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中世紀に於けるギルド制度崩壊の外部的原因-香川大学学術情報リポジトリ

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欧洲経済史を楢かれる人々は申せ紀に於て川謂経済ギルド或は産柴ギルドと栴せられる〓鱒臍制度、換言すれ ぼ商業ギルドやエ菜ギルドが如何に同時代の商工業の磯展に寄興する所の多かったかを知らる1であらう。叉同 時に他面に放ては、之等のギルドのメンバーが閣王より或は郡市常局より種々の特権を附輿或は買収等の方法に よつて接待し、之を利用することに依って、ギルドそれ自健が畿展すると共に、メンバー各月の鼻糞が恐展掘張 説 第岬 序 第二 ギルド削度崩壊の外部的原因 一商工兼の簸蓮と苗場の採張 二 及整復興及び宗教改革に依る人心の欒北 三 中央払概の撰大強化 巾骨組に於けるギルド制度崩壊の外部的原因

中世紀.に於けるギルド制度

崩壊の外部的原因

第− 序

賓 次

︵三五九︶ 六三

(2)

第十劇馨 第四戟 へ≡ハ○︶ 六四 せられ、ると共に、産を積むに至って、中他紙の中堅敢昏僚を形成して重きをなト、更に勢力を得るにつれて、国 王や郡市笛局の監督から離扮して組合自治制慶に迄進み、ギルド組織常初の目的の外に政治的目的をも有する様 に怒り、ギルドの代表者虻滞命に逸り、途には市の高級吏員即ち市長や助役の位定までも奪って市政を左右する ものが少くなかった事蜜も認められるであらう。かくの如くギルドが勢力を得る把従ひ、特樵を濫用して紳合員 の経済的利益の増進を踊り、極度に組合員以外の商工業を塵迫して彼等の匪番的活勤を不便ならしめ、組今員と の競寧を不利に導いて彼等を窮地に陥れ、或は排他主義を探って組合員たらんと希望する宥を排斥Lて、掲占的 利益を少数の組合且で墾断するに至ったのである。組合員たるの資格む腿垂にしたり、加入金む増加Lたり、親 方試験に際して其の受験者たる職人に高憤なる材料を用ひトめて、貧困なる職人をLて受験を困難計らしめたる が如き、文武鹸合格者に封しては宜額の費用を要する披露宴妄癒刺したるが如き、親方の屈ひ得る徒弟敬を制限 したるが如き、何れも排他主義の具頒化された事賛に過ぎないのである。之等昼単に剛、二の例を示したに過ぎ、 ぬのであつて、他にもか1る事例は決して少くはないと思ふ。 右の如くギルドが経済上に於・て牌叉政治上に於て専横を慈にして他を顧ることなきに至つて、弊害は百出し、 組合員以外の着からは怨嵯の的となつた山は雷然と言はねばならぬ。何時の時代でも、如何なる人、如何なる図 照であつても、我縫防手な行動、道理に従はぎる行動は許さるべきではない。常に椙遥を歩み、時代に即して正 しき主張をなし、伯仲天地に恥ぢざる行動をなすものこそ堅嘗なる輩展となし、眞に柴えるペきである。経臍制

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慶の如きも亦同様であつて、ギルド制度は十五、六世親に入つてから此鮎に於て快くる朗が甚しかつたのであ る。其の馬めに⋮時昇天の勢で前進し畿展した此の制度も途に衰へ、嘩骸を近せに竣すに過ぎぬ状態となつてし まつたのである。 選者は眈にギルド制度が如何にして教生、畿屈したか叉如何なる組織であつたか、或は叉ギルド制度の庶幾界 に及ぼしたる影響.郡市との開等係についても薯干の研究を公忙したので、韮にはギルド賛展過程の末期に於け る衰微の外部的原因につき∵督を幽へんとするのであるが、しかし此の鮎に関してはかつて頚表した﹁エ柴ギル ド﹂なる一論に於ても並ぶる朗があつたから、鼓には成るべく畢複を避ける様に努めたが、而も倫ほ前後の関係 かう重複の止むなきに至った箇所もあり、叉前論と併せて叫講を願ふならぼ本論の郁足ともなる繹であるから、 此の鮎試着諸賢に御諒知を乞ふ次第である。

第〓 ギルド制度崩壊の外部的原因

凡そ生物は何れも或る環境の中に教生し、敬展し、やがて義春し途に死に至るものであつて環境から全く離れ て存在することは出来るものではない。従って環境は生物の磯生、教達、衰頑等に直接間接に影響を輿ふるもの であることは疑ふ飴地はないことでぁる。而して環境は厳密なる意味から言へぼ絶えず欒化してゐるのであるか ら、自然それが生物の教生、畿連、義朝等、要言すれぼ生物の生命に普恵何れかの影響を及ぼすのは常然である 中世紀k於けるギルド制度崩壊の外部的原因 ︵ニ〓ハ仙︶ 六五

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発十仰春 希四署 ︵≡六こ︶ 六六 二駁的に見れぼ生物が環境の欒化に適悠してゆくことが出来れぼ、健靡を保ち天寿を完うすることを得るであら ぅし、之に反すれば安外早く衰瀕して隼命を失ふに至るであらう。尤も生物就中人間はそれ自偶の本能、エ夫、 努力等に依りて環境を動かして自己の生存に郡合のよい様に欒化せしめることも不可能ではないが、環境の力の 偉大なるに比すれぼ生物の此の力は緩々たるものである。ギルド制度も此の瓢に於て生物と環境との関係に相似 たる朗がある。即ちギルドも絶えず攣化しつ1ある環境の欒化から営然影響を受けなければならなかったのであ る。而して次に述べるが如き外界の事情の攣化がギルド制度の磯靡を抑制したるに止らず、その馬にギルドは嗣 されて、即ち環境の蟹化に適應する魔竃を採ることが出来なかった焉めに、段々と勢力を欠ひ、特横を奪はれ、 時代に即せざる二間歴として衰微し、生命を失ふに至つたのである。 −商工業の敬展ざ市場の横鯨 飲洲にありては十三世紀が中世史の最高調に達した時代であつた。十掴世紀に入ると早くも中隊的傾向が幾分 衰へ始めて近代的傾向に向つて釆たけれども、しかし未だ近代的琉叫固家は生れす、諸侯、貴族、郡市、救命等 が封宜して割接し、国王と雑も主催を充分に仲良して、閣内に普く威を振ふことが田釆なかつたのである。然る に十五せ妃に入りてよりは此の形勢は漸次欒化するに至り、国権が段々強くなるにつれて、諸侯、貴族、郡市、 敦合等の勢力が塵迫せられ、或は彼等の桂根は制限せられ、或は領地を没収せられ、或は合併を弧制せられる横

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忙なつたのである。かくの如くして中世紀時代に多数鱒分立してゐた地方が段々と大なる英国となつ宅郡市の合

併の如きも其のン仙例である。而し▼て重機が強くなるにつれて地方分健の力は弱くなり、途に近代的統小関家を出

現するに至ったのであるが、かくなれぼ政治は勿論園民の・経済状態も自ら表せざる

即ち以前には政治は叫地方或は剛郡市に各々孤立的に行はれl位民も孤立して経済生満を営んでゐたのであ嵐が、

今や隣人を敵組したり、外人成しゐることは出来なくなつて同〓君主ホ許に統一せられ、相携へて生活の向上を

計らねぼならぬことになつたのである。従つて狭陽なる地域に閉込められて属り且つ排他的傾向の強い郡市紅顔

の如きも、最早や時代に即せざるものとなつてしまつたのであ・告之に代ったもの望一口ふまでもなく国民経済で

ある。園民経済は決して地方的、排他的、特種的性質のものではない。仝観的、調和的、〓版的性質を有するも

のである。従って経済的磯展も此の方向に向つて進まねばならぬ。それ故に閲王は弧化された樵力を貨幣、度最

衡、税制、交通、生産、滑費等あらゆる経済部面に於て図民約統一的に用ひねばならぬのである。其の結兼従来

地方的諸制度、組織の上に仙大革新が起り、劇団を単位とする制度、組織が生れることになつたのである。観民

も地方的偏見を捨て1他地方の利益とも調和し、進んでは団民会鰐の利益を調和せんとの精神を有する様に攣っ

て来宅勿論改革忙も牒ら二足の順序を踏まねばなら氾。急速なる革命は別として黙らざる限り漸を迫ふて抑つ

べきを持て、探るべきを探って改革の賓を蓼げることが改革に必質なことである。凄から統仙図表が出来上つか

たらとて何も彼も劇戴呵勢に前時代の文化、制度等を突如として表してし針ふことは出奔るものではない。楷

中世紀に於けるギルド制度崩壊の外部的原因 ︵二〓ハ三︶ 六七

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︵≡ハ四︶ 六八

第工巻 第四誤

に絃臍制度の如きは之が完成される迄には可成長い年〃を経過してゐるのであるから、之が改まるにしても其の

俸統や習慣が自然に新制度の中に埋るを常とするのであつて、之等が仝然排除せられてしまふこと竺ハケしいこ

とであつて、之等が跡形もなく満城してしまふ迄には長年月を必要とするであらう。

右の如くであるから、郡市経済から観民経済に移ってからも、郡市経済の片鱗は各研に散見せられるのであ

るq例へばコルベヤJ昌二宮1is−eCO−bert︵−空忘卜⊥空讐︶が織物商人より身を起して途に∵六宍∵二竿に太織大

臣とな少、更に∴六六五年に宰相となつたのであるが、彼は在任中に巽南素養の資現に努め、以て園富の増進

を観り、国力を充賛し、図威の教拐をなさんとし保護干渉政策を廃城と富はれるまでに賓行したるを以て知られ

てゐるのであ亮が、彼がか1る政党を行ふに際して、督ヴェニス1訂niceやフローレンス句−OrのnCeで行はれた

政策饗硯の方法を多分に取り入れたるが如き其の茹である。それは兎も角として地方経済、孤立経臍、郡市紅

顔が破れて全開的経済、調和経済即ち闊l民経墳は成立し其の後年羞ハに充饗し登展したのは番蜜である。其の焉

めに交通堪輪横綱、商業補助捷細五療達し、人口も増加して釆たから商品は最早や狭陽なる坤万邦婁を目的とせ

や、全国的市婁を日枝に製造せられ、商人の析躇範園も着るしく蠣大せられ驚か1る希賓は鋏い境界内に閉ち 込められて居り、しかも廣い地域を市場とすることの川釆ないギ∼ド制度には大打撃であつたに逮ひない。特に ≡ンブスChrぎp訂rCO−umb宏ハ一芸⊥蓋︶の叫四九二年よヱ五〇凶年に至る問に四回に官る拭陰に依 ってアメリカ大陸が教見せられ、叉ヴアスコ・ダガマざ筈daG冒a︵1蓋⊥琵︶が寄望峯を周航してアブ

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リカ大陸の葡岸を北航し、印度渾を横断して〓四九八年印度マラパルMa−abar梅岸のカリカットムa−ic已に到 着して鼓に印度航路が後見せられ、叉マジラフン﹃erdinandMのge︻lan︵l烏○−芯巴︶に伐り世界周航¢大事盛 が完成せられ、共他色々の探緻家によりて従釆未知の土報の頚見や開拓が行はれたので、之等の地方と欧洲紺閲 との通商が開かれるに至り漸次其の有望なる寄がわかつて来たから、之迄商業上茸嬰祀せられてゐた欺洲や地中 海の小天地は着るしく其の盈婁性を失つてしまつたのである。勿論従来と雑も歓洲と東洋、アフリカ等との通商 がなかった繹ではないが、それは稜々たるものであつた。然るに新大陸や印度航路の後見や航海術の進歩等によ ってアメリカ、印度などとの交通が頻繁となり、商人は競って、之等の地方と通商し、年と共に盛になつて釆た のである。即ち地方市場から全図市場に進出した商品は今や更忙躍進して世界市場に向ふことになつたのであつ て、之が蔑めに愈々ギルドの満勤は妨げらるゝに至ったのである。それ故に商業の中心地は地中渉を去ってしま ひ、一.時賑盛を極めたジエノアG昌Oa、フローレンスF−OrenC巾.ヴェニス<釘已ce、ピサPi∽a、其の他の商業 部市は漸次衰へ、遮に陰気に鎖されたる死の郡市に化してしまつたのである。ギルドは右の如き緒事情の欒化か ら深刻なる脅威を受け努のは常然であるが、此の轡 れは途に不可詑であつた。 せ界市場の額展によりて、商晶の需質は着るしく増加した。せ風に散在サる人々の需要を満たす矯めには従来 の如き小規模生産では間に合はない。生産方法強攻めねぼならぬ。叉大資本濁必要である。金融梯開も協力せね 中世紀忙於けるギルド制度崩壊の外部的原因 ︵ニニハ五︶ 六九

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第十山容 第四壁 ︵三六大︺ 七〇 ばならなくなる。かく七て資本主義は刺儀料受け非常に饗達して釆た。而して大商工要は勃然として起り、商人 は新天地の富源の開畿に努め、エ発家はその地方に造る商品の製造に懸人甲の努力をはらつた。而して同時に、取 引用、銀行も恐展し.交通運輸撥闊、通信、廣告機関、印刷術なども興って来た。かくして大商工業家は富を積 み、勢力を得るに至つたがそれにつれて彼等はギルドの特樵や猫占を侵し、排他主義に反勤し、徒弟制度などを 無税してエ場に遊民や婦人や小供の努働着を雇僻して働かせた。ノルウィッチ20rWichに於けるエ場では六歳の 子供を労働者として使ってゐた程である。省い農村郡市が今や商工郡市に攣り、織物工場、食糧製造工奴等が各 所に興り労働者も著しく増加した。英閣などでは貧乏な農民が多かつたのでエ菜豪の需めに應じ苔んでエ場に集 ったといふことである。従来排斥されてゐた外聞労働者も這入つて釆た。ギルドは新興ざ業に封して死物狂とな って反封し、焉めにギルドと新工業家との問に紛寧が頻々として起少、多数の訴訟事件となつて硯はれてゐる。 然しながら々のために新工柴の牽展は妨げらる1ことなく、ギルドの反封妾張は破れ、その道勤は効を奏しなか った。 更に大工柴の語展を助けたのは分業と機械の語蓮であることを〓呂したい。多くの製造品はそれが完成せられ るまでには幾多の生産過程を経ねばならぬ。尊宅工琴について見るに、兜づ洗はれ、次に打たれ、親られ、油付 けられ、紡がれ、織られ、布目を密にせられ、引延され、染められ、仕上けられJ返りた1まれるなどの過程を 必婆とするのであるが、之客の仕常は手工業時代には同叫労働者或は小数の労働者に依りてなされてゐた.のであ 、\∵..ヽ

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る。然るに今や機械しかも蟹越せる機械の使用によりて部分的の仕事を忍門の努働者が分業的になすのである。 恐らく今日では右の生産過程は十屠細分されてゐるであらう。機械の使用と分業の蟄達によりて大量生産が出 来、生産費の減少従って憤格の低下となり、且つ生屈時糊の節約が招来る株になつたことは申すまでないことで ある。英観では械槻のない時分にはバイブルの僧格が六百クラウンもしたのに、印刷横が智明されて間もなく、 其の十分の劇で求められる様になつたといふ葛である。今日では磯捗も覆達し大量生産をされる様になつたから 更に著Lく安倍となつたことは読者諸賢の知られる通りである。之は単に一例にすぎぬけれども織物でも、道具 でも手工共時代とは比較にならぬ安倍に、しかも容易に豊富に得られる様になつたのである。か′\して省いエ栄 は襲へ従って古いエ発と密接な拍備にあつたギルド制度も衰級せざるを得ざることとなつた。ギルドは絶えす新 興勢力に勤して反対したに不拘、時勢に適合した新工業は順調に費展したのであ㌃。尤も大工業の牽達はよい品 物を安憤にしかも大量に供給することによつて人類の経済的慾望をよりよく充足し、物質文明の向上に寄賂する 朋が大であり、人間に宰隔をもたらしたといふ長所があるけれども、叉其の反面には多数の夢働者は背離なる規 則に束縛されて長時間安い貿銀で働かねばならぬ境遇に銘入れられ、苗への筋肉的熟練労働から得らる1労働上 の興味をそがれ、牌殊に封する猫立的企業家たるの希望を失ひ、終生労働者として邁命づけられてしま払無躊階 級に釘付けにされたるが如き紋鮎もあつた。叉資本家たる雇主との間に利啓の衝奨が起り途に賓承家階級と努働 ′階級とが別々に困醍を組織して判宜し、・色々な敢食間題や労働問題を惹起するに至つたことば決して番ぶペきと 中世紀k於けるギルド制度崩壊の外部的原図 ︵ニニハ七︶ 七二

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︵ニ〓ハ入︶ 七〓 第十〟窄 第四が とではない。殊にエ発の磯達、に伴つ.て弊害も多くなり、螢働者の白魔が高ヰTり、階級意識が明確となり、労働組 合の組織が拭大観化せられるに従って、之等の問題も複雑多岐に亙り、随分深刻なる闘寧が檀る楼陀なつて発た のである。ギルドは像華や之等の紛寧を鋳める資力を失ってしまつてゐる。そこで小暗は労働者の結酢樵が否定 せられたり、大倉を開催することも武器を使用すること.も禁ぜられたりしたこともあつたのである。 要するにギルドは商工柴が狭糧なる地域に閉込められ地方市場を目標として小農の物資を製也し之を配給する に適する制度セある。文化もあまり向上せす、床菜も幼稚であり大資本も不要な時代には此の制度存泰の意味も 充分あつたけれども、既に各種席柴が獲展して市場が全問的となり、更に進んで≠界的となるに及べぼ物資の製 造も配給も運搬もギルドの如き小資本、小総督を以てしては満足に出来るものではない。そこで自ら新時代忙即 した企菜が興や、此の時代に適合した生産紺摸が静展し勢力を得るに至るは自然の球と富はねばならぬのであ る。此の大勢はギルドが如何に反抗しても、到底動かし得るものではないのであつて、時代に適せざる制度は其 の改革が行はれざる限り布衣の富野性を失ひ建つて東棟に向ふの、は止むを循ぬ期である。 〓 交番筏輿及び宗致改革に依る人心の埠化

1、文 重 複 興

商工業の牽建と市場の腐張とが如何にギルド制度に影響℃たかに就いては、既に概螢を詮明した朗であるが、 、 ・\トし

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此の外部的事情の欒化は常に頗さに於て起ったのみでなく、怖質の上にも憩ったのであつて、之がギルド制辟崩

壊の〓凶となつたことは否定し難い事蜜である。欧洲では十荒世親から十七他紀にかけて文整復輿、宗教改革、

国家地力の強化等の重要な事件が起った。而して之等は何れも欧洲の文化史上の問題として興味をそ1る計りで

なく、経済史上の問題としても亦重要な事件であり、興味ある問筒であると倍するのである。しかし鼓には只之

専の団来賓がギルド制度に如何なる影響を輿へたかについて〓警琴むなすに留める。

文整復輿Rのnaissanc巾は再生、役所、新生等の意であつて笛代文化を復興するといふことである。しかしな がら常に苗代文化を其のま1復活させるといふことではなくして、新時代に適合した文化を別法せんとの珊念か

ら出た文化運動である。換言すれば中世論定於ける理想、文化、生前等を離脱して、新時代鱒適したる、或は新

時代を創成教展せしむペき坪想、文化、生析等を穿き上げんとする新興運動である。たゞかゝる運動が古代文化復

興の形式を通して行はれたといふ所に文繋稜輿の特徴があり、叉文整復興と呼ぼる1桝以でもある。故に攻勢復

興を単に古代の語箪や文嬰や美術等を役所せしめたものであると解するのは部分的考察の結果であつて決して普

段待たものと望見ない。文裳復興を州般的に警百すれば苗代文化復清遊動を通して行はれた智的革命であり、

人間生前に於ける全般的革新であると冨ふべきである。

ギリシャ、。−マの古代文化はローマ帝園の段落上共に衰へたが、しかしそれは全然なくなつ七しまつた繹で

はないっ主として伊太制人の潜在意識となつて残り、中世を通じて其の片肺を見ることが出来るのである。両し

中世紀に於けるギルド制度崩壊の外部的原図 ︵三六九︶ 七三

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て中世末期に教魯文化が磯展した時代には舌代文化に封する憧憬が強くなり、途に之を質現せんとの運動となつ たのであつて、此の新文化運動は内容的にも地域的にも漸次恐展して単なる文塾の復活から人間生活の打開運動 となり、又運動の中心地はフ臼−レンスであつたが、段々P−マ其の他の郡市に及び、更に伊太利生土に廣がり 北中欧諸闘にも侍播し、途に其の効を敬むるに至つたのである。それ故に文重役興運動は政治上にも宗教上にも 関係する研が深く、玄に述べんとする経済上にも密接なる閲係を有するのであつて、此運動が新興の商工業階級、 資本家階級とも鹿手して行はれたといふ事嘗を見のがしてはならぬのである。文襲複興に昔を用ひた文革若や聾 者の中には、光輝ある過去の文化に封して熱愛するあまりに、只単に古典の研究にのみ没頭して死せる国語の薦 めに、現在の図譜を捨てゝしまふといふ様な弊に格つた潜も決して抄くはなかった。倉話や手紙に現代語や現代 文を用ひずして一首いギリシャ語やラテン語などを用ひたるが如き、其の他生活様式を苗代のそれを其のま1取 入れたるが如きは二例に過ぎぬのであるが、か1る者は叫軽の賓琴選奨豪に堕してしまつたと言ふべきであちう。 此の種の人々は竃興研究の焉めに長年月を費し非常な努力をなしたのであつて、苫典に関する智識を豊富に持っ て居るものを上流階級の着であると考へて尊敬崇挿したのである。従つてか1る教育を受けることの田釆ぬ努働 者の如きは、下僚階級であり軽蔑すべきであるとした。斯様 あつて、之が薦めに隆々の階級別をつくつた。商人階級と労働階級との直別も此の思想によりて促進された。文 字工発着の行ふ美術的部分が専門的兼術豪の仕事となり、韮にも実術家と手工発着との分岐が現はれ、莫術家は 第十二管+ 二第 m用紙 ︵三七〇︶ 七四 ¢

(13)

庶民魔扱から去って富者たる上流階級の仲間入りをすることになつたが、手事業者の大部分は中露階級或は下暦

階級に留まり労働階級と何等選ぶ朗がなくなつた。此の様な分岐に弊害不利の伴ったことは歴史家も詮く所であ

るが、ギルド制度に関連して之を見るなれば、ギルドから多数の糾合員を失ふこと.∼なり、馬めに其の勢力を失

ふ結児を見る忙至ったのである。

而しながら文重役興を熱望した者が何れも文勢追撃家になつてしまつた詳では勿論ない。表的に見れぼ眞の

文薮復興即ち生活打開運動に向って突進したのであつて、そのために科挙に封する研究心を刺威し、創意の精神

を喚起し、磯明改良への努力を促したのである。その結果常時の人々の智識が着るしく閉篭せられ、科挙は進歩

し、世界軍人生構の立直しが出来、韮に中世紀の文化より近世への文化を産出し得たのである。特に茹に述べ

ねばならぬことは、進歩せる料率がエ業と結合してエ業を着るしく進歩せしめたといふことである。勿論工費の

磯展は眈に蓮べた様な市場扶張に伴ひ商業が牽展し、その影響を受けたには相違ないが、エ莫覆展の技術的方南

に科挙の輿へた買献は決して僅少なものではない。又同時に文重役興によつて人心に起った欒化、即ち人々の近

代的理想、近代文化の建設、折代生活の創始等の等質は古い侍統を打破せねぼならなかつた。生産組絞、生産方

法を改善せねばならなかった。而して中世紀的束縛から離脱して近代的自由平等の立坂に於て活動せねぼならぬ

といふ思想に欒って来たのであるから、特殊階級の特樵を死守する焉めに排他主義から出費してゐる所のギルド

の諸取締規則は仙般の人々に到底受入れらるべきものではなくなつてしまつた。結局ギルド規則は新時代に逆行

中世紀近於けるギルド制度崩壊の外部的原田 ︵一二七一︶ 七五 篭耶照

(14)

菟十仙巻 第四班 ︵ニ石〓︶ 七六 する憲規則となつてしまつたので、囲により、ギルドによ諸相優の差、時代の差はあつたけれども漸次靡止せら れギルドの勢力は次第に褒へるに至ったのであつて、従ってギルド制度の許に成立してゐ食朗の堺働糾終にも欒 化が起少、近代的のものになつたのである。

2、宗 敢 改 革

伊太利に於て文整復興の遊動が盛に行はれてゐる時分に北部澗逸に於ては宗教改革Reどmati昌運勅が起っ て釆た。此の運動も初めは宗教それ白牒に封する改革運動であつたのであるが、段々進展するにつれて政治、経 済、配合、思想等からゆる方面に於骨る改革運動となつたのである。結虜実数改革から椚賛した桝の人間の配合 生所全般に官つた革新道励であり、中瀬的東縛からの解散運動であり、自由平等樵獲得運動であると筈ふことが 出水るであらう。此の別に於て前述の文教復興道勤と二脛鱒通する桝があり、叉ギルド制度への影響も町域損く 及んだ詳である。今玄には此の運動畿展経過の大要を述べてギルド制度に如何なる影響を興へたかに言及したい と恩ふのであるり 中世紀に於けるキリスト教︵哲敢︶はいーマ教愈が中心となつて居たのて真数上に関するすべての瞥梯は教愈 従つてローマ法王の掌中に放められてゐた。敢愈の活動は仙而には民衆に車幅を舶ハへたけれとも叉他所に・は民衆 を東紬し、信者から樺財を集めて我健勝争な行勤をなしてゐたのである。而して信者が多くなるにつれて教食も 牧師もあま牒に世俗化し堕落してしまつた。勿翰敬鶉そのものには洗遠、な坪論もあつたには相違孝いが、乏を詮

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く者は徒らに形式にとらはれて必ずし丑ハの数理を正しく倍へなかった。それ故に眞のキリスト教童を知り信仰

を沈めんと欲する者、特た北方猫逸人の如き埋論を好む信者には不満牢感ずる者が段々多くなつて来たのであ

る。そこで右の如き捕況を改めてバイブルを中心とする信仰生椚に立締らんとの希望が起り、途に之が具鰭化し

て宗教改革運動となつて規はれたのである。此の如き攻彷であるから、批の運動が喫然起り而して直ちに成功し

たと考ふるは絞りである。既に十三、囚世紀頃からキリスト教反抗運動が起って来たけれども、常時は救命の椎

力が非常に弛かったの・に反して民衆の力が弱かつたので、か㌧る運動は数愈や法王から敵ちに繹郎せられてLま

ふ有様で、遊動の効兼に見るべきものがなかつた。

然しこの道勤は右の如き離迫に依りて滑ゆることはなかつ莞十瓦聴紀後年から十六せ紀初莱にかけてオラン、

ダ人文単著エラスムスDO監eriu昌rasmu⋮。nR昌e註m︵−芸⊥∽uの︶は宗教攻単に慮を用ひ、敦倉の弊風 や俗僧k射して痛烈なる攻撃をなすに至り監岩永衝撃晶へた。彼は文塾復興の代表者でもあり叉宗教改革の

発願着でもあつた。彼は十凶蔵の時雨親を讐てから寺院に入りて埜草したこともあり、這九六年より歓洲

各地を巡老犬単に入り拳聞の研究に汲萌したことも晋、嘉〇九年英望ヘンリー八世夢ry.遥︵査竿 −害︶忙招かれてケンブリッジ大軍で数年闇細胞及びギリシャ語の教授に従った。而して没書の研究には特に力

を托ぎ途にギリシャ語の撃誓と⋮版するに雪た。之が宗教改革に大なる影響患ハへたのである。尤も彼は調和

的性格の持主で雪た薦めに密行方面に快くる研があり、且つ彼哲リス・ト教の根本義や致命組離、・致命政治等

申他祉佗於けるギルド制度崩壊の外部的庶由 ︵三七≡︶ 七七

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について否定的態度を探ってゐなかったから、自然訟く朗が改革の本源にふれなかったのである。のみならす後 年に至っては宗教改革運動が救命の統咄を破るものであると考へ、途に此の運動に反判をさへなす様になつたの である。 然るにルーテル Martin LutheH︵−怠∽−−∽会︶出づるに及んで改革運動は躇逸した。彼は則凶八三年ザクセン 州に洪坑夫の子として生れ、長するに及びて大単に畢び、叫互一二年には眈にウィッテンベルヒ大螢の紳畢教授 阜 の栄位についた。彼は鋳の如き意志を持ち探い信仰家であつたが、常時のキリスト教の俗化や、致命、法王の横 暴を見て激怒し、途に敢禽政治、致命の教義等に劃する非難攻撃をなすに至り、教禽の支配下に立つことを否定 した。此の鮎はエラスムスと全然興ってゐる。而して彼は壁書のみを倍率する正純なるキリスト教義を開明にし 之に従ふべきものなることを力説した。断定二肯二七年鵬○月三二日に冤罪符indu−gencのに封する﹁九十丘箇 候文﹂を公にして鋭い攻撃をなした。此の攻撃に射しては軟骨御用単著はこぞつて反判tたが、叉他面には彼に 左祖する多数の同志を得て一大国民運動にまで進んだといふことは注目に慣する。鼓に彼の改革運動への静端が 求められるのせある。今免罪符につ女二言豆んに、ローマ敦倉の教義に依れば生前罪を犯した者が死ぬと、其の 珪魂が地下で難行苦行をした後初めて昇天することが出来る。然し若し生前に教倉へ浄財を寄進すれぼ法王から 免弊付七補するお札が授けられる。之を受けた者は雉行苦行が麟蔵せられ容易に昇犬することが出水るといふの である。今日吾人よlり見れば誠忙馬鹿々々しきことではあるけれども、智識の礫い而も信仰忙溺れてゐた中世紐 第十血巻 第四窮 ︵≡七四︶ 七八 野鼠恩遇酢

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の礪逸の農民は之を信するものが多かつたので免罪符が盛に蛮行せられ、従って乏は数脅の有力なる財源となつ てゐたのである。ルーテルは此の弊を打破して愚民む救ひ、教禽、法王を暦懲して虞の信仰に生きんが馬妙に哉 を始めたのである。 然るに其の後法王とルーテルとの聞に協調がとれ、流石世人を驚かした大事件も平穏裡に解決するかに見へた が、たまく叫五叫九年にインゴルスタット大挙紳拳教授エツクJO訂nnMaちさnEck︵忘00の−︼ひ畠︶がライ ブチッヒに於てルーテルと封諭し、彼の所詮を猛烈に反駁したのに刺賎を受け、彼の態度は俄然硬化し、以前よ りも甚だしくローマ数昏に向つて反駁攻撃を加へ、法王の偉力を全然否定し、−人は蟄苔中心の信仰に生きねぼな らぬと絶叫して宗教改革運動に幕進するに至つたのである。而して彼は﹁ドイツ民族のキかスト教貴族に輿ふる 書﹂、﹁バビロニア捕囚に就て﹂、﹁キリスト教の自由に放て﹂の三着を公にして某致改革の根本養を明にした。敬 愈に於ては彼を破門し途に異端者なりとの宣言をなした。彼吼自分の身遜に危険の迫つこゐるを知り、軸時ザク セン侯フリドリツヒの庇護のもとに隠れてゐたが、間もなくウツテンペルヒに掠り身命を榔って改革運動に東奔 西走した。その結果途に彼の努力は酬ひられ新教が薯敦同様に認めらる1に至り鼓に宗教改革の大柴が成功した のである。此の成功は彼の深い信念、固い意志、不断の努力の賜であることは勿論であるけれども、叉常時の諸 侯や郡市の後援が興ってカありしことを忘れてはならぬ。彼はかくして〓九凹六年にアイスレーベンに逝い磨が 新教波の甜たる′輿督は永遠に持続され.その信者からは無限の崇拝を受けつゝ、地下に阿波の竣民を庇護してゐ ふ 中世紀に於けるギルド制度崩壊の外部的原因 ︵三七五︶ 七九

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第十姦 策四躾

︵三七六︶ 八〇

る次鎗である。而して改革以来新教は欧洲北批緒圃に廉まり披くべからざる芙勢力・を得るに至つ宅

宗教改革経過の大安は以上の如くであるが、量にも述べた様に此の改革は決して宗教のみの改革ではなくLて

人間の中世的生活から近代的生活への移行運動であり、解放運動であり、あらゆる部面に於ける改革運動であつ

たことを確認せねばならぬのである。

さて点数改革の結果欧洲諸民族の問に﹁我﹂に則する自覚が強くなり、﹁束縛より解放﹂﹁平等樵の拉得﹂とな

り、聖書ゐ熟顔む通じて智識が閃教され寛之等は何れもギル.ド制度存在には忠影響を輿へたのである。のみな

らす新嘗両教徒の戦ひの馬めに多くの郡市が荒された。郡描を棟撼としてゐたギルドは之が馬めに不利盈且切に

追込められねばならなかつた。叉之迄同二ギルドに属してゐたメンバーの中に新暫両教徒が出来て釆たから信仰

上の相違の馬めに協わ姦がとれなくなり、哲叙の盛な地方では新教徒たるメンバーが、新教の勃興し夜地方で

は蕾教徒たるメンバーがギルドを去らなければならなかつた。かくして信仰上からギルドの分解作用が行はれる

に至ったのである。覇欧の新教徒は表となつて北欧に避難桝を求めて移住することも少くなかつた。而して彼

等は移励と同時に商工共をも持って行ったのであつて、英閥の如きはか1る避難者から絹轟製造、ゴブラン綴織

数学帆の製造等の技術を輸入し得たのである。かくの如く、かつては同音ルドにあつて協力してゐた者が今

や他地方に移って彼等の放として活動することになつたのであるから、省いギルドが統率上封抗することが困難

忙なつたことは想像にあまりある。

=﹂1−り、川野L 三

(19)

要するに文索復興や宗教改革の結果人心に攣化が起りギルドは従来の如く特樵の維特、利用は自由平等の思想

に反するを以て反封が多く、馬め濫之より得てゐた経済的、政治的利益が著しく減少すると共に、ギルドの分解

作用なども起りて愈々其の勢力をそがれてしまつたので漆る。再言すれぼギ∼ド制度ほ新時代咋適合せぬ制度に

なつてしま収たので自戯衰微の止むなきに至ったのである。

三、中央基礎の購大強化

苗代に於ける国家は有力怒る郡市を中心とし、其の周固を包含する郡市国家であつて、今日の様な鹿大なる版

閲を宥し之老統側Lて政治を行ふ樵カを宿する者はなかった。中世紀に入りては各地に割接する封建諸侯がそれ ふ∼領地を有Lて政治を持つてゐ宅勿論鯛豪は存在してゎたけれども、封建領土の叩隕なる集合に過ぎすして、 之等諸侯を統∵し全土を統治する君主條はなかったのである。然るに近世に入りてより1以前に見られなかった

群の就一的国民的園家が建設せちれ、囲‡の推力が凍大強化されその力が全土に及び、政璃経済など彼の意に従

って行はれる様になつたのであるノか1る政治的攣化はギルド制度の上に直接強い影響を輿へるに至ったのであ

る。即ち重囲は強化された中央集樵に依ってギルドに勤して甚だしく干渉をする様になつ、て釆た。何故かと育へ

ぼギルドが特椎を濫用し、排他主義を智行し、嘉的に商工柴の磯展を阻奪すること甚だtく馬めに幾多わ弊害

をさへ生するに至つたので、ギルイを鷹迫して其の横暴なる満潮を防止し﹂新囁代に即する商工葉を嚢展せしめ

中世組立於けるギルド制度崩壊の外部的原因

︵三七七︶ 八州

(20)

る焉めに圃民に督柴の自由権を輿へることが必要となつて釆たからである。換言すれぼ囲民的利益増追の馬めに 干渉する必要が生じた繹である。しかし革にそれ丈の理由で干渉政策を嘗行したと限ることば川釆ない。此の外 に翠玉の政治的利益の薦めに叉財政的利益の馬めにも之が馬されたと言はなければならぬ。次に之等の鋸に関し て詮明な加へること1する。 フランスではルイ十一せどuis㍍l︵−余丁−−念∽︶がギルドの麿莞特棟を抑座して⋮般市民に営業の自由樵を 典へ、叉親方免状を国王から買受ければ親方試験を受けすして親方になれることが旧来、親方となつた時に催さ ねばならなかった披露宴を省くことが田来る様にした如きは其の叫例である。ヘンリーこ世H2nryi−︵〓芯ヤー 蒜諾︶は二空二三年に勅令を出して病院で働いてゐる少年達に手工柴的技術を授ける手工葉音には親方たるの資 格を附興したるが如きも之である。更にヘンリー拘世H昌ry−く︵−諾乎⊥亭;︶はギルドの規則を無用してエ場 を設け外国勢働者を迎へて免税其他の特健を輿へ茹で働かしめた。コルベヤは更に其の毒旨を汲んで閥立工場 ROyaこactOri認を造り其の経費は閲庫から支所し、工場長は閉王が任命することにした。汐au喜SやAubuss。n などの石鹸工場、海軍工廠の如きは此の種のエ傷であつた。叉同じく国立工場と呼ばれてゐたが前記のエ場とは 異った民営企発もあつた。之には租税免除、補助金の下附、支配人に封しては笥族の栴紀の附輿等の特構を典へ て保鼓したのである。A夢雪i仁eに於ける綴布工婁の如きは其の仙例である。か1る事嘗があつたに不拘ギルド が之等を防止し得なかつたのは中央集樺の蔑めに塵迫されてギルドの勢力が衰へた1め■に外ならない。而して新 弟十血巻 発四渋 ︵三七八︶ 八〓 \=∴鴇∴ I

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しく起った商工業が教達するにつれてギルドの特樺は俵審され、親等上の天敵となりて所動したのであるから此

の掛からもギルドの衰級は免れ難いことになつたのである。

次に国王自身の政治的利益の焉め・には地方に於ける勢力を弱めることが必要である。そこで各国の君卓は先づ

郡市を塵迫し出した。猫逸でも陳謝酉でも伊太利でも、同様の傾向が見られる。即ち猫逸では多数のハンザ郡市

が靡迫せられて勉めて少数に滅つてしまつた。彿蘭西ではルイ十四倣10uls舛Ⅰく︵1冨⊥ヨ︶時代に殆んど

郡市の自由槽は剥奪せられてしまひ、伊太利でも郁苗の勢力は全く地に落ちてしまつた。之等の郡市には多数の

ギルドが活躍してゐたのであるけれども、郡市と塔接不離の関係にあつたので郡市の衰亡は同時にギルドの衰亡

を意味することになハったのである。文例によりてはギルドの役員に官吏を任命し、ギルドを国王の意の如くに左右

したこともある。斯様にして郡市への墜迫は同時にギルドへの鷹泊となり、漸次特樺を奪ってしまつたのである。

最後に国王が財政上の利益を求めんとしてギルドに働きかけた寄を述べて本稿を閉ぢたいと思ふ1 フランス閏

王は或る時にはギルドの特椎を確認し更に之を横張せしめることに依って閥庫の増収を問らんとした。即ちヘン

リー三世謬n巧yIIi︵︼叫YT−−∽∞eはギルドの不正を浮化することに依ってギルド制度を強化せんとしたり、又

ギルド制度を全国的に普及せんとしたるが如き望県にギルド制度を磯達せしめんとの意聞からではなく、寧ろ内

心豊ハの反封であつたけれども、かくの如き璧心を表はしてギルドから金餞を納めしめ、或は新しい加入者から

加入金卑園塵忙約めしめんと企てたのである。叉山大七三年の税制の改革もギルドが其の基金を政府に納付する

申侶紀に於けるギルド制度崩壊の外部的原因 ︵三七九︶ 八≡

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むとに依?でギルドの生命を保持し得る結果となつたのである。叉非糾合員に封してギルドの特樵を侵害する様 な特擢を昏って財政を豊かにせんとしたこともある。〓望ハm年から前述の親方免状を薫りたるが如きは其の適 例である。ギルドは之に勤して反封したのは勿論であるが何等の効兼も宛られなかつた。しかし此の親方免状も ﹂五八州年の法律に依って全部とりあげられてしまつた。更に叉国王は直接ギルずの弱鋸訂攻撃し或は塵迫せん との気配を見せて、若しギルドが之をのがれんとして金銭を支梯へぼ攻勢や歴迫の手をゆるめた。例へばルイ十 四≠が仙六九山年にギルドの紳合意其の他の役員全部を闘壬の任命する官吏を以て之にあてんとす′る意志あるこ とを設表した。するとギルドは驚いて之を防がん馬めに、蓼拾萬藤を閲王に約めたるが如き、それから三年たつ て彼は叉ギルドの禽汁を監督し瞼蒸する制度を創設せんとの計憲を敬表し、岩L其の嘗現を好まぬなれば四拾蔑 好む出せと要求さられたのである。其の後になつても之に顛する要求が次から次へとなされてもギルドは之を握 絶することが出来す途には借金を生じ破産してしまふギルドも可成多かったのである。 固民の利益の馬めに国王がギルドの質樵む奪つたのは常然のことであるけれども、自己の槽力を揆犬猫化せん が巧めに、重宝の財政を豊かならしめんが薦めに右の如き行馬をなしたといふことは決して賞すべきではない。 しかし何れにしても主催の伸長、中央集樵の撰大強化に依りてギルド制度が嚢過せしめられたのは事蜜である。 以上は主としてフランスの事情について述べたのであるが英囲に於ても猫逸に於てもほゞ同様であつたと見て 美文はない。英、弼に於ける比町瓢に関しては本誌第五令第劇糖に記す研があつたから玄には之を省昇する。 第十則啓 発四畢 ︵三人○︶ 入四 よ殿髄躇静

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