−第1報−
2.1 ボート競技日本代表選手の海外合宿期間 中の HRV の推移
ここで紹介する事例は、2006 年のボート 競技世界選手権の日本代表選手1名を対象に
し、世界選手権前の海外合宿期間および世界 選手権の期間(7月3日〜8月27日)の起床時の 安静時 HRV を継続的に測定し、その推移を 検討しようとするものである。
この取り組みの背景には、簡易型心拍モニ ターを用いた HRV の測定が、アスリートの コンディション評価にとって有効に活用しう るかどうかをトレーニング実践レベルで検討 しようという問題意識が存在していた。
HRV の測定に関しては、Polar810i を用い、
起床時に安静仰臥位の状態でR−R間隔の記 録を 5 〜 10 分間行い、約5分間の心拍 R − R データを付属ソフト(PolarPrecisionPerfo rmanceSW4.0)を 用 いてHRV の 解 析 を 行 っ た。
この研究で着目した解析項目は、平均 R
− R 間隔、SD1 とおよび HF の3つであった。
平均 R − R 間隔は心拍数の逆数を意味す る。SD1 は Pointcare 散布図上での横断的分 布の標準偏差として得られる指標(図 1)で あり、心拍変動を数値化して把握するための 指標の一つである。HF は、周波数解析によっ て得られる高周波成分(0.15 〜 0.40Hz)を 示すものであり、一般的には副交感神経の活 動を反映する指標と考えられている。
この3つの解析項目に関して次のような結 果が得られた。
結果1:SD1 と平均 R − R 間隔の間に高 い相関が認められた(図2)。
結果2:SD1 とHFの間に高い相関が認 められた(図3)。
図1:SD1 の測定
結果1に関しては、R − R 間隔が大きく なれば、SD1 も大きくなるという関係が見 て取れる。このことは、R − R 間隔は心拍 数の逆数に相当し、SD1 が HRV の大きさを 表す指標であることを踏まえて解釈すれば、
心拍数が低くなればなるほど HRV が大きく なり、心拍数が高くなればなるほど心拍変動 が小さくなることを意味する。このような SD1 と心拍数の負の相関は、本報告 2.2 の自 転車選手(n=6)の安静時のデータにおいて も確認されている。
結果2に関しては、SD1 が大きくなれば、
HFも大きくなるという関係が見て取れる。
このとは、心拍変動の大きさと副交感神経の 活動レベルとの間にかなり明確な関係がある ことを示している。
今回得られたこれらの結果は、従来から比 較的広く行われているアスリートのコンディ ション管理のための起床時安静心拍数の継続 的な測定のデータに関して、これまでよりも 生理学的に一歩踏み込んだ解釈を可能にする
ことにつながると考えられる。
現場レベルでは、経験にもとづき、特に合 宿時のようにハードなトレーニングが続くよ うな状況において、起床時安静心拍数の上昇 の程度で疲労の程度を把握する試みが行われ てきている。その場合には、HRV に関する 指標は測定されておらず、これまで心拍数と HRV に関する指標との関係は不明であった。
しかし、今回得られた結果を踏まえるなら ば、起床時の測定がたとえ心拍数だけであっ たとしても、その心拍数の増減から、ある程 度 SD1 やHFの変化を推測することが可能 となり、そのことをとおしてトレーニングプ ロセスにおける副交感神経の働きの変化に関 してもある程度の解釈が可能になるのではな いかと考えられる。
したがって、我々がこれから本格的に取り 組もうとしているのは、コンディショニング のための HRV の利用の研究であるが、従来 から行なわれてきている心拍数測定の意義や 価値を否定的に捉え心拍数を視野に入れない で HRV にだけ焦点を当てた研究を展開しよ うとしているわけではない。むしろ心拍数と HRV の両方を視野に入れた研究を進めるこ とにより、コンディショニングにとっての「心 拍数測定の有用性」をこれまで以上に引き出 し、さらに「HRV 測定に固有の有用性」を 最大限に活かせる状況を目指したい。
海外合宿期間中の心拍変動の推移に関して は、次のような結果が得られた。
結果3:SD1 の 1 週間ごとの平均の推移 に着目してみると,いわゆる鍛練期として強 度・量ともに高いレベルでトレーニングが実 施された 7 月は SD1 の週平均が 40ms 未満 であったのに対し,世界選手権に向けた調整 期としてトレーニングの強度を重視し量を 漸減していった 8 月は SD1 の週平均が 40ms 以上となる傾向が認められた(図4).また、
既に結果2で SD1 とHFの間に高い相関が 認められることを報告しているが、HFもま た SD1 と同じパターンの推移を示した。
図2:SD1 と平均 R − R 間隔
図3:SD1 と HF
このことは、比較的長期のトレーニングプ ロセスにおいて、トレーニングの強度・量の 程度が安静時の心拍変動および副交感神経活 動に反映する可能性を示唆していると考えら れる.今回得られた結果は、「ハードなトレー ニングの持続する鍛練期から調整期(いわゆ るテーパリングの期間)に移行することによ り心拍変動が増大し、副交感神経活動が高ま る」と解釈できると思われる。
ただし、今回得られた結果は、興味深いも のであるが、被験者1名のみのものであり、
更に多くの事例での検証が必要となる。
今回は、1週間ごとの SD1 の平均の推移 に着目してデータを処理しているが、例えば
「鍛練期の日々の SD1 の測定値の変化に、前 日のトレーニング内容、あるいは体調などと の間の何らかの関係性を見出せるかどうか」
という点に関しては、現場に立ち会ってト レーニング内容や体調を記録し把握していた 共同研究者は、明確な関係性は見出せなかっ たとの見解を示している。
この点に関しては、ハードなトレーニング の持続する鍛練期などにおいては、SD1 への トレーニングの影響に関して、前日のトレー ニングの影響だけがその翌日の SD1 の測定 値に反映するということのほうが不自然とい えるかもしてない。毎朝測定される HRV 関 連指標にトレープロセスがどのように影響を 及ぼすかはそれほど単純なものとは考えられ ない。
今回の結果では、7 月は SD1 の週平均が
40ms 未満であったが、この値は、これまで 我々のグループが測定してきているアスリー トや一般学生の安静時の SD1 の値と比較し て明らかに低いレベルのものである。このこ とを考慮すると、選手によっては、ハードな トレーニングが比較的長い期間にわたり継続 するような場合には、SD1が低い値のレベル で推移する可能性があることが考えられる。
また、調整期間・試合期間の SD1 も週平 均で 40ms 以上ではあるが、その値もやはり 我々がこれまで得ているアスリートや一般 学生の安静時の SD1 の値と比較して明らか に低いレベルのものであり、今回得られた SD1 に関する評価に関しては、これは研究 デザイン上の反省点になるが、海外合宿に入 る前や、世界選手権終了後の時期の比較的ト レーニングの強度・量が軽減している時期を 見計らってデータを取っておけば、それらと の比較で今回のデータを寄り深く考察できた と考えられる。
なお、本報告 2.2 で紹介する事例では、自 転車競技選手6名の安静時 SD1 の平均値は 55.3ms(最大値:111.8ms、最小値:18.2ms)
であり、その際、相対的に低い値を示した3 名の被験者は測定の前日に長距離トレーニン グを行っており、他の相対的に高い値を示し た被験者は、測定前日を含めしばらくの期間 にわたり本格的なトレーニングを行っていな いというトレーニングの実施状況に関わる差 が認められている。これらのことも、安静時 SD1 にトレーニングの実施状況が影響を及 ぼす可能性を示唆していると思われる。
今回の世界選手権に向けた海外合宿自体で は、日々の HRV 測定の結果をコンディショ ンの把握やトレーニングのコントロールに活 かそうというアプローチは行っていない。今 後の取り組みに向けてまず現象レベルで、合 宿期間中に HRV に関わる指標がどのような 推移を示すかを把握することが一番の目的で あった。そして、トレーニングのコントロー ルは指導者によって選手の体調、疲労の程度 図4:週平均 SD1 の推移
など総合的に把握しながら行われていた。今 回のデータはそのようなトレーニングプロセ スの中で得られた。
得られた結果を検討する中から「コンディ ション把握・トレーニングコントロールのた めの HRV の利用」に関する仮説的なコンセ プトが浮かび上がってくるかもしれない。
今回のトレーニング自体の良否の評価を抜 きにした測定結果の検討は片手落ちになるの で、仮説的なコンセプトに言及する前に、ま ず、世界選手権の成績を中心にしてトレーニ ングの評価について若干言及しておく。
被験者はダブルスカル種目の選手であり、
世界選手権での成績は決勝Bグループ(7−
12位決定戦)1位であり、その際のタイム は決勝Aグループ(1−6位決定戦)でタイ ムと比較すると2位に相当するものであり、
準決勝の同じグループの1位、2位のチーム が決勝Aグループで2位と3位に入っている ことを考慮すれば、決勝Aグループでも互角 に戦える状態に仕上がっていたとみなして差 し支えないと考えられる。したがって、今回 のトレーニングは比較的順調に遂行されたと 思われる。なお、今回のトレーニングの指導 にあたったのはこれまでに国際的レベルで高 い指導実績を残してきているイタリア人指導 者である。
鍛練期の個々でデータを検討してみると、
SD1 の最低ラインは 30ms を僅かに下回る あたりであり、最高ラインは 50ms をやや下 回るあたりであった。鍛練期前半では日々 の SD1 の値が 30ms と 40ms の間のあたりで 推移し、鍛練期後半では日々の SD1 の値が 30ms と 50ms をやや下回るあたりで推移し ていた。これらのことから仮説的に考えられ るのは、この選手の場合に、例えば SD1 が 20ms を下回るようなことが起こってくれば 好ましくない兆候として把握すべきかもしれ ないということである。また、他方で、鍛練 期では SD1 が 50ms を上回ることはなかっ た。このことに関しては、鍛練期に SD1 の
最高ラインが、今回のケースのように比較的 低いレベルを推移するのが望ましいのか、あ るいは時々もっと高いレベルの値が得られる 現象が認められるほうが望ましいのかなどに ついては、現時点では仮説的に一定の見解を 示すことはできない。
2.2 漸増的運動負荷テストにおける心拍変動