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場所の格助詞《ニ》と《デ》の統辞論的特性--動詞との関係からみたふるまい---香川大学学術情報リポジトリ

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場所の格助詞≪ニ≫と≪デ≫の統辞諭的特性 〝動詞との関係からみたふるまい・〝

守 矢 信

明 0.日本語(現代口語。文語や詩的表現は除く)の格助詞≪ニ≫と≪デ≫は それぞれ固有の意味を持っているが,共通の意味も存在する。その−・つに「場 所の指示」がある。所で,場所の指示という点に焦点を絞ってみても,我々原 語話者がそれを通観的に使い分けることほできても,その相異を明確に説明す ることばなかなか容易ではない。言語が体系をなし,体系は構造化され,各々 の要素は対立から成り立っているというソスエール以来の観点に立つならば, 同じ場所の指示という役割を担いながらも,≪ニ≫と≪デ≫には必ずや対立し あう文法的基盤があるはずである。これまで格助詞を個別的に扱い,それぞれ の意味を列挙して−いる研究は少くないが,構造的対立という観点からこの問題 を解き明かした研究というものを筆者は寡聞にして知らない。私自身はフラン ス語学の一学徒にすぎず,国語学の問題には全くの素人ではあるが,母語に関 心を抱き,文法研究に関心を抱く者として,無謀な試みとは言えあえてこの問 題に対する私見を述べてみようとする次第である。 0,1すでに述べた通り,≪ニ≫と≪デ≫には「場所の指示」という役割が

ある。所が両者の統辞的ふるまい(comportement SyntaXique)は同じでは

ない。ある場合には≪ニ≫が許容され≪デ≫が排除される。ある場合にはその 道の現象が見られ,さらにもう一つの場合には≪ニ≫と≪デ≫が平行して用い られる。 本論では動詞の種類(他動詞,自動詞)との関係で,≪ニ≫と≪デ≫の使用 条件が異なる点に着目し,そのちがいを通じて両者の統辞上の特性を明らかに してゆこうと思う。

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02 考察に入る前に「場所の指示」という用語を限定しておきたい。これ はいわゆる「場所の状喝補語」(comp16ment circonstanciel)のことである。 すなわち,−・般に文における<AガBスル>の部分を文の核とするならば,人 は必要に応じて,それを場所的に定位する(localisation)ことができる。その 役割を果そうとして登場するのが,“いかなる場所デ”の≪デ≫であり,“い かなる場所ニ”の≪ニ≫である。場所を示す格助詞はこのはかにも≪へ≫, ≪ヲ≫等があるが,本論では考察の対象を≪デ≫と≪こ二≫の二つに限りたい。 なお以下の文例で≪※≫印は日本語として不適格,≪*≫印は日本語として 不自然であることを示し,≪?≫印(文頭)は「場所の状況補語.」以外の場合 であれば(例えば原因・理由,手段・方法,材料・原料などの意味,あるいは 主語,目的語などの文法機能)十分適格であることを示す。 1… さて動詞には大別して二つの種類がある。他動詞と自動詞である。■まず 他動詞と≪ニ≫,≪デ≫の関係から調べてみよう。 11ニ,デと他動詞 他動詞には≪∼ニ∼ヲ…・… スル≫という型(例:弟二泳ぎヲ教える)と, ≪∼ヲ……いスル≫という塾(例:うどんヲ食べる)があるが,場所の格助詞 ≪こ≫と≪デ≫のふるまいは両方の型において全く同じであるので,一・括して 扱うことにする。 ※3−・a)食堂こうどんを食べる ※4−a)学校二友達に会う 3−b)食堂デうどんを食べる 4−b)学校デ友達に会う ※5−a)自室二手紙を書く ※6−a)海二弟に泳ぎを教える 5−b)自室デ手紙を書く 6−b)海デ弟に泳ぎを教える

上の文例で明らかなように,他動詞文では≪デ≫はすべて適格である。こ

れに反して≪ニ≫は上例ではすべて不適格である。これは日本語の≪ニ≫が ≪ヲ≫と並んで他動詞文における動作対象,すなわち目的格(与格,対格)を 示すのに用いられることと関係があるように思われる。つまり≪ニ≫は場所を 指示する状況補語を形成する−・方で,動作の及ぶ対象をも指すのだが,機能を

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異にするこの二つが他動詞を含む文で競合する結果,後者が生き残り,前者が 排除されたものと考えられる(古語では他動詞文でも≪ニ≫が使われた:‘‘こ の岳二葉摘ます児’’)。その証拠に,競合関係のない自動詞文では≪ニ≫が場所 を示す格助詞として適格性を持ってくるのである(後述)。 ここでまぎらわしい場合を二点見ておきたい。劇つば,5−・a)の「自室」 を例えば「束京」にすれば適格になるのではないかという疑問である: ?5−C)東京二手舐を書く しかしこれは字義通りの意味(sens propre)の「東京」ではなく,「東京に住 んでいる人」(弟,娘,おじ,など)を意味する比喩的用法(sens丘gur6)で 1) あろう。比喩を非比喩化すれば,この≪ニ≫は,あなたニ,おじこ,恋人ニ, 等の部類に属する目的語であって−,場所の似て非なる表現であることば明らか である。 もう・一つは次のような場合である。 ?7−・a)畑工程をまく 7−b)畑デ種をまく いずれも日本語として適格な文である。しかしこれまでの結論「他動詞文では ≪デ≫が適格,≪ニ≫は不適格」ということからすれば,「場所の状況補語」 ほ7−b)の場合であり,7−a)の「■畑ニ」は他動詞文の≪ニ≫であるから 「目的語」を表わしているということになる。これはいささか大胆な判定だろ うと思うが,私はあえてこれを「目的語」と見なし,最終的な判断は各論の終 2) った段階で下したいと思う。となれば,7−・a)は次のように解釈される。す なわち,これは6−b)「海デ弟二泳ぎを教え れたものである,と: 6−b−1)弟二泳ぎを教える 1)住民の代わりにその居住場所を以てその住人を指す換喩(m畠tonymie)。

2)英語では“seed(SOW)a丘eld with com”〔畑に.トーモロコシの種をまく〕のよう に,「畑」は直接目的語である。それに対してフランス語では,興味深いことに,動 詞に応じて「畑」が直接目的語になったり,場所の状況補語になったりする:

〃On ensemenceun champ de mals”,“On s畠me du mals dans un champ” 〔畑にトーモロコシの種をまく〕

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6−b−2)海デ泳ぎを教え.る 6−・b)海デ弟二泳ぎを教える (=《6−b−1》+《6−b−2》) この観点を機械的に7−a),7・−・b)に応用すれば次のようになる: 7−a)畑二億をまく 7−b)畑デ種をまく *7−C)畑デ畑三種をまく (=《7−a》+《7−・b》)

こうして7−C)は6−b)と同じ構造と見なすのである。ここで7−C)が

“不自然”な文に映るのは,先に見た5−・C)同様,「畑ニ・」の「畑」が換喩 表現になっているからである。自然な表現にするには,比愉化された部分を非 比愉表現に戻してみればよい。すなわちこの場合の畑は‘耕された土地’’,“う ね”等を指し,その意味に解することによって理解は自然になる。この表現は 次のような−・逮の表現の一つに属している:

*7−C) 畑デ畑二種をまく

7−C−1)畑デ土二種をまく 7−C−2)ベランダデブランタ−・ニ水を■まく 7−C−3)境内デ参詣人こもちをまく 7−C−4)成田デ機動隊二汚物をまく このはかにも「∼ニ∼ヲ……スル」という型の文で,「∼ニ」の所に場所を示 す辞項が現われる例は多い。これを「目的語」とするか,「場所の状況補語」と するかについては,いずれのものとするにせよ問題を残すであろうが,取りあ えず現段階では素性のはっきりしている≪デ≫を場所の状況補語とし,≪ニ≫ は他動詞文では目的格を表わすものとする。文例の過多をいとわずに,以下に それらの例をあげておこう: 8,高松二愛着を覚える (cf,.東京デ/高松二愛着を覚える) 9.小学校ごプー・ルを作る(c董.浅野デ/小学校ニプ・−ルを作る) 10= 町ニゼラをまく (cf、.高松デ/町ニゼラをまく) 11..便所二落書をする (cf.番大デ/便所ニ/落書をする) 12。.壁こはしごをかける (cf\家デ/壁こはしごをかける) 以上で他動詞とニ,デの関係についての検討を終えるが,結論はすでに述べ

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たように「他動詞文で場所の状況補語を表すときは≪デ≫が使われる」と言う ことができる。 12 ニ,デと自動詞 自動詞の場合はやや複雑である。そこで自動詞をさらに三つの下位部類に分 けて見てゆくことにする: A,「場所の移動・方向性のある運動を表わすもの(行く,来る,着く……) B,「ある」と「いる」 C,その他の自動詞 12“A 「行く」,「来る」… 我々はふつう「東京二行く」と言い,「東京デ行く」とは言わない。上る, 降りる,着く,戻る,出る……など,場所の移動を意味する自動詞ほ,その日 指す場所,進むべき方向を≪ニ≫で表示する。従ってこの≪ニ≫が場所の状況 1) 補語であることばほぼ間違いない。では運動を表わす自動詞において,方向以 外の場所,すなわちいかなる場所・環境において<.AガCニ(向かって)Bス ル>かを示す,もう一つの場所の補語は現われないであろうか。その点を中心 に以下文例を検討してみたい。 ※13−a)八ヶ岳二沢に降りる ※14−a)京都二三千降に行く *13−b)八ヶ岳デ沢に降りる *14−b)京都デ三千院に行く ※15−a)奈良二宿に着く ※16−a)東京二秋葉原に来る *15−b)奈良デ宿に着く *16−b)東京デ秋葉原に来る a)系列は他動詞文の時と同様,≪ニ≫の競合である。ただし今度は目指す場 所,進むべき方向を示す≪ニ≫がその他のこを排斥している。他方b)系列は “論理的”には≪∼の場所デ♂∼ニ向かって……スル♂行為が行なわれる≫と 1)フランス語で場所の状況補語を表わす代表的なものに≪畠∼≫があるが,移動の動詞 と結びついた場合の≪a∼≫を「場所の状況補語」とすべきか,「間接補語」(目的語) とすべきかについては議論の分れる所である。『文の構造』(白水社,52∼53頁)で川 本茂雄氏は,これを「間接補語と状況補語の中間」という形で処理し,断定を避けて いる。

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いう意味で,理解は可能である。ただし我々の語感では何かしら不自然であ 1) る。少くともなめらかではない(*印は不自然な感を与えるときの記号)。そ の理由は二つあるように思われる。一つは同一つとにおいて,場所に.関する情報 ●●●● を二つ以上明示的に盛り込むことからくる重苦しさである。例えば今現在,高 松にいる私がこれから「大阪二行く」と言う代りに「西日本デ(又は,日本 デ)私は大阪二行く」と言う必要が生じようか。これは明らかに情報過多であ る。では過多でない場合,つまり二つの情報が二つとも価値をもっている場合 はどうであろうか: 17)修学旅行の時,北海道デ阿寒湖二行く 修学旅行は北海道に行き,その北海道では阿寒湖に立ち寄ることを,聞き手 が初めて知るとき,この文は何ら不自然ではない。不自然でほないが,それで もやばり重いという感は残る。このようなとき,我々はしばしば二つ(或いは 二つ以上)の場所を明示的に形式化することを避け,代りに「所属」を表わす ≪ノ≫で言うことの方が普通である: 18)北海道ノ阿寒湖に行く 19)奈良ノ宿に着く 20)京都ノ三千院に行く 不自然の感のもう一つの理由は,例えば「東京で安く電機製品を買うために 秋葉原に行く」という埋め込み文(「東京で安く電機製品を買う」+「(そのた めに)秋葉原に行く」)を,文脈を切り捨てていきなり省略した形で述べる場 合である:「東京デ秋葉原二行く」。この文脈が対話の相手に十分理解されてい るときには,13−b),14−b),15−−b)の各文も不自然を感じさせないだろ う。ただし,この場合の各文の基底構造は≪∼の場所デ…・…スルタメニ∼の場 所二行く(来る,着く,降りる……)≫であって,この≪デ≫は単独で自動詞 文に現われるものではないことに注意されたい。すなわち自動詞文に埋め込ま 1)文脈や場面が与えられた場合,※印や*印を付けた文もごく‘自然な”文に変りうる (例えば,‘なに?八ヶ岳デ沢二降りたって?!)。しかしながら,本論はあくまでも文 脈ぬきの,文の基本構造を問題にす・る。個々の文ごとに解釈の余地を拡大す−る文脈を 導入することは,考察条件の一遍性を犯す危険があるからである。

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れた,他動詞文の≪デ≫である。 元来場所や時を示す状況補語はあらゆる動詞の文に現われ得るものである。 「行く」,「来る」に代表される移動の自動詞にあっては,移動の目標地を示す ≪ニ≫が支配的で,かつそれだけで自足する傾向が強い。「或る目標地を目指 して行なわれる行為」の全体が,でほどのような場所や環境で行なわれるかを 示す状況補語は,ほとんど出現する機会をもたない。しかしそれほあり得ない ということではなく(cf小17の例,および53以下の文例),あくまで稀少だとい うことである。そうした事情を踏まえた上で,これらの動詞の場合,場所の状 況補語を示すものとしては≪ニ≫が適格,≪デ≫は適格ながら自然さに欠けや すい,と結論することができる。 1.2.B 「ある」,「いる」 「ある」と「■いる」のちがいは,動詞1h主語間の選択制限(restriction de s61ection)に依拠する。即ち「ある」は主語に≪無生物(植物を含む)≫ を要求し,「いる」は主語に≪人間,動物,その他の生物≫を要求する。まず 「、ぁる」から見ていこう。 21−a)右側二銀行がある 22−a)中庭二大木がある ※21−b)右側デ銀行がある ※22−b)中庭デ大木がある 23−a)石油缶二灯油がある 24−a)家こピアノがある

※23−b)石油缶デ灯油がある ※24−b)家デピアノがある

これらの例から「存在する」場所は,≪デ≫ではなく≪ニ≫だということが分 る。所で次のような例はどうであろうか: *25−a)家ニパーーティがある *26−a)教会二結婚式がある 25−b)家デパ・−ティがある 26−b)教会デ結婚式がある

*27−a)高松二棋聖戦がある *28−a)市民会館二音楽会がある

27−b)高松デ棋聖戦がある 28−・b)市民会館デ音楽会がある これらの例でb)は文句なく適格であるが,a)にほためらいが残る。何故で あろうか。その原因を探るために21∼24の「ある」の主体と,25∼28の「あ る」の主体を比べてみると,一つのちがいのあることに思い至る。前者は「モ

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ノ」の存在を述べているのに対し,後者は「コト」の存在を述べているという 1) ことである。つまり銀行,大木,灯油,ピアノは「モノ」であるが,パ−ティ 結婚式,棋聖戦,音楽会は出来事としての「コト」である。前者は存在するも のであって行なわれるものではないのに対し,後者は行なわれることによって 初めて存在するものである。つまり同じ顔つきをした「ある.」でも,前者ほ 「存在」の「■ぁる」であり,後者は「行なわれる」の「ある一」であるというち がいが潜む。そこから「行なわれる」場所はもっばら≪デ≫の縄張りであり, ≪ニ≫の方は不適格と断定はしかねる■までも,多分に素性があいまいであって 基底からは除外すべきものであると思われるのである。 「ある.」にはさらに,存在する,行なわれる,と並んで「発生する,起る」 の意味がある。「発生」の場合にも≪デ≫が現われる: *29−a)映画館こぼやがある 29−b)映画館デぽやがある *30一−a)ス・−パ・−ニ万引がある 30−b)ス・−パ・−デ万引がある *31−a)アパートニ暴行事件がある 31−b)アパートデ暴行事件がある *32−a)10番教室ニカンニングがある 32−・b)10番教室デカンニングがある ここでもやはりa)系列にためらいがあり,事情は「行なわれる」の「ある」 の場合とはとんど変りない(すなわち,ぽや,万引,等も「コト」であって, 発生した結果はじめて存在するものである)。基底としてはやはり≪デ≫のみ を適格とすべきであろう。 以上で「ある」を終り,今度は「いる」の場合を見てみたい。「いる」と「あ る」の最大のちがいは,前者における主語の選択制限が≪人間,動物および植 物以外の生物≫に限られ,出来事(「コト」)を含まない点である。従って十分 1)言語表現における「モノ」と「コト」という概念について軋 池上嘉彦氏が日英語 の表現構造の比較という形で展開している論文を参考にした(『表現構造の比較− <.スル>的な言語と<ナル>的な言語』,「日英語比較講座」第4巻所収,大修館)。

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予測できるように「いる」では≪ニ≫だけが適格性を持つはずである。事実: 33−・a)中ニ∴泥棒がいる 34−a)池二金魚がいる ※33−・b)申デ泥棒がいる ※34−b)池デ金魚がいる 35−a)草むらこ鈴虫がいる 36−a)犬ニノミがいる

※35−b)草むらデ鈴虫がいる ※36−b)犬デノミがいる

上例でほ≪ニ≫が適格,≪デ≫が不適格である。 なお,注意しなければならないのは「いる」と「∼している」との混同であ

る。この両者ははっきり性質を異にするものであるにもかかわらず,いわば

‘記憶の残像現象”とも言うべきものによって,事例によっては許容しうるよ うな感じを抱くかも知れないが,あくまでこれは錯覚である。例えば次の二凋 でa→・b−・Cと見てゆくときに,C)に思わず抱いてしまう親しみの感のよう なものがそれである: 37−a)舞台こ美女がいる 37−b)舞台デ兼女が歌っている ※37−・C)舞台デ美女がいる 38−・a)屋根の上こねこがいる 38−b)屋根の上デねこが眠っている ※38−・C)屋根の上デねこがいる ちなみに37−b)は「≪舞台デ歌う美女≫がいる」であって,墜皇芝は歌うと いう他動詞に関係している。同様に38−b)も「≪屋根の上デ眠るねこ≫がい る」であって,屋根の上デほ眠るという自動詞に関係している。 以上に述べてきたことをまとめると,「存在を表わすアル・イルの,場所の 状況補語は≪ニ≫」であり「出来事・発生を表わすアルの,場所の状況補語は ≪デ≫」である。 1.2.C その他の自動詞 その他の自動詞において場所の状況補語を示すものは≪ニ≫であろうか, ≪デ≫であろうか。「鳴く」を例に考えてみよう: ※39−a)烏ガ技工鳴く

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39−b)鳥が枝デ鳴く 「烏が鳴く」という行為が行なわれる場所,それを上例は≪デ≫で示してい る。−・見した所,a)の≪ニ≫が許容されうるように思うのは,次の40)や 41)との混線であろうと思われる: 40)鳥が枝ニ(居て)鳴く 41)鳥が枝ニ(歌いかけるように)鳴く 40)は「居る」が黙解されている。「屠る.」を顕在化させれば: 42)鳥が枝工場いている となる。そしてこの場合は≪ニ≫が場所の状況補語になる。ただすでに述べた ように「している」は二つの文が一・文化した埋め込み文である:「鳥が鳴く」+ 「(その場く)鳥が枝こいる」。従ってこの場合の≪ニ≫は「いる」との関係で 現われたものなのだ(「いる」の項参照)。 ・またもう一つの,39−a)を41)と解するやり方は烏の擬人的用法であって 本論の考察の対象にならない。 さて「その他の自動詞」で,−・般的に場所の状況補語が≪ニ≫ではなく≪デ≫ で示されると言うことができるかどうかであるが,次の例を見てみよう: 43−Ⅹ)ニ階二寝る 43−・y)二階デ寝る これは両方可能であって,しかもいずれも「寝る」という動作の場所に関係し ていることは確かである。この例をもう少し増殖してみよう: 44−Ⅹ)ふとんこ寝る 45−Ⅹ)道路二寝る 44−y)ふとんデ寝る 45−y)道路デ寝る ※46−Ⅹ)三越二寝る ※47−Ⅹ)早稲田大学二寝る 46−y)三越デ寝る 47・−y)早稲田大学デ寝る y)系列の≪デ≫はすべて適格であるのに対し,Ⅹ)系列の≪ニ≫には問題が 生じる。我々はふとんや道路二榎ることばあっても,三越(デパ−・ト)や早稲 田大学二寝ることはできない。「ホテル」や「宿屋」は“寝るガのが専門の場 所であるが,それでも「ホテル(宿屋)ニ寝る」のではなく,「ホテル(宿屋) デ寝る」はずである。その事を確認した上で,次の文中の≪デ≫と≪ニ≫の役

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割を考えてみよう: 48)宿屋デベッドニ寝る 果してベッドと宿屋という取り合せがあるかどうかば別として,48)が自然な 日本語であることに異論はないと思う。では行為の行なわれる場所的環境は, ≪デ≫,≪ニ≫のうちいずれで指示されているであろうか。これは次のような 言い換え.によって適否を判断できる: 49−a)「ベッドニ寝る」トイウ行為が「宿屋デ」行なわれる ※49−b)「宿屋デ寝る」トイウ行為が「ベッドニ」行なわれる つまり場所的環境を表わしているのは≪デ≫である。となれば≪ニ≫は何を指 示しているかという問題が残る。それがほっきりしない限り,≪デ≫と≪ニ≫ のちがいがあいまいのままに留ってしまう。 ≪ニ≫の役割を分り易く示すものに次がある: 50)四つ角デ私は右二曲がる 51)公園デ私はトイレニ寄る 52)沖デ風が北二変わる これらの≪ニ≫はいずれも「方向」を示している。方向を示す≪ニ≫は,移動 の動詞に現われた: 53)四つ角デ私は右二行く 54)公園デ私はトイレニ行く 55)沖デ風が北二行く 50)∼52)の例と,53)∼55)の例のちがいは,デリケ・−・卜な問題ではあるが 前者が「移動」の観念を直接的には含まないことであろう。ただし「移動性」 を帯びやすい傾向にあることも事実であって,50)∼52)に「(そして)行く」 を加えれば次のようになる: 56)四つ角デ私は右二曲がって行く 57)公園デ私はトイレニ・寄って行く 58)沖デ風が北二変わって行く 「行く」,「来る」等の移動の動詞を検討した際,「≪デ≫は適格ながら自然さ に欠けやすい」ということを述べた。ただしそれにはいくつかの条件があっ

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た。ここで53)∼55)の文に不自然の感がないのは,それらの条件を満たして いるからである。第一・に53)∼55)では場所に関する情報に重複がない。即ち 「四つ角デ…右ニ」,「沖デー北ニ」は“場所ガ対“方向・方角ガで,情報 の性質にずれがある。また「公園デートイレニ」も場所対方向の対比である ことに変りはないが,さらに言い添えれば「トイレニ」の「トイレ」は施設そ のものを指すというより「用便」(むろん,建物そのものが問題になる時もあ るが)の意に近く,いずれにせよ情報過多にはなっていない。第二に,移動の 動詞は普通,空間を限定しない: 59)私は東京ニ(仙台ニ,パリニ‥‥・ 1)行く 空間の閉じられていない文で,空間を閉じる状況補語が現われるのは,論理的 にはおかしくないにせよ,不自然になるのほ当然である: 1) *60)日本デ私は軽井沢二行く 所が53)∼55)のような文例では,限定された場所で「行く」という動作が行 なわれることを意味している。閉じられた空間の中で移動行為がなされる以上 環境を表わす場所の状況補語≪デ≫が現われても不自然を感じなくてすむ道理 だ。 所で閉じられた空間の中で移動行為がなされると言うこ.とは,とりもなおさ ず「−移動」という観念そのものを稀薄化していないだろうか。次の文例に見る 「く」や「き」は,稀薄化していればこそ可能になった,「行く」と「来る」 の歪曲ではあるまいか: 61)四つ角で私は右二曲がってく 62)公園デ私はトイレニ寄ってく 63)沖デ風が北二変わってく 64)兄さん寄ってきな,安くしとくよ 実はこの「稀薄化」の現象は,もともと移動の動詞自体が持っている相(as− pect)の問題だろうと思う。例えば「四つ角デ私は右二行く」は「右=・曲がる 右二折れる」と言うのとほとんど変わらず,「行く」は移動相というより,起 1)ただし,話者が日本以外の外国でこう表現するのは不自然ではない。

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動相に無限に近い。他の移動の動詞においても,相を移動相に置くか,非移動 相に置くかで,移動の観念は稀薄化しなかったり,稀薄化したりしている。我 々はためらいもなく次のように言う: 65)子供が山このぽって行く 66)子供が坂をおりて来る 元来が移動の動詞である「のぼる」や「おりる」に「行く」,「来る」が添えられ ているのは,話者が移動の観念を補強する必要を感じたからではあるまいか。 以上から次のことが言えるとノ臥う。すなわち,移動の動詞は移動性に力点を 置.いている限り,方向の≪ニ≫が主流をなすが,ひとたびそれが稀薄化すれば 「移動の動詞」もただの「その他の自動詞」と変るところがなく,環境を表わ す≪デ≫が現われる,と。50)∼52)の「曲がる」,「寄る」,「変わる」ば移動 相を失った「行く」のヴァリエ−ションにすぎない。こうして空間を限定する ≪デ≫と,空間を限定しない≪ニ≫の共存が,それらの文の中で可能になって いる。 語がいささか横道に外れたが,この「空間を限定しない≪ニ≫」という概念 と,「空間を限定する≪デ≫」という概念は重要である。≪ニ≫の秘密を明らか にするためにも,この点についてもう少し議論を進めておきたいと思う。 本論の冒頭でも述べたように,≪ニ≫も≪デ≫も場所の状況補語であって, <AガBスル>という叉の核を場所的に定位することを職務とする。定位とは 限定にはかならない。しかしながら−・方で≪ニ≫も≪デ≫も場所を限定するも のだと言いつつ,他方で≪ニ≫は空間を限定しないものだと言うのは明らかに 言葉が矛属している。この矛盾をどう説明すべきか。≪ニ≫と≪デ≫の同一・と 差異を明らかにするには,どうしてもこの矛盾が説明されなければならない。 結論を先に言えば,それは限定の仕方の相異である。「逃げる」という自動 詞と,≪デ≫,≪ニ≫の関係を考えてみよう: 67−a)山デ逃げる 68−b)山二逃げる a)は環境,b)は方向を「指示」している。これを図示すれば次のようにな る:

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・_・・・・・・−・−・−・・・・・・・・・・・・■■ ● r逃ける」 に.〉 上図に基づいて言えば,「逃げる」という行為は≪ニ≫の点内には含まれず, ≪デ≫の円内には含まれる。動詞「逃げる」の表わす行為と,≪・≫で示され る≪ニ≫の場所は包摂関係にない。≪ニ≫は行為の赴く方向を指定している だけで,行為の展開される場所を限定しているわけではないのである。他方 ≪デ≫の方は,動詞「逃げる」の表わす行為を包摂し,行為がその場所の中で 展開されることを示している。便宜上,前者を「方向指定」,後者を「展開指 示」の場所の状況補語と呼ぶことにしよう。 両者の限定の仕方のちがいが明らかになった今,先程の例: 43−Ⅹ)ニ階こ寝る 43−y)ニ階デ寝る のちがいもはっきりしたと思う。 2結論にかえて 統辞論的考察から大分意味論的考察に外れてしまった。考察の軸を本筋に戻 そう。 場所を表わす≪ニ≫と≪デ≫では,≪ニ≫は「方向の指定」というやり方で 限定を行ない,≪デ≫は「展開場所の指示」というやり方で限定を行なう,と

述べた。これは意味論的規定である。所がそれだけでは,≪ニ≫と≪デ≫の同

一・文における共起を必ずしも十分に説明できるとは言えない。ここで,これま で個々に扱ってきたものを一億表にしてみる: 1ニ,デと他動詞:場所の状況補語は≪デ≫(≪ニ≫は目的語) 2,ニ,デと自動詞 A,移動の動詞:場所の状況補語は≪ニ≫と≪デ≫ B,「ある」(モノ):場所の状況補語は≪ニ≫ 「ある」(コト):場所の状況補語は≪デ≫

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「いる」(モノ):場所の状況補語は≪ニ≫ C,その他の自動詞:場所の状況補語は≪ニ≫と≪デ≫ 1) ≪ニ≫,≪デ≫が共起しないのは,2い Bの「ある」,「いる」だけである。そ れ以外の場合は,常に両者が共起しうる。両者の意味論的規定のほかに,両者 が同一・文に共起する場合の統辞論的な階層づけができるなら,我々は≪ニ≫と ≪デ≫の文法上の特性をほっきり把えることができるであろう。 ≪デ≫と≪ニ≫が階層づけられているはずだ,という推測を基づけるため に,ここで簡単にフランス語とのちがいを取り上げてみたい。フランス語では 場所の補語を同・一・文に並存させる例がしばしば見られる。場所に関する前置詞 (旬)が豊富で,それらは語彙的に区別されているから文意があいまいになら ないのである:

“JepourraiscontinuerdevivredOttawa,PY’dsdemesenfdnis,dans

〝鋸Zク乃α以托珊.” これを今,日本語に‘直訳カすれば次のようになる: 「■オタワデ,子供たちのそばデ,自分の家デ,暮らしていこうと思えばそう することもできないわけではない」 直訳された日本語文は,ぎこちなく,息切れしており,恐らくこんな日本語は 大学の教室の中でしか聞かれないであろう。少しでもまともな日本語にしよう とするなら,例えば原文では場所の補語であったものを所属の≪ノ≫に変えた り,副詞句に変え/たりするなど,文法的改変に腐心するほかない: 「オタワの自宅で,子供たちと−・緒に暮らしていこうと思えばそうすること もできないわけではない」 だがこの日本語文を再度仏訳すれば,別のフランス語になっているにちがいな い。 1)「ある」や「いる」もなるほど次のような例を知らないわけではない: 69)東京デ,中野デ,祖父が養老院こいる 70)家デ,居間ニ,ピアノがある ただ我々はこういう偶発的な例をいくら拾い集めても≪デ≫や≪ニ≫の生起の正当性 や文法的特性を明らかにす・ることはできないと考える。特性を明らかにした上で,か かる例を説明するのが話の順序というものであろう。

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この例は≪デ≫の連発によって,文意が平板化し,あいまいになってしまう ことを物語るが,さりとて同じ場所の格助詞だということで,デとこを適当に 折り混ぜれば良いかと言うと,もちろんそうはいかない。日本語では場所の格 助詞の数が限られている上に,≪デ≫と≪ニ≫を無条件に並存させたり,文体 に変化を持たせるために両者を勝手に組み合せたりする自由はない。このこと は,≪ニ≫と≪デ≫が共起する場合には,必ず両者に統静的規制(階層づけ) が働いているということを示唆している。例をあげてこのことを確かめてみよ う: 71)三越デ長椅子二寝る 72)香東川デ水面二死体が浮く

73)公園デ池二子供が落ちる 74)香川県デ南部二大雨が降る

これらの例において≪デ≫は「展開の場所」を 指示し,≪ニ≫は「方向」を指定しているのだ が,さらに言えば,≪ニ≫の指定場所は必ず ≪デ≫の展開の場所の申に含まれている。この 関係を図示したものが右図である。 すでに見た通りこの関係ほ別々に独立して表 現されもする: 75)ゴミ箱こうじがわく 76)ゴミ箱デうじがわく だが我々はこれを表層上の二つの文と考え,基底構造では階層化された一つの 又として把える(次貢枝分れ図)。この図は「≪△ガ△ニ△スル≫ということ が,≪△デ≫行ナワレル」ということを表示したものだ。 このように≪ニ≫と≪デ≫とを構造的に把えることによって,これまでは個 々別々に扱ってきた移動の自動詞の≪ニ≫,≪デ≫,あるいはその他の自動詞 の≪ニ≫,≪デ≫を総括的に理解できるばかりでなく,他動詞の場合において も≪場所+デ≫,≪場所+ニ≫は共に場所の補語として処理できるのではない かという見方も可能になってくる。 最後に「ある」(モノ),「いる」(モノ)にあっては,なぜ≪ニ≫だけが許容 され,≪デ≫が共起しないかという点に触れるなら,「存在」は存在の場所を

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文1 一へ

・\ 文2 ///\\\ 場所の状・補 (展開の場所)

△ デ 」 台所 述語

_ / \

∴テ

動詞 /\ 場所の状・補 (方向)

五〈ヽ

1 ゴミ精

△−㍍

スル 指定されれば十分であって,展開する場所を必要としないからである。逆に, 展開する“存在’’(コトとしての「ある」)は≪デ≫を要求し,静止の≪ニ≫を 受け容れない。ただし「展開されることによって,初めて存在する」というの が,「ある」(コト)の本質であり,その意味でやはり“存在妙に帰着する結果 他の動詞のようには≪ニ≫,≪デ≫の共起が起こらないのである。 参 考 文 献 川本茂雄編,1956『文の構造』(日本フランス語学会編集≪フランス語学文庫≫4)白水 社 池上嘉彦,『表現構造の比較一−<スル>的な言語と<ナル>的な言語』(国旗哲珊編集, 1982『日英語比較講座第4巻』所収,大修館書店) 柴谷方良,1978『日本語の分析』大修館書店 久野 瞭,1973『日本文法研究』大修館書店 ブロック・ミラ・一編,林栄一・監訳,1975『ブロック日本語論考』研究社 此島正年,1966『国語助詞の研究一助詞史素描』桜楓社 橋本進吾,1969『助詞・助動詞の研究』岩波書店

参照

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