はじめに
安全保障をめぐる空間概念は、国家の置かれた戦略的環境、国家が直面する脅威の性質、
その脅威に対抗する政策手段と能力、同盟やパートナーシップ関係、望ましい安全保障環境 のあり方をめぐる認識など、複合的な要素によって形成される。伝統的な勢力均衡(バラン ス・オブ・パワー)学派は、国家間の力(パワー)の分布とその変化を基本的な与件として、
パワーの均衡化(バランシング)と台頭するパワーへの恭順(バンドワゴン)を含むさまざま な国家行動や国家間連携が生じる空間を概念の基礎に置く(1)。
また安全保障研究の理論的検討の一学派であるコペンハーゲン学派は、かつて「地域安全 保障複合体(Regional Security Complex)」という概念を提起し、安全保障上の競争や利益を共 有する相互依存関係がある地域サブシステムの重要性を唱えた(2)。こうした機能的な関係こ そが安全保障における地域を規定し、そして関係の変化が時代とともに地域を変化させたと 捉える。
21
世紀初頭に台頭した「インド太平洋」が安全保障領域でいかなる空間として形成される かは、上記の枠組みに従えば、パワー分布の変化のダイナミクスに対し、インド太平洋域内 を中心とした国家行動とその相互作用のパターンが、どれだけ公式・非公式に定型化するか にかかっている。それは1980年代に興隆し定着していった「アジア太平洋」の安全保障との 対比において、インド太平洋がいかなる地域として台頭するかということでもある(3)。かつて筆者らはアジア太平洋地域の安全保障を「アーキテクチャー」として捉える重要性 を唱えた(4)。アジア太平洋における地域安全保障アーキテクチャーを「アジア太平洋地域に おける力の配分を基本的な構成要素とし、域内の安全保障上の関心を共有する主体の間で、
明確な政策目標を実現するために形成された、同盟、機能的協力、全域的協力の相互関係か らなる全体構造」と暫定的に定義した。アジア太平洋には、①米国の二国間同盟とそのネッ トワーク化(第
1
層)、②問題領域別に形成されたアドホックな協力(第2
層)、および③全域 的な地域安全保障協力(第3
層)の3
つのレイヤーがあり、この3つの動向を分析概念としな がら、それぞれの相互関係を捉えることが重要だと考えたからである(5)。このアーキテクチャー論をインド太平洋にあてはめると、第1層の米国の同盟関係がイン ド太平洋全域に制度的に拡大していくという動向は直ちに見出すことはできない。また第3
〔ARF〕や拡大ASEAN国防相会議〔ADMM+〕)について、インド(ARFと
ADMM
+)、パキス タン、スリランカ(以上ARF)
など南アジア諸国が参加していることから、すでに実態とし てのインド太平洋の地域協力枠組みが準備されていたとみることもできる。しかし、ここで も「インド太平洋」の全域的枠組みとして安全保障協力を制度化する(例えばADMM+とARFの参加国を同一化する)
べきという域内諸国のコンセンサスがあるわけではない。インド太平洋で展開されている安全保障協力の中核にあるのは、米国の同盟・パートナー シップ関係の活動の地域的展開(第1層)と、インド太平洋域内諸国の二国間・多国間での非 制度的・アドホックな協力の拡大(第
2
層)とみるべきだろう。海洋安全保障、能力構築(キ ャパシティービルディング)支援、防衛装備・技術協力をめぐる各国の共同訓練・演習や、ハ イレベル交流・軍種間交流が活発に展開され、徐々に定例化・制度化が進んでいることが、インド太平洋の安全保障協力の現地点と言える。
今後、インド太平洋が地域安全保障の重心を確立するかどうかは、依然として慎重に検討 されなければならない(6)。パワー分布のダイナミックな変化のなかで、米国のインド太平洋 でのプレゼンスが今後も維持されるのか、中国が秩序変革プレーヤーとして地域に緊張を強 いるのか、域内のプレーヤーは米中二大パワーの間で戦略空間を機会主義的に拡大するのか、
それともバランシング・バンドワゴニングの二者択一を迫られるのか。インド太平洋の安全 保障の将来は、以上のような多くの変数に委ねられている。
1
戦略空間として収斂するインド太平洋インド太平洋の安全保障の将来の姿には不確実性があるものの、2010年代後半から「イン ド太平洋」が地政学(ジオポリティクス)と地経学(ジオエコノミクス)を跨ぐ戦略空間とし て明示的に浮上し、主要プレーヤーの間でその認識の収斂が起こりつつあることは見逃すこ とはできない(7)。
米国防省が発表した『インド太平洋戦略報告』(2019年
6
月)は、インド太平洋が米国の将 来にとり「最も重要な地域(most consequential theater)」であり、米国防省にとっても「第一義 的戦域(primary theater)」だと位置付けている(8)。かつて1990年代に同省が発表した『東アジ ア戦略報告』が、アジア太平洋地域における同盟関係に対する関与を確認し、パートナーシ ップ関係を拡大するという方針であったことを回顧すれば、10年以上を経て発表された米国 防省の地域戦略が「インド太平洋」へと地理概念を拡大したことは宣言政策(declaratory pol-icy)
として示唆的である。もっとも、米国にとり太平洋とインド洋をつなぐ広域地域としての「インド太平洋」は、
決して新しい概念ではない。例えば米軍のなかで統合軍として最も古い歴史をもつ太平洋軍
(Pacific Command)は、英国の「スエズ以東からの撤退」を補うように、すでに
1970年代には
太平洋・インド洋の全域とアフリカ東海岸を広域に含む責任区域(AOR)を設定していた(9)。 米国にとり戦略的重要性を増す東アジアと中東地域をつなぐ海上交通路の安全を担保し、同 域内諸国との同盟・パートナーシップ関係を強化することこそ、広域の安全保障秩序の基盤来歴と実態の反映と言える。
インド太平洋が台頭したもうひとつの契機は、日本政府が提起した「自由で開かれたイン ド太平洋」構想である。日本の主導した概念は、「2つの大陸」(アジアとアフリカ)および「2 つの大洋」(太平洋とインド洋)の交わりを地理的範囲に据えながら、基本原則の推進(法の 支配、航行の自由、自由貿易等の定着と普及)および経済的な繁栄の追求(物理的連結性、人的 連結性、制度的連結性)が掲げられ、平和と安定の確保については特に能力構築支援と人道支 援・災害救援(HA/DR)分野を推進することが謳われた(10)。こうした方針は、2018年
12月に
発表された「防衛計画の大綱」に引き継がれ、同大綱ではインド太平洋地域における多層 的・多角的な安全保障協力や海洋秩序の安定の重要性を謳っている(11)。日本にとってのインド太平洋も、まとまりをもった地域概念として提示される以前から、
戦略的重要性の高い地理空間だった。ホルムズ海峡からマラッカ海峡に至るアラビア海・イ ンド洋・ベンガル湾は、中東から日本に原油を供給する死活的な海上交通路となった。エネ ルギー輸入と石油自主開発でサウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)、イラン等と依存関 係を深めた日本は、冷戦期のアラブ諸国との関係で欧米諸国と一線を画する外交関係を形成 するに至る。
また、1985年のプラザ合意以降の日本企業の海外直接投資と生産拠点の海外移転は、特に 東南アジア諸国に原材料・中間財・最終財の生産ネットワークを重層的に形成した。さらに、
日本の政府開発援助(ODA)やインフラ建設支援は、東西経済回廊・南部経済回廊を核とす るASEANの連結性、インドやスリランカへの支援を通じた南西アジアの連結性に寄与して きた。日本政府の提示するインド太平洋構想が、日本がこれまで主導した既存プロジェクト の集合体として表現されていることも注目すべき点である。
インド太平洋戦略を中堅国家(ミドルパワー)として早くから牽引したのはオーストラリア だった。2010年代の初頭からオーストラリアの国防白書は、インド太平洋が「単一の戦略的 弧」として外交・防衛分野でも重要性を高めていることを指摘していた(12)。伝統的な米豪同 盟関係、東南アジアや南太平洋に跨る周辺外交、英連邦(コモンウェルス)の一員としての外 交基軸は、グローバルなパワーバランスの変化によって重要性を増した中国とインドの台頭 に大きく影響されるようになった。そして、南半球で太平洋とインド洋に面する地政学的位 置付けから、オーストラリアは海洋秩序の安定、外交・防衛協力関係の拡充という視点から、
インド太平洋概念を確立していった(13)。
インドは冷戦後初期の段階で「ルック・イースト」政策を展開し、インド洋と太平洋の経 済と安全保障の連結性を重視する考え方を契機としながら、徐々にインド太平洋を政策概念 として普及させていった。インドもまた中国の地政学的台頭に直面しながら、インド洋の海 洋秩序の維持と、ASEANを中心とする地域秩序への積極的な関与を展開した(14)。前者におい ては、インド海軍の強化はもとより、インド洋島嶼諸国に対して能力構築支援、多国間の海 軍共同訓練を拡充している。また後者について、地域枠組みにおける「ASEANの中心性」を 尊重しながら外交関係を発展させ、とりわけインドネシア、シンガポール、ベトナムとの安
インド太平洋構想の台頭は、欧州各国にも地域的関与の新たな磁場をもたらした。フラン スは2019年
6
月に「フランスとインド太平洋における安全保障」という政策文書を発表し、インド太平洋に海外領土と広大な排他的経済水域(EEZ)を有し、地域の安全保障と地域諸 国の戦略的自主性の強化を図るとしている(15)。また、英国も5ヵ国防衛取極(FPDA:英国、
オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、マレーシア)によるコモンウェルス諸国間 との安全保障上の連携を保ちつつ、インド洋・マラッカ海峡・南シナ海への海軍艦艇の派遣 や共同演習の機会を増加させている。
そしてASEANも、2019年
6月の首脳会議で「インド太平洋に関する ASEAN
の展望(out-look)
」を発表した(16)。紆余曲折を経て採択されたASEAN
の「展望」は、インド太平洋の連 結性・包摂性を重視し、大国間対立の抑制を唱え、自らの中心性と仲介者としての戦略的役 割を重視する内容となった。海洋協力の項目では、安全保障、航行・航空の自由の確保にも 言及した。そのためにASEAN
が主導する多国間枠組みの重要性を確認し、インド洋広域に 展開する新たな枠組みを老獪に取り込もうとする。以上の展開は、2000年代から
2010
年代にかけて「インド太平洋」が、多くの関係国から安 全保障の空間概念として提起され、徐々に政策概念として普及していく過程を示したもので ある。もっとも、各国が「インド太平洋」という概念に込めた地理的範囲、政策上の優先順 位、競合・協力関係の位置付けには、多くの差異が認められる。インド太平洋がもっぱら台 頭する国家(=中国)と競合する地域と捉え、排他的に結束することで均衡(バランシング)を図る政策をとるか、もしくは競合を回避するための開放的・包摂的・非排他的な地域とし て位置付けるか、「インド太平洋」に込められた戦略性については多様な論理が依然として並 存しているからである。
2
インド太平洋におけるパワーバランスと安全保障協力の変化(1) インド太平洋におけるパワーバランスの推移
インド太平洋を勢力均衡の観点から眺めた場合、分析の前提となるのは主要プレーヤー間 のパワーバランスの変化である(17)。第
1
表は国際通貨基金(IMF)の「世界経済見通し」レポ ートと各種長期見通しを参照しながら、2010年から2030年の20年間の名目国内総生産(GDP)第 1 表 米・中・印・ASEAN・日・豪の名目GDP推移
2010年 2015年 2020年
(予測値)
2025年
(予測値)
2030年
(予測値)
中 国 6,066.35 11,226.19 15,461.96 23,050.77 33,184.81
米 国 14,992.05 18,219.30 22,289.31 25,823.48 29,402.65
インド 1,708.46 2,102.39 3,258.88 5,314.75 9,052.90
ASEAN6 1,900.17 2,352.06 3,186.66 4,788.31 8,156.55
日 本 5,700.10 4,394.98 5,371.69 6,101.80 6,413.06
オーストラリア 1,249.58 1,232.91 1,541.44 2,001.03 2,627.68
(単位 10億ドル)
の指標・予測値を示したものである(18)。経済的パワーの指標としての名目GDP(米ドル)で は、米中両国が2大強国となる趨勢に変化はない。米国が現状並みの経済成長を維持し、中 国の実質成長率が5%(2020年代前半)、3.5%(2020年代後半)に減速すると仮定しても、2020 年代後半に名目GDPにおいて中国が米国を追い抜く可能性は依然として高い。
さらに注目すべきは、米中以外のアクター(とりわけインドと
ASEAN)
の経済力がインド 太平洋地域で重要な位置を占めると予測されることである。米国・日本・インド・ASEAN・オーストラリアを足し合わせたGDPの値は、2030年の推計値においても中国をはるかに凌駕 する。インド太平洋のパワーバランスの変化は、中国の台頭と米国の経済力のウエイトの低 下という主旋律のほかに、多くのミドルパワーの戦略的重要さの増大をもたらすことになる。
第2表はストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の国防支出データベースを基礎に、名目
GDP
の予測値に国防費の対GDP
比を掛け合わせ試算したものである。米国は2010年には比 類なき圧倒的な国防費を誇っていたが、「財政の壁」に直面したオバマ政権は国防費の大幅減 額を余儀なくされた。米国防費の対GDP比はイラク・アフガニスタン戦争経費を含めた4.7%
(2010会計年度)から、3.1%(2017会計年度)まで縮小した。現在のトランプ政権は強いアメ リカと国防力再建を掲げて国防予算を大幅に増額する方針を打ち出しているが、第2表では
2030年までの平均で同値が3.3%
まで回復すると想定し試算している。SIPRIの統計では中国の国防支出の対GDP
比は過去10年間、約1.9%で安定的に推移してい
る(SIPRIは中国の国家統計に独自の計算式を付加し、国際標準化された国防費の実態に近づけよ うとしている)。第2表では 2030
年まで中国の国防費が1.9%水準を継続した場合を前提として いる。またインド、ASEAN、日本、オーストラリアはそれぞれ過去10
年の平均値として算 出している。第2表にみるとおり、米国の軍事力の優位性は揺るがないが、2020年代後半にかけて中国 が米国の戦略的競争者として遜色のない規模の軍事大国となることはほぼ確実となる。また インドの国防費はすでに日本の防衛費を上回り、今後も急速に拡大するとみられるほか、
ASEANの国防費の総和もまもなく日本の防衛費を上回る見通しとなっている。
マクロ趨勢でみた場合のインド太平洋地域のパワーバランスの特徴は、米国の優位が相対
第 2 表 米・中・印・ASEAN・日・豪の国防費推移
2010年 2015年 2020年
(予測値)
2025年
(予測値)
2030年
(予測値)
米 国 698,180 596,104 735,547 852,175 970,287
中 国 115,712 214,093 293,777 437,965 630,511
インド 46,090 51,295 84,731 138,184 235,375
ASEAN6 30,145 36,923 47,671 69,728 114,468
日 本 45,595 46,754 53,717 61,018 64,131
オーストラリア 23,217 24,045 28,517 37,019 48,612
(単位 100万ドル)
(注) 2020年以降は米国(3.3%)、中国(1.9%)、インド(2.6%)、ASEAN(1.4%)、日本(1.0%)、オーストラリア
(1.85%)として試算した。
的に揺らぎ、中国が急速に台頭するという基本的構図に加えて、多くのミドルパワーが台頭 することにある。米中パワーの拮抗化と地域内のパワーの分散化が同時並行的に進むという ことになる。そして名目GDPでみた戦略ポートフォリオと同様に、米国・日本・オーストラ リア・インド・
ASEAN
が安全保障の連携を強めることは、一方的な力の支配を防ぐという 勢力均衡の原則が中・長期的にも有効であることを示している。しかし、いくらミドルパワ ーが台頭するとはいえ、ミドルパワー連携のみで勢力均衡が維持できるわけではない。勢力 均衡の礎石となるのは、依然として米国のインド太平洋地域における広域プレゼンスにある ことがわかる。(2) インド太平洋の安全保障協力の進展
こうした「戦略空間としての収斂」とパワーバランスの変化の下で、インド太平洋では米 国の同盟・パートナーシップ関係の活動の地域的展開(第1層)と、インド太平洋域内諸国の 二国間・多国間での非制度的・アドホックな協力の拡大(第2層)が同時並行的に進んでい る。
① 第1層:米国の同盟・パートナー関係の地域的展開
2019年 4月に開催された日米安全保障協議委員会
(2+2)は、日米両国は日米同盟が「イン ド太平洋地域の平和、安全及び繁栄の礎」と位置付けつつ、「『自由で開かれたインド太平洋』という共通のビジョンを実現する」ことを強調した(19)。同委員会の「ファクトシート」内の 項目「III 自由で開かれたインド太平洋のためのパートナー国との協働」では、①東南アジ アにおける多国間協力へのコミットメント(ASEANとの共同訓練・演習、能力構築、防衛装 備・技術協力等)とASEAN関連の枠組みの支持、②日米豪
3ヵ国協力
(東南アジア及び太平洋 島嶼国での3ヵ国共同演習及び能力構築の重要性)、③日米印関係(マラバールやコープインディア 等の共同演習)、④日米豪印の4ヵ国の取り組みの定期化、という4つの関係性を強調した
(20)。これまでも日米安全保障協議委員会では「3ヵ国及び多数国間の協力」という項目で域内 諸国との安全保障および防衛協力の重要性を掲げてきたが、上記共同発表ではインド太平洋 を地域概念の中軸に掲げながら日米印協力および日米豪印4ヵ国(クアッド)協力に踏み込ん で言及したことに特徴を見出すことができる。その基盤となっているのは、3ヵ国協力およ びクアッド協力を形成する日米豪・日米豪印それぞれ二国間の安全保障関係の進展である。
米国と同盟国との「ハブ・スポークス」関係から、2000年代以降に徐々に「スポークス間協 力」が形成されたことが、インド太平洋広域の連携を生み出す素地となっていった。
日米印3ヵ国の安全保障協力の主軸に位置付けられる海上共同訓練「マラバール」は、も ともとは米印二国間の演習だったが、2015年に日本が正式に加わった。同演習では日米印に よる対空戦、対水上戦、機雷戦訓練、掃海特別訓練等を実施し、互いの海軍・海上自衛隊の 相互運用性の向上を図っている。
クアッド協力も徐々に実体化している。2017年
11
月にはフィリピン・マニラで実に10年
ぶりとなる日米豪印外交当局による局長級戦略対話が開催された。2019年5
月の同協議では「定期的な協議を継続する意思」が確認されている(21)。また2018年1月にはインドで日本の河
ット = オーストラリア海軍本部長が一堂に集う国防当局間のクアッド対話が実現した。さら に2019年
9月には米・ニューヨークでの国連総会に際し、日米豪印 4ヵ国が初の外相会談を
開催した(22)。② 第2層:領域別のアドホックな安全保障協力の拡大
インド太平洋の安全保障協力のもうひとつの動向は、分野別・領域別のアドホックな協力 が拡大していることである。とりわけ海洋協力およびHA/DRに関する協力は、第
1
層の同 盟・パートナー国間の協力を超えて、意思と能力を共有する国々の間で展開されていること に特徴がある。インド太平洋域内各国は、とりわけ軍当局者同士の協議の拡大や、共同訓 練・演習への参加を通じて相互運用性を向上させ、軍の能力と練度を高めるとともに、安全 保障上の懸案に対する相互関係の拡大(懸念国との協力の拡大)やヘッジング(懸念国に対す る対抗能力の拡大)としても役立てている(23)。こうした二国間・多国間の合同訓練・演習は、①米軍が主導する多国間枠組み(コブラゴ ールド、パシフィックパートナーシップ、カーンクエスト等)、②域内諸国が主導する枠組み(コ モド、カカドゥ、ラ・ペルーズ、ASEAN諸国間の各種共同訓練等)、③中国との相互関係の拡大 を主旨とする共同訓練(中国・ASEAN共同海洋演習/海事図上演習、中国・タイ・マレーシア共 同演習等)など、多岐にわたっている。さらに、艦艇が遠洋航海する際に沿岸国と実施する アドホックな合同訓練や、寄港先で防衛交流を推進する戦略的寄港も軍事的展開の能力を示 唆するプレゼンスオペレーションの一環として拡充されている。
こうした二国間・多国間の機能的協力が全域的な地域安全保障協力(第
3
層)の基盤とな る。拡大ASEAN国防相会議(ADMM+)においては、HA/DR、海洋安全保障、防衛医学、対 テロ、国連平和維持活動(PKO)、地雷処理の6分野で専門家会合(EWG)を設立させた。そ の後、ADMM+は防衛医学実動演習、災害救援演習、海上共同訓練など実動演習を拡大させ ている。実際のHA/DRが必要とされる局面で、ADMM+が実効的な役割を果たすにはまだ 程遠いが、アドホック協力で培われた実績と経験を地域で共有する枠組みが形成されている ことは重要である。第2層の安全保障協力のなかで、近年重要性を増しているのが能力構築支援である。能力 構築支援はパートナー国の能力を向上させる活動を広く指す概念である(防衛省は「安全保 障・技術関連分野における人材育成や技術支援」と焦点を絞った定義をしている)(24)。能力構築支 援が重要な政策として浮上した背景には、非伝統的安全保障領域(人道支援、災害救援、海賊、
越境犯罪等)における中小国の自律的役割の増大、海上安全保障における当該国の法執行機 関の能力や海洋状況把握(MDA)能力の強化の重要性の高まりがあると考えられる。
こうしたなかで日本政府は中期防衛力整備計画のなかで「インド太平洋地域の各国等に対 して、その能力向上に向けた自律的・主体的な取組が着実に進展するよう協力することによ り、相手国軍隊等が国際の平和及び地域の安定のための役割を適切に果たすことを促進」す ることを盛り込んだ(25)。とりわけフィリピン沿岸警備隊(PCG)の海上法執行能力強化のた めの巡視船供与、スリランカ沿岸警備庁およびジブチ沿岸警備隊に対して巡視艇供与、イン
(3年間)を約束したことなど、特記すべきであろう。
おわりに
インド太平洋の安全保障の全体像を論じることは、いまだ時期尚早と言うほかない。本稿 は、「インド太平洋」が徐々に主要プレーヤーに政策概念として受容され普及したことを通し て、戦略空間としての収斂が生じていることを論じた。また、パワーバランスの変化によっ て勢力均衡をめぐる新たな連携や自律性の確保をめぐる模索が進み、同盟関係とパートナー シップの地域的展開(第
1
層)、問題領域別のアドホックな安全保障協力の拡大(第2層)が進 んでいることを明らかにした。今後の展望として「インド太平洋」が戦略空間として定着するか、その他の空間概念と共 存するか、あるいは徐々に分析概念としての勢いを失い省みられなくなるか、予断をするこ とはできない。日本政府のインド太平洋構想に掲げられた「2つの大陸」(アジアとアフリカ)
と「2つの大洋」(太平洋とインド洋)の交わりによって生まれるダイナミズムが重要であるこ とは理解しつつも、それぞれの大陸・大洋で展開される地政学・地経学もまた独自のダイナ ミズムをもっているからである。
安全保障の領域において「インド太平洋」という地域概念が定着するには、「2つの大陸・
大洋」を跨ぐ問題の所在が広く共有され、二国間・多国間の安全保障協力が制度化され、そ こで展開される相互作用がパターン化されることが必要とされよう。
(1) 国際関係論における現実主義の思潮は、伝統的リアリズム、構造的リアリズム、その派生系など 多岐にわたる。Kenneth N. Waltz, Theory of International Politics, New York: Mcgraw-Hill Publishing Com- pany, 1979.「バランシング」と「バンドワゴニング」については、S・ウォルトの考え方を基礎に している。Stephen M. Walt, The Origins of Alliances, Ithaca: Cornell University Press, 1987.
(2) 地域安全保障複合体については、以下の文献を参照した。Barry Buzan, People, States and Fear: An Agenda for International Security Studies in the Post-Cold War Era, Wheatsheaf, 1991; Barry Buzan and Ole Waever, Regions and Powers: The Structure of International Security, Cambridge University Press, 2003.
(3)「インド太平洋」が政策概念として浮上した背景や、地域形成にいかなる影響を与えるかという論 点について、以下を参照。神保謙「『インド太平洋』構想の射程と課題」『国際安全保障』第46巻第 3号(2018年12月)。
(4) 神保謙・東京財団「アジアの安全保障」プロジェクト編著『アジア太平洋の安全保障アーキテク チャ―地域安全保障の三層構造』、日本評論社、2011年。
(5) 米オバマ政権で展開された「リバランス政策」において、アジア太平洋の地域安全保障アーキテ クチャーがどのように変化したか、以下の考察も参照。神保謙「アジアの安全保障アーキテクチャ
―米中対峙の中での地域安全保障の三層構造の変化」『東亜』第581号(2015年11月)。
(6) 例えば元海上自衛隊幕僚長の武居は、インド太平洋の海洋安全保障の状況を「多重債務」と表現 し、①安全保障上の問題が多重化していること、②域内諸国に対立と協力のジレンマや信頼と疑念 の相克が生じやすいことを論じている。インド太平洋として一括りにした地域概念が問題をより複 雑化していることへの問題提起と捉えることもできる。武居智久「多重債務化するインド太平洋地 域の海洋安全保障」『海幹校戦略研究』第7巻第2号(通巻第14号、2018年1月)。
(2019年3/4月号)も参照。
(8) U.S. Department of Defense, Indo-Pacific Strategy Report: Preparedness, Partnership, and Promoting a Net- worked Region(June 1, 2019).
(9) U.S. Indo-Pacific Command, “History of United States Indo-Pacific Command,” https://www.pacom.mil/
About-USINDOPACOM/History/(2019年10月25日アクセス)。
(10) 外務省「自由で開かれたインド太平洋に向けて」(2019年6月)、https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000 407642.pdf(2019年10月25日アクセス)。
(11)「平成31年度以降に係る防衛計画の大綱について」(2018年12月18日、国家安全保障会議決定、閣 議決定)、https://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/guideline/2019/pdf/20181218.pdf(2018年10月25日ア クセス)。
(12) 佐竹知彦「豪州とインド太平洋―多極化時代における新たな秩序を求めて」『国際安全保障』第 46巻第3号(2018年12月)。
(13) こうした論点については、Rory Medcalf, “In Defence of the Indo-Pacific: Australia’s New Strategic Map,” Australian Journal of International Affairs, Vol. 68(2014)を参照。
(14) 伊豆山真理・石原雄介「『インド太平洋』概念とオーストラリア・インド」、防衛省防衛研究所編
『東アジア戦略外観2019』(2019年4月)。
(15) French Ministry of Defense, “France and Security in the Indo-Pacific,” 2018 Edition, updated in May 2019; French Ministry of Foreign Affairs, “French Strategy in the Indo-Pacific: For an Inclusive Indo-Pacific,” updated in August 2019.
(16) ASEAN Secretariat, “ASEAN Outlook on the Indo-Pacific,” June 2019, https://asean.org/storage/2019/06/
ASEAN-Outlook-on-the-Indo-Pacific_FINAL_22062019.pdf(2019年10月25日アクセス)。
(17) 以下のインド太平洋のパワーバランスの変化については、神保、前掲論文「戦略的空間として収 斂する『インド太平洋』」の内容を基にしている。またこうした分析の前提となる中・長期的なパワ ーバランスの変化を分析したものとして、東京財団「アジアの安全保障」プロジェクト「日本の対 中安全保障戦略―パワーシフト時代の『統合』・『バランス』・『抑止』の追求」(2011年6月)があ る。
(18) 名目GDP予測値の算定にあたっては、東京財団、前掲レポート「日本の対中安全保障戦略」(11―
13ページ)で採用した試算を、IMF統計や世界経済の中・長期見通しの変化を基に修正している。
もっともこれらの予測値は実質GDP成長率、物価上昇率、為替レートによって容易に変化するもの であり、作業仮説としての指標にすぎない。
(19) 外務省「日米安全保障協議委員会共同発表(仮訳)」(2019年4月19日)、https://www.mofa.go.jp/
mofaj/files/000470737.pdf(2019年10月25日アクセス)。
(20) 外務省「2019年日米安全保障協議委員会ファクトシート」は同上文書に添付されている。
(21) 外務省「日米豪印協議」(2019年5月31日)、https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_007482.
html(2019年10月25日アクセス)。
(22) クアッドによる安全保障協力の進展には、慎重な見方もある。神保謙「『インド太平洋戦略』と沈 黙する日米豪印『クアッド協力』」、キヤノングローバル戦略研究所コラム、2018年6月13日、https://
www.canon-igs.org/column/security/20180613_5088.html(2019年10月25日アクセス)。
(23) Scott W. Harold, Derek Grossman, Brian Harding, Jeffrey W. Hornung, Gregory Poling, Jeffrey Smith, and Mea- gan L. Smith, The Thickening Web of Asian Security Cooperation: Deepening Defense Ties Among U.S. Allies and Partners in the Indo-Pacific, RAND Corporation: Santa Monica, 2019.
(24) 能力構築(capacity building)をめぐる米国防省の定義は、“Targeted efforts to improve the collective capabilities and performance of the Department of Defense and its partners” と記載され、『合衆国法典』第10
Defense, “QDR Execution Roadmap: Building Partnership Capacity,” 22 May 2006. 防衛省の定義については、
防衛省『平成30年度版防衛白書』を参照した。
(25) 防衛省「中期防衛力整備計画(平成31年度―平成35年度)について」(2018年12月18日、国家安 全保障会議決定、閣議決定)、https://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/guideline//2019/pdf/chuki_seibi31- 35.pdf(2019年10月25日アクセス)。