は じ め に
高校野球は,大学,社会人,プロの野球とは同 じ競技であっても,全く違った体質を含んでい る。たとえば,試合中の攻守交替における全力疾 走や,ヘッドスライディング,軍隊風の礼や挨拶 などグラウンドの内外において,他の階級とは異 なった気質を維持している。何よりも実際の指導 現場においては,多くがこのことに対して何の疑 問も持たず,醒めた気配もなく,戦前から引き続 き飛田穂洲の「一球入魂」に基づく精神主義を継 承している点などから,長きに渡って特異な体質 が保持されているというべきである。更に,その 内部では,高校野球に対する理想化されたイメー ジが強く描かれており,高校野球部員(以下,野 球部員という),指導者,保護者等がそれに従う ことで,高校野球の世界が形成されている。ま た,学生野球憲章において明記されている「野球 =教育」(1)の関係性を理想に,野球を教育の一環 とすることで正当化し,高校野球のあるべき姿 を,「高校生らしさ」の象徴とし,そのイメージ 化の拡大が図られているのである。しかし,その 一方では,引退後やグランドで野球をしている時 とそれ以外の場において,野球部員の態度や行動 が極端に変化するケースも見られ,必ずしもイメ ージ通りではない態度の落差について,周囲から 批判されることも少なくはない。 本稿では,野球部員のグランドと教室において の態度や行動の変化により身近に触れながら,彼 等のもつ態度の二面性や引退後における意識の変 化を導く構造について,アーヴィング・ゴッフマ ンのドラマトゥルギーの方法を通して分析する。1.ドラマトゥルギー的方法論
からのアプローチ
社会学者の E・ゴフマンは,人がある状況の中 で何らかの役割を演じ,なんらかの仕方で他者に 影響を与える挙動の一切をパフォーマンスと定義 し,パフォーマンスを遂行する者をパフォーマ ー,他者のパフォーマンスに寄与する人びとをオ ーディエンス(観察者)と表現している(E・ゴ ッフマン,石黒訳 1974 : 18)。この両者の相互行 為の観点による分析がドラマトゥルギーによるア プローチである。パフォーマーとオーディエンス の関係性をゴッフマンは対面的相互行為(2)(図 1)として以下のように述べている。 ある行為主体が特定の役割を演じているとき, 彼は自分を観察する人びとに,彼らを前にして つくり出された印象が真面目に受け容れられる ことを暗黙のうちに求めている。観察者に求め られていることは,彼らが見ている人物は彼が もっているように見える諸属性を実際にもって いるということ,彼が遂行している仕事は,そ れが暗黙のうちに要求している帰結をもつであ ろうこと,さらに総じて諸事はみかけ通りであ ること,を信ずることである。(E・ゴッフマ ン,石黒訳 1974 : 19) 個人が他者の面前に登場するとき,様々な身体 行為をとることによって自己に関する何らかの情 報を表出しているのである。その中で,パフォー マーは,他者に抱かせたい自分の印象を導くため に,自身の行為に操作を加えて調整する。E・ゴ〈論 文〉
高校野球部員の意識と行動の分析
──ドラマトゥルギーの方法を通して分析する──
竹
村
直
樹
59フマンはこのことを印象操作と定義している。た とえば,実際の自分より高い自分を見せることで 大きな評価を得ようとする人は,普段より知的な 人物を演じ,反対に自分を謙虚な人物であること を伝えたい人は,既に知っていることでも知らな いふりをする。このような行為は,いずれも印象 操作によるものである。自分の行為に操作を加え て他者に何かを伝えようとするときに,パフォー マンスが,パフォーマーによって他者の面前で実 演される。そして,そこに居合わせた他者はオー ディエンスになる。対面的相互行為は,二人以上 の複数の人びとが居合わせたときに,相互に観察 が可能であるときに生じる(椎名 1991 : 39)。 日常,人は表舞台によってある一定の自己の印 象を保っているが,対面的相互行為の不要な裏舞 台においては表舞台でのパフォーマンスを解除し てしまうことがある。そして,パフォーマーに対 して,表舞台の印象をもったオーディエンスが, パフォーマーの裏舞台の顔を見てしまえば,その 人に対してこれまで抱いていた印象とは異なる印 象を抱く。例えば,「真面目な生徒」が「要領の いい生徒」へ,「熱心な野球部員」が「熱心なふ りをしている野球部員」へと変わってしまう可能 性を含んでいるのである。このような場合には, オーディエンスの裏舞台への接近について,パフ ォーマーとオーディエンスは互いに協力しあいな がら,互いの呈示している自己を壊さないように 扱うことで,相互行為が円滑に進行していくこと となる(E・ゴッフマン,石黒訳 1974 : 280)。例 えば,ある役柄を演じている役者に対して,その 役柄と素顔を区別できる点や,学校の教師が彼の 家でも学校と同じ態度ではないことをオーディエ ンスが理解することなどがそれに当てはまるとい えよう。このことを図 1 をもって例えると,オー ディエンスはそれぞれの局面においての捉え方に より,役柄としての役者の印象をオーディエンス Aとして受け取り,その役者の素顔に対しては その印象はオーディエンス B となって受け取る 棲み分けが可能であるということができよう。し かし,パフォーマーが表裏いずれの局面において も,儀礼のルールなどを侵害する振る舞いがなさ れたならば,相互行為の秩序は撹乱され,その修 復には困難を極めることへとつながることもあ る。また,E・ゴフマンはパフォーマーの表舞台 と裏舞台における態度の関係を役割距離と定義し ている。例えば,その二つの態度に大きな違いが あれば,役割距離の間が開いているということに なる。そして,この役割距離の間が開けば開くほ ど,オーディエンスへの違和感に繋がることが多 いといえよう。次章においてこのようなケースを 日本の高校野球にあてはめ,野球部員の様々な行 為を導く,内部における秩序の構成要素を分析す る。
2.パフォーマーとしてみた高校球児
2−1.高校球児らしさを演出する構造 高校生は野球部に入部すると同時に,容姿の面 では髪型を短髪の坊主頭に統一し,行為において 図 1 対面的相互行為 60は,上下関係,大きな声での挨拶,返事,敬語の 習得,整列,全力疾走などを徹底することで,オ ーディエンスが自己について抱く印象を高校球児 らしく見えるように演じているのである。野球部 員は見せかけの演技を徹底することによって相互 保障的な整合性に期待しているのである。一方, オーディエンスの側に求められることは,パフォ ーマーとしての野球部員が高校球児を演じている 姿をあるべき姿として暗黙のうちに要求し,その ような野球部員の姿が彼らの本来の姿であると信 じることである。つまり,高校生の野球部員とし ての振舞いによる演技と,オーディエンスによる 高校野球らしさへの要求が,相互的に影響しあい ながら高校野球の世界が創造されているのであ る。また,そこには更にパフォーマーの演技をよ りあるべき姿へと導く,舞台スタッフの力が強く 加わっていることを見逃してはならない。 次に,高校生らしさが演出される高校野球の構 造について,高校野球部員をパフォーマー,高校 野球の制度を構築する日本高等学校野球連盟(以 下,高野連という)から現場の指導者,審判,現 役部員の保護者をオーディエンスⅠ(舞台スタッ フ),その他をオーディエンスⅡに分類して考察 を加えてみる(図 2)。 パフォーマーの演技を,オーディエンスに抱か れたい印象へと導くために,舞台スタッフが「高 校生らしさ」を演出し,高校野球の世界が創造さ れる。パフォーマーの演技には舞台スタッフから の力が大きく加わることで,野球部員としてある べき姿が維持されているのである。そして,オー ディエンスには,前節の図 1 で示した棲み分けが なく,その演技をパフォーマーの日常として受け 止め,信じ込もうとするのである。このオーディ エンスからの要求にはメディアによって創造され 露出される映像から多大な影響を受けており,オ ーディエンスに分類したメディアは,ときには舞 台スタッフのコラボレーターとなり,またあると きには厳しい評論家へと変貌する不規則性を含ん でいる。 しかし,このような相互行為により創造された 野球部員の「高校生らしさ」は,実際にはクラブ 活動中や高校野球関係者と関わる機会などの内部 でのみ発揮されており,本来の高校生活全般に渡 って発揮されてはいない。高校生が野球部に入部 した以上,多くの者は高校球児としての演技を何 気なく受け入れ,意識的に演じているのである。 一般的にグラウンド内でパフォーマンスとグラン ド外でのパフォーマンスとの役割距離は遊離しが ちである。しかし,オーディエンスにはグランド 外でもパフォーマーの演技を期待する傾向があ り,この期待に沿って,グランド内で維持してい る実社会とはかけ離れた精神主義の世界を,グラ 図 2 高校野球の演出構造 高校野球部員の意識と行動の分析 61
ンド外にまで要求することこそ,生徒の行為が 「裏」と「表」の落差として捉えられる要因に繋 がるのである。高校野球の現場を表舞台,それ以 外の場合を裏舞台と仮定した結果,高校生はでき る限り裏舞台を覆い隠しながら行動せざるを得な い状況に置かれることになるのである。 高校生がパフォーマーとして日常においても 「高校野球らしさ」を演じ続けることは不可能で ある。しかし,できる限り表舞台での行為を彼ら に演じさせる暗黙の要求が,舞台スタッフである 高野連などの組織機構によってより管理された状 態にある。他競技以上に逸脱行動の範囲を学生野 球憲章によって明文化し統制されているのであ る。しかし,演技を強制されればされる程に思春 期の青年たちにとっては苦痛を伴うことは否めな い。このことは,彼らの演技の反動として,グラ ウンド外での極端な態度の変化に関連しているこ とを連想することができよう。パフォーマーとな った高校生からは,野球を楽しむということよ り,その役柄を演じることに耐えているといった 方が適切ともいえる状況も現場では見受けられる ことがある。 2−2.野球部員としての演技 オーディエンスとの相互行為を円滑に進行して いくために,野球部員はパフォーマーとしての役 割演技に励む。しかし,前節においても記した通 り,実際にそれを維持することには苦痛を伴うケ ースも少なくはない。次に,指導現場における野 球部員の態度の変化に関する具体例をあげよう。 午後 4 時過ぎ,野球部の顧問である筆者が,授 業を後の終礼を終えグラウンドに到着する。野球 部員たちは筆者の姿を見るや否や,各自がそれぞ れに帽子をとり大きな声で「こんにちは」と挨拶 をして頭を下げる。部員たちの誰もが,ほんの 1 時間前までの授業中での態度とは全く異なった様 相を示す。この瞬間,生徒は筆者を一教科担当の 教諭から野球部の顧問へと識別し,高校球児とし てのルーティーン(3)(役目)を演じ始める。しか し,このように徹底した規範に沿って日々の部活 動に励み,その中で十分に習得できているはずで ある態度教育の成果は,高校生活全般として見た 場合,あまり身に付いているとは言い難いのが現 実である。むしろ,部活動中の姿と,それ以外の 日常の姿からは,大凡,同一人物とは思えない状 態も多く見受けられる。実際に筆者から見ても, グランドの内と外での態度の違いを見抜くことの 容易な生徒は存在する。しかし,礼儀正しく,溌 剌としたイメージを持った生徒であっても,他の 教員からの指摘によって全く違う性質を知ること もあり,たいへん残念な思いをさせられることも 少なくはない。このような生徒の行動から推測す ると,当該野球部員にとっては生徒としての評価 よりも選手としての評価を最優先とした状態にあ り,彼等は校内において高校野球を中心としたア イデンティティを確立しているといえる。従っ て,彼らが野球をする上で重要だと思う監督や顧 問の教員に対して,自分たちを選手として認め, 尊重してもらうためにも部活動中の態度を演じ続 けるのである(Coakley 2008 : 94)。同時にこの ことは,生徒によっては正課である教科教育より も,課外である野球を優先していることへの裏付 けともなる。高校野球の練習ではより俊敏な動き と大きな声が要求され,他の競技にも増して態度 教育を重要視しながら実践されている。その例と して,上級生と下級生の間では,挨拶をしないこ と,声が小さいこと,そしてグランド内での機敏 性が欠けていることなどが,厳しい指導の対象と なる場合が多く,この指導の行き過ぎが近年いじ めという認識へと発展していくケースが多くみら れる。 野球部員によるグランド内での演技は,現代社 会における同世代の高校生のライフスタイルとは 大きな差異を感じることは我々も認識できる部分 である。そして,各部員は,他者の前で維持しよ うとしている基準を心の内に取り入れ,その自意 識が社会的に適切な仕方で行為することを彼等自 身に要求している。即ち,パフォーマーである高 校球児は自分自身のオーディエンスでもあるので ある(E・ゴッフマン,石黒訳 1974 : 94)。また, 彼等の中には野球をする以前に,演技の過程にお いて疲弊してしまう者も含まれる。この様な傾向 は,不自然な立ち振る舞いとして,意識的な手管 と見なさざるを得ない場合いにおいて特に見られ 62
る。以下に二つの事例をあげて考察する。 事例 1 ある部員は同学年の中でリーダー的存在を自ら から担おうとしているかに見える態度で,監督, コーチなどの野球部関係者に対して,精一杯の礼 儀作法を演じていた。しかし,その内容は,我々 から見ても不自然であった。この不自然さの見極 めは,我々を前にした場合とそれ以外の場合の違 いによって感じられる。このことは,同学年の生 徒にもしだいに共有されることとなり,彼はしだ いに孤独へと陥り,練習を休みがちとなり,遂に は野球を続ける気力を失ってしまった。 このような状況へと至る以前に,筆者は数回の 面談をし,もう少し肩の力を抜いて自然な振る舞 いを試みることを勧めたが,彼の極端に野球部員 らしさに拘った態度の演出に変化は見られず,ま た,クラブ活動以外での教室内の態度との落差が あまりにも大きく,このことが演じすぎることが 見えすいた偽りとして,しだいにパフォーマンス ・チーム(4)においても不信を抱かれることが,彼 の苦しみにもつながったのではないだろうか。類 似した内容を E・ゴッフマンは,表現−対−行為 というディレンマにぶつかる人びとに対する例と して,サルトルの『存在と無』の一部分を引用し 示している。 注意深くあろうとしている生徒は,目を教師に 据え,耳は大きく開かれていて,注意深くする という役割を演じて疲れ果ててしまう。その結 果,彼は何も聞かないのである。(E・ゴッフ マン,石黒訳 1974 : 37) 野球部員としての自分を高く評価してもらうた めに,高校生は高校球児らしさに外見を扮装す る。そしてその扮装は相手によってやめたり装っ たりする変化がみられる。この変化の落差が極端 になるほど,他者から抱かれる野球部員に対する 印象に違和感を与える要因になっている。 事例 2 9月の新学期を迎え,3 年生の野球部員は一斉 に髪の毛を伸ばして登校する。その中でもこの夏 の大会まで,チームの雑用をも不満なくこなし, 学校生活も含み全般において人の嫌がる掃除など を前向きにこなす生徒がいた。プレーヤーとして は技術面に劣るものの,決して悪びれることなく 前向きな姿勢を絶えず表面化していた。しかし, その様な彼の模範的な態度も,野球部の引退後に は大きく変化をしていくこととなった。このこと は他の 3 年生部員と比較しても明らかであった。 具体的には,授業中の居眠りなど極端に堕落した 傾向が目につき,他の数名の教員からも驚いた様 子で指摘を受けた。野球部時代は隅々にまで気が 届いているように見えた態度も,引退後には自分 の足元にあるゴミも拾わなくなった。そのことの 理由を筆者が尋ねると「自分が落としたものでは ないから」という答えが返ってきた。 つい最近まで高校野球の世界で全体責任をたた き込まれ,それを先頭にたって実践してきたにも かかわらず,部を引退した後の彼のような行為に は,それまでの行為は全て演技であったことの象 徴として理解できる。本人が「高校生らしさ」を 発揮することを要する社会的領域では,より効果 が明瞭になるように大いに努力するが,効果を明 瞭化するにあたって,彼は遂行するさまざまのル ーティーンの一部始終に感心を払うのではなく, 自分が高く評価されたい事柄に対してにだけ関心 を向けていたにすぎないのである(E・ゴッフマ ン,石黒訳 1974 : 37)。ひとつのルーティーンの 価値として,すでに高校野球部は彼の社会的領域 ではなくなり,本人にとって今は何も演じる必要 がなくなっていることを表しているといえよう。 高校生が高校球児としてのルーティーンを遂行 する場合,人に抱かれたい印象に配慮をすること は当然の行為であろう。また,このことは高校野 球の世界に限ったことではなく,あらゆる社会的 関係の上においても同様である。但し,先にも触 れたように,高校野球の現場では,現代社会にお いてはあまり見ることのないパフォーマンスが慣 習化していること,即ち,戦前の軍隊や武士道に 高校野球部員の意識と行動の分析 63
おける振る舞いが,その基準として組織的に維持 されている点などが,他の学生スポーツと比較し て特に目立っていると言えるのではないだろう か。そして,この日常生活ではほぼ用いることの ない作法を真似ることが演技であり,自己の評価 への拘り具合によっては,上述の事例にあるよう な野球部員のきわめて不自然なパフォーマンスに 繋がるのである。この不自然なパフォーマンスに は,オーディエンスのみならず,同属する他のパ フォーマーからの不信へ繋がるケースも少なくな い。また,オーディエンスにおいても要求通りの 演技をしてもらえない場合にはその反動としてパ フォーマーを批判する。学内において野球部員の 授業態度や行動について極端に厳しい目を向ける 教師などはその例である。また,演じる側の高校 生において,高校球児らしく見えることを求めて 演技を続けることは,彼らにとって決して楽しい ことではない。プレーヤーとして高校野球を楽し む以前にパフォーマーとなる必要があるからであ る。そして,パフォーマーとして演じきれない部 分や演じることに対する反動として,そこには生 徒が逸脱行動に向かう可能性さえも含んでいる。 このことに対しては,日常の現場では特に細心を 払わなければならない部分であり,生徒のパフォ ーマンスの様相から真のリアリティを絶えず確認 しておく必要がある。 2−3.公式戦で要求されるパフォーマンス 秋季,春季そして夏季の年に三回実施される公 式試合では,より高校野球らしさへのルーティー ンが要求される。大会規模が県大会から全国大会 へと拡大すればするほど,演出する側からの要求 はより高まっていく。そして,阪神甲子園球場 (以下甲子園)で開催される春と夏の全国大会に おいては,甲子園そのものが,パフォーマーがオ ーディエンスに抱かせたいリアリティをより鮮明 にするための舞台装置(5)として機能しているとい える。 地方大会の時点からスピーディーさの維持がル ール化され,それに従うことで高校球児は,より 機敏さ必死さの印象をオーディエンスへ与えてい る。高野連は公式試合において 2 時間以内で終了 するゲームを奨励しており,特に甲子園ではこの 点が審判団の評価にも加えられ,厳しくコントロ ールされているのである。守備側が三振や内野ゴ ロなどで 1 死,2 死のアウトカウントを取った 後,内野手の間でボールを回す行為は慣習的に行 われているプレーであるが,高校野球の場合に は,公式戦で試合時間が長引けばこれを禁止す る。そして,当該試合以前の試合時間が長い場合 にもこのルールが適用される。大学野球,社会人 そしてプロ野球では見られない光景である。第 94 回全国高等学校野球選手権大会(以下選手権大会 という)第 12 日目第 2 試合の東海大甲府−成立 学園の試合は僅か 1 時間 16 分で終了し,戦後 2 番の速さで話題に昇った(6)。実はこの試合は,第 1試合が 3 時間をこえる試合であったことから, 6回以降はそのボール回しをさせずよりテンポア ップが図られた上に,予想以上の迅速なゲーム内 容が加わり進行が早まったのである(7)。平成 24 年度春季の東京六大学野球リーグ戦の平均試合時 間は 2 時間半を超えており,プロ野球では 3 時間 を超える試合も少なくない。このことからも高校 野球ではスピーディーな試合を理想化し,他の階 級のそれとは異なった印象を与えて社会化(8)され ているといえる。しかし,このテンポアップの演 出が,より要求される甲子園では,特に初出場の 学校が苦労をし,本来の力を発揮できずに敗退す るチームが多いのである。以下に事例を二つあげ る。 事例 1 ある公立高校の監督の初出場時の逸話 「たまたま抽選で引いた相手が,優勝候補にも 挙げられている近畿地区の強豪チームでした。高 野連の理事たちは,試合前からピリピリしていま した。」(中略)周囲の不安とは裏腹に,試合は点 差の少ない好ゲームになった。結局 5 対 2 でその 公立高校は敗れたが,試合時間は 1 時間 45 分。 高野連の心配を吹き飛ばす理想的な時間で終わっ た。するとベンチ裏から担当理事が入ってきて, 監督の手を握りしめて叫んだという。「よくやっ た」(小林,2007 : 99) 64
事例 2 初出場で初戦敗退した銚子西高校主将の 談話 「甲子園のスピードにのまれてしまった。一球 一球の動作とかサインとか,早くやらなければと 思うあまり,ついに短調となってしまった。(中 略)すべてがあっという間に終わった感じだ。」 (小林,2008 : 122) このような談話にあるように,甲子園では技術 面よりもスピーディーなテンポとの戦いが必要と なることが理解できる。他の階級の野球で駆け引 きとして試される「間」を削り,普段以上にグラ ンド内を全力疾走する。また,入場行進では,手 の振りや足の上げ方など,全てが一元的に揃い, 厳格さや統一感を含んだ軍隊のそれに類似してい る。プレーにおいてスライディングは,本来クロ スプレーを予期して行うが,完全にアウトと解っ ている場面においてもヘッドスライディングをす ることがあたりまえの行為として受け止められて いる。そしてこのような行為は,ある特定の舞台 装置を使用している時と使用していない時では, パフォーマンスに大きな差が生じるのである。 (E・ゴッフマン,石黒訳 1974 : 25)。特に甲子園 でのパフォーマンスにはこの傾向が強く見られ る。舞台装置としての甲子園での高校球児は,日 常での教室,グラウンド,練習試合などにおいて の振る舞いを改め,舞台を演出するマスメディ ア,オーディエンスの要求に応じたルーティーン を演じる。そして,試合終了後にはそのパフォー マンスを終息させるのである。スポーツジャーナ リストの田尻賢誉は,甲子園での試合後の高校球 児の様子を「取材時間内に携帯を触っている選手 や,パンを食べながら記者と話す選手もいる。周 りが見えていないんだ。」(田尻,2011)と述べて いる。この内容からは,つい先程までテレビ中継 の中にあった彼らの表舞台の姿が裏舞台の姿へと 変化する現象が認められる。また,表舞台の部分 の演出にはマスメディアによる上手なカメラアン グルや編集によって,選手のわずかの反応も,す べてがそうであるような印象へと変えてしまうこ ともできるのである(E・ゴッフマン,石黒訳 1974 : 72)。このようなメディアによる偽情報の 発信は,故意にあいまいにするとか,大事なこと を省略してみたりするというコミュニケーション の技法を使うと,偽情報の提供者は,技法的には うそをつかずにうそをいった効果を挙げることも できるのである(E・ゴッフマン,石黒訳 1974 : 72)。大会主催者である大手新聞社は,報道やテ レビ中継などの技法をもって表舞台を演出し,高 校球児の印象創造のために,大いに寄与している と捉えることができる。しかし,「高校生らしさ」 を高校野球の象徴とすることへの偏重が,かえっ てグランド外での野球部員の姿を覆い隠す技法と 化し,オーディエンスの棲み分けを不可能な方向 へと導いていることは否めないのではないだろ か。 自己の意思で選んだ役柄を演じ,高校野球を実 践していくには,当然その組織の仕来りに社会化 され,そのことへの疑いの有無に関係なく,自ら で自然と受け入れざるを得ないものである。高校 球児であるには,「パフォーマンスは滑らかにあ るいは不器用に,意識的にあるいは不器用に,意 識的にあるいは無意識に,手管であるいは本気で 遂行されるが,ともかくそれは演じられ,演出さ れなければならないあるもの,現実化されなけれ ばならないあるもの,なのである。」(E・ゴッフ マン,石黒訳 1974 : 88)そして,実際には彼ら は,自らが演じていることへの自覚が高く,「醒 めた」部分を多く含んでいるのである。大部分の 球児たちが,彼等が舞台で演じたリアリティを現 実のものであると信じていないのである。何故な らパフォーマンスをしている当人以上にその行為 を見抜くのにもってこいの観察位置にたっている 人はいないからである(E・ゴッフマン,石黒訳 1974 : 20)。 パフォーマーである高校球児は,本来の自我で ないことを理解しながらも,理想化された印象を 崩さないように,できるかぎりの態度を意識的に 演じている。しかし,実際にはその演技に対して は「醒めている」のである。その理由として,グ ランド上での態度は,日常においてそのまま維持 されてはいない点や,部を引退すると,それまで の坊主頭に拘ることなく髪を伸ばし,一般の生徒 と変らぬ態度へと戻ることなどをあげることがで きる。舞台スタッフである高野連からの要求,グ 高校野球部員の意識と行動の分析 65
ランド内で歴史的に継承されている行為に対する 指導者からの道徳的秩序によるさまざまな基準・ 制度の要求,そして,高校野球の教育神話を信じ るオーディエンスからの期待に答えるために彼ら は演じているのである。
3.オーディエンスの分類
3−1.オーディエンスとしての舞台スタッフたち 野球部員のパフォーマンスを維持,管理してい るのは大会主催者,高野連,監督,コーチ,審判 等,部員保護者等である。本論ではそれらを舞台 スタッフと位置づける。舞台スタッフはオーディ エンスに属しながら,高校野球の爽やかさや礼儀 作法の演出に最も寄与し,高校野球を教育の一貫 として位置づけながら,メディアでの露出によっ て高校野球に対する印象をより画一したものへと 導きだす巧みな演出までを繰り広げる役割を担っ ている。 舞台スタッフの中心である高野連は,「野球は 教育一環」,「武士道野球」,「プロアマの断絶」, 「全体責任の徹底」,「坊主頭」など,他競技には ない厳格さを維持するための,制限や規制を展開 している。そして,このような呈示された事柄へ の制限と規制は接触の制限とも重なり,他競技と は異なった独自性が感じられるのである(E・ゴ ッフマン,石黒訳 1974 : 77)。また,このことは 「オーディエンスにパフォーマーについてのある 神秘的な感じを抱かせるてだて」(E・ゴッフマ ン,石黒訳 1974 : 77)として機能しているとい える。 高校野球を演出する舞台スタッフは,他競技や 彼等と同世代の若者を含むオーディエンス全般と の間に,ある一定の社会的距離を維持すること で,他者との棲み分けをなしている。特に,甲子 園球場はその典型であり,球児が泣きながら土を 拾う姿をメディアが放映することで,「聖地」な どの表現とともに,神秘的な印象へと導く力が発 揮されているのである。このような演出に直接的 に関わる舞台スタッフは,各々の現場において 「さわやかさ」,「高校生らしさ」を奨励している。 神秘化された世界を維持するために,諸事がみか け通りであるように指導をし,皆が自身の演出し ている内容を現実そのものだと信じ込ん込むこと で高校野球の教育神話が維持されているのであ る。ゴッフマンはこの点について「パフォーマー が自分自身の行為にすっかりととらわれ欺かれて いる」(E・ゴッフマン,石黒訳 1974 : 18)と, 生真面目なパフォーマーに例えているが,高校野 球においては,前章で述べた通り,パフォーマー である高校球児は「醒めている」のであって,舞 台スタッフを含むオーディエンスである側の方が 生真面目に信じている傾向が強いのではないだろ うか。 3−2.オーディエンスとしての保護者 舞台スタッフの演出を信じることで,高校野球 に魅了され,自らの子どもために後援者として演 出を擁護し,オーディエンスとして「高校生らし さ」=高校野球といった印象管理の立場にあるの が現役高校球児の保護者である。少なくとも丸坊 主の容姿や厳格な態度教育に対して肯定的である ことは言うまでもない。各高校の野球部において は保護者会が組織されており,パフォーマーを表 舞台へと誘導し,野球部組織の維持に協力してい るのである。桑田,清原が活躍していた時代の PL 学園父兄会の内容を桑田泰次氏(故人)が著書の 中で次のように紹介している。 父兄会の三役というのは,部員の親で組織する 父兄会の会長,副会長,会計の三名のことだ。 (中略)その三役にはいくつかの権限があたえ られていた。たとえば,一般の父兄はたとえ三 年生の親であろうと,監督,コーチとの接触は 禁止。部長や寮長としか話をすることができな かったが,三役だけは,監督,コーチと直接, 話をすることができた。(桑田 2000 : 125−126) 野球部に関しての意見・要望があっても,舞台 スタッフである指導者への直接的な関わりを抑制 し,演出を守る立場で保護者会は機能しているの でる。近年,各校ではこのよう保護者会活動が 年々活発化する傾向が見られる。公式試合の観戦 に限らず,練習試合でも揃いの帽子,ポロシャツ などを必須アイテムとして着用することをルール 66化して,パフォーマンス・チームとの一体化を装 い,「子どものため」というスローガンをもって, パフォーマーと舞台スタッフを支持する後援者の 役を担っている。実際に野球部員のグランドでの 表舞台の態度と,それ以外の場における裏舞台で の態度の落差を,日々一番近い距離で感じること のできるオーディエンスでもあるが,彼らの落差 についての違和感にはあまり触れることはなく, この点からは棲み分けのできたオーディエンスで あるともいえよう。しかし,後援者としての機能 は,子どもの甲子園出場や進学に対する親の期待 によって支えられているものであり,息子の試合 出場の機会やメンバー入りなどをめぐってこの組 織の内部は決して安定したものではない。以下は その事例である。 その日は,甲子園での閉会式が終わると,父兄 と生徒は全員で PL 学園に戻り,まず奥津城を 参拝。それから祝勝会という段取りになってい た。ところが,みんな参拝を終えて集まってい るのに,三年生の母親たちだけがなかなか姿を 現さない。(中略)いい年をしたお母さん同士 が,たがいに髪をつかみ合い,汚い言葉でなじ りあっている。本当に見られたものではないひ どい光景だった。ケンカは,補欠のまま終わっ た子の母親たちとベンチ入りした子の母親たち との対立が原因であった。(桑田 2000 : 179− 180) このように,保護者においては,後援者であり ながらもその内部には様々な利害関係を含むこと は否めない。日常の現場では,自分の子どもがメ ンバーから外れるなどのことが原因で,場合によ っては後援者を辞めていくケースも見られる。 3−3.オーディエンスからの期待と要求 舞台スタッフの演出に,高校生がパフォーマー として高校球児を演じる姿は,多くの人びとの間 で「さわやかさ」や「高校らしさ」といった社会 通念を形成する。そして,一旦テレビ中継に目を 向けると容易に見入ってしまうなど,多くのオー ディエンスを魅了することもある。 戦前の中等学校野球から今日の高校野球にかけ て,私は長いあいだ熱心なファンであった。 (中略)春と夏の全国大会の優勝戦や優勝の望 みをかけた試合のあとで,選手たちが泣くこと もある。私もしばしば泣きたいような気持ちに なり,そして同時にこんな状況に容易に同一化 する自分がいやになってしまう。(作田 1967 : 257) 舞台スタッフの演出によって,野球部員は他者 の前で維持するべく態度の基準を心の内に受け入 れ,高校球児として適切な仕方で行為すること を,オーディエンスから要求される立場となるの である。そして,その要求は他の運動部の生徒へ 向けられる内容以上に厳しい評価を受けるケース が多くみられる。現場の高校においては,通学の マナーや風貌に対し「高校野球をやっている者が そのようなことでいいのか」といった具合に,匿 名のオーディエンスからのからクレームを受ける ことがある。すべては舞台スタッフの創造する 「高校生らしさ」を基軸とした印象に対する感情 的な解釈によって発生しがちな一面である。「オ ーディエンスの一員になれば,われわれは自然 に,パフォーマーが与えている印象を,真あるい は偽,本物あるいはまがいもの,間違いないある いは臭いと感ずる」(E・ゴッフマン,石黒訳 1974 : 67)ようになるのである。 オーディエンスは見せかけとリアリティとのず れについてはより敏感であり,舞台スタッフが表 向きに立ててきたことに真っ向から矛盾するよう な事件が出現した場合には,それまでとは逆によ り冷淡で厳しい評価をもって批判する側へと変化 するのである。その例として甲子園に旋風をおこ した二校の事例をあげよう。 1970∼80 年代にかけて「さわやか」で「高校 生らしい」といった物語を生成し,波及させた徳 島県の池田高校は,1974 年,第 46 回選抜大会高 等学校野球大会(以下,選抜大会という)では 「さわやかイレブン」と称され,四国の山間にあ る田舎町から当時のベンチ入り枠(当時 14 名) を満たすことなく,僅か 11 名でやってきた姿に, 野球に偏重する私学の名門校と比較して,真の高 高校野球部員の意識と行動の分析 67
校野球のイメージをオーディエンスに与えた。し かし,時代の変化とともに,県外からのボーイ ズ,シニアリーグ出身者などが入学するようにな り,学業を超えた野球への偏重や,世の中が複雑 になり,若者のものの見方や考え方が変わるにつ れ地元の高校生の「さわやか」なイメージもしだ いに消滅していくことなった。80 年代において も選抜大会 2 度,選手権大会 1 度の全国優勝を遂 げたが,84 年には元部員を含む自動車事故の不 祥事があり翌年の選抜大会の出場を辞退してい る。「さわやかイレブン」,「夏春連覇」などのフ ィーバーに沸いたが,この一件で冷めたと元 PTA 会長は語っている(清水 1998 : 55)。 2004∼6 年の選手権大会で優勝 2 回(2 年連続) 準優勝 1 回という栄光を味わった駒大苫小牧高校 は,「郷土後援特別表彰」「体育協会特別表象」 「文化賞」など 3 つもの表彰を苫小牧市から贈ら れ,地元は沸いていた。しかし,2006 年 3 月,78 回選抜大会への出場が決まっていた同校は,3 年 生 10 人が卒業式の後,苫小牧市の居酒屋でクラ スの飲み会に参加,居酒屋にいた他校生による警 察への連絡により発覚,即ち同世代の地元住人か らの密告であった。それをきっかけに同大会への 出場辞退を表明した。以後,地元での熱は一気に 冷めることとなった。この一件では,居酒屋にい て酒を飲んでいた他校生,駒大苫小牧の一般の生 徒は不問に付され,野球部員だけが責められる結 果となった(軍司 2008 : 175−176)。この 2 校に 対する厳しい評価から,オーディエンスはパフォ ーマーの役割距離の遊離について,決して許容す ることなく,むしろ舞台スタッフによって演出さ れるルーティーンからの逸脱を監視する立場にあ るということができる。
4.結
論
以上のような分析から,高校野球は,舞台スタ ッフの演出をパフォーマーが演じることによって 構築され,その演技から受けるオーディエンスの 印象によって維持されていることが理解できる。 しかし,実際には高校生側の物の見方や考え方は 時代とともに変化しており,その中で「さわやか さ」や「高校生らしさ」を生み出そうとする舞台 スタッフの考え方と,パフォーマーの考え方が必 ずしも一致していないことは否めない。高校生に おいてはグランドを離れると態度が一変するな ど,高校球児を演じることに「覚めて」おり,演 出する側の大会主催者,高野連,監督,コーチ, 審判等の方が,より真剣に教育の一貫としての野 球であることを信じて,或いは,信じようとして いるのである。また,パフォーマーが高校野球を 中心としたアイデンティティを確立すればするほ ど,教室では「高校生らしさ」を演じることが不 要となり,グランド内外での態度の落差は拡大す る。このような場合には,野球部員らしさを演じ ている見せかけの姿と,見せかけではない本来の 姿との役割距離が開いた状態となり,身近なオー ディエンスからの誹謗中傷に繋がるケースも少な くはない。 舞台スタッフによって創造された野球部員の 「高校生らしさ」は,教壇に立っている教師や, 舞台上で役柄を演じている役者に等しく,限られ た機会のみ発揮されるものであるにも関わらず, 棲み分けがきかなくなったオーディエンスからの 理解は乏しく,この点が裏舞台での彼らの態度に 対する違和感として野球部員の批判につながって いるのである。 ロバート・ホワイティングは,日本プロ野球を テレビや雑誌などの解説からの演出による影響の 大きさに注目し,「戸外の歌舞伎」と表現してい る(R・ホワイティング,松井訳 1992 : 11)。し かし,実際には高校野球の方が「型」に拘った演 出が展開されていることから,「戸外の歌舞伎」 という表現がより適切ではないだろうか。しか し,野球部員が見せかけの偽の自己を演じること に捉われ過ぎてしまうことは,プレー以前に舞台 スタッフをはじめとするオーディエンスからの評 価を気にすることで,自己を抑制し過ぎてしま い,実際の真剣勝負の場において十分に力を発揮 できずに終わるというケースも見受けられる。こ のことから,野球部員はスポーツとして野球を楽 しむことから乖離した状況に置かれることにも繋 がっているといえるのではないだろうか。 このように,結果として高校生に対して「型」 を要求することが,果たして教育の一貫として寄 68与しているのであろうか。今後は,これらの解釈 の枠組みとして,「さわやかさ」や「高校生らし さ」の再生産の場としての高校野球が,どのよう にして教育と一体化しているのかを,社会学的に 考察しながら明らかにすることを課題としたい。 注 ⑴ 日本学生野球憲章 第 1 章総則 第 2 条におい て,以下のように記載されている。 ①学生野球は,教育の一環であり,平和で民主 的な人類社会の形成者として必要な資質を備えた 人間の育成を目的とする。 ⑵ ゴッフマンは大まかに,双方が直接身体的に相 手の面前にあるとき,それぞれの行為主体が与え 合う相互的影響を対面的相互行為と定義する。 ⑶ ゴフマンはあるパフォーマンスの間で開示され たり,演じられたりする規制の行為の形式をルー ティーン(役目)と定義する。 ⑷ ひとつのまとまりのあるルーティーンを演ずる のに協力している一組の人びとをいい表すのにゴ ッフマンはこの術語をあてている。本論において は,野球部員同士をパフォーマンス・チームとし て位置づける。 ⑸ ゴッフマンは人間の行為の流れがその前に,そ のうちで,それに向かって演じられる背景や物理 的配置などを舞台装置と定義している(E・ゴフマ ン,石黒訳 1974 : 25)。 ⑹ 「朝日新聞」2012 年 8 月 13 日付 ⑺ 大会審判員のからの談話 ⑻ ゴッフマンはパフォーマーが観察者にいくつか 異なった仕方で理想化されることになる一つの印 象を与える傾向のことを社会化と定義する(E・ゴ ッフマン,石黒訳 1974 : 39) 引用,参考文献
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