本章では第4章で明らかになったヌナブト準州特にイカルイトでバイリンガル人材が育 っていない要因を考察する。意識調査ではほとんどのイヌイットが、イヌイット語と英語 のバイリンガルになることを望んでいる。1節ではバイリンガル理論からヌナブト準州の 実態を分析する。2節ではイヌイット教員と教材不足の問題を考察する。3節ではヌナブト 準州の教育のしくみを他の地域、グリーンランド、ニュージランド、ハワイの事例と比較 し考察する。さらに、4節では教育法改正と標準化の動きについて述べ、5節では今後の対 策を言語プランの観点から考察する。6節では本章のまとめを行う。
5.1 バイリンガル教育の理論と実態 5.1.1 バイリンガル教育に関する理論
まず、バイリンガルの定義であるが、グロスジーン(Grosjean 2008: 10)の定義に従 い、「バイリンガルは日常生活で2つ以上の言語(あるいは方言)を使う人々」とする。こ の場合、2つの言語を話せると同時に、聞き、書き、読めることを前提とする。2つの言語 が別々に存在するモノリンガル的なバイリンガルではなく、ある程度関係しながら存在す る全体論的バイリンガリズム(wholistic view of bilingualism, Grosjean 2008:13)の立 場に立つ。正しくバイリンガル教育が行われれば、言語や教育上の発達に関してプラスの 影響があることが、カミンズ(Cummins 1986)他の多くの研究により、明らかになって いる (山本 2014: 65)。バイリンガルの子供は、2つの異なった言語で処理する結果、思考 の柔軟性に優れていることも明らかになっている (山本2014:65)。就学前に子供の語彙や 概念が育つように家庭で母語をしっかり習得した子供は学校で第2言語に移行した場合も 母語と第2言語の両方が習得できる(山本2014:65)。
図 5-1 カミンズの相互依存仮説
(Cummins & Swain 1986:83より筆者作成)
図5-1が示すように、カミンズの相互依存仮説(Independence Hypothesis)では、表層 では、母語と第2言語の音声、語彙、文法などは異なっているが、深層の共有熟達部分で
131
は、知識や概念の認知などが共通しているという考えである。即ち、母語で例えば「抽象 的」という概念を知っていれば、第 2 言語でその概念や語彙を学んだ際に、簡単に習得で きる。この相互依存仮説は、バイリンガル教育の理論的基盤となっているが、特に幼少期 の母語習得が大切となる。リテラシーを含めた母語を十分に習得して入学した子供は、第 2言語に移行した場合も習得が容易である。家庭で母語を使い、物語の読み聞かせなどを することによって得られた知識、語彙、概念は、第2言語に転移し、母語と第2言語は互 いに支え合いながら育つ。
バイリンガル教育がうまくいき、第2言語を習得しても、母語や文化が損なわれない場 合は付加的(additive)バイリンガリズム、第2言語を習得し、母語や文化が失われる場合 は削減的(subtractive)バイリンガリズムと呼ばれている(Baker, 岡訳1996:75)。
また、学校にバイリンガル教育を導入し、社会の少数派の言語での教育を行うと、多数 派の第2言語による学習時間が減り、学習効果に影響を及ぼすと懸念する教師や親が多い が、正しく実施されているバイリンガル教育は、学習成果を上げるという研究結果が多く ある (Cummins 2000:218-219)。一方で、児童は第2言語での教育が始まると早く、自然 に習得し、母語が早く失われる。この場合、地域や家庭での母語使用が大切になる(山本 2014:67)。母語の保持伸長には、家庭や地域での母語使用は欠かせない。
5.1.2 バイリンガル教育の種類
まず、代表的な3つのバイリンガル教育について述べる。
(1) 移行型バイリンガル教育 (transitional bilingual education)
移行型バイリンガル教育は、生徒の母語から社会で優勢な多数派言語に移行することを目 的とするが、根底には社会的、文化的に多数派言語集団に同化させることを目指している
(Baker, 岡訳 1996:187)。もともと、移民が多数派言語集団に同化できるように考案さ れた。移行型バイリンガル教育には、早期終了型(early exit)と後期終了型(late exit)
がある。早期終了型は 2 年程度の母語での教育の後、段階的に第2言語での教育に移行す るが、後期終了型では、小学校6年生まで約40%母語で教育を行う(Baker, 岡訳 1996:
187)。教師は、生徒の母語と第2言語のバイリンガルである必要があり、コミュニティや 親の要望を考慮に入れながら、適切なバイリンガル教育を行う。
(2) 維持型バイリンガル教育(maintenance bilingual education)
維持型バイリンガル教育は、生徒の母語を伸ばし、文化的アイデンティティを強化する ことを目指すもので、母語の喪失を防ぎ、第2言語と同様に、母語の読み,書き能力も伸 ばすことを目標にしている(Baker, 岡訳 1996:182)。母語と第2言語の両方を十分に使 用できることを目指している。カナダのアルバータ州やマニトバ州で行われているウクラ イナ語のバイリンガル教育は、維持型であり(Baker, 岡訳 1996:194)、英語とウクライナ 両言語のバイリンガル人材育成を目指している。
132
(3) イマージョン型バイリンガル教育
イマージョン型バイリンガル教育の原型は、1965年にモントリオールの郊外のセイント・
ランバート小学校で始まった英語以外の全教科をフランス語で教えたプログラムである
(長谷川 2002:181)。イマージョンというのは、「その言語の環境に完全に浸ること」
という意味であるが、人為的に習得させたい言語の環境を作り、その中に学習者を投入す る(長谷川 2002:181)。モントリオールのイギリス系カナダ人にとって、フランス語の習 得は死活問題であり、父兄の熱意と脳外科医ペンフィールド、マギル大学の言語心理学者 ランバートらの学識により、イマージョン型バイリンガル教育が始まった(長谷川2002:
181)。その後、世界中に広まったが、イマージョンの使われる時間を基に、全面的イマー ジョン(total immersion), 部分的イマージョン(partial immersion)と区別している。
全面的イマージョンの場合は、最初は100%習得したい言語を使い、2-3年経過した後、
3-4年間は80%、中学校終了時までには50%に減らすが、部分的イマージョンは、中学 校終了期まで一貫して習得したい言語の使用は50%である(Baker, 岡訳1996:190)。さ らに、開始時期により、幼稚園や小学校で開始する場合は早期イマージョン、9 歳から10 歳で始めるものを中期イマージョン、中等教育で始めるものを後期イマージョンと分ける。
カナダのイマージョン教育は著しい成功をおさめ、ヨーロッパをはじめ、世界各国の言語 教育に影響を与えている。
5.1.3 バイリンガル教育と社会に関わる要因
言語習得には、言語の威信性(language prestige)や序列も関係がある。カルヴエ(Calvet,
2002)は世界の言語を層状序列化し、最上層のハイパー中心言語、10ほどのスーパー中心
言語、100-200の中心言語、最下層の4000-5000の周辺言語があり、下から上へと言語 話者を上層に引き付ける引力が働くとしている。
図 5-2 カルヴェの言語の階層
カルヴェを基に山本作成、(山本2014:91)
133
ある社会で社会的、経済的、政治的に強い集団が話し、評価の高い言語が威信性の高い言 語である。ヌナブト準州で若者がイヌイット語を次第に話さなくなり、読み書き能力も弱 まっている現状の一因は英語とイヌイット語の力関係にもある。威信性の低い言語を母語 とする親は、社会で子供によりよいステータスを得るために、母語の使用を控える場合も 多い。英語はハイパー中心言語であり威信言語である一方 、イヌイット語は周辺言語であ るので、引力で上に引っ張られるという考え方である。イヌイットにとって英語はテレビ などメディアの言語であり、メールやインターネットで使う言語であり、上級への進学に 必要な言語であり、仕事に結び付く言語であり、カナダ社会で生きるために不可欠な言語 である。しかしながら、イヌイット語は、自らのアイデンティティの言語、祖先からの文 化継承の言語であり、心理、感情面を支える言語である。イヌイットはイヌイット語と英 語の両言語を同等とみなして学び、2つの文化を身につけることで、誇りを持ち、2つの言 語、文化の懸け橋となれる。
5.1.4 ヌナブト準州のバイリンガル教育
(1)ヌナブト準州の三モデルと目標
ヌナブト準州では、3章で示したように、教育法でイヌイット語の教育に関する3つの モデルを規定しており、各地域でどのモデルを採択するかを地域教育オーソリティ(DEA)
が決定する。3モデルは、イヌイット語バイリンガル(キリック・モデル)、イヌイット語 イマージョン、二重モデルである。4.1.2で前述したように、ヌナブト準州では、3 つのモデルを設け、地域の状況などに応じてモデルが採択される。二重モデルには、イヌ イット語ストリームと非イヌイット語ストリームがあり、この場合どちらを選択するかは 父兄に任されている。各モデルのイヌイット語、非イヌイット語の比率は、教育法で規定 されている教育言語規則(Language of Instruction Regulations)で決められているが、
次頁の表5-1にまとめてある。10年生から12年生に関しては、上記教育言語の3モデル に下記のように述べられている。
10-12年生 3つ全てのモデルに共通な必要最低単位数
10年生
・イヌイット語15単位 ・非イヌイット語15単位 11年生
・イヌイット語10単位 ・非イヌイット語10単位 12年生
・イヌイット語10単位 ・非イヌイット語10単位 追加単位
・イヌイット語15単位 ・非イヌイット語15単位