4.1. はじめに
第
2
章で示したとおり,糖鎖は非常に多様なコンホメーションをとりうる.単糖でも複数 の水酸基によって,そのコンホメーションは膨大なものとなる.さらに,その豊富な水酸基 によって,水などの極性溶媒中ではさらに多数のコンホメーションが分子外水素結合によ って安定に存在していると考えられる.溶液中の糖のコンホメーションは
NMR
法を用いることでその情報を得ることができる.特に結合定数の一つである
NMR-
2JCHによって,水酸基の回転情報を解析することができる ことが報告されている(2.3.2参照).しかしながら,水溶液中の糖は一般に複数のコンホメ ーションの平衡混合状態であり,NMR
実験より得られた値はそれらの平衡平均値であると 考えられる.一方,分子軌道計算によって,個々のコンホメーションの
NMR
値や配座エネルギーを求 めることができる.そこで我々は,水溶液中のNMR-
2JCH実測値の再現を目標に,数種のア ルドヘキソピラノースに対して,分子軌道計算によるNMR-
2JCH値を用いた立体配座解析を 行った.本研究では,主にα-
D-galactopyranose
に対する多配座解析を行った結果を中心に報 告する.4.2. NMR-
2J
CH値を求めるための理論計算手法の検討
本研究では,水溶液中で優位に存在する安定コンホメーションを特定するために,糖の水 酸基の回転異性を含むコンホメーションを網羅的に探索し,それぞれに対する
NMR
計算と 配座エネルギー計算による多配座解析を行う.そこで,これらの解析に先立ち,NMR-2JCHを精度よく低コストで計算できる手法を検討することとした.
表4.1に示す
Gaussian09[52]に用意された様々な理論的手法と溶媒効果を組み合わせた計
算を行い,それぞれについて検討した.ここで,適用する分子は,
CONLFEX/MMFF94s[51]
によって創出された
150
個のα-
D-galactopyranose
の配座のうち,B3LYP/6-31+G**によって 最適化したときの最安定配座とした.また,溶媒による影響を考慮するため,気相中計算と ともにPCM
法による水溶液中の溶媒効果を用いた計算も行った.構造最適化によっていく つかの配座は収束し,気相中およびPCM
法でユニークな配座はそれぞれ130
個および138
個となった.これら二つの手法で最適化された最も安定な配座を図4.1に示す.31
表4.1 検討した
NMR-
2JCH値を求めるための理論計算手法Method Type Method name
Theoretical method DFT B3LYP, B3PW91, M06-2X
Basis set Split-valence 6-31+G(d,p), 6-31+G(2d,p), 6-31+G(2d,2p), 6-31+G(2df,2pd), 6-311+G(d,p), 6-311+G(2d,p), 6-311+G(2d,2p), 6-311+G(2df,2pd), 6-311++G(d,p), 6-311++G(2d,p), 6-311++G(2d,2p), 6-311++G(2df,2pd) Correlation consistent cc-pVDZ, aug-cc-pVDZ,
cc-pVTZ, aug-cc-pVTZ
Solvent effect SCRF PCM or none
(a) (b)
図4.1 気相中およびPCM法による水溶液中での最安定配座.
(a)気相中で最安定“4C1 ccic gg g+”,(b)PCM法で最安定“4C1 ccic gg g+”
これらの配座に対して,環上の
8
種のNMR-
2JCH値について計算し,実験値[45]と比較し た.各理論計算手法による計算値と実験値の差の平均自乗偏差(RMSD)を図4.2および図 4.3 に示す.ここで,縦軸は計算値と実験値の差の平均自乗偏差(RMSD)であり,横軸は 各計算手法である.図4.2は気相中条件における計算結果であり,赤色,薄い赤色,濃い赤 色はそれぞれDFT
法のB3LYP,B3PW91,M06-2X
を用いた結果である.図4.3はPCM
法 を用いた水溶液中条件における計算結果であり,青色,薄い青色,濃い青色はそれぞれB3LYP,B3PW91,M06-2X
を用いた結果である.(付録B
参照)32
図4.2 理論計算手法毎の気相中での最安定配座の 8種のNMR-2JCHの計算値と実験値の差のRMSD
図4.3 理論計算手法毎のPCM法での最安定配座の
8種のNMR-2JCHの計算値と実験値の差のRMSD
0.0 0.5 1.0 1.5 2.0 2.5 3.0 3.5
6-31+G(d,p) 6-31+G(2d,p) 6-31+G(2d,2p) 6-31+G(2df,2pd) 6-311+G(d,p) 6-311+G(2d,p) 6-311+G(2d,2p) 6-311+G(2df,2pd) 6-311++G(d,p) 6-311++G(2d,p) 6-311++G(2d,2p) 6-311++G(2df,2pd) cc-pVDZ AUG-cc-pVDZ cc-pVTZ AUG-cc-pVTZ
RMSD of 2JCH[Hz]
basis sets
B3LYP B3PW91 M06-2X
0.0 0.5 1.0 1.5 2.0 2.5 3.0 3.5
6-31+G(d,p) 6-31+G(2d,p) 6-31+G(2d,2p) 6-31+G(2df,2pd) 6-311+G(d,p) 6-311+G(2d,p) 6-311+G(2d,2p) 6-311+G(2df,2pd) 6-311++G(d,p) 6-311++G(2d,p) 6-311++G(2d,2p) 6-311++G(2df,2pd) cc-pVDZ AUG-cc-pVDZ cc-pVTZ AUG-cc-pVTZ
RMSD of 2JCH[Hz]
basis sets
B3LYP(PCM) B3PW91(PCM) M06-2X(PCM)
33
これらを比較した結果,次のようなことがわかった.
NMR-
2JCH値,計算手法,特に基底関数に強く依存し,溶媒効果にはそれほど依存し ない.
split-valence
型でもcorrelation consistent
型でもdouble-zeta
クラスの基底関数では誤差 が2 Hz
以上であり,少なくともtriple-zeta
クラスの基底関数が必要である. 理論レベルの高い基底関数が必ずしも
NMR-
2JCH実験値を再現するわけではない. 重原子に対する
difuse
関数の効果はほとんど無く,水素原子に対するものだけで十 分である.
triple-zeta
クラスの基底関数でも,これらの配座についてRMSD
値が1 Hz
以内になる手法はないことがわかった.
検討の結果,
B3LYP/6-311+G(2d,p)//B3LYP/6-31+G(d,p)が気相中および PCM
法において最 も実験値を再現した.特にPCM
法による最安定配座が実験値を再現しており,構造最適化 には溶媒効果を用いる方が良いことがわかった.そこで,これ以降の各配座のNMR-
2JCH値 として,PCM
法での最適化構造に対するB3LYP/6-311+G(2d,p)//B3LYP/6-31+G(d,p)により求
めた値を用いることとした.4.3. α-D-galactopyranose の多配座解析
4.3.1. 配座の分布と平衡混合物を仮定した平衡平均値
α-
D-galactopyranose
の配座異性体に対して,それらの気相中とPCM
法でのエネルギーによるボルツマン分布則に基づく存在確率を求めた.図4.4にその結果を示す.ここで,縦軸 は2JCHの計算値および実測値であり,横軸は
8
種の結合定数に関わる六員環上のカップリ ング炭素と水素の組み合わせである.各棒グラフは,赤色は気相中での最安定配座の2JCH計 算値,薄い赤色は気相中での各配座の 2JCH計算値に対してボルツマン分布則に基づく存在 確率を考慮した平均値,青色はPCM
法での最安定配座,薄い青色はPCM
法での各配座の2JCH計算値に対してボルツマン分布則に基づく存在確率を考慮した平均値,そして紫色は
2JCH実験値をそれぞれ示している.最安定配座の存在確率は
63.2 %とこれだけで大きな割
合を占めているのに対し,PCM法による最安定配座は17.6 %と比較的小さい割合であり,
他の配座の占める割合が大きいことがわかった.そこで,これらの存在確率によって荷重平 均した
NMR-
2JCH値を実験値と比較したところ,気相中とPCM
法による最安定配座のRMSD
値がそれぞれ1.68 Hz,1.44 Hz
であったのに対し,加重平均値によるRMSD
値は,それぞれ
1.47 Hz,1.34 Hz
であり,最安定配座のみの場合よりも,平均値のほうが実験値をより再現することがわかった.