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団 子 山 古 墳 7 四 穂 田 古 墳 1

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(1)

団 子 山 古 墳 7

福島県須賀川市団子山古墳第9次調査報告書

四 穂 田 古 墳 1

福島県西白河郡中島村四穂田古墳測量調査報告書

2020年3月

福島大学考古学研究報告第13集

福 島 大 学 行 政 政 策 学 類

福島大学行政政策学類考古学研究室

(2)
(3)

墳頂北西トレンチ出土埴輪

墳頂北西トレンチ埴輪列出土状況 墳頂北西トレンチ埴輪列出土状況(拡大)

巻頭図版  団子山古墳

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(5)

序  文

 『福島大学考古学研究報告』第 13 集では、2019 年春に実施した福島県西白河郡中島村四 穂田古墳の測量調査成果、および同年夏に実施した福島県須賀川市団子山古墳の第 9 次調 査の発掘調査成果を報告する。

 四穂田古墳は、2011 年 9 月に鉄製短甲等の副葬遺物が偶然出土し、東北で初の鉄製短甲 の出土として大きな注目を集めたが、墳丘にかんする情報が乏しく、古墳の全体像がつか めていなかった。今調査によって墳長 45m の前方後円墳の可能性が高いと考えられること になり、古墳を総体的に把握するうえで大きく前進した。ただし、墳丘や埋葬施設にかん しては確実な情報がなお少なく、今後の発掘調査の実施等により、確かな情報の把握に向 け検討や交渉をおこなっていきたいと考えている。

 団子山古墳の考古学的調査は今年度で 8 年目を迎え、調査主体が須賀川市に変わって市 と福島大学との共同調査としておこなわれてから 2 年目となる。この調査方式になることで、

団子山古墳の調査成果が須賀川市民のより身近な財産となるとともに、手続きや資金など の面で大学側の負担が軽減し、市・大学双方のメリットが増すことになったと考えている。

むろん、理想的な面ばかりでなく、双方にかかる負担も決して小さくないのであるが、行 政発掘の縮小や、人口・若者の減少といったまさに現代的な課題に地域社会が直面するなか、

行政と大学の連携の一つのあり方として参考となる事例になるものではないかと思う。な お試行錯誤はあると予想されるが、どのような調査方法の取り方が双方にとって負担が小 さく、一方で学術的・行政的により大きな成果がえられるか、検討を続けていきたい。

 2011 年 3 月に発生した東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故から今 年で丸 9 年となり、“ 震災 ” がしだいに遠い過去となりつつあることを実感する。一方で、

今年度は台風 19 号によって東日本の広い範囲が大きな被害を受けるなど、近年はむしろ大 規模災害が頻発している印象が強い。それにより多くの文化財が被害を受けており、災害 から文化財をいかに守るかということが、学術界でも行政においても大きな課題となって きている。このような事柄も考古学を学び実践していくうえで欠かせない課題であること を常に念頭におき、社会と考古学のあり方をこれからも模索していきたい。

 最後に、二つの古墳の調査実施にあたってご理解とご協力をいただいた個人と機関に深 く感謝申し上げ、あわせて、すべての関係各位に対し、今後の福島大学の考古学活動に対 する重ねてのご支援とご協力を心よりお願い申し上げる。

 2020 年 3 月 1 日

福島大学行政政策学類 考古学研究室

        菊 地 芳 朗

(6)

例  言

1.本書は、福島県須賀川市日照田字入ノ久保に所在する団子山古墳(福島県遺跡番号 20700385)の第 9 次調査、および福 島県西白河郡中島村吉岡字四穂田に所在する四穂田古墳(福島県遺跡番号 46590044)の測量調査報告書であり、福島大 学行政政策学類考古学実習の報告書を兼ねている。

2.団子山古墳第 9 次調査は須賀川市が主体となり福島大学行政政策学類考古学研究室との共同調査として実施し、四穂田 古墳測量調査は中島村教育委員会と福島大学行政政策学類考古学研究室との共同調査として実施した。調査期間は以下 の通りである。

   団子山古墳第 9 次調査:2019 年 8 月 6 日~ 9 月 21 日    四穂田古墳測量調査:2019 年 4 月 27 日~ 5 月 2 日

3.福島大学の調査担当は菊地芳朗(福島大学行政政策学類教授)である。

4.調査参加者は以下の通りである(所属は当時)。

団子山古墳第 9 次発掘調査:菊地芳朗(福島大学教員)、柳沼賢治(福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特 任教授)、管野和博、小池恵美子、田村麗香(須賀川市文化スポーツ部文化振興課)、木村理(大阪大学大学院博士 後期課程 3 年生)、今西純菜(東北大学大学院博士前期課程 2 年生)、谷本峻也(大阪大学大学院博士前期課程 2 年生)、

渡邊都季哉(同 1 年生)、杉浦和貴子(山形大学 4 年生)、新山寛人、山科樹生(福島大学行政政策学類 4 年生)、 

遠藤みなみ、斉田梨乃、角谷直樹、田子清楓、中木聖也、室井麻緒(同 3 年生)、傍島健太、吉田大(東北大学 3 年生)、

川名雄太、草野瑞貴、須磨優樹、千田優(福島大学 2 年生)、五十嵐達哉、小松原宏大、坂本絃、南大成、吉田拓生

(同 1 年生)。

四穂田古墳測量調査:菊地芳朗(同上)、柳沼賢治(同上)、新山寛人、山科樹生(同上)、遠藤みなみ、斉田梨乃、田 子清楓、室井麻緒、永瀬采央理(同上)、河合嵩也、國分遥菜、佐藤純平、清水勇希、平澤慎(福島大学卒業生)

5.団子山古墳の出土遺物は須賀川市、調査記録等は須賀川市および福島大学行政政策学類考古学研究室が保管し、四穂田 古墳の調査記録等は福島大学行政政策学類考古学研究室が保管している。

6.調査にあたり、下記の機関・個人にご指導およびご協力いただいた。(敬称略)

団子山古墳第 9 次調査: 金沢八百吉、安藤史章、市川一秋、一ノ瀬郁哉、近江俊秀、金田拓也、金丸一真、河合嵩也、

國分遥菜、佐藤純平、佐藤渉、田中裕、林弘幸、肥田翔子、日高慎、平井洸史、野島悠之、藤澤敦、矢内雅之、矢野雄登、

須賀川市大東公民館、須賀川市社会福祉協議会。

四穂田古墳測量調査:中島村生涯学習センター輝ら里

7.本書におけるレベル高はすべて海抜を示し、方位は座標北を表す。

8.本書における掲載の地図は、国土地理院発行 25,000 分の 1 地理図「須賀川東部」および 50,000 分の 1 地理図「須賀川」「郡 山」、50,000 分の 1 地理図「須賀川」「棚倉」を複製使用した。

9.写真撮影については、おもに菊地が担当し、一部を福島大学学生が担当した。

10.本書の編集は菊地芳朗が担当し、執筆分担については目次に記した。

11.調査の実施と本書の出版にあたり、福島大学行政政策学類考古学実習費および日本学術振興会科学研究費補助金基盤研 究(B)「海浜部在地墓制にみるヤマト政権と在地勢力の相互関係の学際的研究」(代表 : 清家章)の一部を使用している。

(7)

本文目次

第 1 編 団子山古墳第 9 次調査 ………1  Ⅰ 古墳の位置と周辺の遺跡 ………大島頼子・室井誠斗・中木聖也・管野和博…1    1.調査に至るまで ………1    2.地理的環境 ………2    3.歴史的環境 ………3  Ⅱ 調査の方法と経過 ………角谷直樹・遠藤みなみ…8    1 .調査の目的 ………8    2 .調査の経過 ………9    3 .調査の方法 ………10    4 .記録の方法 ………11  Ⅲ 発掘調査の成果 ………12    1 .南西第 3 トレンチ ………室井麻緒…12    2 .北東第 2 トレンチ ………田子清楓…14    3 .団子山古墳の墳形 ………山科樹生…17    4 .墳頂北西トレンチ ………斉田梨乃…19  Ⅳ 出土遺物 ………21    1 .遺物の概要 ………中木…21    2 .出土埴輪 ………中木・田子…21  Ⅴ 団子山古墳 2019 年調査の成果と意義 ………25    1 .調査の成果と意義 ………菊地芳朗…25    2 .調査のまとめ ………管野…29 引用・参考文献 ………31

第 2 編 四穂田古墳測量調査 ………33  Ⅰ 古墳の位置と周辺の遺跡 ………35    1 .地理的環境 ………山科…35    2 .歴史的環境 ………山科・斉田…36  Ⅱ 調査の方法と経過 ………41    1 .調査にいたる経過と目的 ………室井…41    2 .測量調査前の経緯と出土遺物の内容 ………遠藤…41    3 .調査の経過 ………遠藤…45    4 .調査の方法 ………田子…46  Ⅲ 測量調査の成果 ………48    1 .墳丘の現状 ………田子…48    2 .墳丘の特徴 ………新山…48    3 .採集遺物 ………斉田…51  Ⅳ 四穂田古墳調査の成果と意義 ………菊地…52    1 .四穂田古墳の墳形と規模 ………52    2 .四穂田古墳の諸問題 ………54

 2019 年度研究室活動報告

(8)

図版1 団子山古墳遠近景  1 団子山古墳遠景(南東から)

 2 団子山古墳近景(南東から)

図版2 南西第 3 トレンチ

 1 南西第 3 トレンチ全景(南東から)

 2 南西第 3 トレンチ北壁土層断面(南から)

図版3 北東第 2 トレンチ

 1 北東第 2 トレンチ全景(北東から)

 2 北東第2トレンチ墳丘側北壁土層断面(南西から)

 3 北東第2トレンチ周溝部北側土層断面(北東から)

 4 北東第 2 トレンチ周溝部(北東から)

図版4 墳頂北西トレンチ(その 1)

 1 墳頂北西トレンチ全景(南西から)

 2 墳頂北西トレンチ埴輪列(南東から)

図版5 墳頂北西トレンチ(その 2)

 1 墳頂北西トレンチ埴輪列(西から)

 2 墳頂北西トレンチ埴輪列樹立状況(西から)

図版6 墳頂北西トレンチ(その 3)

 1 墳頂北西トレンチ埴輪列詳細(南西から)

 2 墳頂北西トレンチ埴輪列樹立状況詳細(南から)

 3 墳頂北西トレンチ埴輪列樹立状況詳細(北から)

 4 墳頂北西トレンチ追加調査区北壁土層断面    (西から) 

図版7 団子山古墳出土遺物  1 普通円筒埴輪正面  2 普通円筒埴輪右側面  3 朝顔形埴輪正面  4 朝顔形埴輪右側面  5 出土埴輪集合

図版8 四穂田古墳現況

 1 四穂田古墳現況(南西より)

 2 四穂田古墳現況(北東より)

 3 四穂田古墳現況(東より)

図版目次

(9)

挿図目次

Fig.1 団子山古墳の位置(大島作成) ………2 Fig.2 団子山古墳の位置と周辺の遺跡(広域)(大島作成) ………4 Fig.3 団子山古墳の位置と周辺の遺跡(詳細)(大島・室井作成) ………6 Fig.4 団子山古墳測量図(渡邉作成) ………8 Fig.5 発掘調査風景 ………9 Fig.6 調査参加者集合 ………9

Fig.7 団子山古墳調査区位置図(山科作成) ………10

Fig.8 南西第 3 トレンチ平面・断面図(室井作成) ………13

Fig.9 北東第 2 トレンチ平面・断面図(田子作成) ………15

Fig.10 墳形復元図(山科作成) ………17

Fig.11 墳頂北西トレンチ平面・断面・立面・エレベーション図(斉田・角谷・遠藤作成) ………20

Fig.12 墳頂北西トレンチ出土埴輪(斉田・田子作成) ………22

Fig.13 四穂田古墳の位置(山科作成) ………35

Fig.14 四穂田古墳の位置と周辺の遺跡(斉田・山科作成) ………38

Fig.15 四穂田古墳と周辺の地形(山科作成) ………40

Fig.16 四穂田古墳 2011 年工事立会調査成果 ………42

Fig.17 四穂田古墳出土遺物(1) ………43

Fig.18 四穂田古墳出土遺物(2) ………44

Fig.19 測量調査風景 ………45

Fig.20 調査参加者集合 ………45

Fig.21 四穂田古墳測量基準点配置図(新山作成) ………47

Fig.22 四穂田古墳基準点成果表(新山作成) ………47

Fig.23 四穂田古墳測量図(新山作成) ………47

Fig.24 四穂田古墳測量図(拡大)(新山作成) ………50

(10)
(11)

第 1 編 団子山古墳第 9 次調査

(12)
(13)

Ⅰ 古墳の位置と周辺の遺跡

Ⅰ 古墳の位置と周辺の遺跡

1. 調査に至るまで

 団子山古墳は、須賀川市日照田字入ノ久保地内に所在する。阿武隈川の河岸段丘上に立地し、古く から古墳として認識されていたようである。昭和 35(1960)年に首藤保之助氏が現地を踏査し、埴輪 を採集した記録が残っている(須賀川市立博物館 1986)

  昭和 35 年 7 月 30 日(「第二百一回採集記」)※下線は筆者

「田中日照田ノ部落堺ニアタル日照田字入ノ窪ニ行ッタ。コレハ大キナ円墳デ面積ハ一反歩以上 モアルカト思ウ。壇上ニハ七八十年齢ノ松、二十年以上ノ栗樹、楢ノ木、コブシノ木、山桜ナ ド雑木林ヲナシ、西方ハ遠ク開ケ奥羽山脈ハクッキリト、古墳ノ西方ニ聳立シ東方ハ低キ丘陵 ナレドモ、朝日ハヨク射ス程度デアル。所謂旭サシタ日輝ク地点ニ学ンダモノデアル。

  里人ハ団子山ト呼ンデイル。恰モダン子ヲ大キクシタ形ノ山デアル。所有者ハ日照田ノ金澤 長義氏ト云ウ。コノ古墳ハ或ハ発掘スレバ、埴輪象形ハ二ツ等出土スルコトホボ確実ナラン。

何レニシテモ重要ナル円墳ナリ。(中略)

  本日ノ所得次ノ如シ。

  (中略)

 1.大字日照田字入ノ窪 大円墳頂上ニテ 埴輪残欠 二十三片 (後略)

 その後、江藤吉雄氏は出土遺物などから、古墳時代後期の大型円墳として本古墳を位置付けた(江 藤吉雄 1974)。これを受け、昭和 54(1979)年に測量調査を実施し、昭和 56(1981)年に須賀川市史跡 第 15 号として指定された。また、昭和 61(1986)年には電気探査を実施したが、期待すべき所見が 得られなかったためか、報告書が公刊されなかった。

 団子山古墳がふたたびクローズアップされたのは、平成に入ってからである。平成 23(2011)年に 柳沼賢治氏と管野和恵氏が、須賀川市立博物館が所蔵する首藤保之助コレクションの埴輪の実測図を 公表した。朝顔形・普通円筒埴輪の二種からなり、古墳時代前期(ないし中期初頭)に遡る可能性を 指摘した(柳沼・管野 2011)。ここで、団子山古墳の年代的な位置づけが後期古墳から、前期古墳に遡 るという、新たな仮説が提示された。

 この仮説を検証するため、平成 24(2012)年度から福島大学行政政策学類考古学研究室菊地芳朗教 授による調査が実施され、平成 30(2018)年度まで 8 次にわたる調査を行った。これまでの調査で、

埴輪の年代と同様、古墳時代前期後半の築造であることが裏付けられたほか、これまで円墳と考えら れてきたものが前方後円墳であることなど、重要な知見が明らかとなっている。

 平成 28(2016)年度の第 6 次調査前に埋葬施設の調査の可否や、将来的な出土遺物の所属先などに ついて須賀川市と菊地教授との協議のもと、これまで学術調査を実施してきた福島大学行政政策学類 考古学研究室と市との共同調査を行うこととし、官学協同を目指すこととした。

(14)

 いみじくも、平成 30(2018)年 4 月 18 日付けで須賀川市と福島大学が連携協定を締結し、このこ とを受ける形で調査を実施することとし、昨年度同様、本年度も 6 月 1 日付けで須賀川市と福島大学 行政政策学類が「須賀川市と福島大学の団子山古墳発掘調査に関する覚書」を締結した。また調査に あたっては、国庫補助金を活用した保存目的の範囲確認調査として実施することとした。

 発掘調査期間は令和元(2019)年 8 月 6 日から 9 月 21 日までで、この間 8 月 31 日(土)に現地説 明会の開催、9 月 5 日(木)に文化庁近江俊秀主任調査官の現地指導を得た。発掘調査には、須賀川 市職員(学芸員・調査補助員・作業員各 1 名)と福島大学の学生や他大学の学生等が調査に従事した。

このうち、福島大学の学生については、市の作業員として雇用する一方、発掘調査機材や運搬用の自 動車借上げに要する経費などは、福島大学行政政策学類の考古学実習として福島大学で負担している。

 発掘調査終了後は、福島大学において出土遺物や図面の整理、実測図作成、原稿執筆を実施した。

 整理作業については令和元(2019)年 12 月から令和2(2020)年3月までは調査主体者である市の 作業員として雇用し実施した。内容については、菊地教授と市職員が定期的に作業状況の確認等を行っ た。

2. 地理的環境

 団子山古墳(以下「当古墳」という。)の所在する福島県須賀川市は、日本列島本州島の東北部、福 島県中通り地域南半分に位置する人口約 7 万 6000 人、面積約 279.43㎢である。北は郡山市、南東は 石川郡玉川村、平田村、南は岩瀬郡鏡石町、南西は天栄村と接している。須賀川市域は、西は奥羽山脈、

東は阿武隈高地によって画され、盆地を形成している。中央部には那須火山群(通称那須連峰)を源 として宮城県沖まで北上する阿武隈川が流れており、須賀川市域を東西に大きく二分している。昭和 29(1954)年に須賀川町と隣接する浜田村・西袋村・稲田村・小塩江村の 4 か村が合併し、昭和 30(1955)

年に仁井田村、昭和 42(1967)年には大東村、平成 17(2005)年に長沼町および岩瀬村を編入し、現 在の須賀川市が成立した。

0 50㎞

(1/2,500,000)

福 島 県 Fukushima Pref.

団子山古墳 Dangoyama Tumulus

0 500㎞

(1/25,000,000)

Fig.1 団子山古墳の位置

(15)

Ⅰ 古墳の位置と周辺の遺跡

 当古墳は須賀川市大字日照田字入ノ久保に所在し、須賀川盆地のほぼ中央に位置する。阿武隈川東 岸に向かって張り出す舌状大地の先端裾部を利用して造られている。当古墳周辺の地質は、地盤が古 期花崗閃緑岩で構成され、その上部に石英安山岩質烙結凝灰岩およびその風化層が堆積している(江 藤ほか 1974、江藤ほか 1981)

3.歴史的環境

 須賀川市の周辺には多くの古墳・遺跡が存在しており、市内全域に分布する。特に阿武隈川との支 流の河岸に集中する傾向が強い。

 弥生時代以前 須賀川市での旧石器時代の遺跡には、乙字ヶ滝遺跡がある。阿武隈川北岸の河岸段 丘上に立地する。刃部磨製石斧や面的加工が施されたナイフ形石器などが出土し、後期前半期に位置 づけられている(江藤ほか 1974)

 縄文時代になると、阿武隈川東岸の丘陵部やその周辺部には関向・富岡遺跡など早期~中期にかけ ての多くの遺跡が分布し、後期~晩期では、牡丹平遺跡や小倉川流域の一斗内遺跡のように低地への 進出傾向が見られるようになる(若林 1984)

 弥生時代の重要遺跡として、阿武隈川東岸の丘陵地にある牡丹平遺跡があげられる。この遺跡から は人骨を伴出した再葬墓が検出された。また、阿武隈山地系でも高所に位置しており、そのあり方が 注目される(金谷ほか 1983)。後期には阿武隈川西岸丘陵に芦田塚遺跡・弥六内遺跡などの集落遺跡が ある。特に弥六内遺跡では、同一遺跡内に方形周溝墓とみられる遺構の検出もあり、須賀川盆地にお ける弥生時代から古墳時代への変化を考える上で重要である。

 古墳時代前期 古墳時代になると、須賀川盆地には阿武隈川流域およびその支流域を中心として古 墳が濃密に展開するが、分布などからみて、その中心は阿武隈川両岸の沖積面とその周辺の段丘およ び丘陵部にあったことが明らかである。

 前・中期に比定できる古墳は少ない。阿武隈川西岸の台地東縁部にあるイカヅチ古墳群は、当古墳 の北西約 3.6㎞に所在する。前述の弥六内遺跡と重複する古墳群であるが、方墳 2 基、前期の円墳 1 基、

中期の円墳 7 基が確認されており、銅釧、模造勾玉などが出土した(永山ほか 1984)。仲ノ平古墳群は、

当古墳の北西約 7㎞に所在する。丘陵上に計 10 基確認されており、主体は横穴式石室をもつ円墳で あるが、3 号墳、6 号墳が前期の前方後方墳である(柴田ほか 1991)。八ッ木遺跡は当古墳の北約 2.5㎞

に所在する。古墳時代前期から一部平安時代におよぶ集落跡で、竪穴住居跡 64 軒、土坑 5 基、焼土 遺構 7 基、溝跡 3 条が検出され、土師器、須恵器、玉類、石製模造品、石製品、鉄製品などの遺物が 出土している。特に土師器は種類、量ともに豊富で、遺構の重複関係から導き出されるそれらの編年は、

市内のみならず県全域の編年に大きな影響を与えている(皆川ほか 2002)。高木遺跡は、当古墳の北西 5㎞に所在する。古墳時代前期から平安時代におよぶ集落跡で、竪穴住居跡 60 軒、掘立柱建物跡 7 棟、

井戸跡 2 基、土坑 13 基、溝跡 12 条、方形区画溝状遺構 1 基、焼土遺構 2 基が検出され、弥生土器、

土師器、須恵器、土製品、石製品、陶磁器などが出土している。

(16)

Fig.2 団子山古墳の位置と周辺の遺跡(広域)

0 4㎞

(1/100,000)

Fig. 3 範囲 85

87 88

96 90

98 95 91 89 9392 97 94

82

79 80

75 72

70 67 59

55 53 48 49

45 44

43

33 31

26 1512

18 10

20 24

25

38 11 14

34 37 30

35 40 42 41

36 2927 2823

19 21 17

16 13

5 7 6

9 8

2

4 3

22

39 32

50

60 63 62

58 56

54 47 52 51

46

57

61

68

76 74 73

81

86 78

71 69

65 66 64

77

84 83

1

(17)

Ⅰ 古墳の位置と周辺の遺跡

 古墳時代中期 上ノ代遺跡は、当古墳の北約1㎞に所在する。中期を中心とする古墳時代の集落 跡で、周囲に堀と柵を巡らせた首長居館跡が検出された。仏坊古墳群は上ノ代遺跡に隣接し、17 基 の古墳が確認されており、11 号、12 号、13 号墳が調査された。墳丘は直径 20m 前後の円墳であり、

埋葬施設は箱式石棺である。中でも 12 号墳の埋葬施設は削平により失われていたが、周溝の外側か ら内面に赤色顔料が塗られた箱形石棺が 1 基検出された。中から鉄剣、鉄斧、鉄鏃が確認され、5 世 紀中葉から後半に築造されたと考えられる(皆川 1998)。時期的にも仏坊古墳群と上ノ代遺跡は強い 関連性があると考えられる。甲塚古墳は、当古墳の北西約 3.5㎞に所在する。昭和 41(1966)年の調 査時には直径 22m、高さ 2.5m の円墳で、木炭を床面に敷き詰め、その上に2m の木棺を置いて粘土 で覆い、それをまた木炭で包むという木炭槨が検出された。副葬品は、盗掘の被害を受けていたため 検出されなかった。

 古墳時代後期以降 古墳時代後期には、阿武隈川流域沿いに多数の古墳や横穴が築かれる。市野関 稲荷神社古墳は、当古墳の北西約 1.5㎞に所在する墳長 39m の前方後円墳である。段築、葺石、埴輪 は確認されていないが、広いテラスを持つ墳丘第一段(基壇)をともなっている可能性が高い(菊地 ほか 2007)。また、前方部が後円部より大型であることも特徴である。後円部墳丘の一部に角礫が確 認されていることから、埋葬施設は横穴式石室である可能性が高い。

 塚畑古墳は、当古墳の北西約 2㎞に所在する墳長 40m、後円部直径 25m の前方後円墳である。南 側の周溝部からは大量の形象埴輪が出土しており、その中には天冠をかぶった埴輪男子像や武人埴輪 の冑の一部、靫、家、馬形埴輪が確認されている(江藤ほか 1974)

1.団子山古墳 2.阿弥蛇壇古墳群 3.西の内古墳群 4.葉山古墳群 5.蒲倉古墳群 6.天正坦古墳群 7.三ツ坦古墳群   針生古墳 8.清水内遺跡 9.堂山古墳群 10.坦ノ腰古墳 11.来玄坦古墳 12.柴宮山古墳群 13.桝壇古墳群 14.東前田古墳 15.麦塚古墳 16.艮耕地C遺跡 17.亀河内遺跡 18.丸山古墳群 19.南山田古墳群    がぶつ壇古墳 20.八幡古墳群 21.妻見塚古墳群 22.大安場古墳群 23.後田古墳群 24.駒屋古墳群 25.四十坦古墳群 26.大坦古墳 27.中山田古墳群

28.蝦夷穴横穴群 29.大善寺古墳群 30.狐坦古墳 31.雷堂古墳 32.大六古墳 33.四角坦古墳 34.念仏坦古墳 35.正直館跡 36.下田横穴群 37.御代田古墳群 38.神成横穴群 39.東山田遺跡 40.下原古墳 41.カガヤ坦古墳群 42.田子団古墳 43.滑川古墳 44.亀田窯跡 45.石山古墳    関下窯跡群 46.雁俣古墳群 47.下山古墳群    下山横穴群 48.籾山大壇古墳 49.坂上古墳 50.一斗内古墳群 51.跡見塚古墳群    念佛壇古墳群    大壇古墳群

52.梅ノ木古墳群    南谷地前古墳群    石井山古墳群 53.タキジリ古墳 54.竹の内遺跡 55.海道西古墳群 56.オサン壇古墳群    西の作古墳群    竹ノ花古墳群 57.念仏壇古墳 58.滑沢窯跡 59.おたきや遺跡 60.西川梅田十三仏    刈木内古墳    大壇場古墳群 61.狐石古墳 62.新城館古墳群 63.岩下横穴墓群   稲古舘古墳 64.岩崎横穴古墳群 65.向原古墳群 66.北作古墳群 67.番山壇古墳群 68.深内古墳 69.館石横穴群 70.御大宝古墳 71.二塚遺跡 72.方八丁遺跡

73.萱林古墳 74.熊野山遺跡 75.木曽古墳 76.笠木壇古墳 77.泉田古墳群 78.石の下古墳群 79.仁井田横穴墓    仁井田古墳群 80.鏡田古墳群 81.四十壇古墳群 82.七曲横穴墓群 83.後作田古墳群 84.百八横穴墓群 85.悪戸古墳群 86.龍が塚古墳 87.向久保古墳群 88.東ノ前古墳群 89.弘法山古墳群 90.江平遺跡 91.白山E遺跡 92.白山C遺跡 93.白山D遺跡 94.白山A遺跡 95.久当山横穴墓群 96.宮前古墳群 97.上宮崎A遺跡 98.鬼穴古墳群

(18)

 蝦夷穴古墳は須賀川市街地の東方、当古墳から北西3㎞に所在する。当地域最大級の横穴式石室を 持ち、金銅製頭椎大刀、鍔、銅椀、刀子、三輪玉、切子玉、辻金具、金銅製鈴、馬歯が出土した。石 室および副葬品の特徴から 6 世紀末から 7 世紀初めに築造された古墳と考えられる(江藤ほか 1974)。  大仏横穴群は、当古墳の北西約2㎞に所在する。二群に分かれており、一群は鎌倉期の磨崖大仏の 左右にあり、20 数基が開口している(江藤ほか 1974)。古くから開口していたようで、大仏の周囲で は横穴の壁を利用して仏像が彫られている。遺物はすべて散逸して残っていない。他の一群はこの崖 と連続する東北のほど近いところにあり、2 基開口している(江藤ほか 1974)

 館山横穴群は、当古墳の北西約 1.5㎞に所在する。15 基の横穴が確認されているが、ほとんどの横 穴が後世の削平などによって破壊されており、全体規模や構造を捉えられるものがない。唯一1号横

Fig.3 団子山古墳の位置と周辺の遺跡(詳細)

0 2㎞

(1/500,000)

57 54

53 45 48 49

40 44 39 35

30 31 29

25 24

60

12

19 20

21

13 11

26 23

18 17

9 8

57 6

4 2 3

16 15 10

14

22

46 47 37 38

41 42

51 50

43 36 33

28

32 27

34

55 56

58 59

52

1

1.団子山古墳 2.仲ノ平古墳群 3.御所の宮古墳 4.庫の屋敷古墳 5.岡ノ内古墳群 6.中江持古墳 7.長者屋敷古墳群 8.行人山田古墳 9.稲荷神社古墳 10.上人壇廃寺跡 11.神明前横穴群 12.塩田古墳 13.大壇古墳 14.栄町遺跡 15.古館横穴群 16.石塚古墳 17.古館古墳群 18.甲塚古墳群 19.洞川岸古墳群 20.神開田古墳 21.上川原古墳群 22.愛宕山城東古墳 23.芦田塚遺跡 24.浜尾横穴群 25.イカヅチ古墳群   弥六内遺跡 26.イカヅチ板窯跡 27.螺河岸A古墳群 28.螺河岸B古墳群 29.和田横穴群 30.丸塚古墳跡   平内古墳跡 31.蝦夷穴古墳 32.八沼古墳群 33.早稲田古墳群 34.八ツ木遺跡 35.石花古墳群 36.下小山田古墳群 37.釜池窯跡 38.金池窯跡 39.大仏古墳群 40.大仏横穴群 A 41.大仏横穴群 B 42.西舘跡 43.関向・富岡遺跡 44.塚畑古墳 45.欠の下古墳 46.ウメツボ窯跡 47.番屋窯跡 48.舘山横穴群 49.仏坊古墳群 50.上の山古墳群 51.市野関稲荷神社古墳 52.東小屋古墳 53.上ノ代遺跡 54.町ノ内横穴群 55.前田川大塚古墳 56.乙字ヶ滝遺跡 57.念仏担古墳 58.乙字ヶ滝横穴群 59.開山古墳群 60.高木遺跡

(19)

Ⅰ 古墳の位置と周辺の遺跡

穴が玄室天井部を残すのみである。土師器・須恵器が主な出土遺物であり、8 号横穴から完形の細頸 瓶が出土している。これらにより、古墳時代後期に位置する横穴群と推定されている。また。15 号 横穴から鉄製の直刀が出土している(皆川 1998)

 西館跡は、当古墳の北西約 1.5㎞に所在する。古墳時代後期の集落跡と中世の館跡との複合遺跡で ある。竪穴住居跡 3 基、掘立柱建物跡 2 基、土坑 15 基、柱列跡 1 列、溝跡 2 条、性格不明遺構 2 基、

ピット 296 基が検出されており、竪穴住居跡 3 基、土杭数基が古墳時代後期に位置づけられる遺跡で ある。竪穴住居の床面から多量の土器類が出土しており、古墳時代後期における住居内の器種編成を 考える上で貴重な資料となっている(皆川ほか 2002)

 稲古舘古墳は、当古墳の西約8㎞に所在し丘陵尾根の頂部に位置している。直径 12m の円墳であり、

埋葬施設は切石積みによる前庭部、玄門部、玄室を持つ横穴式石室であった。内副葬品として大刀、

鉄鏃、刀子、土師器が出土している。大刀は、刀の装具が奈良の正倉院に納められているものと類似 しており、この古墳に埋葬された人は、律令期における岩瀬郡の官人層の可能性が考えられている(皆 川 2003)

 古墳時代が終焉を迎える 7 世紀以降は律令国家の形成が進み、栄町遺跡、上人壇廃寺跡、うまや遺 跡に代表されるように、須賀川駅周辺の地域が古代岩瀬郡の中心地となった。

 栄町遺跡は奈良・平安時代の石背(磐瀬)郡衙であり、郡衙の中心的建物となる正殿や脇殿が確認 された。脇殿の柱穴から「石瀬」と書かれた墨書土器が出土したことで、古代の石背郡衙であったこ とが裏づけされた(皆川ほか 2012)。上人壇廃寺跡は石背郡衙の関連寺院であり、出土遺物には瓦類、

土師器、須恵器、円面硯などのほか、発見例の少ない六角瓦塔、鉦鼓、軸頭などがある。8 世紀前半 には創建され、10 世紀前半頃にはその終焉を迎えたと考えられる(皆川ほか 2011)。うまや遺跡は奈 良時代を代表する大集落遺跡であり、遺跡の西方に位置する上人壇廃寺跡との関連性は明らかである。

県内で初出の和同開珎が竪穴住居跡より出土しており、官人層の居住地域とも推定されている(皆川 2003)

 以上のように、当古墳周辺地域の状況から見て須賀川地域は東北有数の古墳密集地域であり、特に 古墳時代後期の有力古墳が数多く存在することが分かる。また、集落が数多く存在していることから も県内でも有数の重要遺跡集中地域といえる。

 しかし、周辺に後期古墳が多い中で、当古墳は出土した埴輪の特徴から前期古墳の可能性が考えら れており、この古墳の被葬者が周囲の古墳の被葬者とどのような関係にあったのか、その関係性が注 目される。当古墳が築造された時代を明らかにし、地域の社会背景を解明するためにも、今後の研究 調査が望まれる。

(20)

Ⅱ 調査の方法と経過

1. 調査の目的

 福島大学行政政策学類考古学研究室は、当古墳に対し、平成 24(2012)年に測量調査・物理調査・

発掘調査、平成 25(2013)年以後毎年夏に発掘調査を行い、墳丘規模や築成方法等に関する数々の成 果を得てきた。当古墳の将来的な保護と活用を考えた結果、平成 30(2018)年度からは調査主体が須 賀川市となり、福島大学との共同調査として行われることになったが、築造当時の古墳の姿を復元す るにはなお情報が十分とは言えない状況にある。

 平成 30(2018)年までの調査によって残された課題には以下のものがある。①平成 24(2012)年の 第 1 次調査等で確認された後円部西側の墳端がどのように前方部へ接続するか。②平成 30(2018)

Fig.4 団子山古墳測量図

0 20m

(1/800)

To T1 T2

TK Tb

Ta

T13 T14

T3

Tk T4

T5 T7

T10 T11 T8

T9 T19

T18 T17

T16 T15

T6

Tj Tc Tm

Td

Tn Th

Tf

NEb

NEa SWa SEa

SWb

TⅠ

SEb T12

273.0 271.0 269.0 267.0 265.0 261.0

263.0

(21)

Ⅱ 調査の方法と経過

の第 8 次調査の北トレンチで確認された周溝の他の場所での存在の有無。③平成 24(2012)年の第 2 次調査、平成 30(2018)年の第 8 次調査において後円部西側で確認されたテラスがどのように東側に 巡り、収束するか。④後円部墳頂西部における肩部の位置および埴輪の設置状況の確認。

 そこで、これらを明らかにすることを目的として、令和元(2019)年 8 月 6 日から 9 月 21 日にかけて 第 9 次調査を実施した。実働日数は 27 日間である。今年は大雨などの影響で作業中断が何度かあった。

2.調査の経過

8 月 6 日  第 9 次調査開始。機材搬入。

8 月 7 日  北東第 2 トレンチ設定。午後から北東第 2 トレンチ掘削開始。

8 月 9 日  墳頂平坦部西側に新杭 RTNWa・RTNWb を設置。

    墳頂北西トレンチ設定。午後から墳頂北西トレンチ掘削開始。

8 月 13 日 後円部南西斜面に南西第 3 トレンチを設置。

      午後から南西第 3 トレンチ掘削開始。

8 月 17 日 墳頂北西トレンチ平面図作成開始(18 日終了)。 8 月 20 日 墳頂北西トレンチ写真撮影。

8 月 21 日 墳頂北西トレンチ断面図作成。

8 月 22 日 北東第 2 トレンチ断面図作成開始(23 日終了)。 8 月 24 日 南西第 3 トレンチ平面図作成開始(25 日終了)。       北東第 2 トレンチ平面図作成。

8 月 27 日 北東第 2 トレンチ写真撮影。東京学芸大学日高慎教授現地指導(茨城大学田中裕教授同行)

8 月 29 日 南西第 3 トレンチ断面図作成。

8 月 30 日 南西第 3 トレンチ写真撮影。

8 月 31 日 現地説明会。約 40 名の参加者を得る。 南西第 3 トレンチ埋め戻し。

9 月 1 日  北東第 2 トレンチ埋め戻し。宿舎清掃、撤収。

9 月 5 日  文化庁近江俊秀主任調査官現地指導。墳頂北西トレンチ埴輪取り上げ開始。

9 月 19 日 墳頂北西トレンチ 3 次元用写真撮影。墳頂北西トレンチ平面図作成。

9 月 20 日 墳頂北西トレンチエレベーション図作成。墳頂北西トレンチ埴輪取り上げ終了。

9 月 21 日 墳頂北西トレンチサブトレンチ断面図作成。墳頂北西トレンチ埋め戻し。第 9 次調査終了。

Fig. 5 発掘調査風景 Fig. 6 調査参加者集合

(22)

3. 調査の方法

 先の目的をふまえ、墳頂に 1 箇所、後円部に 2 箇所トレンチを設定し、それぞれ「墳頂北西トレン チ」、「南西第 3 トレンチ」、「北東第 2 トレンチ」と命名し掘削を行った(Fig. 7)。各トレンチにおい て、後述する区割りに従って平面的に作業を進めていったが、随時トレンチの拡張及びサブトレンチ を加え、平面及び断面を確認していきながら作業を進めた。

 南西第 3 トレンチは、墳丘南西側の斜面に設定した。トレンチの最上部を 1 区と設定し、1m 間 隔ごとに 2 区、3 区…5 区とし、基準軸上を主軸として、南東方向を a 区とし、北西方向を b 区とした。

そしてそれらの組み合わせによって区を命名した。

 北東第 2 トレンチは、NEa 杭と NEb 杭を主軸として設定した。第 2 次調査の北東トレンチの区割 りを生かし、区名を与えた。

 墳頂北西トレンチは、新杭 RTNWa と RTNWb を主軸として墳頂平坦部西端に設定した。

 これらの区割りは遺物の取り上げや調査所見の記述の際の基本的な単位として用いた。しかし、調 査内容に応じた掘削を実施したため、設定した区割りのすべてを掘削したわけではなく、実際に掘削 したのは、南西第 3 トレンチでは基準軸を中心とする南北2m ×東西5m の範囲、北東第2トレン チでは基準軸を中心とする南北 11m ×東西2m の範囲、墳頂北西トレンチでは基準軸を中心とする 南北2m ×東西3m の範囲である。

Fig.7 団子山古墳調査区位置図

第2次調査 第3次調査 第4次調査 第5次調査 第6次調査 第7次調査 第8次調査 第9次調査

0 10m

(1/600)

NEa

NEb

RTNWa RTNWb

北東第2トレンチ

墳頂北西トレンチ

南西第3トレンチ 263.0 264.0 265.0

266.0 267.0

268.0 269.0

270.0 271.0

272.0 273.0

(23)

Ⅱ 調査の方法と経過

4. 記録の方法

 各トレンチの完掘状況は 20 分の 1 平面図と断面図に記録した。各トレンチの平面図は、遺構実測 ソフト(遺構くん cubic C タイプ 2012)を用い、断面図は手実測によりそれぞれ図化した。平面図には 傾斜変換点(破線)を加えている。また墳頂北西トレンチでは、埴輪出土状況平面図・立面図・エレ ベーション図を 10 分の 1 で作成した。断面図の土層注記の土色は『新版標準土色帖』2011 年度版(小 山・竹原 2011)に従っている。墳頂北西トレンチの原位置に近いとみられる埴輪は、ナンバリングを行っ たうえで、メモ写真を撮影し、その後に取り上げた。

 写真撮影は、35㎜銀塩カメラ(メモ用)、6 × 7 版銀塩カメラ(完堀状況撮影用)、デジタルカメラ(メ モ用及び完堀状況撮影用)を用いた。銀塩カメラではモノクロフィルムとカラーリバーサルフィルム 2 種類により撮影している。墳頂北西トレンチでは、埴輪列の 3D 画像を作成するため、デジタルコン パクトカメラを用い、多方面から撮影を行っている。

(24)

Ⅲ 発掘調査の成果

1. 南西第 3 トレンチ(Fig. 8)

 トレンチの目的と位置 第 2 次・第 3 次調査の南西第 1・第 2 トレンチ、および第 8 次調査の西ト レンチで検出されたテラスの確認とその収束状況を明らかにすることを目的として、墳丘南西側の斜 面に幅(南北)2m ×長さ(東西)5m の範囲で設定した。また、地山の確認のため、2b 区北壁沿 いの一部に幅 0.5m のサブトレンチを設定した。

 調査の経過 当初、b区全体を掘削し、地表下0.2mで地山と類似した黄褐色土層を検出した。その後、

a区に掘削範囲を広げたが、この層は埴輪片や礫が多く混じることから流土と判明した。そのため2 b 区から3b 区にかけての北壁沿いに幅約 0.5m のサブトレンチを設定し掘削した結果、地表下 0.4m で地山を検出した。地山上面は大きく改変されており、また、3b 区から4b 区にかけて検出した幅 約 0.9m の溝状遺構の堆積土からは近世 ・ 近代のものと考えられる陶器の破片が出土した。これらの ことから、後世の改変が大きいと考えられ、正確なテラスの位置と規模は把握できなかった。

 また、トレンチ下部の5b 区では表土直下から地山が現れ、墳端に相当する部分は大きく削平され ていると考えられた。

 これらの結果から、本トレンチ全体で後世の改変が加えられていると判断されたため、掘削範囲内 で地山上面を検出したところで掘削を終了した。

 墳丘の構造 後円部西側では、過去の南西第 1・第 2 トレンチおよび西トレンチにおいて標高 264.00m 付近でテラスを確認していた。本トレンチの2区~4区の幅 2.3m の部分で傾斜が緩くなる 状況が認められたが、この部分の地山標高は約 263.90m で、南西トレンチと西トレンチのテラスの 高さとほぼ同じであった。ここは地山削り出しで形成されており、後世の改変が大きいため墳丘面は 削平を受けたとみられるものの、本来はテラスであった可能性が高いと考えられる。

 以上にもとづくと、本来存在したテラスの標高は 264.00m 前後、その幅は 2.3m 以内と考えられる。

 本トレンチの調査によって、当古墳の後円部西側が 2 段に築成されているという従来の見解が補強 されたものといえ、さらにテラスは本トレンチの東に続いていたと考えられる。テラスがどこまで続 いていたかについては、本トレンチの東で現代の大きな改変が行われているため、現状では明確でな い。

 遺物出土状況 埴輪片が 56 点出土しているが、いずれも摩滅した小破片で原位置が判明するもの はない。また、テラス付近に掘り込まれた溝状遺構の直上の 6 層から陶器の破片が出土している。図 示は行わなかった。

(25)

Ⅲ 発掘調査の成果

Fig.8 南西第3トレンチ平面・断面図

0 2m

(1/40)

2

2

2 4

6

5

1

3 7 8 9

10 11 12

14 13

266.000m

265.000m

264.000m

仮A 1区 5区

b区

a区 仮B

カクラン カクラン 1 10YR5/4 にぶい黄褐色 シルト質砂 しまり小 粘性小 表土

2 10YR6/4 にぶい黄橙色 砂質シルト しまり中 粘性小 堆積土 3 10YR6/6 明黄褐色 砂質シルト しまり大 粘性小 地山 4 10YR6/6 明黄褐色 砂質シルト しまり大 粘性小 流土 5 10YR5/8 黄褐色 砂質シルト しまり中 粘性小 耕作土 6 10YR4/6 褐色 シルト しまり小 粘性中 溝内の堆積土 7 10YR7/8 黄橙色 シルト しまり小 粘性中 地山 8 10YR7/2 にぶい黄橙色 粘土 しまり中 粘性大 地山 9 10YR7/8 黄橙色 シルト しまり中 粘性中 地山 10 10YR6/8 明黄褐色 砂 しまり大 粘性小 地山 11 10YR7/4 にぶい黄橙色 砂 しまり小 粘性小 地山 12 10YR7/8 黄橙色 砂質シルト しまり大 粘性小 地山 13 10YR7/2 にぶい黄橙色 粘土 しまり大 粘性大 地山 14 10YR7/6 明黄褐色 砂質シルト しまり中 粘性大 地山

(26)

2. 北東第 2 トレンチ(Fig. 9)

 トレンチの目的と位置 墳丘北東側の墳端の確定および第 8 次調査の北トレンチで把握できなかっ たテラスの有無の確認を目的とし、墳丘北東側の斜面から平坦面にかけて南北 11m ×東西 2m の範 囲で設定した。なお、このトレンチは NEa 杭と NEb 杭を主軸とし、平成 25(2013)年の北東トレン チの延長上に設定したことから「第2」と名付けたものであり、そのため区名は 2013 年北東トレン チから連続させている。また、このトレンチでは、現状で 15 区と 16 区の間が急な崖状の斜面となっ ており、安全面を考慮してこの間の掘削をほぼ行わなかった。そのため、便宜的に 13 区~ 16 区を「上 区」、17 区~ 23 区を「下区」と記述する。

 調査の経過 上区では当初、平面的に掘削していたが、土量が多くなると予想されたため、13a 区 から 16a 区にかけて北壁沿いに幅 0.6m のサブトレンチを設定し掘り下げた。また下区でも、17 区か ら 21 区を a 区側から掘削を始めたが、同様の理由により北壁沿いに幅 0.6m のサブトレンチを設定 し掘り下げた。

 上区では、13a 区の現地表下 0.6m で地山と思われる層が検出されたが、後世に大きく改変を受け ていた。この層を面的に検出していったところ、下区へ向かい下降していくことを確認したが、安全 面を考慮し掘削を停止した。

 下区では、20a 区の現地表下 0.4m で炭化物を含む黒褐色砂質土層が検出され、その直下に地山と 思われる層を確認し、この層の性格を明確にするために 22a 区に拡張した。そして、21 区で浅い溝

(D)を検出したため、さらに 23a 区に拡張した結果、地山と思われる層が 23 区以降にも続くことか ら、地山で間違いないと判断した。

 この地山層を目印にさらに下区の 17 区~ 20 区を掘り進めたところ、20a 区の現地表下約 0.5m お よび 18a 区の現地表下 0.8m で溝状の落ち込みを検出した。この 2 つの間に墳端があると考え、断面 観察の結果、19a 区で検出された溝(C)を周溝と判断した。これにより、墳丘北東側の墳端を特定 できたため掘削を終了した。

 墳丘の構造 本調査区の下区で、溝状遺構が 4 つ検出され、墳丘側から溝A、B、C、Dとする。

溝A~Cは切り合い関係をもっており、新しい順番にB→A→Cとなる。溝 D は、非常に浅く、こ れまで当古墳で確認されてきた墳端と、断面形状が大きく異なることから、現代に近い時期のものと 考えられる。溝 B は古墳時代の面より上部に底部があると考えられる。溝Aは、V字形で急な掘り 込みをもち、断面の形状が薬研状であることから中世の遺構であると推測される。溝Cは、断面の形 状およびその直上に堆積する黒褐色土層が第 8 次調査の北トレンチで検出した墳端のあり方と酷似し ている。以上から、溝Cを古墳の周溝と判断し、確認された溝Cの底面の墳丘寄りの傾斜変換部分が 墳端と考えられる。

 墳端は現地表下 1.02m の標高 264.33m にあり、第 8 次調査で明らかになっている北トレンチの墳 端の標高 261.82m より約 2.5m 高い。この標高差は、現地形を踏まえれば、地形本来の標高差に由来 するものであると考えられる。

(27)

─ 15 ─ 0

2m(1/40)

NEbまで 0.5m

b区 a区

23区 22区 17区 13区

14区

15区

16区

溝D溝(溝C)溝B溝A 地山の平坦部

未堀

264.5 264.0 264.0 266.0 266.5 267.0 NEaまで

11.5m

266.000m

265.000m4 3

6

723

24 1

30 21 1516 1718 13 14 25 25 26 272831

211 9 51

14

11 8

1219

20 10

2229 1 10YR4/6 褐色 シルト質砂 しまり小 粘性小 表土 2 7.5YR4/4 褐色 シルト質砂 しまり小 粘性中 流土 3 10YR5/2 灰黄褐色 砂質シルト しまり極大 粘性小 造成土 4 2.5Y4/3 オリーブ褐色 砂質シルト しまり極大 粘性小 造成土 5 10YR3/4 暗褐色 シルト質砂 しまり小 粘性中 造成土 6 10YR4/4 褐色 シルト質砂 しまり大 粘性小 造成土 7 7.5YR3/2 黒褐色 シルト質砂 しまり大 粘性中 造成土 8 農道整備の敷砂利

9 10YR3/4 暗褐色 シルト質砂 しまり小 粘性大 堆積土 10 10YR5/4 しぶい黄褐色 シルト質砂 しまり小 粘性中 後世の客土 11 10YR3/4 暗褐色 シルト質砂 しまり中 粘性大 造成土 12 10YR3/4 暗褐色 シルト質砂 しまり小 粘性小 流土 13 10YR3/3 暗褐色 シルト質砂 しまり中 粘性大 流土 14 10YR3/4 暗褐色 シルト質砂 しまり中 粘性大 造成土 15 10YR4/4 褐色 シルト質砂 しまり中 粘性小 溝 B 堆積土 16 10YR3/2 黒褐色 シルト質砂 しまり中 粘性大 溝 B 堆積土 17 7.5YR3/4 暗褐色 シルト質砂 しまり中 粘性中 溝 A 堆積土 18 7.5YR4/4 褐色 シルト質砂 しまり中 粘性大 溝 A 堆積土 19 2.5YR4/1 赤灰色 シルト質砂 しまり中 粘性大 溝 A 堆積土 20 2.5YR2/1 赤黒色 砂質シルト しまり大 粘性大 溝 A 堆積土 21 5YR3/2 暗赤褐色 シルト質砂 しまり大 粘性大 溝 C 堆積土 22 7.5YR3/2 黒褐色 粘土 しまり大 粘性極大 溝 C 堆積土 23 10YR2/3 黒褐色 シルト質砂 しまり大 粘性大 溝 D 堆積土 24 7.5YR4/3 褐色 シルト質砂 しまり中 粘性中 溝 D 堆積土 25 10YR4/6 褐色 シルト質砂 しまり中 粘性中 墳丘裾堆積土か 26 7.5YR4/6 褐色 シルト質砂 しまり極小 粘性大 堆積土 27 10YR3/3 暗褐色 シルト質砂 しまり小 粘性小 旧表土 28 7.5YR3/4 暗褐色 シルト質砂 しまり小 粘性小 漸移層 29 10YR7/4 にぶい黄橙色 砂質シルト しまり中 粘性中 地山崩落土 30 2.5Y4/1 黄灰色 シルト しまり中 粘性大 溝 C 堆積土 31 7.5YR5/8 明褐色 シルト質砂 しまり中 粘性大 地山

(28)

 今回検出した墳端によって墳丘規模に大幅な変更はない。しかし、周溝の底幅が 0.2m と狭いことや、

推定される周溝の上場の幅が北トレンチのそれより狭くなることが新たに判明した。これは、くびれ 部に向かって周溝が収束しているためであると考えられる。

 また、18 区において現地表下 0.86m の標高 264.91m の位置に、現況での確認幅約 1.6m の地山の平 坦部を確認した。この部分の上面は後世の改変を受けていないと考えられることから、テラスの可能 性が高い。第 8 次調査の西トレンチで確認されたテラスは、標高約 264.00m 付近に位置し、かつ幅 は約2m である。また、未掘部分および中世の削平部分を考慮した本来のテラス部は約3mと考え られる。

 このことから、本トレンチと西トレンチのテラスを比較すると、幅は本トレンチがやや広いものの、

標高はおよそ一致している。また、上区と下区の間にある崖状の段差を前方部の名残と考えれば、本 トレンチの南東まもなくの場所に北側くびれ部が存在すると考えられる。

 遺物出土状況 埴輪片が 32 点、摺鉢片 1 点が出土した。主に 18 区から 21 区の堆積土層中から出 土している。埴輪片はいずれも摩滅し、原位置が判明するものはないため、図示は行わなかった。

(29)

Ⅲ 発掘調査の成果

3. 団子山古墳の墳形(Fig.10)

 当古墳は『須賀川市史』で直径約 40m の円墳と紹介された( 江藤 1974)が、平成 29(2017)年の第 7 次調査において現墳丘の東側に前方部をもつ前方後円墳であることが判明した。

 今年度は後円部に北東第 2 トレンチと南西第 3 トレンチを設定し、前者では墳端と周溝を確認した が、後者ではテラスおよび墳端を明確に確認することができなかった。

 北東第 2 トレンチで墳端を明らかにしたことから、これにより後円部第 1 段( 下段 )の直径は 55m であると考えられ、これまでの見解に大きな修正を要さないことがわかった。墳長は 65m と推定さ れる。

 北東第 2 トレンチにおいて墳丘斜面途中に平坦面を確認したことから、墳丘北東側までテラスが

Fig.10 墳形復元図

0 20m

(1/600)

(30)

巡っている可能性が高いと考えられる。また、南西第 3 トレンチでは範囲を明確にすることができな かったものの、テラスの残存と考えられる平坦部を検出したことから、この部分までテラスが続いて いたと考えられる。

 従来の調査で墳丘西側にテラスが巡ることが判明していたが、その範囲は明確でなかった。今調査 の結果、墳丘の北東側および南側までテラスが巡る二段築成である可能性が高くなった。これにより 北東第 2 トレンチの南東側に北くびれ部が存在すると推定されることから、今後はくびれ部とテラス の接続関係の解明が大きな課題となる。

(31)

Ⅲ 発掘調査の成果

4. 墳頂北西トレンチ(Fig.11)

 トレンチの目的と位置 後円部墳頂平坦面と斜面の傾斜変換位置(肩部)と埴輪設置状況を確認す ることを目的として、RTNWa 杭および RTNWb 杭を主軸とし墳頂平坦部西端付近に南北2m、東 西3m の大きさで設定した。また、目的達成のためにトレンチ北壁沿いにサブトレンチを設定した。

 調査の経過 まず、トレンチ南半部を平面的に掘削したところ、現地表下約 0.2m で黄褐色土層を 検出したが、後世の堆積土と判断されたためさらに掘削を進めた結果、墳丘面とみられる第 3 層を検 出した。この層を広げていく過程で、トレンチ東壁から約 1.3m 西側で東西 0.5m 南北 0.4m の範囲に 多数の埴輪片が分布する埴輪だまりを確認し、これらを原位置に近いものと判断した。トレンチ北半 部も同様に掘削したところ、南側と同じ範囲で埴輪だまりを検出したため、さらに埴輪の広がりを確 かめるためトレンチを北側に 0.5m 拡張した。この結果、ほぼ原位置にあるとみられる底部付近の埴 輪が 3 個体分列をなして並ぶ状況を確認した。

 RTNWa 杭から西に約 2.85m の位置で肩部とみられる傾斜変換を検出した。墳頂肩の確定のため、

北壁側に西に 0.5m、南に 0.5m の大きさでトレンチを拡張したところ、肩部と推定した位置からその まま傾斜が続くことを確認した。これにより、上記の傾斜変換が墳頂肩であることが確定した。

 埴輪の据え方を確認するため、調査の最終段階でトレンチ北壁沿いに幅 0.25m のサブトレンチを 設け、掘削を行った結果、埴輪列の断面で深さ 0.2m ほどの掘り込みが確認された。しかし、調査範 囲が狭いため、この掘り込みが溝状のものであるのか穴状のものであるのか、今調査では特定できな かった。

 以上により当初の目的を達成したため、掘削を終了し、写真撮影、平面図・断面図・立面図を作成 したのち、個体ごとに埴輪を取り上げ、調査を終了した。なお、埴輪の取り上げにあたっては、後の 3D 画像の作成に備え、各段階でデジタルカメラにより多方向から撮影を行っている。

 墳頂肩部の構造 墳頂肩部の標高は、272.90m である。第 2 次調査南西トレンチでの墳頂肩部の標 高は 272.90m、第 3 次調査北東トレンチでの墳頂肩部候補の標高は 272.70 ~ 272.80m であり、今回の 調査で検出した肩部とほぼ同じ標高となっている。また、これらのトレンチでの肩部の位置から、墳 頂直径は 16m と推定される。

 埴輪の中心は肩部から 1.1 ~ 1.2m 内側に位置している。埴輪は 5 個体検出しており、南側から「埴 輪 No.1」~「埴輪 No.5」とする。隣り合う埴輪どうしは 10 ~ 15cm の間隔があく。それぞれの種別は、

埴輪 No.1 と

No.2 が不明、埴輪 No.3 が朝顔形埴輪、埴輪 No.4 が普通円筒埴輪、埴輪 No.5 が朝顔形

埴輪で、これにより普通円筒埴輪と朝顔形埴輪が交互に並ぶと推測される。埴輪は後述する特徴をも つが、円筒・朝顔とも第 1 段に 4 方向の半円透しをもつ点で共通しており、出土状況から設置にあた り半円透しが墳丘中心と墳丘斜面に向くように置かれていたと考えられる。

 出土状況と平面観察によると、埴輪列を挟むように両側から盛り上げられた明褐色シルト層(3 層)

があり、それが埴輪内部にも見られることから、埴輪は墳丘表面に置かれ、両側から土を寄せ設置さ れたと考えられる。この明褐色シルト層の範囲を確認するため北壁沿いに設定したサブトレンチによ

(32)

り、明褐色シルト層は墳頂肩部に掘り込まれた遺構の埋土の 1 つであることが判明した。この掘り込 みは深さが約 0.2m で、断面が逆台形を呈し、ここに 4 層の埋土が確認された。この掘り込みが溝で あるのか、穴であるのかは調査範囲が狭いため不明である。4 層の埋土は、下から極暗褐色シルト層

(6層)、暗褐色砂質シルト層(5層)、暗褐色砂質シルト層(4層)、そして、埴輪の周囲に見られた赤 褐色シルト層である。埴輪は最上層の赤褐色シルト層中に設置されており、それより下位の土層には 見られない。

 遺物出土状況 埴輪片が 382 点、土師器片 1 点、縄文土器片 1 点、弥生土器片 1 点が出土した。埴 輪の種別は普通円筒埴輪が 2 個体、朝顔形埴輪が 2 個体、種別不明の埴輪が 1 個体である。

Fig.11 墳頂北西トレンチ平面・断面・立面・エレベーション図

0 2m

(1/40)

272.9 273.1

272.7

272.8

RTNWbまで 2m RTNWaまで

0.3m

104 4 5

No.2 No.3

No.4 No.5

69

2 1 87

3

カクラン273.400m

273.400m

273.400m

墳頂北西トレンチ 土層注記

1 7.5Y R4/3 褐色 砂質シルト しまり小 粘性小 表土

2 7.5Y R4/6 褐色 砂質

Fig. 3 範囲 85
Fig. 5 発掘調査風景 Fig. 6 調査参加者集合

参照

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