1.はじめに
観光現象はまず観光学の範疇により解明されなければならない。本章はフードツ ーリズムを観光学の基礎的概念である観光動機、観光体験と観光システムにより考 察し、その観光学的構造を明らかにしようとするものである。ある特徴的なタイプ の観光現象を理論化する場合、旅行動機と観光体験は重要な分析要因となる。日常 生活において観光動機はどのような欲求、目的やライフスタイルから生じるのか。
観光目的地において旅行者は何を体験するのか、そうした旅行者の行動要因と観光 システムを観光学的構造と呼ぶことができる。
「旅行の最も古くからある動機の一つは、何らかの選択の余地がある場合には、
未知のものを見ることであった」(Boorstin,1968 p.90)。未知のものを見ることは、
観光の大きな要因であった。それは冒険でもあったが、人は労働と余暇を区別し始 めるとそこに娯楽性を見出した。狂言の「舟船(ふねふな)」の冒頭の、主人が召 使いの太郎冠者を連れて郊外へ遊びに出かけようとする場面で太郎冠者に主人が どこへ行きたいかと問われ「珍しいところ、面白いところ、景のよいところへ行き たい」と答えるくだりがあるが、狂言に描かれた近世の人々の状況は現代のわれわ れとほぼ同じ要素を含んでいる。珍しいところ、面白いところ、景色のいい場所を 求める欲求は、「精神的健康の一つの特徴は好奇心である」(ゴーブル,小口忠彦
訳,1972, p68)と心理学者のマズローが考えていたように、同時にそれは人の精神的
健康性を示すものでもある。そうした生活上の機微は情報通信の発達した現代にお いては弱まるどころか、反対に強まる傾向にあり、新奇性、娯楽性、景勝地への欲 望はとどまることを知らない。
フードツーリズムの動機や体験を考察するにあたり、フードツーリズムが比較的 新しい観光現象であることを周知する必要がある。SIT(趣味旅行)におけるグル メツアーのリピーターとは違った観光客の層が、例えばスペインの美食都市サン・
セバスチャンにピンチョスを求めてやってくる国際観光客を見ると、味覚体験の新 奇性や娯楽性が現代人の重要な観光欲求であることが分かる。まず、フードツーリ
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ズムを観光学の知見である観光動機及び観光体験の側面から考察する。そしてレイ ーパー(Neil Leiper)の観光システム論(Leiper,1979)を援用してフードツーリズ ムの観光システムの特性を検証する。最後に、ニューツーリズム論の視点から観光 形態全体におけるフードツーリズムの特性を検証する。ニューツーリズムの明確な 定義はいまだなされてないが、フードツーリズムの観光学的構造の解明を通じてニ ューツーリズムそのものを明らかにする。
2.観光動機
動機とは「人が行動を起こしたり、決意したりするときの直接の原因または目的」
(三省堂『大辞林』1988)であり、心理学的には、「人の行動を決定する意識的・
無意識的原因」(同上)である。一般に娯楽を目的とした観光旅行は社会慣習に従 った行事としての旅行を除いて動機づけを伴い、したがって観光動機は旅行者の発 生する地域において発生するものと見ることができる。つまり観光動機は居住地で の日常生活との関わりにおいて個人的欲求として生じる。
(1)ピアースの観光動機―TCLとTCP
観光動機の初期の研究は主として心理学の面からなされ、初期においてもっとも 応用された心理学理論はマズロー(1943)の欲求階層説であった。マズローの欲求 階層説とは「生理的欲求」を底辺に、「安全と安定」「愛・集団所属」「自尊心・他 者による尊厳」が順におかれ、最高位に「自己実現」がある。その動機付け理論は
「個人的・社会的生活のほとんどすべての側面に当てはめることができ」、「個人は 統合され組織化された全体であり、一つの行為、あるいは意識的願望が唯一の動機 付けしか持たない、ということは普通にはあり得ない」とされ、その各々の欲求が
(順番にはこだわらないが)階層的に現れ、満たされるとその欲望は動機づけにあ まり効果を持たなくなる。さらに成長欲求は階層的ではなくすべての階層で同等の 重要さを持つとするというものである。
ピアース(Philip Pearce)はマズローの欲求階層理論に基づき、旅行の再帰性を 加味した旅行経験の欲求と動機の5段階のヒエラルキーの旅行動機理論モデルを提
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示し、それを「トラベルキャリア・ラダー(TCL)」と名づけた(Pearce,1988)。マ ズローの「欲求の階層」を基本形としたこのモデルは、旅行動機が観光経験を経る ごとに新たな動機を形成しつつラダー(階段)をあがり、達成感、自己実現に結び つくというものである。フードツーリズムにこのピアースの旅行動機モデルを適用 すると、TCLの底辺である「休養」は食のもたらす滋養と充足感であり、「刺激」
は日常の食生活とは違う味覚への欲求、「関係」は食体験により場所や人々との結 び付きを体験し、「自敬と発展」は快楽となる美味の開発と追求である。このよう な体験は旅行の繰り返しとともに各ラダーにおける充実度を高め、最終的に「実現 と充足」のレベルにおいては美食による自己実現の達成を示すができる。しかし、
味覚体験による自己実現が何を意味するのかは明らかでない。ここで指摘しなけれ ばならないのは、マズローの「ヒエラルキー」とピアースの「ラダー」の概念の違 いである。マズローの欲求階層理論の考えにはヒエラルキーを底辺から頂点へと上 昇する「成長欲求」があるものの、各階層の成長欲求はすべて同等の重要さを持ち、
必ずしも階層的ではないことが付記されている。一方、ピアースの「トラベルキャ リア・ラダー」は旅行の経験度合により動機がはしご状に発展することを表わして いる。このTCL理論は観光動機論の中では最も議論されて来たが、「フィリップ・
ピアスのTCLは旅行体験を通じて学ぶことを述べるひとつの概念である」(Ryan, 1998)のような指摘もあり、例えば成長期を過ぎたシニア層の観光に観光動機が階 層を成すことによってそれが自己実現に結び付くという動機理論が当てはまると は思えない。観光の効用はむしろ観光地における相対化にあるのではなかろうか。
Pearce & Lee (2005) はTCLをさらに実証実験により論考し、観光動機をラダーで はなくパターンと捉え、「多元的レベルの動機構造トラベルキャリア・パターン
(TCP)アプローチ」(Pearce & Lee,2005 p.227)を提唱した。動機パターンを「旅 行動機は単一の支配的な力においてよりも複数の動機のパターンにおいて生じる」
(同上p.228)と定義し、TCLを修正して動機パターンとそれらの構造を強調する
TCPの概念を導入した。実際に、オーストラリアの観光地における旅行経験年数の 異なる国内旅行者、外国人旅行者を対象にした調査(2000、n=1,021)により次の 結果を得た。広範な論文レビューから得られた143の動機項目は74に絞られ、そ
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れはさらに14の動機要因にグルーピングされて調査された。その結果3つの主要 な動機因子が導かれた。ただし、これらの最も重要な動機付けモデルは旅行体験の レベル間の重要性において何の違いも示さなかった(同上,pp.230-231; p.236)。
・新奇性(おもしろいこと、何か違ったことを体験する、休暇目的地の特別な雰囲 気を感じる、個人的な関心に関係する場所を訪ねる)
・逃避/リラックス(休養とくつろぎ、日常の心理的ストレス/重圧、日常業務か ら逃れる、生活の通常の欲求から逃れる)
・人間関係(強化)(仲間と何かをする、家族/友人と何かをする、自分と同じこ とを楽しむ人といる)
ピアースは、この調査が特別な旅行のための旅行動機についてよりもむしろ一般に 娯楽旅行動機を理解することに集中したとしているが(同上,p.227)、これらの動機 因子はフードツーリズムの観光動機にも当てはまる。食べ物・飲み物や料理・食べ 方の新奇性、日常の食生活からの逃避とくつろぎ、同行者と同じ飲食体験をするこ とによる人間関係の強化はいずれも食を目的とするフードツーリズムの観光動機 に適用できる。つまり、ガストロノミーは新奇性、逃避/リラックス、人間関係(強 化)の因子に基づいてガストロノミー商品となる。
(2)プッシュ動機要因/プル動機要因
クロンプトン(John L.Crompton)は観光動機を社会心理学的(プッシュ要因)と 文化的条件(プル要因)の二次元的アプローチに求めた。プッシュ要因には意識さ れた世俗的環境からの逃避、自己の探索と評価、休養、名声、回帰、親族関係の改 善、社会関係の養成の内的な心理的動機の7つがあり、プル要因には新奇さと教育 の2つの外的な文化的動機がある。こうしたプッシュ要因とプル要因の動機付けア プローチは観光動機の多元的構造を反映するものである(Crompton,1979 pp.56
-62)。ダン(Graham M.S.Dann)は観光動機へのアプローチが「観光の『プッシュ』
と『プル』要因に分けられ、前者はそれ自体が観光動機と関わり、後者は旅行の先 行する決定がなされると、旅行者をそこへ行く気にさせる目的地の特定のアトラク ションを代表する」、一方で「認識された『プッシュ』要因はアノミーと自我強化 を含む。アノミーは原初社会における知覚された規範の喪失と無意味の状況を指す。