万富東大寺瓦窯跡の瓦生産状況の復元
岡 本 芳 明
― 論 文 要 旨 ―
万富東大寺瓦窯跡は,「源平の戦い」で焼失した東大寺再建の瓦を焼成した窯跡として知られる 国指定史跡である。南北に細長い「大寺山」と,その南西の半独立丘陵「上の山」に分かれ,これ までに岡山県教育委員会と瀬戸町教育委員会によって発掘調査と科学探査が行われている。また,
令和3年度から岡山市教育委員会が史跡公園整備をふまえて発掘調査を始めている。
発掘調査や科学探査の成果,文献や伝承から,万富東大寺瓦窯跡の瓦生産状況の復元を試みた。
瓦窯と瓦の叩目文様との関係から,瓦窯の築造順序や東大寺瓦が出土している重源上人が関わった 施設の時系列を検討した。
瓦窯は,2条と4条の分焔牀を持つ半地下式平窯2種の形態が確認され,操業当初は,大寺山地 区北側と上の山地区北斜面で瓦窯群が築造され,大寺山では2組が,上の山では1組の,合計3組 の工人集団が組織されたと考えた。ほどなく瓦窯が追加され,大寺山地区は南北2列に並列して操 業,老朽化で廃棄されると順に南へ新たな瓦窯が築造されたとした。
備前国の拠点であった浄土寺は,比較的早くに東大寺瓦が使われていたようである。東大寺大仏 殿完成後には,周防阿弥陀寺や吉備津宮常行堂に東大寺瓦が使われたと思われる。流通拠点であっ た備前国府津や周防国府津は,早くから交通網整備が行われていたと考えられる。
これらは,重源上人の強大な組織力を維持するカリスマ性,再建への強い意志,周到な計画性を 示していると思われる。
キーワード:東大寺再建,瓦窯,東大寺瓦,瓦の叩目文様
1.はじめに
万富東大寺瓦窯跡は,鎌倉時代の東大寺再建瓦を焼成 した窯跡として知られる国指定史跡である。岡山県岡山 市東区瀬戸町万富に所在し,JR山陽本線「万富駅」か ら北東へ約400mの低丘陵上にあり,東には岡山三大河 川の一つである吉井川が南北に流れている(図1)。
治承四(1180)年十二月,「源平の戦い」で東大寺の 伽藍は焼失したが,大勧進(東大寺復興の責任者)と なった俊乗房重源の尽力により,朝廷や鎌倉幕府などの 支援を得て復興再建された。
万富東大寺瓦窯跡で焼成された瓦は,東大寺の大仏殿 のみではなく中門や回廊,南大門,鐘楼にも使用され,
30~40万枚の瓦が生産されたといわれている。瓦当面に は,「東大寺大仏殿」の文字が配置され,平瓦の凸面に は多種多様の叩目文様があり,一部の瓦には「東大寺」
の刻印がみられる。
万富東大寺瓦窯跡は,南北に細長い丘陵「大寺山」
と,その南西の半独立丘陵「上の山」に分かれている。
これまで,昭和五十四(1979)年に岡山県教育委員会 が,平成十三(2001)・十四(2002)年に瀬戸町教育委 員会が発掘調査と科学探査を行っている。また,令和三
(2021)年からは岡山市教育委員会が,史跡公園整備を ふまえて発掘調査を始めている。詳細は,今後刊行され る調査報告書に委ねるが,新たな窯の発見,分焔牀や擁 壁,燃焼室と焼成室との境の隔壁,煙道など窯の構造解 明につながる遺構が確認されている。
岡山県教育委員会の調査報告では,各遺構と平瓦の叩 目文様などの関係から,瓦生産状況の復元が試みられて いる。瀬戸町教育委員会の調査報告では,筆者の力量不 足で岡山県調査成果とあわせての検討がほとんどできな かった。前回,瓦窯と瓦の叩目文様との関係から叩目文 様の時系列を検討したが(岡本2021B),さらに発展さ せて瓦生産状況の復元を検討していきたい。
図1 万富東大寺瓦窯跡と周辺遺跡
万富東大寺瓦窯跡の瓦生産状況の復元
図2 万富東大寺瓦窯跡の遺構配置図
2.万富東大寺瓦窯跡の瓦窯と平 瓦叩目文様との関係
(1)瓦窯等の配置状況と形態
万富東大寺瓦窯跡で確認されている瓦窯は,いずれも 大寺山地区にあり,15基の瓦窯が南北に並び築かれてい る。ただし,すべての瓦窯の発掘には至っておらず,発 掘された瓦窯も多くが平面確認にとどまっている。これ らの窯の前面には灰原や工房と考えられる竪穴遺構が検 出されている(図2)。
大寺山地区北側にあるSO−1窯は,両脇に排水溝を 伴っており,さらに北側にも排水溝がみられるため,少 なくともSO−1窯より北側に位置する瓦窯は,排水溝 を伴っていたと思われる(図3)。
さらに,SO−1窯の西側には,科学探査等によって 2基の瓦窯が存在すると考えられ,1号窯から13号窯ま では南北1列に並んでいるが,それより北側は南北2列 並列して窯が配置されていたと思われる。
SO−1窯の北側にも複数の瓦窯があったと思われる が確認されていない。しかし,その周辺には管理棟と思 われる礎石建物跡や排水施設が確認されている。
なお,上の山地区にも,まとまった数基の瓦窯があっ たと思われるが正確な位置はわかっていない。
瓦窯の形態は,2条と4条の分焔牀を持つ半地下式平 窯2種が確認される(図4・5)。2条の分焔牀を持つ 窯は,ほぼ全容がわかった10号窯をみると,焼成室は幅 約1.3mで長さ約2.6m,燃焼室は最大幅約1.6mで長さ約 2mである(註1)。4条の分焔牀を持つ窯の焼成室は,
13号窯から推定すると幅約2.5mで長さ約2.6mである。
窯の全長はいずれも5m程度であったと思われる。おそ らく,13号窯より北に位置する窯は4条の分焔牀を持つ 瓦窯で,12号窯より南に位置する窯は2条の分焔牀を持 つ瓦窯であったと思われる。
瓦窯の瓦生産数については,1基の瓦窯が1回で焼成 できる瓦の枚数が500枚から1000枚足らずであったと考 えられる(岡本2021A)。
図3 SO−1窯と排水溝実測図
図4 2号窯実測図
図5 13号窯実測図
万富東大寺瓦窯跡の瓦生産状況の復元
(2)万富産東大寺瓦の平瓦叩目文様と刻印
万富産東大寺瓦の大きな特徴として,平瓦凸面に多種 多様の叩目文様があり,大きく1型から7型に分類され る(図6)。この叩目文様は,工人が使用する叩き板の 文様であり同じ叩目痕跡のある瓦は同一工人(集団)が 作成したものと考えられる。多種多様な叩目文様から工 人(集団)の組織構成を推定することができる。
万富産東大寺瓦のもう一つの特徴として「刻印瓦」が ある。この刻印瓦を叩目文様別に集成すると,同一刻印
の中に数種の叩目文様を持つものがみられる。叩目文 様1C型・5A型・5B−1型と3A型・7型と1D型・
3A型の3グループである(岡本ほか2003)。刻印は,
事務系官人が工人の仕事量を把握するのに使用する検印 であるとすると,それぞれのグループは同じ時期のもの と考えることもできる。
(3)瓦窯と平瓦叩目文様との関係
岡山県教育委員会の調査報告では,瓦窯など各遺構と 図6 平瓦叩目文様分類図
瓦の叩目文様などの関係に着目して,万富東大寺瓦窯跡 の瓦生産状況の復元が試みられている。
叩目文様1型と7型は,瓦の叩目文様としてはもっと も普遍的なものであり,窯の分焔牀に使用されているこ とから瓦窯跡操業初期に焼成されたものとしている。
一つの窯で焼成された瓦の叩目文様は,ほぼ1種類 に限られるようであり,2号窯は分焔牀に叩目文様1A 型・1B型を利用,3号窯は分焔牀に叩目文様1A型・
3A型を利用して,いずれも叩目文様6型の瓦を焼成し ている。10号窯・11号窯・12号窯は,いずれも叩目文様 4型の瓦を焼成しており,11号窯と12号窯には叩目文様 1A型の瓦を分焔牀に利用している。13号窯については,
焼成した叩目文様の断定は控えているが,2型・3A型 が多数出土している。
さらに,瓦窯の分布状況から複数の瓦窯がまとまりを 持つことから,このまとまりを1単位として,操業に従 事する工人達を組織化して掌握したと考えている。
また,7号窯から12号窯の前面にある灰原からは,叩 目文様1A型・1B型・1D型・7型と,窯で焼成され たと考えられる4型が出土している。2号窯から6号窯 の前面にある竪穴遺構からは,叩目文様1A型・3A型・
7型が出土しているが,窯で焼成されたと考えられる6 型は出土していない。ただ,竪穴遺構内はほとんど掘り 下げていないため6型が出土する可能性が考えられると している。よって,遺構の切り合い関係などから2~6 号窯が7~12号窯より後に構築されたものと推定してい る。
瀬戸町教育委員会が調査したSO−1窯からは,叩目 文様3A型・5A型・7型が出土し,隣接する排水溝 から叩目文様3A型・7型が多く出土している。科学 探査で推測されるSO−1窯の西にある瓦窯の灰原から は,叩目文様3A型・7型が多く出土,叩目文様3B型・
5A型・5B型・6型は出土していない。また,礎石建 物の地覆石がわりに利用された瓦は,叩目文様3A型が ほとんどであり,排水施設では叩目文様3A型・7型が 圧倒的に多かった。これら遺構はすべて大寺山地区北側 にある。
全体的にみると大寺山地区北側では,叩目文様1B型・
3A型・7型が多く出土しており,それらを焼成した瓦 窯があったのであろう。礎石建物や排水施設は,それら に伴うものであると考えられる。
上の山地区では,窯の詳細は不明であるが,叩目文様 1B型・1C型・5A型・5B型が多く出土している。
これら調査成果からみた叩目文様の時系列を検討する と,叩目文様1型・7型,3A型・5A型,5B型,2 型,4型,6型の順に新しくなると思われる。ただし,
1型は4種あり比較的継続して続くようである(岡本 2021B)。
3.文献や伝承からみた万富東大 寺瓦窯跡の瓦生産状況
(1)万富東大寺瓦窯跡の操業期間
備前国は,建久四(1193)年に東大寺造営料国と なっていることから(『吾妻鏡』ほか),この頃に万富 東大寺瓦窯跡は操業され始めたと考えられる。それか らわずか数年,建久六(1195)年には東大寺の「大仏 殿」と「中門」が完成している(東大寺供養『玉葉』ほ か)。その後,建久八(1197)年に「戒壇堂」と「浄土 堂(念仏堂)」の造営(『東大寺造立供養記』ほか),正 治元(1199)年に「法華堂(三月堂)」の修造(『法華堂 棟札』),正治二(1200)年に「開山堂」の修造(『東大 寺別当次第』ほか)と尊勝院の再建(『東大寺続要録』),
そして,建仁三(1203)年には「南大門」や「回廊」
が完成(東大寺総供養『東大寺続要録』ほか)してい る(註2)。
また,備前国から東大寺への納入品を示す『備前国麦 進未進並納所所下惣散用状』(建仁三年)には,「吉岡御 瓦」の字句がみえるので,少なくともこの頃までは瓦窯 は操業していたようである(藤井1955・1980)。
(2)万富東大寺瓦窯跡の瓦生産規模
現在の大仏殿は,江戸時代に再建されたもので,鎌倉 期再建の大仏殿は江戸期よりひとまわり大きいと考えら れている。『興隆略記』によると,江戸期再建の大仏殿 では約13万枚の瓦が使用されており,鎌倉期の大仏殿で はそれ以上の瓦が使用されたであろう。備前国が東大寺 造営料国になってから,わずか2年程でこれを補う瓦が 焼成されているのである。多数の工人集団を組織して,
複数の瓦窯で焼成するなど効率的に操業しなければなら なかった(註3)。
また,万富産東大寺瓦は,大仏殿のみならず中門や南 大門など他諸堂にも使用されており,さらに,重源上人 が関係する東大寺以外の施設でも使用されていたようで ある(註4)。
万富東大寺瓦窯跡の前面にある住宅団地は,かつて江 戸時代には池であった。これは,大量の瓦を生産するた めに多くの粘土を採掘した窪地が池になったといわれ
(荒木1924・1940),瓦生産数が莫大であったことがうか がわれる。
(3)万富東大寺瓦窯跡の操業状況
遺跡近くの瀬戸町大井に残る『楠田権平本』という近 世文書があり,東大寺再建の瓦焼成の伝承が記されてい る(註5)。
要約すると,備前磐梨郡梅村(史跡指定地付近)に
万富東大寺瓦窯跡の瓦生産状況の復元
は,良質の土があるため,東大寺瓦をつくる地に選定さ れた。都からは役人や瓦職人など約80人が来て,作業員 約50人がともに従事した。正面の小山に南都正八幡宮を 勧請して社を建て,役人詰所や作業場が25軒,宿舎など の建物が15軒あり,瓦を焼成する窯は東窯・西窯・南窯 にそれぞれ10基ずつ計30基が造られた。それらすべてを 竹垣が廻り,都合15万枚の瓦がつくられて南都へ船で運 ばれた。
大寺山南端部の梅遺跡が,瓦積み出し港であると推定 されている。東大寺操業時の吉井川は,万富平野部に流 れ込み,「大寺山」南端と久津山の間を抜け,南方藁菰 社の東を流れていたと考えられている(矢部1985)。
東大寺瓦は,瀬戸町弓削倉地沖や吉井川河口に近い 西大寺の川底(旧永安橋付近)で採集されていること から,吉井川を利用して南都まで船で運ばれたのは確 かであろう(註6)。その西大寺の東には,重源上人が 開発して東大寺の荘園とした南北条荘・長沼荘・神崎 荘がある。備前国が東大寺造営料国となったのが建久 四(1193)年であるが,それ以前の文治年間に,南北条 荘・長沼荘・神崎荘の開発が東大寺によって行われてい る(註7)。これは,東大寺造営のための財を得ること
が目的であったが,吉井川を利用して瓦を運ぶための交 通網整備の役割もあったと考えられる(図7)。
4.重源上人が関係する施設と平 瓦叩目文様との関係
万富東大寺瓦窯跡で焼成された東大寺瓦は,東大寺と 東大寺以外の重源上人が関係する施設で使用されていた ようである。平瓦の叩目文様がわかるものを列挙してみ る。
(1)備前国湯迫山浄土寺
岡山市中区湯迫に所在する浄土寺は,報恩大師開基伝 承を持つ備前48か寺の一つである。東大寺再建のため備 前国司となった重源上人は,備前国府の北に隣接した浄 土寺を宿所としていた。境内には,重源上人が建てた庶 民の湯治施設であった「大湯屋跡」(岡山県指定史跡)
があり,東大寺瓦が出土している。その出土瓦の一つ に,叩目文様3A型がみられる(図8)。
図7 万富東大寺瓦窯跡と備前地域の関連場所
(2)備前国吉備津宮常行堂跡(山神遺跡)
重源上人の生涯の事績を記した『南無阿弥陀佛作善 集』には,備前国の項に「常行堂造立,奉安丈六弥陀仏 像」とある。
備前国一宮の吉備津彦神社の境内で,「吉備津宮常行 堂」という銘文を持ち,その文様構成が万富東大寺瓦 窯跡出土の軒瓦とまったく同じ軒瓦が出土することか ら,この地が『作善集』の示す常行堂跡とされる(藤井 1955・1980)。「吉備津宮常行堂」軒瓦とともに「東大 寺」刻印を持つ平瓦片も多数採集されている。確認され る叩目文様は,1B型?・3A型・4型・6型がみられ る(図9)。
(3)備前国の諸寺等
『南無阿弥陀佛作善集』には,備前国中の諸寺22か所 を修造したとある。
和気町泉にある安養寺は,裏山の道路新設時に「東大 寺」刻印のある平瓦片が発見され,万富東大寺瓦窯跡を 発掘調査する契機となった。瓦窯2基(泉瓦窯跡)が確
認されたが,生産された瓦は東大寺瓦ではなく備前国分 寺に供給されたようである。瓦の製作手法は万富東大寺 瓦と類似していることから,重源上人と関連はあったと 考えられている(岡本1980)。発見された東大寺瓦の叩 目文様は3A型である。
慶運寺跡は,赤磐市可真上に所在した寛文年間に廃さ れた日蓮宗不受不施派の寺院の一つである。主要地方道 佐伯長船線(美作岡山道路)道路改築に伴い発掘調査さ れた。中世墓や建物跡が確認され,「東大寺」刻印のあ る叩目文様7型の平瓦片が出土している(図10)。
惣持院旧跡は,総社市清水に所在する。豊臣秀吉の水 攻めで著名となった備中高松城の城主清水宗治とその一 族の菩提寺であった。この地では,万富産東大寺瓦の 特徴を示す叩目文様を持つ平瓦片が出土している。文様 は,3A型・5A型である(図11)。惣持院旧跡の北方 には,重源上人が浄土堂を建立した備中別所と指摘され る新山廃寺のある鬼城山がある(藤井1980)。新山廃寺 の浄土堂跡近くから,湯屋に用いられたと考えられる総 社市指定文化財「鬼の釜」が出土している。
百間川米田遺跡は,備前国府に比定されている岡山市 中区国府市場の南東に位置する。円面硯や緑釉陶器など の遺物や倉庫群などが確認されていることから官衙関係 施設であると考えられている。また,古代末から中世に かけての橋脚遺構は,長期間保持されていることから国 府津に通じる主要道であったと考えられている(物部ほ か2002)。橋脚遺構近隣の河道から東大寺瓦が出土して いる。叩目文様は1型と3A型である(図12)。東大寺 瓦のみならず多数
の中世瓦や仏教関 係 遺 物 が 確 認 さ れており,橋のた もとには維持管理 のための料金微収
「橋寺」があった
とも考えられる。 図10 慶運寺跡出土の東大寺瓦 図8 湯迫山浄土寺出土の東大寺瓦
図9 吉備津宮常行堂跡出土の東大寺瓦
図11 惣持院旧跡出土の平瓦叩目文様
万富東大寺瓦窯跡の瓦生産状況の復元
これらの施設に,東大寺瓦が葺かれていたのかもしれな い。
(4)周防国の東大寺別院阿弥陀寺と国府津
周防阿弥陀寺は,東大寺再建用木材を調達し,民衆へ の勧進活動を行う拠点である「周防別所」として,文治 三(1187)年に創建された。建久八(1197)年までに浄 土堂・鉄宝塔・経蔵・鐘楼・護法神社・食堂・浴室が,
遅くとも正治二(1200)年には薬師堂・舎利殿を造立し て,伽藍諸堂を整えていたようである(註8)。
阿弥陀寺湯屋の解体修理に伴う発掘調査で出土した 瓦の中に万富産東大寺瓦が確認されている(註9)。叩 目文様は,1B型・3A型・5B−1型(報告書では5B 型)・5B−2型(報告書では5C型)・7型である(図 13)。
重源上人は,阿弥陀寺の造営と同じ時期に源平合戦で 荒廃した交通拠点である国府津の修築整備を行ってい る。国府津からは,叩目文様1B型・3A型の瓦が出土 している(図14)。
この地に,万富産東大寺瓦が供給された背景について は,在地の瓦生産体制が失われ,新たに生産体制を再編
するよりも,万富から搬入する方がその負担にもかかわ らず容易であったからと指摘されている(乗安1983)。
(5)東大寺鐘楼
万富産東大寺瓦は,大仏殿をはじめ中門や南大門など に使用されている。現存する鐘楼は,重源上人に次いで 図12 百間川米田遺跡出土の東大寺瓦
図13 周防阿弥陀寺出土の東大寺瓦
図14 周防国府津跡出土の東大寺瓦
建永元(1206)年に大勧進職に就いた栄西上人が再建し たものであり,おそらく万富産東大寺瓦を使用した最後 の建物であると思われる。その平瓦の叩目文様は,3 型・4型・5型・6型である(註10)。
(6)重源上人が関係する施設の時系列の検討
備前国浄土寺は,備前国が東大寺造営料国となり重源 上人が備前国の拠点としていたところである。叩目文 様の初期にあたる3A型が出土するのは妥当だと思われ る。
重源上人は,備前国中の諸寺を多く修造している。こ れら諸寺は,備前国内での東大寺再建の指示を得るため の重要な基点でもあり,初期の叩目文様が出土すること は早くから取り組まれていたことを示している。惣持院 旧跡の東大寺瓦の出土は備中国でも同様に諸寺の修造が 行われたのであろう。
周防国阿弥陀寺は,建久八(1197)年から正治二
(1200)年には伽藍諸堂を整えていたようである。東大 寺瓦の使用は,東大寺大仏殿使用残の瓦とその後に生産 された瓦を使用したものと思われる。初期の叩目文様と ともに5B−1型・5B−2型が出土することがそれを 示すと考えられる。
吉備津宮常行堂は,東大寺軒瓦と文様構成が同じ「吉 備津宮常行堂」専用銘文を持つ。これは,東大寺再建の 瓦供給が比較的安定して余力が見込まれてからつくられ た瓦であると思われる。初期の叩目文様7型がなく後半 に焼成された4型・6型が出土することがそれを示して いる。ただ,吉備津宮は,備前国第一の大社であり常行 堂とは別に早くから結縁が行われていたと思われ,その 堂舎の修造に初期の叩目文様の瓦が使用されていた可能 性は大いに考えられる。1型の出土がそれを示している のかもしれない。
東大寺鐘楼は,重源上人の次に勧進職となった栄西上 人が再建したものであり,万富産東大寺瓦を使用した最 後の建物にあたる。この時期には,万富東大寺瓦窯は操 業していなかったと思われ,後半に焼成されて保管され ていた叩目文様4型・6型が主に使用されたのであろ う。
備前と周防の国府津からは,初期の叩目文様である1 型と3A型が出土していることから,流通拠点の整備が 早くから行われていたと考えられる。なお,東大寺再建 のための流通拠点である渡辺別所推定地や輸送経路推定 地からも万富産東大寺瓦が出土している(註11)。
東大寺大仏殿と中門,備前国浄土寺,周防国阿弥陀寺 あたりまでは,叩目文様1型・7型,3A型・5A型,
5B型を焼成,その後,2型,4型,6型が焼成された と考えられる。1型は派生形が多く,1型と3A型は比 較的長く継続して焼成されたかもしれない。
5.万富東大寺瓦窯跡の瓦生産状 況の復元
(1)瓦窯操業状況
万富東大寺瓦窯跡は,どのように操業されていたので あろうか。先述した検討をもとに考えてみる。
操業初期,大寺山地区北側で叩目文様1型と7型,上 の山地区北斜面で1型を焼成する瓦窯が築造される。叩 目文様の型別に複数の瓦窯群が構成され,それぞれを担 当する工人集団が組織されていたとすると,当初は3組 の工人集団が組織されていたのではないか。窯の焼成室 規模は,4条の分焔牀を持つものであっただろう。
ほどなく,大寺山地区に叩目文様3A型を上の山地区 に叩目文様5A型を焼成する窯を追加。大寺山地区は,
南北2列に並列して瓦窯が操業されていた。SO−1窯 がこの時期にあたる。東大寺の大仏殿と中門,備前国浄 土寺,周防国阿弥陀寺に瓦が使用された。
その後,大寺山地区では,おそらく叩目文様2型・
3B型の瓦を焼成した。この時に,窯を新築しているか もしれない。13号窯が該当するか。
この頃には大仏殿再建が一段落付き,東大寺戒壇堂や 浄土堂などの建物,備前国内社寺や周防別所など重源上 人と関係する建物に瓦が使用されたのだろう。
大寺山地区の瓦窯が老朽化のため廃棄され,南へ新た に瓦窯を構築して叩目文様4型・6型の瓦を焼成する窯 を順に構築していった。窯の焼成室規模は,2条の分 焔牀を持つものと小型化する。これが1~12号窯にあた る。これらで焼成された瓦が,吉備津宮常行堂,東大寺 の南大門・回廊・鐘楼に使用された。
瓦窯の前面には,粘土採掘場(現太田住宅地)があ り,谷部に流れる水を利用して,採掘した粘土と水をあ わせこねあげて瓦成形用の粘土がつくられた。粘土採掘 場と瓦窯までの空白地には,瓦の形に成形する工房,成 形した瓦を乾燥させる乾燥所,それらを管理する管理所 がある。礎石建物である管理所は,地覆石として利用さ れていた瓦片の叩目文様から比較的初期に建てられたと 思われる。
大寺山南端部は,吉井川が流れ込んでおり瓦の積み出 し港であった(註12)。港には,焼きあげに使う薪や出 荷される瓦が集積されていた。
これらを見おろす丘の上には,東大寺の守護神であ る手向山八幡宮の祭神を分霊して祀られた社があっ た(註13)。この瓦屋では,100人以上の人が働いていた と考えられ,それらの施設すべてを取り囲むように竹垣 が築かれていた。この地は一つの町として賑わっていた であろう。
万富東大寺瓦窯跡の瓦生産状況の復元
(2)瓦窯操業以後の状況
瀬戸町教育委員会の調査では,瓦窯操業以後の土器窯 と瓦列が確認されている(岡本ほか2003)。
土器窯は,13世紀前半から14世紀前半に生活雑器を生 産していた。14世紀から15世紀代の約20m以上にわたる 瓦列は,長大な壁を思わせて大規模な施設が存在してい たと考えられる。
遺跡の地名は「大寺山」で,この地には江戸時代の寛 文年間に廃寺となった正住寺があった。これは,東大寺 の瓦を生産する地に東大寺別院が建立されたもので,東 大寺の守護神の八幡宮を勧請したものが現在の阿保田神 社であるといわれる(荒木1924・1940)。
東大寺瓦生産以後は,土器窯により生産された生活雑 器を別院の財として活用していたのではないか。窯跡か ら吉井川を隔てた南東部には,中世の市で著名な「福岡 市」がある。生産した品は,その市で売られていたので あろう。その後,江戸時代に廃寺となるまでは規模を縮 小しながらも寺院が存続していたものと思われる。
6.まとめ
発掘調査や科学探査の成果,文献や伝承から,万富東
大寺瓦窯跡の瓦生産状況の復元を試みた。
瓦窯と瓦の叩目文様との関係から叩目文様の新旧を推 定して,瓦窯の築造順序や東大寺瓦が出土している重源 上人が関わった施設の時系列を検討した。
瓦窯は,2条と4条の分焔牀を持つ半地下式平窯2種 の形態が確認され,操業当初は,大寺山地区北側と上の 山地区北斜面で瓦窯群が築造され,一つの叩目文様が同 一工人(集団)であるとして大寺山では2組が上の山で は1組の合計3組の工人集団が組織されたと考えた。ほ どなく瓦窯が追加され,大寺山地区は南北2列に並列し て操業,老朽化で廃棄されると順に南へ新たな瓦窯が築 造されたとした。
このように,多数の瓦窯が築造されたのは,瓦窯1基 の1回で焼成できる瓦枚数が1000枚足らずであり,備前 国が東大寺造営料国になってから,わずか2年程で東大 寺大仏殿に必要な瓦を焼成しなければならなかったため である。これらから,重源上人の強大な組織力を維持 するカリスマ性,再建への強い意志を感じることができ る。
また,重源上人が関係する施設の時系列を検討するこ とで,それぞれの施設と万富東大寺瓦窯跡の瓦窯操業状 況を推定してみた。
図15 万富東大寺瓦窯跡復元図(史跡地設置大看板の図)
備前国の拠点であった浄土寺は,比較的早くに東大寺 瓦が使われていたようである。東大寺大仏殿完成後に は,周防阿弥陀寺や吉備津宮常行堂に東大寺瓦が使われ たと思われる。
流通拠点であった備前国府津や周防国府津からは,瓦 の初期叩目文様が出土していることから,早くから交通 網整備が行われていたと考えられる。さらに,備前国が 東大寺造営料国になる前に,瓦輸送経路にあたる南北条 荘・長沼荘・神崎荘が開発されていたことは,「支度第 一俊乗房」と称された重源上人の周到な計画性を示して いるのではないだろうか。
令和三(2021)年度から岡山市教育委員会によって行 われている史跡公園整備に伴う発掘調査により新たな成 果が確認(註14)されており,今後の調査によって今回 の復元案の見直しが求められることになるだろう。今後 の新たな発見に期待したい。
ご退官される亀田先生,お疲れさまでした。瀬戸町教 育委員会に続き,市町村合併後の岡山市教育委員会でも ご指導いただいている「万富東大寺瓦窯跡」について,
私なりにまとめてみました。
表1 東大寺再建略年表
西暦 和暦 事 項
1180 治承四 源平の争乱で東大寺が焼ける。
1181 治承五 養和元
重源,法然房源空の推薦により東大寺復興の責任者(大勧進)となる。
重源,宣旨を賜り(八月)勧進帳を作成し,一輪車六両を造って諸国を勧進する。
重源,東大寺大仏の螺髪を鋳始める。
養和の飢饉。
1185 元暦二 文治元
文治(元暦)地震。
東大寺が備前国長沼荘と神崎荘の開発の許可を得る。
東大寺大仏開眼供養。
1186 文治二 周防国が東大寺造営料国となる。翌年より,杣から木材を切り出す。
重源,周防国に向いその帰途,備前国に立ちよる。
1187 文治三
源頼朝,東大寺復興の材木運搬を妨害しないよう周防国の地頭に命ずる。
この頃,重源,周防阿弥陀寺創建。
東大寺浄土堂を建てる。
東大寺造寺長官藤原行隆が備前国南北条荘を東大寺へ寄進。
この頃までに東大寺が備前国の南北条荘,長沼荘,神崎荘を開発する。
重源,備前国荒野開発を願出,その妨害停止を奏上。
1190 建久元
東大寺東南院再建。
東大寺大仏殿上棟。
陳和卿,東大寺浄土堂に伊賀の三荘を寄進。
1192 建久三 播磨国大部荘を東大寺領として復興。
播磨浄土寺浄土堂を建てる。
1193 建久四
播磨国・備前国が東大寺造営料国となる。
この頃,備前国の荒野を開発。
重源,備前金山寺の修造結縁。
1194 建久五 頼朝,守護・御家人に東大寺再興の助力を命ずる。
仏師快慶など東大寺中門の多聞天・持国天像をつくる。
1195 建久六 大仏殿・中門などが完成。東大寺供養が行われる。重源,大和尚号を得る。
陳和卿,東大寺に周防国宮野荘を寄進。
1196 建久七
魚住泊・大和田泊の改修計画が認められ,国衙に協力が命じられる。
東大寺領の備前国荒野を同野田荘との交換が認められ不輸地となる。
宋の石工・伊行末等,東大寺大仏殿の石の脇士像,四天王像,中門の石獅子などをつくる。
宋の阿育王山の舎利殿造営に結縁,周防国の材木を寄進,自身の木像を送る。
1197 建久八
東大寺大湯屋鉄湯船を造る。
東大寺八幡宮の上棟。
東大寺戒壇堂の造営。
渡辺別所で迎講を始める。
東大寺浄土堂(念仏堂)建つ。
1199 建久十 正治元
東大寺南大門の上棟。
東大寺法華堂を修造。
1200 正治二 東大寺開山堂を修造。
東大寺尊勝院再建。
1202 建仁二 この頃,伊賀国に新大仏寺を創建(伊賀別所)。
1203 建仁三
東大寺南大門の仁王像,運慶・快慶らにより造像。
東大寺総供養。重源,活動の実績を『南無阿弥陀仏作善集』にまとめる。
『備前国麦進未進並納所所下惣散用状』に万富産の瓦を示す「吉岡御瓦」の字句あり。
万富東大寺瓦窯跡の瓦生産状況の復元
【註】
1)岡山市教育委員会が実施した2021年の万富東大寺瓦窯跡発掘 調査の現地説明会資料による。10号窯は,平面精査のみである ため,焼成室の幅から分焔牀は2条としている。
2)小林剛氏著『俊乗房重源の研究』による。ほかにも時期不明 であるが造立や修復された諸院諸堂があったようである。
3)8世紀後半の造東大寺司造瓦所や10世紀初頭の平安宮木工寮 付属瓦屋に関する史料から,瓦工4人が一つの生産単位をなす 体制がうかがわれ,11世紀後半以降この方式が中央官衛系瓦屋 で一般化したとされている(上原1989)。万富東大寺瓦窯跡も複 数の工人が複数組に組織されていたであろう。昭和50年頃の埼 玉県瓦工場での達磨窯瓦生産操業実態の報告によると,窯は2 基ずつのローテーションを組んで稼働。1窯4日のインターバ ルで焼成。4日目の窯出しが終わると,窯が冷めないうちに窯 詰めを行い,夕方には着火して,窯の効率を図っている(藤原 2015)。吉備津宮常行堂跡では,東大寺瓦よりひとまわり小さく 内区に梵字のある軒丸瓦が出土しており(岡本1980),同じ梵 字瓦が,明仙童寺真如院(庭瀬堂?根木1978),日差寺(玉井 1941)でも出土している。そして,内区が梵字ではなく珠文で あるがよく似た軒丸瓦が万富東大寺瓦窯跡で出土している(岡 本ほか2003)。これは,万富東大寺瓦窯跡で多数の工人を組織す る必要があったことから,工人の一部に吉備津近辺に所在する 瓦工人達がいたことを示しているのかもしれない。
4)重源上人が晩年に著した『南無阿弥陀佛作善集』には,重源 上人の事績が記されており,東大寺のみならず様々な社寺の造 営修築を行っている。備前国司となった重源上人が宿所として いた備前国の浄土寺,備前国で修造したと思われる寺院の安養 寺(泉瓦窯跡,岡本1980)と慶運寺跡(浅倉ほか2005),東大 寺再建用木材の調達拠点であった周防国の阿弥陀寺(杉原2002)
から,万富産東大寺瓦が出土している。また,備前国府津と思 われる百間川米田遺跡(物部ほか2002),旧淀川河口近くに存在 した「渡辺津」(松尾ほか2004),瓦輸送経路と思われる北新町 遺跡(黒田1998)からも万富産東大寺瓦が出土している。
5)原本は所在不明。『瀬戸町誌』に原文と執筆者矢部氏の私見が 記載されている。もとは『太田吉岡村誌』(荒木1924)に記載。
6)これらの瓦は,船からこぼれ落ちたものであるといわれてい る。瀬戸町弓削倉地沖で採集された瓦は,ほとんどが軒丸瓦で あることから水神に奉納されたものという指摘がある(矢部 1985)。西大寺で採集された瓦は,この地で川船から海船に積み 替えたことを示すのかもしれない。万富東大寺瓦窯跡の東方吉 井川沿いに,熊野神社と 爪神社が2社並んであり,一対の宋 様式石獅子をそれぞれが所有している(1体は行方不明)が,
東大寺瓦を運んだ吉井川の船運と関係していると考えられてい る。
7)『重源譲状』『東大寺造立供養記』『玉葉』によると,南北条・
長沼・神崎の三荘が重源上人の努力によって東大寺領となり,
『東大寺文書』によると,少なくとも鎌倉時代終わりまでは東大 寺領であった(藤井1955・1980)。
8)『周防阿弥陀寺鉄宝塔銘』,『周防国司庁宣案』による。また,
『南無阿弥陀佛作善集』によると周防国の諸社の造営がなされて
おり,周防国が東大寺大仏殿の造営に非常に役立ったことを感 謝して,大仏殿完成後まもなく重源上人が進めたと考えられる
(小林1971)。
9)岡山理科大学の白石純氏による蛍光X線胎土分析で,科学的 にも万富産東大寺瓦であると確認されている。
10)東大寺鐘楼は,栄西上人によって再建されたと考えられてい る。再建に使用された瓦は,万富瓦のみではなく伊良湖瓦も使 用されていたようである。岡山県報告(岡本1980)で,『国宝東 大寺鐘楼修理工事報告書』奈良県教育委員会1967から,鐘楼に 使用されていた万富産平瓦の叩目文様は3型・4型・5型・6 型と記している。
11)大坂城下町跡遺跡(大阪府中央区平野町)の船場北端部一帯 は,重源上人に関わる「渡辺別所并木屋敷地」と推定されてい る。11世紀代に始まり中世末まで継続する大規模な集落が形成 されていたと推測され,「寺」銘や「東大寺大仏殿」銘の軒瓦が 出土している。木屋敷は,東大寺再建のため海運で運ばれた資 材を集積させた施設である。集落は,渡辺津の漁労海運に従事 した集団居留地とも推定されている(松尾ほか2004)。また,北 新町遺跡(大阪府大東市北新町)は,河内平野の北東部に位置 する。10世紀末から13世紀末まで存続した溝で区画された集落 が形成されていた。この地で出土した東大寺瓦は,井戸の井筒 枠や柱穴の礎板に転用されていた。補助的な瓦輸送経路上の集 落であったと考えられている(黒田1998)。平瓦の叩目文様は,
3A型・4型・6型である。
12)東大寺瓦窯操業当時,吉井川は流路を西に変えて万富平野部 へ流れ込み,久津山の北,大寺山南端部の梅の津,そこから大 きく曲がり南方の藁菰山,龍ヶ鼻へ抜けて流れていたという。
久津山と藁菰山の裾には船頭道が残っており,久津山の裾から は東大寺瓦が出土している(矢部1985)。
13)現在の阿保田神社と思われる。阿保田神社には,「元禄十三 年」銘の「八幡宮」扁額(焼失)があったことから,古くは八 幡宮の社号であったとされる(元岡1985)。また,寛文元(1661)
年の『磐梨郡大絵図』(池田家文書)に「八幡宮」とある(矢部 1985)。
14)瓦窯の全体像がわかってきた。焼成室と燃焼室は大きく段に 分かれ,焼成室には分焔牀があり,恐らくほとんど傾斜はない。
奥壁は平面形が三角状で変わっている。この形状は須恵器窯の 影響ではないかと考えている。万富窯の周辺は須恵器窯の磐梨 古窯跡群である。和気町泉の泉瓦窯跡には,須恵器窯の形態に 分焔牀が付く特異な構造の瓦窯がある。同様の形態の瓦窯は岡 山県内ではみられないが,隣県の香川県に,ますえ畑瓦窯跡が あり,この窯の周辺にも須恵器窯跡群がある(岡本2016)。
【図版出典】
図1 万富東大寺瓦窯跡と周辺遺跡 筆者作成 図2 万富東大寺瓦窯跡の遺構配置図 筆者作成
図3 SO−1窯と排水溝実測図(岡本ほか2003より転載)
図4 2号窯実測図(岡本1980より転載)
図5 13号窯実測図(岡本1980より転載)
図6 平瓦叩目文様分類図(岡本ほか2003より転載)
図7 万富東大寺瓦窯跡と備前地域の関連場所 筆者作成 図8 湯迫山浄土寺出土の東大寺瓦(扇崎2009より転載)
図9 吉備津宮常行堂跡出土の東大寺瓦(岡本1980より転載)
図10 慶運寺跡出土の東大寺瓦(浅倉ほか2005より転載)
図11 惣持院旧跡出土の平瓦叩目文様(葛原1987より転載)
図12 百間川米田遺跡出土の東大寺瓦(物部ほか2002より転載)
図13 周防阿弥陀寺出土の東大寺瓦(杉原2002より転載)
図14 周防国府津跡出土の東大寺瓦(乗安1983,杉原2015より転 載)
図15 万富東大寺瓦窯跡復元図(史跡地設置大看板の図,原案は 矢部秋夫氏)
表1 東大寺再建略年表(小林1965・1971をもとに作成)
【引用・参考文献】
浅倉秀昭ほか2005『土井遺跡・谷の前遺跡・慶運寺跡』岡山県埋 蔵文化財発掘調査報告191岡山県教育委員会
荒木誠一1924『太田吉岡村誌』岡山県赤磐郡太田村・吉岡村立千 種尋常高等小学校組合
荒木誠一1940『改修赤磐郡誌』岡山県赤磐郡教育会
石井清司2016「八幡市美濃山廃寺の瓦窯について」『京都府埋蔵文 化財論集第7集』京都府埋蔵文化財調査研究センター
伊藤ていじ1994『重源』新潮社
上原真人1984「天平十二・十三年の瓦工房」『奈良国立文化財研究 所研究論集7』奈良国立文化財研究所
上原真人1989「古代の造瓦工房」『古代史復元9古代の都と村』講 談社
上原真人2015『瓦・木器・寺院』すいれん舎
扇崎由2009「浄土寺旧蔵の古瓦」『岡山市埋蔵文化財センター研究 紀要1』岡山市教育委員会
岡本寛久1980『泉瓦窯跡・万富東大寺瓦窯跡』岡山県教育委員会 岡本芳明・西村康・白石純2003『史跡万富東大寺瓦窯跡確認調査
報告』瀬戸町教育委員会
岡本芳明2016「備前の瓦窯」『半田山地理考古』第4号 岡山理科 大学地理考古学研究会
岡本芳明2018「万富東大寺瓦窯跡と宋風石獅子」『半田山地理考古』
第6号岡山理科大学地理考古学研究会
岡本芳明2021A「万富東大寺瓦窯跡の瓦窯の瓦生産数の推定」『岡 山市埋蔵文化財センター研究紀要13』岡山市教育委員会 岡本芳明2021B「万富東大寺瓦窯跡の瓦窯と平瓦叩目文様との関
係」『半田山地理考古』第9号岡山理科大学地理考古学研究会 葛原克人1987「新山廃寺」「惣持院旧跡」『総社市史考古資料編』
総社市
黒田淳1998『北新町遺跡第4次発掘調査概要報告書』大阪府大東 市遺跡調査会
小林剛1965『俊乗房重源史料集成』吉川弘文館 小林剛1971『俊乗房重源の研究』有隣堂
杉原和惠2002「阿弥陀寺第2次調査」『平成12年度防府市内遺跡発 掘調査概要』防府市教育委員会
杉原和惠ほか2015『周防国府跡発掘調査報告4』防府市教育委員 会
玉井伊三郎1941『吉備古瓦図譜』吉備考古会 中尾堯(編)2004『旅の勧進聖重源』吉川弘文館
中野栄夫1990「備前国と東大寺大勧進俊乗房重源」『岡山県史 中 世Ⅰ』岡山県
根木修1978「明仙童寺の変遷」『仏像保存修理報告書』岡山市遺跡 調査団
乗安和二三1983「周防国府跡出土の東大寺瓦」『角田文衛博士古希 記念古代学叢論』平安博物館
服部英雄2004「湯屋・橋寺・井料」『日本歴史第668号』吉川弘文 館
藤井駿1955「岡山県に於ける俊乗房重源事績」『湯迫山浄土寺略縁 起』湯迫浄土寺
藤井駿1980「備前国における俊乗房重源の遺跡」「俊乗房重源遺跡 の研究」『吉備地方史の研究』山陽新聞社
藤原学2015「鈴木正一瓦工場達磨窯の調査」『窯跡研究』第3号 窯跡研究会
松尾信裕ほか2004『大坂城下町跡Ⅱ』大阪市文化財協会 三好基之1991「俊乗房重源の活躍」『岡山県史中世Ⅱ』岡山県 元岡廣志1985「寺院・神社・教会」『瀬戸町誌』瀬戸町
物部茂樹ほか2002『百間川米田遺跡4』岡山県埋蔵文化財発掘調 査報告164岡山県教育委員会
森郁夫1994『東大寺の瓦工』臨川書店
矢部秋夫1985「東大寺再建と瀬戸町」『瀬戸町誌』瀬戸町
山崎信二2000『中世瓦の研究』奈良国立文化財研究所学報第59冊 奈良国立文化財研究所
『重源上人』四日市市立博物館1997
『東大寺』学生社1999
『重源とその時代の開発』大阪府立狭山池博物館2002
『大勧進重源』奈良国立博物館2006
『窯跡研究第3号』窯跡研究会2015
【〒703-8284 岡山市中区網浜834-1 岡山市埋蔵文化財センター】