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現代日本美術展と私

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Academic year: 2025

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(1)

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マ H 

削0. 2.%

第 9 回現代日本美術展

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現代日本美術展と私

現代日本美術展について、中原佑介氏のかわりに書くことを引きうけ、果して、自分が批評家のかわりに何か書くことができるのか、と自問したとたんに、自分が書きたいことは何かと考えこんで

しま。実は四月二十五日から一カ月問、一「肘〉〉なるグループとソニ

l

企業によって、エレクトロマジカ六九という展覧会を企画実現し、

いろいろなことで、頭の中の問題を少し整理する必要があったし、まだその整理をまとめるのに十分な時聞がもてない状態なので、の原稿も、おそらくは中途半端になってしまうのではなかろうか。現代日本美術展には、私自身、迷路の部屋の出品にまぎれこみ、予想以上に部屋がせまくて、制作した物を並べるのに意図した効果 がでなくてがっくりしていたし、その展覧会も終って、またたく まに、大量な金網の立体と 、フォーム

ラパ!の∞onB×82ロ×

∞onB

の立体が、私の手元へ戻てきて、その仕末になやんでいる のが、いまの私の状況であるから、これまた適当なコンディションではない。一体、なんのために現代日本美術展などに出品したのだろう。こういった反省にちかい後悔の気持をもつのは、作家としてほめられ

たことではないが、おそらく、美術批評家といった肩書の人たちに

、全く縁のない気持であることは間違いない。上野の美術館という建物は、窓のほとんどない風通しのわるい建物だが、二年もつづけて現代日本美術展という展覧会が聞かれ、中

I !  

3 0  

L l J  

勝 ヲム

味は去年と今年とでは違っているようで、印象としてあまり違っていないのは、いかなる理由によるものか。今年の「現代美術のフロンティア」という総タイトルのもとに、

迷路の部屋、複製とオリジナル、虚の空間、光と動き、立体と観念、

幻想の物体、エロスとユ

モアといったサブ・テ

l

てか設けられ、

このテ

l

マ別に、批評家と主催者の方で、作家が割りふられ、それぞれのテ17の内容にふさわしい問題が、作品を通して現われるか、といった予想を、みんなもていたのにちがいない。こういった立派で、ものものしいテ

i

マを考えた批評家たちの頭の中には、この企画がまるで、美術雑誌の特集の編集者のようなイメージと重 -っていたのではないだろうか。日本のジャーナリズムも批評家も、どちらかといえば、最新の海外美術雑誌、海外美術館、両廊のカタログ、一年に一回くらいの短期間の世界一周によて、海外の動向の知識家となる。たちまちの

うちに、雑誌の特集が立てられ、たちまちのうちに流行の到来とな

。私自身、どんどん流行が入って、どんどん皆が忘れてくれた方が、芸術という不可思議な観念をクリーンにするためによろしいと考えているから、日本という国は、こんな住み具合のいいところはないと思っている。しかし、それは私自身の便利上の理・闘であて、私自身の特殊な理由を一般化して、ひとに伝える気持はない。

そこで、いささか一般化の立場から、いまの日本の状態を考える

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第 9 回現代日本美術展

6x 6 

山口勝弘

と、やはり現代制本美術版なるも

ω に、

ああ

ケオH

-

〆に近いテ

l

マをくっつけて、これで客寄せにしたり、作家を収分けするのは大変によろしくない、という考えに到る。それなら、はじめから、こうしたテ!?について主催者や批評家に何かいうべきだったとも思われるだろう。だが、実は私自身も、こうしたテ!?に

って、現代美術なるものが、少しは具体的に分類され、A

Bとの遣いが鮮明になるかと甘く考えていたのだ。

ん」ころが、実際は、こうしたテ

1 7

も実際は何の区別にもならず、相かわらずの作品が、壁と床と部屋に連続しているにすぎなかったのだから、私はがっかりし、さらに、こうしたテ!?にもと,ついた批評家の積極的な見解があらわれるかと思っていた期待も破れてしまった。それぞれのテ

17

を選んだ批評家たちは、それに答えるべき思想をもっていたにちがいないし、またその思想を確かめる作家を選んだのも彼等なら、当然自分たちの思想と具体的な資料としての作品との聞に発生してくる問題は、いろいろ面白かろうに、

ついにこれは、何の発展した結巣も生みださずに不発に終てしまった。

それぞれのテ17に区分けされた作家の聞にも、何の話しあい

、何の討論もなく、たちまちにして個の作家の集合、個人の作品の陳列にすぎない展覧会になってしまった。私だけでなく、ほかの出品作家たちも、一体なんのために現代日本美術展にだしたのだろ うかと、一つの嘆息くらいもらしたのではなかろうか。作家たちの聞にも、何のコミュニケイションもなく、問題は不発に終り、賞が決まり、作品が作家の生活空間をおびやかすように、

大げさな帰還をまって、はじめて、一体なんのための展覧会だ のか考えてしまう。

それに、現代美術そのものが、ああいつた形式によってハデに

底のみえた虚しさの上に成立することがおかしいのだ。画廊もその

ほかのコレクショナ

l

も、だれも無関係に、作家の負担だけをたよりに、ああいつたハナパナしい二十日間の催し自体考えるべきときではないか。最低一カ月、夏の三カ月くらいは聞いていて、ゆっくりとみせるべきだ。流行は流行であるし、芸術は流行であるから、

3 1  

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第 9 回現代日本美術展

流行をじっくりとみせて、じっくりと次の流行を考期聞が必要だ。批評家連中も、賞を決めればお役目終りではなもっ作家実態に近づくべきだ。実態というと、観念のキレ仕上で気取りたい先生がたにはきらわれるが、少しは呼吸もにし、触

てみたくなるまで、時をかけ必要がある。

そして、そういうやりかたが、美術界そのものが、一般大衆の生活の中へ少しづっ関係をもちはじめるのではなかろうか。ここで私が一般大衆というのは、「お金のない」「知識階級ではない」というに考えていないととを、しかと考えてもらわねばならい。一般大衆、頭がよく、感覚もすぐれ、お金も展覧会をみるたよろこんで出す人たちだし、それより何よ、一般大衆中には、何にお金を使いたい意義ある品物を探しているちだってい るし、政治家か経済界の人たちは、たまにはこした現代美術づいて、何かの援助を考えるべきなのである。そいう非美術界へ

ともっと、現代美術を売りこむべきであて、作家、展覧会から御招待があれば、自まえの金で作品を作り、ただでひとにみ、ただで写真をらせ、ただで新聞や雑誌に写真をのせさせ、だ て作品をるなんて、阿呆らしいこではない、日本の人口セントにもみたな数の雑誌に写真がでたそれにたよ分らない場当な文章で説明れ賞讃されても、何にもならない。風通しのわる美術館や美術界、もっと積極的に非美術界へ眼をむけ、そうう方向へ作品の意説得すべきときである。

つかの間のビエンナーレ出品、国際展への招待終れば、日本の現代美術は本の国内で、の一握りの美術関係者のネタになているだけある。日本の現代美術のもっも先端の問題を、一流の美術批評家たちによって、正い理論の上に、どしどしと遠感な海外へPRすべきなのに、殆どなにもしていない。今年の現代展を、そっくりそのままどこかの国発表したら、その様式と作品の多様さにて、世界中でびっくするだろう。それだけの内容の展覧会であるのに、たった二十日間て、

,

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手自Í11 布の弛み商松次郎

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白い夢 下回義克〈第 9 回現代日本美術展 東京都美柿T官官〉

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第 9 回現代日本美術展 主催/毎日新聞社・日本国際美術振興会 会期

/

1969 年 5 月 10

-

30 臼 会場

/

東京都美術館

(7)

『司咽圃

~

FICTION  SPACE  B 

三尾会三

Work Work  ・ 69 No . 1 1 1  

菅峰子

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とは消えてしまう。(地方巡回展も、規模は縮少してしま。)これ だけのものを、

PR

したら、世界中の展覧会から作出品の招待がくるだろう。そして、売れる機会はより多くなる。日本国内は売れ

ないのだから、どしどし海外で外貨をかせぐべきでる。そして、批評家の先生たちも、どしどしと原稿を訳して、海外で名を売って欲しい。こうしたセールスマンのようないいかたは、日本ではうけないが、少なくとも美術に関しては超々輪入超過でる。経済界は、外貨をためこんだのに、芸術界ではまだまだ輪入超過だから、どうしてもなんとかしたい。おそらく、そんなことは一OOも承知とおっしゃ人たちがいる だろうし、そんな風な海外流出に反対の人もいるだろうが、日本の現代美術も、こうした方向に政策をたてるべきだろ。政府推薦の国際見本市のような方法ではなく、もっとテ

17

品の傾向をしぼってつぎつぎと発送すべきである。その時に、今のサプ

・ テ 1

7

のかずかずが役に -立つし、それにふさわしい意味ある文章が批 評家たちによって書かれるべきである。現代展が、上野美術館と何人かの入場者と、作家と、一部批評家と、一部美術雑誌だけの問での年中行事にならないうに。やりかたを変えてもこういったシステムの中からは 、もう次の七Oの問

と 日

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9

現代日

本美術展

ことしの現代展ほど「現代の日本美術」展として現代日本」を強く印象づけられたことは、少くともぼくには、これまでになかった。それは曲り角などという感じではなかった。現代展は「明らか 題はでてこないだろうというのが 、私の観測である。何とか新しい美術政策をたて、その一環としてこうした展覧会を組織すべきだ。

ただでさえ、作家は個に還元する傾向がつよい。このまま現代美術が分解して、個にかえることは、どう考えてもソンである。

中途半端な画廊の人たちも、もっと本気で現代美術のことを考えて欲しい。何とかこれでもやっているといっても、どうも気の入れようが本格的でない。ダービーで賞金をとろうと寝る間も考えている馬主のようなガメツサ、真剣さがうかがえないから、もう私などあきらめている。批評家ではないから、作品のあれこれについて書くことは、私の個人的好みでしか書けないし、それではいけないだろう。だから、何とかしなくては、こういう展覧会もお先がまつくらだという、作家の真剣な気持を述べさせてもらって、少しは気分的にすっきりしてみたい。けっきょく芸術は個人的な問題にもどるが、展覧会は個人をこえた問題へゆく。だから、政策とシステムこそが考えられなければならない。当然なのだ。当然のことを考え、それを問題として考えるときである。

雄:

大 島

にいまひとつの曲り角にたっている」というが、「綜合的な展望」の場という意味では去年もしきりにそういわれたものだ。曲り角というと、よかれあしかれ、ともかくも先へゆく感じである。その角

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参照

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