第1節 「経験の空間」の意味するもの 1 ヘンティヒの略歴
ドイツのハルトムート・フォン・ヘンティヒは、現代社会において、生き 生きとした経験としての学びがいかにして可能となるか、そうした経験として の学びが保障される場とはいかなるものかという観点から学校の意味の再構築 をめざした教育学者・実践家の一人である。
彼は、1925年ポーゼン(現ポーランド領)で生まれ、子ども時代の大部分 を外国、特にサンフランシスコ、ボゴダ、アムステルダムで過ごした。1937 年からベルリンのフランス語ギムナジウムに入学し、そこで1943年アビトゥ ーアを得た。兵役と半年間の捕虜生活の後、ゲッティンゲン大学とシカゴ大学 で古典語を研究し、1953年シカゴ大学においてトゥキディデス(Thukydides)
の研究で博士号を取得した(注1)。
その後、ビルクレーホフの田園教育舎で古典語を教え、1963年ゲッチンゲ ン大学のヘルマン・ノール(Nohl, H.1879〜1960)の教育学講座に招かれ た。1968年からビーレフェルト大学で教育学、哲学、心理学を含む学部新設
とカリキュラムづくりに取り組み、そして同大学に附属するオーバー・シュテ ユーフェン・コレークとビーレフェルト実験学校についての計画案を起草した。
そしてそれに基づき、1974年にビーレフェルト大学教育学部の研究施設であ り、同時にノルトライン・ヴェストファーレン州立の実験校でもあるビーレフ ェルト実験学校を創設し、彼自身も長くここで実践を重ねた(注2)。
ヘンティヒは、1970年代からのドイツの学校改革に関する論議の注目すべ き動向の一つとして起こった、学校を「経験の空間」として捉え直そうとする 研究の先鞭を付けた人物である。彼は、これまでの学校では、つねにパッケー
ジ化された表象をとおして実物を見るように訓練され、そこでは子どもが実物 そのものとの取り組みから疎外され、出来上がったモデルをあとからなぞるよ うな疑似体験しかできないと考えた。そして、「経験の空間としての学校」の 構想がそのような表象に満ちた学校空間を組み換えていく契機となり、生き生
きとした子どもの自己形成を可能にする学びを保障するものであると主張した。
2 ヘンティヒの考える現代学校の問題点と「経験」への注目
ヘンティヒの考察は、彼自身が述べているように、「『実行の分かりやすさ』
を探し求めて、理論体系のそれを求めない」(注3)ものであり、実践の中で 考え続けながら作り上げられたものである。したがって、彼の考察は、出来上 がった矛盾のない理論ではない。彼は、あくまでも子どもたちに関わる実践者 として自身を捉えた上で、自身の考察や実践を開かれた議論に置こうとするの である。ゆえに筆者は、ヘンティヒの経験に関する考察を解明する方法として、
まず最初に、彼が実践の中で現代学校の状況をいかなるものと捉えているかを 探り、次に、そうした学校状況の対処としてなぜ経験に注目したかを明らかに
していきたい。
まず、ヘンティヒは、現代学校の抱える複雑な問題を解きほぐすため、学 校成立の契機を確認している。つまり、学校は目的が明確な「社会の人工物」
であり、あるがままの世界に順応することを自ら習得する時に援助を求める子 どもや若者の欲求に答えることと、国家・教会・社:会の必要性との2つの契機 から成立するという(注4)。そして、その契機のありように従って、5つの 学校イメージを分類する(注5)。
1つ目は、「人が通りでの見学や活動の参加を通じて学べないような特別な 知識を手に入れる施設」としての学校である。それは、歴史上最初の学校形態 で、例えば14世紀のアウグスブルクに起こったラテン語学校がそうである。
現代でいえば、自動車教習所がこれにあたる。
2つ目は、「子どもたちの成長にふさわしい特別な環境が支配するような、
大人の生活からうまく隔離された場所」としての学校である。いわゆる「保護 空間」としての学校である。こうした場所では、子どもたちは、自然にそれ自 身のカで発達することが可能であると考えられている。ヘンティヒは、このタ イプを、こうした教育のイメージの代表者にちなんで「ルソー学校」と名付け
ている。
3っ目は、「原理的保守主義者と革命主義者に共通」の、「あらかじめ心に 抱いていたイメージ、出来上がった計画の実行を若者たちに迫る」場としての 学校である。そこでは、大人たちによって、望ましい社会とそれに適応した有
能な人材像があらかじめ決められている。(当然、原理的保守主義者と革命主 義者では、心に抱いている理想社会や人材像は全く異なるが…。)そして、保 守主義者は新しい世代の野蛮なふるまいに対して、また革命主義者は老人の古 めかしい伝統に対して、心を閉ざすよう子どもたちを仕向け、人間を作ってい く場として学校を考えている。
4つ目は、「授業という教育形態によって家庭教育を押し進める施設」とし ての学校である。こうしたイメージの学校は、現代の公立学校のあり方として、
大多数の人が支持する考えである。将来、様々な職業に就くであろう子どもた ちに対し、一般的な共通の援助を与えるもので、職業選択、市民の義務、科学、
政治などを内容とし、社会生活の準備をさせることを目的とする。ペスタロッ チ・フンボルト・デューイのイメージする学校と、ヘンティヒは言う。
5っ目は、「別の根拠からすでに存在する」学校に対して、社会的課題の解 決をねらって、様々な役割を担わされた施設としての学校である。つまり、教 授の場、大人になる場、悪い環境から保護する場という以外にも、学歴による 選別機能を果たす場であり、交通秩序維持やエイズ予防のために必要な知識・
態度を教える場に、学校はなっている。また例えば、エレベーターを使うよう になって失われた子どもの膝の健全な機能や、テレビやパソコンによって失わ れた事物の生々しさに対する感性など、主として現代社会や現代文明に原因を 帰すことができる課題の克服や補償が、しばしば文教族政治家によって学校の 役割とされる。そうした側面を捉えてヘンティヒは、この5番目の学校イメー ジに、「文部大臣会議学校」(注6)という名を与えている。
ヘンティヒによれば、現代の学校はこうした5つのイメージの混合物とし て存在しているという。なぜなら、それぞれの学校イメージには上記のような 特徴があり、1つの学校イメージでは十分に問題状況に対処することができな い時、他の学校イメージでそれを埋め合わせているからである。そうして、学 校イメージは複合し、問題状況がより複雑になる。
さて、この5つの学校イメージの中で現在最も支持されている4番目のも のについて、ヘンティヒは「満足できない」と言う(注7)。なぜなら、現代 の学校は、4番目の学校イメージを理想とはしているが、授業と人間形成とが 理想的に連続することや陶冶財(教育内容)を手がかりとした人間形成を果た
すことができておらず、同時に現実社会で重視されるゆえに家庭の関心が最も 高い学校キャリアについても無視できないからであるという。その結果、この 学校イメージを実現することができずに、人々を失望させる結果に終わってし まっている。つまり、現実の家庭と学校の生活関心があまりにも離れているの で、そのイメージを実現することが困難になっているというのである。
ヘンティヒは、彼が経験した2っの出来事をとおして、こうした現代学校 の困難な現状を説明する。
1つは、フンダというビーレフェルト実験学校に学んだトルコ人女生徒と のかかわりである。彼女は、実験学校の最終学年(10年生)になると、それ まで熱心に取り組んでいた学校での活動に、突然不熱心になる。ビーレフェル
ト実験学校では、評点による成績評価を生徒たちに与えていないが、就職やさ らに上級の学校の入学に際して他校の生徒と比較して実験学校生徒が不利益を 被らないために、原則として最終学年のみ評点による成績証明書を与えている。
彼女はこの成績証明書を拒否したのだった。彼がその理由を彼女に尋ねると、
彼女は、今まで成績のために学んできたのではなく学習が楽しいから学んでい たし、教師もそれを望んでいた。それなのに、突然その習慣に価値がなくなる のでしょうかと、聞き返してきた。それに対して彼が、こうした成績証明書は 生徒が就職等で不利益にならないために出されるものであることを説明すると、
彼女は、こういつた。「私は、いくらよい評点をもらっても仕事は見つからな い。なぜなら、私の兄は私よりも優秀で、男で、よい成績証明書をもっている が、失業したままである。トルコ人という理由で。」この女生徒とのかかわり を取り上げることでヘンティヒが指摘したかった現代学校の問題点とは、いく ら学校の中で理想的な学習環境を整えても、その学習環境が理想的であればあ るほど、多くの矛盾も課題もはらむ現代社会とのギャップが大きくなってしま い、子どもたちの学ぶ意欲とのどうしょうもない矛盾を産むという事実である。
ヘンティヒが取り上げた2つ目の出来事は、「チェルノブイリ症候群」と彼 が名づける問題群である。1986年、旧ソ連邦のチェルノブイリ原子力発電所 で、原子炉の暴走による爆発事故が起こり、大量の死の灰が炉心から放出され、
ソ連、ヨーロッパを中心に長期間にわたる放射能汚染をもたらした。ヘンティ ヒは、この事故が子どもたちの世界にもたらしたものを考察する中で現代学校