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ベネフィットその3:パフォーマンス

ドキュメント内 専 門 職 学 位 論 文 (ページ 72-75)

第四章 まとめ 台湾活用型対中投資の構造とベネフィット

第 2 節 台湾活用型対中投資の構造とベネフィット再考

2.4 ベネフィットその3:パフォーマンス

アライアンスは生来不安定な組織形態であるため失敗しがちな傾向にある。

(Inkpen2001)これについてPorter(1990)もアライアンスは当初から競争と協調の狭間に

あり、これに対忚するコストがアライアンスを安定的に運用させようとするコスト以上に かかってしまう、つまり、アライアンスパートナーとの競争に陥ってしまいなかなか安定 的な運営ができない、と述べている。このような前提のもと、アライアンスのパフォーマ ンスは何に拠って測られるべきなのか。アライアンス失敗を説明する定義となる要素につ

いてInkpen(2001)は、柔軟性に欠けるアライアンス運営、相互信頼関係が破られる事、情

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報交換等コミュニケーション上の問題、過度のパートナーとの摩擦、経営に対する永続性 概念の欠如、そして双方のアライアンスへの期待が一致していない事、を挙げている。し かし一方で、現実的にはアライアンスのパフォーマンス評価の切り口は複雑かつ多面的で あり、多くの研究者がアライアンスのパフォーマンス測定について取り組んでいる (Inkpen 2001)が、アライアンスの形態は多岐に渡りその目的も様々であり、また時として 判然としない設定である等の理由でアライアンスの評価は非常に困難な作業

(Anderson1990)となっている。

(1) アライアンス期間と生存率

Inkpen(2001)によると、多くの研究者(Barkema, Bell, and Pennings,1996:

Gomes-Casscres,1989; Kogut,1989; Park and Russo,1996; Steensma and Lyles,2000)が 支持するように、アライアンス期間の長さや潰れずに継続している事がパフォーマンスの 指標として見られてきている。この観点から勘案すると、伊藤(2009)で台湾活用型対中投 資の生存率が他のアライアンス形式に比べ高い事、本論文第四章第1節で行った実証研究 で得られた結果である、台湾企業との合弁事業は他の選択肢に比べ経営の永続性が担保さ れているというものは、日台アライアンスのパフォーマンスが高くなることが期待できる 事を学術的に裏付けている。

(2) 文化的融和性

Inkpen (2001)はまた、アライアンス当事者双方の文化的距離が遠ければ遠い程、それぞ れの組織運営、内部管理の手法は異なりそれに伴い従業員の期待における相違も大きく、

その為アライアンスの成功確率は低くなると述べ、Lene and Beamish(1990)が、アライ アンスパートナー同士の文化的融和性が国際間アライアンス事案の永続性にとって最も重 要な要素である、という説を例示として挙げている。

「台湾企業の合弁相手に日本企業が多い理由ですか。やはり言葉が通じますからね。僕 らは日本語教育を受けた世代で、日本企業とは日常的な意思疎通が図りやすい。欧米が相

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手だと、こうはなりにくい。」24統一企業集団総裁高清愿の雑誌インビューでの発言が日 台文化融和性解明の糸口となる。もちろんかつて歴史上50年間、日本が台湾を統治した 時代があった事に深く関わる事である。では何故同様な事象が同じ歴史的背景を有する韓 国では顕在化せず、台湾において発露するのか。ここには歴史的背景に基づく統治者ビヘ イビアの比較という視点が必要となって来る。

中国における政府(王朝)が正式に台湾の領有を宣言したのは1684年清の康熙帝の時 代である。清国はその後1895年、日清戦争が終わるまで台湾を領有したが当初より190 年間は至って消極的な姿勢で、その経営方針は従前台湾を支配した鄭成功とその一族が“反 清復明”を国是に清国と抗争を繰り返した事を教訓に、台湾が盗賊の巣窟と化し、反政府 勢力の根拠地となる事を防ぐ事が主目的とされた。具体的には清国から台湾への渡航・移 民を厳しく制限、また既に台湾へ移住した者に対しては先住民族の居住地域への入植を禁 じたり鋳造の禁止、農機具製造を政府の許可制にする等開発面においても厳しく制限を敶 いた。その後1871年に台湾单部に漂着した宮古島の住民が台湾の先住民に殺害されると いう所謂「牡丹社事件」を理由に日本政府が台湾に出兵した事件を契機に清国政府も台湾 統治政策を変更、台湾経営を改革し積極政策によって発展させる事とした。しかしながら その後日清戦争終結まで20年余で、合計95キロ通信用送電線の施設、約100キロの狭軌 鉄道の敶設が主なインフラ事業の成果であった。25(伊藤1993)

日清戦争の結果台湾は日本に割譲されることとなった。割譲決定と共に日本は台湾総督 を任命、占領軍を派遣、台北に台湾総督府を置いて統治した。日本軍の占領行動は、当初 激しい抵抗に直面したがその後平定、台湾総督府は治安・行政体制の整備と共に清朝統治 時代には殆ど手つかずであったインフラの整備を進めた。1900年には幹線道路が総延長約 7000キロメートルに達し、1908年には北部の基隆から单部の高雄までつなぐ西部平原縦 貫鉄道が開通、1908年には全島で通信網が完成、基隆、高雄の港湾近代化工事、海底電線 敶設・無線電信の整備を行い台湾と日本は協力に結合された。(若林2008)衛生面では病 院・診療所の全島配備、上下水道の整備等を行い、1905年当時人口1,000人中死亡者数 341人が1912年には25,3人、同26年には20人以下へと飛躍的に向上した。(黄2005)

現在台湾最大の穀倉地帯である单部嘉单平野一帯は八田與一の手に拠る嘉单大圳(かなん たいしゅう)の完成の賜物であった。この嘉单大圳堰堤の長さ1,273メートル、当時東洋

24 日経ビジネス2003120日号pp39

25 台湾の面積は36,000平方キロメートル、九州よりやや小さい、福岡鹿児島間は313㎞。

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一の規模を誇った烏山頭ダムと全長16,000㎞におよぶ水路から成る。(蔡2001)は台湾 の人々が寄せる八田への敬意いを象徴するエピソードとして、戦後国民党政府が日本植民 地時代の銅像や痕跡を悉く除去・廃棄していた時期に地元の人々が長らく八田の銅像を隠 し持って時代の変節を待ち現在、烏山頭ダムの畔にこの銅像が現存し安置されている事を 紹介している。

一方第二次大戦後、日本が台湾において有していた全ての権益、日本人の私有財産は国 民党政権=中華民国が接収した。彼らは外省人と呼ばれ、卖なる敗戦国家の残した政府機 構と資産の移管・再編にとどまらず、特権階級として富の集積を行い本省人との対立を招 いた。この対立がその後国民党政権発表ベースで28,000人の殺害者を出した二・二八事 件や38年に渡る戒厳令の実施、反共を掲げる国民党政府が共産党員を摘発するという名 目で始まった「白色テロ」と呼ばれた政治弾圧はその後先住民族の自治要求への弾圧、さ らには党国体制内の権力闘争、特務機関同士の闘争へと拡散し、政治的異見者を効率的に 監視し威嚇するシステムへと変貌、恐怖と相互不信が人々の日常生活における政治関係の 基調となってしまった(若林2001)。(仮に台湾を国家であると想定し)現在においては アジアで唯一元首に相当する総統を国民による直接選挙で選ぶ、最も高度化した民主主義 を体現している台湾であるが、このような過去の歴史的経緯を背景に、台湾人は華人であ りながら日本的コンテクストを理解し、かつ中国大陸から渡来した国民党政権との比較の 中で現代中国とは異質の日本に対する好意や親密感が醸成されている部分が大きいと筆者 は考える。

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