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ソーシャル・イノベーションを志す (Mission)

ドキュメント内 ソーシャル・イノベーション生成過程の研究 (ページ 176-200)

第4章では、ソーシャル・イノベーション生成の前提であり、実践的知恵の「意志」にあたる要素 として、人そして人の労働をその〈主体〉に、人が起業あるいはメンバー参画するソーシャル・エン タープライズをビークルにしながら、それに向かわせる諸〈動機〉の基層にあるものとして徳・卓越 性の実践を捉え、又、特定の社会課題の解決の向こうに、より大きな〈目的〉としての総有的な社 会の姿を探った。そして、ソーシャル・イノベーションのダイナミックな可能性を示す成功事例とし て米国に生まれ世界規模に発展したNGOを研究し、本章からの実践過程の考察につないだ。

本章から始まるソーシャル・イノベーション・フレームワークの実践要素は、「意志」と「技能」から 成る実践的知恵の「技能」にあたる部分である。それは、その社会的な〈目的〉の実現のための

〈手段〉として事業体の戦略を構築すること(第5章)と、その戦略を実行するための〈方法〉として二 つの要素(第6、7章それぞれに)から成り、本章ではまず〈手段〉の要素をとりあげ、それを起業に 際して抱く、“志”(Mission)と呼ぶことにする。

ここではまず、自ら選んだ社会課題を解決し、より善い地域社会といった共通善(common good) の実現を志し(社会的価値)、内から行動を起こさせようとする徳・卓越性とともに個人が希求する 働き方・生き方・美意識・価値観(個人的価値)、そして、どのような事業体を持続的に運営してい くのかといった事業経営への想い(事業的価値)といった、時には矛盾する3つの価値領域の間 で折合い、さらに共鳴しあえる諸価値の集まった領域を探す。そして、そこから事業体のミッション

(使命)、事業目的(purpose)を導きだし、さらにそれを基に、事業領域(domain)、顧客そして広く社 会に提供する価値提案(value proposition)などの戦略項目を策定し、次の実行段階に移るための 準備を行う。つまり、「どこに向かうのか、そのために何をするのか」を構想することになる。

そして、この本題に入る前に、人がある社会的な課題―不正義、不条理、社会的排除など耐え がたい問題や状況―に接し、それを他人事ではなく自分事としてとらえ、ボランティアや寄付には じまり、その解決に個人的にコミットし行動するに至る諸動機について考察する。複数の公開意識 調査結果と合わせて、若者の向社会的行動と、ソーシャル・イノベーションの担い手としての可能 性を探る。その上で、このように個人として意識・行動することと、さらに大きな社会インパクトを目 指して、仲間と共にアドボカシーなど社会運動を始めたり、自らが課題解決を志し賛同者を募り、

リスク覚悟で起業し、持続的に事業実践することの間には、心理的、物理的なキャズム(谷、溝)が あり、それを乗り越えて起業したり、メンバーとして参画するに至る過程を考察することになる。

5.1 社会的な課題を“自分ごと化”する動機

人は何かのきっかけで、社会課題で辛い思いをしている人たち、破壊されていく自然、活力を 失っていく町・村落などの存在に心を動かされ、同情、憐れみ、共感し、ある時は衝動的に、ある 時は熟考した後の決断として、行動を起こすことにもなる。例えば、東日本大震災・原発事故の直 後に、とにかく被災者・被災地の役に立ちたいという思いから、いてもたってもいられずボランティ

5.1 社会的な課題を“自分ごと化”する動機

アとして現地入りする人、募金活動をする人など、共感を行動につなげた多くの人がいた。ソルニ ットのいう災害ユートピアも含めて、ボランタリー(voluntary 誰からも強制されることなく自発的158) に、そして慈悲的、愛他的、時には自己犠牲的とも見てとれるように、彼らを行動に駆り立てる動 機も様々であろう。そこで、次のような問いが生まれる。

震災はその中でも特別なケースであるとしても、広く向社会的な行動を起こす動機は利他なの か、利己的な部分はなのか。人間どうしで精神的・感情的に結び付き、互いに理解できるのか。他 人の状況、感じていること、考えていることが分かるのだろうか。

人間の本性、倫理に関して、長い歴史の中で哲学、倫理学をはじめ、心理学、認知科学、神経 科学などの分野で多くの賢人たちによる論争が繰り返されてきており、近年では、本研究にも関 連するボランティア・寄付・チャリティなどの自発的行為の研究やボランタリー経済論などもある。

その中の神経科学の分野で “mirror neuron”と呼ばれ、他人の行動をきわめて微妙なところま で「鏡」のように映しだし(精神分析的には「取り込んで」)、彼の意図を理解する共感の基盤とされ る脳のある細胞群を1996年にイタリア、パルマの研究者たちが発見した。それまでの研究が、知 覚、行動、認知は相互に分離された脳の機能としてきたのに対して、知覚と行動は分離されずに、

「全体論」的に関わっていることを示唆した。

神経学者の Marco Iacoboni によれば、「自分ではない別の誰かが苦悩や苦痛にさいなまれて いるのを目にすると、ミラー・ニューロンが働いて、私たちにその表情を読み取らせ、他人の苦悩 や苦痛をその通りに感じさせる。こうした瞬間こそが共感の土台であり、道徳の土台であるかもし れないと私は思う。道徳とは人間の生物としてのあり方に深く根ざすものだと考えるからだ」、「私た ちは決して孤独ではなく、互いに深く連結するように生物学的に配線され、進化的に設計されて きたことを、この細胞は教えているように思われる。(中略)私たちは生まれつき共感を覚えるように できており、だからこそ社会を形成して、そこをさらに住みよい場所に変えていくことができるので あろう」[Iacoboni 2008: 13, 326-327]

霊長類学者の山極寿一は、「アフリカで野生のマウンテンゴリラを観察中に、そのゴリラが私に 近づき、顔をのぞきこんで凝視する。その行為は、私に対する誘いかけであり、身体の動きを私に 合わせようとしたようだ」としながら、我々は、相手と同調できる部分を自分から相手に提示し、身 体でわかることを十分に経験として積み、その結果、共感という資本から、もっと多くの「報酬」を享 受できるはずだとする[山極 2011]。

又、進化論のチャールズ・ダーウィン(1809~1882)は

The Expression of the Emotions in Man

and Animals

(1872)で、ビーグル号での5年間の航海で訪れた土地で言葉が通じないにもかかわら

ず顔の表情で感情を読み取れたことの経験から、人間の普遍的な特性としての“empathy”(共感) をとりあげた。それを誰か他人の苦しみを終わらせることにより自分自身の不快感を和らげようとす る欲望であると定義した。

158 金子郁容(1992) 『ボランティア もうひとつの情報社会』(岩波新書)によれば、「ボランティアとは、その状況を

『他人の問題』として自分から切り離したものとはみなさず、自分も困難を抱えるひとりとしてその人に結びついて いるという『かかわり方』をし、その状況を改善すべく、働きかけ、『つながり』をつけようと行動する人である」

それから140年後、心理学者で微表情研究の一人者である Paul Ekman がチベット仏教指導者 のダライ・ラマと行った対談159の中で、ダライ・ラマは、仏教の教えでも共感はやや利己的な動機 によるものとされており160、これを“seed of compassion”(慈悲・思いやりの心の種)と呼び、又、思い やりや道徳に対するダーウィンの見方がチベット仏教の考え方と同じである、としている。

さらに時代が前後するが、ミラー・ニューロンが発見される240年前、そして彼の代表作とされる

The Wealth of Nations

(『諸国民の富』)刊行の20年近くも前に、経済学の父とされるアダム・スミス が生涯で著したたった2作のうちのもう1作である

The Theory of Moral Sentiments

(1759)(『道徳感 情論』)が出版された。経済学者である前に道徳哲学者であったスミスはこの『道徳感情論』を死去 する1790年も含めて5回も改定した、彼の肝入れの著作であった。実は、個人の利己心にもとづ く利益追求行動も、彼のいうところの“invisible hand”─「見えざる手」であって、よく言われる「神の 見えざる手」ではなく、さらに両作とも、一か所でしか言及されていない─によって、社会全体の利 益につながり、利己心にもとづく自由市場主義を提唱するかのように捉えられてきたが、『道徳感 情論』からは、それとは異なる解釈と彼の人間観、社会観が読み取れる[堂目 2008][Sen 2009a]。

アダム・スミスについては、彼が生きた時代の経済社会をどのように捉え、それが提示した課題 と機会といかに対峙したかを、第2章3節で、他の経済思想家とともに、彼の思索の道程を追体験 したが、ここでは、本章の議論に関連する部分に焦点をあてて論考する。

その題名の“Sentiments”の複数形にもあるように、スミスは、社会秩序に導く道徳の基礎は、人 間のさまざまな感情が作用しあうことによって形づくられるとし、そのプロセスで”sympathy”(同感) に注目した。人間は利己的なものであると想定するにしても、他人の悲惨な様子を見て、哀れみ、

同情し、自分も悲しくなる。さらに、彼の運不運に関心をもち、想像力により彼の境遇に自らを置き、

それによって彼と同じ責苦をしのんでいる自分を心に描くものであるとする[Smith 1759]。

これは、その後のダーウィンの共感論やミラーニューロンの説にも通ずるものとも思われるが、

同情という情動で留まらずに、関心をもって相手の境遇・立場にいる自分を想像することによって 自らの内でわき起こる感情や行為と比べて、実際に観察している他人の感情・行為の適宜性を判 断する心の作用を、スミスは「同感」と呼び、その判断のもとに是認あるいは否認する。それにより、

それが伝わった相手にとり、そして自分にとっても愉快にも不愉快にもなるとしている。さらに、当 事者は相手から同感してほしいと望むであろうから、自らの感情・行動が観察者の目にどのように 映っているのかに注意を払い、観察者がそれを受けとめられる程度に低めること、そしてその際に は、自分でも相手の視点でもなく、自分の心の内にもつ“impartial spectator”(中立的な観察者)の

159 Ekman, Paul (2008) Emotional Awareness: Overcoming the Obstacles to Psychological Balance and Compassion: A Conversation Between The Dalai Lama and Paul Ekman, Ph.D.Times Books.

160 ダライ・ラマが、共感の動機をやや利己的なものとする背景には、仏教における利他、自利の関係があるので はないかと思われる。仏教哲学の佐々木閑によれば、ブッダの言葉を集めた『ダンマパダ』つまり「釈迦の仏教」で は、彼がそうしたように出家し仏教者として修行して自らのさとりを求めることを自利とし、自分の悟りをもとに一切 衆生を救済すること、あるいは他の一切衆生とともに救済されることを利他とする、つまり自利→利他の構造を基 本にしている。一方、日本に伝わった大乗仏教では、出家し修行をせずとも、他人への善行をつむこと─自己犠 牲もあれば「般若経」や念仏などを唱えること─で涅槃に入れるとしており、利他というと自己犠牲の利他を考えて、

自分を鍛錬するという自利の産物としての利他はなかなか思いつかないようである[佐々木 2011, 2014]。よって、

他人の不幸、不条理などに出会ったら自己犠牲的に利他的に行動することが善しとされていると推測できる。

ドキュメント内 ソーシャル・イノベーション生成過程の研究 (ページ 176-200)

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