言語教育政策・言語教育理論・日本語教育の状況の変遷
1 節 はじめに
本章では、言語教育政策、言語教育理論、日本語教育の論考が、初等中等教育機関にお ける日本語教育の意味と実践を、どのように語ってきたのか、そして、日本語教育にどの ような影響を与えてきたのか、あるいは与えようとしてきたのかを検討する。
本章の目的は三つある。第一の目的は、オーストラリアの日本語教師の経験を「政策、
理論、社会の歴史」から捉えることである。オーストラリアでは過去30~40年の間に、言 語教育政策、言語教育理論、そして日本語教育の状況が大きく変化してきた。オーストラ リア社会における日本語教育の意味づけも変化してきた。日本語教育に関わる社会的、政 治的、文化的、歴史的文脈を明らかにすることは、個々の日本語教師のライフストーリー を深く理解する上で必要不可欠である。第二の目的は、初等中等教育機関における日本語 教育をめぐる、オーストラリア社会のマスター・ナラティブと、それに対抗する語りを明 らかにすることである。すなわち、言語教育政策、言語教育理論、日本語教育の論考、そ して、オーストラリア社会全体において、どのような語りが支配的なのか、そのようなマ スター・ナラティブに対抗する語りはどのようなものかを、明らかにするのである。第三 の目的は、オーストラリアの日本語教育が抱える、現在の課題を明らかにすることである。
言語教育政策、言語教育理論、日本語教育の論考の歴史的分析によって、オーストラリア の日本語教育が現在直面する課題が、どのように形成されてきたのかを捉えることができ る。
本章では、1960年代以降の言語教育政策、言語教育理論、日本語教育を中心に論を進め る。その理由は、この時期が、第4章から第6章で取り上げる日本語教師の人生とほぼ重 なるからである。そして、1960年代は、オーストラリアの日本語教育が本格的に始まった 時期だからである。本章では、日本語教育の転換点となる時期で、時代を三つに区分する。
1970年代まで(2節)と、1980年代から1990年代(3節)、そして1996年以降(4節)
である。
2 節 1970 年代まで:多文化主義の模索と日本語教育の再開
1.オーストラリアにおける多言語・多文化存在と人種差別の歴史
オーストラリアは歴史的に、多言語・多文化の人々で構成された国である。最初のヨー
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ロッパ人が入植した1877年当時、先住民族アボリジニは、多様な言語と文化を持っていた。
その後、イギリスをはじめヨーロッパ諸国や中国など、多様な国からの移民がオーストラ リアに移り住んだ。クラインによると、19 世紀半ばまでに、英語、アイルランド語、中国 語、ドイツ語、ゲーリック語、ウェールズ語、フランス語、北欧の言語、イタリア語が主 要言語となっていたという(Ingram, 2004)。また、移民地域社会においては、英語とコミ ュニティ言語を教えるバイリンガル・スクールも数多く存在していたという。しかし、ボ ーア戦争や第一次世界大戦などによって、オーストラリアは親英主義に支配され、「英国君 主と英語単一言語主義への忠誠」(Ingram, 2004, p.35)がオーストラリアのナショナル・ア イデンティティとなった。そして、1901年の連邦成立を契機に、「白豪主義政策」と呼ばれ る人種差別的な移民制限法を施行していったのである。
「白豪主義」の下、移民たちは英語を短期間に習得し、英国型社会へ同化することが期 待された。州によっては、教育における英語以外の言語使用を禁止する法律を制定したと ころもあったという(Ingram, 2004)。また、英国以外の出自の人々に対する差別も社会に蔓 延していた。グラスビー(1984[2002])によると、人種差別の標的は時代とともに変遷し、
アボリジニの人々、アイルランド人、中国人、南ヨーロッパ人、レバノン人、そしてアジ ア系難民が激しく差別されてきたという。この傾向は、1980年代に入っても続いたそうで ある。
2.「多文化主義」確立の努力と英語以外の言語教育への関心の高まり
このような社会状況に対し、1960年代後半から1970年代にかけて、「白豪主義」を放棄 し「多文化主義」を確立しようとする動きが起こる。その背景には、主に二つの動機があ った(Ingram, 2004)。一つは、経済成長を支えるために、移民によって労働力を補うとい う動機である。第二次世界大戦後、ヨーロッパからの移民が減尐したため、オーストラリ アは新たな移民の供給源を求めていた。それに加え、アメリカとともにベトナム戦争に参 加した負い目と難民への気遣いから、非ヨーロッパ系の人々の大量移民を受け入れたので ある。もう一つは、アジア新興国の市場に進出するという動機である。ヨーロッパ統一の 動きが加速したことにより、オーストラリアはヨーロッパ、特に英国の市場を徐々に失っ ていった。そのため、経済力をつけつつあったアジア新興国が、オーストラリアの重要な 貿易相手国となったのである。こうした時代状況の中、1972年に政権についた労働党によ って、白豪主義の廃止(1972年)、多文化主義政策の採択(1973年)、人種差別を禁止する
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法律の制定(1975 年)が、次々に敢行されていったのである(グラスビー1984[2002])。
そして、多文化主義政策は、続く保守連合政府にも引き継がれ、確立されていった。
多文化主義確立に向けた動きは、言語教育見直しの動きへと発展していった。『移民のサ ービスと計画』4や『多文化社会のための教育』5などにおいても、言語教育の必要性が 述べられている。そこで述べられている言語教育の意義は、次の二つに収斂される。一 つは、移民の子どもたちが自分の文化やアイデンティティを維持することであり、もう 一つは、当該言語の母語話者ではない子どもたちが、コミュニティで話されている LOTEを学ぶことにより、異文化を理解することである。つまり、言語マイノリティの 権利と、コミュニティにおける相互理解のために、言語教育が推奨されたのである。
3.日本とオーストラリアの交流と日本語教育の歴史
一方、オーストラリアにおける日本語教育は、言語マイノリティの権利やコミュニティ における相互理解とは別の目的で、古くから行われてきた。日豪交流と日本語教育の歴史 を見てみよう。
日本とオーストラリアの交流が始まったのは、およそ 150 年前であり、民間人同士の交 流が中心だった。当時渡豪した日本人は、真珠産業や稲作などの産業の発展に貢献した。
農業労働者として、数千人単位で大量に移住し、定住した中国人に比べ、日本人は人数も 尐なく、オーストラリア人が敬遠するすきま産業に従事したため、オーストラリア人から 反感を抱かれることはあまりなかったという(グラスビー1984[2002])。1865 年からは、
オーストラリアの対日輸出が始まり、19世紀から20世紀 にかけて、日豪間では経済交流 が拡大した(嶋津2008)。1900年代初頭には、オーストラリアの経済人や政治家の一部か ら、アジア言語教育の必要性が唱えられるようになり、このような動きと連動する形で、
日本語教育が開始した6(嶋津2008)。また、19世紀から20世紀にかけ、日本が軍事的存 在感を増すと、オーストラリアは、国防上の理由から、日本語教育の必要性を認識し始め る(嶋津2008)。そして、Murdochによって、1917年にはシドニー大学と陸軍士官学校で、
1918年にはシドニーのフォート・ストリート・ハイスクールで、日本語教育が行われるよ
4 Migrant services and programs: Report of the review of post-arrival programs and services for migrants (Galbally, 1978).
5 Education for a multicultural society(McNamara et al., 1979)
6 1906年に、日本人の高須賀譲が、メルボルンの「ストット・アンド・ホアレ商業学校」
で日本語を教えたという記録がある(嶋津2008)。
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うになった。このように、日豪の経済交流拡大を背景とした理由と、国防上の理由から、
20世紀初頭に日本語教育は始まり、次第に拡大していった。
第二次世界大戦で、日本とオーストラリアは敵国となる。第二次世界大戦中、大学など での日本語教育は、敵国の言語として禁止された。しかし、軍では、敵国日本の情報を収 集し、分析する日本語力を育成する目的で、日本語教育が実施された(嶋津2008)。日本軍 がオーストラリアやニューギニアに侵攻すると、オーストラリアの人々にとって、日本は 目に見える主要な脅威となった。1941年には、オーストラリアとその領域の日系人や、当 時の大日本帝国の領土であった朝鮮半島、台湾出身の人々が、収容所に収容された。さら に、日本軍がオーストラリア人の戦争捕虜に対して虐待を加えていたことが明らかになる と、日本人に対する嫌悪が高まった。その一方で、空爆や二度の原爆の犠牲となった日本 人に対して、同情と関心が寄せられた。また、日本兵たちが、日本の軍国主義者たちから ひどい扱いを受けていたことなども明らかになると、日本の人民と軍国主義者たちを区別 する考え方が徐々に広がっていった(グラスビー1984[2002])。
第二次世界大戦が終了すると、オーストラリア政府は日本との関係を速やかに修復した。
終戦後2年も待たずに、オーストラリア大使館が東京に設置され、1953年には日本大使館 がオーストラリアに設置された。1957年には、両国首相の相互訪問、日豪通商協定調印が 行われ、両国は親密な関係を築いていった。このような状況の中、大学での日本語教育が 再開した。
日本語教育は、1955年にシドニー大学で再開されたのを皮切りに、1960年代から1970 年代にかけて、徐々に広がりを見せた。そして、「1976年までに13の高等教育機関と100 以上の学校に導入されるほど拡大した」(嶋津2004, p.11)。日本語学習者数は、1974年に は5,475人、1979年~80年には7,535人と、急増している(国際交流基金1975, 1981)。
教育段階別では、初等中等教育機関、特に中等教育機関の学習者が圧倒的多数を占めてい た(ネウストゥプニー1976)。
日本語教育が拡大した背景には、日豪関係の一層の緊密化があった。1970年代には日豪 貿易が急増し、オーストラリアにとって、日本は最も重要な貿易相手国の一つとなった。
さらに、1974年に日豪文化協定を結んで以来、両国間の文化交流も盛んになり、姉妹都市 協定も非常に多く結ばれた(グラスビー1984[2002])。このような時代状況の中、1970 年 代には、それまで中等教育で広く教えられていたフランス語との比較において、「日本語は
『役に立つ』ことばとして登場した」のである(ネウストゥプニー1976)。