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ドキュメント内 レヽ。 この耕地整理 の後,大正 5年 (ページ 143-160)

再 近 世期の別家形態

近世期 のfp」族組蝕 は村円忙おける戸激 の増 加に伴 って・雀正 幸れ るO戸数 の増加は,江 戸時代 とい う封 鈎 的75:時代 に あっては,おのずか ら妨

又.その′ト地域で ある‑村 円におけ る "別家 ,がほ とん ど唯一 の手段で あったo Lか し別家 も藩 か らの棚 艮を受け ざる をえな く,そのため程 々の形辞 を生 み出す忙至 ったが.それ らを弼尾 及び他村 の史料 を参考 に考 えてみたいQ

<下層毅民の独立 >

梯尾における近世初 ・中期 の基礎発展期及び充実期 の戸戟増加 もこの例 IjC蘇れ るもので比 丘いたろ う。

その別家の過程は明瞭 にQi:杷塩 で きないが次の史料忙 上って もその一 時が うかがえるo 乍 恐 口 上

一 群商都妹尾村私共銘 々先祖ノヽ御換地始マ T)之百姓斬左 工門 上申Q井以 後

一 傭 甲男鮎郡阿骨相与八郎 卜申モノ暫下人 一泡居 申晩 其節家教 モ無御座候 一付右与八郎下人張込 御願 出相済抱Jm之円二相応成家電軒建#・遠見等少 々拝逝 シ居 中候O

‑ 右 二依而先祖ヨ.i下請 七朱 .)不 申僕共。

‑ 右与八郎子孫只今 六軒 ̲相成居 申候.

‑ 当年 ノ去風口 達久也候I上下着棟上敷侯 二仇

l ‑ 右 一依耐私央銘 々吟味仕僻間 一同処油武 卜申モノ分家致候同上下七棟上敷倣様 ‑申候又 々吟味 致侯 ロ ハ私共釦 相済 ヌ様 二申拭候o失政 出入出釆放免 故村 御役 〈曹 サバキ申□ □ □ 私兵釦 御改 申候 仕入而 中破付鈍 早速 如何様央可 申侯江兵一 着六軒之 モノノ、村御 サ^・キ地不申儀 一付

‑ 比鑑 刷上何役ヨIP 上候O

‑ 私共銘 々等モ村側役 人へ 口上番数候 卜申破付払 右 二依而拳指上候宜 債江

付 呪〉

野有事有償Q 寛政五年丑4

横尾村

若 三 郎 □ 右 工 門 口 □ □ 松 左 二 門

右 左 工 門 長 所

J=記史料 に よれ ば,備 中賓陽郡阿曾村 (総社市 阿哲村 )の与 八郎 とV,う者 を下人に召使 っていたが 当 時家数 も極少で あったので御上 に願 って家一軒 .藩道具 を持 たせ抽 出畑 の円に奉公人分家 をさせた.

注 ・この年代 については伊丹正秋氏裁 「奉願上」甲に

正保 三乙並年九月・歳四十二 (甲曙 )私下人丑 右与八郎 二当村円江国 保 卜申軌 三畝弐 歩之私抱畑之円相乱 相応之/」、□ 庫過 シ散現地7作 ラセ中臣琴有償o (以 下略 )

‑511‑

とち 9正傑 5年 (1641)分家 と考 え られ る。

と ころが与 八郎子孫は丑永5年(1795)には d僻に もなった ことが記 され て

おり

,当時血族者の 別家 の佃に奉公人別家が あった こと:/J甥 解 ざれる。岡山帝に封バては ,このような隷属良民 (醇代 )の雫劫壮明暦 元年,(1855)の郡甲改革で なされ,半奴隷的 な雅代 (鈍犠段民 )は一定年限 を切 って解放 され,小農民 の 自立化 を促進 したO をほ天利二年(17 16)に仕人身売異の故 禁,年季奉公人の期柵を10年に限 定 した ことか ら合 わせ考えれば,横尾 において正保 5年の奉公人分家 と同様 の分家が 17 ・8Cを通 じ

て をされた ことは推足に足bる もの と思 われ る。

又上記史料に比率公人の身分について,与八雄弁家当時は奉公人の隼着用が許 され てお らず・占軒 と なった軍政年間にかいて も本家 とのru)に異論が あることが示 され ている この串案比率公人は分家独立

した場合で も.又 さ らに約 5代 (15n年 )を‑ て も本家 との上下関係は消失 せず 日常生活 にが へて区 別差別が なされた ことを物酔 っている

O

「岡山県 の歴史」 に よれば同例 は御 津郡加茂川町,その他 で も み られ,本百姓 と平甘姓の側 の上下関係は江 戸時代 を通 じで一般化 してLlた ことが理解 され る。

<扶継 別家>

別家比山問い の′J、鮭村に とって村落共同体柵庇の地小単 位 たる 「家」 の拡 大の唯一の要素で あったが , 小段 民の 自立 化は土地所有額純化 の促進 につ杏が D,ひいては藩財政 を窮乏 させる原因 となったので岡 山噂にかいては明磨二年(165占)一 月著 名な 「別家禁止 (条件 付 き許可 )令」 を公布 し,別家 を顕 則的 に敷止 したo Lか し,延宝 ・天和の慢 性的天災凶作 に対 し一定数 の百姓 を維持 す るため に,良筆元 年 (1684)撫 継別家 を許可 した。

点字元年の法に 上れqま. 「話部 の円他人の地珠 を男いて其後 ,その他練へ只主の件又は兄弟を仕付 ける ことは差支 ない旨」 を命 じているC,

では これ ら株継別家 の現象が晩尾 において見 られ るであろ うかO 当地 においてその史料を発見 する こ とはで きなか ったが,蘇村 の長軌 大窪 .山崎 な どに史料が多 く発 見で きた ことか ら,帝政上の 「P,11家 禁止」 は当だ;横尾‑ も浸透 していた ことを示す忙足るであろ うO長野村にお けるその史料 を示 してみ よ

うC, 奉風上・.

‑ 辞有郡長野村勝射 細 畑 四反九畝九歩 静六石四斗宅升,家弐間三間 ニテ 鰍酔漢処 収礎之新円庭狭 少難儀仕侯二付有合 ノ竹木 ヲ以 比匿屋薮 ノ円弐間四間半轟茸之 株屋 (こな しや )新 二建為火用心弟 又右衛 門 ヲ家守二浪 シ駐 中皮革有償 o尤扶継別家仕侯竣 工而ハ触御座候o頭 御改 八月判形 之節ノ、本 家江呼寄倒改謂町 中候。願上過敏為仰付候ノ、バ卿有可韓存候以上o

文政十年玄二月

長野村勝蔵 (名主 大庄屋の亀有 ) 書出勘左術門殿

一312‑

1 円 存

子 f

‑ 印南都度野村独身市五郎双三十九拍 別 田電反五畝匂歩宅間半 二宅間半家其所持仕居 申候 O若病死 仕儀ハ,,・右出畑家諸道具一打練兵同村伯父干八郎江譲渡 シ跡株 梓続 仕七申圧奉存亀 可祉為下候然 ル上 ハ鼻輪 中老御座候愉数億為後門存甘差上 申候 己上 。

文化十三年子 八月

名主背 筋盤

「華厭上」 では肪戒は砲 田畑に家一軒 を所有 して い る が .収棲時の作葵不便 を理 由に家敷円に株屋 を建 て,弟又右衛門を家守 として「準別家」の形 を取 る ものの冥質的には別居 しているO (この形態を

「円

」 とい う。 )しか し,頭簡故の時は本家へ呼寄せ る ことになっておb社会的 には一軒前 の本 官姓 として許 されていなho彼 ら 「準別家」は公的 には本家円に含 まれ大家族の型 をとるため表面上の戸数 の増大にはむすぴつかなか ったo

「円存蕃」にi;.L^ては,独 身市五郎鹿が若死 したためその形ばかDの盲姓株 (一汀枚 )を同村 円伯父 が継 ぐこととな ってお り,溌百姓 の跡株 の補充策 と しての株継別家の形態 を知 る ことが で きるO ( 「一 打株別家」 といわれ るO )この株継BJj家 も当村円の本首姓戸数の増大にはつ なが らず,近世後半期の本 百姓数はほほ一定 に保 たれた ので あるo

これ ら同村円の例か らして,横尾 において も1 8‑ 1 9C性 2 5戸種皮 として安定 し戸数 の敢増散減 紘 なか った と考え られ る。

しか し,江 戸末期 になれば各種別家創 出に よ り′J、家族の増 加が促進され一般的に仕官姓株 全体 と して 家教が増加 したが当地 においてその ことは明 らかでなhoが .明治期に入 b明治2 0年 「土地所有著 名 等帳」 その他 に よれば,村円 5 4 .5名の名が配敢 されている ことか ら横尾 において も分家が 多数創出 された ことを考 えさせ るO

以上近 世期におけ る分家の形態 と紺に よる統制を合わせ考 えて釆 たが,前述 の戸数の変 化 に も明瞭に 表 われている ように帝の法的統制は′」、村商円に もきひ し く行 きわた ってお D, ゆえに近世後半は山問い の′J\村落 としては停滞的に な らざるをえ なか った ものと思われ るO しか し.弐面的 V̲停滞的てち9安定的 であるほ ど,

における同族の結束,意織は強 まったのでは なかろ うか。

(C) 近世 におけ る齢接村落 との関係

一宮町における山問いの′)、血

横尾は近世部落 として比政的順的 な発達 を とげて きたが,村落 円の発 展 と平行 して村落の外形 をどの よ うに整えてい ったか を降村 との関係か ら考 えてみたい。

汁) 17Cにおけ る村 境の決定

現在蛸尾は一 宮町の酉北端 で西 .北 をそれぞ れ異郡 と接 しているO近世におい ては西 の備 中嘆は天正 年慨に決定された ことは前述 したo しか し,近世期 vQTt化すなb‑城 粁市町 との境は一 帯 を津福部 口分馬屋 郷 として行政的に吐区分 され てか らず,そのため村落 の境界仕橿 めて不明瞭 で あった と思われ るO

そ の点 に関 して 「横尾村古来語伝へ」 の後半 に

右 芳賀村与乎衛 卜申者 算脚 五 ク村之名主 二而御座候O新左術門義一村柵 一被為仰付候 円ノ、村山境碓

315

ト不革存村 々名主之仰付之節 与平衛 村境山域 申渡 ソ銘 々改相 二両以来槻一 ヶ所□ 加重村 へノ、開 キ不 利 尤 ハ右五 ヶ村之円 モ村境モ究メ朗処‑ ヶ処 二両モ仕 り不 申候 o

とあるO これに よれば17C初現にかい ては村 山項 が明確 に決定 されてお らず.村 々名主 の意見 に よ 芳頚飾五 ケ村の名主与平

に より決定 され,それ以 後は出作

D

を してい た場所 で も村外て執 成ハっさh t 地 を開 くことが不 可能 になった ことが憩解で きる.

名主与平衡 に よる村 山境 決定 の年代 につい ては史料 中明確 で ないが,与平術 の登場 す る他史料 よ り

定 するに 17C前半がその時期に相 当する。

潜政 当初 の基本 的 な検地 で ある慶長 九年 (16 04)の検地 はその甲で 「当毛 の小 作」 を検 地帳 の ・ 帝人 とす る とと及 び

,

「人 くみ あしき」郡村 の壌界 を新規 に確定 する ことの2点 を重視 してい る。 (・'

□澄夫著 ・r岡 山乳 )又 との境界 の新 規 の確定 扶荘 園体 制化 の錯綜 した境 界 を近世的 な行政 郡村 の境 熟 一再栃成 す る もので ある ことを同髄は 指摘 してい る。

この ことか らも17C前半 の境界確 定は正 しい と考 え られ る。

しか し,村落 円部 の膨張 .生産 の拡 大に よる空間 の需要が増 大す るに伴 い.野山‑ の入 会 .留山 の盲 E,隣村へ の熊田等 に関連 して問題が 寝 る ことは当然 で あ b,その ための訴訟が しば しば なされ てh ・

門出の問題 については 前 述 し 万治5年(1日 0)以降 の狼 谷への開出 を示 したが.反 対 に近掛 か ら横尾 への開田比 なされ なか った ろ う,か. 直旗 の史料 は ない ものの明治8年 の名寄帳 に よれば,執長 円土地所 有著名の中に浄福郡三 和村持 ち7名,賀陽郡 上足守村1名, 寄付 1名,御終郡 EE仲 村1名

,二

陽郡平山村1名 ,棒高跳 雷吉村 1名.その他2名が明記 され又 ,明治2 2年の 名寄帳 に も同様 に記 さ;

てい る.そ のE当地面 横は ,最 高者で4反7畝9歩.山林 で9反5畝10歩 で あるが

葬D

の ものは趣 め・

少 ない. しか し,三和村が猿谷 .両室村 ,阿部倉村 5村 か ら成立 してか9.近世初期 に晩 島村 か らこ(

5村‑ 出作 りが成 され てい る ことを考 えれば . この5村 か ら横尾 ‑ の開 Bjが あった ことは 推足にた b るで あろ う。

注 ・魂谷は芦別卿 寸(津 高町 宙吉村 )の円で あったが ,貞掌5年(1 る8 6)に分 村。安 部倉村 はi 金村 の円で あ ったが 貞事5年 に分村O

明治8年狼 谷 ,安部倉 ,面 墓相 は合併 し三 和村 と改 D,明治2 2年馬 屋上 村に属 し現在は津;

町に在村するO

では実際 の訴訟は L^か なる ものがあ るのだろ うか.近隣村 関係 の ものを上 げてみ ると次の よ うにな.

寛文7年(1日 d )〜天 和5年 (168 5) ・,1ム年間 は野 山勝手 しだいに隣 村 に さわ bなけれ

G

入会許 可。

天和5年( 16 85 ) ;狼 谷百姓 自林願上 に対 し五 ケ村 (狽 谷 ・横尾 .長野 .池谷 ・概 ケ部 )盲姓 中 1軒 当95反下付 。

元蕨元年(16 99 ) ;面壷村 ・阿部倉両村革 山は村 円入会か ら自林 に分割。 ために牛倒 鳩 の不 自

E

が起 る。

享保5年( 171 7) ;面 壷 ・阿部倉 両村 は狼谷へ 牛 を追 込又 ,草 を苅取 るため猿谷 の者 迷惑 に て召 隈 を要請0

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ドキュメント内 レヽ。 この耕地整理 の後,大正 5年 (ページ 143-160)

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