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ドキュメント内 喋覇 (ページ 66-69)

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図78その他遺構出土遺物・土製品・石製品実測図(1/4.2/3.1/1)

1.(医病)病棟(軸)新営工事に伴う発掘調査(9901調査地点)

遺構外出土土器(古代以降)

図80:697~図81:741は包含層出土の遺物である。697~704は土師器の坪で、7世紀代~9世紀前 半の所産であるo701.702.703は、判読不明であるが底に墨書がある。705~707は饗で8世紀後半

~9世紀前半の所産と思われる。708は甑の底部で、桟渡しタイプであろう。709.710は多孔タイプ の甑の底部である。711は移動式竃の底部、710は手握土器である。713は土師器の壷で、器面は赤色 の化粧土をかけ、全体にミガキを掛けているo714は古墳時代の土師器壷である。715~720は須恵器 の蓋である。715は頂部に「×」のへラ記号がある。かえしを持つものはなく、720はかなり扇平化が すすんでいる。図80:721~727,図81:728は須恵器の坪である。721は丸底でかえしが付く古相のも

ので、7世紀前半、他は8世紀代である。図81:729~732は須恵器の高坪である。いずれも7世紀前 半~中葉の所産であろう。733は須恵器の鉢、734は斐(壷?)の口縁部の破片、735は蕊の頚・肩部、

736は長頚壷の胴部であるo737は龍泉窯系の青磁碗で、13世紀前半である。738は白磁碗で11世紀後 半~12世紀後半、739は白磁皿で12世紀中葉~後半である。740.741は越州系青磁碗で8世紀末~10 世紀中葉である。

図81:742~756は撹乱から出土した遺物である。参考資料として掲載する。742~748は土師器の坪 である。744.745.748はそこに墨書がある。744は「東」か、墨書がある。745は判読不明、748は

「新羅」か?749.750は須恵器蓋で750は「×」のへラ記号がある。751~753は須恵器の坪、754-755は壷である。

縄 文 土 器 ・ 弥 生 士 器

縄文時代後期後葉~晩期の土器が出土した。図82:757~759は太郎迫式の鉢・深鉢である。760~

762は三万田式の鉢である。760は口縁部に磨消縄文がある。761と762は無紋の鉢の口縁である。763

~778は鳥井原式の鉢・深鉢である。口縁の文様帯に二本の並行する幅広の凹線を施し、それらを寄 せて稜を作り出している。766は御領式・天城式に見られる山形の突起がある。779~787は御領式の

鉢・深鉢である。口縁の文様胎に二本の並行する凹線を施すが、鳥井原ほど幅が広くなく、深い凹線 を明確に引き、凹線間の突帯を際立たせている。788~794は天城式の深鉢である。深鉢口縁部の沈線 は雑に引かれ、本数も1本~4本まであり一定しない。795~817は古閑式の鉢・深鉢である。深鉢は、

口縁部の沈線が寄り雑に複数本引かれる。無文のものもある。802は焼成後に内外の両面から穿孔し ている。図83:818~822は黒川式の鉢・浅鉢である。819以外はいずれも表面を丁寧に磨いている。

823~826は刻目突帯文土器、827は夜臼式の壷の口縁と思われる。828.829は太郎迫式~御領式の時 期の鉢の底部である。830も後期後葉~末の深鉢の底部である。831~835晩期の深鉢の底部である。

836~858は時期の特定は困難であった。後期後葉から晩期の以外の時期の縄文土器の出土がないため、

この時期のものと考えられる。860は、口縁に刻みを持つ弥生土器の蕊である。861は弥生土器の蕊の 底部である。

石 器

図84:862~図88:918は、各遺構から出土した石器である。磨石・敵石・台石・砥石・打製石斧・

石雛等が出土している。また、図版67~69は黒曜石の剥片である。写真のみ掲載した。番号は左上段 から右に付している。観察表と対照されたい。

その他

図版67:919は炭化種子の破片である。920は刀子に付着していた布片である。921は鉄津と思われ る。922は獣骨の下顎の部分である。馬か。

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Ⅲ 本 荘 北 地 区 の 調 査

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図799901調査地点出土鉄製品実測図(1/3)

(4)まとめ

本調査地点は、本荘北地区において9601調査地点につづき古代の集落を確認し、また古墳時代の集 落を初めて広範囲で確認した地点である。9601調査地点の調査時には、西側に古墳時代の集落が展開 するものと予想されたが、その予想通りに古墳時代の住居吐群が検出された。

古墳時代の竪穴住居杜は、概ね古墳時代前期から中期初頭までの一定の時期であった。近辺の0006 調査地点・0104調査地点・0119調査地点・0304調査地点でも、同様の時期の住居祉や遺物が確認され

ている。古墳時代中期以降の集落は、本調査地点寄り南側の0411調査地点・0509調査地点や本荘中地 区で確認されており、古墳時代の集落の占地は、白川沿いから次第に離れていくことが確認できた。

古墳時代の後、本調査地点では6世紀末・7世紀初頭から溝の設営が始まり、8世紀から竪穴住居 杜が造られ集落が形成される。8世紀末には、多くの溝が埋没し竪穴住居杜も減少する。この後、掘 立柱建物が建てられるようになると考えられる。古代の成果としては、「主帳」刻書土器の出土があ

る。本庄遺跡は古代詫麻郡に属する。託麻郡は8里からなり、郡としての等級は「中郡」にあたる。

主帳は郡司の第四等官でいわゆる書記官であり、中郡では定員1名である。「宮崎産業経営大学の柴 田博子氏によると、「主帳」墨書土器が日向国庁跡を含む官衝遺跡である宮崎県寺崎遺跡で出土して おり、この報文の時点(柴田博子2001)では寺崎遺跡の例を含めて全国で3例と極めて少ない。柴田 氏は主帳やそのほか官職銘のある資料について、文字が記されたものが坪であるというその'性格・機 能から、国司や貴人に対する郡家による接待などの饗宴の場での使用・廃棄を想定している。刻書土 器が多量に出土した9601調査地点の調査者も、供膳具の多さに注目し火事場処理を行う施設の存在を 想定している。本調査地点の出土遺物は膨大で、内容は9601調査地点と類似しており一連の施設で あったと考えられる。9601調査地点からは「枚本寺」をはじめ「儲」「寺」などの刻書土器が出土し ており、近辺に寺が存在していたことを伺わせる。本調査地点や9601調査地点と、もし近辺に寺が存 在していたとするならば、その位置関係は官衝遺跡である渡鹿A遺跡と渡鹿廃寺、神水遺跡と陳山廃 寺の位置関係に類似する。本調査地点及び9601調査地点の主要な時期は8世紀後半から9世紀前葉に かけてである。両地点の中間に位置する0707調査地点も古代の遺構は同様で、かつ9世紀後半以降は 水田が造られている。機能した時期は渡鹿A遺跡(7世紀末~8世紀前半)の後、神水遺跡(8世紀

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