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アスベスト対策の見直しを求める報告・討論集会及び第 21 回総会

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面接しながらも苦しく、答えを見つけ出せ ないでいた。そこに医長がいないことが悩 ましかった。医長はお婆ちゃんから、重症 心身障害児と思える子供の話を聞いていな いことは明らかであった。いろいろと悩ん だ末、私は二人の病気の違いについて医長 に説明してもらう以外にないと決断した。

 祖母にも了解をとって医長に連絡した。

医長は私の面接の経緯を聞きながら「分か りました。その先は医者の仕事です」と言っ て、直ぐに外来の医局に来るよう伝えて欲 しいと言われた。

 お婆ちゃんが相談室を出たのは、面接開 始から 3 時間近くが経っていた。私はぐっ たりし、緊張のあまり精も根も尽きた感が あった。一人の子供の命がかかっていたの だから当然ではあるが。

 お婆ちゃんが退出した後、医師と MSW のどこに面接のポイントの違いがあったの

だろうとしきりに考えた。医師は、病状の 説明や治療方法について常に医学的な説明 をする。しかも確率でしか話せない。当然 と言えば当然だが、選択が求められる患 者さんには不安定要素が付きまとう。そ れをカバーするのが、医師の患者さんへの 接し方、その態度や言葉使い。つまり医 学的な根拠や技術ではない人となりによっ て、一つ一つの言葉への信頼が宿っていく。

MSW はどうか。常にあるのは「何故?」

という問いである。問いへの回答によって 納得する。しかし、一般の常識的価値観で 納得するのでもなく、自分の価値観で納得 するのでもない。その人の価値観を納得す る。言い換えれば受け入れるのである。こ れが MSW にとっての信頼関係構築のポイ ントである。さてこの事例では、どこがど うであっただろうか。  (了)

石綿健康被害救済法三周年行動にご参加を!

全てのアスベスト被害の公正な救済を求める 3.27 集会

2009 年 3 月 27 日(金) 13:00 〜 14:20(12:00 開場)

会場:日比谷公会堂 集会終了後、東京駅方面へデモ行進

吉川照芳さんを偲ぶ小さな旅

神奈川県勤労者医療生協  ,-&./

 2 月 5・6 日に名古屋市で開かれた 09 年度自治労の全国安全衛生集会に出席し た。その後、自治労安全衛生対策室の上野 満雄さんや原知之さんに集会前から誘わ れていた吉川照芳さんの墓参に加わった。

吉川さんは労働基準監督官として各地の 労働基準監督署に勤務し、山形県米沢労 働基準監督署長を最後に退官、しばらく 置賜労働基準協会専務理事(この協会は 山形県南部の 2 市 4 町をカバーしている)

をされたのちに、奥さんの郷里である福 島市飯坂に居を定めて、労働安全衛生の コンサルタントをされていた。井上浩さ んに私淑する、いや直接にもさまざまな 助言も受けていた後輩であった。多分そ の関係で自治労との関係も出来たのであ ろう。私はしばしば自治労関連の安全衛 生集会でお目にかかっていた。ところが 4 年ほど前に吉川さんは大腸がんに罹患し 手術を受けられたが、術後は順調のよう で活動を続けておられた。しかし、残念 ながら昨年肝転移のために亡くなられた。

享年 75 歳であった。

 吉川さんが愛知県のご出身とは聞いて いたが、私は詳細を承知せず、皆さんの 後をついてゆくばかりであった。そもそ

も私の中部地方の地理的な知識は、やや面 的なものもある京都や大阪と違って、まっ たく主要都市中心部間の<点と線>だけ で、名古屋といえば行く先は駅の近くの 会場か名古屋大学か名古屋国際会議場く らい。私には地下鉄利用のイメージが強 く刷り込まれていて、あらかじめ配られ ていた宿舎の地図が金山駅近くとなって いたので、鉄道公安官とおぼしき人に「金 山駅へ行くのには、どの地下鉄を利用す ればよいですか」と聞いた。彼はすごく まじめな人だったようで、「地下鉄で行く のですか。それは面倒ですねえ……」、いっ とき間を置いて、JR で岐阜方面行きに乗 れば 2 つ目だと言われた。地下鉄で新橋 駅に行きたいと東京駅で聞いたようなも のだったのだ。とっさに「はあ、そうで すか。有難う」と、私はとぼけたような 返事をしてしまったようだ。

 JR 金山駅から名古屋駅へ、そこで名鉄 名古屋本線に乗り換え名鉄一宮へ、汽車 式座席の電車はひどく混雑していた。途 中駅の国府宮(こうのみや)で日本三大「は だか」祭りの一つがあるためだった。たし かに国府宮で大半が客が下車した。駅を出

て間もなく電車は、進行方向左側の市民 公会堂と表示されている建物の辺りで急 停車して、<ふんどし>姿の男の人たち が見えるというアナウンスがあった。車 窓から見入ったのは、どうも私たちグルー プだけのようだった。名鉄一宮でさらに 名鉄尾西線に乗り換え、この線は単線だっ た。そして森上という駅で皆さんに続い て降りた。駅前には半分傾いたような定 食屋と表示のある小さな店がある他には なにもなかった。どのくらい電車に乗っ てきたのか覚えていないくらい、私はは るかに広がる濃尾平野の冬枯れたセピア 色あるいは渇いた土色の農村風景に見と れて飽きなかった。かつて私が勤務した 山形の今頃は、雪に覆われ白一色、山裾 をぬうように進んで行ったものだ。吉川 さんもあの雪は持て余していたのではな いかと思った。

 駅では程なく吉川さんのお兄さん・そ の長男・長女・長男の奥さんの 4 人がお いでくださり、私たち一行 6 人を出迎え てくれた。ワンボックスカーと小型車に 乗り込む前に、お寺さんとの約束は 11:30 なのでまだ時間があるからコーヒーでも 飲んでいきましょう、と甥御さんが言っ た。「どちらがいいかしら」と、姪御さん。

二つの喫茶店の名が出た。どちらもカタ カナ名だった。まったくの田舎町に選ぶ ほどの喫茶店があるのが驚きだった。

 「照ちゃんの好きだった方」に決まり、

車は結構走って、古いが、明らかに農家

と違う建物の前で止った。お店の広い前庭 には沢山の小型車が、駐車というほどの 規則性はまったくなしに止っていた。店 内の安ものっぽい赤ビロードのソファ(正 直な直感的な感想、失礼ながら多分間違っ てはいまい)には、若くない男女でほと んど満員状態だった。私たちはばらばら に席を取った。ここら辺ではお馴染みの 風景で、お客さんたちは朝からゲートボー ルをしての帰りだという。それはともか く、私が冬枯れの田園と森に囲まれた喫 茶店の不思議を口にすると、一宮市の影 響なのです、尾張一宮は機織りの街―バッ タンバッタン騒音がひどくて、工場のな かでの商談はできないため、町ごとに喫 茶店がある。それでこの辺りにも、と説 明された。コーヒーが運ばれてくる前に、

「おまけ」というあられと角砂糖の半分ほ どのチョコレートが運ばれてきた。おま けはまだあって、ゆで卵が出て、さらに

「バターですか、おくら(?)ですか」と 聞かれた。食パン 1 斤 4 つ切の半分のトー スト、「おくら」は私の聞き違いで小倉(あ んこ)のことだった。この店を出る時に、

ダンボールの中にビニール袋入りの銀杏 があった。売りもので、岐阜県に接する この祖父江町は(稲沢市に吸収合併され たが)、全国一の銀杏の産地なのだそうだ。

すでにいくつも見た、完全に落葉して複 雑な枝ぶりを示す 170 センチほどの木が 整然と並んでいたのが銀杏のなるいちょ うの畑だった。

 吉川さんが眠るお寺は園林山来遊寺と いう。小さいながら、かなりの名刹とみ えた。蓮如上人の像が本堂左側にあった。

ということは浄土真宗の寺である。蓮如 上人は 15 世紀の人、本願寺 8 世(この点 は、近年、仏教研究にも力を注いでいる 原さんが小声でしてくれた解説)。本堂の 裏手に吉川さんのお墓はあった。その一 角はほとんど「吉川家」の墓ばかりだっ たが、吉川さんのところには、すでに花 が供えられていた。そこに私たちが持ち 込んだ花を加えた。その墓の左側 3 つ手 前に、60 センチほどちいさな区画に仏様 の石像を乗せた、高さ 175 センチ程の墓 があった。ここにも花が供えられていて、

白血病で 16 歳の若さで亡くなられた吉川 さんのお嬢さんのお墓であった。墓石の 裏側に「吉川照芳建之」と彫られていた。

吉川さんにはお子さんはいないと聞いて いたが、耐え難いくらいの悲しい過去をお 持ちになっておられたのだ。吉川さんは 名古屋より西のほうに行くときは、必ず 祖父江にきてお墓参りをしていたそうだ。

立派な本堂で和尚さんの読経される間に ご親族に続いて私たちが次々に焼香した。

 その後、お寿司屋さんで和食のフルコー スをご馳走になった。吉川さんが祖父江に 来ると 2、3 泊して、たいてい一宮競馬に 行ったそうだ。そして馬券が当ると、この お寿司屋に皆さんを招いて食事をよくし たものだという。吉川さんは国家公務員 だったから、任地ではギャンブルなどし ない、模範的なシビルサーヴァントをして

いた。それで、任地を離れると、少しはめ を外していたのだろう。はめを外すといえ ば、労働基準監督署勤務時代に赴任してき たキャリアで生意気な奴がいると、しばし ばいじめたという話を聞いたことがある。

キャリアが赴任すると、その土地の業者に 次つぎと酒席を設けるそうだ。「あぶない 業者」の招待には応じないように話すのだ そうだが、いばり屋に限って周囲に相談も なしに出席する。出たのはわかるから、そ の後にまずかったですねえなどと脅したり したという。

 吉川さんは労働基準監督官だったから、

活動のスタンスは基本的に「法規準拠型」、

なかなか「自主対応型」の労働安全衛生活 動を理解してもらえなかった。しかし、彼 は労働現場の実態をよく把握していたに 違いなく、労働安全衛生マネジメントシス テムにおける事業所の安全衛生水準のスパ イラル状の向上、労使参加の Plan(計画)

Do(実施)Check(評価)Act(改善)→

Plan に手応えを感じた。福島の労働安全 衛生コンサルタント時代には、OHP から PC のパワーポイントなど最新機材を全部 揃えたと自慢されていた。まだこれから大 いに活躍していただきたかったのに、同志 を一人失ってしまった。この墓参には自治 労福島県本部副執行委員長の秋葉政市氏も 参加されていたことを付記しておく。そし て、もう一つの不思議な偶然、家に帰って みると妻が銀杏の殻剥きをしていた。それ が、なんと、200 グラム箱入りの「祖父 江農業(農協ではなく)銀杏」であった。

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