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韓国 と日本 の銘文瓦生産 と供給方法 につ いての検討

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韓国 と日本 の銘文瓦生産 と供給方法 につ いての検討

車 順

I。 は じめ に

.銘

文 瓦 の採 用 と生 産 、 そ して消 費

.銘

文 瓦 の供 給 方 法

.お

わ りに

 

  

瓦の使用 目的は、太陽の光 と雨か ら建物 を保護するためにある。古代社会において、建物に 瓦 を使用す る目的は、当時の建物の耐久性 を高め、装飾性 を加味すること以外 にも、建物の風格 と象徴 性 を表すためで もあった。高い象徴性 と権威 を表現する記念碑的な大型建築物が造 られた理由は、 まさ に国家あるいは王室 を中心 として築かれた古代社会の政治的枠組みにおいて、 このような建物の存在が 要求 されたためであった。特 に、宮殿 と役所そ して宗教、お よび祭儀行為 に必要な建物のように、ある 社会 において政治上、宗教上 に重要な建物群 は、その社会すべての力が総動員 された。そ して、 このよ うな姿 はつ まるところ

<権

威建築>の出現 として帰着する。 よって、 当代すべ ての文化的努力の結集で ある権威建築物の存在 と、 これ に対す る維持 と補修、そ して管理の問題は当時の社会において、現実的 に重要 な問題であった ということがで きる。瓦の凸面あるいは、軒丸瓦 と軒平瓦の瓦当面に年号、使用 場所、製作者、供給者 な どに関す る内容の文字が刻銘 されている銘文瓦 を考察 した結果、韓回で銘文瓦 が使用 された時期 は楽浪郡 と帯方郡が設置 された紀元前108年か らで、中国漢 と西晋の影響 を受けて多 様 な種類の瓦が製作 された。当時、瓦 と は建築物以外で も墳墓 に使用 されてお り、韓氏、王氏 などの 専 門瓦工集団が存在 していた。高句麗 と百済は、楽浪で行われていた瓦製作方法 をそれぞれ採用 し、瓦 製作 を盛行 させ、瓦の使用 においては類似する状況 をみせている。特 に、漢城百済時期に製作 された瓦 は楽浪 との深い関連性の もとで製作 された。以後、熊津期に南朝の影響 を受けた百済では、涸洸期 に入 り独 自の瓦が存在する。一方、百済で使用 された印章瓦は瓦窯 と製作者 を示 した もので、平瓦の生産 と 供給 に対 して、われわれに多 くの情報 をもた らして くれる。特に、時期別に変化する印章瓦か らは、百 済の瓦供給がある地域 に固定 した瓦窯を中心 とした生産か ら、瓦工の移動 をとお して現地生産へ と変化 す る様子 を表 している。新羅 は、高句麗 と百済 をとお して受容 した瓦製作方法 を発展 させなが ら、円筒 桶 に、中板叩 きによる瓦生産方法 を継続 して採用す ることになる。初期 に製作 された銘文瓦 と短板叩 き 瓦 によって、瓦供給が限定的になされていたことを確認することがで き、以後寺院の建立が拡大するこ

量 m

(2)

とにともない大変多 くの種類の瓦が製作 された。 この際、瓦生産 と供給において、専用瓦、共用瓦、交 流瓦、そ して廃棄瓦の再利用 という様子が確認 されるが、これは急激に瓦生産が増加 したことによって 起 こった供給方法 と判断 される。以上の ように、三国の瓦製作 と供給そ して消費について検討 した結果、

高句麗の瓦についてはより多 くの事例の確認が必要であ り、百済地域でもやは り瓦窯の変化 と供給問題、

そ して印章瓦の生産 と消費に対す る検討が必要である。新羅の場合、一番遅 く瓦を生産 し始めたが、三 国を併合する過程 と多 くの寺院による急激 な瓦使用の増加 によって、瓦生産と消費 という部分では高句 麗や百済 とは異な り、多様な状況 を確認す ることがで きる。一方、 日本の場合は、数度にわたる遷都の 過程 において、遷都前の地域で使用 された建物 と瓦がすべて移動する状況が確認 された。 また、新たに 造営 した建物 に必要な瓦の場合 には、瓦供給 を担 当 した修理司をつ うじて供給 を受けたと推定で きる。

この ような瓦供給方法は、官をとお して一律 に瓦が供給 される事例であるが、寺院の場合には別途の瓦 窯か ら瓦が供給 される状況が確認 された。 したがって、官 と寺院はそれぞれに属する瓦工を保有 し、瓦 を製作 していた と考 えられる。 よって、初期 には官で運営 していた瓦窯か らすべての需要地へ瓦が供給 されていたが、漸次瓦の需要量が増加 し、大規模 な土木工事が年々行われなが ら需要地で直接瓦生産を 担当するようにな り、一度にさまざまな消費地へ瓦が供給 された状況が想定される。 このような瓦供給 の拡大は、百済の中心地であった扶余 と益山、新羅の慶州、そ して日本の藤原京、平城京に対す る相互 比較作業 をとお して確認することがで きる。結局、百済では主に固定された瓦窯で生産が行われていた が、必要時には瓦工の移動 をとお して瓦 を製作 し供給 した。新羅では官営 として運営 された瓦窯 を中心 に生産が行われたが、漸次私営の瓦窯が運営 されなが ら寺院などに瓦が供給 された。 日本の場 合 には、

頻繁な遷都 などをとお して、以前住んでいた地域 で使用 した瓦が再利用 される事例 も多いが、大部分は、

瓦の生産 と供給は主に官営の瓦窯によって行われていたことがわかる。よって、韓国と日本両国間で確 認 された瓦の供給方法は、 よ り良質の瓦 をどの ような方法によって安定的に供給するか、 とい う問題解 決のなかでなされた建築物の管理であった とい うことがで きる。

キーワー ド

  

 

銘文瓦

 

印章瓦

 

供 給

 

管 理

国立 慶 州 文 化 財研 究所

200

(3)

韓国 と日本の銘文瓦生産 と供給方法 についての検討

は じめに

瓦 の使用 目的 は、太 陽の光 と雨 か ら建物 を保護す るためであ り、現在 と別段 違 いはない。

しか し、古代社会 にお いて建物 に瓦 を使用 す る 目的 は、 ただ単 に建 物 の耐 久性 を高 め、装 飾性 を加 味す る以外 に も建 物 の風 格 と象徴性 を表す ことであ った。 強 い象 徴 性 と権威 を表 現 す る記 念碑 的 な大 型建 築物 が建 て られた理 由は、 まさに国家、 あ るい は王 室 を中心 と し て構 築 され た古代社会 の政治 的枠 組 み の なかで、 この ような建 物 の存在 が 要 求 され たため であ った。特 に、宮殿 と役所 、 そ して宗教 お よび祭祀行為 に必 要 な建物 の よ うな、 あ る社 会 にお い て政 治的、宗教 的 に重 要 な建物 は、 そ の社 会すべ ての力が総動員 されてお り、 こ の ような状 況 はつ まる ところ (権 威建 築

)の

出現 として帰着 され た。 よっ て、 当時 のすべ ての文化 的努力 が集結 され た権 威 建築物 の存 在 とこれ に対す る維持 、補修 そ して管理 の問 題 は、当時の社会 において現実 的 に重要 な問題 であった と言 える。

数 世紀 の 間、 さまざまな王朝 が交代 したが、 当時の姿 をそ の まま残 して い る建物 は、 ま さに当時 の歴 史 をその まま伝 えて くれ る資料 で あ り、その建物 に用 い られ た瓦 をは じめ と す る各種 部材 と内部施設 な どは、 ま さに建物 の利用 と関連 し、時 間的 な変 化 と特徴 な どを みせ て い る。や は り建物 の屋根 に使用 された瓦 も、建物が建 て られ た後 の 、修 理 された時 期 、 あ るい は瓦 が交換 された状 況 を時期 別 に教 えて くれ る。特 に瓦 の場合 、建 物 の屋根 を 覆 う際 に用 い る建 築材料 と して、 時期 別 にそ の特徴 が よ く表 れ てい る。 凸 面 を叩 き しめ る 叩 き板 の形 態 と文様 、 そ して製作 方法 な どを とお して時期別 の瓦 の特 徴 を把 握す る こ とが で き、遺跡 の移 り変 わ りと時期 的 な変化 を推 定す る際 に重要 な基準 資料 と して利用 す る こ とが で きる。 よって、 われ われ は瓦 の使用時期 と供給過程 につ いての研 究 を とお して、遺 跡 が存続 した年代 を推 定 し、遺跡 間の比較研 究や生産・需給 問題 な ども考 察 す る こ とがで きる。 また、年号よ、使用場所2、 製作 者3、 供給 者4などの内容 が、瓦 の凸面 また は軒 瓦 の瓦 当 に刻銘 された銘文瓦か らも、瓦が使用 された需給場所 と使用年代 を明 らか に してい る。

次 に、瓦 が作 られ使用 され る までの一連 の過程 につ いての検 討作 業 か ら、 瓦が製作 され た瓦窯 と瓦 を使用 した遺跡 の建物 (すなわち使用場所

)の

間の交流 関係 を検討 す ることもで き る。 そ して、余剰 と して余 った瓦 や細 か く砕 いて廃棄 された瓦片 を さまざ まな用 途 で再利

用しようとした人々の行為なども、個別的な観察によって確認でき、その内容を状討すれ

ば、次の

4つ

の事例に区分することができる。

専用瓦 は、 ひとつの場所でのみ使用 されるため作 られる瓦で、建物 の創建 、修理 な どの ような一時的な目的をもって運営 された瓦窯で製作 された。 よって、専用瓦 は単独の遺跡 あるいは墳墓か ら出土す る事例 を意味する。 しか し、たとえ専用瓦が使用 された として も、

周辺 に位置す る建物や寺院などに瓦 を供給 した事例 もあることか ら、ある遺跡でのみ使用

(4)

され た専用瓦 を確 認す るため には、徹底 した比較作 業が必要 になる。専用 瓦が使用 され う る場合 は、創建 瓦、重建 瓦、重修 瓦、修 理瓦 な どで あ る。 その反面、慶州 皇龍寺 や益 山弥 勒 寺 の ような数 十年 にわた って、 その建 立 に力 が注 ぎ込 まれ た大 きな寺 院 に必要 な瓦 は、

ひ とつ の場所 で製作 され た とい うよ りは、周 辺 に位 置す る さまざまな場所 の瓦窯 で 同時 に 瓦 を製作 していた可能性 が大 き く、複 数 の瓦 窯 か らひ とつ の寺 院 に供給 され た場合 を想 定 す ることがで きる。 しか しこの ような事例 は、現在 まで発掘調査 された資料では確認す る ことは難 しく、可能性のみ指摘す るにとどめたい。

共用瓦は、ある瓦窯、あるいは複数の瓦窯で生産 された瓦 を、 さまざまな遺跡 に同時 に 供給 し使用 した事例 を指す。本来、共用瓦 は瓦 を共 同で製作 し使用する場合 としての事 例 に限定 されなければな らないだろう。 しか し、専用瓦窯で製作 され供給 された瓦が、 さま ざまな場所 に位置す る官用建物や、同 じ宗派の寺院な どに供給 される場合 も想定す るこ と がで きることか ら、実情 は大変複雑である。 しか し、共用瓦 は製作 と使用時期 において 同 時性 を持 っているため、後述す る交流瓦や再活用瓦 とは明確 に区分 される。共用瓦が使 用 されうる場合は、創建瓦、重建瓦、重修瓦、修理瓦などである。

交流瓦は6、 ぁる瓦窯で生産 された瓦 を受容 した寺院で使用 された瓦が、別の寺院に供 給 された場合 を言 う。交流瓦は、役所か ら瓦が必要 な建物へ送 る場合 と、寺 院間に作 られ た 経済的な交流関係 な どによって生 じた と想定 される場合 とがある。例 をあげれば、大規模 な寺院か ら小規模 な寺院に必要な瓦 を支援 した事例 は、や は り物資の交流 とい う点か らみ れば、交流瓦の事例 とす ることがで きよう。その反面、交流瓦が共用瓦 と区分 される点 と しては、宮殿や役所そ して寺院な どで使用 された瓦の年代がそれぞれ異 なる点 をあげる こ とがで きる。す なわち、すでに焼成 し朱管 されていた瓦 を使用 した場合 には、新 旧の建 物 に瓦が使用 された時期がそれぞれ異 なるために、異 なる形態 を呈す る瓦が出土す ることか ら、簡単 に区分す ることがで きる。 また、全体 の出土量 において も、大変少 ない比率 を占 めているため、共用瓦 と区分 され る。交流瓦が使用 され うる場合 は、重建瓦、重修瓦、4多

理瓦などである。

再 活用瓦 は、前述 した専用瓦、共用瓦 、交流 瓦 とは異 な り、時期 的 に一層 後 出す る遺 跡 か ら1〜2点程 度 の瓦 が確認 される場合 であ る。主 に生活遺跡か ら多 く確認 され るが、瓦 を 建 物 の屋根 資材 として使用す る とい うよ りは、生活 道具 や材 料 な どとして使 用す る場合 が 大 部分で あ る。 もちろん、宮殿 お よび役 所建 物 や寺 院 な どで も瓦片 を再利用 す る こ と もあ るが、 この場合、本来使用 された遺跡か ら遠 く離れた場所 で瓦が確認 された場合 を指す。 前 述 した経済的な交流や支援 とは異 な り、人 々の必要 目的に よって瓦が移動 した場合 であ る。

亀 田修― は、百済 の瓦供給体 制 に対 して言及 し、

Al:1瓦

窯1寺院型 (a瓦 窯→ a寺 院)、

B:複

数瓦窯l寺院型 (a、 b、 c瓦窯→a寺 院)、

Cl:1瓦

窯複 数寺 院型 (a瓦 窯→a、 b、 c寺院)、

202

(5)

韓国 と日本の銘文瓦生産 と供給方法 につ いての検討

第1表

 

瓦の使用場所別用途区分

D:複

数瓦窯複 数寺 院型 (a瓦 窯→a、 b、 c寺院、b瓦 窯→a、 b、 c寺 院、 c瓦 窯→a、 b、 c寺院)

に区分 した (亀4歩‑2006p155)。 分類 され た 内容 を上 の第1表と対比 してみ れ ば、A、

B

型 は専用瓦 の事例 に該 当 し、C、

D型

は共用瓦 に該 当す る。 しか し、交流瓦 に姑 して は、明 確 な区分 は されてい ない。

様 々 な瓦 の 中で、銘 文瓦 は凸面 に吉祥旬 、生産年 、製作者、消 費地、符号 な どの ような 内容 が彫 られた印章 また は叩 き板 を押 圧 し、文字 を表示 した ものであ る。 そ して、軒 丸瓦 の文様 面 には「楽浪進官」 をは じめ と した各種 文字 が陽刻 (浮き彫 り

)で

装 飾 され 、百済が 減亡 した直後 に製作 された もの と推 定 され る瓦 には、「大唐」 と「含 昌七年丁卯 年 末印」 な どの文字が確 認 され る。 また、墳 墓 に使用 された導 に も、瓦 の よ うに様 々な種 類 の文字が 確 認 され て い る。 高句麗 太王 陵の「願 太王安如 山固如岳」 や、千秋塚 か ら出土 した 「千秋 萬歳永 固」 な どの銘文導 は、公 州宋 山里6号墳 か ら出土 した「梁官瓦為 師央」 と と もに導 の 使用 意味、 あ るい は製瓦技術 が導入 され た経緯 を示 している。

上 記 の状 況 か ら、瓦 と導 に文字が刻 銘 され る伝 統 は、楽浪の場合 をみれ ば、 中 国の使 用 法 が導入 され た こ とに起 因す る と捉 え るのが妥 当であ るようだ。 そ して この際 、 瓦製作 方 法 の受容 とともに伝 わ ったで あ ろ う法 規、 身分 や使用 階層、建物 の性格 に もとづ く瓦使用 の制約 な どの問題 もまた、 その文字 と同様 、確 実 に存在 していた と考 え られ る。 よって本 稿 で は、銘 文瓦 が 出土 した遺跡 の比 較作 業 を とお して、瓦 の生産 と受給 問題 に対 して検 討 し、 中国か ら導入 した銘文瓦 が どの よ うな過程 を経 て韓 国に定着 し、 日本 で は どの ように 使用 していたのか考 える こ とと したい。

Ⅱ .銘 文瓦の採用 と生産、そ して消費

韓国で文字が使用 された時期 は、古朝鮮時代である。当時流行 した詩歌であ る『公無渡 河歌』の存在 と、古朝鮮が、三韓のひ とつである辰 と中国との交流 を妨害 しよ うとした と ころ、逆 に古朝鮮地域 に漢が侵入 した という点 をみると、すでに当時には中国の漠字が導 入 され、幅広 く使用 されていた と推定す ることがで きる。紀元前108年、古朝鮮 が漢 によっ

  瓦 窯 使用所  

1建瓦 重建瓦 重4多瓦 修理瓦 再活用瓦

専用瓦 専用 単独 ?

共用瓦

複 数

交流瓦

一 般

働 /勿

?

再活用瓦

203

(6)

て減亡 し、その地 に楽浪郡 をは じめ とす る漢 四郡 が設置 され たが、最近楽浪古墳 か ら出土 す る もの と して知 られ る「築浪郡 初元 四年 縣別戸 口」木簡か ら、当時の郡県の規模 と人 口 に対す る現状が明 らか になった (舎鱈考 2006 pp 30‑33、 テ龍九2007)。 そ して、現在 まで に発 掘 調査 された数千余基 の楽浪古墳 か ら出土 した各種 遺物 、特 に文字が記 された銅鏡 と漆器、

そ して各種 の瓦 と導 な どを通 して、当時使用 された文字 を確 認す ることがで きる。

この時期 、韓 半 島南 部地方 に位 置 した三韓 地域 も、 中国 との交易 を通 して文字 と貨 幣、

そ して騎 馬具 な どを入手 している。原三 国時代 の墳 墓 であ る昌原茶戸里1号木棒【墓 か ら出土 した筆 と削刀 の存 在 は、 この時期 に文 字 が使 用 され て い た とこ とを示 して い る (引迎平

1992)。 また、南部地方か ら楽浪土器 と鉄器 、青銅器 、銅鏡 な どの遺物が多数 出土す る点 か

ら、楽 浪 との文化 的交流 関係 を維持 した こ とをみ る こ とが で きる。 もちろん、 この時期 の 交流 関係 は、支配層 を中心 に行 われていた もので (召ぞ引 2006)、 実 際 に瓦が南部地方 で使 用 され る には多 くの時 間が必要 であ った と推 定 され る。 そ の反面、楽浪 の瓦製作技術 が南 部地方 です ぐに伝 来 していった可能性 に対 して も再 考す る必要があるう。

以 上 の よ うに検 討 した結 果、韓 国で文 字 が初 め て使用 され た時期 は古朝鮮 時期 で あ り、

楽 浪郡 が 設置 され、 中国か ら瓦製造技術 が本格 的 に受容 され なが ら生産が行 われてい った。

三 国時代 に瓦 が生産 され た時期 は、三 回それぞ れ に差異 はあ るが、主体的に瓦 を生産 して い た とみ るこ とが で きる。 この とき製作 され た瓦 は、 中国楽浪の瓦の影響 を強 く受 けた も の と推 定 され (州電狙 2006、 弯剰魃 2007p100)、 ソウル風納土城 において漢城百済期 に製作

され た軒丸瓦 の文様面 に施文 された文様 を詳細 に観 察す れ ば、 中国漢 の瓦 の特徴 をみ る こ とが で きる。現在 まで韓 国で出土 した銘文瓦 お よび銘文導 を時期別 に検討す れ ば、以 下 の とお りであ る。

1.楽

前漢の武帝は紀元前108年、古朝鮮 を減亡 させ、その地 に漠四郡 を設置 した。 この とき設 置 した楽浪、員春、臨屯、玄菟など、4つ の郡県 は以後、規模が縮小 した り廃止 されなが ら、

楽浪 と玄菟郡のみ残 った。 このなかで、楽浪郡が位置 した平壌大東江南側に立地する楽浪 土城の発掘調査の結果、建物址 と工房、井戸 などの遺構が確認 されている (駒井和愛 1965、

 

豊信1983、 鄭仁盛2003)。

楽 浪土 城 と漢 四郡 が位 置 した さまざまな地域 で 出土す る瓦 は、すべ て無瓦桶 で細 長 い棒 状 の素 地 に よって作 られた。特 に軒丸瓦 の場合 、瓦 当裏面 に円筒形 に細長 い棒状 の粘 土紐 を積 み上 げなが ら瓦 を成形 した後、九瓦部以外 のの半分程 度 を切 り取 る方法で作 ってい る。

これ以 降、漢城 百済期 の瓦 で も同様 の製作 法 に よる軒 丸瓦が確認 されている。一方、現在 まで知 られてい る楽 浪の銘文瓦 と導 には吉祥句 と製作 日、製作 者 な どが刻銘 されてお り、

韓氏 と王氏 を中心 とした瓦工集団の存在 が確認 され る。

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韓国 と日本の銘文瓦生産 と供給方法についての検討

第 2表

 

楽浪地域 出土銘文瓦導一覧表

番号   製作 年度 出土地

l 築浪漣 官 軒九瓦 楽浪土城7

2 果浪富貴 軒丸瓦

3 千秋高歳 軒丸瓦

4 大晋元康 西晋 元康年間

291〜 299年

軒丸瓦

5 高 歳 軒丸瓦

6 景元元年七月十三 日 魏 景元元年

2604F 伝 責海道 信川郡

7 景元三年二 月八 日韓氏造 魏 景 元 三年

2624F

平壌市 石巖里 第219号墳

(王根墓)

8 成寧元年二 月造 西 晋 成 寧 元 年

2754F

伝 黄海道 信)II郡 9 太康元年三月八 日王氏造 西8 太康元年

並口 確叫

太康七年三月癸丑作 並日

赤叫 西

28 太康七年 伝 黄海道 信川郡 用珍面 柳川里

君 以 太康 九 年 二 月 日卒 □ 記 之 西晋 太康 九年

288塗F

伝 責海道 安岳 郡 龍順 面 柳 雪里

天生小人供養君子千人造辱以葬父 母既好且竪典寛記之/使君待方大 守張撫夷導

並口 強叶

西

28 太康 九年戊 申

黄海道 鳳山郡 文井面 鳥江洞 袢方郡守 張撫夷墓

哀哉夫人奄背百姓子民憂感夙夜不 寧永側玄宮痛割人情/張使君

晋欝 西

28 太康 九年戌 申

黄海道 鳳山郡 文井面 鳥江洞 帯方郡守 張撫夷墓

大歳在戊漁陽張撫夷痺 西晋 太康九年成 申

2884F 黄海道 鳳 山郡 文井面

袢方郡守 張撫夷墓 大歳戊在漁陽張撫夷導

並 日労 叶

西

28 太康九年成 申 黄海道 鳳 山郡 文井面 烏江洞 帯方郡守 張撫夷墓

大歳申漁陽張撫夷導 西晋 太康九年成 申

2884F 簿

黄海道 鳳山郡 文井面 烏江洞 帯方郡守 張撫夷墓

張使君痺 西晋 太康九年成 申

2884F 責海道 鳳 山郡

袢方郡守 張撫

:井面 墓

趙王簿令導 懃意不臥 (?) 西晋 太康九年成 申

288年 黄海道 鳳 山郡 文井面 鳥江洞 帯方郡守 張撫夷墓

建興 四年含景□造 西晋 建興四年

316年 伝 黄海道

建武九年三月三 日王氏造/奉車□ 東晋 建武九年

325年 伝 黄海道 信川郡

永和九年三月十 日遼東韓玄菟太守 領冬利墓

オ叶 二昨

35 永和九年 平壌市 平壊駅区内

黄海道 信川郡 北部面 西湖里8 元興三年三月三 日王君造 0 元興三年

工干 涯彎

伝 黄海道 信川郡 北部面

西湖里

□□大吉壽大刑

王氏造

大王・王大

王 □ (堂?) 平壌市 石巖里 第253号墳

□事 伝 黄海道 信川郡 北部面

西湖里

(8)

また、黄 海道地域 か ら出土 した辱 を検 討す る と、 高句 麗 に よって楽 浪郡 と帯方郡が併合 され た後 に も、継続 して 中国の年号 と中国式 の官職 な どが刻 銘 された瓦 と導 が製作 され て お り、 これ は、高句麗が平壌へ遷都 す る長寿 王十五 年 (427)を 前後 した時期 まで確 認 され る。 よって、漢郡県 の滅 亡後 に も、 当時 の住 民 た ち は 自分 た ちの主体性 を守 りなが ら生活

していた こ とを推定す ることがで きる。

楽 浪 地域 で生 産 され た銘文瓦 と導 は、 中国人瓦工 集 団 に よって生産が行 われ建物 と墳 墓 に使用 され た。確 認 された導 の一部資料 には、 その銘 文 に被葬者 を追慕 す る内容が確認 さ れ、地域 的 にみれ ば平壌 地域 と黄海道地域 の間 にそ れ ぞ れ別個 の瓦工集 団が いた と判 断 さ れ る。 これ は結局、楽浪郡 と帯 方郡 の領域 に よって 区分 され る と推定 され る。 ただ、大 部 分 の瓦 と導 が発掘調査 を とお して確 認 され た もので は な く収集 品であ る点 は、遺跡 間で行 われた交流 関係 を把握す る際 に困難 な問題 を残 してい る。 ただ、3世紀 か ら楽浪郡 と帯 方郡 地域 で製作 された瓦 と導 は、 その後高句麗 と百済 の瓦 製造方法 に大 きな影響 を与 え るこ と になる。

2.高

句 麗

高句麗 で瓦 を使用 した時期 は明確 で はないが、美 川王 十 四年 (313)に 漢 四郡であ る楽 浪 を、東王十五年 (314)に 帯方郡 を、それぞれ減亡 させ た時期 を前後す る もの と推定 され る。

高句麗 は、瓦 を建物以外 に基壇式積石塚 な どの ような墳墓 に も使用 したが、 これ は当時、

中国 の 陵墓 で観察 され る亨堂が 関係す る もの と推 定 され る。特 に、仏教 が伝 来 した小獣林

王 四年 (374)9か らは、蓮華文が装飾 された軒丸 瓦が製作 され る ようになった と推 定 されて

い る。 この時期 の高旬麗建築 の様相 をみ る と、 F畜 唐 書 』「東夷伝 」 で 「高句麗の百姓 たち は、 山峡 を頼 りに生活 して きたが、その家 々は大 方茅 で屋根 を作 った。 ただ、寺・宮殿 ・ 祠 堂 ・官衛 だけは瓦葺 きの屋根 であった。」 と記録 され た内容が確認 される。

高 句 麗地域 で 出土す る瓦 は、大 部分 が模骨桶 を使 用 したが、 円筒瓦 も確 認 されて い る。

素 地 は細 長 い棒状 に した粘土紐 と粘土板 が確 認 されてお り、長板 叩 き板 が使 われて い る点 が特徴 だ とセヽえる (訳註 :叩 き板の呼称については、平瓦の長辺の長さにほぼ等 しいものを「長板」、

1/2〜 1/3のものを「中板」、それ以下のものを「短板」 としている)。 瓦 当製作 法 を詳細 に観察す れ ば、瓦 当裏面 にあ らか じめ断面半 円形 に切 り取 った丸瓦 を取 り付 け る方法で製作 してい る。軒平瓦 は、先端部 に薄 く溝 を作 った り指頭 で表面 を押 さえた事例 が確 認 され るが、百 済地域 で も同一の瓦が確 認 されている。

集安 地域 の高句麗遺跡 か ら出土す る軒 丸瓦 は、対 称 的 に配置 された巻雲文の外側 に文字 が配置 され る もので、「太寧 四年」、「己丑」 な どの文字 が確 認 され る。最近 の高句麗銘文軒 丸 瓦 に対 す る研 究 に よれ ば、 この種 の軒丸瓦 は高句麗 美川三十五年 (314)から製作 された とされてい る (林至徳・秋鐵華1985、 秋鐵華 2006 pp.2831)。 高句麗 の軒丸瓦 にあ らわれ る文

206

(9)

韓国と日本の銘文瓦生産 と供給方法についての検討

出土地

集安市 国内城 南門里 集安市 人民

西大墓 集安市 麻線 中 高山下922号 墓 西大墓

山下922号墓 集安市 梨樹

集安市 人民浴池 影劇院 付近

集安市 梨樹 園子 南遺l■

高山下331 太王 陵

千秋塚

集安市 丸都 山城 宮殿址 千秋塚

平壌市 土城里土城址 平壌市 土城里土城址 平壌市 定陵 平壌市 定陵寺址

字 は、隷書 と楷書 の過渡期 的 な要素が多 くあ らわれる特徴 をみせてお り (林至徳・秋鐵華

1985)、 広開土王陵碑 と類似 した結句がみ られることを考慮す ると、相互間の関連性 を推測

することができる (ユせ引2007p.451)。 そ して軒丸瓦以外 に、平瓦 にもさまざまな種類の文 字が確認 されている。その内容 は瓦製作 に参加 した工匠や官吏などと推定 される。 これ以 外 にも、「寺」、「泉」の字 などが記 された印章瓦 も確認 されてお り、方形 と円形の印章の形 態が共 に確認 される点 は、こ「 章瓦 の多様性 を示 している (朝鮮遺跡遺物図鑑編纂委員会1989 p269)。

3.百

百済地域で瓦が初めて使用 された時期は、漠城百済期である。『三国史記』には、lHIL有王 三年十一月に「地震が大風 を呼び、瓦が飛んで行った。」 という内容の記事が登場するn。

遺 址

第 3表

 

高句麗銘文瓦嬉一覧表

大吉―太羅 甲成九月造作

□□―太□(P)□年四月造作 美川王代

大―羅戊□(子)年□在牟造 大吉―己丑年□□(董)子利作

泰―羅戊戌年造瓦故記 泰―羅戊戊年造瓦作眉記

願太王陵安如山固如岳 千秋萬歳永 固

太寧四年太歳 閏月六 日己巳造 吉保子宜孫

脂軍□…/・―□夫任永

(E「)

(10)

多分、当時大風 によって飛んで行 った瓦 は、現在風納土城 (日立文化財研究所 2001・ 2002・

2004、 韓新大学校博物館2004・ 2005・ 2006)で確認 されている、非常に薄い瓦であったの だろ

う。 この時期 の瓦の大部分が、楽浪瓦の製作方法 を受容 し作 られてお り、円筒桶 に細 長い 棒状の素地 を使用す るものが確認 されている。百済瓦の中で銘文瓦の資料 は、大部分 が熊 津百済時期以後 に属す る遺物 で、瓦 な どに円形あるいは方形の印章が押 された印章瓦 であ る。 これ ら印章瓦に使用 された印章 を詳細 に観察す ると、多様 な形態の文字が確認 され る が、集団、姓氏、年号、使用場所 な どを記 しているもの と理解 されている (藤澤一夫 1976 pp 157‑159、 増な寺 2005p51)。 印章瓦が使用 された時期 に対 しては意見が分かれてい るが、

大部分は7世紀以後に製作 された もの とみる意見が提示 されている (鵜せ■2005 pp 52‑55)。

現在 までに出土 した百済の印章瓦 を、各地域 の代表遺跡 を中心 に検討 してみ ると、 出土 したE「章瓦の種類 において差異が確認 され、 これは印章瓦が使用 された時期、 あるい は供 給集団の差異 として推定することがで きる。

(1)公

州地域

公州地域では、公山城 と大通寺址 などでF「章瓦の出土事例が報告 されている。

公州公山城 は、百済熊津期の王宮 と推定 されている山城で、公州大学校博物館 によって8 次 にわたる発掘調査が実施 された。調査の結果、掘立柱 お よび礎石建物址、円形の池 、地 下式の木榔貯蔵庫 などが確認 され、いわゆる (大通寺様式〉 と呼ばれる百済最古式の蓮華 文軒丸瓦が確認 された (清水昭博2003)。 印章瓦 は合計16点が報告 されてお り、その銘 は

「北」、「前」、「下」、「主」 などである。 この うち、「北

J銘

のEF章瓦は、公 山城 でのみ確 認 された遺物で、百済の五方制・ と関連 したもの と推定 されている (瑠喀摺1997)。

公州大通寺l■は、公州地域で確認 された さまざまな寺院の中で、文献資料 に登場す る唯

―の寺院であ り、F三国遺事』には「大通元年に梁の武帝のため、熊川州に大通寺 を建 てたJ とい う記事がある。寺域 は、憧竿支柱 と石槽が発見 された公州市班竹洞一帯 に推定 されて いるが、公州大学校博物館で発掘調査 を実施 した結果、寺院と関連 した遺跡は発見 されず、

現在 の推定寺域 内に位置する瞳竿支柱 は朝鮮時代 に移転 された ものであることが確認 され た。大通は、中国南朝梁の武帝が使用 した年号で、西暦527〜 529年まで3年間使用 され た こ とか ら、 この瓦は6世紀初頭 に製作 された と推定 される。

その反面、印章瓦以外 にも公州宋 山里古墳群6号 (嬉塚墳

)で

は「梁官瓦鳥師央」銘が 記 された蓮華文の導が出土 したが、 この時期、百済が南朝か ら製瓦技術 を受容 した こ とを 示す資料である (国立慶州博物館2000p242)。 そ して、 この蓮華文辱のように導 に記 された

「壬辰年」(百済武寧王十二年1512)銘は、古墳の築造時期 を知る点で重要な基準資料 となる。

(2)扶

余地域

扶余は、酒洸百済期の都邑地 として、百済が滅亡 した664年まで都城 として機能 していた。

208

(11)

韓国と日本の銘文瓦生産と供給方法についての検討

王宮 が位置 していた と推 定 され る扶蘇 山城 南側 と、羅城 を中心 と した周辺地域 に対す る発 掘調査 で多 くの遺跡群が調査 されたが、大部分 が寺 院に関連す る遺跡であ る。

扶 余扶蘇 山城 は、百済が聖三十六年 (538)に 熊津 か ら遷都 した涸洸地域 の鎮 山 (都や村の 後方にある大きな山のこと

)で

あ る涸沈城 と して推 定 され る遺跡 であ る。 百済 時代 に築城 され た包谷式 山城 と、統 一新 羅 時代 に推 定 され る鉢 巻式 山城 がそれぞ れ存在 して い る。国立扶 余文化 財研 究所 による発掘調査 の結果、門址 、建物址 、竪穴住居址 な どが確 認 された (国立 扶余文化財研究所 1997・ 1999a'1999b。 2000。 2003)。 城 内部か らは、各種 印章瓦 が52種 ・424 点 と各種 銘文瓦 な どが 出土 したが、 これ らの出土瓦 か ら、百済減亡 と唐 の都 護 部設置 の過 程 を同時 に知 ることがで きる。

印章瓦 は、その大部分 が 円形形態 のみ確 認 されてお り、「大通」、「辰 (左)」、「丙」、「寅」、

「刀下」、「上

F(部 )甲

瓦」、「 申 口甲瓦」、「前F甲瓦」、「 中

F乙

瓦」、「 下 口甲瓦 」、「後 Π甲 瓦」、「後

F乙

J、 「曳 ―斯 」、「己―酋」、「 未―斯 」、「 巳―刀」、「 巳―毛」 な どが 確 認 され た

(瑠せ寺2005p8)。

この なか で、大通銘 の印章瓦 は東 門l■で 出土 した もので、公州大通 寺 で使 用 した瓦 が、

扶 余地域へ移動 し再使用 され てい る状 況がみ られ る点で注 目され る。 よって、 百済では首 都 を移 す際 に既存建 物 に使 用 されて い る建 築材 料 をその まま移動 させ て使用 した可能性 が 高 く、 これ に対す る詳細 な検討作 業が必要 であ る鬱。

扶 余扶 蘇 山城廃寺l■は、扶 蘇 山城 の南 方 に位 置す る廃寺址 で、1942年 には 日本 人研 究者 が、1980年 には国立扶余博物館 が発掘調査 をそれぞれ実施 した。調査 の結果、 中門、木塔、

金 堂が整然 と並 び南北 方 向 に配置 された状 況が確 認 された。 出土遺物 は、鴫 尾 をは じめ と して、「牛―斯」、「牛―止」、「 申―布」 な どの円形 印章瓦が出土 した。

扶 余 官北里遺跡 は、百 済涸洸期 の王宮 または関連施設が位 置 した地域 と推 定 され る都 市 遺跡 で、扶蘇 山南方 に位 置す る。忠 南大学校博 物館 と国立扶余文化財研 究所 に よる発掘 調 査 の結果で は、各種 の大型建 物址 、 共伴す る関連遺跡、道路、池 な どが確 認 された。 出土 遺物 中、 印章瓦 は45種 281点 が 出土 し、印章 の形態 は円形 と長方形 に区分 され る。 まず、 円 形 印章瓦 は、「功 (左)J、「曳―助」、「曳―止」、「官」、「 己―肋」、「 己―布」、「刀 下 」、「 目次」、

「 未―斯」、「丙」、「福 巡」、「本夫」、「士」、「斯」、「 巳―毛」、「 巳―肋」、「 巳―止」、「上

F(部

)

甲瓦」、「下 口乙瓦」、「先 (癸)―斯」、「前 日乙瓦J、「午―斯」などが確認 され 僻 せ寺 2005p7)、

長方形印章瓦 としては、「首部」 の印章が知 られている。

扶 余双北里遺跡 は、扶 蘇 山城 南 方 に位 置 し、過去 には双北里 寺址 と して知 られ てい た。

しか し、1982年 忠南大学校博物館 の発掘調査 の結果、礎石 の間隔が2.lmであ る礎 石柱

3基

が確認 された建物址 と、瓦窯址 の廃 棄場 と推 定 され る竪穴遺構 、 そ して堆積 層 な どが確認 された。 出土 した遺物 の なかで注 目され るの は大唐銘の軒丸瓦4で 、遺跡の下 限年代 を推定

(12)

す る参考資料 になる。 これ以外 にも、「寅」、「曳―斯」、「曳―止」、「丙」などの円形印章瓦が 確認 された。

旧衛里遺跡 は、扶余酒洸期の中心部 に位置 した遺跡 で、去 る1944年に警察署建物 を新築 す る過程で「天王」銘軒丸瓦 と木塔 の心礎石 な どが出土 し、百済の時期の天王寺址 と推 定 された地域である。1992年、国立扶余文化財研究所で発掘調査 を実施 し、その結果、井戸2 基 と水路 な どが確認 された。印章瓦 はすべて円形で、「丁 巳」、「辰」、「牛―斯」 な どの印章

を有す る瓦が出上 した。

(3)益

山地域

益 山弥勒寺址 は、1974年か ら2000年まで、国立文化財研究所 と国立扶余文化野研究所 に よって発掘調査が実施 された。その結果、東塔 と西塔の間に木塔 を配置 し、一直線上に塔

3基

を、各塔の北方には金堂を

1基

ずつ配置す る伽藍配置が確認 された (文化財管理局・文化

財研究所1989、 回立扶余文化財研究所1996)。 銘文瓦 は、「弥勒寺」、「景 (丙

)辰

年二月十日

(日?)法得書」(656、 瑠恐三2007 pp.134143)、「□ (開

)元

四年丙辰」(716、 瑠恐三2007p139)、

「妙[奉院」、「天歴三年」(1330)、 「至元四年」(1338)な どの年号が記 された銘文瓦 と多数の印 章瓦が出土 した。印章瓦は、「乙―助」、「刀下」、「 目次」、「丙」、「本夫」、「巳―毛」、「巳―肋」、

「巳―止」、「未―斯」、「右??瓦」、「辰」 などである (瑠せ寺2005p16)。

益 山王宮里遺跡 は、1989年か ら現在 まで国立扶余文化財斬究所 によって発掘調査が行 わ れている (扶余文化財研究所1992、 日立扶余文化財研究所1997・ 2001・ 2002)。 遺跡 は大 きなタト郭 をめ ぐらす城壁 と内部の寺跡、そ して庭 園施設 を含む大型建物址、工房址 な どに区分 され る。印章瓦 は、「曳―助」、「曳―止」、「官」、「 己―助」、「己―酋」、「刀下」、「卍」、「 目次」、

「未―斯」、「士」、「申―斯」、「壬???」、「辰」などである (響せ寺2005p15)。

これ以外 にも、錦 山、論山、任実、麗水 な どの地 に所在す る山城でF日章瓦の出土事例 が 報告 されてお り、一部 は公州や扶余地域で確認 されていない形式である点 をみる と、地域 的な特徴があった と推定することがで きる。

現在 まで知 られている印章瓦を遺跡別 に区分 したものが第4表であるユ。

以上の ように、百済の印章瓦が出土 した現状 を検討 した結果、印章瓦はその種類が多様 であるが、遺跡で出土 した事例 をみると数種の特徴が観察 される。

まず、初期 に使用 された印章瓦は「大通」銘 として、中国梁の武帝年間 (527〜528年

)に

使用 されたものである。 よって、6世紀初頭か ら印章瓦が使用 されたと推定することがで き るが、扶蘇 山城で同一の印章瓦が出土 したことか ら、百済が熊津か ら涸洸へ遷都 した時点 の聖王十六年 (538)を下限とす ると考え られる。 また大通の場合、梁の武帝が中大通 (529

534)を年号 として引 き続 き使用 した点 を考慮すると、その製作時期は527〜 534年とみる こ

210

(13)

韓国と日本の銘文瓦生産 と供給方法についての検討

とがで きる。それゆえに、百済で印章瓦が最初 に使用 された時期 は6世紀初頭 と考 え られ る。

次 に、 印章の文字 に対す る解釈 の問題 である。第4表を詳細 に検討す る と、熊津 期 に使用 され た印章瓦 は「大通」以外 に も、「北」、「前」、「 中」、「主」、「上」、「下」 な どで、 これ ら の内容 は百済 の地方編 制単位 であ る五 部 を指 してい る とみている。 これ と同様 の瓦が出土 した遺跡 は、麗水仙源洞 山城 と任 実城 嶋 山城 であ る。 よって、主 に熊津地域 で の み これ ら の印章瓦 が確 認 され る こ とか ら、時期 的 な差異が 認 め られ、麗水 と任実地域 で確 認 された 資料 に対 して は、 そ の 出現 時期 が熊 津期 なのか確 認す る必要性 が大 きい。 これ 以 外 に も、

熊津 地域 で確認 された単字銘 印章瓦 と異 な り、「上 部」、「上F甲瓦」、「上

F乙

瓦 」、「 甲 F 甲瓦 」、「前F甲瓦」、「前

F乙

瓦 」、「 中

F乙

瓦 」、「 下F甲瓦」、「下

F乙

瓦 」、「 後

F甲

瓦 」、

「後

F乙

瓦」は、部を表現 し、改めて甲乙として瓦窯を区別 している点で、〈部

+瓦

)の

構造をみせている。このような印章瓦は、すべて酒洸地域 と益山地域で確認 された点をみ

ると、単宇銘印章瓦が変化 したものと考えられ、やはり五部と関連 した瓦窯で生産された 瓦が供給 された状況をみせている。「右??瓦」、「壬???」、「丁??瓦」、「寺□乙瓦」は地域名な のか部の名称なのか不明確であるが、ここでは、(部十瓦窯

)と

類似 した形式 とみる。

最 も一般的な印章瓦である並字銘EF章瓦Vと して、「支」、「己」、「未」、「巳」、「先 (癸)」

「申」、「午」銘に、「斯」、「HJJ」、「肋」、「止」、「酋」、「古」、「刀」、「毛」、「布」、「井」 な ど の文字が結合 した形式がある。 この瓦 は、(干支

+瓦

)と

推定 される最 も一般 的 な形式で ある (藤澤一夫1976 pp 157‑159、 どそ寺2005p.50)。

錦山栢嶺 山城で出土 した「耳停□ (城

P)戊

午」瓦、「□□□ (耳停城

?)丁

巳」瓦 と、扶余 双北里 で地表採取 され た「葛 那城 丁 巳」瓦J8がぁ る。 これ らの瓦 はすべ て複 字 銘 印章10 (城

+生

産年〉がF「された印章瓦 として、主に地方で確認 された点をみると、地域 的な特徴 と推定 される。

一方、扶余扶蘇 山城 と益 山王宮里遺跡で確認 された印章瓦を互いに比較 してみ ると、差 異が観察 される。すなわち、扶余扶蘇 山城で出土 した「辰」銘の印章瓦 と、益 山王宮里遺 跡で出土 した「寅」銘の印章瓦 は、同一の時期 に使用 された印章瓦において、地域 的な差 異があ らわれている点が分かる。おそ らく、印章瓦が生産 された時期が異なっていた可能 性 と、瓦 を製作 した瓦工たちが瓦窯 を移 し、製作 した可能性があるが、ここでは後者の可 能性が大 きい と考えられる。 よって、百済では、大規模 な土木工事 に必要な瓦製作 のため に、一時的に瓦窯を工事現場の近隣に作 った可能性が高いと考えられる20。 そ して、 このよ うな供給体制は、ある瓦窯で一定の場所 に瓦 を供給す る専用瓦 と、 さまざまな所 に瓦 を供 給する共用瓦の生産体制が ともに存在 していたことを表 している。

4.新

新羅で瓦が使用 された時期 は、F三国史記』 に最初 に登場す る。 まず祇摩尼 師今 十一年

(14)

第 4表

 

百済地域の印章瓦 出土状況

(15)

韓国 と日本の銘文瓦生産 と供給方法についての検討

口瓦一F瓦

F 瓦 中 乙

F 瓦 下 乙 口 瓦 後 甲

御 孤 一祖 孤

前甲一前乙

葛那城

□□□

丁巳瓦

2

l

5

21Э

(16)

(122)條には、「夏

 

四 月に大風が東方か ら吹 き、本が倒 れ瓦が飛 んでいったが、夜 になる と止 まった」21ゃ、助 責尼 師今 四年 (233)條には「夏

 

四 月 に大風 が吹 き、屋根 の瓦 を飛 ば した」22とぃ ぅ記録 が あ る。 この記事 の内容 に対 す る信 頼性 は さてお いて、注 目され る内容 は、風 で瓦 が飛 んでい った とい う部分 であ る。最近 、漢城 百済 の都 邑で あった ソウル風納 土城 に対す る発掘調査 で 出土 した瓦 の中 には、大変器壁 が薄 い瓦が確 認 され、慶州地域 で も器壁 が薄 い無瓦桶 式製作 法 で作 られた瓦 が確 認 され て い る。 この瓦 の出現経緯 に対 して は、新 たな意見 も提示 されてい るが、 この問題 は注意す る必要があ る (金基民2002)。

新 羅地域 で 出土す る銘文瓦の資料 は、大部分7世紀 後 半 〜9世紀 末 に属 す る遺物で、生産 者 あ るい は年号が記 された単弁蓮華文瓦23ゃ主 に寺 院の名前と進言25などが記 された中 。長 板 Π「 きの瓦 、 そ して年 号 が記 され た長板 叩 きの瓦26ゃ、 宮殿27.城の名前'8.地 名20ゃ

官 あ る い は役所 を記 した文字30が押 された平瓦 を とお して、大変多様 な銘文瓦 の存在 を知 るこ とが で きる。 また、銘文瓦以外 に も「上」、「下」 な どの文字 、 あ るい は記号 が刻銘 された印章 が押 された導 、「生昴 之印」銘のEF章 が押 された瓦や宝相華文導 、「調露二年

(680)漠

只伐 部君若小舎 一三月三 日作康 …」、「辛亥 (711年)」 銘 な どの ような、文字が書かれた宝相華文 辱 な どが知 られてい る。 また、少数であ るが印章瓦 と呼 ばれ る遺物 も一部遺跡 か ら出土す る事例が知 られてい る。

王城 は、新 羅 の宮城址 と して南川辺 に位 置す る半 月形 に湾 曲す る丘 陵の上 に位 置す る。

現 在 東 西 長900m、 南 北 長

250mで

、総 面積 181,818,2笛 、 高 さ約50〜

70m程

度 の西壁 が約 1,800m程度残 存 して い る。 月城 は、婆娑王二十二年 (101)に城 が初 め て築かれて以 降、新 羅 の王宮 が位 置 した。最近、 国立文化財研 究所 と国立慶 州文化財研 究所 で実施 した物 理探 査 の結果、城 内部 は一定 に空 間が 区画 され、 内部 には建 物群が配置 されていた ことが確 認

された (皇起日他2007)。 月城 につ いての発掘調査 は1980年 の東 門址 を最初 として、現在 ま

で城外 郭 に位 置 した堀 施設 と建物址 な どが調査 され た。現在 まで の発 掘調査 の結果、外部 か らの侵入が頻繁であ った三国時代 には、宮殿 の防御 のために城壁基底部 に沿 って堀 (咳)

を設置 してお り、南川が接す る南側 を除いて、東 。西・北 の3面で石積 みあるいは素掘 りの 咳 字 が そ れ ぞ れ確 認 された。三回統一が な され、外 部 か らの侵入 の危 険性 が少 な くなった 後 には咳 字 を埋 め、 その上 に大規模 な建物 を建 て、狭小 な宮殿 の脆 弱 さを克服 した もの と 推 定 されて い る (文化財研究所・慶州古跡発掘調査団1990、 国立慶州文化財研究所2004・ 2006)。

出土遺物 としては、「井杵」、「井桃」、「漢」、「漠只」、「儀鳳 四年 (679)皆土」 な どの短板 でΠΠき しめ た銘文瓦 な どと、統一以前〜統 一期 の各種軒 平 ・軒丸瓦 な どが確認 された。 ま た、月城 内部 か らは、後三 国時代 に製作 された もの と推 定 され る「在城」 銘の銘文瓦 が 出 土 したが (瑠恐三2007 pp.153‑155)、 この瓦 は慶州見谷面 に所在す る金丈里瓦窯lllから出土 し た もの と して、生産地 と受給地 を確 認す る こ とが で きる。 この中で、短板 銘文瓦 は後述す

214

(17)

韓 国 と日本の銘文瓦生産 と供給方法についての検討

る伝 臨海殿l■を含 む月城周辺 で主 に確 認 され る銘文瓦 で、地域 的 に使用場所 が限定 され た 瓦 と推 定 され るm。

東 宮 (雁鴨池)、 す なわ ち伝 臨海殿 址 は、 月城 の東側 に位置す る宮殿 であ る。全体 の面積 は71,977∬ で、 1973年 か ら1975年 まで3年にわ た り国立文化財研 究所 で発掘調査が行 われ た

(文化財管理局 1978)。 雁 鴨池 とい う池 の名前 は三 国時代 にはみ られず、朝鮮 時代 に付 いた名 前 で あ る。発 掘 の結果、池 と入水 ・出水施設、そ して3基の 島が確 認 され、東宮 と推 定 され た建物群 は、池の西側 に南北方 向に3棟が配置 されていた。 この ように、南北方向の中心軸 に沿 って縦 方 向に主要建物 を配置す る例 は、 中国周 の制度であ る F周礼 』「考工記」 にみ ら れ る原則 であ る (文化財庁2000 pp 68 74)。 出上 した遺物 の中には、東宮 と刻 まれた各種 器物 と木簡 な どが あ る (高敬姫 1993)。 一 方、建物 に使用 された瓦 に対 しては、674年 と679年に 製作 された ものに区別で きる とい う意見 もあ る (二増と 2006)。 しか し、伝 臨海殿址 か ら出 土 した遺物 は7世紀後半か ら、新羅が高麗 に帰伏 す る新羅景順王九年 (935)ま で使用 された もの で あ り、 出土 した瓦 もやは りこの時期 に該 当す る。 その なかで銘文瓦 は、「井杵」、「井 桃」、「漠」、「漠只」、「儀鳳 四年皆土」 な どが あ り、月城 出土 品 と同一 であ る。 これ らの瓦 はすべ て専用瓦 の事例 であ る。一方、伝 臨海殿址 の西側 に位 置す る伝 天柱寺址 で は、「上 ・ 下」 銘 の印章 を押 した導が出土 した (目立慶州博物館2002p.121 No273)。 そ して、月城南側 に 位 置 す る国立慶州博 物館 ・美術 館敷 地の井戸 内で は、「南宮之 印」 が押 された銘文瓦が 出土 したが 、 この銘文 は瓦の使用場所 を記 した もの と推定 されてい る (日立慶州博物館 2002p.216 図面107‑④)。

仁 旺洞556番 地遺跡 は、伝 臨海殿l■北 方 に位 置す る王宮遺跡 と して道路 と建物址 が確 認 さ れ た。発掘調査 の結果、 まず計画 した地点 に条坊 を区画 し、 その境界 となる部分 に東 西 道 路 と南北道路 がそれぞれ交差 し、これ らの道路 と建物の境界 を区分す る垣遺構 (タムジャン)、

そ して この タム ジ ャ ンを境界 として、南側 には柱 間が確 認 された根石 をもつ建物址

3棟

と、

重複 関係 の ため に平面形態が確 認 で きなか った根 石群 が確 認 され た。特 に、東西方 向 の道 路 お よび タム ジ ャ ンの平面検 出過程 にお いて、調査地域 の北 西辺 で は「

「 」 形 の東 西 の タ ム ジ ャ ン石 列 と南北 の タムジャ ン石 列が交差 してい る状 況が確 認 され た。 そ して、東 西 道 路 お よび タム ジャ ン石列 は2次にわた って改築 された痕跡 が確 認 された (回立慶州文化財研究 所2003a)。

出土遺物 は、建物が築造 された時期 を示す5世紀後 半〜6世紀初頭 に編年 され る土 器 と印 章瓦 (目立慶州文化財研究所 2003p35、 図面16‑1・ 2)、 そ して無瓦桶式 の製作手法 で作 られ た 蓮 華文軒丸瓦 、模骨桶 や円筒桶 で作 られ た平瓦 な どであ る。慶 州地域 で最初 に印章瓦 が確 認 され、 そ れ とともに無瓦桶式 の製作 法 で作 られ た多 数の平 瓦 は、新羅で瓦が作 られ始 め た時期 が5世紀 末 まで遡 る可能性 を示唆 してい る。

215

(18)

皇龍寺址 は、『三国遺事』 に記録 された ̀七庭伽藍之墟

'の

ひとつ として、慶州地域で最 も大 きな寺院であ る。真興王十四年 (553)に宮殿 を建 てたが皇龍が現れるとす ぐに工事 を 中止 し、寺に造 り直 し始め、真興王三十一年 (570)に竣工 した。寺域の全体面積は約81,983 だにおよび、回廊 内郭の面積 は約27,768だである。真平王六年 (584)には、イン ド阿育王か ら送 られた金 と鉄 で作 られた丈六尊像 を奉安す るため、金堂 を再度竣工 し、善徳女王十二 年 (643)には慈蔵の建議 によって九重木塔 を完成 させ たが、 この とき百済か ら技術者が来 て作業 を行った とい う。 よって、百済の建築技術 は、643年を前後 した時期 に新羅に伝 えら れたことを示 してお り、 これ とともに瓦製作技術が伝 わった可能性がある。 この後、皇龍 寺 はさまざまな儀礼が重ね られたが、高麗高宗二十五年 (1238)、 元の第四次侵入 によって 焼失後、再建 されることはなかった。

1976年か ら1983年まで文化財研究所で実施 した発掘調査 の結果、1塔 3金堂式の伽藍配置 が確認 され、中門、木塔、東・西・中金堂、講堂な どが回廊 とともに確認 された (文化財管 理局・文化財研究所 1982)。 出土遺物 は約 4万 余点で、多数の瓦が出土 した。出土 した遺物の 中で銘文瓦は、「皇龍」、「皇龍寺」、「上龍」、「籠龍」 な どの ような専用瓦 と、「井杵」、「玉 看窯」 などの ような共用瓦の事例が知 られている。一方、隣接 した新羅王京SlE132と 月精橋

(文化財研究所慶州古跡発掘調査団1988p160)、 そ して慶州南 山三井谷第1寺址 (伝仁容寺址:国 立慶州文化財研究所2006)、 琵琶谷第2寺l■ (国立慶州文化財研究所2004b p 421)で は皇龍銘の銘 文瓦が出上 したが、すべて交流瓦 と判断される。

四天王寺 は、F三国史記』 と F三国遺事』 に創建 と関連す る記録が確認 され る33。 文武王 九年 (670)に創建 された寺院 として、東・西木塔が出現す る時期の代表的な ̀2塔1金堂式' の伽藍で、文武王十九年 (679)に竣工 した。2006年 度か ら国立慶州文化財研究所で発掘調 査 を実施 した結果、西翼廊が この時期 に現れることが確認 され、西塔址の基壇における荘 厳な緑釉壁導の奉安位置が初めて明 らかになった。

出土遺物の中には、「四天王寺」、「天王寺J、「天王寺左」、「天王寺右」、「四天王寺己巳年 重4雰瓦」、「大吉」、「天上寺」、「万」(国立慶州文化財研究所2003p372)、「儀鳳 四年皆土」(金東 賢他編著1976p14)な どのような銘文瓦が多量 に出土 したが、寺院の名前力渭己された点か ら、

大部分が四天王寺専用瓦である。 このなかで「四天王寺己巳年重修瓦」 は、 日帝強占期 に 発刊 された『朝鮮古蹟図譜 五』に紹介 された もの (朝鮮総督府 1917p683)と 同一の遺物で、

この瓦 をとお して四天王寺の修理の事実を確認することがで きる。一方、慶州地域で四天 王寺 の関連瓦が出土 した事例 を検討すると、芥皇寺、仏国寺、慶州南山 王井谷第1寺址、

弥勒谷第1寺址 (伝 菩提寺址

)な

どであ り、忍冬文軒平瓦が確認 された場合 は、慶州南山蓬 丘谷第1寺 (回立慶州文化財研究所 2005b)な どで、 これ らのすべての事例 は交流瓦の使用 範囲をよく示 している。

216

(19)

韓国 と日本の銘文瓦生産 と供給方法 についての検討

第5表

 

慶州地域出土銘文瓦の使用 目的別分類

番号 出土遺物 専用瓦 共用瓦 交流瓦 再活用瓦 瓦窯址

1 井桃、井杵 月城

伝 臨海殿址 校 洞 堀仏寺J■

月城

伝 臨海殿址

財買井 三井谷 第1寺

(伝仁容寺址)

新羅王京SlEl

3 漢 只 月城

伝 臨海殿址

習 部 月城

伝 臨海殿址

月城

伝 臨海殿址

新羅王京SlEl 三井谷 第1寺

(伝仁容寺址)

芥皇寺

儀鳳 四年皆 土 月城

伝 臨海殿址

四天王寺址 羅原里寺址 皇龍寺 北便寺址

新羅王京SlEl

仁旺洞668番 望星里瓦窯址

在 城 月 城 金丈里瓦窯址

皇 龍 皇龍寺址

月精橋 新羅王京SlEl 琵琶谷 第2寺

皇龍寺 皇龍寺址

新羅王京SlEl 弥勒谷 第1寺

(伝菩提寺址)

飽石濃 飽石谷 1寺

上 龍 皇龍寺址 城東洞386‐6

普門寺J■40

11 四天王寺 四天王寺址

芥皇寺 仏国寺 三井谷 第1寺

(伝 仁容寺址)

天王寺左 四天王寺址 な勒谷 第1寺

(伝 菩提寺址)

天王寺右 四天王寺址

四天王寺址 西部洞19番

天・エ 四天王寺址 賜杖寺址 多慶瓦窯址

琵琶谷 第2寺

新羅王京SlEl

買 本

飽石濃 碁巖谷 2寺 新羅王京SlEl

右 官

月城

識意谷 第7寺 (四祭寺址)

王井谷 第1寺 (伝仁容寺址)

仁旺洞 東川洞681■

市陵旨草

錫杖寺址 月城 西部洞19番 大令妙寺造瓦

(高)

霊廟寺址 伝 神文王陵

東南方 瓦窯址 元統二年甲成

二月日茸長寺 (高)

碁上谷 第1寺 (茸長寺址)

地巌谷 第3寺 址

茸長寺 (高)

塔上谷 第1寺

(茸長寺址) 池谷 第3寺

217

(20)

錫杖寺址 は、東国大学校慶州キ ャンパス博物館が発掘調査 した遺跡であ り、統一新羅 時 代 に創建 され、朝鮮 時代 まで修 理 を重 ね た寺 院であ る (東国大学校慶州キャンパス博物館

1994・ 2006)。 発掘調査の結果、『三国遺事』に記録 された 三千佛 として作 った導塔"34の

在 を立証す る塔導 と各種遺物が出上 した。報告書 に収録 された平瓦 は総105種類であ り、文 字瓦は大部分が高麗時代 に製作 されたが、主 に使用場所、吉祥句 などが記 されていた35。

文の内容としては、 「王浦寺金堂開造草

36」

、 「天下

(?)」

、 「天下

(?)+卍

」 、 「卍」、 「民

(P)貢87」

「田光月」、「天」、「○月」、「大天」、「田」、「止」、「草夫草」、「市陵旨草

38」

などが知られて いる。

ひとつの寺院で この ように多様 な種類 の瓦が出土 した事例 は、たいへん稀 な事例 だ とい える。錫杖寺l■で出土 した瓦 は、寺が創建 されて以来、高麗時代 まで法灯が維持 され なが ら長期 間建物の瓦 を葺 き替えていた可能性が高いが、発掘調査で確認 された建物の規模 を み ると、 この ような推定は成立 しない。 よって、錫杖寺 は創建以来、小規模 な寺院 と して 維持 されなが ら、必要 な瓦 を独 自に焼成 して使用 した とい うよりは、周辺 に位置 した王満 寺 と堀仏寺 (文化財研究所・慶州古跡発掘調査団1986)、 天龍寺 (日立慶州文化財研究所 1998)と 、 慶州南山に所在する トウムスコク瓦窯l■89で生産 された瓦 をは じめ としたさまざまな寺 院か

ら瓦の提供 を受 けていた可能性が高い と推定 され、交流瓦が使用 された代表的な事例 とい

える (対き遭2000)。 一方、慶州地域 で出土す る銘文瓦の中で、複数の遺跡か ら確認 され た

事例 を中心 として検討 したものが第5表である。

第5表で言及 した各種銘文瓦 と導が生産 された瓦窯は、慶州周辺地域で確認 されてい る。

その所在地 を詳細 に検討すれば、内南面 の望星里瓦窯 (叶尋号 1986)、 見谷面金丈里瓦 窯

(国立慶州博物館2000)、 見谷面多慶瓦窯 (瑠狙干 1983)、 排 盤洞の伝神文王陵東南方瓦 窯

218

王満寺 金堂開造草

(高)

王満寺址 錫杖寺址

草夫草

(高) 児 仏寺址 錫杖 寺址

安漠寺

(高) 安濃寺址 梨徳王陵前寺址 安康 亀 城 玉看 窯

(高)

悦廊 址 云 臨海殿 址 塾龍寺址 語廟 寺址4

東窯/ 東窯 官窯

(高麗〜朝鮮)

月城 伝 臨海殿址 皇龍寺址 輿輪寺址 普門寺址 新羅王京SlEl 西部洞19呑

普門寺址 東便 瓦窯址

,F徊右道 (高)

高仙寺址

責龍谷 表忠寺址 城東洞 天主教

会敷地 茶淵院

(高) 昌林寺址 富山城

参照

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