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年代記について

『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(13)——『ガーリチ・ヴォルィニ年代記』(1265~1287年)

『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(13)——『ガーリチ・ヴォルィニ年代記』(1265~1287年)

... 50) このレフによるヴァイシュヴィルカス殺害については,ヤン・ドゥウゴシュの『歴史』第 7 章 ( Historiae ... xii ) の 1267 年の項に「ルーシ公レフが計略によってリトアニアの公ヴァイシュヴィルカ スを殺害した。故ルーシ王ダニールの息子であるルーシ公レフは,自分の父親の死後にルーシの公座に 就いた。そして,権力を手にしたが,それはかれの父が遺した富と人民のおかげだった。かれは,ルー ...

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イパーチイ年代記 翻訳と注釈 (11) ガーリチ ヴォルィニ年代記 (1230 ~ 1250 年 ) 中沢敦夫, 宮野裕, 今村栄一 富山大学人文学部紀要第 71 号抜刷 2019 年 8 月

イパーチイ年代記 翻訳と注釈 (11) ガーリチ ヴォルィニ年代記 (1230 ~ 1250 年 ) 中沢敦夫, 宮野裕, 今村栄一 富山大学人文学部紀要第 71 号抜刷 2019 年 8 月

... 61) 『シラ書(集会の書)』 37:10-11 の句「戦争については臆病者に相談するな」( не совещавай <...> со страшливым о брани ) をパラフレーズした引用。直接の典拠は当時読まれていた「アレクサンドロス 大王伝」から採られたと考えられる(例えば [ Летописец Еллинский и Римский. T. 1, C. 122 ] 参照) 62) ...

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『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(5)―『キエフ年代記集成』(1151~1158 年)

『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(5)―『キエフ年代記集成』(1151~1158 年)

... なおこれについて,『ノヴゴロド第一年代』の並行記事( 6663(1155) 年の項)では,「ユーリイ [D17] は息子たち(シノド本では「甥たち」)を慈愛をもって受け容れ,然るべき領地をかれらに分け た得た。そしてルーシの地は平静になった」としている。 288)1149 年のユーリイのキエフ支配のときには,ヴァシリコ [D174] はスーズダリに残されたが,今回 ...

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『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(4)―『キエフ年代記集成』(1146~1149 年)

『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(4)―『キエフ年代記集成』(1146~1149 年)

... こうして,かれらは合意に達し,それぞれの場所に戻って行った。かれらは 55) 十字架に接吻 し〔て合意遵守を誓っ〕た。春が来たとき 56) ,かれらは和を結ぶと, 57) ペレソプニツァへと戻った。 イジャスラフ [D112:I] は,この十字架接吻を喜んだ。かれは,ペレソプニツァの父方の叔父 たち〔ヴャチェスラフとユーリイ〕のところにやって来て,一堂に会して,すべてについて合 ...

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『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(3)―『キエフ年代記集成』(1146~1149 年)

『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(3)―『キエフ年代記集成』(1146~1149 年)

... 70) 原文では,主教の名が列挙されたあとで,双数形の動詞 рекоста, не поклонивѣ が使われているだ けで,この「二人」が誰であるか明示されていない。ただ,文脈からみて主教列挙の最後の二人である ノヴゴロドの主教ニフォントとスモレンスクの主教マヌイルと見るべきであろう。ニフォントの反対に ついては,『ノヴゴロド第一年代』の 6657(1149) ...

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イパーチイ年代記 翻訳と注釈 (10) ガーリチ ヴォルィニ年代記 (1201 ~ 1229 年 ) 中沢敦夫, 今村栄一 富山大学人文学部紀要第 70 号抜刷 2019 年 2 月

イパーチイ年代記 翻訳と注釈 (10) ガーリチ ヴォルィニ年代記 (1201 ~ 1229 年 ) 中沢敦夫, 今村栄一 富山大学人文学部紀要第 70 号抜刷 2019 年 2 月

... [ПСРЛ Т.1, 1997: Стб. 505] と渡河地点が併記されている。 349) 『ラヴレンチイ年代(アカデミー写本)』と『ノヴゴロド第一年代』の並行記事では,おそらく ペレヤスラヴリ近郊の陣営に派遣されてきたタタール人の使者についての次のエピソードが記されてい ...

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『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(6)―『キエフ年代記集成』(1159 ~ 1172 年)

『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(6)―『キエフ年代記集成』(1159 ~ 1172 年)

... から 327) 。この〔主教が約束を守る〕ことについて,われわれには疑問の余地はない。なぜなら, かれ〔主教〕は,自分の公たち〔チェルニゴフ諸公〕に親愛を抱いてきたのだから。 すると,主教が言った。「わたしは,そなたたちの前で身の証をたてよう。わたしは,神と〔神 を〕生んだ御方〔聖母〕に〔誓う〕。わたしが,いかなる手段によっても,〔スヴャトスラフ・〕 フセヴォロドヴィチ [C411:G] ...

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インド哲学仏教学研究 04(199612) 002李, 慈郎「Samantapasadika Bahiranidanaとパーリ年代記の比較研究」

インド哲学仏教学研究 04(199612) 002李, 慈郎「Samantapasadika Bahiranidanaとパーリ年代記の比較研究」

... スミッタの二人はアソーカ王の第八如こ般捏欒した」と述べられているにすぎない19・し かし,B。においては,こ一の長老が病気にかかったが,薬を得ることができずに死んでし まったことや,アソーカ王がそれを聞いて都市の四つの門に蓮池を作らせて,薬を充た して比丘たちに与えたことなどが書かれている20 一方,Mhvにおいては「ある森林行者とクンティと呼ばれる女の間に,ティツサと[r] ...

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中国朝鮮族の民族教育について −1910〜1920 年代を中心として− [ PDF

中国朝鮮族の民族教育について −1910〜1920 年代を中心として− [ PDF

... 1620 年代とされているが、満州地方への移住が活発になり始め たのは大体 1860 年代以降である。このころから、朝鮮国内 の朝鮮族は延辺に移住し、荒地を開拓して朝鮮族社会を形 成するようになった。それに対して清国は、この地域を封 禁地帯として、朝鮮族の移住を徹底的に封鎖していたが、 1869∼1870 年の連続の大凶作で朝鮮の農村経済が破綻に 直面して貧困が悪化していくと、極刑を加える越江罪も恐 ...

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研究ノート : 1870年代の小新聞投書者について

研究ノート : 1870年代の小新聞投書者について

... になっている。 6  表 1 では、原則として姓名または筆名のほかに、2 つ以上の要素(たとえば住所と職業) が投書以外の史資料によって確認された者を掲げている。本稿における投書および投 書者の定義は次のとおり。「投書」「寄書」などの見出しを付けられた投書欄内に掲載 され、かつ文頭に「○」印が付けられ、文末に署名のあるひとまとまりの文章を、「1 件」の投書とする。1 件の投書に署名として記載された姓名あるいは筆名を、「1 名」 ...

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『算数書』の成立年代について (数学史の研究)

『算数書』の成立年代について (数学史の研究)

... $\mathfrak{j}_{\sqrt}\mathrm{a}$ る田制と税制 を考察することにした。 農業社会にあっては、 両者は極めて重要であり、 比較的正確 [ こ史 料が残されているため年代を推定するのに好都合である。 しかも、 『算数書 $\text{』}$ 成立前後 [ こ制 度が変更になったために、 『算数書』に記述されている田制によって、かなり詳しい年代の ...

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麈劫記について (数学史の研究)

麈劫記について (数学史の研究)

... この度、多くの人の協力を得て、 これを英訳、 出版した。 同時に、その現代活字版、 そして現代 語訳、 解説も出版した。 四劫は、 1915 年、 三上義夫氏が紹介して以来、 世界的にも知られ、 D. E. Smith: History of Mathematics (1923) にも書かれている。 外国人でも、 何人かの人が、 こ の書物を研究している。 英訳の要望も多く、 また、 故下平和夫氏も、 ...

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1950 年代前半の高校教育課程の再編過程について [ PDF

1950 年代前半の高校教育課程の再編過程について [ PDF

... されていたのか。この点について、全国的な経済団体の中 でも、労働問題を専門とし、教育政策に最も敏感であった といわれる、日経連について検討する。日経連は 1951 年~ 52 年に数回教育提言を行っているが、日経連の週刊誌『日 経連タイムス』において、日経連が文部省に申し入れをし ていることが分かる最初の記事は、1950 年 1 月 12 日『日 経連タイムス第 83 号』掲載の「低迷する実業教育 意図に ...

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1980年代におけるウイスキー銘柄名の表記の変遷について

1980年代におけるウイスキー銘柄名の表記の変遷について

... ANDREWS オールド・セント・アンドルーズ 同左 オールド・セント・アンドリュー ス (2m) ROYAL HERITAGE ロイヤル・ヘリテッジ ロイヤル・ヘリ z.[r] ...

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『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(9)―『キエフ年代記集成』(1196~1199年)

『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(9)―『キエフ年代記集成』(1196~1199年)

... あることから,様々な記者による短い記事の寄せ集めの編集ではないかと推定している 33) 。ま た,フランチュクによれば,1157 年~ 1159 年の記事は,その前とは異なる記者が書いている として,イジャスラフ [C35] に近い年代記者を想定している 34) 。 しかしながら,かれらが指摘している相違は「資料提供者」による違いであり,やはり最終 ...

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『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(11)―『ガーリチ・ヴォルィニ年代記』(1230~1250年)

『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(11)―『ガーリチ・ヴォルィニ年代記』(1230~1250年)

... 308) コ ト リ ャ ー ル は こ の 個 所 に, 15 世 紀 の 北 東 ル ー シ で 本 格 化 し た 知 行 地 制 ( поместное землевладение ) がすでにこの時代にも存在したことの主な根拠を見ている [ Котляр 2005: C. 259- 260 ]。なお,ここの個所では領地恵与(知行地の安堵)についてのこれまでの慣行が二つの点で蔑ろに ...

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『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(12)—『ガーリチ・ヴォルィニ年代記』(1251~1264年)—

『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(12)—『ガーリチ・ヴォルィニ年代記』(1251~1264年)—

... レ ( Opole )(前注)から援軍のために駆けつけたのである。 原文では「ミェシュコ・ラスコノギ(の息子の)カジミェシュの息子」( сын Казимирь Лѣсконогого Межькы )と父と祖父について説明が付いているが,これはこの小公国の君主を同名の君主たちと区別 するため,また祖父のミェシュコ一世( Mieszko I )が建てたオポーレ=ラチブシュ公の後継者である ことを示すためと思われる。なお, ...

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『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(10)―『ガーリチ・ヴォルィニ年代記』(1201~1229年)

『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(10)―『ガーリチ・ヴォルィニ年代記』(1201~1229年)

... [ПСРЛ Т.1, 1997: Стб. 505] と渡河地点が併記されている。 349) 『ラヴレンチイ年代(アカデミー写本)』と『ノヴゴロド第一年代』の並行記事では,おそらく ペレヤスラヴリ近郊の陣営に派遣されてきたタタール人の使者についての次のエピソードが記されてい ...

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『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(8)―『キエフ年代記集成』(1181~1195年)

『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(8)―『キエフ年代記集成』(1181~1195年)

... 監視人たちもかれの言うことを聴き,かれに敬意を表し,何か言いつけられれば,口答えせ ずに命じられたことを為した。聖なる奉事を執り行うために,ルーシから司祭が連れてこられ た。〔イーゴリは〕神の計らいを知ることはできなかったが,〔神の定めたことを〕行い,かの 地で長く過ごした 222) 。しかし,主なる神はキリスト教徒の祈りを〔聞き入れて〕かれを解放し たのである。かれのことを多くの者たちが悲しみ,かれのために自らの涙を流したのだった。 ...

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『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(7)―『キエフ年代記集成』(1172~1180年)

『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(7)―『キエフ年代記集成』(1172~1180年)

... 城市や〔聖母就寝教会に納められていた〕貢税も〔取り上げた〕。それらは,福者アンドレイ 公が,かつて〔聖母〕教会に与えたものだった。 ヴラジミル人はこう言い始めた。「われらは,自由〔に公を選ぶ民〕であり,〔二人の〕公を 受け入れて,すべてについて十字架接吻し〔て取り決めた〕。ところが,あの二人は,ここが 自分の領地ではないかのように振る舞っている。われらの公座に就いていないように振る舞っ ...

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