輸入代替化工業化政策は行き詰ることになる。途上国は1国1票原則の国連に結集し、第1回 国連貿易開発会議(UNCTAD、1964年)で1次産品の交易条件の改善を先進工業国に求めたに もかかわらず、1 次産品の交易条件は会議後にも悪化してしまった。また、輸入代替を重工業 のレベルで実施しようとしたラテンアメリカ諸国は 1980 年代に累積債務問題に呻吟すること
となる(注26)。東アジア地域において工業製品を先進工業諸国に輸出するという、当時思いもよ
らなかった政策が結果的には奏功することになる。しかし東アジア地域で輸出指向型工業化政 策が導入された経緯についても、ベトナム特需の存在は過小評価できない。韓国でのベトナム 特需は65年から67年にかけて、直接特需だけで2.9億ドルを計上し、「輸出総額に占める直接 特需の比重は65年の11.4%が66年には33.7%に、さらに67年には実に58.2%までに増大し た。その意味で、特需は明らかに韓国の輸出志向型工業化を先導する役割を演じたのである」
(服部[1987]、93~94頁)。
東アジアの輸出志向型工業化はこのような歴史的特性があって初めて実現されたのである。
さらにこの歴史的特性にはもう一つの歴史性が畳み込まれている。米国の東アジア向け援助は パクス・アメリカーナをかたちづくる一つの重要な骨格であると規定できるもので、この骨格 は米国の政府関係収支の赤字を米貿易収支の黒字によって補填されることによって安定的に維 持できる。したがって米国の産業競争力が維持されることで、このドル資金循環は保たれるの である。しかし1950年代からのエレクトロニクス産業を軸とする東アジアの工業化は米国市場 を巡る米日の多国籍企業の熾烈な競争によって媒介されてきたのであるから、それは日本の対 米キャッチアップのプロセスであり、パクス・アメリカーナの動揺をもたらすプロセスでもあっ たと考えられるのである。
さらに日本の対米キャッチアップの度合いは 1980 年度前半にはさらに次元を超えた段階に 入ってくる。米国の対日貿易赤字は1982年の167.8億ドルから84年に335.6億ドル、85年に は461.5億ドルに、2年で2倍、3年で2.75倍に膨張する。日本からの対米乗用車輸出も82年 の2兆3846億円から84年に2兆9928億円、85年には3兆7074億円に急増する。電機製品の 対米輸出の伸びはさらに大きく、VTRは1980年から85年にかけて4436億円から1兆5841億 円、カラーテレビも同期間に2849億円から6077億円に急増し、民生用電子機器の輸出は1980 年の2兆0471億円から1985年には3兆8055億円にこの5年で1.9倍に膨張した。こうした 1980 年代前半の日本製品の対米集中豪雨的輸出から不均衡是正の枠組であるプラザ合意が 1985年に締結され、その後円高が続くなか、不均衡是正のかかる枠組に対して日系企業は更な る迂回輸出戦略を選択せざるをえず、アジアNIEsにおいて第三国向けオフショア生産拠点の強 化を目的とする直接投資を増大させる。日本からの直接投資の急増が 86~88年のアジアNIEs の輸出力を高め、高成長を牽引していったのである。その後アジアNIEs通貨の調整、GSP(一
般特恵関税;開発途上国向け非互恵関税)供与の停止、民主化に伴う賃金の高騰により、輸出 用のオフショア生産拠点がASEANに再配置されるようになった。さらに1992年2月の鄧小平 の「南巡講話」、1ドル=80円を超える超円高(1995年4月19日に1ドル=79円75銭)も背 景となり、中国への直接投資が急増し、成長の波もASEAN、中国に及ぶことになる。他の要因 も含めて東アジアの工業化の諸要因を図示すると図-35のようになる。
図-35 東アジア工業化の要因
資料:宮嵜[2013]、114頁
1993年から1995年にかけての超円高を契機とする日系エレクトロニクス企業の海外事業展 開はそれまでのものとは異なる質を持つことになった。簡単に示しておきたい。
その特徴とはまず、主力量産品のみならず高付加価値品までも東アジアに生産移管された点 である。この時期に生産移管された品目を紹介しておくと、25~29インチの縦型テレビ(日本 ビクターがタイに)、同ブラウン管(日立ならびにソニーがシンガポールに)、高付加価値品で は横型のワイドテレビ、同ブラウン管、その中に組み込まれる電子銃(ソニーがシンガポール へ)、さらに当時次期読み取りヘッドといわれたMRヘッド(富士通が後工程を韓国に)やMD プレイヤーが含まれている(注27)。
内発的要因 結節
要因 外発的要因
高 質 で 安 価 な 労 働 力 の 安 定 供 給
→ ←
米 日 援 助 に よ る イ ン フ ラ 整 備・勤勉/箸文化圏 ・米国の戦略的援助
・農村における潤沢な産業予備軍
多グ
・日本の経済主義的援助・開発独裁下の労働統制
ロ ←
本 国 に お け る 賃 金 上 昇輸 出 指 向 型 工 業 化 政 策
→ 国ー ←
米 国 市 場 を巡 る 米 日 間 資 本 競 争・為替レートの切り下げ
バ
ベ ト ナ ム 特 需・輸入自由化
籍ル ←
G S P 供 与・輸出金融
企 ←
G ( 5 ) 7 協 調 、 円 高・輸出産業への関税、租税優遇
業
・日系企業のオフショア生産拠点の再配置・輸出産業に対する輸送、電力料金の割引
の
・historical Japan opportunity・外資優遇策
事
・日本的生産システムの伝播f r e e t r a d e z o n e の 設 置
→ 業
・ME化のアジア的進展優 秀 な 官 僚 機 構 展
隣 人 効 果企 業 家 精 神
開
・look East・free trede areaとしての香港
↑ ↑
IT/情報のデジタル処理技術の発展→モジュール化→オープン・アーキテクチャーの開花
↑
IT / インターネット、ネット調達、ITの製造活用=CAD/CAM/CAE/CAT
米ソ冷戦構造の終結
第2には国際調達が拡大した点である。この点では、東アジア現地法人から製品が日本に逆 輸入されること、また東アジア現地法人で部品の現地調達、周辺調達が増大したことに留意す べきである。当時逆輸入された品目を紹介しておくと、ワイドテレビ、インバーターエアコン、
MDプレイヤー、高機能VTR、さらにミニコンポも加わり、新聞紙上で「アイワ化現象」と形 容された(注28)。なお、輸入に占める逆輸入の割合は92年度の6.5%から99年度には16.0%ま で上昇し、地域別ではアジア現地法人からの逆輸入の比率は90年代後半に75%の高さにすで に達していた。部品の現地調達については松下グループの中国での事業展開が象徴的で、VTR の一貫生産を行い、シリンダーヘッド、IC、積層板、プリント配線基板の内製化を行い、また 電子レンジの一貫生産も手掛け、基幹部品のマグネトロンも内製化した。さらにはパナソート ブランドで溶接機、実装機の生産も中国で行っていた。また、この時期94年にすでにNECは ASICの組み立てをICファンドリーメーカTSMC(台湾)に委託し、マザーボードを精英電脳
(エリート、台湾)から調達していた。
第3には現調の増大によって現地での改良設計の機会が増えることから、設計開発の現地化 が始動したことにある。
第4には仕向け先が現地、本国、第3国にバランス化した点である。
さて、第1の特徴は日本からの輸出代替効果をもたらし、その分国内の生産と雇用が減少す る。第2の効果は逆輸入効果で、これも国内の生産と雇用の縮小をもたらす。逆輸入効果は絶 大で、この戦略をとればその品目の国内生産は断念せざるをえず、また高付加価値品まで生産 移管され、移管元の国内工場の空いた生産ラインを埋める品目がなければ、その国内工場は閉 鎖の決定が下されることにもなる。第2の現地調達の拡大は直接投資による中間財・資本財輸 出誘発効果を薄めることを帰結させる。日本からの直接投資によって組立子会社を設立しても、
現地あるいは周辺で部品、デバイス等の中間財、機械等の資本財が調達できなければ、日本か ら現地へのこれらの輸出が誘発され、この効果は国内産業の空洞化への一つの安全弁となる。
したがって現地・周辺調達の増大はこの安全弁の毀損につながるのである。第3の設計開発の 現地化の始動という特徴は東アジア現法において設計開発部⇔生産技術部⇔製造部の有機的連 関を付けることで、生産能力の質的向上をもたらし、強力なライバルをつくり、輸出代替効果、
逆輸入効果を高めることに繋がる。このように1993年から1995年にかけての超円高を契機と する日系エレクトロニクス企業の海外事業展開は輸出代替効果、逆輸入効果を高め、輸出誘発 効果を低めることによって、日本のエレクトロニクス産業の空洞化に舵を切らせるものとなっ た(注29)。
以上のプロセスは 1980 年代以降の日本の対米キャッチアップで生じた国際不均衡を最終的 には政府間の協調体制で糊塗しようとした結果、急激な円高調整がもたらされた。これが1990
年代半ば以降日本のエレクトロニクス産業に強いて空洞化に向かわせるインパクトしてはたら いたといえる。付加価値の高い製品まで移管すれば、移管元の量産工場で空いたラインの穴埋 めができない。逆輸入戦略を選択すれば、もはや移管元でその製品を生産することはできない。
部品メーカーも現地調達の要請に応えて進出すれば、受注量の確保はできるが、受注単価が極 端に抑えられ、日本本国の受注単価もこの東アジア現法の単価に均されてしまうかもしれない し、本国での受注量の確保が困難になることも考えられる。設計開発まで現地化されれば、量 産は東アジアで、開発は日本でという構想も成り立たなくなる。こうした可能性が現実のもの になることが十分考えられた。しかし、当時はこのような明日の心配など考える余裕もなく、
当時の厳しい円高の真っ直中でひたすら海外展開をはからざるをえなかったのである。1 ドル
=80円の為替水準は明日の心配などしていられない状況をもたらした。この中で長野県企業の 東アジアでの事業展開は第2の特徴である部品・デバイスの現地調達の拡大に最も多くみられ る。そして本拙稿Ⅲ、Ⅳでみたように、多くの部品メーカーの明日の心配が近時現実のものに なってしまったのである。県内電子部品・デバイス企業の東アジアへの生産移管が輸出代替効 果の増大と部品・デバイス輸出誘発効果の減少を同時にもたらしながら、徐々に県内の生産・
雇用の縮小をもたらすことになった。