考 田 察
第一に宗教教育の意義の規定である 0 これによって学校 と教 会 ︑即ち︑ 学 稜の職能と教会の職能︑学校教育と信仰 伝 道 ︑ 或
は 学問の自由と信教の自由等々の関係 並 ぴに問題点等の 解決 基 準 としての試みとしたのである︒ 第二に教材についての吟味であるが︑これは質と量が絶 対に 必要であるが︑それにも拘らず三回の改訂ごとに改悪さ ね ︑今 や 正に消滅に瀕しょうとしている実状について究明する 第三に補足教科として︑今般教育課程に追加編成きれ た ﹁ 道
徳 ﹂﹁特別教育活動﹂等の利用について検討する︒
第四に宗教科教員養成についての問題
等々の論考を試みようとする︒
一つは単純︑素朴︑一つは庶民的普遍性︑一つは具象 性 であ
る ︒我々はこれ等の要素を彼の宗教的意識の基本的性格 として
その意識の中に見出そうと思 う ︒単純︑素朴については 彼の宗
教 的意識が当時の新教的福音主義的精神を一面において 共有し ている事から先ず理解される︒吹に我々は彼の姉の書い た 有名
な パスカル伝の諸所にこの証明を見出す事が出来る 0 時 にこの
晩年の宗教意識についてそうであるが︑我々はその 過 程を彼の
生涯︑特にその実践的生活を通して知ろ う とする︒次に ハソセ
1 0 スタイルにおいて︵特に五五 0 香箸︶これ等の特長 を 直観
出来るが︑我々は パソ セーのスタイルと福音書のスタイ ルと の 類似を通してこれを論ずる︒第二の庶民的普遍性につい ては︑
先ずパス・ 力ル が ブ ラ ソス ・モラリストの一人である事 から推察
する 0 吹に彼の神学的理念である﹁隠れたる 神 ﹂につい て悟れ
ば︑ 即ちこの理念は イヱズス において具現しているが︑ イエ ︒ ス スは 我々と同じ人である事である 0 従ってこの神は我々 の 凡て
に近 ず き 得る神である︒而もこのみ ぢ めな肉体をとられ た 変な
る 神を特に彼は﹁ 愛 となぐさめの神﹂として強調した 0 ハス カ
ルの 貧しき人々の愛はこの点に深い関係を有 っ ︒第三の ゑ象性
については︑隠れた 神 なる イヱ ズスは う つ せ みの神なる 事 によ
つて︑この イヱズス に彼の一切の宗教意識を集中した パ スカル の 宗教性の具象的性格は明瞭であるが︑この具象性の問 題は更
に 彼の聖体観︑教会観についても同様に論じられる︒ く 田楽の楽器︵ 笛 ・太鼓・腰鼓・ ササラ ︶と田の神の依 代 とす
る花傘 ︵風流傘・ 台傘 ︶や大幣︵ ボソデソ ・シナイ・ ヤ ナギ ︶ および田植子の花笠をもちいるのが常であり︑念仏踊の はげし い 跳躍乱舞も田楽 躍 の 鑓送 呪術舞踊とかんがえられる︒ また 田 楽 系の民俗芸能とされる太鼓 踊 ︵ 鼓踊 ︑ 翔鼓踊 ︑正太 鼓︑ザィ ザ ヵ婦︑楽打等︶はその唱え歌の調子が大念仏のそれと おなじ で︑念仏踊にもちいられる 瓢 章や鉦をつか ぅ ものがあり ︑また 盆の季節におこたわれるのも念仏との結合をおもおせる このような現象はまったく偶然におこうたのであろうか
れを平安時代末期の京都今宮神神やすらぃ婦︵やすら ぃ 花 ︑ 鍾 ⑤ 花祭︑紫野御霊会︶に見ると︑用 歌 と念仏の結合が見
られ︑︵
41
農耕儀礼と念仏
重
五来
わが国における念仏の受容が来世信仰すなわち浄土信仰 にと
も な うものであったことは論をまたないが︑現存の民俗 的 念仏
のあり方から見ると︑農耕儀礼との結合が意外にひろく 且 つふ
かいことを知るのである︒彼岸念仏︑天道念仏︑虫送り 念仏︑
雨乞 念仏踊︑豊年踊︵盆踊︶十夜念仏などはいずれも 農 耕 の 開
始 ︑害虫駆除︑雨乞︑収穫祭などに念仏の結合した行事 である︒
ところが今日全国に分布する大念仏系の念仏踊︵放下︑ ジャ けん は いししあどり ソ ガラ念仏︑六斎念仏︑掛踊・剣舞・鹿踊・ 墓 獅子等︶ はおお
一九二八年ベナレス︑ナジャイ ︑オメソ で クリシ ナムル テ ィ が 講演︐ @ なものを自分で編集して オラソダ で出版しな エ木 や Ⅰ L 山下の
ぎづお e 伍 ︒日を中心にして彼の考えを考察して見たいと 思 5 ︒
斎藤昭 俊 クリシ ナムルテイの
自由なる生命について
﹁ 吾笛 たいこすりがね﹂で乱舞 し ﹁傘の う へに風流の花 をさし﹂また﹁なれにかっこを つ げ﹂鬼や貴徳の面をつけて歌 い はやし たが︑田歌の一節ごとに﹁ ナモヘ ﹂のリフレイソがつ いてい た ︒ こ 二の御霊会はすでに正暦五年︵九九四︶には お︐ ﹂なわれ ており︑これから見れば天慶八年︵九四五︶の 志 多羅袖 入京も 石清水御霊会であり︑天慶のはじめょり天禄三年︵ 九セ 二︶ ま でに郡部 に 念仏をすふめた空也 が 紫野御霊会のやすら い 踊の ような田楽的念仏踊をおこなったと推定することは不可 能 でな いであろう︒この推定を裏付けるものとして拾遺往生伝 の 沙門 情海伝に ﹁正暦 文初 ︑勧進自他︑修七日念仏︑所謂 超 証 大念仏 星也﹂とある一文は注目さる べ ぎであろう 0 そしてわが 国 固有 の 農耕儀礼たる田楽に田植時の労功鼓舞や農耕予祝や雑 便竹田 楽 芸能のほかに祖霊 鎚 送の観念があることをかんがえれ ば︑銀 送 呪文としての念仏と田楽の結合はきわめて自然であっ た L Ⅰ 音円
ぅ ことができる︒
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ルタ
lの社会的態度について
殊に農民戦争を中心として
| 坂井信
生ドイッ農民戦争に於けるルターの態度は ︑ 二つの時期に 分か ち 得る︒即ち シュロ ー ベソ を中心とする比較的穏和な 時 ぬと︑
チュ l リソゲソ を中心として︑ミ ニソ ツアー指導の許に 激化し た 一五二五年四月以降である 0 そしてこの時期は夫々 ︑ ルター の一 ちの文書﹁シュ ロ ー ベソ 農民の十二 ケ 条に答える 平 ねへ の 勧告﹂及び﹁農民の略奪 殺 数の暴徒に対して﹂によって 代表さ れる︒ 此の二文書を比較すると︑前者が極めて穏便で農民に 対する 同情に満ちているに対し︑後者は憤怒と激烈な語調で 満ち︑ 著 るしい対照を示している 0 これは︑ルターの態度に顕著 な 変化 が 生じたとするより︑むしろチュ 一リソゲソ 農民の過激 な 暴動
という現実的事態の変化の故と解すべぎである︒ し 上り ゾ ナムルテイは目的を確立して︑真理を求める 欲 求 を強
くして︑経験を生かしていくと真理と合一するという︒ 真理の 体験については鋭い観察と理解によって心に 津 んでくる ものと して︑彼の心に 拝 んだのが﹁最愛なるもの﹂である自由 なろ 生 命であった︒彼は全くの宗教 大 であって︑真理の発見は 知的理
論を超えたものであるとしている︒
寺院成立の 一 形態
鎌倉宝戒 手 について 佐藤行信
寺院の成立形態の一例として鎌倉にある天台宗の宝戒 寺 を聴
すた ねち︑シュ ヮⅠ
ヘソ 農民の法律による裁定を求める 平和的 態度に対しては穏当な解答を寄せたルターは︑社会 秩序を撹 乱し︑社会的危機を増大させたチュー リソ ゲン農民の暴 力的涜 神 的行為に対して︑国家権力に よ る鎖肛を強く要請して いるの である 0 国家権力は ︑斯る 事態に際しての 剣と 法を委ね られて いる神聖なる機関だからであり づ 現世的主権について﹂ ︵一五一一 三︶に於ける彼の主張を︑ここでくりかえしているにすぎ よへ ナん @ Ⅴ ︒ た ビチューリンゲン農民の動ぎに対する憤怒の様がそれ を 著る
しく強調する形態をとって示されているのである︒
農民戦争時里方されたルターの社会的態度は︑人間に 賦 興さ れている歴史的階層的社会秩序が神の意志の直接的 顕 現 であ
り︑ 神に対する無条件的服従と︑与えられた境涯に 於 げる無条
件的 順応とを同一視する摂理信仰にもとずく一貫した 彼の占示教 観念の所産なのである︒それ故に︑ 相 矛盾するが如 き感 を 抱か せる 三 文書は︑その根底に一貫した立脚点を有するので あり︑
彼の裏 切 行為或は一貫性を欠くの如 き 批判は ︑ 誤りであ ると 云
ぅべ ぎである︒
43@ (267)
り 上げて見ました︒寺院というものは︑その縁起等から 判断し
ますと︑直ぐに大伽藍が造営される よう 仁一般に考え 勝 ちであ
りますが︑実際には大部分の寺院は︑零細なものから 僧 佃 Ⅲの古本
教 活動の結果段々に 大 ぎくなるのでありまして︑決して 最初か
ら 大伽藍が出来上るものではありません︒
こ 上に上げました宝戒 弄 は︑開基が後醍醐天皇という 有 力な
外護 者を持っている寺院でありますが︑この寺院にした ところ
で︑宝戒 寺 と言 う 寿名と開山の恵 鑓 のみが最初に定まり ︑実際
に 寺地を得たのが創立年代の建武二年より十三年後の 事であ
り ︑伽藍が出来上ったのは十九年も後の文和三年の事 でありま
す ︒
そも
戸
Ⅱこの寺は︑後醍醐天皇が新田義貞に命じて鎌倉 幕府を 討伐された際に︑北条高時が一族と共にその家を焼 いて自主 自
しましたので︑この高時の亡魂の恨をなだめる為に足利 尊氏に
命じて創建させたのがこの宝戒 寺 であります︒
先に述べました様に︑住職は定まっておりましても寺が 実際
に 出来上って居りませんので︑開山は勿論鎌倉に来て 青 ませ
ん ︒この開山の恵 鎖は ︑後醍醐天皇に戒を授けたり天皇 の 諮問
にあずかつたりして信任が厚く︑天皇の命に依り法勝寺 の 住職
なしていましたので︑実際には弟子の惟 賢が 宝戒幸造 営の為に
努力をしています 0 しかしこの 惟賢 でさえ宝戒 手 が完
威する
迄 ︑宝戒寺の造営料所である金目の光明寺と言 う 天台 士 不の寺に
住職し乍ら造営に力を注いだのであります︒
なお創建途中で宝戒寺は足利尊氏に没収され︑足利氏の 敵手 テカルト哲学の誤謬としてスピノザが挙げるものは 第 一康
因 ︑万物の根源の正しい認識を持たない事︑人間精神の 其 の 本
性を認識しなかった事︑誤謬の原因を把握しなかつた 事 の 三で ある︒意志を知性の及 ぷ 範囲以上に拡げた デヵルトと異 なり︑ 決 定論の立場では意志自由は問題とはならない︒元来の OhW‑ 円の︵ ‑O
は @ ヨヨ のま り ︵のであると同時に 00 コのキ である 0 直覚 的であ
り︑ ㌧ロロの ぎ ︵の二 % 宰 のであり︑ 40‑@t@0 を含む︒の 0 色 ぎ り ㍉㏄ つ
哲ヨは 内内 0 の ロヨ no 性 回 已の単一命題として解されね ばなら
ぬ 事は思惟の本性から自明である 0 推論ではない︑具体 的 直覚
である︒覚知は具体的・特殊的認識を メ って形成される コの 円仁㍉ の
コ o 降 rp の日当︵
てが
︑ 明蜥判明知はお守二ぎと
コ ︒ ︵ 局あと
あ つて︑色目 宮卸ヨのコ ︵
ざぎ
︵日日たる後者に依るの でなけれ下宮守之 スピノザのデカルト解釈を繍って
になったのであります︒ 要するに開基の後醍醐天皇は宝戒寺を創建する積りで 寺敷地︑住持等を定めましたが︑実際には開山恵 鎖 が敷 地を手に 入れ︑弟子 惟 賢の努力で伽藍が完成されたのです︒有力 な外護 者のある寺でさえこの通りですから︑他の寺では零細な ものを 積み重ねて行く僧侶の宗教活動が非常に重要となって 来 る 訳で
す ︒