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言語によって把握される世界は実体の世 - 日本国際問題研究所

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(1)

はじめに

フェルディナン・ド・ソシュールによれば、言語によって把握される世界は実体の世界 ではなく、「視点があってはじめて対象が生み出される関係の世界」である。その意味で、

あらゆる地域の呼称は 恣意的 である。重要なことは、恣意性の背後にどのようなイデ オロギーや世界観が潜み、どのような意味をもって語られているかであろう。その点で、

日本外交と「地域主義」にかかわるさまざまな主張と政策には、近代日本の中心テーマで あり続けた「脱亜」志向と「興亜」志向、あるいは「アジア」か、「欧米」かという葛藤と 緊張関係が内在しているがゆえに、なお検討に値する内容を含んでいる。

1

東亜新秩序構想の変容

「地域主義」という言葉が、実際に日本で用いられるようになるのは満州事変後のことで あるようだ。満州事変後、国際連盟規約やワシントン会議条約に体現された1920年代の国 際主義・普遍主義を承認しつつ、日本と満州・中国との「特殊的地位」あるいは「特殊関 係」を国際的に承認させようとする努力が多くの知識人によってなされた。その議論の柱 が「地域主義」であった。国際連盟の地域主義的改組を求める議論、「極東連盟」の構想、

理論的基礎を汎ヨーロッパ主義や汎米主義に求める議論など、国家主義と国際主義をつな ぐ「地域主義」の論理構成に格闘する。しかし、日中戦争が開始され、日満華を核心とす る「東亜新秩序」建設がその戦争目的となると、そうした努力は放棄され、国際主義との 連関を意識した概念である「地域主義」という言葉も論壇から退場する。

1930年代の代表的な「地域主義」論者であった

山政道の「東亜新秩序」論は、もはや

国際主義と明らかに決別した地域主義であった。 山にとって日中戦争は、文化的異質性 を前提としつつも、東アジアの諸民族が「協同関係に立って地域的協同体」を構築するた めの戦争であった。それは、民族自決主義の名のもとに「世界の不平均なる地域的構成を 無視し、民族国家の相互関係を原子論的に解体」してしまった欧米帝国主義を克服するた めの論理であったが、英米の東アジアにおける投資や貿易は排除されるわけではなかった。

昭和研究会による「ブロック経済に関する研究」も外国資本の利用を必要と認めていた。

「東亜新秩序」構想が優先する日中提携路線が「反帝国主義」の主張と結びついたとき、初 めて日中戦争が英米との戦争に発展するのであった(1)

(2)

井上寿一氏の指摘するように、現実の「東亜新秩序」外交の中心テーマも、日本経済の 対米依存の深まりという条件のなかで、1920年代の経済的国際主義の維持を前提とする

「地域主義」の追求であった。すなわち「東亜」市場への欧米資本や技術の参入を妨げるの ではなく、また商品市場としても「東亜」市場を平等の条件で世界に開放すべきであると いう議論が外務省や財界において広く受け入れられていたのである。つまり、経済的開放 主義が「東亜新秩序」外交の基盤であり、英米との衝突に発展する性格のものではなかっ た(2)。1930年代の「地域主義」の主張には、政治的にも極端な「日本盟主論」は比較的少な かったと言えよう。 山の「協同体」論はもちろん、有力な地域主義構想であった「東亜 連盟」論は、盟主論的な主張と対決しつつ、「日本は然し連盟の精神に遵ひ、断じて領土的 野心を持つべきでなく、独立さる諸国家の連盟加入も強制によらず一つの自発的意思に依 るべきである」と説いていたのである。

こうした、政治的にも経済的にも開放的な「地域主義」の構想を、閉鎖的かつ独善的な 主張に旋回させた大きな要因は、ドイツ地政学(Geopolitik)と生存圏(Lebensraum)思想の 受容であったように思われる。中国大陸への軍事的進攻と対英米協調とは所詮は両立でき ない命題であり、貿易の相手先をドイツに転換せざるをえなくなったという事情が背景に ある。三国同盟の締結のころからドイツの地政学や生存圏論は日本の学界・官界を風靡し、

「日本地政学協会」なる団体も1941年に誕生している。1940年夏に南方進出がいよいよ現実 の国策として浮上し、「大東亜共栄圏」構想が松岡洋右外相によって提唱されると、杜撰な 地理的決定論である地政学は、「南方」と「東亜」を一体として「大東亜共栄圏」に包摂さ せる論理として有効な機能を果たすのである。日露戦争以来、日本人の経済活動の中心舞 台であった「東亜」(日満華)には、まとまりのある一つの単位としてその結合の論理と構 想について議論の蓄積があったが、ここに南方を抱合する論理が初めて必要とされたので ある(3)

ドイツ思想の流入はそれまでの「地域主義」構想に、エスノセントリズムや強者の論理、

生存圏やアウタルキーの論理など、近代日本の対外思想には異質とも思われる要素を持ち 込み、「日本盟主論」の思想を呼び起こすことになる。例えば、土着資本の育成や民族独立 思想の尊重という観点から「協同主義」を唱えていた植民政策学者の加田哲二は、後進・

弱小民族の独立は近接する強大民族との「協同」によって初めて獲得できるのであり、「大 東亜協同圏」の民族がその結合性を拒否して欧米陣営に走るという自由は存在しない、協 同圏の一員であることは「地政学的必然」である、といった議論を展開するに至るのであ る(4)。1941年初頭、政府は東亜連盟論など「皇国の指導権」を曖昧にする恐れのある「聯合 理論を禁遏」する措置に出る。

ところで、「南方」という言葉が広く用いられるのは1930年代の半ば以降であるが、東南 アジアをめぐる呼称の変化も「地域主義」に関連して検討の価値がある。清水元氏の研究 によれば、明治期に定立された「南洋」という概念は、現在の島嶼部東南アジアを指し、

「亜細亜」や「東洋」の一部とはみなされていなかった。つまり、日本の対外思想の理念型 を「脱亜」志向と「興亜」(アジア主義)志向に分けるならば、「南洋」は「脱亜」志向の延

(3)

長に位置する概念であり、明治期の南進論者たちは、自由貿易主義に基礎をおいた通商立 国論を展開していた(5)。しかし、第1次世界大戦における日本の南洋群島占領と戦後の東南 アジア方面への経済進出とは、これに大きな変化をもたらすことになった。それまでの

「南洋」は、現在の東南アジアに匹敵する「外南洋」と、南洋群島を指す「内南洋」とに分 かれる一方、両者を一体として「東南アジヤ」と呼称する地域概念も国定教科書に登場す る。そして、「東南アジヤ」は「東洋」の一部として意識されるようになり、いわば「アジ ア主義」的志向に包摂される概念となる。東南アジアは第1次大戦を契機に浮上する盟主論 的「アジア主義」の延長線上に把握される世界となるのである。大戦を契機に芽生えた日 本の「帝国意識」は「東洋」の概念を拡張させ、勢力範囲としての「東南アジヤ」が明瞭 に視界に入ってくるのである(6)

元来、「東洋と日本」という関係は、日本が東洋の一部であるという側面と、日本がそれ に対抗し、自ら優越を示すという側面との二重性を内包していた。西洋と東洋は異質性に おいて明白であったが、東洋の「精神文明」と「日本文明」とをどのように関係づけるか は心理的には困難な課題であった(7)。そうした心理的葛藤は盟主論的「アジア主義」におい ても解消できなかった。

2

「大東亜共栄圏」論の克服

太平洋戦争の開戦から半年後、日本は南方を掌中に収めたことによって、ある意味で、

いかなる「大東亜」建設のヴィジョンを打ち出すか、「地域主義」の構想に内実を与える必 要に迫られる。しかしその方向性はもはや明らかであった。ただ、盟主論的論理によって

「大東亜共栄圏」をつくり上げるにしても、民族の「独立」に配慮しない、単なる植民地主 義の貫徹は避けねばならなかった。開戦後、日本は戦争目的として「アジア解放」を大義 名分として掲げたために、早晩東南アジア諸国の民族自決や独立問題が浮上することは避 けがたいものであった。つまり「植民地なき帝国主義」(8)の潮流が支配する戦間期にあって

「いかに植民地なき共栄圏」をつくり上げるかが最大のテーマであった。代表的な議論は、

日本人の労働・身分秩序の観念に由来する「万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シム」という「分」

の論理を基礎とし、各々の民族や国家が「分」に応じて忠実に役割を果たし、指導国家に 奉仕することによって「独立」も保障されるというものであった。大東亜省の設置が「植 民省」の設置であり、大東亜「外交」の消滅であるとして批判を浴びたとき、東条英機首 相はこれを儒教的な家父長制度になぞらえ、兄弟国に外交儀礼は不要であると説明してい た。いずれにしても日本盟主論に変わりはなく、政府の描く「共栄圏」像は、指導国たる 日本が圏内諸国を「内面指導」し、政治・経済・文化の秩序を統制し、圏外との交易も指 導国の統制のもとにおかれるという姿であった(9)

こうした家父長的な階統秩序の構想を批判し、新たな原理による「地域主義」の構想が 重光葵外相時代にみられた。それは、中華民国(南京政府)との不平等条約(日華基本条約)

を清算し、自主独立と平等互恵を基調とした新同盟条約を締結し、同種の同盟条約をタイ、

満州国、さらに独立が予定されていたビルマ、フィリピンとの間にも結び、これらの同盟

ヒエラルヒー

(4)

条約網を基礎に5ヵ国が平等互恵の立場で「大東亜国際機構」をつくり上げようというもの であった。外務省内で作成された案では、大東亜決済銀行や大東亜防衛軍の創設などを含 み、主権の一部移譲も考えられていた。重光は大東亜会議をこの「大東亜国際機構」創設 の第一歩と位置づけ、大東亜共同宣言を「国際機構」の創設理念を謳う「大東亜憲章」と する意向であった。しかし、この構想は二つの点で国内的な批判を浴びて挫折を余儀なく される。第一は日満華の3国は他の独立国(タイ、ビルマ、フィリピン)と対等の地位にはな いこと、第二は、国際連盟に類似する機構の創設は好ましくないこと、であった。そして 何よりも日本の指導権が否定される恐れがあった(10)

重光がこの構想の推進を図ったのは、民族の独立あるいは植民地主義の克服という第2次 世界大戦のテーマに彼なりの解答を与え、しかも植民地主義の推進力となっていた日本の ミリタリズムに歯止めをかけようというねらいが含まれていた。しかし、日本盟主論的な

「地域主義」の壁を乗り越えることは不可能であり、結局、大東亜会議は、「大東亜憲章」と して予定された大東亜宣言も軍部や大東亜省の介入で不十分なものに終わったのである。

それでも大東亜宣言には、自主独立、平等互恵、資源の開放など、階統的・閉鎖的な

「地域主義」の枠組みを超える理念が織り込まれ、これらを積極的に評価し、具体的なプロ グラムに結びつけようとしていたのが清沢洌と石橋湛山であった。1944年半ばになると石 橋と清沢は、「戦後国際機構」問題を議論したダンバートン・オークス会議などをにらみつ つ、日本が提案する「戦後国際機構を地域主義(リージョナリズム)の上に置くか、それと も一般的国際主義(ジェネラル・インターナショナリズム)の上に置くか」を連日議論し、翌 年には石橋が「国際主義の上にたつ地域主義」の構想を外務省に提案するに至るのである(11)

ところで、「南方」の「独立国」を日満華と対等に遇しようという重光の「大東亜国際機 構」構想がただちに否定されたことは、「南方」は相変わらず「東亜」に従属すべき地位に あったことを示している。戦時には「南方共栄圏」というタームがよく使用されたが、そ れは「大東亜共栄圏」の南部という程度の意味であった。むしろ戦争末期には「東印度(イ ンド)」「馬来(マライ)」「比律賓(フィリピン)」「印度」「爪哇(ジャワ)」「昭南(シンガポー ル)」といった個別の地域空間と日本(人)のかかわりにこそ意味が認められるようになる。

南方においては「大東亜共栄圏」は名実ともに形骸化しつつあった。このとき、南方の放棄 はほぼ決定的となっていた。しかし、「東亜」は依然として健在であるかのようにみえた。そ こで登場する「地域主義」が満州国の維持を前提とする「日中ソ連合」という発想であった。

つまり、戦後の東南アジアはもはや英米の勢力圏として容認するが、東アジアでは日中 ソの提携関係(日中ソ「極東安全保障条約」)をつくり出して英米に対抗するというパワー・

システムの考え方である。これが可能と考えられたのは、中立関係にあったソ連は、日本 の弱体化を望まず、戦後アジアにおける勢力進出をねらって妥協的態度に出てくるものと 判断されたことであった。さらに、日中戦争は英米との戦争と切り離して処理することが 可能であるという幻想にとらわれていたことも一因である。それはある意味で「東亜新秩 序」構想の復活であったが、ソ連の加入を前提としている限り、秩序原理はパワー・ポリ ティックスでしかありえなかった(12)

(5)

この「日中ソ連合」の構想は1945年6月の広田(弘毅)・マリク(駐日ソ連大使)会談に提 出されるなど、ソ連参戦まで大東亜省を中心に熱心に追求された形跡がある。しかし、肝 心のソ連が対日参戦したことにより、日中ソ連合の可能性は潰えることになる。

他方、政府部内の早期終戦を願う人々の間での中心的争点は、もはや「地域主義」では なく、「国際主義」への再参入によって日本の生存を確保する方途であった。そのことをよ く示しているのが東郷茂徳外相のもとで発表された大東亜大使会議宣言(1945年

4

月)であ った。それは、もはや「地域主義」の構想であるより、「米国務省の起案といっても不思議 ではない」(13)あらゆる普遍主義的な国際理念を盛り込んでいたのである。盟主論的「地域主 義」の放棄の過程は、「脱亜入米」の過程でもあったのである。

3

「多角的地域主義」と「上からの地域主義」

1944

9月、

「大東亜共栄圏」について匿名原稿を依頼された清沢は、その日記に次のよ うに記している。「大東亜だけ仕切って、それに重要性を持たせることは僕の論理が許さな い。支那、比島、マライ、ジャバ―どこも日本人の徳に少しも服していないではないか。

戦争中に剣を以て維持する『共栄圏』が、戦後どれだけ足跡を残すのだろうか」。

清沢の予言どおり、確かに戦前・戦中の「地域主義」構想は戦後に何ものも遺さなかっ た。ただ、終戦間際に外相に復帰した重光や外務官僚の一部には、エスノセントリズムが 支配する「大東亜共栄圏」構想と格闘しつつ、異なる国際理念に立脚するアジアの「地域 主義」の構想を模索したという自負があり、それを遺産として継承しようとする。しかし、

その重光にとっても、新たな「地域主義」を提唱するためには、まずはアジア進攻植民地 主義の源泉であった「ミリタリズム」の清算、すなわち「国内改造」こそが先決であり、

その任務を自発的にアメリカに託すのである。

戦後の地域主義は、以下の前提のもとに構成された。「今次大戦前の如き自立的ブロック にあらずして、恐らくは世界的組織の下に立つ地域主義」であること、「日本の工業的発展 は米国を排除する方向ではなく、それと協力し補足しつつ、同時に東亜諸地域と結びつく 方向」でなければならないこと(14)。こうした前提のもとでの日本の経済的生存のための条件 は、帝国の解体にもかかわらず「わが国がもともと東亜諸国と経済的にきわめて密接な相 互依存関係にあった」ことから、「東亜の復興」と「日本の復興」とを一体のものとして推 進することであった。敗戦日本がその工業発展を阻害されることは、東亜諸地域の経済復 興をも阻害することになり、日本と東亜の一体としての工業化と生活水準の向上を図るこ とは、欧米諸国にとっても広大な市場を提供することになるのであった(15)

また、東亜と日本の一体的復興は植民地支配の「負の遺産」をも押し流し、「贖罪」にも 貢献すると考えられた。朝鮮に対する植民地統治を「半島開発に伴ふ経済的利益の分配は 半島人一般にとって公正なる均霑を与へたものとは言ひ得なかった」と述べてはいるが、

植民地支配そのものの是非には触れていない。朝鮮半島の植民地支配の終焉に伴い、対朝 鮮投資の中断は朝鮮経済にとっても痛手であり、「東亜が回復しなければわが国の経済も自 立しえない」といった発想である。こうした展望は日本側のみではなかった。アメリカ政

(6)

府においても、終戦直後には、アジア地域の復興のためには日本の工業能力の活用が必要 であるとの考えが広く共有され、戦争賠償の一環として、日本人の在外財産を接収し、日 本本土の工場設備を撤去してアジアの復興に転用するという構想として浮上していた(16)

要するに、多角自由貿易という普遍主義(開放経済体制)とアメリカの援助を受け入れつ つ、日本と東亜の一体的復興のためアジア諸国の工業化を促進して域内の購買力を育成し、

他方でアジア諸地域の工業化計画を相互調整するための多国間地域機構の計画を組み込む ものであり、経済領域における「アジア太平洋協力」の枠組みがすでに示されていた(17)。 換言すれば、「米経済への従属的依存を回避しながら、アメリカを排除しないアジア地域主 義」の構想であり、それは「アメリカかアジアかという難問に両立をめざすという答があ らかじめ準備されていた」とも言える(18)。しかしながら、こうした戦後初期の経済中心の開 放的地域主義構想が1980年代末の「アジア太平洋協力」に直結しているわけではない。

まず、こうした初期の構想は、賠償を資源とした東亜と日本の一体的復興よりも、日本 の復興が優先されることによって変容する。こうした変容を導いたのは紛れもなくアメリ カの冷戦戦略であった。アメリカの占領政策の変化―日本の経済自立を促すための賠償 の緩和、単独講和による早期独立と西側陣営としての立場の確立、といった冷戦の文脈で 語られる体制選択を背景に、日米がアジアの復興を牽引する役割を担うことになる。

そのアジアでは、中国と朝鮮半島が、国家建設のプランをめぐる争いにイデオロギー対 立が結びついて両地域とも内戦を経て分断に追い込まれ、アジアにおける地域協力の対象 は東南アジアに限られていくが、その東南アジアも旧植民地宗主国が再復帰するなかで、

植民地から離脱する闘争が繰り広げられる舞台であった。こうして冷戦、内戦、ナショナ リズムが激しく交錯するアジアにおいて、共産主義の浸透と拡大の阻止を目標としてアメ リカが追求したのは「上からの地域主義」(imposed regionalism)とも言うべき地域主義であっ た。アジアの非共産主義諸国を結合させ、相互に政治・経済発展を促すことによって共産 主義の拡大を防ぐという手法である。こうした「上からの地域主義」構想の推進力となる ことを期待された日本は、自ら描く地域主義との整合性を保ちつつ、独自の役割を追求す ることになる。

4

ナショナリズムと地域主義

そこで日本外交が注目したことは、アジアに広がる共産主義それ自体よりも、新興ナシ ョナリズムであった。日本の経済的地域主義の構想は、1950年代後半には、政治的独立を 達成したアジアのナショナリズムが共産主義に結合するのを防ぎ、健全な国家建設にナシ ョナリズムを動員するため経済発展を確保する手段としての意味を帯びるようになる。地 域全体の経済発展を図るためには、アジア諸国間の経済的な相互補完性を増進させ、排他 的なナショナリズムに陥るのを防ぐ必要がある、というのである(19)。1954年夏のインドシ ナ休戦交渉を通じて、この地域における共産勢力の優勢、中国の国際的地位の上昇が顕著 となったとき、外務省の関係部局は、この問題を次のように論じている―。

元来、東南アジア諸国は共産主義に対する抵抗力が弱く、中共による各種の援助が活発

(7)

となれば、「将棋倒し」理論もあながち根拠無しとは言いがたい。「将来、東南アジアの共産 勢力が再び活発化しないためには、自由主義諸国側はただ軍事力の強化ばかりに頼らずに 根本的に共産運動に対する抵抗力を増加せしめる様にしなければならない」。それには経済 開発を重視して民族主義の発露を開発と建設に向け、民族主義と共産主義とが結合するの を防ぎ、同時に民族資本の形成、中産階級の生成を導くべきである。ナショナリズムとコ ミュニズムの結合を防ぐためには、ナショナリズムの発露を経済発展と生活向上に指向さ せることが必要である、と(20)

このような発想は、軍事的手段を有しない日本の政策手段の限定性に基づくというより、

植民地主義や大国からの離脱を求めるアジア諸国のナショナリズムへの一定の共感にその 原点がある。

岸信介首相の東南アジア歴訪に備え、1957年

5

月に準備された「世界情勢と日本の外交方 針」と題する文書は、「アジア全地域においてナショナリズムが澎湃として起こっているが、

この情勢は民族力の自然の発露」であると指摘し、「これら若い国々の独立を完成するため には、経済面における国家建設に努めることが今日最も必要なこと」であり、アジアのナ ショナリズムは共通の目標たる「繁栄と平和」に結集されるべきであること、そのために は「アジアの協力関係の組織化」が必要であること、を主張している。その一方、「80年前 に封建制を打破して近代国家への歩みを進めた過程において、不幸な大戦の一時期を除き、

常に健全な外交政策を掲げてきた」と日本の近代化の成果を誇らしげに語っている(21)。 西欧諸国が植民地主義の残骸にとりつかれ、アメリカがアジアのナショナリズムや中立 主義を敵対視する限り、アジア・ナショナリズムとの対立は避け難いものであった。そこ で、「アジアの一員」たる日本の役割とは、反欧米的なナショナリズムに対し、その穏健化 を働きかけつつ西側諸国との妥協を「橋渡し」することであった。アジア・ナショナリズ ムとの豊富な接触経験と近代化を成し遂げる過程で得た経験をアジア諸国と共有すれば、

欧米のアジア政策にも是正を迫りうる、というのである(22)。「東西の架け橋」(国際連合加盟 時の重光外相演説)とは、そうした動機を反映させた外交的アイデアであり、経済面におけ る「多角地域主義」の構想も同一線上にあったと言うことができる。

インドネシアのスカルノ政権に対する持続的支援はその典型例であった。反欧米から共 産圏へと向かいかねなかったスカルノ政権に対し、一貫して経済支援を継続したのは、何 よりもスカルノを対外的冒険主義から国内経済開発に目を向けさせるためであった(23)。こ うした独自の対応は、池田勇人内閣時代には、アメリカ政府部内でも、自由世界に対する 日本の貢献とは、一つは経済力をもって、もう一つはアジア・アフリカ地域を穏健化する 影響力であろう、といった評価がみられるようになる(24)

こうした日本外交の基調を理論的に支える議論を展開していた言論人が 山政道である。

1959年に次のように書いている。

「……今日のアジアのナショナリズムが、反植民地主義運動という一面をもっていることは 事実であるが、むしろその極端化と行き過ぎを警告し、日本の経験が示すごとく、民主化と産 業化を伴う漸進主義こそ賢明な道であることを示す点にあるのではなかろうか」(25)

(8)

前述のように、「東亜協同体論」の有力な提唱者であった 山が、なぜこうした議論を展 開することが可能であったか。戦前と戦後をつなぐ論理を探ることは、この時代の日本外 交を理解するうえで重要な手がかりとなる。詳細な検討は酒井哲哉氏の研究(26)に譲るが、

機能的統合論者である 山において戦前・戦後を一貫する概念が「開発」であった。それ は先進国の途上国に対する投資・通商活動が途上国の近代化を促すという認識のもとに、

東亜協同体論にも屈折した形で反映している。他方、 山は、西欧ナショナリズムの形成 過程とアジアのそれとの比較を通じ、権力集中形態としてのナショナリズムは、西欧民主 主義によって制御されない限り、排外主義的傾向に走るのを抑制できないが、そうした条 件に乏しいアジアにおいては、民主化と産業化の均衡のうえにナショナリズムをおくこと によって抑制される必要があるとする。ナショナリズム―民主主義―産業主義(開発主義)と いう三者の均衡モデルによって近代化を達成したのは、ほかでもなく日本であり、アジア の「近代化モデル」として日本近代化の意義をあらためて評価するのである。

この時代の 山と外務省がどのような関係にあったのかは不明であるが、両者に共通す る問題関心は、安定したアジア秩序形成のために新興ナショナリズムをいかに制御するか、

というものであった。その解答として、日本の近代化・民主化・産業化を範とした「近代 化モデル」が途上国の開発モデルとしてふさわしいものとみなされたのは、アジアの共産 主義を「封じ込める」ことによって排除するより、ナショナリズムを経済発展に導き、ア ジア全体の成長のなかに日本の身をゆだねることが日本の利益につながる、という考え方 が日本のアジア外交の根底にあったからと思われる。すなわち、戦後初期の日本とアジア の一体的復興という構想は脈々と生き続けたのである。

5

南北問題と地域主義

1964年の第1

回国連貿易開発会議(UNCTAD)の日本政府代表団長であった朝海浩一郎は、

帰朝後の回想記事のなかで、「日本は苦心して自由化の峠にたどりついたが、峠に登ってみ ると、自由化や最恵国待遇の原則は、すでに時代遅れである。対低開発国貿易の強化とい うことが時代のあり方であるとする、一部低開発国の主張に当面せざるを得ないことを発 見したのである。……〔低開発国の発展は〕たんに経済問題であるにとどまらず、日本にと って対アジア外交の根本に触れる大きな政治問題」として浮上した、と記している(27)

1960年代の経済成長は、多角・自由貿易体制に自らを適応させるため、戦後日本が経済

的にも外交的にも努力を傾注した成果であったが、成長の果実をもってアジアにどのよう な貢献をなすか、という課題が目前に迫っていた。それは

1960年代に噴出した「南北問題」

であった。「南北問題」は、先進国による発展途上国援助のあり方の問題として、国連をし てその解決を最大の目的とする機関に変貌させるほどであった。

日本外交は、南北問題や途上国援助に無関心であったわけではなかったが、国際収支の 均衡という経済政策の大前提のもとで、国際収支の均衡を保ちつつ、経済成長と途上国援 助を両立させることは困難であった。第

1

UNCTAD

はこうした国内事情を問うことにな ったが、日本の役割に期待していた途上国、とりわけアジア諸国の失望と不信をエスカレ

(9)

ートさせ、ついには、会議の当初にはAA(アジア・アフリカ)グループ(Aリスト)と先進 国グループ(Bリスト)の双方に参加していた日本は、途中からアジア諸国によって

AA

グ ループから外されるといった事態を招く(28)。国内経済要因に制約された「近代化モデル」が 限界を示したのである。

この問題は次の佐藤栄作内閣において、「アジアで主導的立場にある国家として、この地 域の平和と安定に同様の関心を示すことは日本の義務である」と指摘するジョンソン米大 統領の指摘に促され、戦後初の公債発行(財政均衡主義の放棄)によって経済協力予算を倍 増させるという形で解決に向かう。それは日本外交が本格的な「援助外交」への決意を固 めた瞬間でもあった。UNCTAD閉会後、外務省は「本会議では結局先進国として欧米諸国 と共通の立場に徹底せざるを得ずアジアの一国であるという他の立場とこれを調和させた 態度をとる余地はなかった」とし、「わが国としては南北問題、あるいは低開発国貿易問題 に対する基本的政策を早急に確立し、建設的に対処することが必要」と総括した(29)

この間、東南アジア主導の地域協力機構として東南アジア諸国連合(ASEAN)が成長しつ つあり、その一方、1960年代半ばから、域内貿易の成長とともに「太平洋協力」という経 済的枠組みの模索が民間レベルで始まる。ここに日本外交は、経済成長の果実を基盤に、

先進国との協調と近隣諸国との連帯という二つのテーマの調和という、明治以来の歴史的 経験に裏打ちされた衝動にかられることになる(30)。1960年代末からの米中和解のプロセス、

ベトナム戦争の終結、ニクソン・ドクトリンといった事態がもたらした国際秩序の構造変 動が、ある種の危機意識をもたらしたことも、その国際的背景であった。これらの事態は アジア太平洋におけるアメリカの影響力の後退として印象づけられ、この地域に経済的、

政治的安定をもたらすという役割意識が浮上するのである。新しい役割の模索から、二つ の流れが生まれる(31)。一つは東南アジアの内部から生まれ、大きく成長しつつあった地域協 力メカニズムとしての

ASEAN

をターゲットとした「アジア連帯」であり、もう一つは、日 本の経済協力開発機構(OECD)加盟(1965年)による「先進国クラブ」への帰属意識をベ ースとして、太平洋先進諸国間の協力によって南北問題の解決を図る、という「太平洋協 力」構想であった。

前者は

1977

年の「福田ドクトリン」として、後者は、太平洋経済協力会議(PECC)など の民間レベルの活動を基礎とした政府間協議の枠組みであるアジア太平洋協力(APEC)と いう形で結実した。いずれも、それまでの「近代化モデル」を補完する、あるいはそれに 替わる外交的枠組みとしての意味をも帯びていた。アジアの構造変動に対応し、多様なア プローチが求められるなかで、経済中心の「近代化モデル」は、その有効性に限界が認め られるようになっていたのである。少なくとも、アジアのナショナリズムを「開発」に向 かわせるという点では役割を終えていた。アジアが「停滞のアジア」を脱出し、「開発主義」

へという大きな変容を引き起こしたのは「何よりもアジアの戦後史それ自体が内包した力 学」であり、革命や内戦への介入を避け、政治的争点に巻き込まれないための、経済援助 中心の「近代化モデル」がそれを導く原動力であったわけではない。しかし、援助が重要 な転換点において少なからぬ意味をもったことは確かであった(32)

(10)

結  び

「福田ドクトリン」とアジア太平洋協力という二つの外交的枠組みは、相互の補完性を高 めつつ、やがて「東アジア共同体」に収斂していくのかもしれない。いずれにせよ、アジ ア太平洋における地域協力の進展は、この地域の持続的成長と貿易拡大をめぐって醸成さ れたもので、もっぱら「経済のダイナミズムの共有」がもたらした機能的協力であり、「連 帯」という共通のモチベーションに導かれたものではない(33)

戦後のアジア外交は「多国間主義」を基盤として形成された。多国間主義は得意とする 政策分野を生かしうるという点にメリットがあり、主要な地域主義のアイデアもそうした メリットを生かしたものであった。その一方、アジア社会に内在する固有の社会や文化の 構成原理を基底におきつつ「地域主義」を構想する論理構成をとっていないことは、そも そも機能主義的な協力以上のものを求めないという暗黙の合意がそこにある。したがって、

日本とアジアの「アイデンティティの共有」という根本問題(34)とは別に、いくつかの重要 課題を残すことになった。その一つは、戦争賠償が経済協力の一環として処理され戦争の 責任や謝罪の問題が曖昧となったように、戦争や植民地支配がアジアに遺した「負の遺産」

の克服という問題を遺したことである。

2003年末の日本・ ASEAN

東京宣言には、「東アジアの伝統と価値観を理解する共通の精

神を有する東アジア・コミュニティの構築を求める」と明記されている。外務省アジア大 洋州局は、翌年6月、東アジア・コミュニティに関する論点メモを関係国に送り、「機能的 協力」や「制度的取り決め」はある程度可能であるとしても、「共通の価値観と原則に基づ く共有されたアイデンティティの創造」はきわめて困難と指摘した(35)。こうした困難を自 覚しつつも、日本政府が「東アジア共同体」形成に向けた努力を怠らないのは、その実現 性への確信や共同体への強い意思というより、経済連携協定(EPA)を中心とした東アジア 域内の経済連携の推進が、日本国内の構造改革と連動しているからであろう(36)

そもそも、「アジア太平洋」という広い地域概念が出現したのも、また、「東アジア」概 念が、東南アジア(ASEAN地域)と旧来からの中国、朝鮮半島、日本を総体的に指す「東ア ジア」とが融合した広義の概念として定着しているのも、この地域の急速な経済発展と実 態としての経済的統合の深化の故である。

中国の王毅前駐日中国大使は、2006年

5

月の講演のなかで、ASEANを中心とした機能的 協力の進展と、インド、オーストラリア、ニュージーランドといった協力関係の広がりを 評価しつつ、「東洋文明という大きな枠組みの中の多様性」を尊重した、「新たなアジア主義」

を提唱しているが、克服しなければならない問題が「負の遺産」の克服であると指摘して いる(37)。グローバルな経済統合の進展や民主化の浸透は「負の遺産」の清算を導くわけでは なく、むしろ逆に作用する可能性を孕んでいる。市民レベルの歴史対話の拡大や歴史共同 研究の支援などを通じて「歴史和解プロセス」を着実に進めると同時に、日本のイニシアテ ィヴによって歴史問題の極小化のためのメカニズムをつくり上げる必要がある。東アジア における歴史和解事業は、「新たな地域主義」の基盤形成にとって不可欠のプロセスのよう

(11)

に思われる。

1 山政道『東亜と世界』、改造社、1941年。

2) 井上寿一「国際協調・地域主義・新秩序」、坂野潤治ほか編『日本現代史3』、岩波書店、1993年、

271―302ページ。

3) 波多野澄雄「『東亜新秩序』と地政学」、三輪公忠編『日本の一九三〇年代』、創流社、1980年、

13―47ページ。

4) 加田哲二「東亜経済協同体の政策」『中央公論』1939年12月号、加田「東亜建設理論の再吟味」 同『太平洋経済戦争論』、慶応書房、1941年。

5) 清水元「明治中期の南進論と『環太平洋』構想の原型」『アジア経済』第32巻9号(1991年)

6) 清水元「近代日本における『東南アジア』地域概念の成立(一)(二)『アジア経済』第28巻6―7 号(1991年9月、10月)

7) 中西寛「アジア主義の呪縛?」、伊藤之雄・川田稔編『20世紀日本と東アジアの形成』、ミネル ヴァ書房、2006年、247ページ。

8) ピーター・ドウス(藤原帰一訳)「植民地なき帝国主義」『思想』814号(1992年)。ドウスの議 論は「民族自決主義」が第1次大戦後の「もはや避けることのできない行動原則」として定着した がために、戦間期の帝国主義には植民地支配を正当化するさまざまなレトリックが必要とされた、

というものである。

9)「大東亜共栄圏建設原案(草稿)『総力戦研究所資料』第45号(1942年1月)

(10) 波多野澄雄『太平洋戦争とアジア外交』、東京大学出版会、1996年、および波多野「重光葵と大 東亜共同宣言」『国際政治』109号(1995年)

(11) 清沢洌「大東亜宣言の具体化」、1944年812日(清沢『暗黒日記』、評論社、1979年)。同前

『暗黒日記』のほか、『石橋湛山全集』第12巻(東洋経済新報社、1972年)による。

(12) 波多野澄雄「広田・マリク会談と戦時日ソ関係」『軍事史学』第29巻4号(1994年)

(13) 入江昭「戦後アジアへの戦時日本の構想」、細谷千博編『日英関係史 1917―1949』、東京大学出 版会、1982年、199ページ。

(14) 外務省特別調査委員会「日本経済再建の基本問題」(中村隆英ほか編『資料:戦後日本の経済政 策構想』第1巻、東京大学出版会、1990年)

(15) 同上。

(16) 最近の研究に、浅野豊美『帝国日本の植民地法制』、名古屋大学出版会、2008年、157、606―607 ページ。

(17) 中西寛、前掲「アジア主義の呪縛?」、260―261ページ。

(18) 井上寿一「戦後日本のアジア外交の形成」、日本政治学会編『日本外交におけるアジア主義(年 報政治学)、岩波書店、1999年、130―131ページ。

(19) 経済審議庁経済協力室「アジア低開発諸国の経済発展と地域主義」、1954年12月。

(20) アジア局「東南アジアにおける共産勢力の動向」、1954年5月21日(外務省記録A0137)。外務省

「東南アジアとの経済協力」、1954年5月19日(同上)

(21)「岸総理第1次東南アジア訪問関係(1957.6)携行参考資料」(外務省記録A0153)

(22) 1967年秋、三木武夫外相は第6回日英定期協議の場において、日本は中共対策として、民間レベ

ルの実務関係を進展させ、「自由主義体制の優越性を認識させることにより、長期的に中共政権の 変質を図って行くという基本方針を一貫してとってきた」と説明したことがある(「第6回日英定 期協議大臣会談発言参考資料」、1967年11月〔外務省記録A0154〕。日本の指導者は冷戦をイデオ ロギー闘争ではなく、自由主義と社会主義という体制間競争として把握する傾向が強かった。

(23) 佐藤晋「池田内閣期の東南アジア政策」、波多野澄雄・佐藤晋『現代日本の東南アジア政策―

(12)

1950―2005』、早稲田大学出版部、2007年、および佐藤「戦後日本外交とアジア秩序構想―『経 済外交』・安全保障・ナショナリズム」(慶應義塾大学法学研究科博士論文)、2000年。

(24) “United States Policy Toward Japan,” 11 June 1960, in Foreign Relations of the United States: 1958–60, Vol.

23.

(25) 山政道『国際政治と日本外交』、中央公論社、1959年、118ページ。

(26) 酒井哲哉『近代日本の国際秩序論』、岩波書店、2007年、第3章。

(27) 朝海浩一郎「国連貿易開発会議に出席して」『国際問題』52号(1964年7月)

(28) 高橋和宏「南北問題と東南アジア経済外交」、波多野澄雄編『池田・佐藤政権期の日本外交』、ミ ネルヴァ書房、2004年。

(29) 国連局経済課「国連貿易開発会議の成果と問題点」(外務省開示文書)

(30) 渡辺昭夫『アジア太平洋の国際関係と日本』、東京大学出版会、1992年、111―112ページ。

(31) 同上、108―109ページ。

(32) 宮城大蔵『「海洋国家」日本の戦後史』、ちくま新書、2008年、22ページ。

(33) 楊秀彦(韓国副総理兼経済企画院長官諮問官)の発言(「座談会:アジアの視点からの発言を」

『外交フォーラム』64号〔1994年1月号〕

(34) 栗山尚一「戦後日本外交の軌跡⑪」『アジア時報』2008年5月号。

(35) 外務省アジア大洋州局地域政策課「論点メモ」、2004年6月。

(36) 例えば、通商産業省通商政策局「東アジア企業戦略を考える研究会―概要」(2003年9月)は、

東アジア企業の生き残りのためには、「自由化という要素のみでなく、東アジア全体としての制度 の調和や政策協調にまで踏み込んだ形で一体化」する利益を各国政府が自覚し、「それを可能にす るための構造改革を推進することが不可欠」と指摘している。

(37)「アジア調査会における王毅大使の講演」、2006年5月9日。

はたの・すみお 筑波大学教授

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