はじめに
1998年のインドの核実験によって冷却化した日印関係であったが、2000年 8
月に森喜朗首相が日本の首相としては
10
年ぶりにインドを訪問し、政治・経済関係の強化を目的とした「21世紀における日印グローバル・パートナーシップ」を発表したことを皮切りに、両国は 急速に接近し始めた。近年においては、2006年
12
月に二国間関係を政治・経済面および戦 略的な角度から強化し、包括的な協力関係の構築を目標とした「日印戦略的グローバル・パートナーシップに向けた共同声明」が締結された。さらに2007年
8月の安倍晋三首相の訪
印時には、「新次元における日印戦略的グローバル・パートナーシップのロードマップに関 する共同声明」が発表され、戦略的関係を具現化するための行程が示された。これら一連の共同声明は、一見して日印関係が順調に緊密化していることを印象づける。
しかし、両国がいくらパートナーシップを宣言したからといって、日印協力が自動的に進 展していくわけではない。事実、近年、同様に戦略的関係の構築を目指す印米・印中間の 関係が経済・安全保障の両面で急速に深化していくなかで、日印関係の動きは非常に低調 に映る。日印関係の進展にはどのような問題が立ちはだかっているのであろうか。両国が 戦略的パートナーシップを具体化することは可能なのであろうか。本稿は、日印両国が戦 略的関係を構築するうえで特に重要視している安全保障、経済、環境・エネルギー、対中 関係の各分野における二国間協力の現状を考察し、その問題点を明らかにしたうえで、今 後の日印関係の展望について考えるものである。
日印関係の現状
(1) 安全保障分野
冷戦終結後、アジア・太平洋地域においては域内諸国間の安全保障対話・交流が急激に 拡大したが、日印間では目立った動きはなかった。しかしながら2000年の森首相の訪印を きっかけに日印間の交流が活発化したことにより、両国関係を安全保障面からも強化して いこうとする機運が高まった。その結果、2005年に締結された「日印グローバル・パート ナーシップ強化のための
8項目の取組」において、日印両国は安全保障対話と交流を拡充す
ることで合意した(1)。さらに2007年に上記ロードマップに合意した際に両国は、シーレーン 防衛、国境を越える犯罪、テロ対策、海賊および大量破壊兵器の不拡散で利益を共有してYuzawa Takeshi
いることを確認し、これら領域において具体的な安全保障協力を推進していくことで合意 するに至った(2)。
日印安全保障協力の現状であるが、まず対話・交流レベルの活動をみてみると、両国は
2001年から外務当局が中心となって日印戦略対話を実施している。対話と人的交流をさら
に深化させるために、2007年からは年1回ペースで外相間戦略対話を、年2回のペースで外 務次官対話を新たに開始した。また防衛交流については、最近まで海上自衛隊とインド海 軍の間で艦艇の相互訪問が不定期に行なわれる以外、特に目立った活動はなかったが、2006 年にムカジー国防大臣が来日した際に、両国は二国間対話・交流を大幅に拡大することで 合意した(3)。その結果、現在において、防衛当局間における局長・審議官級の定期協議や次 官級の防衛政策対話、また陸海空の幕僚レベルにおける定期協議が実施されている(4)。対話・交流レベル以上の具体的な協力活動も徐々に進展している。そのなかでも最も顕 著な進展をみせているのは、海賊対策に関する二国間協力である。すでに
2000年から海上
保安庁とインド沿岸警備隊との間で双方の巡視船による海賊対策連携訓練が毎年実施され ている。訓練の内容は、海賊被害船に両隊の特殊部隊員が侵入し海賊を制圧するといった 実践的なものとなっている(5)。また大量破壊兵器の不拡散に関する協力活動については、日 印間という形ではまだ実施されていないものの、2007年4月にインド海軍艦艇が横須賀を訪 問した際に、米海軍も加わり日米印3ヵ国合同で基礎的な共同訓練
(通信訓練や物質補給や文 書受け渡しのために艦船同士を接近させる近接運動など)が行なわれた(6)。このように日印両国の安全保障協力は徐々に進展し始めている。しかしながら、両国の 安全保障協力を現行レベル以上に発展させるのは容易ではない。その主な理由としては、
日本の軍事活動に対する憲法上の制約が挙げられる。例えば、大量破壊兵器の拡散防止に 関する活動であるが、現行法ではたとえ海上自衛隊が核兵器関連物質を積んでいるおそれ のある不審船をみつけても、防衛出動や海上警備行動などが発令された有事の時以外はそ の船を臨検することはできない。また仮に核関連物質を押収しても、それを処理できる法 律が日本には存在しない(7)。したがって、平時において日印の艦船が共同でパトロールを行 ない、不審船を臨検するというシナリオは到底考えることはできないため、この分野にお いて両国が意義ある協力活動を実施することは困難である。
また、海賊や海上テロを取り締まる活動にも法的制約がある。国際法上では、海上保安 庁はたとえ公海上であっても日本領海内にいるのと同様に武器使用を含む海賊取り締まり 活動を行なうことができることになっている。しかし、実際には海賊を取り締まるための 国内法が日本には存在しないため、たとえ海上保安庁の巡視船が公海上で海賊行為を働い た外国籍船を発見したとしても、当該船に対して実力行使を伴った取り締まり活動を行な うことができないのが現状である(8)。したがって、この分野においても日印両国が実効性の ある協力を推進することは難しいであろう。
インドは米国とマラッカ海峡での対テロ共同パトロール、またロシアや中国とは対テロ 合同軍事演習を実施するなど(9)、近年、インドと米中ロといった大国との安全保障協力は急 速に深化している。インドは日本とも、特にインド洋のシーレーン防衛に関して具体的な
協力を推進したいとの期待を表明しているが、日本の対海賊や対海上テロ政策に対する法 的制約の存在を知っているため、実際のところ日印安全保障協力に対するインドの期待値 は低い(10)。今後、日印間の安全保障対話・交流はますます活発化するであろうが、日本側 に上記の法的制約がある限り両国の安全保障協力が交流レベル以上に発展する可能性は低 いと言える。
(2) 経済分野
1991年の経済改革以降、急速な経済成長を遂げ、海外からの投資が加速するインドであ
るが、日印の経済関係は長年停滞状態が続き、最近まで特に進展の兆しはなかった。1997 年の時点で日本は、インドの貿易総額からみて第3位の位置を占めていたが、その後日印貿
易は伸び悩み、2006年には10
位にまで後退した(11)。一方、その間印中・印米間貿易は順調 に拡大し、日印貿易は大きな差をつけられることとなった。例えば、2007年の日印間の貿 易額は約100
億ドルであったが、同年度の印米間では346
億ドル、印中間の貿易額は387億
ドルに上った。また2007年に日印両国は、2010年までに年間貿易総額を 200
億ドルまでに 上げるという目標設定をしたのに対し、2008年1
月にシン = インド首相が訪中した際に印中 両国は、2010年の目標貿易額を600億ドルに設定するなど(12)、日印の経済関係は印中・印米 と比較して明らかに出遅れている。日印の経済関係が低水準にとどまっている大きな理由は、日本の対印直接投資が伸び悩 んだことが挙げられる。インド国内のインフラストラクチュアや法制度の未整備、硬直的 な労働法、外資規制などにより、日本企業の大半は対印投資にいまだ消極的である。特に 慢性的な電力不足や輸出に必要不可欠な港湾施設の不備といったインフラの問題は、日本 企業のインド進出の大きな足かせとなっている。しかしながらその一方で、欧米や東アジ ア諸国の一部は、上記の問題があるにもかかわらず、積極的にインドに進出していった。
コスト削減や生産性向上のため、多くの米国企業がインドで情報技術(IT)アウトソーシン グや研究開発(R&D)を展開し、また韓国やシンガポールの企業は家電やインフラ整備の分 野における直接投資でプレゼンスを高めている(13)。インドに進出している中国系企業の数は いまだ少ないものの、IT企業を中心とした
60
社以上のインド企業が中国に進出するなど、印中の経済関係は質的にも深化し始めている。
このように印米・印中の経済関係と比較して動きが鈍い日印の経済関係であるが、最近 になって進展の兆しも見え始めている。前述のロードマップに関する共同宣言は、経済分 野において日印両国は主に二国間貿易の拡大、経済連携協定(EPA)、経済協力、インフラ 整備の分野で協力を推進していくとしているが(14)、各領域において進展の芽がみられる。
例えば、日本政府は、インド政府の要望に応じて、デリー―ムンバイ間産業大動脈構想(両 都市間に工業団地、貨物鉄道、港湾設備を建設)といったインフラ整備事業に円借款と民間の 直接投資合わせて約300億ドルの支援を行なうことを決定した(15)。インフラの整備が進めば、
日本企業の対印直接投資は、自動車産業だけでなく電子部品や産業機械といった産業にも 拡大していくであろう。すでにこの1―
2
年の間において、インドに進出した日本企業の数 は急増している。例えば、2007年6
月の時点で在印日系企業の数は約480社と依然として少ないものの、これは前年と比較して5割増であり、また現在確定しているだけでも、2010年 までに自動車産業を中心に55億ドル以上の対印投資が行なわれる予定である(16)。
また日印両国は
2007
年よりEPA
締結に向けて交渉を行なっているが、報道によれば、2008年 1
月に行なわれた第5回日印EPA
締結交渉で両国は、貿易量の90%に相当する物品で 関税撤廃を目指すことで合意したようである(17)。現在、インドの実効関税率は34.13%と先 進国と比較して高いが、部品輸出にかかる関税が撤廃・削減されれば、在印日系企業向け の日本からの部品輸出が大幅に増加するだけでなく、これまでインドとあまり縁がなかっ た日本の電機・電子産業がインドに進出することも予測される。またEPA締結により関税 撤廃だけでなく、サービス貿易の自由化が実現すれば、インドのIT
・ソフトウエア関連サ ービスの日本向け輸出も拡大することが見込まれる(18)。 現在の日印貿易は日本の財輸出が 一方的に増加していくといった不均衡な状態にあるため、将来的には両国間に貿易摩擦が 起こる懸念がある。しかし、インドのITサービスの対日輸出が拡大すれば、財貿易収支と サービス貿易収支が相殺されることによって貿易構造がよりバランスのとれたものになる ため、日印貿易はよりスムーズに拡大することが期待される(19)。関税の撤廃やサービス貿易 の自由化は、日印双方に懸念事項があるため、すぐには実現しないかもしれない(20)。しか し、消費市場・生産拠点としてのインドの将来性に対する日本企業の期待やインドの経済 成長に対する日本の直接投資の重要性を考えると、紆余曲折があるにせよ両国間の経済的 結びつきが今後強固なものになっていくことは間違いないであろう。(3) 環境・エネルギー分野
戦略的パートナーシップを構築するにあたり、日印両国が安全保障・経済とともに重要 視しているのが環境・エネルギー分野における協力の推進である。これは、2007年
8月に安
倍総理が訪印した際に両国が、戦略的パートナーシップのロードマップに関する宣言と並 行して「環境保護及びエネルギー安全保障における協力の強化に関する共同声明」を発表 したことにも表われている。当該声明は、日印両国が特に気候変動とエネルギー安全保障 の分野において、この先対話と協力を進めていくことを確認している(21)。しかし、経済成長 を最優先する発展途上国のインドと環境先進国を目指す日本が、これら分野で協力のパー トナーとなることは容易ではない。まず気候変動問題に関する協力であるが、温暖化対策で外交的イニシアティブを発揮し たい日本と、現在の高い経済成長率を維持するためエネルギー供給の大幅な増大を計画し ているインドとの間にはかなりの認識のずれがある。例えば、上記共同声明のなかでは日 本側が、「世界全体の排出量を現状に比して
2050
年までに半減するという長期目標を設定す る必要性」を強調しているのに対し、インド側は日本側の提案を評価する一方で、温暖化 と温室効果ガス排出の因果関係を主張する「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)の研 究報告に対して「多くの不確実な点が伴う」といった否定的な意見を述べるなど、日本の 立場とは一線を画している。また、最近の気候変動問題に関する国際会議においても、インドの非協力的な態度が目 立つ。例えば、2007年
12
月にバリで開催された気候変動枠組み条約第13
回締約国会議(COP13)においてインド代表は、新たな枠組み策定へのロードマップの最終案に途上国に 排出削減努力を求めた文言が挿入されていることを知ると、それを削除するよう強硬に主 張し、文言を曖昧な形に書き換えさせた(22)。また2008年1月にシン首相が訪中した際にイン ドと中国は、途上国が温室効果ガスの削減義務を負わされることに共に反対していくこと で合意するなど(23)、ガス排出削減への圧力に対して共闘していく姿勢をみせている。
インド政府が
2006年に発表したエネルギー政策に関するリポートは、現在の経済成長率
を2030年頃まで維持するためには、エネルギー供給量を2003
年度の3
―4倍に、発電量を 5
―6倍に増大させる必要があると主張しているが(24)、このようなエネルギー計画を有してい るインドがガス排出問題で大幅に譲歩する可能性は低い。このように気候変動問題に関し てだけ言えば、インドは日本にとって協力のパートナーになるどころか日本のイニシアテ ィブを妨害しかねない存在であり、そもそも温暖化政策において日印両国が本当に利益を 共有しているのか疑わしいものがある。
次にエネルギー安全保障の分野であるが、上記共同声明によれば日印両国は、主に省エ ネ、エネルギー効率、クリーンエネルギーに関して協力を推進するとしている(25)。エネルギ ー需要の急速な拡大が見込まれ、なおかつ先進国と比較してエネルギー効率が極度に悪い
(日本の
9
分の1)インドにとって省エネの促進は急務であり、インド政府も2001
年に省エネ ルギー法を制定し工業生産に関するエネルギー使用基準を制定するなど、国家的に省エネ を推進し始めた。したがって、優れた省エネ技術をもつ日本とインドの間には具体的な協 力の可能性が広がっている。日印間では、2007年からエネルギー分野における二国間協力 を促進するための定期対話を行なっており、これまで省エネ技術に関する日本人専門家の インドへの派遣やインド人研修生の日本への受け入れ、選炭技術の供与などで合意してい る(26)。しかしながら、エネルギー分野における日印協力にも問題がある。主な問題の一つとし ては、インドの省エネ政策の曖昧さが挙げられる。確かにインドの省エネに対する関心は 高まってきてはいるが、インド政府は、経済成長の足かせになるとの懸念から温室効果ガ スの排出削減と同様に省エネを義務化されることには強い抵抗感を示している。昨年11月 の東アジア・サミットでは、「2030年までに域内のエネルギー利用効率を
25%改善する」と
の数値目標が合意される予定であったが、インドは数値目標の導入に強硬に反対し、「エネ ルギー効率を大幅に改善する」といった曖昧な取り決めに後退させるなど(27)、インドがど こまで本気で省エネに取り組むかは未知数である。またインドが省エネ率を大幅に高める には、日本をはじめとする先進国からインドへの技術移転が不可欠であると考えられてい るが、日本の産業界は知的財産権の問題から途上国への技術移転に対しては抵抗感をもっ ているため、移転がスムーズに実施されない可能性もある(28)。(4) 対中関係
中国の台頭にいかに対処していくかといった問題は、日印両国の共通の関心事項である。
印中関係は、1962年の国境紛争以降長い間冷却状態が続いていたが、1980年末以降から 徐々に改善し、近年においては戦略的パートナーシップを結ぶまでに至った。しかしなが
ら、インドは、中国の軍拡やパキスタンとの核協力、またインド洋への進出といった動き に警戒心を顕わにするなど、いまだ中国に対して不信感を抱いている(29)。一方、近年日中関 係は改善への方向に向かっているものの、日本も経済・軍事面における中国の急速な台頭 には漠然とした不安をもっている。
このような中国の台頭に対する日印両国の共通の懸念は、2000年以降両国が接近した重 要な要因の一つであると言われている。特に近年日本国内では、小泉純一郎政権下におけ る日中関係の極度の冷却化を受けてか、米国とだけではなく同じ民主主義国家であるイン ドやオーストラリアとの連携を強化して中国の軍拡を牽制すべきであるとの議論が起こり、
日本の外交戦略におけるインドの存在感が急速に高まった。安倍前首相が提唱した「日米 豪印4ヵ国」の戦略対話の設立は、そのような日本の議論を反映したものであるとされてい る(30)。
確かに中国とライバル関係にあり、なおかつ民主主義国家であるという点で親近感のあ るインドは、中国に対してパワー・バランスを形成するにあたり最適な国家に映る。しか しながら、実際に対中バランスという観点でインドが日本や米国と戦略的同盟関係を結ぶ 可能性は低いと言える。その主な理由の一つとしては、インドの「自主独立外交」への執 着が挙げられる。冷戦期を通じてソ連と特殊な関係を結びつつも非同盟国家の盟主を自認 してきたインドには、伝統的に自主独立を維持することへの強いこだわりがある。冷戦が 終結し、ソ連の崩壊と経済危機という二つの問題に直面したインドは、その苦境から脱す るため、非同盟主義という理念よりも冷徹に国益を追求する現実主義的な外交政策をより 重視するようになった(31)。冷戦期に反米路線を貫いてきたインドが、冷戦後に貿易や投資 の促進のため米国に急接近したのはその良い例である。
しかしインドは、国益の観点から政策イシューごとに最大限の利益を得ることができる 国家と連携しつつも、自主独立を維持するために特定の国とだけ緊密な関係にならないよ う全方位的な外交を展開している。例えば、近年、インドは印米民生用原子力協定に代表 されるように米国と密接な関係を構築し、また日米印や日米豪印といった「中国包囲網」
ととられかねない形での合同軍事演習にも参加するなど、中国を牽制するための民主国家 の連携というアイデアに一定の関心を示しているようにみえる。しかしその一方で、イン ドは、中国やロシアとも戦略的パートナーシップ関係を結び、広範囲な分野で協力関係を 構築するだけでなく、反米傾向を強めていると指摘される上海協力機構(SCO)にオブザー バー参加するなど、逆に中ロとともに「米国の一極支配」を牽制するような動きもみせて いる(32)。
インド国内においても米国や日本と連携を強化して中国に対抗していくべきであるとい う議論は存在している。しかし、それらの主張は政策立案者および学者などを含めたイン ドの外交政策コミュニティーのなかで主流派を形成しているわけではない(33)。また最近で は、30年後にアジアの地域秩序の基盤となるのは印中の協調関係であるといった主張が、
インドの政策コミュニティーのなかから聞かれるようになるなど、米国や日本と連携して 対中バランスを構築すべきという意見はこれからも少数派であり続ける可能性が高い(34)。
インドの対中警戒心は簡単に消え去るものではない。しかし、実際に印中関係が着実な進 展をみせるなかで、印中関係が極度に悪化するということでもない限り、対中牽制という 観点でインドが日本と本気で協力を推進していくことはないであろう。
今後の展望
国際政治のなかでは、国家間の協力を促進させるため二国間・多国間を問わずさまざま な形の協力の枠組みが設立される。しかし多くの場合、枠組みの設定よりもむしろそれを 実行することのほうが困難である。日印両国が結んだ「戦略的グローバル・パートナーシ ップ」もその例外ではない。
本稿でみてきたように、日印両国は、戦略的パートナーシップ構築という取り組みのな かで、主に二つの問題に直面している。第一の問題は、いくつかの主要協力分野における 共通利益の不在、もしくは利益共有度の低さである。「戦略的パートナーシップ」とは共通 の戦略的利益をもつ国との関係を深化させるときに使用するフレーズであるとされている が(35)、この定義では双方が協力を推進していくと定めた分野においては、当然ながらその 前提条件として共通の利益が存在していることになる。しかしながら、実際に日印両国は、
すべての主要分野において利益を共有しているわけではない。前述のように、気候変動問 題に対する日印両国の認識には根本的な違いがある。また対中関係の分野においても、両 国は中国の台頭に対する懸念を共有してはいるが、この問題に関して具体的に協力を推進 できるほど深いレベルで認識・見解が共有されているわけではない。
第二の問題は、日印協力には実務レベルにおいてさまざまな障害があるということであ る。日印両国は、安全保障分野においてシーレーン防衛や大量破壊兵器の不拡散など幅広 い利益を共有している。しかし、日本の軍事活動に対する法的制約により、両国間で基礎 レベル以上の安全保障協力を実施することは難しい。また、経済、省エネ分野においても、
インドのインフラ事情や技術移転に伴う弊害などの障害があるため、実際に二国間協力を 推進させるのは容易ではない。このように、共通の利益が存在しているからといって、そ の分野において二国間協力が順調に進展していくわけではない。これら問題の存在を考え ると、日印両国が、安全保障・経済・環境・エネルギーなどすべての分野を含んだ包括的 な戦略的パートナーシップを構築するのは――少なくとも短期的には――難しいと言える だろう。
最後に、この連載シリーズの主要テーマである「インドの台頭とそのアジア地域秩序へ の影響」という問いに関連づけて、今後の日印関係の在り方について考えてみたい。最近 のインドの外交スタイルを考えると、インドの台頭はアジア地域秩序の不安定要因になり かねない側面がある。近年、インドの外交政策コミュニティーのなかからは、インドは台 頭する大国としてアジア地域や国際社会の平和と安定に積極的に寄与していくとの声がよ く聞かれる(36)。しかし、実際にインドがそのような役割を果たしていくことができるのかに ついては疑問がある。なぜならインドは、主要な国際問題に関する協力の枠組み作りにお いて、国の規模や潜在的国力がもつ影響力に見合った役割を果たしているとは言い難いか
らである。例えばインドは、前述のように気候変動問題では中国と、核開発では米国と、
といったように分野ごとに自国が最大限の利益を引き出すことができる国家と連携し、ど の分野においても妥協や譲歩をほとんどしない傾向がみられる。特に気候変動、エネルギ ー安全保障、核不拡散の分野において、インドは当事者であるにもかかわらず「責任ある 利害関係者」としての意識が低く、これら問題に関する国際秩序形成への取り組みに建設 的に協力しているとは言えない(37)。
このような状況において国際社会が期待する日印の協力関係とは、日本がインドを国際 社会のなかで「責任ある利害関係者」として行動できるよう促していくことであろう。日 本がこのような役割を果たすためには、まず可能な分野において二国間協力を重点的に強 化し、インドに対する日本の影響力を増大させる必要がある。日印関係のなかで今後最も 進展が期待できるのは経済分野である。経済分野においても、上記のようにインドのイン フラ整備やEPA締結など乗り越えなければならない問題はある。しかし、これらは解決可 能な問題であり、そのための二国間協力もすでに始まっている。特にインフラの整備はイ ンドにとって最優先事項であり、インド政府はインフラ事業に対する日本からの政府開発 援助(ODA)や民間投資の増大を切望している。
インフラ事業への投資は、インフラ整備が日本の対印投資を加速させるという意味で、
インド経済だけでなく長期的には日本経済にも大きな恩恵をもたらす。日本はODA(イン ドは日本の
ODAの最大の受給国である)
、直接投資、技術移転といった外交カードを積極的に 活用し、経済分野におけるインドの対日依存度を深化させ日本の影響力を高めたうえで、気候変動や核問題に関する多国間協力の枠組みへのインドの建設的な参加を慫慂していく べきである。このような日本のイニシアティブは、単に環境・エネルギー問題などに対す るインドの政策変化を促すというだけでなく、これら分野における日印両国の認識と利益 の共有化につながるという点において、長期的には両国間の包括的な戦略的パートナーシ ップの醸成に資するものになるだろう。
(1)「日印グローバル・パートナーシップ強化のための8項目の取組」、2005年4月24日。
(2)「新次元における日印戦略的グローバル・パートナーシップのロードマップに関する共同声明」、 2007年8月22日。
(3)「日印防衛首脳会談共同発表」、2006年5月25日。
(4)『日本の防衛』平成18年度版、257ページ。
(5) 海上保安庁「海上保安庁及びインド沿岸警備隊との海賊対策連携訓練の実施について」、2002年 11月2日。
(6)『読売新聞』2007年4月17日(2面)。
(7)『読売新聞』2007年11月15日(1面)。
(8) 秋山昌廣「インド洋の海洋安全保障と日印協力の展開」『国際安全保障』第35巻第2号(2007年
9月)、71ページ。
(9) “Military Exercise bring India, China closer,”Christian Science Monitor, December 26, 2007, p. 6.
(10) 国際会議におけるインド側出席者の発言、第2回日米印会議、2008年2月18日、東京。Lalit Mansingh, “India-Japan Relations,” Institute of Peace and Conflict Studies, Issue Brief, No. 43, January 2007,
pp. 1–4.
(11) 小島眞「東アジアに接近するインド経済」、浦田秀次郎・深川由起子編『経済共同体への展望
―東アジア共同体の構築(第2巻)』、岩波書店、2007年、319ページ。
(12)『読売新聞』2008年1月15日(6面)。
(13) 小島眞「待たれる日印経済関係の飛躍」『海外事情』第54巻10号(2006年10月)、26ページ。
(14)「新次元における日印戦略的グローバル・パートナーシップのロードマップに関する共同声明」、 2008年8月22日。
(15)「日印戦略的グローバル・パートナーシップに向けた共同声明」、2006年12月15日(『日本経済新 聞』2007年6月22日〔5面〕)。
(16) 在インド日本国大使館「急速に拡大する日印経済関係Ⅱ」、2007年4月(http://www.in.emb-japan.
go.jp/Japan-India-Relations/JapanActiveEngagement2007-j.html)。
(17)『日本経済新聞』2008年1月12日(5面)。
(18) 現在、インドのITサービス輸出量における日本のシェアは約3%でしかない。堀本武功『インド
―グローバル化する巨像』、岩波書店、2007年、91ページ。
(19) 日本政策投資銀行「期待されるインドとの相互補完関係の構築(1)」、2007年10月31日(http://
www.dbj.go.jp/japanese/download/pdf/indicate/no112.pdf)。
(20) インドは、日本から工業製品を輸入すると国内製造業が大打撃を受けるとの懸念から関税の早期 撤廃には同意しないことが予想され、また日本側も、IT関連のインド人労働者の大量受け入れに は難色を示している。
(21)「環境保護及びエネルギー安全保障における協力の強化に関する日印共同声明」、2008年8月22日。
(22)『読売新聞』2007年12月16日(1面)。
(23)『読売新聞』2008年1月15日(7面)。
(24) Government of India Planning Commission, Integrated Energy Policy, August 2006, p. 8.
(25)「環境保護及びエネルギー安全保障における協力の強化に関する日印共同声明」、2008年8月22日。
(26)「第2回日印エネルギー対話に係る日本国経済産業省とインド計画委員会との間の共同声明」、
2007年7月2日。
(27)『読売新聞』2007年11月22日(9面)。
(28)『日本経済新聞』2007年12月20日(4面)。
(29) 印中関係の現状と今後の展望については、堀本武功「印中関係の現状と展望」『国際問題』第 568号(2008年1・2月)、広瀬崇子「『印中接近』の要因と限界」『海外事情』第53巻第10号
(2005年10月)。
(30)『日本経済新聞』2008年2月16日(2面)。
(31) 冷戦後のインド外交・安全保障政策については、A. Z. Hilali, “India’s strategic thinking and its national security policy,” Asian Survey, Vol. 41, No. 5, 2001, pp. 737–764. 伊藤融「インド外交のリアリズム」『国 際政治』第136号(2004年3月)。James Chiriyankandathr, “Realigning India: Indian Foreign Policy after the Cold War,” The Round Table, Vol. 93, No. 374, pp. 199–211, April 2004. 堀本武功『インド―グロー バル化する巨像』。
(32) “India to play active role in Shanghai group,” The Hindu, October 27, 2005.
(33) Deepa Ollapally, “US-India relations: Ties that bind?” The Sigur Center Asia Papers, No. 22, the George Washington University, pp. 12–13. 国際会議におけるインド人出席者の発言、The seminar of Asia Security Dynamics, 2007年11月22―23日、ニューデリー。
(34) 国際会議におけるインド人出席者の発言、第1回日米印会議、2007年6月28―29日、ワシントン D.C.;The seminar of Asia Security Dynamics, 2007年11月22―23日。
(35)『読売新聞』2007年2月11日(4面)。
(36) Manmohan Singh, “India: The Next Global Superpower?” Prime Minister’s speech at the HT Leadership Summit, New Delhi, November 17, 2006(http://pmindia.nic.in/speeches.htm). Raja C. Mohan, “India and the balance of power,” Foreign Affairs, Vol. 85, No. 4,(Jul/Aug 2006), p. 17–32.
(37) Xenia Dormandy, “Is India, or will it be, a responsible international stakeholder?” The Washington Quarterly, Vol. 30, No. 3, 2007, pp. 117–130.
[付記]本稿執筆に際して、堀本武功尚美学園大学教授、伊藤融島根大学准教授より貴重なご指摘、ご 助言をいただいた。ここに謝辞を記す。
「連載講座:インドの台頭とアジア地域秩序の展望」
第1回 成長するインド― 外交政策の再定義(2007年12月号)
D・スバ・チャンドラン/レカ・チャクラバルティ(平和研究所〔ニューデリー〕) 第2回 印中関係の現状と展望(2008年1・2月合併号)
堀本武功(尚美学園大学教授)
第3回 印米関係における継続と変化(2008年3月号)
サトゥ・P・リメイエ(イースト・ウェスト・センター〔ワシントン〕)
第4回 インドの核政策の現状と展望―「核兵器国」容認の国際潮流形成過程(2008年4月号)
伊藤 融(島根大学准教授)
ゆざわ・たけし 日本国際問題研究所研究員 [email protected]