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藤巻正生先生を悼む - J-Stage

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Academic year: 2023

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化学と生物 Vol. 52, No. 12, 2014

藤巻正生先生を悼む

「荒井君,キミ,肉を食わなきゃダメだよ」̶ある会 食の席で,私のあっさりした献立を横目でチラリと見な がらビーフステーキをパクパクと召し上がっておられた 恩師・藤巻正生先生(当時94歳)が,去る8月14日,

97歳の天寿を全うされてお亡くなりになった.

食肉科学を専攻された先生は,ビーフをこよなく愛さ れたが,「牛肉には栄養以上の何かがあるな〜」が口癖 であった.一般の研究討論でも, 何か新しいもの の 重要性を,ドイツ語の “etwas neues” を頻用されつ つ,説くのが常だった.

東京大学農学部農芸化学科(現在の応用生命化学・工 学専攻)の畜産物利用学研究室(現在の食品生化学研究 室)にて食品の研究を開始された先生の当初のテーマは 食肉熟成の化学・生化学であり,佐々木林治郎教授の下 で研鑽を積まれた.その後,櫻井芳人教授が担当された 食糧化学研究室に助教授として迎えられ,食肉科学の研 究を継続された.しかしそこには 利用学 の観点が色 濃く反映されていた.

利用学の具体例の一つは,放射線特に60Coのγ線によ る食肉照射滅菌が品質に与える影響の評価であった.原 子力平和利用のはしりとも言えよう.もう一つは缶詰に よる食肉の品質保蔵の研究であった.

私が学生時代のエピソードを一つ̶昭和34年3月に卒 業見込みの50名のうちの私ども6名は,食糧化学研究室 の卒論生だったが,研究が忙しくなるはずの2月,実験 をさぼってスキーに行く計画を秘かに立てていた.出発 当日の夕刻,スキー姿に身をかためた6名は,雁首揃え て藤巻先生の前に立ち並び,「これから3泊4日で池の平 に行って参ります」と恐る恐る小声でつぶやくと,先生 は一瞬ビックリした顔をなさったが,何のお小言もな く,当時貴重品だった牛肉の缶詰をたくさん「持って行 きなさい」と言われた.感激した.

先生は昭和30年代後半オハイオ州立大学に留学され,

名著 “Food for Life” で知られるF. E. Deatherage教授

の下で食肉科学を研究された.が,ご帰国された昭和 40年頃から,日本では食品の色・味・匂いへの関心が 高まり始めていた.櫻井教授は,鈴木梅太郎門下の栄養 学者であったが,「食品の第一条件は おいしさ であ る」というフィロソフィーを唱道されたので,藤巻先生 のお仕事にも食品のフレーバーへのご興味が強く反映さ れるようになった.その一例は大豆のフレーバーの研究 であった.

当時,アメリカは世界戦略の一環として 大豆を油糧 種子としてではなくタンパク質資源として把える こと を企図し,大豆の豆臭除去を大きな研究戦略としてい た.藤巻先生には,アメリカ留学時代のご縁であろう か,農務省北部研究所から研究依頼が高額のファンドと ともに寄せられた.その研究を,光栄にも,大学院生 だった私に命じられた.私は,洋服ダンスのように大き いガスクロ装置を,東大農学部の第1号機として,購入 していただいた.東京五輪の年であった.

先生の研究指導は厳しかった.無理をおっしゃること

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も多かった.年に4回も米国農務省への研究経過報告書 を(もちろん英語で)書くことが義務づけられていたか らである.温厚な先生のお顔が鬼のように見えたことも しばしばだった.が,厳しい中にも常にやさしいお気持 ちが込められていた.私は雑俳で先生を形容した̶ 無 理させて「無理しないでね」と無理を言い と.

昭和41年に櫻井教授が定年退官され,藤巻先生が教 授に昇任されると,加藤博通博士を助教授に採用して,

食糧化学研究室は 藤巻色 を鮮明に打ち出した.食肉 科学はそのままに,アミノ・カルボニル反応(メイラー ド反応)による褐変の研究,苦味・旨味ペプチドの解 析,諸食品の香りの分析がその主軸であった.方法論も 化学的なものから生化学・酵素学的なものへと拡大され た.山下(渡辺)道子博士がその意義を再発見されたタン パク質分解酵素逆反応(プラステイン反応)へは特段の ご関心を示された.

その頃は大学紛争の嵐の最中であった.東大農学部も 例外ではなかった.先生は学部長代理をお務めであった ので,ゲバ学生の標的となり,構内には入れないことが 多かった.近くのそば屋の2階に陣取られた先生は専ら 電話で研究・教育をご指導された.プラステイン反応の 進捗状況を気になさっておられて「どんな具合?」とた びたびお声をかけてくださった.

昭和52年,藤巻先生は東京大学を定年退官されて,

お茶の水女子大学教授として第二の研究人生に入られ た.所属は家政学部(現在の人間科学部)食物学科食品 貯蔵学研究室であった.本間清一博士が助教授として先 生を支えた.最初のお仕事は腎臓毒性をもつリジノアラ ニンの研究で,食品安全性研究のはしりでもあった.そ こからは,後に東京大学で活躍される阿部啓子博士が輩 出された.その直後,先生は学長に就任された.

日本の食品科学が高度経済成長とは裏腹にやや停滞気 味になった20世紀後半,これを何とか打破したいと思 われた一人に京都大学教授(当時)千葉英雄博士がい らっしゃった.博士は私を仲間に入れてくださり,食品 研究の新しい国家プロジェクトを企画された.文部省

(当時)科学研究費特定研究という大型プロジェクトが 狙いであった.私どもは 食品機能論 という新機軸を 打ち出し,原案を藤巻先生に提示するとともに,全国か

らの数十名の分担研究者を統括するリーダーをお願いし たところ,快くお引き受けくださった.

食品機能論というのは,食品には①健康維持の栄養面 での働き(一次機能),②おいしさにかかわる感覚面で の働き(二次機能)のほかに③病気予防に寄与する生理 面での働き(三次機能)が存在するというコンセプトで ある.③の研究からは 機能性食品 と名づけた新食品 が生み出された.これが昭和59年に特定研究として採 択され,国の内外に開示したのが契機で “functional  food” は世界的に認知され,各国は 日本に追いつき追 い越せ と目の色を変えた.同時にDr. Fujimakiの名前 は国際的となった.国内では,機能性食品は 特定保健 用食品 として法制化された.

藤巻先生の学界・官界・産業界での形而上下にわたる ご活躍は筆舌に尽くし難く,ご業績は枚挙に暇がない.

本稿は公文書ではないから,ほんの抄例のみを紹介す る.まず,学術関係では,東京大学名誉教授,お茶の水 女子大学名誉教授,全国各地の大学の非常勤講師(一時 客員教授として在籍された東京農業大学がこれに含まれ る).学会関係では日本農芸化学会会長,日本栄養・食 糧学会会長,Vice President of the International Union  of Food Science and Technologyなど.官界関係では日 本学術会議副会長,農水省,厚生省そのほか多くの省庁 の委員・理事.産業界関係では,(財)伊藤文化財団,

(財)食生活研究会,(財)不二たん白質研究振興財団,

(財)三島海雲記念財団,(財)内藤記念科学振興財団,

(財)野田産業科学研究所,(財)安藤スポーツ・食文化振 興財団などの理事・評議員(現在これらは公益財団に なっている).栄誉として紫綬褒章,勲二等旭日章,日 本農学賞,日本栄養・食糧学会賞,日本食品工業学会功 労賞などを受けられた.

最後に,私ども後進が研究で “etwas neues” を発見 することを心待ちにされ,食肉科学,食品科学,そして 世界に冠たる農芸化学の発展に千載の夢を馳せつつ,温 かく見守ってくださっているであろう藤巻正生先生に,

心から哀悼の意を捧げ,擱筆する.

(荒井綜一)

Copyright © 2014 公益社団法人日本農芸化学会

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化学と生物 Vol. 52, No. 12, 2014 プロフィル

荒井 綜一(Soichi ARAI)

<略歴>1959年東京大学農学部農芸化学 科卒業/同大学農学部教授を経て東京農業 大学応用生命科学部教授<研究テーマと抱 負>食品機能学とくに機能性食品ゲノミク ス<趣味>宝塚歌劇

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