第 4 章 民俗フットボールの存続・継承の現代的意義
第 1 節 研究の再確認
3. 研究の課題
第2 節 研究の今後の展望 謝 辞
文 献
インタビュイー及びインタビュー日程 資 料
3. 各章における検討内容
上述の目次に基づき、各章において記述する内容は、以下のとおりである。
第1章 民俗フットボールの消滅と存続
本章では、まず、先行研究をたよりに民俗フットボールが産業革命を経て消滅、存続 の岐路に立たされる状況を、近代化以前、以後の時代に分けて整理し、民俗フットボー ルの歴史的変遷について概括する。また、英国においてその存続が確認できた 17箇所 の民俗フットボールのフィールドワークによって得られた情報をもとに、現存する民 俗フットボールの特徴についてゲームの形態を中心に整理する。そこでは、ひとまずス コットランドとイングランド に区分して整理し、消滅したゲームにも言及しながら存 続しているゲームがどのように多様性と類似性を有しているかについて検討する。
34 第2章 存続する民俗フットボールの変容
民俗フットボールは、過去の形態や意味を踏襲して存続しているのではなく、時代の 変化に応じ、時代が要請する変容を受け入れ、あるいは積極的に適応させながら、現在 に至っている。本章では、現存するゲームに関して残され、また語り継がれてきた限ら れた資料や情報をたよりに、存続する民俗フットボールが産業革命 による近代化の進 展に伴い、人のものの考え方や社会の変化に対応し、どのように変容・存続してきたか について考察する。そこでは、変容内容の整理のみならず、ゲームの社会的機能に着目 してゲームの変容の多様性、方向性について検討し、近代スポーツの誕生と民俗フット ボールの関係性についても言及する。
第3章 Kirkwallの Ba’ゲームの民族誌
本章では、調査した民俗フットボールのなかで、英国のみならず海外のメディアから も取材されているスコットランドのオークニー諸島中心の町である Kirkwall の Ba’ゲ ームを取り上げ、民族誌的に記述する。筆者はこれまでKirkwallへは何度も足を運び、
ゲームを観察し、ゲームの識者へのインタビュー、住民へのアンケートを実施し、貴重 な資料も入手してきた。ここでは、それらによって得られた情報をもとに、ゲームの 担 い手の役割、ゲームを支える仕組み、なかでも幾度か存続の危機に立たされながら死守 しゲームの存続を支えた委員会 の貢献、そして住民たちの存続に向けた知恵や工夫に ついて記述する。辺境にありながら、存続するゲームのなかでも大規模なゲームが行わ れているのにはどのような歴史や背景があり、 そのゲーム存続のために住民たちは現 在までどのような取り組みをしてきたのか描き出すことで、民俗フットボールの存続 意義を見出すことができる。
第4章 民俗フットボール存続と現代的意義
民俗フットボールの多くが消滅するなかで、存続を確認した 17箇所ではその形態の 変容はじめ、ゲームに付与された意味や今後の存続の可能性に差異があるものの、それ らが存続してきた、また存続していることにこそ現代的意義がある。そこで本章では、
これまでの章で検討し整理されたことをもとに、民俗フットボール に見出し得る固有 のおもしろさについて考察する。また、これまでゲームが継承・発展、さらには創造さ れてきたことから見出せる文化的、社会的意義を整理し、民俗フットボールの 教育的意
35 義として、教育還元の可能性について検討する。
4. 論文中の表記について
本論文における文章表記及び写真や資料の扱いについては、以下のように取り計らう。
1) 筆者によって撮影された写真の掲載について以下のように取り扱う。2018 年以前 のもので、口頭ながら掲載確認が取れているものは、そのまま掲載し、拙著及び掲載 済み論文中に挿入された写真もそのまま掲載する。ただし、確認が取れていないもの については、本人が特定されないように本文の記述に配慮する。なお、筆者が撮影し た写真には「筆者撮影」などの注は付けず、また掲載許可を取って掲載するものはそ の旨を注として付記する。
2) 地名・人名等については、存続する17箇所のゲームの地名及びKirkwallにおける インタビュイーについては、英語表記を用いる。その他は、基本的には日本語(カタ カナ)表記とし、初出のみ両方を併記する。なお、他に英語表記を用いる場合は、本 文中にその旨を記す。
3) 本論の内容を補う資料等は、巻末にまとめて掲載する。
4) インタビュイーについては、その人物の紹介を巻末に掲載しているが、その掲載内 容については本人に確認済みである。
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1. 近代化以前の民俗フットボール
1) 近代化以前の民俗フットボールを取り巻く社会生活の状況及び変化
中世の人々の生活は、現在の英国の生活とは大きく異なっていた。1066年のノルマン征 服のころ、イングランドの総人口は 150~200万人(2011年の統計では約5600万人)で、
農業を主体とした社会であった。村々には教会や聖堂が建ち、人々の信仰の場として、そ して時には人々が集まれる唯一の集会・宴会場としても機能していた。伝統的な農業作業 は、三圃制に基づいて行われ、その導入によって農業生産は飛躍的に伸びたが、共同体規 制のもとでは個人の意志が反映しにくく、時代に対応した新しいシステムの改良や新技術 の導入が困難であった。農民の生活圏はごく狭く、彼らが村外の人間と接触する機会は、
一般には定期市や四季裁判11 などのときに限られていた。結局、社会全体もジェントルマ ンの家族によって家父長的に支配される家族連合体のような性格をおびたものになってい たのである[指 2012:12-13]。
16世紀に入ると、毛織物の輸出が好調で大ブームとなりイギリス経済は急成長する。そ れに伴って多くの社会・経済上の変化も起こった。その毛織物輸出の急増によって農村の 羊毛生産を目的とする囲い込み(エンクロージャー)12 が急速に展開され、貧しい農民は それまでのような生活ができなくなり、賃金労働者にならざるを得なくなった。16世紀の 囲い込みは、一般に牧羊への転換であったために、農業での雇傭そのものをひどく減少さ せることになる。その後、宗教改革、農業改革、そして、植民地政策・貿易によって17世 紀後半から 18 世紀初頭の社会的・経済的変化をもたらした商業改革を経て、産業革命へ と進展していく[川北2003:8-10]。
ところで、F.エンゲルス(Friedrich Engels、以下 エンゲルス)が1845年に21か月に わたる観察及び豊富な資料に基づいて描いたイギリスの産業革命期前後 のプロレタリアー トの姿[エンゲルス 2009]からは、工業化への転換が図られていく農村地の生活の変化の 様子を窺い知ることができる。
11 イングランド・ウェールズ・スコットランドで定期的に行われた刑事事件処理のた めの機関 および地方行政機関である。中世以降、州・特別市で年4回開催され、イングランドで1971 年、スコットランドでは 1975年まで存続した。 なお、年4回以上行われたことから四季裁 判所と日本語訳されるが、季節と特段の関係はない。
12 囲い込み(エンクロージャー)は15世紀末から 16世紀を通して行われた第一次、17世紀 から18世紀に行われた第二次の二つに分かれる。第一次は、個人主導で農地が牧羊地化さ れたことによって農民は離村し、賃金労働者化していったが、第二次は三圃制からノーフォ ーク制へと食料増産のために農法を変革する合法的な農業改革の中で行われ、第一次のよう な農民の離村とはほとんど関係がなかったとされている。
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エンゲルスは、産業革命が起こる以前のプ ロレタリアート(労働者階級、無産階級)の 生活の様子を次のように表している。「機械の導入以前は、原料を紡いだり織ったりする仕 事は労働者の家で行われていた。妻と娘が糸を紡ぎ、夫がこれを織った。あるいはその家 の主人が自分で織られないときは糸を売った。これら織布工の家族は、たいてい都市の近 くの農村に住み、その賃金で十分暮らすことができた。(中略)国内市場の需要 は、人口の 緩慢な増加と歩調を合わせて、継続的に増加しつづけ、全ての労働者に仕事を与えていた。
また、労働者は農村に分散して住んでいたので、労働者同士のはげしい競争もおこりえな かった。こうして、織布工はたいていいくらかの貯えをもち、わずかな土地を借りて、ひ まなときに ― 彼は好きなときに、好きなだけ織ることができたので、思い通りにひまを もつことができた ― 耕していた。(中略)彼らは過度に労働する必要はなく、働きたいと きにだけ働き、それで必要なものを手に入れていた。彼らは自分の庭や畑で健康的に働く 暇があり、その労働自体が彼にとって気晴らしとなったが、さらにその うえ隣人との休養 や遊びに加わることもできた。そしてボウリングや球技などの遊びが彼らの健康をたもち、
身体を丈夫にするのに役立った」[エンゲルス2009:22-23]。しかしその後、精紡機の発明、
新しい機械の導入により、織布工の専業化が進み、土地への執着が希薄な彼らは農耕の仕 事をやめたために、半農半工の織布工階級は次第に姿を消し、賃金だけで生活し、何の財 産もない新しい階級、つまり工業プロレタリアートを誕生させることになる[エンゲルス 2009:25-26]。そして、蒸気機関の発明は、人の移動を拡大させ、工場労働需要が労働者を 農業地帯から都市へと移動をさせ、人口の 急速な増加による都市化が進んでいったのであ る。つまり、エンゲルスによれば、工業化は道具を機械に変え、仕事場を工場に変え、小 中産階級は駆逐され、かつての親方と職人に代わって大資本家と労働者という対立の構造 がつくられていったのである[エンゲルス 2009:41]。
一方でエンゲルスは、工業プロレタリアートの発展が農業プロレタリアートを発生させ たという。「これまでヨーマン(yoemen)13 と呼ばれる小土地所有者が多数存在していて、
その隣人である半農半工の織布工と同じように、ひっそりと、頭 を使うこともなく暮らし
13 イギリスの農村は中世末期から、没落した封建貴族と農民でも豊かな層は、ジェントリ(郷 紳)となり、中間層の独立自営農民がヨーマン、その下に零細な農民というように分化した。
ヨーマンは三圃制農法を基盤にして 16 世紀の絶対王政期には国王の軍事力を支え、またそ の中のピューリタン信仰に燃えた人々は、ピューリタン革命の中心勢力となっていく。しか し、18 世紀の産業革命期までには三圃制農法を基盤としたヨーマンの農業経営は終わりを 迎え、イギリスは地主による資本主義的な農場経営を行う近代農法に転換する。