生徒指導のパラダイム・シフト
カウンセリング・マインドからゼロトレランスへ
赤 堀 方 哉
【1. はじめに】
戦後の日本の学校教育における生徒指導史は、戦災孤児や浮浪者問題等への取り組みから始 まった。文部省(当時、以下同様)から生徒指導に関わる行政施策が次々と打ち出される一方 で、草の根でも、集団主義生活指導や生活綴り方運動などが行われてきた。しかし、学校内外で の子どもたちのあり方が安定してきたとはおおよそ思われない。1950年代は少年非行の第一
ピークとも言われ、対教師暴力も多発している。60年代には、児童福祉白書(厚生省、1963) で、「凶悪・集団・中流」をキーワードに「子どもの危険」が強調された。70年代に入ると、
「いじあ」が頻繁に取り上げられるようになり、「いじめ自殺」が社会問題化するようになった。
80年代にはいじめ問題が深刻化するとともに、小学校での「学級崩壊」が報じられた。そして、
90年代以降には「酒鬼薔薇事件」に象徴されるような、動機が不明瞭な少年犯罪が続発するよ うになった。
このような生徒指導をめぐる諸問題に、 カウンセリング的に対処することが求められ続け てきた。本研究では、まず、カウンセリング的な手法を用いた生徒指導の歴史をふりかえり、カ ウンセリング的な枠組みで生徒指導を展開することの今日的限界を明らかにし、新たな枠組みと してゼロトレランスとソーシャル・スキル・トレーニングへと移行しはじめていることを示す。さ らに、この移行は単なる方法論の深化ではなく、90年代と00年代の断続であり、児童生徒観の 変化を伴う生徒指導のパラダイム・シフトであることを示す。
【2. カウンセリングを用いた生徒指導】
一1. カウンセリングを用いた生徒指導史
生徒指導を巡る多様な問題の要因を「管理教育への反発」、「受験戦争でのストレス」などと認 定して、「子どもの立場に立って理解する」ことが学校と教師に求められてきた。「学校カウンセ
リング」であり、「カウンセリング・マインドを持った教師」である。日本の学校にカウンセリ ングやガイダンスの機能は、戦後のアメリカ教育使節団によって持ち込まれ、各地で教師を対象 としたカウンセリング講習会が行われた。60年代から70年代には「カウンセリング・ブーム」
が起こり、カウンセリングによって指導の難しい子どもが立ち直っていく姿が示された(氏原、
1991)。しかし70年代末頃から、カウンセリングによる指導の限界が明らかになるにつれ、ブー
ムは去っていった。80年中のカウンセリング停滞期を経て、90年代以降をカウンセリングの第 2次ピーク期と近藤(1997)は指摘する。80年代の社会問題化した教育問題を背景に、カウンセ
リング・マインド論が浸透していくようになってきたのである。95年からは文部省の委託事業 として「スクール・カウンセラー活用調査」が始まり、96年の中央教育審議会答申では「今日の いじめや登校拒否などの深刻な状況を踏まえるとき、教員一人一人が子供の心を理解し、その悩 みを受け止めようとする態度を身に付けることは極めて重要であると言わなければならない」と され、「すべての教員について基礎的なカウンセリング能力の育成を充実する必要がある」とさ れた。答申を受けて、98年には「教育職員免許法の一部を改正する法律」が公布され、教員免 許取得の要件としてカウンセリングが含まれることとなった。
カウンセリングを用いた生徒指導には、学校現場では時期によって用いられ方に差が生じてお り、また、教員免許状の取得の要件になったのは98年以降である。しかし、戦後の文部省の生 徒指導の方針は、カウンセリング的な手法と発想を中心に据えたものであり続けた。文部省が発 行する生徒指導資料の第1集である『生徒指導の手引き』(文部省、1965)では、カウンセリン
グが全面には打ち出されないものの、「生徒の個性の尊重」の必要性が繰り返し指摘される。さ らに、生徒指導資料第7集(文部省、1971)ではカウンセリングの特集が組まれている。
80年代に入ると、個性の尊重という原則が校則の見直しにも波及してくる。臨時教育審議会 が第1次答申(臨時教育審議会、1985)で「個性重視の原則」を打ち出し、第2次答申(臨時教 育審議会、1986)では「一部に見られる過度に形式主義的・些末主義的な管理教育や体罰等を改
め、学校に自由と規律の毅然とした気風を回復する努力が必要である」としたことや、中学校での 校則に合わない髪型の生徒を卒業アルバムから除外したことが報道された(朝日新聞、1988)こ
とを受けて、都道府県教育委員会等中等教育担当課長会議において、文部省初等中等教育局長が
「その(校則)内容、運用(指導)の在り方については、検討を加えていく必要があると思う」
と述べ、校則見直しの必要性を指摘し、「校則については種々問題も指摘されているところであ り、各都道府県教育委員会においても、……各学校における校則見直しの指導をしていってもら いたい」と、校則見直しを要望した。また、90年には、「生徒指導の留意点として、生徒一人ひ とりの個性を尊重し、生徒・父母との信頼関係を大切にして、生徒との好ましい人間関係の育 成」が指示されている。
このような文科省の動きは、規則で縛る教育を廃して、生徒の主体性と自主性を尊重して、信 頼関係で指導すること(本論文では、この指導方針をカウンセリング的としている)を目指した
ものであった。
一2. カウンセリングを用いた生徒指導の限界
カウンセリング的な手法を用いた生徒指導の事例とこのような指導の限界を示す事例を対照す ることによって、カウンセリングを用いた生徒指導が持っている生徒観を示す。
Ex1. カウンセリングを用いた生徒指導の事例(河合(1979)より要約)
中学2年生のA子が、教室で傘をさした。「どうしてそんなことをしたの」という問 いに対して、「先生を怒らせようとした」。なぜ、怒らせようとしたのか。それは、先生
が、自分が何をしても一切無視し、注意もせず、相手にしない、という態度をとってい たことによる。A子が腹を立てている理由は、自分を人間扱いしないことによるもの であった。それに対して、「そうだったの、私だって、そんな目にあわされたら、もつ と腹が立っていたと思う」と受容・共感的に応答している。これによって、A子は、
正直に自分を明らかにすることの大切さに気がっき、自分が他人から理解されたことを 知った。
ここに示されているのは、ある問題行動には、その背景があり、その背景を理解し、そこにア プローチしていくことによって、結果として、生徒が心理的成長を遂げ、問題行動が消滅してい
くという生徒観である。しかし、このような生徒観は、今日的な生徒のあり方を目前にして変化 を迫られている。
Ex2. 今日的な生徒の事例1(喜入(1999)より要約)
高校での授業中。授業に参加しているのは半数程度。残りは私語をしたり、寝たりし ている。A君はドラムのまねごとなのか、ボールペンで机を叩き続けている。この生 徒に対して、教師が「もう少し静かにしなさい」と注意しても無視。もう少し強く注意 すると、「何で俺だけなの?ほかにもうるさいやつなんかたくさんいるじゃないか。そ いっらも全部注意してよ」。「人のことはどうでもいい。とにかく、カチャカチャやるの をやめろ」と指導を続けると、「そっちこそ、ほっといてよ。勝手にやっていればいい じゃないか」。
このような事例は今や珍しくない。プロ教師の会などを中心に多くの事例が紹介されている (例えば、河上(1999)、諏訪(1997)、芹沢ら(1999)など)。この20年の隔たりがある2っの 典型事例から、重大な生徒の変化を読みとることができるだろう。まず、前者では自分の行って いる行為が「悪い」ということを認識した上で、それを、あえて、あるいは、やむを得ず
行っているのに対し、後者ではその行為が「悪い」という認識が成立していない。そのたあ、前 者ではその行為に追求すべき背景があるのに対し、後者にはそれが存在していない。なぜなら ば、「悪い」行為を行うためには、それなりの動機や必然性が必要であるが、「ふつう」の行為を 行うためにはそれを必要としない。したがって、背景となる要因を探ることはほとんど無意味で
ある。
もうひとつ事例を提示する。
Ex3. 今日的な生徒の事例2(喜入(1999)より要約)
無断早退をした生徒の家に電話してのやりとり。彼女は自分は無断早退をしていない と主張している。
「君が早退した時間の先生は、君が保健室に行ったことしか知らないよ」
「保健室に行ったけど、保健の先生がいませんでした」
「それならどうして担任の私にひとこと言わなかったんだ」
「先生も見当たりませんでした」
「他の先生は?」
「いたかもしれませんけど、覚えていません」
「いちおう、悪いとは思っているわけ?」
「いいえ」
「なぜだ」
「べつに無断早退とは思っていませんから」
事例2では、行為の意味の認定について教師と生徒が食い違っている。生徒が主観的な行為の 意味(早退するために先生を探した)に固執することによって、その行為の客観的な意味(だれ
にも告げずに早退した)を受け入れることが出来ていない。そのため、「どうしてそんなことを したの?」とカウンセリング的に生徒に寄り、受容することは、生徒の主観的な意味を追認する だけで、表面に現れていない要因を浮かび上がらせることにならない。上述したようにこれは当 然のことで、浮かび上がらせるべき要因を持っていないのである。
生徒の側に立って生徒を理解し、教師は生徒の目線にまで目線を下げて、受容と共感のもと に、カウンセリング・マインドで接し、強要しない。問題行動には必ず本人にとっての障壁があ るので、それを取り除いてやることが大切である。このようなカウンセリング・マインドでの生 徒指導が不可能な事例が一般化するようになってきたのである。
【3. ゼロトレランス】
上記のような状況を受けて、国立教育政策研究所と文科省は従来のカウンセリング的な指導方 針とは異なる報告書を出した。それが、「生徒指導体制の在り方についての調査研究」(国立教育 政策研究所、2006)である。この報告書のはしがきには、「近年の児童生徒による重大な問題行 動を受けとめ、学校の生徒指導体制のあり方を見直すこと」とあり、調査の目的には「児童生徒 の規範意識の醸成に関しては、全ての学校において、全教職員が、指導がぶれることなく、『当 たり前にやるべきこと』を『当たり前のこと』として徹底して実施する必要がある」としてい
る。
この転換の背景には、本報告書も言及しているように、アメリカでのゼロトレランスによる生 徒指導の成功がある。アメリカも70年から80年分にかけて、多くの学校で、規律の乱れや麻 薬、暴力などの学校の荒廃ともいえる状況がみられた。80年代末からカリフォルニアやニュー ヨークなどの各州でのゼロトレランスによる学校改革が成功していくと、G・ブッシュ大統領 (当時)「安全で、規律ある、麻薬のない」学校を作り上げ、規律正しい教育を国家教育目標の一 つに掲げた。次の大統領であるクリントン大統領(当時)もこの教育政策を引き継ぎ「規則を整 備し、ゼロトレランス方式を確立するべきである」という呼びかけを行っている。このような大 統領による強力なリーダーシップによって、90年代にはアメリカの生徒指導改革は大きな成功 を収めた。
ゼロトレランスとは、事前に児童や生徒がするべきこと(してはならないこと)を明文化し周 知しておくと同時に、それに違反した場合の指導・罰則についても周知しておく。その罰則はプ
ログレッシブ・ディシプリンとも呼ばれているように、最初の、または軽微な違反への軽微な指 導・罰則から、違反を繰り返すことによって、または重大な違反を行うことによって、徐々に指 導・罰則が重くなることが示されている。そして、児童生徒の違反を発見した場合は、全教員が 事前に周知されたものに従って、同じように指導していくというものである。
前掲の報告書のなかで用いられている全教職員が指導がぶれることなく行うべき「当たり前の こと」とは、このゼロトレランスとプログレッシブ・ディシプリンによる指導なのである。そし て、この指導の臨界地点として、義務教育学校では出席停止、高等学校では懲戒処分を適切に運 用することが求められている。これは、前述した文部省の90年代の校則見直しの指示からは大
きく方針転換がなされていることが明白である。日本でも、この方針の下に生徒指導や学業指導 を行い、成果を挙げる例が報告され始めている(産経新聞、2008)。
このような生徒指導の方針転換の背景には、上述したアメリカでの成功体験だけでなく、児童 生徒観の転換があるように思われる。すなわち、カウンセリング的な指導を試みる背景には、あ
る生徒の逸脱行動は彼(もしくは彼女、以下同様)の抱えている問題の現れであって、問題 そのものではないという児童生徒観があった。そのため、指導は逸脱行動そのものではなく、彼 の抱えている問題に焦点が当てられるべきであった。だからこそ、彼と信頼関係を築き、彼の抱 えている問題を共有化することによって、その問題が解決に向かい、同時に、逸脱行動もなくな るとされたのであった。しかし、ゼロトレランスによる生徒指導では、児童生徒の逸脱行動は問 題そのものである。「なぜ」そのような行動をとったのかにはほとんど関心をもたれることなく
(関心をもたれたとしても、その関心とは無関係に)あらかじめ定められたとおりに指導・罰則 を与えられることになる。「なぜ」に関心がもたれなくなったのは、なぜか。それはそこに追求 するだけの価値がある「なぜ」が存在しないと思われているからである。逸脱行動は、それが逸 脱であると認識していない生徒や、認識していたとしても自律することが出来ない生徒によって なされると考えられるようになったのである。このような児童生徒観に立って、規範を知らない ものには教え、自律できないものにはそれができるように酒養していくことが目指されるように なったのである。
【4. ソーシャル・スキル・トレーニング】
子どもたちは学級におけるルールに従って、集団生活・活動を送っている。そのルールには河 村(2008a)によると3っの種類がある。3つとは①集団内で日常生活を送っていくうえでの ルール(机・ロッカー等の使い方など)、②集団内でみんなで活動するうえでのルール(チャイ ムにしたがって行動するなど)、③集団内で級友とかかわるうえでのルール(コミュニケーショ
ンをとる際のスキル)である。①と②がゼロトレランスによって身につけることが見通されてい るのに対して、③はソーシャル・スキル・トレーニングによって身につけることが見通されてい る。これを生徒指導の用語に置き換えると、生徒指導は青少年非行のような問題行動に対する消 極的な指導だけにとどまるものではなく、積極的にすべての生徒のそれぞれの人格のよりよき発
達を目ざすものであるとなるだろう(文部省、1965)。その積極的な生徒指導の部分をソーシャ ル・スキル・トレーニングが担えるのである。
ソーシャル・スキルの定義には統一的なものがないのが現状である(相川、2000)が、子ども のソーシャル・スキルについては「社会的スキルとは、社会的に受け入れられているか、あるい は社会的に価値ありとみられているやり方で、社会的場面において、本人にも、相手にも互いに 利益となるように相互作用する能力」(Combsら、1977)という定義が用いられることが多い。
対人関係を営むための知識と技術がソーシャル・スキルであり、河村(2008a、2008b)は、特 に小学校や中学校での学校生活で必要とされるソーシャル・スキルとして、「配慮のスキル」と
「かかわりのスキル」を挙げている。
これらのスキルを身に付けさせる方法がソーシャル・スキル・トレーニングである。ソーシャ ル・スキル・トレーニングの方法については複数の技法が存在し、対象となる児童生徒の年齢に よっても当然展開は異なってくるが、もっともオーソドックスな展開に以下のようなものがあ
る。
①「教示」:学習すべきスキルを特定したうえで、スキルの内容と訓練する意義を理解さ せる
②「モデリング」:よいモデルや悪いモデルを見せて、スキルの意味や具体的な展開の仕 方を理解させる
③「ロールプレイ」:生徒同士で役割を決めて、スキルを練習してみる
④「フィードバック」:適切にスキルを活用できた場合は褒め、スキルの定着を図る ⑤「般化」:一般的な場面で積極的にスキルを活用するように勧める
ソーシャル・スキル・トレーニングを効果的に行うためのポイントは2っである。1っ目は、
「スキルの特定」である。「人の話はちゃんと聞く」ではなく、「①人の目を見て、②うなづきな がら、聞く」のように、具体的な行為のスモール・ステップに分割してスキルを示すことであ る。2っ目は、「フィードバック」である。上手くスキルを使えた際には、漠然と褒めるのでは なく、どこがよかったのかを明確にして褒あ、上手くいかなかった際は、逆に、どこがどのよう にまずかったのかを具体的に指導することである。
ここにいたって、ソーシャル・スキル・トレーニングとゼロトレランスは大部分で重なってく る。すなわち、両者が事前に明確な目標を示しておく(ゼロトレランスの場合は校則等の形で、
ソーシャル・スキル・トレーニングの場合はスキルの特定という形で)という点で、また、両者 が明確な報酬を与えるというという点で(ゼロトレランスの場合はプログレシップ・ディシ プリンという形で負の報酬を与え、ソーシャル・スキル・トレーニングがフィードバックという 形で主に正の報酬を与える)。この両者の方法論の類似は、両者がオペラント条件付けという学 習心理学を思想的な背景にしていることによるものである。そして、この類似は方法論だけでな
く、児童生徒観の類似でもある。すなわち、ソーシャル・スキル・トレーニングも、生徒が対人 関係を円滑に運ぶことができないのは、ソーシャル・スキルを知らない(か知っていてもそれを 活用することができていない)ために生じているという児童生徒観に立っている。だからこそ、
効果的にそれらを習得させる方法論へと特化していくことになるのである。
さらに、90年代のカウンセリング的な生徒指導から2000年代にゼロトレランスの指導への移 行と類似する移行が、ソーシャル・スキル・トレーニングにもある。90年代には、学級づくり にエンカウンターを用いたものが多く出版されている(例えば、横浜市GWT研究会1986、1994、
國分ら1996、1997、1999a、1999b、高塚2001)。そこでは、カウンセリング心理学を背景にし ながら、生徒同士のふれあいやあたたかさを感じる体験が求められ、そのような機会の提供の仕 方としてのエンカウンターであった。2000年ごろからエンカウンターを用いた学級づくりの 実践報告は少なくなり、代わって、ソーシャル・スキル・トレーニングを用いた実践報告や学 級づくりのテキストが多く出版されるようになってきているのである(例えば、佐藤ら2006、
本田2007、河村ら2008a、2008b、新里2008、伊佐2008、橋本2008)。
【5. おわりに】
もともとパラダイムという用語は、ターンが『科学革命の構造』(1962)のなかで使用したも のであった。パラダイムとは、科学的な研究の範型や思考の枠組みであり、「一般に認められた 科学的業績で、一時期の間、専門家に対しての問い方や答え方のモデルを与えるもの」とされ た。自然科学や社会科学の大発見は、新しいパラダイムの構築として理解されることを意味して
いる。
本研究では生徒指導のパラダイムが、90年代と00年代では転換しているということを示して きた。すなわち、90年代の生徒指導が、生徒が規範等を概ね了解しているということを前提に 組み立てられてきたのに対して、00年代の生徒指導が規範等を了解していないという前提の下
に組み立てられ始めていることが示された。この前提の変化は、指導法の変化をもたらす。カウ ンセリング的な指導からゼロトレランスーソーシャル・スキル・トレーニングによる指導への変 化であった。
この2っの立場に断続はないとする考え方も存在する。文科省がゼロトレランスの研究を始め たと話題になった「生徒指導体制の在り方についての調査研究」(国立教育政策研究所、2006) でも教育相談やカウンセリングによる児童生徒のアセスメントや事後指導の必要性が述べられて いる。また嶋崎(2007)は、「心理的事実に応えっっも、客観的事実に反する過剰な要求や無理 難題に対してはゼロトレランスで臨」む姿勢、「真正面から向き合い、子どもの立場で理解した
ら、大人の立場に立って指導する」という「正対する姿勢」はカウンセリング・マインドもゼロ トレランスも同じだと述べている。しかし、この構図では、教師は決して生徒に揺さぶられるこ とのない超越地点にいることを示しており、このことは、表面上は理解しているふりをした としても、一切の理解を本質的には拒否している。ふりが長けていればいるほど、大人の立 場に戻る瞬間は生徒に裏切りの瞬間と映ることはやむをえない。また、生徒の現状を踏まえて、
ゼロトレランスとカウンセリング・マインドを使い分けるという考えも、俗論である。いうまで もなくゼロトレランスはそのような使い分けを定義上拒否しているのである。
最後に、このパラダイム・シフトが見落としているものについて述べたい。ゼロトレランスが 目指した規範やソーシャル・スキル・トレーニングが目指した対人関係の知識や技術は、従来は 家庭教育が担ってきたものであった。このパラダイム・シフトは、家庭教育の欠損を学校教育が 代替しようとする試みであると理解することができる。であるならば、家庭教育の欠損の結果と しての児童生徒の非行等の責を、児童生徒だけに帰すことは不当であるように感じてならない。
日本の近代学校教育は、人材配分機能を学校が一手に引き受けることによって、人材配分原理を 帰属原理から業績原理へと変えるものであった。そのためには、どのような家庭教育を受けてき たものでも、学校教育を受けることを通して、その文化差を克服することができるように設計さ れなくてはならない。しかし、それによって家庭教育が無罪化されると同時に、学校教育が際限 なく肥大化することがあってはならないように思うのである。教育現場に身を置き、多くの教師 や児童生徒と関わるなかで、おおよそ今学校で学んでいることが信じられないような家庭環境の 中から、学校に通ってきている児童生徒に出会う。彼らの成績や性行の不良は、ほとんど本人の 責任でないとすら感じることも多々ある。カウンセリング的指導とゼロトレランスの指導の相似 点は、すなわち生徒指導のパラダイム・シフトが見落としてきたものは、この個人主義的児童生 徒観である。学校や教師は家庭教育環境に直接的にアプローチすることが求められるようになっ てきているのではなかろうか。
家庭教育環境への直接的アプローチは、スクール・ソーシャルワークという形で早くからアメ リカでの実践が積み重ねられ、日本でも紹介と実践が始まっている(例えば、日本スクールソー シャルワーク協会2003、2005、古橋2004、中2007、山野他2007)。しかし、そのいずれもが、
福祉からのアプローチである。学校や教師の行えるスクール・ソーシャルワークの検討を今後の 課題として本研究を締めくくる。
付記)本研究は平成20年度学術振興資金(研究課題:行き難い若者への関係支援プログラムの開発、研 究代表者:村中李衣、研究分担者:赤堀方哉)による研究成果の一部である。
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