Another is for there to be more ‘original’ or ‘creative’ writing. English continues to focus on enabling you to respond to the world around you. (Robert Eaglestone 133 )
私たち日本の英文学専攻者にとって有意義だと思われる箇所を、本稿の論旨である実践知性 としての英文学研究の視点からまず引用したが、実は著者ロバート・イーグルストンは第 1 部 第 1 章 ‘Where did English come from?’ の中で、英文学という学科目がどのような歴史的背景 のもとでイギリスに設置されるに至ったかを詳述している。英文学の本家であるイギリスの事 情を知っておくことも大切であろうから、以下に、簡潔にまとめてみる:「元々英文学研究なる ものはイギリスの大学では受け入れられず、特に古典学の教授たちにとっては無用の長物であ った。ところがこの英文学は 1835 年、一つの正式な学科目としてインドにおいて誕生した。当 時インドを統治していたイギリスは、英文学研究を通して現地のインド人をイギリス化させよ うと目論んだのである。そしてやがてこれがイギリスに逆輸入されることになる。そうした逆 輸入者の代表的人物が、詩人・思想家のマシュー・アーノルド(Matthew Arnold)であり、 彼は当時のイギリス人に文学的教養を身につけさせようと思ったのである。具体的には、有益 で文明的な道徳的価値観の修得が目標とされた。これに対して、英文学を研究してもほとんど 意味がないと考える一派も存在し、彼らは、教養ではなく、むしろ言語研究としての英文学を 志向した。こうしたせめぎあいの中、1893 年オクスフォード大学に英文学の学位コースが導入 されたが、英文学専攻は主としてフィロロジー研究を意味した。この流れが変わるのは 1917 年 以降である。ケンブリッジ大学の講師たちが中心となって、主としてフィロロジーから成り立 っている英語専攻コースの抜本的改革を進め、やがて言語研究だけではない、今日の私たちが 知っている豊潤な英文学の基礎が作られたのである」。
さらに、日本語では「頭が痛い」という現象も、英語では I have a headache と言い、頭痛と いう生理的現象までもが「モノ」化され、所有の対象としてとらえられている。日本語では、 「頭痛を持っている」と表現するのはかなり不自然である。
「コートに染みがついている」という日本語の場合、省略されている主語の「あなた」は、「コ ートの染み」が「存在」する場所的な枠に過ぎないが、英語の表現では、文は明確な「所有」 の形式をとっており、主語の「You」は「染み」を支配下に収めた所有者として提示される。こ のような意味で、英語は「HAVE」的な言語、日本語は「BE」的な言語だと言える。
単著 昭和 60 年 Lotus(日本フェノロサ学会)第 5 号 pp. 4-9.
“The Artists Stretch Their Legs: the “Sketch-tour” books and Other Developments in Japanese Graphic-Arts of the Early Twentieth Century”
単著 昭和 61 年 3 月 関西大学東西学術研究所紀要 第 19 輯 pp. 21-39. “Kanao Tanejiro and the development of Meiji-Taisho “sketch-tour” books”
タームが使用されているが、New Idea and New Terms(1913)の著者 A. H. Matter(著名な 宣教師狄考文の未亡人)も認めているように宣教師が作成した文法関係のタームは 1913 年時点 では一般に認められなかった 13) 。西洋人によって西洋言語で著された著作や辞書などは、西洋 言語学の枠組みの中で中国語の音韻、文法、語彙について記述することでは一応の成功を収め たと言ってよいであろう。しかしその中国語で書かれた著作は、中国の読者に言語に関する研 究において新たな道筋を示すには十分ではなかった。馬建忠の『馬氏文通』(1898)や厳復の 『英文漢詁』(1904)はいずれも直接西洋文献から知識を受容したものである。西洋言語学に関 する知識の多くが日本語を学習する過程で導入されたことはこれまでに指摘されていなかった 事実である。言語学のタームは、その大多数を日本語から借用したということがこの点を如実 に物語っている。言語の「科学」的研究は、明治期の日本の学者も目指した目標であることを 付け加えておきたい。中国語を含む言語研究の近代化の過程において、外国、特に日本の影響 等について解明しなければならない点が多々ある。
「日本人の行動パターン」共著 山折哲雄、ポーリン・ケント(1997)NHK 出版 1-172 “Background Research for The Chrysanthemum and Sword Dialectical Anthropology” 共著
Pauline Kent(1999)Kluwer Academic Publishers 173-180
“The Lady of the Chrysanthemum: Ruth Benedict and the Origins of the Chrysanthemum and the Sword” 共著(2004)The Johns Hopkins University Press
“school”=「学校」、 “lessons in things like music, dance, and tea ceremony”=「音楽や踊り、茶 道などの授業」、“training”=「訓練」といった、単に辞書的な意味をそのままあてはめただけ の、「文脈」を無視した訳語の選択にある。
“school”は「学校」でよいだろうか。たしかに、辞書的な意味では「学校」(と一般的にわ れわれが呼んでいるところのもの)でよいのだが、ことばはそれが使われるコンテクスト ― この場合は対象文化や時代背景等の「小説世界」という枠組み ― の中で考え、再分析しない と適切な「意味」(したがって訳語)を与えることはできない。上記の例も、そういう視点から 見れば“training”は「(日本での「習いごと」についての一般的な用語である)お稽古」であ り、“lessons in things like music, dance, and tea ceremony”は「(芸者が基本的な教養として 身につけるべき)三味線やお囃子、踊り、お茶の作法など」の「お稽古」ということになる。 “school” はそういうお稽古を受ける場所を指す。