさしくNAGPRAをめぐって溝の深まった先住民コミュニティ
との関係調整という難しい役割に取り組まなくてはならなかった。しかしビショッ プ博物館自身も「ネイティブ・ハワイアンの組織」であるとする立場からNAGPRA 問題に対抗しようとしたブラウンの主張やリーダーシップは、当該のハワイアンや 先住民運動の先導者達から痛烈な批判173を受けた。示威的な批判は、むしろ博物館
170 これらの手法は、改変したビショップ博物館ハワイアン・ホールの展示にも採用されていると感じ る。
171 クリフォードは「発明された」というより「節合された」という概念を選んでいる。
172 H3建設、先住民祖先遺骨副葬品の返還に係わる先住民とビショップ博物館の抗争については、第 6章で詳説する。
173 “Museum leadership Must Change” (Honolulu Advertiser 06/13/2004)