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財 団 法 人

滋 賀 県 体 育 協 会

平成16・17・18年度

(財)滋賀県体育協会スポーツ科学委員会

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滋賀県体育協会スポーツ科学委員会紀要 25 号をお届けいたします。 委員会予算の関係で 2 年分を掲載する合併号出版は、10 数年ほど前の 13・14 号から続い ております。一時期 TOTO に期待しようとした時期もありましたが、各県の体育協会に資 金援助を配られたのは 1 年のみで、なかなか甘いものではないことを実感させられました。 毎年発行できた時代が文字通り過去のものとなりつつあります。 この紀要から複数年を表示した合併号表記をやめることにし、本号は 25 号となります。 いずれにしても、過年度の研究成果を遅れて発表せざるをえないことにつきましては、研究 者や研究協力者、読者の方々に対して、誠に申し訳ない限りです。 この滋賀県体育協会スポーツ科学委員会には、医学班、生理学班、心理学班、社会学班、 歴史学班、栄養学班の 6 つの班があります。以前各研究班の独自の研究の他に、全体として 取り組むプロジェクト研究として「少年期のスポーツ」を取り上げたことがあります。また、 日本体育協会の研究推進協力県として国体参加選手の調査研究に何度か協力をしたこともあ ります。 せっかくの研究組織ですから、各研究班がそれぞれ独自の研究を継続的に進めていくこと も大切ですが、限られた予算を細分化するよりは、まとめて特定班の研究を重点的に支援し たり、また、全ての班で同じテーマにプロジェクト的に取り組むことも意義あることかと思 います。 数年前より「熟年期のスポーツ」に焦点を当て、医学関係の先生方の協力を得ながら、熟 年スポーツ Q&A 方式で原稿を収集してきました。その一部は現在県体協のホームページの 質問コーナーで紹介されていますが、最終的に原稿収集が中途のままになっており、集約が できていないという状況です。誠にもったいない限りです。機会を作って是非全原稿の収集 を図り、世間に問う情報提供ができればと思っておりますし、また、すべきであると思って おります。 ここ1年ではトリノ冬季五輪の情報や、一部のプロスポーツ組織で動くエリート選手の情 報が、さらにこれからは、次回の北京五輪をめぐってまた多くの情報がマスメディアをにぎ わしていくことになるかと思います。以前「アマチュアリズム」という階級的な色彩の強い 倫理観を背景にした時代では、「ステート・アマチュア」「カンパニー・アマチュア」「スクー ル・アマチュア」「アーマー・アマチュア」などのいわゆる「偽アマチュア」をどう扱うか が大きな問題でした。 一番能力を持っているのが「アマチュア」であるという、他の文化ではありえない状況が、 時代とともに変容し、今日では「プロ」が当たり前に位置づけられる時代にはなりました。 しかし、以前は国家や会社や学校や軍隊の宣伝の道具が色濃かったのが、昨今では、メガイ

紀要 25 号発刊にあたって

滋賀県体育協会スポーツ科学委員会 委員長 澤 田 和 明

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ベントに組み込まれ、その裏にあるスポンサーの企業戦略に巻き込まれながら、いつの時代 にも選手個人の人権が軽視されたり無視されていく状況は同じであるように思います。 望ましい競技力向上のあり方、底辺拡大のあり方を模索しながら、この滋賀県体育協会ス ポーツ科学委員会も研究を進めて行きたいと思います。 この紀要には 17 編の研究論文が掲載されておりますが、研究と実践の関係からすれば、 いくつかのものは練習や指導に即直接利用可能な研究といえるものもありましょうし、練習 や指導を考えていくヒントを与えてくれる研究もありましょう。中には直接の練習や指導の 場面と直接はつながらない研究も含まれているかと思います。 研究と実践は車の両輪にたとえられることがありますが、相互にいい意味での影響を及ぼ し合ってこそ、車は目的地に到達できるわけです。また本当の目的とはという分かり切って いたような内容も突き詰めてみる必要があるように思います。 本紀要、またはこれまでの紀要をお読みいただいた皆様方からの、忌憚のないご意見、ご 感想をお寄せいただき、今後ともの滋賀県体育協会のスポーツ科学委員会の活動にご理解ご 協力のほどお願い申し上げます。

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紀要第 25 号発刊にあたって 澤田和明 … 1 武道における稽古法に関する研究 −剣道の歴史を知るための基礎的研究を顧みて− 村山勤治 … 5 武道における稽古法に関する研究 −剣道における礼の必要性について− 北山愛佳 村山勤治 … 13 ボート競技における冬季トレーニング効果の評価方法について 坂本剛健 牧田 茂 里見 潤 … 25 ボート競技におけるコンディショニングのための 心拍変動(HRV)の利用に関する検討−第1報− 里見 潤 坂本剛健 牧田 茂 … 33 スポーツ運動の「老年力」−動きの生命力− 三浦幹夫 … 43 スポーツ運動の「競技力」 三浦幹夫 … 47 ビデオ活用について 三浦幹夫 … 49 スポーツへの社会化と教科体育に関する基礎的研究 −教科再編の観点から− 澤田和明 … 53 生涯スポーツ実践につながる理論学習についての研究 −大学での実践から− 澤田和明 … 65 日本における高校ラグビーの現状と課題−九州ブロック− 三神憲一 … 81 内田・クレペリン法からみた大学野球部員の特性 東山明子 … 93 大学生アメリカンフットボール選手の性格特性とメンタルサポート 東山明子 … 97 スポーツ活動中の水分摂取が体温調節機能および パフォーマンスに及ぼす影響 寄本 明 … 107 中高年におけるウォーキングイベント参加時の 水分摂取および脱水状況 寄本 明 … 113 陸上競技短距離選手における無酸素性パワーの特性 佐藤尚武 北村裕一 冨田文裕 蔵本龍樹 宮本 孝 … 119 陸上競技部(長距離)所属の中学生における食生活の状況と 他の生活要因ならびに健康度・体調との関連 河合美香 … 127 地域のスポーツ環境と住民の健康 石榑清司 清水知宏 … 131 委員名簿 … 137

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I.はじめに 筆者は、これまでに、武道における様々な 稽古法についての報告を行ってきた。 今回は、これまでの武道における技術に関 する稽古法ではなく、今までに収集できた歴 史的資料を基に、調査した内容から、江戸時 代後期の剣術の稽古法と当時盛んに行われて いた武者修行の実態を探った報告、また、藩 校での武芸教育の内容と彦根藩 13 代藩主井 伊直弼の孫の井伊直忠蔵書にある『琴堂文庫』 の内容の検討、さらに、近代における学校武 道の動向についての調査など、過去に取り組 んだこれまでの研究成果の内容を顧みる報告 にとどまることをお許し願いたい。 II.これまでの研究成果 1、貴重な史料との出会い 収集活動をはじめてから、労せずして貴重 な史料に出会うことができた。京都産業大学 剣道部師範故木戸高保先生をとおして、武道 専門学校同窓会が保管していた『鈴鹿家蔵各 藩伝来武道流派等一覧』の目録を閲覧させて いただく機会を得た。この史料は、武専文科 (俳文学)教授鈴鹿登氏所蔵の武道関係資料 621 点を武専同窓会と全日本剣道連盟のご尽 力によりマイクロフィルムに収録されたもの で、現在では、全剣連が保管している。この 中で、竹刀剣術の流行の一因になった武者修 行で有名な加藤田平八郎の関係伝書(『初学 須知』『剣道比試記』など)のコピーが可能 になり、この 2 つの史料を基に検討した。 1)初心者の指導書となる『初学須知』1)に ついて 加藤田平八郎は、『初学須知』の序におい て「抑々、剣術の法を知るは、猶工匠の規矩 を先にするが如し」と基本の重要性を説き、 以下太平の世に慣れ、士風や武芸の衰退した ことを嘆きながら「活眼晴を見せざるもの諸 芸術に携りて好んで人の師となり(中略)願 くは、後進の士一双眼を此に開て、捷径に走 らずして夷なる兵法の大道に由る事修行の大 本也。是以初学之為め聊條目を記して先師の 法を畧ぼ知らしむると云爾」と初心者のため に基本として身に付ける必要な点について、 指導書を著わそうとする意図が述べられてい る。これが著わされた万延元年(1860)は、 筑波大学名誉教授渡辺一郎先生の『幕末関東 剣術英名録の研究』に収載されている『万延 英名録』の刊行された年で、他流試合や武者 修行の全盛期であった。 『初学須知』の内容にある基本動作の「目 付け」「足捌き」「構え」「太刀の持ち方」な どは、宮本武蔵の『五輪書』の内容と同様な 考え方を踏襲している。また、自らの武者修 行の体験をもとに、「悪敷所作並びに身癖之 事」「能き所作之事」「上働之事」などは箇条 書きに記し、分析的に理解しようと努めてい る。さらに「掛撃之作法」「待之作法」では、 実践的指導者としての経験的な理論を披歴し ている。 2)『剣道比試記』2) より武者修行の実態を探る 当時の剣術界は、「一本」(有効打突)の基準 の統一的な見解が固まりつつあった時期と思 われ、面・籠手(小手)・突(一例「踏み込 み膝を折敷て払ひ」折敷胴か)などの打突部 位をみることができる。しかし、「奇麗」「立 派」「美事」−「軽い」「鍔にかかった」「拙劣」 などの表現で区別しているが、お互いに「一

武道における稽古法に関する研究

――剣道の歴史を知るための基礎的研究を顧みて―― 村山勤治(滋賀大学)

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本」に対する自己評価はしていたものの、検 証などの判定による「何本対何本」というよ うな客観的評価ではなかったと思われる。さ らに、「松崎浪四郎が師に宛てた書簡」と「武 藤為吉尺牘」を用いて、嘉永2年(1849)か ら安政2年(1855)頃の武者修行および試合 剣術について検討した。 1)武者修行について 武藤為吉は、嘉永2年9月山本平四郎を伴 い江戸へ出発し、岸和田、膳所などを経て、 同年 11 月6日に津藩にて、藤堂候の御前で 徳永乙五郎と試合を行っている。これは、津 藩へ男谷精一郎のもとで修行をしていた乙五 郎が、10 月2日付で「御家中教導為」とし て派遣されていたからだと思われる。この後、 嘉永4年(1851)5 月(藤堂候江戸藩邸にお ける試合)まで師への書簡は見当たらなかっ た。為吉の帰藩は安政 2 年 5 月で、嘉永 2 年 9 月から数えて 6 年半の武者修行としては、 試合の数が少ないようである。これは、大き な試合のみを報じたと思われることと、江戸 藩邸勤番の傍ら男谷道場に通っていたことに よるものではないかと推察される。 対照的に、松崎浪四郎は、約 5 ヶ月間に 9 通 23 試合を師に報告している。その内訳は、 中川修理大夫邸(10 回)桃井春蔵・千葉栄 次郎邸(各2回)など、江戸の有名な道場が すべて網羅されている。これは、江戸藩邸に おける試合数の増加や道場間の交流が盛んに なったことを示すとともに、浪四郎の江戸行 きは、勤番がらみではなく純粋な剣術修行で あったことが窺える。 2)試合剣術について 「松崎書簡」には、「十三本勝負の内七本負 四本勝相打二本」「壱本位は打勝候」などの ように、本数の記載された個所をみることが できる。しかし、すべての試合が本数で示さ れているのではなく、「散々打負け」「五歩位 には取合」などのように歩合で記された所も あり、また対戦相手と「試合」と表現してい る所と、本数に多少の相関はみられるが、「手 合セ」「組合セ」などと区別できるほどでは なかった。打突部位は、「武藤尺牘」「松崎書簡」 のいずれにも、面・籠手・突の表現が僅かに みられただけであったが、「嘉永七年十月六 日大村候御覧試合勝負附」には、斎藤歓之助 と徳永乙五郎の試合の打突部位が記されてい る。また歓之助方に○印が付され「軽ク左脇 腹へ届」「横面」「左胸ヲ抜」、乙五郎方に「突 −面打」「籠手」「面打」「突」、両者の間に「合」 が 2 ヶ所記されている。これらの表現から観 戦者が記録したものと思われる。 このような観戦記は、「松崎書簡」の中に も 3 通(大塚敬助・松崎誠蔵・様島哲蔵)み られました。様島哲蔵の観戦記は、千葉栄次 郎と松崎浪四郎の試合を報告したもので、こ れにはいくらかの身内贔屓もあったようであ る。また「勝負は試合中浪四郎籠手を打候処、 栄次郎軽しと言ひければ、直に先を遣候得共、 籠手の当たりは我人共に当たりに相違無之見 受申候、右の籠手を歩に入候得ば…」という 表現があり、試合者相互の審判と観客の判定 という 2 つの評価をみることができる。 2、藩校における武芸教育について 膳所藩遵義堂の武芸教育を調査し、その結 果を要約すれば以下のとおりである。3) 寛政期(1789 − 1801)以降における膳所 藩の文教育は、古文辞学的方法を柱としなが ら、折衷学派的な考察方法をとった皆川淇園 の系統の学風であり、その武芸観は、心身修 行的な武芸を排し、武芸修練の目的は戦闘 のための実用的技法修練にあった。また、各 流派とも修練形態にはいろいろな工夫がみら れ、伝系流派の相伝形態には、あまり固執し なかったと思われる。そして、文化 6 年(1809) に遵義堂が設立され、演武場的な武芸稽古場 と大規模な桜馬場が設けられた。 武芸教育制度の特徴的なものには、「武芸 御改」があり、弓術は毎月1回、その他の武 芸は 1 年に1回の武芸の検定があった。幕末 期に膳所藩で行われた武芸流派は、剣術の直 心影流、今枝流、天心独明流、成孝流、槍術

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の種田流、宝蔵院流、柔術の関口流、自現流、 真妙流、馬術の大坪本流、弓術の日置流竹林 派、伴道雪派、砲術の萩野流、高島流、天山 流、三島流、中和流などが存在し、特に剣術 では天保期に直心影流男谷派が入り、これ以 降他流試合も活発に行われ、試合剣術では実 力のある剣士も輩出されているが、一方では、 今枝流のような居合剣術を採用していたこと が特徴である。 3、『琴堂文庫』の剣徳流剣術4) について 『琴堂文庫』は、第 13 代彦根藩主井伊直弼 の孫にあたる井伊直忠の個人蔵書 19,811 冊 をまとめたもので、同文庫中の『剣徳流剣術 伝書』から、その内容を検討した。 剣徳流剣術は、捕手・槍・長刀・鎌・棒・ 縄術とともに仙台藩において行われた形跡が あり、特に 4 代目松浦作右衛門から 7 代目山 崎源太左衛門景憲までは、仙台藩においての 実力は勿論のこと、その勢力もかなり大き かったと思われる。 技術の内容や流派の特徴は、「表剣二十三 組」の構成が、「組太刀十七本」「五天五本」「末 一剣一本」からなり、いずれも討(打)太 刀の構えが記された後に「和利在」とみられ る。また「捕身」「押落」「引落」などの文字 も散見された。これは、剣徳流が「拳法剣術」 と呼称されたことと、剣徳流の多くの武術家 が柔術に分類されていることを考え合わせる と、「和利在」は受(仕)太刀が最後に当身 や関節技で、相手を制するのではないかと思 われる。 末尾の「末一剣気林」には、「和利在」が 「仕合在」と記され、「試合スル心ノナラシ也」 と注記されていることから、「討太刀陰」の 約束以外は、自由に変化する「乱れ稽古」や「型 の残り合い」のような稽古法が存在していた と推察される。目付けは、「目ヲ切ル人ニハ 中眼ニアカスル事」「左眼右眼天地沈眼ハセ ム也真眼ニ可仕事」と、手の内は、「手ノ内 緩ム人ニハ付ノ事」とある。 また、他の技術では、「惣一一剣之事構斗 ニテ仕合スル事也是組仕合ト云也」「懸声悪 キニハ無音ノ事」「腰スハラサル人ニハムネ 腰振出ス指南ノ事」「身ヲ引人ニハ討込直可 申事」などと述べ、さらに、身構え心構えは、 極意ともいえる「渾沌剣」に「凡一心尊而二 念忌、躰一形忌而二形貴…形理自生剣水声火 形水心火、心定形有、形定位有、位有勢在…」 とあり、余念が入ることと構えが固定化する ことを戒めている。また声と心は、火のよう に激しく強くし、剣と形は、水のように融通 性を保ち、柔らかくすることが必要であると 説いている。剣徳流剣術は、「渾沌剣」の教 示の目的から判断して、時代的な背景のもと に教習法が整理され、武士の素養としての特 徴をもつものとして伝播したと考えられる。 4、講武所について 講武所は、諸外国船の来航により武力強 化の必要を痛感し、老中阿部正弘が、武学校 として、安政 3 年(1856)に開設した。場所 は、最初江戸の築地に建設され、万延元年 (1860)に小川町へ移転した。築地では安政 4 年(1857)に併設されていた軍艦教授所と して、軍艦操練を中心に教育していた。講武 所での科目は、剣術・槍術・砲術・水泳であ り、剣術・槍術は試合を重点的に稽古をして いた。当初、教育目標は明確に掲げられず剣 術・槍術・砲術・水泳の稽古をすることに中 心がおかれていた。 しかし、小川町に移転してからは、規模も 3倍になり、同年2月の開所式の時に、はじ めて「掟」を掲げ、生徒の学習心得や目標を 明らかにした。その「掟」は以下のとおりで ある。「一、武を講ずる肝要は、弓・剣・槍 の芸を学び礼儀廉恥を基として、武道専可 レ致二研究一事。…」5) とあり、講武所におい て、権力をもっていた大老井伊直弼の影響を 受け、彦根藩藩校稽古館の掟書と同じ内容で あった。移転後は水泳を廃止し、代わりに弓 術と柔術と犬追物が導入されたが、文久 2 年 (1862)にこれらは廃止された。 講武所において、特筆すべき点は、これま

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で規定されていなかった竹刀の長さを 3 尺 8 寸に定めたことである。当時、長い竹刀で有 名であったのが柳川藩の大石進である。その 様子について「その頃江戸での諸流の体系は、 いずれも 3 尺 2・3 寸の竹刀であったが、彼 の法外な 5 尺有余寸の竹刀を以てする達者な 腕前には驚異の眼をみはり、諸道場の師範達 もこれにはなやまされたといわれる」6)とあ り、ここで定めた 3 尺 8 寸の長さは、基準と なり、現在まで堅守されている。 III.近代における学校武道について 近代における学校武道の動向については、 中村民雄著『史料近代剣道史』7)、岸野雄三他 著『近代日本学校体育史』8) 、井上一男著『学校 体育制度史』9) 等を参考にして述べてみたい。 なお、本章の詳細については、『中学校・ス ポーツ教育実践講座第 10 巻』10)に掲載されて いる。 1.明治期における武道 明治維新後、藩校では文武両道の立場での 教育は受け継がれていたが、慶応 2 年(1866) に講武所が、明治 4 年(1871)に廃藩置県に より藩校が廃止され、武芸教育の伝統は消滅 した。同年に文部省が設立され、同 5 年の学 制公布となった。 明治 9 年(1876)3 月には廃刀令が公布さ れ、「自今大礼服着用並ニ軍人及ビ警察官吏 等制規アル服着用ノ節ヲ除クノ外帯刀被禁 候、但シ違反者ハ其刀取上事」とあり、一般 人の刀の所持は禁止された。明治 13 年(1880) に京都府槙村知事が「撃剣技術ハ無用ニ付諭 達ノ件」として、「……人身ノ最モ大切ナル、 精神ノ府タル脳髄ヲ打チ擲キ、呼吸ノ原タル 胸部或ハ咽喉・顔面等ヲ突衝シ、妄ニ身体ヲ 飛躍シ、短気息迫ノ苦痛ヲ凌ギ、努声ヲ発ス ル等、甚ダ健康ナルニ害アル……」と発令し、 当時の剣道はいかに逆境にあったかが理解で きる。このような社会情勢のなかで、武道は 一時衰退したが、直心影流の達人で幕末期に 前述の講武所教授方であった榊原鍵吉は剣道 を撃剣興行として存続することを考案した。 明治 11 年(1878)には、学校における近代 的な体育方法を確立するために体操伝習所が 設立された。明治 15 年(1882)には、嘉納 治五郎が、講道館を設立し、武道を復活させ ようとする気運が高まってきた。 そこで、文部省は、明治 16 年(1883)伝 習所に対して「撃剣・柔術ノ教育上ニオケル 利害適否」の調査を諮問した。これに対して 伝習所は、明治 17 年(1884)の『体操伝習 所第五年報』に次のようにある。「剣術柔術 調査……調査シタル剣柔二術ノ流名ヲ掲グル ニ、柔術ハ天神心揚流・戸田流・起倒流及ビ 渋川流ノ四流トシ、又剣術ハ直心影流・天神 伝無敵流及ビ、北辰一刀流・田宮流居合術ノ 四流派トス……」以上の流派に調査をした 結果について、「伝習所ニ於テハ之レヲ教育 上ノ理論ニ照ラシ、断定ヲ下セシコト左ノ如 シ。一、学校体育ノ正科トシテ採用スルコト ハ不適当ナリ。二、慣行上行ハレ易キ所アル ヲ以テ、彼ノ正科ノ体操ヲ怠リ、専ラ心育ニ ノミ偏スルガ如キ所ニ之ヲ施サバ、利ヲ収ム ルコトヲ得ベシ。」との結論を出し、明治 23 年(1890)7 月文部省から「本邦学校体操科 施設沿革略」の武技科の項に「二術ノ利トス ル方」として 5 件、「害若クハ不便トスル方」 として 9 件に分けて述べられている。 これらをまとめて、武道は身心の発達か ら考慮して正科とすることを不適当としてい る。これは、医学的見地によるものと思われ るが、当時の武道は、一貫した指導体制と生 徒の発育の段階に応じた教授法がまだ確立さ れていなかったことも、大きな要因であった。 文部省は、明治 29 年(1896)に学校衛生 顧問会に対して、剣術及び柔術の衛生面から 見た利害得失を諮問した。これに対しての答 申は「満 16 歳以上ノ強壮者ニ限リ正課外ニ 行ハシムルハ可ナレドモ随意科トスルハ不可 ナリ」と、明治 17 年の伝習所の答申と同様 に否定的な内容であった。この答申を踏まえ、

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一つの動きが出てきた。それは、武道として ではなく、体操として実施することであった。 これについては、明治 29 年に橋本新太郎 著『新案撃剣体操法』は武道的内容を削除し て、準備練習・基本練習・稽古及び試合の 3 領域から構成されている。また、明治 36 年 (1903)に小沢卯之助著『薙刀体操法』は老 弱男女に関係なくできる普通体操として体育 に適合するものであるとした観点から述べら れている。しかし、武道の体操化(一斉指導 の採用)は、正科武道が法的に禁止されてい たために体操という言葉を付記することに よって実施を可能にするための口実にすぎな かった。 学校体育の正科として武道を導入する運動 は、帝国議会でも行われるようになった。明 治 29 年 12 月の第 10 議会において、水戸の 東武館主小沢一郎等を中心に全国の有志が 「撃剣ヲ各学校ノ正科ニ加フルノ件」の請願 書を提出した。しかし、これは第 15 議会に 至っても、議題に取り上げられなかった。 一方、議会内において、当時の衆議院議員星 野仙蔵等が、正科編入の実現のために提出し た「体育ニ関スル建議案」には、「政府ハ宜 ク中学程度以上ノ諸学校ニ体育正科トシテ剣 術柔術ヲ加フベシ。但シ、中学程度一年生ヨ リ三年生マデハ剣柔二道トモ体操式ノ如ク号 令ヲ以テ形ヲ応用シ、四年生以上ニハ技術ヲ 教習セシムルコト。」とある。しかし、これ も否決された。 明治 38 年(1905)12 月の第 2 2回帝国議 会に再び建議案に「中学程度ノ諸学校ニ、体 育正科トシテ、剣術ノ形ノ体操即チ練胆操術、 又ハ柔術形ノ体操ノ、何レカ其ノ一ヲ教習セ シムヘシ。随意科目タル剣術・柔術ハ、当局 者宜シク之ヲ督励スヘシ。」を提出し、本議 会で修正可決され、衆議院を通過したが、実 施するまでにはまだまだ運動が必要であっ た。 そして、明治 41 年(1908)の第 24 議会に 実現を期す最終的建議案の「中学程度ノ諸学 校ニ、体育上正科トシテ、剣術・柔術練胆操 術(木剣体操)、熟レカ其ノ一ヲ教習セシム ヘシ」が可決され、ここに正科編入への建議 運動が実を結んだのである。 文部省は、規則の改正作業に取り組み、明 治 44 年(1911)7 月に中学校令施行規則第 13 条では、「体操ハ教練及体操ヲ授クベシ。 又撃剣及柔術ヲ加フルコトヲ得」とある。ま た、明治 45 年(1912)6 月の師範学校規程 第 24 条では、「男子ニ就キテハ体操中、撃剣 及柔術ヲ加フルコトヲ得」と改められた。し かし、これは「加フルコトヲ得」ということ であって、正科必修となったわけではなく、 随意科目にすぎなかった。 2.大正期における武道 大正 2 年(1913)1 月、「学校体操教授要目」 が公布された。ここで武道は、教練・遊戯と ともに体操以外の教材として位置付けられる が、実質的には随意科目として認められたに すぎず、具体的な配当表はなかった。 この教授要目の解説書ともいうべき永井道 明の『学校体操要義』には、「我ガ国男子ノ 中学校ニオケル剣術及柔術ハ、事実上全国ノ 大部分ニ行ワルルモノニシテ、現在ノ考究ハ 之ヲ課スベキカ課スベカラザルカノ問題ニ存 セズシテ、如何ニ之ヲ教授スベキカノ問題ニ 在リ。……コノ武道ガ、将来長ク我ガ国民教 育ノ用ヲナスカ、或ハ社会的体育トシテ存在 スベキカ、又或ル将来ニオイテ世界的ナル我 ガ国民ニ要ナキニ至ルベキカハ、実ニコノ道 ノ進化工夫如何ト、並ニコノ道以上ナル手段 ノ新生発現如何ニヨツテ決スベシ。」とあり、 正科必修には慎重な態度を示し、結局「撃剣 及柔術」は随意科目として授業時間外に行わ せる意向であった。 また、大正 14 年(1925)3 月の第 50 議会 に「武道普及ニ関スル建議案」が提出され可 決された。それには「政府ハ武道普及ノ為、 速ニ左記二項ヲ実施セラレムコトヲ望ム。一、 武道ヲ小学校ノ正科ニ加ヘ、並師範学校ニ於 ケル武道科ノ程度ヲ高メルコト。二、中等

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学校ノ撃剣柔術ヲ武道必須科トシテ普及セシ ムルコト。右建議ス。」とあり、中学校にお いて武道を独立した必修教科とする案であっ た。 大正 15 年(1926)5 月には「学校体操教 授要目」を改正したが、ここでも「撃剣及柔 術」が「剣道及柔道」と改めただけで、「加 フルコトヲ得」にとどまり、「剣道及柔道ニ 関シテハ一定ノ方式ヲ示サザルモ適当ナル方 法ヲ定メテ之ヲ授クベシ」と示されているに すぎなかった。 3.昭和期における武道 1)戦前の武道 昭和 6 年(1931)1 月に改正された「中学 校令施行規則」には、「剣道及柔道ハ之ヲ体 育ニ於テ必修セシムルコトナセリ、是レ剣道 及柔道ガ我ガ国固有ノ武道ニシテ質実剛健ナ ル国民精神ヲ涵養シ、心身ヲ鍛錬スルニ適切 ナルヲ認メタルガ為ニシテ両者又ハ其ノ一ヲ 必修セシメントス」とあり、剣道と柔道が固 有の武道であり、国民精神の涵養になること が述べられている。また、第 17 条に「体操 ハ身体ノ各部ヲ均斉ニ発育セシメ、姿勢ヲ端 正ニシ、身体ヲ強健ニシ且其ノ動作ヲ機敏ナ ラシメ快活、剛毅、堅忍持久ノ精神及規律ヲ 守リ、協同ヲ尚ブノ習慣ヲ養フヲ以テ要旨ト ス。体操ハ体操、教練、剣道及柔道、遊戯及 競技ヲ授クベシ。」とあり、はじめて必修と して法令化され、これは学校武道史からみて 画期的な改正であった。 この改正後の昭和 11 年(1936)、文部大臣 は、全国体育運動主事会議において「学校ニ 於ケル剣道柔道等ノ実施ニ関シ特ニ留意スベ キ事項如何」として「剣道及柔道等即チ武道 ハ、身体ノ鍛錬、人格ノ陶冶、国民精神ノ涵 養ニ資スル所極メテ多ク、体育上寔ニ適切肝 要ノモノト信ズ。而シテコレガ学校ニ於テ実 施スルニアタリテハ、学校体育ノ本義ニ鑑ミ ……」と答申している。 そして、同年に文部省訓令第 18 号で「学 校教練教授要目」を公布した。これには、具 体的な教材が配当され、内容は、基本動作・ 応用動作・形及び講話となっている。注目す べき点は、講話が配当されたことであり、こ れは武道独自のものであり、武道に日本の伝 統性を認め、ここに「道」的要素が強調され てきたのである。 昭和 12 年(1937)の日華事変を契機に政 局は急変し、それは、そのまま学校体育に反 映された。同年 5 月には、「学校教練教授要 目」が改正され、「青年学校体操科教授要目」 も公布された。同年 8 月には「国民精神総 動員実施要項」が閣議で決定され、スポーツ のもつ自由主義的要素が厳しく批判され、代 わって武道が教育国策の中核となった。昭和 13 年(1938)の第 73 議会において藤生安太 郎が「武道振興ニ関スル建議案」を提出した。 この建議案は、戦時下の武道行政に大きな関 わりをもつものであった。昭和 14 年(1939) には「体力章検定制度ノ実施」、昭和 15 年 (1940)には「国民体力法」が公布され、競 技力向上よりも体力増強が強調されてきた。 また、昭和 17 年(1942)には「国民学校体 練科教授要項及ビソノ実施要目」が制定され た。体練科は体操と武道の二本立てとなり、 5 年生以上の男子に武道は必修となり、武道 教育を戦争遂行の目的と一致させた。 2)戦後の剣道 終戦直後から文部省は次々に訓令や通牒 を発令し、戦時色の払拭につとめた。まずそ の中心となったのが体錬科武道の取扱いであ り、文部省はこの取扱いについて最高指令部 民間情報教育部(CIE)と折衝を続けた。昭和 20 年(1945)9月、文部省幹部会議では、「体錬 科武道ノ措置ニツイテ」をCIEに提出したが 受け入れられず、再度 10 月に修正案を提出 したが却下され、11 月の文部次官通牒によっ て学校における武道は全面禁止となった。 これは「終戦ニ伴ウ体錬科教授要目(綱) ノ取扱ニ関スル件」に「体錬科武道(剣道・ 柔道・薙刀・弓道)ノ授業ハ中止スルコト。 尚正課外ニ於テモ校友会ノ武道ニ関スル部班

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等ヲ編成セザルコト。右武道ノ中止ニ依リ生 ジタル余剰時数ハ之ヲ体操ニ充当スルコト。」 とあり、学校において正科は勿論のこと、課 外のクラブ活動も禁止された。続いて、昭和 21 年(1946)1 月、文部省令第 10 号におい て「中学校・高等女学校教員検定規程」を発 令し、武道に関する免許状を無効とした。 その内容は、「本令ハ公布ノ日ヨリ之を施 行ス。……体錬科武道、体錬科武道ノ内剣 道、体錬科武道ノ内柔道、体錬科武道ノ内銃 剣道、及体錬科武道ノ内薙刀ノ教員免許状ハ 其ノ効力ヲ失フ。」である。この省令により 学校における武道教員は退職せざるを得なく なった。 その後、特に柔道を中心に文部省、CIE へ の歎願が続いた。文部省は、今までの剣道・ 柔道・弓道の同歩調策を捨てて、比較的好感 のもたれていた柔道・弓道の実施許可へ懇請 を続けるようにした。かくして柔道は昭和 25 年(1950)10 月に、弓道は昭和 26 年(1951) 7 月に学校に復活した。そして、剣道は昭和 28 年(1953)7 月に許可されたのである。 3)しない競技の登場 CIE の勧告によって組織的活動を全面的に 禁止する措置がとられた時に、剣道の存続を 図るものとして、「しない競技」が考案された。 しない競技を学校教育にとり入れるべく文部 省は、昭和 27 年(1952)2 月、中学校以上 の体育教材として採用することが適当である と答申した。 その理由は、「戦後わが国の学校スポーツ 教材には個人的対人形式の競技種目が少な く、体育の一般目標からそのような教材によ る学習が要求されているが、戦後新しいス ポーツ種目として生まれたしない競技はその 要求にこたえる価値をもつものと考えられ る」11)というものであった。その結果、同 年 4 月の文部次官通知によって、指導者の資 格や用具について指示し、中学校・高等学校・ 大学で正科として実施することを認めたので ある。 4、学校武道の正式採用について 文部省は、正科体育としての剣道のあり 方等を研究する必要があるとし、昭和 28 年 (1953)4 月、学校剣道研究会を設け、剣道 をどのような形で採用すべきかの研究をする ことになった。研究会の委員は、体育関係者 が多くを占めていて、体育という広い立場か ら考えようとしていた。その結果、学校剣道 の基本的理念は「剣道は武道としてではなく、 体育スポーツとして、他の体育スポーツと同 等の立場において学生生徒の心身の発達に寄 与し、豊かな人間性を作り上げることを目標 とする」とした。 そして、同年 7 月の文部次官通知により、 「高等学校以上の実施可能な学校においては これを行ってもよい」ということになった。 これが剣道として戦後学校に復活した最初で ある。その後、昭和 32 年(1957)5 月には、「学 校剣道の実施について」が発令され、しない 競技と剣道の内容を整理統合し、「学校剣道」 として中学校・高等学校で実施できるように なった。 ま た、 昭 和 34 年(1959)12 月 に は、「 学 校におけるなぎなたの実施について」におい て、「主として、女子の特別教育活動(クラ ブ活動)または学校行事等において行われる ことが適当……」とあり、なぎなたの採用も 認めた。そして、昭和 37 年(1962)の中学校、 翌年の高等学校の指導要領の改正により、格 技領域の中で一種目以上の必修化がなされ、 さらに昭和 47 年(1972)、翌年と昭和 56 年 (1981)、翌年の中学校、高等学校指導要領の 改正では、体育教材としての比重の拡大と大 幅な時間数の増加が決定された。 平成元年(1989)度からは領域名を格技か ら武道と改称し、学校体育の役割である「生 涯体育・スポーツの即実践」と「卒業後に主 体的な運動実践ができるようにするための諸 能力の獲得」の二面性に対しても武道の特性 から、学校教育における体育の領域として必 要不可欠な存在となっている。

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IV. まとめにかえて 今回報告した調査結果をふまえ、反省すべ き点は多々あった。 例えば、藩校における武芸教育では、藩校 遵義堂に関する資料不足もあり、結局は膳所 藩における武芸の特質のみに終始したきらい がある。近江国全体に範囲を広げ、彦根藩校 稽古館などとの比較、武芸遊学制度、流派の 軽重、門人数や稽古の実態、幕末維新期の藩 校教育の変質などを明らかにできる資料の収 集を継続して行いたい。また、幕府直轄の講 武所と現在の社会教育施設にあたる町道場に おいての教授内容とその稽古法などの関連を 調査する必要がある。さらに、剣徳流剣術は、 『琴堂文庫』の『剣徳流関係伝書』は、内容 から判断して彦根藩には、直接関係したもの ではなかった。彦根市図書館長の橋本朝生氏 は「これらは、直忠一代の収書であって、井 伊家伝来の書籍とは別のものである」と述べ ているが、伝書自体は当時の剣術を知るため には貴重なものであり、引き続き調査する必 要がある。 最後に、学校武道における剣道の歩んでき た経緯を明らかにした。今後は、学校体育に おける剣道を、生徒たちが意欲を持って楽し くかつ有効的に取り組むことができるような 授業改善や教材開発を目指した研究を進めて いきたい。 なお、本報告の要旨は、『月刊武道 2003 年 3 月号』(日本武道館)に掲載済みである。 引用・参考文献 1)村山勤治:鈴鹿家蔵・加藤田伝書『初学須知』 について、武道学研究第 15 巻第 2 号 1983 年 pp.37 − 38 2)村山勤治:鈴鹿家蔵・加藤田伝書『剣道比 試記』にみる幕末期における試合剣術につ いて、大阪武道学研究第 1 巻第 1 号 1984 年 pp.10 − 15 3)村山勤治:幕末期における近江諸藩の武芸 について―彦根・膳所・大溝・水口各藩に おける剣術流派―『滋賀県体育協会史』滋 賀県体育協会 1989 年 pp.140 − 149 4)今村嘉雄:『修訂十九世紀に於ける日本体 育の研究』第一書房 1989 年 p.573 5)富永堅吾:『剣道五百年史』百泉書房 1972 年、p.372 6)村山勤治:琴堂文庫『剣徳流秘伝之書』 について、大阪武道学研究第 6 巻第 1 号 1994 年 pp.31 − 39 7)中村民雄:『史料近代剣道史』島津書房、 1985 年 pp.115 − 212 8)岸野雄三、竹之下休蔵:『近代日本学校体 育史』日本図書センター 1983 年 pp.15 − 193 9)井上一男:『学校体育制度史増補版』大修 館書店 1970 年 pp.75 − 258 10)村山勤治:学校武道の歴史『中学校・スポー ツ教育実践講座』第 10 巻ニチブン 1998 年 pp.260 − 263 11)庄子宗光:『剣道百年』時事通信社 1966 年 p.217 12)文部省体育局体育課:「武道の学校体育導 入の歴史的経緯とその振興施策」『スポー ツと健康』Vol.28No.3 第一法規出版株式会 社 1996 年 pp.14 − 19 13)中野八十二編:『現代剣道講座第一巻剣道 の歴史』百泉書房 1971 年 pp.106 − 196 14)全国教育系剣道連盟編村山勤治:「近世の 武芸教育はどのようなものであったか」『ゼ ミナール現代剣道』窓社 1992 年 pp.55 − 63 15)明治教育史研究会『杉浦重剛全集第六巻 日誌・回想』思文閣 1983 年 pp.740 − 750

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Ⅰ.はじめに 剣道は、相対する二人が互いに竹刀を用い て、有効打突を競い合う対人的な競技である。 有効打突とは、剣道の技から生まれる気・剣・ 体ともに一致したものである。1)剣道の技は、 攻めて相手の隙を見つけ、あるいは隙を作ら せて(構えをくずして)打つという相手とのや り取りの中ではじめて習得される。したがっ て、テクニックだけではなく、相手という存 在を大切に捉えることが大切である。相手と の動きの中での判断や対応は、あくまでも個 人でするものであり、自己の判断により技が 決定される。また、その判断や技は、直面す る相手との状況の中で、逃げないで、自分で 判断し、真正面から、責任を持って取り組む 態度に表現される。したがって、剣道の上達 には、自己の確立が重要な課題である。 剣道は、自己の行動と相手の行動、それに よって作り出される気分や雰囲気の三つの変 化の中で自己の行動を決定しながら技を競い 合うものである。つまり、相手だけではなく、 会場の観客、審判員、応援する部員などのそ の場の気分や雰囲気を作ってくれているもの にも感謝の気持ちを持つことが必要である。 一方、剣道では作法や礼儀を身に付けなけ ればならない。これは、他のスポーツには、あ まりみられない特性である。「礼に始まり礼に 終わる」とよく言われているように、礼は剣道 において欠かすことのできないものである。 これは、稽古の始めと終わりに礼をするとい うことだけではなく、日常の全てにおいて行 われなければならない。例えば、師範に対する 礼、道場に対する礼、相手に対する礼、挨拶、 言葉遣い、応援の態度などは厳格に行われて いる。他のスポーツでは、勝ったときの喜びを ガッツポーズで表現できる。しかし、剣道でそ のような行為をすれば、有効打突が取り消さ れてしまう。試合の中でなかなか獲得できな い有効打突を取り消してまで、この行為を禁 じているのは、この行為を行うことが礼の損 失につながると考えているからであろう。 剣道の理念は、「剣の理法の修練による人 間形成の道である」である。これを達成して いくためには、技の習得だけではなく、礼に ついて理解し、身に付けていくことが不可欠 であると考えられる。 そこで、本研究では、武道における礼の理 解を深めるとともに、剣道における礼の必要 性について考察する。 なお、今回の礼の捉え方については、日本 における武道的な観点からの調査にとどまる ことをお断りしておきたい。 Ⅱ.日本における礼の捉え方について 1.儒教からみた礼について  ここでは、東洋的視野から、簡単に礼に関 する儒教の教えについて、『四書五経』より、 紹介したい。 1)『論語』(『四書』の一つであり、孔子の言行を 記録したものである。人生のあらゆる面にわ たっての教えで、その教えは適切中正である) ①「子曰く、礼を知らざれば、以て立つことなし」 ・礼は社会に立つ人間の根幹である。した がって、その礼を心に備え、身に付けない者 は世の中に立つことはできない。 2)『礼記』(『五経』の一つであり、周代の末 期から漢代に至る古礼について、儒者の説を 収録したものである)

武道における稽古法に関する研究

――剣道における礼の必要性について―― 北山愛佳(美浜商事) 村山勤治(滋賀大学)

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①「礼義の始めは、容体を正しくし、顔色を 斉え、辞令を順にするに在り」 ・礼において最初になすべきことは、まず姿 勢や態度を正しくし、顔をととのえて、言葉 を丁寧に使うことである。 ②「礼義は人の大端なり」 ・礼というものは人にとって最も大切なもの である。 3)『春秋左氏伝』(『五経』の一つであり、魯 代の記録で当時の複雑な国際関係の中に生き た賢人・名士の訓言が多い) ①「礼は天の経なり、地の義なり」 ・礼は天地人に通じる根本の道である。すな わち、日月星が美しく輝いていることは天の 礼であり、山水草木が生え茂っているのは地 の礼である。 ②「礼は身の幹なり、敬は身の基なり」 ・礼は身体の背骨のようなもので、人の世に 立つ所以であり、敬は人間の行動基本となる ものである。2) また、『論語』に「勇にして礼なければ即 ち乱す(勇気があることは大事である。しか し、その勇気に礼節がなければ乱暴な人間と なり、ついには社会秩序を乱してしまう)」 とあり、いかなる道徳も、礼を失えば、その 道徳性は消滅して、無道徳に転じてしまう。 さらに、人間生活では、「人礼あれば則安く、 礼なければ則ち危うし」、「これを失うものは 死し、これを得るものは生く」とあるように、 礼の有無は、善悪の問題以上に重要である。3) 2.日本における礼の捉え方 日本においては、生活全般だけではなく、武 道や茶道等においても礼は学ばれている。日 本の礼は、中国の礼の思想を受け継いでいる が、思想的よりは、実践的で、理論的よりは、 生活の現実において、具象化することに重点 をおいてきた。日本人の場合は、家庭や社交等 では礼の形式は中国ほどではない。人との交 際においての礼は、中国や西洋では非常に厳 しいが、日本では中国や西洋ほど厳しくない。 これは、日本人同志は非常に親しみ合ってい る民族のため、あまり形式的な礼は必要では なかった。華道や茶道に、日本人が興味をもつ のは、ただそれに触れるというだけでなく、 それによって生活そのものに、ある心と形を もたせようとしたところに特別な意味が存在 していると思われる。また、鎌倉時代以降、寺 子屋で、躾や容儀の科目が存在していた。江 戸時代では、藩校において、習礼または、躾や 容儀などの科目があった。明治時代では諸礼 と言い、昭和時代に入り、作法として、女子 生徒の学課として教えられていた。4)日本で の礼は、生活の一部を礼によって美しくする という捉え方と武術などのある働きをするも のを正しく使われるために、規制する教育と しての礼という捉え方があったと思われる。 Ⅲ.日本における礼の種類について 1.日常生活における礼 人と人の交際では、日本は中国や西洋ほど 礼について厳しく言われていないと前述した が、それは礼儀作法の教本からも理解できる。 『現代礼儀作法全書』から、礼についてみてみる と、「挨拶の要領」「挨拶の仕方」から、「服装と礼 儀作法」「訪問と礼儀作法」「一般作法」「 冠 婚 葬 祭と礼儀作法」「結婚と礼儀作法」「華道と礼儀 作法」「茶道と礼儀作法」など、多くの礼儀作法 が紹介されている。その中で、日常生活から発 展したとも言える茶道についてみてみたい。 文明年間に南都称名寺の近くに珠光という 僧呂がおり、一休和尚に参禅して悟道に入り、 圓悟禅師の墨跡を法信として頂き、それを庵 室にかけて香華を供え、常にいろりで湯を煮 て同好の友引拙等を招き、いろいろな話をす ることを楽しみとしたのが、茶道の始まりで ある。豊臣氏の時に諸国に茶道を楽しむ者も 多く、秀吉が千利休に命じて古法の改正をし、 ここに茶道が完成し、今の表千家になった。茶 道の元は風流を楽しむためにあった。これに 様々な難しい理屈をつけ、奥ゆきのあるもの にしたが、風流を楽しむためには、それだけの

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心得を必要とし、すべて清浄閑雅を旨としな ければならないところから、茶道の礼という 一つの作法が生まれた。5) このように茶道の 礼は、極めて文化的意識から生まれ、風俗習慣 としての礼ではなく、意識的な構成による形 式を持ったものである。つまり茶道の礼は、よ り高級な生活文化の所産であるといえる。 茶道には、動作や言語の規則があり、物を褒 めたり貶しめたりすることに一定の様式があ る。貴人に対する場合の特別の様式もあるが、 それは特に茶礼そのものから生じたのではな く、当時の社会の身分差別が、尊重されたもの であり、しかも貴人も、武人も、茶礼において は、極めて平等に、町人百姓等を相手にする習 いであり、身分階級の絶対であった当時にお いて、茶礼ほどそれに拘泥しない礼儀は少な かった。6) このような生活から発展した礼は、 厳しい中にも平等性が保たれていた。 2.教育における礼について 学校教育における礼として学べるものの代 表として、中学校においての保健体育の武道 がある。 ここでは、武道について詳述する。中学校 での運動領域の一つとして武道が位置付けら れている。現在、礼が簡略化、軽視化されて きている中において、礼についての指導をみ ることができる。 そこで、中学校体育における礼について見 てみたい。 1)学習指導書における礼の取り扱いについて ①昭和 45 年度学習指導書 この年から武道が格技として取り入れられ るようになった。格技は体育の中でスポーツ として位置付けられている。「第二章の格技の ねらい」では礼は次のように扱われている。 「礼儀正しく行い、勝敗に対して公正な態度を とるとともに、勝敗の原因を考え、練習の方法 を工夫し、改善することができるようにする」7) ②昭和 53 年度学習指導書 「第二章の格技のねらい」において、格技 は体育の中で「格闘的な対人的スポーツ」「礼 儀正しく相手を尊重して行うことが要求され るスポーツ」として位置付けられている。格 技では次のように扱われている。 「互いに相手を尊重し、公正な態度で練習や 試合ができるようにするとともに、勝敗の原因 を考え練習の方法を工夫できるようにする」8) ③平成元年学習指導書 この年から格技が武道に改訂された。「第 二章、第二節各分野の目標及び内容」におい て武道は、体育の中で「礼儀作法を尊重して 練習ができることを重視する運動」として位 置付けられている。武道の中では次のように 扱われている。 「相手を尊重し、礼儀作法を尊重した態度 で練習や試合をする」9) 学習指導書の中における武道での礼は、そ れらの体育における位置付けや扱われ方の変 化を通してより重視されてきたことがわかる。 2)格技から武道への改訂 昭和52年の『中学校学習指導要領』では武道 としてではなく、格技として取り扱われてい た。格技とは、1対1で組み合ったりして勝敗 を争う競技のことである。それぞれの種目は、 それぞれ体系を持っているが、その分類は、第 1に、一人でもできる個人的な種目(陸上競技・ 水泳など)、第2に、チームで行う集団的な種目 (バレー・サッカーなどの球技)、そして第3に、 対人的に行う種目、いわゆる柔道、剣道など格 技の3つに分類することできる。これはヨー ロッパの運動分類の基準からできたものであ る。体育はこのように、スポーツとしての運動 類型というカテゴリーで分類しているが、そ れでは、個人種目ではなく、集団種目でもない 格技的な種目を総称して武道と置き換えては どうかという考え方が出てきた。しかし、そう なると、そのカテゴリーは違ってくる。10) ここでは格技として、(ア)相撲、(イ)柔道、 (ウ)剣道の運動をあげている。目的・内容に 関しては、次のように詳述されている。 ①次の運動(相撲、柔道、剣道)の技能を 習得し、相手の動きに対応した試合ができる

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ようにする。 ②互いに相手を尊重し、公正な態度で練習 や試合ができるようにする。 目的・内容の①に関しては、「相手の動きに 対応した」が対人的競技としての特徴である。 ②に関しては、「相手を尊重し」とあるが、この 目的・内容は他の運動領域には見当たらない。 しかし、平成元年3月に『学習指導要領』 が改訂され、学校教育において半世紀にわ たって用いられてきた格技という名称が武道 に改められた。目的・内容に関しては次のと おりである。 ①自己の能力に適した課題をもって次の運 動を行い、その技能を身に付け、相手の動き に対応した攻防を展開して練習や試合ができ るようにする。 ②伝統的な行動の仕方に留意して、互いに 相手を尊重し、計画的に練習や試合ができる ようにするとともに、勝敗に対して公正な態 度がとれるようにする。 ③禁じ技を用いないなど安全に留意して練 習や試合ができるようにする。11) この改訂は、「21 世紀を目指し社会の変化 に自ら主体的に対応できる心豊かな人間の育 成を図ること」を基本的なねらいとした教育 課程審議会の答申(昭和62 年12 月)に基づい たものであり、格技から武道への変更は「国 際理解を深め、我が国の文化と伝統を尊重す る態度の育成を重視する」改訂方針に基づい たものである。体育において、諸外国に誇れ る我が国固有の文化として、歴史と伝統のも とに培われてきた武道を取り上げ、その特性 を生かした指導が出来るようにしたものであ る。12) 「伝統的な行動の仕方に留意し」とある が、これは武道特有の礼儀作法のことである。 学習指導要領では、「礼儀作法を単に形のまね に終わるのではなく、克己(自分で自分を律す る)の結果としての心を表すものとして、ま た、相手を尊重する方法としてこれを行うよ うにする」とあり、形だけでなく、心にも重点 を置いているところから、礼が学校教育にお いて、より重視されてきたことが理解できる。 また、『学校体育実技指導資料剣道指導の 手引』の「第一章、3武道と礼」には、「我が国の 武道における礼は、スポーツにおける行動の 仕方とは異なったとらえ方がされる。武道で は、試合などにおける激しい攻防の後、まだ 心理的な興奮が治まっていないときでも、そ の興奮を抑えて、正しい形で丁寧な礼を行う ことが求められる。礼を重んじ、その形式に 従うことは、自己を制御するとともに相手を 尊重する態度を形に現すことであり、その自 己制御が人間形成にとって重要な要素である と考えられているのである」13) と述べられて いる。礼は自己制御につながり、自己制御が 人間形成につながるものとして、教育におい ては捉えられ、そのことが期待されている。 近年の学校教育は、教師が教材を媒介にし て生徒の資質を向上させるというのが一般的 な考え方である。しかし、武道の教育的な作 用は必ずしもこのような考え方に集約される ものではない。武道においては、道元の「師 弟同行」という教えの通り、弟子と同じく一 人の修行者であり、師匠と弟子は共に道を求 めて修行する立場にある。師匠と弟子が人格 ある個人として相対し、師匠は弟子の様々な 条件に見合ったきめ細かい、丁寧な指導をし なければならない。この考え方によって師匠 と弟子の関係が築かれ、師匠の人格的な影響 によって弟子の人間形成が期待されてくるの である。そこには師匠の厳しい人格的内容が 要求される。1対1で厳しく修行しながら、 お互いに謙虚に認め合い、厳しい関係の中で、 礼を重んじることで、精神の鍛錬や人間形成 につながる。また、師匠に対する尊敬の心か らくる礼によっても、人間形成が期待される。 14) このようなことが教師と生徒の関係にお いて、望まれているのである。 3.武道における礼について 武道は死生の場における心構え、態度、そ して攻防の技術を究めたものであるが、日本 では、それらの殺傷の技術としてあったもの

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が、人間の修養の道として発達し、敵を攻め るためよりも、むしろ己の心の敵を克服する ためのものとして深められた。沢庵禅師の『不 動智神妙録』に「一心正しければ、千の手皆 用に立つ如く、貴殿の兵術も心正しければ一 心の働き自在にして、数千人の敵も一剣に従 へるが如し、これ大忠ならずや」という言葉 がある。剣術でもこのように心が正しいとい うこと非常に厳しく言い、第一には精神が正 しいことだけではなく、その形が美しくでき ていなければならない。つまり打ち合いその ものが礼に適っていなければならない。心を 正しくし、形を美しくするだけではなく、そ の目的の一つとしてその術を使って、心正し くない者が濫用しないようにするためであ る。つまり武道における礼とは、心を正しく し、形を美しくするところにある。15) 弓道では、非常に礼の部分が発達していて、 一つの美しい形をとり、弓道の儀式即ち「射 礼(じゃらい)」が厳しく行われるようになっ ている。弓を引くために、出る時から退く時 までの様式である。舞踊をしているのか、弓 を引いているのか、わからない位美しい形を 見せる。弓を引いて離す時間は僅かであるが、 その弓を引く動作とその前後の動作を美しく 見せるのが射礼である。 相撲では、相撲をとる時間よりも礼儀の時 間の方が非常に長い。これは弓を引く・相撲 をとる時の精神を統一するための動作でもあ る。日本における礼による生活の美化の例の 一つである。16) 武道における礼は、道がつく ものすべてに必要であることがわかる。それ は、心正しくないものが濫用しないようにす るため、精神を統一するためでもあるが、そ の術自体を濫用することがない現代になって も礼が残っているということは、他にも目的 があるからである。形を美しく見せることも その一つである。弓道にしても相撲にしても、 形だけでもその価値は十分にある。しかしそ の形も、武道においての礼も時代とともに簡 略され、軽視されてきているように思われる。 弘法大師は「古人の跡を求めずして求めた るところを求めよ」と教えているように、弟 子は師匠の形を真似るのではなく、師匠がど の道、どのような求め方をして歩いてきたの かを求め、自分自身で自分自身の答えを出さ なければならない。そのためにも正師に就き、 正師の歩んできた道を歩むことが必要とな る。このように師匠の下で自分自身を学んで いき、人間形成が行われていく。しかし、自 分自身を学ぶためにも、師匠から自分の問題 点を指摘してもらい課題をもらうことが重要 になってくる。弟子は師匠から課題を与えら れるのを待つのではなく、日頃から自分の方 から教えを受ける態度と、教えてもらう機会 を作るよう努力しなければならない。師匠か ら教えてもらえる修行態度、即ち「懸命に修 行しているので教えてあげよう」と師匠が思 うほどの修行態度が必要である。17)この態度 というのは弟子の修行に現われてくる師匠に 対する一つの礼ではないだろうか。相手に対 する尊敬の心を形に表したものと言える。 そして、師匠は武道において大きな存在で、 正しい道を求めていく上では欠かせないもの である。これは師匠だけではなく、相手に対し ても同じで、共に学ぶものに対しての礼が必要 になってくる。共に学び合う同志であり、自分 を向上させてくれる存在として相手を思いや り、人格を尊重する。それが武道において礼と して現われている。礼は、相手や先生に対する 礼だけではない。神前に対する礼、道場に対す る礼、試合場に対する礼、審判に対する礼など いろいろある。武道では、たとえ自分が勝って も、勝つことができたのは、相手がいたからで あり、相手というのは自分にとって大切な存在 であるという考え方と同時に、互いが目指す究 極の目標は、心・技・体の調和のとれた発達で あって、目先の単なる結果でしかない勝敗にこ だわる態度は、慎むべきことであるという考え 方が大切にされている。また、礼は相手に向け られるものばかりではない。自分自身の内面に も向けられなければならない。武道では激しい

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闘いによって心が興奮している時であっても、 丁寧な礼や正確な礼の形が求められる。正確な 礼の形を実践することのよって、自分の内面に ある感情を抑制して納めることになる。こうし た礼の実践によって感情を自己制御すること が、人間としての在り方や生き方につながって くるのである。 Ⅳ.スポーツと武道における礼の違い 礼とは一般的に、相手に対する尊敬の心や、 相手の存在や立場を認める心を形に表したも のであり、その根本は形だけでなく、心にも あるとされている。 スポーツには、それぞれのスポーツが発祥し た国の人々の精神性や道徳性が、そのスポーツ に固有のルールやマナーとして定着している。 例えば、ラグビーはイングランドの発祥で あるが、審判は一人と定め、その判定は絶対 的であり、ゲーム終了後はノーサイド(敵味 方の関係がなくなり、皆がラグビーを愛する 仲間である)となる。このようなイングラン ド人の精神性や道徳性は今でもラグビーの競 技に生きている。つまりイングランド人の精 神性や道徳性がラグビーにおける礼である。 多くのスポーツでは、勝ったときにガッツ ポーズをして喜びを表したり、ゲーム終了時 にお互いの健闘を称え合って握手をしたりす る。よくスポーツの試合で目にする光景であ る。努力してきた成果が出た喜びの心をチー ムメイトとともにガッツポーズという形に表 し、お互いの健闘を称え合う心を握手とい う形にして表していることから、これらはス ポーツにおける礼であると考えられる。 サッカーでは、試合終了後にユニホームの 交換をしているが、これも礼の一つである。 しかし、これらのようなスポーツにおける礼 は、武道においては慎むべきものとされてい る。スポーツと武道の礼には、大きな違いが ある。この二つの礼を比べてみると、武道の 礼にあって、スポーツの礼にはないものがあ る。それは、美しい形であると思われる。例 えば、ガッツポーズのように自分の感情を出 す形は美しいといえるだろうか。勝ったとき だけではなく負けたときには、その場に座っ たり、泣き崩れたりという行動を目にするが 美しい形とは決して言えない。その点、武道 においては、最後の礼が終わるまで感情は出 さずにいる。さらに、その礼が美しい形でな いとみなされた時は、もう一度やり直しを求 められるほど厳しいのである。 ルールや審判規則においても礼の違いは見 られる。あらゆるスポ−ツや競技にはそれぞれ 固有のルールがある。ルールと言えば、われわ れが人間社会で生活する上で守らなければな らない法律、道徳、規範である。スポーツにおけ るルールは、日常生活から離れた仮の世界の中 で適用され、それによってその競技をより楽し く、面白くするなど、その中で効力を発揮する 約束上の取り決めである。競技のルールは自主 的に守るべきものである。スポーツは本来の遊 びとしての競技性も、スポーツが組織化され、 強化されることにより、勝敗を競う闘争性の方 が強くなってきた。ここにルールは、細分化さ れ、審判によって、ルールが守られているかど うかを厳しく監視するようになる。このことか ら必然的に、ルールを守らせるための強制力と して罰則が設けられている。このように、本来 自主的に守るべきスポーツのルールは、強制規 範・罰則によってその実効性を高めるという ことになっている。 武道においては、競技という形で試合・審 判規則が整備されたのはごく最近のことであ る。かつては、武道の試合においては、審判と いわずに検証といわれ、ルールに照らして判 定するというより、技能に熟練した者が、そ の人の技能を人間と一体として総合的に評価 するものであった。また、武道においては、 無検証といって、一本取ったか取られたかは 当事者が自ら判定するという心構えが大切と されている。そこに、お互いを尊重する、技 に対して自覚するなどの精神や態度が重視さ

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れたものであり、礼が備わっているかどうか を判断したものである言える。 技術的な観点からすれば、武道の試合の ルールとスポーツのルールとでは、その考え 方には相違がある。武道においては、罰則規定 ぎりぎりの所で行われる技術を決して高度で 有効なものと評価しない。なるべくその規定 に触れない離れた所、いわば罰則規定の境界 線から中へ中へと技術は求められ、練磨され るのである。ここでもやはり、その技術と人間 の精神や態度というものを一体のものとし て捉える考え方がある。18)スポーツにおいて も、ルールを自主的に守って、正々堂々闘う 精神は礼であると言えるが、ルールの成立から みると、罰則により成り立つ礼であるといえ る。自主的に行っているが、一方では強制的に させられている面もある。二つの礼は、それぞ れのルールが作られた目的によっても、違いが ある。このようにスポーツと武道においては多 くの礼の違いがあるが、それぞれの礼はそれぞ れの競技の目的を果たすためにあるもので、決 して間違っているものではない。礼がその目的 を果たすことができるよう、競技をする人間が 考えて行かなければならないのである。 Ⅴ.武道における礼の違い 1.武道における礼の捉え方 1)相撲における礼 我が国で農耕が開始されたのは縄文時代 晩期から弥生時代にかけてであるが、実際に 相撲が始められたのもそのころと思われる。 それはスポーツや武道としてではなく、農作 物」の豊区を占う農耕儀礼として行われた。古 代の民衆にとって、農耕生産が無事に行われ て農作物を収穫することは何よりも重要な ことであった。そのため人々は神の恩寵と加 護を得て、農耕生産が無事に推移し、豊作を祈 願して相撲を行った。豊作を願うのは農民の 自然な要求で、その手段の一つとしてお盆の 開始に当たる7月7日に、相撲が行われたの である。また、農作物は命の源であるから、そ の神に対する相撲は命懸けであったといって よい。こうした農耕儀礼に結びついた相撲は 全国的に行われた。のちに相撲は、村落の若者 たちの中から代表を選んで神の前で勝負をさ せ、勝った側は豊作に恵まれるとされた。神に 対する礼を相撲に見出そうとしていた。現在 でも各地の神社の相撲神事として残ってい る。このように我が国の相撲は庶民の神事と して発展したことに特色があり、その年の農 作物の豊凶を占う年占行事という意味があっ た。こうした農村における神事相撲は、次第に 皇室や貴族に伝えられ、やがて大規模な国家 的年占である相撲節会に発展した。今日の大 相撲の制度・規則などはこの節会相撲による ところが多い。ついで江戸時代に土俵の作成・ 相撲技の整備がなされたことに伴って、相撲 はその性格を一変し、競技化が進んだ。そして 明治時代に我が国の国技とされた。19)このよ うに我が国の相撲は神事・演劇・競技の三つ の要素を併せ持つ多面的存在である。相撲は、 農作物に関わる神に対しての礼として発生し た。皇室や貴族にも伝えられたこと、国技に発 展したことから、神に対する礼が競技として の相撲においても伝えられていると考える。 『学校体育実技指導資料相撲指導手引き』に は、相撲の練習や試合において礼を重視し、そ れを正しく実践するということは、相手を尊重 するという謙虚な心と、自己を制御するという いわゆる克己心20) を育てることを目指してい るといってよいとあるように、武道における礼 もある。相撲において練習や試合で求められる 心構えは、胸を借りて、恩を返すことであり、そ れは競争と協同が調和し、同居する土俵の稽 古によって培われるものである。競争は、弱肉 強食を連想させる考えに立つのに対して、協同 は、弱者救済による相互扶助の連帯社会を連想 させる考えに立つものといえる。21) この二律背反の立場にある両者を調和させ て競争が協同を生み、協同が競争を育てるた めに胸を借りることと恩を返すことの心構え

図 2 被検者 A の冬期前後の各パラメータの変化024681012140100200300400WattLactate [mM]100110120130140150160170180HR [beats/min]0100200300400Watt 2005/092006/030100200300400Watt2005/092006/03152025303540SR [str/min]2005/092006/03
図 3 被検者 B の冬期前後の各パラメータの変化024681012140100200300400Watt 2005/092006/03Lactate [mM]HR [beats/min]0100200300400Watt2005/092006/031001101201301401501601701801902000100200300400Watt2005/092006/03152025303540SR [str/min]
図 4 被検者 C の冬期前後の各パラメータの変化HR [beats/min]0100200300400Watt 2005/092006/03100110120130140150160170180190200024681012140100200300400Watt2005/092006/03Lactate [mM]0100200300400Watt152025303540SR [str/min]2005/092006/03
図 5 被検者 D の冬期前後の各パラメータの変化024681012140100200300400Watt 2005/092006/03Lactate [mM]HR [beats/min]0100200300400Watt 2005/092006/031001101201301401501601701801902000100200300400Watt152025303540SR [str/min]2005/092006/03
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参照

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