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The Cambridge English School : Cambridge大学英文学科(学部)の人間と研究をめぐって (1)

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(1)

The Cambridge English Sch001

Cambridge大

学英文学科

(学

)の

人間 と研究 をめ ぐって―

(1) 英米文学毅室 ― `ま じ

bに

どうしてCambridge English SchOol(Cambridge大 学英文学科

,現

在 は英文学部

)に

ついての研 究 を私が始 めることになったのか。きわめて個人的なことであるが,ま ずそれを書 く必要があろう。 私 は1984∼ 85年の

1年

間Cambridge大 学英文学部の客員研究員 として

Cambridgeで

す ごし

,そ

の時 痛感 したことが この研究の切 っ掛 けとなった。 日本 における英文学研究者の人 口は極 めて多 く,そ して数多 くの研究者が海外 に出る。

Cambridge

大学 にも毎年20名か ら30名の 日本の英文学研究者が出かける。それにもかかわ らず

,海

外での

,焦

点 を絞 って言 えば

,Camgridgeに

おける日本の英文学者の存在感 はどうであろうか―一 日本の英文 学研究 の貢献度 を疑わせ るほ ど

,そ

の存在感が稀薄である

,

と私 には思われた。そこまで言 う資格 が私 にあるか どうか甚だ疑間であるが

,と

もか く私 にはそ う思われた と繰 り返す以外 にない。それ

と対照的に

,現

在活躍 している秀れたCamgridgeの英文学者お よびCambridge EIIglish SchOOIの

統 をつ くりあげた過去の研究者 を見 ると

,私

は圧倒 されて しまう。彼等 と日本の英文研究者の著 し い差異 はどうであろうか。勿論我々 日本人 にとって

,英

文学 とはあ くまで外国文学であ り

,よ

ほ ど 研鑽 しても越 えがたい障壁がある。近年は資料等の入手が はるかに容易 にな り

,学

界の国際交流 も 格段 に盛んになったが

,明

治の英文学研究者で もあった夏 目漱石の外国文学研究 に対する絶望感 は 今 日に至るも基本的 には変わった とは思われない。外国文学研究 は自然科学の研究 とは異なり

,時

には人文 。社会科学の多 くの分野 とも異な り

,容

易 に国際水準 に達 しない ものであろうか。 しか し考 えてみると

,外

国文学研究の障壁 は、障壁 として残 る部分 と

,逆

に日本人 の独特 な研究 方法の発展 に至 る部分 に分 かれるのではないだろうか。そ して外国文学研究の華やかな部分の多 く は,日 本人 に とって障壁 として残 る部分ではなかろうか。その不利な部分で多 くの日本の研究者 は, 諸外国(特に英米

)の

研究の最新の動向を洩 らさずキャッチ し

,彼

等の手法 を模倣 (又は改善

)し

, 彼等の研究の小 さな間隙 を埋 めるべ く懸命 に努力 し

,埋

めた と思 っていると英米の研究 は別な展開 を見せている。 か くして 日本人の方法論 は猫の目のように変わる

,

と言 えば言いす ぎであろうか。 さらに考 えてみるな らば

,我

々がその動向にたえず注目している英米の研究 はそれほど変化の激 しいものであろうか。英米各地の研究の秀れた最先端の情報 を

,わ

が国の研究者 は競 って紹介又 は 発展 させ ようとす るか ら

,そ

れははげしく変化 していると思われる

,

とい うこともあ りうる。変わ るもの もあ り

,同

時 に不変 な もの もあるはずである。表面 に浮 き立 って見 える華やかな研究を支え 明 俊 村

(2)

岡村 俊 明 :The Cambridge English School ている地道な土台があるはずである。それ らを知 るには

,い

わば「定点観測」が必要で はなかろう か。英文学研究で伝統 あるところを取 り上 げ連続的に考察するのである。 あるところで

,長

い歳月 にわたって彼等が共有 している研究の伝統 と研究者個人の人間性 と研究 を連続的に調査・ 考察する のである。 その調査 と考察の結果か ら

,過

,現

在および将来 にわたる諸外国の多岐 にわたる研究 動向を正確 に評価 することがで きるのではなかろうか。 またそうすることこそ

,我

々 日本人 に とっ て研究の障壁 にはな らず

,我

々の個性 にあった研究の方法 を見 つけ

,そ

れ を新たにしか も意識的に 展開できるのではなか ろうか。 この「定点観測」 をこの際適用するな らば

,世

界 の英文学研究が流 れ込み,またその成果 を世界へ向けて送 り出していった英文学研究の世界的メッカともいえる

Cambridge

大学だけに限 り

,そ

こで過去お よび現在 にわた り

,同

大学英文学教育 。研究の歴史 を作 り

,世

界の 英文学研究 に多大 の貢献 をした人々 を連続的に取 り上 げることになろう。 一般的に言 えば

,Cambridge大

学英文学者の専門 は実 に広い。刻ヽ説・ 詩 な どの創作活動 にも従事 しているCambridgeの 英文学者 もお り

,ま

た批評活動

,演

劇活動 とい う現実 との接点 を持 ち

,文

学 研究が空理空論 に走 ることも防いでいる英文学者 もいる。翻 って日本の英文学研究 を考 えてみると, それは非常 に専門化

,細

分化 されているといえないだろうか。 したが って 日本の英文学者 は

,そ

れ ぞれの専門分野か ら

,例

えばCambridge大 学英文学者の研究 を捉えていることになるが

,そ

の把握 は彼等の実体 の一部分 にすぎない ということが多い。多 くの日本の英文学者 は

,盲

人が臣像 にふれ, その「実体」 を主張 しているような ものではなか ろうか。従 って「定点観測」 をすることにより,

我々 はCambridge English Schoolの 伝統および彼等の考 え方

,生

き方 をまるごと捉 え

,そ

れにより 日本の英文学研究の単 なる方法論 のはや りすた りではない独特 な研究・ 方法論 に至 る道 を

,換

言す れば

,日

本人の独特の研究の発展 に至 る部分 を

,私

ともども読者が さが していただければ

,私

に と っては有難 い ことである。取 り上 げる研究者 は,Sir Arthur Quiller―

cOuch(1863-1944),Basil

Willey(1897-1978), I A.Richards(1893-1979), F.R.Lea

s(1895-1978), C.S.Lewis

(1898-1963),M.C.Bradbrook(19o9- ),Raymand Williams(1921- )で ,彼

等 は Cambridge English Schoolの 創立以前か ら現在 に至 るそれぞれの時代 を代表 し,かつEnglish School の伝統 をそれぞれ独 自なや り方で作 り上 げた人達である。その人達の人間 と研究 について考察 した いが

,そ

の前 にCambridge English Schoolの 設立 と特質 を

,歴

史的文脈で把握す る必要があると思 われる。

序 章 ―

The Cambridge English Schoolの

設 立 まで

Cambridge English Schoolが 正式 に発足 したのは1917年である。

Cambridge大

学の創立が13世紀 初頭(1206年?)であるので,創 立後実 に700年という気の遠 くな るような歳月 を経てEnglish School は誕生 した ことになる。英語学・英文学 はイギ リス人 に とっては国語学 。国文学であ り

,そ

の研 究 と教育 をつか さどる学科 (又は学部

)は

特 にイギ リスにおいては重要 と考 えられ るが

,そ

れが この 伝統 を誇 る大学 にそれ まで存在 もしなかった ことが不思議に思われ る。その理由 を知 るには

,単

に Cambridge大 学 に とどまらず

,イ

ギ リスの大学 において

,ど

のように英語学・英文学が研究 。教 育 されて きたかを知 らねばな らない。

古英語(01d English又 は

Anglo Saxon語

)の 研究・教育 についていうな らば (Cambridge English Schoolは 現在 は近代英語一MOdern English― が教育・研究の中心であ り

,古

英語 とは一線 を画 して

(3)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 38巻 第

1号

(1987)

Collegeの fellowでぁった

Matthew Parker(1504-74)は

,Anglo―

Saxon語

復興 に強 い関心 を示 し

,

彼の指導の下で

,Cambrid解

大 学でAnglo― Satton語の教育が始め られた。正式な古英語の教育 はこ れが最初である。即 ち

,Cambridge大

学 はイングラン ドで最初 に古英語 を教 えた大学 となったので

ある。 その後Parkerは canterbury大 司教 とな り, T力ι

Bか

切為 βん″を刊行 して当時の神学 に多大 の貢献 をしたが

,古

英語関係でいえば

,Gildas,Asser,狙

lfricなど古英語の著述家 の作品の編集・ 出版 に貢献 をした。なかでも彼の顕著な業績 は

,Cambridge大

学でイングランドで最初 のAnglo―

Saxon

語の本 を出版(1567年 )した ことである。即 ち,Parkerの指示の もとに

Cambridge大

学 の印刷工John

Dayが

最初 のAnglo Saxo11語 の活字 を作 り,Parkerの秘書John」 asalynの

編集の下 にその本 は出版 されたのである。そしてParker大司教が所有 していた

Anglo SaxOn語

著作の原稿

(MSS)は ,Cambridge

大学のCorpus Christi C01lege,Trinity CoIIegeぉ ょび

cambridge大

学図書館

(University Library)

1こ移管 されてきた。 そのために

,17世

紀 にあっては多 くのAngio―

Saxon MSSが cambridge大

学 に 集中 していたといわれる。従 ってCambridge大Trinity Collegeの卒業生 Sir Henry Spelmanヵ 比

Cambridge大

学 に

Anglo SaxOn語

の講師職 を設 けるために多大の努力 をすることになったのは

,

自然の趨勢で あった といえよう。Spelmanは まずAnglo―

Saxon語

の文法 と辞書の出版 を急務 と考 え

た。何年かの思案ののち,Canterbury大 司教Usherの 助言 も得て,彼は1640年

Cambridge大

学のVice

ChancellOrに その提案の草案 まで準備 していた。即ち

,そのポス トにつ く者は,Anglo―

Saxon語

の講

師 とNorfOrkttMiddletOnの副牧師 (Vicar)を兼務 し

,一

学年 に二 つの講義―

SaxOn語

研究および イングラン ド教会史― を講ずることであった。翌年

,不

運 に もSpelmanは死去 したが

,彼

の努力 は

無駄 ではなかった。講師職 は設 けられ

,初

代講師 に選任 された

Abraham Whelocは

,1643年

Bede

の著作であるE♂ぬ 泳 肪房 助 υ (原文 ラテン語

)の

Anglo―

Saxon法

典 を出版す ることになった

か らである。 また

WEIocの

死後, Anglo―

Saxon語

講師 となったWilliam Somnerは つ〃″ο

%αηク吻

ИΥ ん―SttO%″ο Lα″%θ

4電

itcπ物を1659年に出版す ることがで きた。しか し

Somnerは Cambridge

大学講師であ りなが ら

,彼

が出版 した辞典 はCambridge大学ではなかった ことは注 目しなけれ ばな

らない。 とい ぅの は

,古

英語の研究・教育 の中心 は

,王

政復古 (RestoratiOn)後はOxford大学 に

移 ったためである。当時のCantergury大 司教であったLaudは

Anglo SaxOn語

研究 を奨励 し,貴重な

Anglo SaxOn MSSを

Oxford大学Bodleian図 書館 に寄贈する趨勢 になってきてぃた。そういうことも

あって

,上

Somnerの Anglo SaxOn語

辞典 はOxford大学で出版 されたのである。その後Anglo―

SaXOn語

研究 は

Oxford大

学で盛んになってゆ く。 それは同大学Lincoin C01legeの fellowで ぁった

ThOman Marshallお ょび彼の師であるFrancis Juniusに

も負 うところが多いといえよう。特 にJunius は

Anglo SaxOn語

の詩人

CadmOnの

著作やAnglo―

Saxon語

の福音書 を出版 し,Anglo―

Saxon文

学研

究の進展 に大いに貢献 した。

このような古英語の編集・ 出版の進展 に比べ

,イ

ギ リスの大学における近代英語学・英文学のそ

れは遅れているといわなければならない。勿論

,趣

味で英文学 を学ぶ人 はいたが

,大

学での教育・ 研究 はやは りClassics(ギ リシア・ラテンの古典語・古典文学

)と

Oriental literature(ヘ ブライ語, サ ンスク リッ ト語の東洋文学

)の

研究が中心であ り

,時

,空

間が近 く

,関

心 も高 い はずの近代文 学研究

,特

にイギ リスのそれ は大学の研究 にふ さわ しい との認識はなかった とぃってよい。少 し下 つて1708年に英文学

,特

に英詩批評 と考 えられ るむ きもあるProfessOrship Of Poetryが Oxford大

にAll SOulζ C01legeの Henry Birkheadの寄金で設 けられたが

,次

の引用 を参照 していただ きたい。

(4)

岡村俊明:The Cambridge English School

Professor``could pass beyond the study of the poets then recognized as classic,and the detailed apphcation of the rules laid down,as was thought,by Aristotle,and commented on by Horace and Scahger."2

従 って詩学教授の仕事 は古代 ギ リシア・ ローマの詩人の研究であ り

,彼

等の文学批評 とはア リス ト テレスなどの批評の研究 およびその適用であったわ けである。その初代教授Joseph Trappは彼の講 義 を“a compendium of the received dOctOrines of the orthOdox dassical school''3に 限定 し, 主 に古代 ローマの詩人 を講 じたことか らもこの ことは了解 され る。彼 は時折英国の詩人 についての言 がともしてヤゝるが, “(He)hardly contemplated Enghsh Poetry,either as a great literature,or as

a l ing art."4でぁった。 しか し7代目になると事情 は少 し変わって くる。第

7代

詩学教授

Thomas

Wartonは

,英

詩は本格的批評・研究の対象 としてふ さわ しい と主張することになるか らである。彼 はラテン語で講義 をしたが

,英

語で書いた彼 の著書打ぬ力響 げ 馳 とA力Fbι (第一巻出版 は1774 年

)は

,史

実の不正確 さという欠点 にもかかわ らず

,英

文学の研究 に大 いなる役割 をはた した。 し か しその後の詩学教授が英詩 を研究・ 教育の真剣 な対象 と見倣す ようになったか というとそ うでは ない。19世紀初頭詩学教授 に就任 したJOhn Kebleは

,古

典文学の批評 を相変わ らず重視 したのであ る。結局,このChairは後 にOXfOrd大学 に設立 され るEnglish Schoolと は直接的な繋 りがない といわ ざるをえない。 OXford大学 ばか りでな く,Cambridge大学で も英文学の研究 は既述 したように進展 は しなかった が

,近

代英語・ 英文学 を研究・教育の対象 として取 り上 げた大学がある:それはスコッ トラン ドの Edinburgh大 学であった。というのは,スコッ トラン ドにおいてはイングラン ドはいわば外 国であ り, 彼等は英文学 を外国文学 を学ぶ ように学んだ。いわばイ ングラン ドのOXfOrd大学および

Cambridge

大学 にとっての古典語・古典文学が

,ス

コッ トラン ドのEdillburgh吠学 に とっての英語学 。英文学 と な りえたわけである。このために

,18世

紀 において ラテン語がEdinburgh大 学の講義か ら脱落 して, 英語が この欠落 を埋 めるに至 った。 この時期 に「英文学教育の父」“Father of L■,Ang,lecturing"6 といわれ る人がいる。Edinburgh大 学の

Dr.Hugh BIairで

,彼

はもともと緻密な修辞 を用 いた説教 で有名であった。 その修辞 を英文学を引用 して説明 したわ けであるが

,こ

れは興味深い といわねば な らない。というのは,修辞 はもともとClassicsか らの引用で説明 され るのが慣例であつたが,Blair は英文学 に対する強い関心 を持 っていたため,Classicsで な く

,英

文学の諸作品で説明 した。その後

(1762年

)Dr Blairは

Edinburgh大学の修辞学・ 純文学担 当欽定講座教授 (Regius Professor of Rhetoric alld Belles Lettres)に 任命 される。とにか くこの ようにして説教(sermOn)ゃ修辞(rhetOric) に付随 して大学における英文学教育が始 まった。 このことについて「英語教育報告書」ば 砂ο力 θ

%肋

ι

駒 αθ励雪 げ

′た力,p.243)は次げように記述 している。

It is noteworthy that except for this part― time Oxford Chair〔 of POetry,which doesn't count because it has no connection with any Faculty and because English Poets were barely mentioned〕 the aCademic teaching of Enghsh began in Scotland.7

Dr.Blairの 死後,修辞学・純文学 (又は英文学

)教

授のポス トは長 い間補充 されない ままになる。 しか し同 じスコッ トラン ドで英文学の教育 に精魂 を傾 けた人がいる。それはAberdeelth学論理学教 授Bainで ある。Aberdeen大学 の論 理学教授 の職 務 の一 つ は

,文

法・修辞 法 に則 った英 語 文 章 構

(5)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 38巻 第

1号 (1987) 25

成 学 (English COmpositiOn)に ついての講義であった。彼 は自らその講義のために本 を著わ し

,そ

れを講義のテキ ス トとして使用 し

,英

文学の作品か らの引用で英語文章構成学の講義 を進めてい っ た。注 目すべ きは

,Blai鞍

授 に とって もBain教 授 にとって も

,英

文学の講義 は修辞学又 は論理学 の 講義 に付随 して いるもの

,

あるいは後者 を主 とし前者 を従の関係 とす るものであった。 ともか く BIair教授 を「英文 学教育 の父」とす るなら

,Bain教

授 は英文学 に生気 を与 え

,そ

れ を永続的な学問 とした人であ り

,彼

の教 え子の言 によれば,

〔He haS been〕 Opening up a new worid tO us who know classics Only.… the mysteries of style. . . POetry as a Fine Art. . . and then at our debating society sending us into discussiOns of Dryden,POpe and Tennyson.8

とい ってよい。

ス コ ッ トラン ドには他 に も英文学 を尊重 す る

Glasgow u

versityが あ った。 その大学 は,人文 学

の教授がShakespeareについ ての有名 なエ ッセイ を書 いた り,論理学の講 師が英文学 を講 じるとい う

英文学重視 の大 学 であ り,1850年 には

M.A.の

試験 科 目に英文学 も加 える とい うイ ングラン ドの古 い 大学 に比 して極 めて進歩 的で あった。その

Glasgow大

学 の英文学教授 に1862年John Nicholが任命 さ れた。彼 は英文学重視 の伝統 を受 け継 ぎ発展 させ た。その結果彼 の後継者 は

,後

にOXford大学 詩 学

教 授 となる

A.C Bradleyゃ

,の

ちOxford大学 初代 英文 学教授 となるSir Walter Raleighを迎 え る こ とにな り

,Glasgow大

学 の英文学重視 の風 潮 は一段 と強 まった といって よい。

一 方Edinburgh大学 で はBlair教授 の あ と長 い間修辞 学・ 純 文学教授 は不在 で あったが

,William

Aytounが1846年にその ポス・卜を受 け継 ぐこ ととな った。彼 は翻訳 (Goetheの翻 訳 等

)の

仕事 もし

,

またとし夢 げ 励ι ttθ施力働

%焼

資ゃ

n物

協吻ηな どの詩集 を書いたRomantic Revivalの 最後の詩人 である。そのAytounの後任教授 はDa

d Massonで

,彼

はEdinburgh大学で神学 を学 び

,の

ち英文

学を修めやがて

London大

学University C01legeの英文学教授

(1853-65)を

勤 めていたが

,転

じて

Edinburght学

修辞学 。英文学教授 とな り

,そ

のポス トを30年間勤めた人 である。

Massonは

「英文 学研究創始者」“Lit.AngoinauguratOr"9と 考 えられてお り

,彼

はこれ までの ように作家の文体 では な く

,作

家の人 とな りを論 じ

,文

学 を人間性が表現 されているもの として捉 えた。 ここに至 って よ うや く

,英

文学 は修辞学や論理学 に付随するものでな く,ま たその観点か ら論ぜ られるので もな く, 作家の存在が認識 され

,そ

の個性 を研究する学問 となった。そういう意味で英文学はまことに人文 学 とな りえた とい える。教授就任講義の努力 目標 として彼が意図 しているように,

It、vill be my effort tO give to our studies of English Literature that cOnnectedness,that systematised for■1,which befits an academic,as distinct from a merely popular course.1° と

,英

文学が“

academど

'なもの として認識 され始 めた といえる。

Edinbur帥 吠 学修辞学・英文学教授のMassonの後任 はGeorge Saintsburyで ある。彼 は前任者BIair,

Aytoun,MassOn等

と異 な り,ス コッ トラン ド出身ではな く,イ ングラン ド出身であった。独立心の

旺盛 なスコッ トラン ドの

Edinburght学

にあって,彼 の講義 に対する妨害,いやが らせがあったよう

だが,結局彼 は1895年 か ら1915年までそのポス トを勤め上げ,“a new champion,a king,an emperor"11

(6)

岡村俊 明 :The Cambridge English School

も と英文学 を学 んだので はな く

,古

典 文学 を学 んだ人 で あ る。彼 は前任者 の

Massonの

力説 した作家 の意 図な どには関心 を示 さず

,文

体 等 を重 ん じる修 辞 学 の伝 統 に帰 った。

19世紀 のその時代 にあ って は,英文学研 究 はいわば“gold ruSh days"Wの 熱気 があ った といえよう。 英文 学の古典 といわれ る もの に まだ誰 も手 をつ けていなか ったわ けで,Saintsburyは注釈 と序文 を つ けて

,次

々 と

Swift,Fielding,Smolett,Austen等

の作 品 を出版 してい った。 また英文学 に とど ま らず フランス文学

,イ

タ リア文学

,ス

ペ イ ン文学 に対 して も研 究 を推 し進 め

,次

々 と研 究書 を出 版 した。 そ うい う彼 の超 人 的学殖 とエネル ギー は目を見張 る ものが あ る とい えよ う。 しか し彼 には 無論 欠点 とい うもの もあ った。彼 は何 を論 じて もそ こに彼 の個性 を感 じさせず

,そ

の意 味 で“one of the mOSt irltangible writers that ever hved."13で ぁ る。

一 方

,ス

コ ッ トラン ドの大 学 に遅 れ る こと約1世紀

,イ

ングラ ン ドにおいて も英語学 。英文学 の 研 究・ 教 育 を取 り上 げ た大 学 が あ る。 それ は

London大

学 で あ る。 しか し19世 紀 の

London大

学 と

Edinburgh大学 は その学 問 的雰 囲気 が著 し く異 な って いた。Edinburgh大学 等 の ス コ ッ トラン ドの

大 学 はその歴史 も古 く

,ス

コ ッ トラン ド人気 質か らい って も

,OXbridgeに

対 す る挑 戦 的態度 が歴然 と見 られたが,一方

London大

学 は当時 まだ新制 大学 で あ り,OXbridgeに対 して“juniOrity"を 意識せ ざ るを得 なか った。その結果,“London University was chiefly useful as a short cut to a degree''14

となった。 その間 の事情 を次 に述べてみ よう。

London大学 の母体 としては,1826年 に創立 され たUniversity Collegeと 1829年 に創 立 され たKing's

Collegeが あ り, 両 カ レ ッジが総合 して, 1836年にLondon Universityが創立 され た の で あ る。 し か し教授陣が整 え られ る以前 か ら一例 えばKing's Collegeに は当初 は専任 の英語教 師がいなか った一

London大学 は他 の大 学 に比 して英語 を重視 した。 その結 果

,1839年

に はEnglish paperが入学試験

(matriculation examination)に 初 めて採用 され る こ ととなった。 その事情 は当時 の“University Calender"に 次 の よ うに書 かれてい る。

One innOvation in the traditional practice of Universities in awarding degrees in the Faculty of Arts was adopted froni the first in the Matriculation Exa■ lination by the recognition of the Enghsh language as a necessary branch of study in addition to Latin and Greek,15

ラテ ン語 や ギ リシア語 と ともに英語 (English Language)がこの よ うに決定 された ので あ る。 1840 年 に は

,Shakespeare,Addison,WarburtOn,swi■

等 についての英文学 の問題 が 出題 され るよ う にな り

,古

典 学 の文学修 士 の試験 (the M.A.Classics examination)にEnglish Essayが課 せ られ る こ とに もなった。 つい に1859年 には

,B.A.cOurseの

普通 学位 (Pass Degree)お よび優 等卒業学

位 (HonOurs Degree)の 卒 業試験 の 中 に

,

英語学・ 英文学 が 独 自に組 み込 まれ る こととな った。

入 学試験 に も卒業試験 に も英語が この よ うに組 み込 まれた意義 は大 きい といわ な けれ ば な らない。

ここでLondon English School(London大 学英文学科

)が

正 式 に発足 した と考 えて よか ろ う。 しか

し,ラテン語の代用 として文化の言語 としての英語 を受容 したスコッ トラン ドの大学 と異 な り

,London

大 学英文学科 は(人気 あ る学科 に成長 してゆ くが)人 文学的教養 とい う視点が欠如 していた。Stephen POtterに よれ ば,

(7)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 38巻 第

1号

(1987)

providing useful,vOcational educatiOn.This,curiously enough,is how Our Subject came in i for English Language and Literature can easily be made to seem the least non― vocational of an the liberal sch001s,English is Obviously useful:understanding it and writing it is useful,in a much rnore direct、 vay than are the Classics Englsh Literature, or at any rate Lit.Ang.,nlight be said tO be the typical`Arts'subject of Utilitarianism.16

となる。

19世紀 には,London大学 につづいて英文学 を教 える大学が現われた。

Durham,Manchester,Lceds

の大学である。どれ も個性 ある大学に発展 してゆ くが,当初 はLondon大学の機構 を模倣 してスター トした といえよう。

スコッ トラン ドの大学ばか りでな く

,London大

学や他の新制大学 において も,こ の ように英語が 教 えられるようになったが

,Oxfordゃ Cambridge大

学の状況 はどうであろうか。まず

,Oxford大

学 における英語学・ 英文学研究の進展 を見てみたいぎOXfordに おいて

,近

代英語の研究・教育 は

,同

大学の詩学教授 との関係 よ り

,他

の近代語

(Modern Languages)の

研究・教育 と密接 な関係 をも つて発展 してゆ く。両者 は互いに牽制 し

,発

展 を阻害 し合 うこともなかったわ けで はないが

,そ

れ らは教育・ 研究体制が同 じ組織 に属す るため

,多

くの場合 は共同歩調 をとった り

,互

いを発展 させ ることになったのである。 その近代語の教育がOxford大学で初 めて試み られるのは,18世紀 になってである。1724年

George

Iが Oxford大学 にModern Historyの 教授職 を設 けたのがその教育の きっか けである。 その近代史

教 授 は年俸 £400の給与 か ら,王が選定 した20名の学生 に近代語 を教 える二人 の教師 を雇傭 するわ け で ある。その 目的は高級官僚お よび外交官養成であ り,学生 はフランス語,ドイツ語又 はイタ リア語 を書 き

,話

す能力 を身 につけることになる。学問的 目的 というより実用的 目的が このように優先 さ れた。 しか し官僚体制の不備 とい う卒業生の就職先の問題 もあ り

,ま

た古典語・ 古典文学 を重視す るOxfordに あって

,近

代語が生涯 かけて教育・研究するに価するものか とい う疑問 も出されて

,近

代語教育 は遅々 として発展 をみなかった。そのため1788年に死去 した建築家Sir Robert Taァlorの

言によるOxford大学附属近代語研究所の設立 も

,長

い間放置 された ままであった。19世紀 になって

ようや くTaylorの 遺言が実行 されることになり,近代語研究所Taylorian lnstitutiOnの 建物が1841∼ 45 年 に建築 された。 その研究所の 目標 は

,大

学の教育体制の中に

,換

言すれば試験制度の中に

,近

代 語 を優等生資格試験 を持つHonOurs SchO01と して正式に認定 させることである。それには大学の構 成員の大半が,近 代語 は真 に教 え,学ぶ価値があることを認定することが不可決である。変化は徐々 にみ られ,大学人の間に近代語に対する関心が高 まるようになってきた。なぜならTaylorian lnstitution は近代語に関心ある少数の学生 を教育するばか りでな く

,多

くの大学構成員 を対象 とした講演等 を 開催 して,近 代語 に対する啓蒙 にこれ努めたか らである。またTaylo an lnsdtutiOnは近代語 に関心 のある研究者のまとまりの場所 としての役割 をはた し

,そ

の附属図書室 は彼等 に資料 も提供 したか らであろう。その背後で

,Oxford大

学出版局ClarendOn Pressが 近代語の講義録

,辞

典等 を出版 し,

大学人の注意等 を喚起 し

,近

代語教育・ 研究の進展 に多大の貢献 をした。 その出版 には歴史的大事 業である川効

ぬ力D″ 肪

%,9(N.E.D.後

O.E.Dと

略称 され る

)や

Dr.Wttghtの

Dカル所 D″肋 ηαりが含 まれている。そして

(8)

岡村俊明:The Cambridge English School

the claims of others to silnilar recognition, and that there was throughout a 、vorking

a■iance bet、veen the group who studied Enghsh and the groups who studied other

European tongues.18

と,Sir Charles Firhの指摘 にあ る よ うに

,英

語 と他 の近代 語 には一層強 い連 帯 感 が生 まれ る よ う

になった。

1873年 にOxford大学 で,近代語 の中で は最初 に英 語 のPass Examinationが 認 定 され た。これ は普

通学位 (Pass Degree)を取 るた めの試験 で

,優

等生 学位 (HOnOurs Degree)で はな いが

,

ともか

く試験制度 の一 角 に認 め られた意義 は大 としな けれ ばな らない。 それか ら“

a School of Modern

Literature in which Enghsh,German,French and other languages should all be cornprehended, a School of the same nature as the History School or the La、v School, in which candidates might be permitted to take their degree."19と い う,英語 及 び近代 諸言語 を含 む近代 文学 の

HOnours

Schoolが検 討 され た。また英文学 を英 国史学 科 に取 り入 れ る とい う代 案 も提 案 され たが

,結

,Mr.

Godwin Smith(Oxford大

学近代 史家

)の

“English Literature`can only properly be studied historicany,'but it should be represented by a separate chair,not`connected with the department of Modern History."20と ぃ ぅ歴史学科 の案 が有力 とな る。

学 内の委 員会(The Un ersity Commission)でな された種 々 の検討 の結果

,英

語 単 独 の

HOnours

SchOol設立 に 有効 な 働 きを す る ことが 予想 され るMerton Professorship of English Languages and Literatureが

,1885年

に設立 の運 び とな る。 その教授職 の設立がSchool設立 と同時又 は後 で は な く

,そ

れ以前 で ある とい うことは注 目されね ばな らない。 この頃 になる と

,大

学 の 内部 ばか りで な く外部 で も

,新

聞 。雑誌 等 を通 じてOXford大学 に英 文学科 を設立 す る積極 的 な働 きが な され た。 大 学 内外 の認識 が格段 に高 まった とい うべ きで あ る。しか し英語単独 のHOnours Schoolと い う提案 に は一挙 にな らず

,近

代 語 を ま とめた形 の提 案 に落 ち つ く。即 ち

,1887年

にOXfOrd大学 教 職 員 会 (COngregation)加 に,SchOol of Modern European Langtlages設 立 は正 式 に提 案 され

,そ

の規則

の前文 (Preamble)に 対 して

,過

半数 の賛成 が得 られ た。 その案 は

,六

つの近代 語 (英語

,

ドイツ

,フ

ラ ンス語

,イ

タ リア語

,ス

ペ イ ン語

,ケ

ル ト語

)の

試験 を具体 化 した もの で あ る。 学 生 は特 定 の一 つの言語 を深 く学 び

,そ

れ に関連 す る言語 の一般 的知識 を修得 し

,加

えて特定 の言語 の歴史 及 び その文学 を理解 す ることとな った。即 ち

,文

学 とは語 学 に均等 の ウエ イ トが おか れ た とい うべ ´きであろう。結着 したかにみえたこの案 には強い反対意見がその後 出 された。The Waynflete Professor

of WIoral Philosophyィ ま,

We are going tO institute a baseless study of the many sided writings of our own country from one side only,without connecting it either with the classics,which gave the English mind a new birth at the Renaissance,or with the history of the country of the writers themselves.22

と述 べ,Classicsゃ 自国の歴史 と結 びつか ない英文学研 究 は“baseless"と ,その提案 の可決 に強 い調 子 で反対 した。続 いて彼 はその提案が可決 され るな らば,“An English School will grOw up,nourishing

our language not frorn the humanity of the Greeks and Romans,but froln the savagery of the Goths and the Anglo― Saxons.We are about to reverse the Renaissance."23と , 近 代 英語 と五

(9)

鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第 38巻 第

1号

(1987)

語が結びつ くことに対 して危惧の念を表明 した。

また大学の外部 にあって反対 した人 もいる。Oxford大学卒業生である英文学者ChurtOn COllinsが

その一人であるが

,彼

の主張 は次の二つか ら成 り立 っている。その一つは

,そ

の案 では文学が語学 に従属するという彼の危惧の念の表明であ り

,

もう一つは歴史の連続性 (continuity Of History) より文学の連続性(continuity Of Literature)が 大切 であ り,その意味で英文学は古典文学(Classics) によ り多 くの影響 を受 けているという彼の主張である。

OXfOrd大学の欽定近代史講座担任教授

(Regius ProfessOr of MOdern HistOry)EA.Freeman

,大

学教職員会でなされた提案 に賛成 していたのだが

,文

学 は教 えることも試験す ることもで き ない と主張 し始 め

,続

けてTttι 働%″物″紹

?資

ιυ力η

(XH(1887),566)誌

上で,

The crammer can but teach facts,the crammer in literature、 vill have to fan back on the facts Of literature,and thOse facts are,in practice,sure to be very largely nothing better than the gossip, the chatter about literature, which is iargely taking the place of nterature.24 と

,述

べるようになった。 OXfOrd大学 は内外の これ らの意見 を参考 にして

,修

正案 を1887年に教職員会 (Congregation)に 再提案 したが

,賛

否同数のため

,結

局 この提案 は可決 されなかった。 その後

,英

語 を他の近代語 か ら分離する考 えが生 まれ,

An adequate scheme fOr a A/10dern Language Scho01 wOuld,♀ O dOubt,include the study of an languages mentiOned in the defeated Statute.But what the natiOn mOst pressingly feels is the need of a Schoo1 0f the English Language and Literature.… .The country asks for hght ,we can give light,but we refuse it. ..25

というラテ ン語教授の意見 に代表されるもの となる。英文学科の設立に重心が移行 した といえる。 また大学外 において も

,英

語の教育・研究の重要性が認 め られはじめた。Public SchOOlで 英語が 重要視 され始 め

,ま

たGovernment Examinationゃ Local ExaminatiOnで英語が試験科 目に取 り入

れ られたのである。従 って この要求に答 えるべ く大学で英語教師を養成することが急務 となった。 こうヤЬう状妻)を背景 に1894年には, School of English Langtlage and LiteratureのHonours School

のための提案がOxford大学教職員会で討議 された。今回は評議会 (The HebdomadalCouncil―

評 議会の週会

)も

積極的に賛成の意向で動 き

,二

つの修正条項 を付 け加 えて

,教

職員会 を無事通過 さ せた。これは評議会(Convocation)26で も可決 された。その結果,English SchOol設 立委員会(Board of Studies fOr the English SchOol)が組織 されて

,試

,カ

リキュラムの詳細 にわたる規則が制定 された。 その委員会で

,英

文学 と英語学の比重の置 き方 をめ ぐって論争がなされたが

,ど

ち らの側 もゆずる気配 はなかったため,この論争 を和解 させる試みがなされ,両者の中間をとった形で

,HonOurs

SCh001の 受講生 は

,そ

れぞれのテーマのpaperを 均等数だけ書 く

(4%papers on Language, 4%

papers On Literature)と いうことで決着 をみて,その案 は1894年

に評議会 を通過 した。か くして,

OXfOrd大学 にSchoo1 0f English Langtlage and Literature(The oxfOrd English SchOolと

ぃ ぅ)

(10)

岡村俊 明:The Cambridge English School

遅れること

8年

,SChOol of Medieval and Modern Languagesと して

,1903年

1こHOnours School

として正式にスター トす ることになった。か くして

,OXfOrd大

学 における英語及 び他の近代語 は,

それぞれ長年待望 していたHonOurs Schoolを 持つ ことにな り,これを契機 に英語学及び英文学の教 育 。研究 は格段の発展 を とげることとなった。

次 に

Cambridge大

学英文学科 について論突 したい。Classics重視 のOXfOrd大学 と,ClaSSiCSと

Mathematicsを ともに重視するCambridge大 学 は

,そ

れぞれ共通点・類似点 とともに独 自な性格 を

もち

,独

自な発展 もしてきた。従 ってEnglish Schoolの 成立 とその後の発展 について も

,同

じこと がいえるとい うことを予測 しておかねばならない。

そのCambridge大 学英文学科 (The cambridge English School)は

,OXfOrd大

学のそれ より20

年以上 も遅れて,1917年 に正式に発足 した。

Cambridge大

学でEnglish Tripos27(英語科優等卒業試験)

が成立 した年で もあるが

,Triposの

ないEnglish Schoolは あ りえない とい うことに もなる。正確 に 言 えば,English Triposが 正式 にCambridge大学評議会 (Senate28)で認定 されることは

,HOnOurs

Schoolで あるCambridge English Schoolも 正式 に認定 され るとい うことである。OXfOrd大学 にお

ぃてHonours Courseの試験制度が認定 されて,OXford English Schoolが正式 にスター トしたの と

同 じである。

Cambridge大

学 においては,English Triposは重要な試験制度 であるばか りでな く,

教師達の教育 。研究体制の重要 な反映で もある。このTriposが 大学の総意で正式決定 されるまでに, きび しい真剣 な議論が各段階でなされてきた。新 しい学問であるEnglishの学問 としての十分 な内容 はどうか,その理念や体系はどうか等 をめ ぐって きび しい本質的議論が展開 される。 その際English は

,緻

密 で深遠な学問体 系 を誇 るClassicsやMathmaticsと比較 され

,ま

た他の学科 による評価決定 もなされて きたわけである。設置すべ き学科の存在理由についての長年月にわたる本質的討議な く して

,主

に財政上 の基盤 に依存 して新学科の設立 をみるとい うのでは決 してない。 そういう意味で Cambridge English Schoolに とって重大な意味 をもったKing Edward Vll Professor of English Literatureの 基金寄贈 に際 しての反対意見

It seemed to him〔

the senate Dr.M.E.M'Taggard〕

that a prOfessorship of such a subject, and to be filled in such a manner,

vould not only be useless but positively harmful tO the University.29

,考

察 に価するといえよう。英文学教授のポス トが「無益である」ばか りでな く

,大

学 に とっ て 「有害である」 との認識 まで出て くることは

,教

授 とい うポス トばか りでな く

,英

文学 その もの の 学問 としての内在的価値 についての強い疑間である と考 えざるをえない。 そうい う中で英文学科 が 除々に市民権 を獲得 してゆかねばな らなかった。その経緯 をEoM,W.Tlllyardの Tttι〃熔ι ttπ力α婉″

(1958)を参考に しなが ら種々の考察 をしてみたい二〇

1917年のCambridge English Schoolの 設立 までには気の遠 くなるような歳月が必要であった。歴 史の古い大学だ けにその感が一層強い。Cambridge English Schoolの 最初 の萌芽 は

,歴

史 をた どれ ば,既述 したようにAngio―

Saxon語

の本が

Cambridge大

学で出版 された1567年 といえようが,SCh001 設立 に具体的な形で関連す るものを探せ ば

,Cambridge大

学評議会

(The Cambridge Senate)が

正式決定 (grace)し て

,1817年

に設立 させた「近代・ 中世語研究特別委員会」

(Board fOr the

supervision of tte Study of modern and medieval langtkages in the University―

以後「特別委員

(11)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 38巻 第

1号 (1987) 31

評議員の

4人

のメンバーか らな り

,そ

の委員会 の職務 は中世語 。近代語 (こ こでは近代語 に焦点 を あてて考察する

)の

教育・研究 に関 しての提案 をす ることである。 この時期 に

,独

自の学科 として 英語が認定 され ることは考 えられず

,英

語 は他 の近代語 (フランス語

,

ドイツ語等

)と

ともにまと めて評議会の注意 をひいたにす ぎない。この委員会のメンバーの一人 に,Angio―Sax鋭1語の教授が 力日えられたが,こ の委員会設立 を期 してそれ まで存在 しなかった

Anglo Saxon語

教授職が設 けられ た ということで もあるか ら

,そ

の委員会設立の意義 は大 きい といわねばならない。その初代教授 に

W.W.Skeatが

選 ばれた。 Skeatは

Cambridge大

学で もともと数学 を専攻 した学生であったが,後に神学 に関心 をもち聖職者

となる。しか し聖職者 に不適 当であることを知 り

,彼

は母校

Camb

dge大 学Ch st's C01legёで数学

教師 に転 じる。しか し英文学者である友人E.J.Furnivallの 勧めもあって

,Skeatは Anglo Saxon語

研究 に打ち込み

,古

英語 のテキス トの編集や註釈 に大 きな業績 を残 し

,高

名 な学者 になってゆ く。 そのSkeatが 後 に設立 され るCambridge English Sch001に 貢献 した ことはいうまで もない。現在,

Angio Saxonと Englishは別 な学部 に所属 しているが,この頃はともに同 じ組織 に所属 していた。従

って

,Anglo Saxon語

の教授 は

,英

文学教授職設立前では,English SchOol設 立 に最も深 く関与 し たのは当然 といえる。事実

,Skeatは

「特別委員会」で重要な働 きをした。その結果

,1881-82学

年 に その委 員 会 は大 学 副 総 長 (Vice―Chancel10r31)に

,近

代 語 の 普 通 学 位 特 別 試 験 (Special ExaminatiOn for Ordinary Degree)制 定 を答申 したのである。なお,この普通学位特別試験 はTripos

より劣 った試験制度で

,Oxford大

学のPass Examinationに相 当する と考 えてよか ろう。

特別試験 とTriposに ついてはさらに説明す る必要があろう。19世紀 中葉 まで

Cambridge大

学には Classicsと Mathematicsの二 つのTripOsし か存在せず,しか もこの二つは

Cambridge大

学の学問の中

枢 として君臨 して きた。その後諸科学の発展 とともに,Moral Science,Natural Science,Theology,

Law,HistOryがTripOsと して次々 に認 め られて きた。しかしTripos(優 等生試験)に合格すれば“with

HonOurs"と 優等卒業学位が与 えられるの とは別 に,それ より劣 った「普通学位」(Ordinary Degree) の「特別試験」(Special ExaminatiOn)がぁる。伝統 あるClassicsゃMathematicsは Triposと 同時 に特別試験 も持 っているが,Engl亀hは普通学位の特別試験だけを持つに至 ったわ けである。その特 別試験 について詳述すれば

,そ

れはそれぞれLangtlage and Literatureと い う名称 を持 った二つの 部門―英語

,フ

ランス語

,

ドイツ語の部門一か ら成立 している。英語部門のシラバスは次の通 りで

ある。

(a)ExplanatiOn and discussion of passages fronl selected Englsh bOOks,one ofthem befOre 1500

(b)GraHllnar,etymology and histOry of the EngHsh Language (C)Selected Period

(d)Composition32

このシラバスは語学的色彩濃厚 というべ きであろうか。 しか し「特別委員会」はこの答申に引き継 いて

,1883年

3月 には

The Modern Languages Triposの

制定 を答 申 し

,評

議会 で少 しの修正のの

ち可決 させた。英語 は

,曲

りな りにも

,他

の近代語 とともにTripOsを 持つ ことがで きた といえよう。

そのModern Languatts Triposで ,フランス語並びに ドイツ語の翻訳 と作文 は必修科 目であ り

,他 の三 つの科 目か ら一科 目は選択であった。選択科 目はセ ッ トになった次の三種類― プロバ ンス語,

(12)

岡本寸俊切:The Cambridge English School イタ リア語並 びにフランス語 :アングロ・ サクソン語

,ゴ

ー ト語並びに ドイツ語 ;ア ングロ・ サク ソン語

,ゴ

ー ト語並びに英語―である。英語 を志望す る学生 といえども

,フ

ランス語及 び ドイツ語 を必修科 目として修得 し

,か

つア ングロ・ サクソン語

,ゴ

ー ト語 も修得 しなけれ ばな らない。 しか も彼等が学ぶ英語 は17世紀末 までの英文学作品であ り

,や

は り主力は古英語及 び中英語が しめ

,全

体的に見て も

,文

法的・ 語学的色彩が濃厚であった。 このTriposは

,1886年

か ら1893年 までの

8年

間続 くことになるが

,概

して不評 であった。そのた め1890-91学年に「特別委員会」 はフランス語

,

ドイツ語の翻訳・ 作文の必修科 目の廃止 な どの答 申をす る。 これに対 して文学批評

,文

学理論 こそが この答申に欠落 している とい う意見があ り

,そ

の意見の代表者 はCambridge大 学Selwyn Collegeの 学長Arthur Lyttletonで あった。 これに対 して Skeat教 授 はCambridge大C/8カι埒力 Rttθγ″γとこ次のような反論 を寄せている。

Literary criticis■l was not speciany mentioned through. It was included in literary history in training,literary history should precede literary things out of books would do better to learn formulate ideas and opinions.33

because it was necessary all the way nearly all the papers, As a matter of

criticism.ふ/ten who merely reproduced literary history before attempting to

Skeat教 授の この考 えと文学批評が重要な位置をしめ,それ独 自のペーパーがある現在の

Cambridge

大学英文科 のシラバス とは驚 くべ き対照 をな しているといわざるをえない。のちに「特別委員会」

はModern Languages Triposに 関 して修正案 を提出 したが

,そ

れ はLyttletonの主張 とはか け離れ

て,語学的特色が濃厚なものであり,またShakespeare以降の文学を殆んど無視 していた。修正案はSkeat

教授の上記の主張に沿 った もの といって よか ろう。 しか しこの修正 に反対する者 は他 に もあ らわれ

た。Oxford大学出身の文学批評家J.Churton collinsで ある。彼 は肋 力 げ うで泳力

L滋

紹蕨定を著

わ し,その著書の中で“Literature must be rescued from its present degrading vassalage to Phi1010gy."34と主張 した。また彼 はModern Langtlages Triposの英語 コースを選択す る学生数は少 ないと指摘 し

,か

つ英文学 に与 える影響 はゲルマ ン的要素 より古代 ギ リシア・ ローマの古典文学の ほうが大であること

,ま

た古典文学の背景のないHonOurs Course in Englishは 不適 当であるとい う主張 もした。彼の主張は「特別委員会」答 申に直 ちに反映 されたわけではなか ったが

,1917年

の English TripOs成 立の時

,大

きく取 り入れ られた。

「特別委員会」はModern Lallguages Triposに ついての修正案 を1900年評議会 に提示 し

,な

んの 反対 もな く可決 させた。 これ は大胆 な提案ではなか ったが

,英

語学・英文学研究 の近代化 に役立 っ た といえよう。 そこでは1500年以降 (1832年に至 る

)の

英文学 も存在価値が認 め られ

,学

生 もその paperを書 くことがで きた。同 じく,Triposに ついての さまざまな修正提案が1909年 になされた。そ れ まで英語のSectionに は

,Section A(中

世及 び近代英語―ChaucerとShakespeareが中心

)及

び SectiOn B(古 英語)が あ り,学生 は必修科 目としてA,BttseCtiOnを取得 しなけれ ばな らなか ったが (全体 として語学

3,文

学 生の割合),よ り専門化 され近代 に比重 をおいた

A2Sectionが

提案 された のである。その提案では従来の

A,BttSeCtiOn取

得 とい う組合せの他 に

,A又

Bの

一科 目 とA2と いう別な組合わせ (文学色が強 く出ている

)も

可能 とな り

,そ

れはやや近代的

,進

歩的案 とい うべ きであろう。というのはこの時期 には,Manchester,Liverpool,Leeds,Sheffieldな どの諸大学で は

,文

学批評のpaperが 認 め られていたため

,Cambridge大

学英語の後進性が とか くいわれ,「特別

(13)

鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第 38巻 第

1号

(1987) 33

委員会」は新制大学の動向を十分検討 して提案 した ものであった。

この提案 をめ ぐって

,Cambridge大

学評議会の意見 は激 しく対立 した。反対意見 の主 だった もの

,

ドイツ語講師Quiggin及 びギ リシア語教授Jacksonの二人である。Quigginは

,A2設

立 によ り英 語 は高度 に専門化 され,Honours Degree適格 の広い知見 を持 った学生の養成 はで きな くなるという

意見 を述べ,Jacksonは,イ ギ リス文学が学問の対象 として貧弱なものであるという反対意見 を開陳 した。 このJacksonの 意見 は

,単

A2設

立 とい う問題 に とどまらず

,一

般的にEnglish Studiesに して

,Cambridge大

学,特にClassicsの教員層 に根強 く残 っている意見 というべ きであろう。やむな く「特別委員会」 は再提案 しなければな らなか った。それは前回の提案を部分的に変更 した もので あるが,変えた点 は思 い切 った ものであった。即 ち

,新

しいsectionについては前回の提案通 りだが, それはdegree取 得 にはカウン トしない とい うことである。結局

,そ

れは真 に文学好 きの学生 を引 き つけようが

,大

半の学生 には魅力がない もの となって しまった。

Modern Languages Triposを

め ぐる種々の修正案・規則改定 について論述 して きたが

,次

Cambridge Englishに とって大 きな出来事 について論述 しなければならない。その一つは,大 きな存 在であったEIringtOn and BoswOrth ProfessOr of Anglo― Saxonの

W.Wo Skeatの

死去である。 Skeatは 古英語。中英語の碩学であ り

,手

堅 く古書 の原稿や言語的資料 を収集 し

,検

討 を加 える言語 学者であ り,English Studiesの 安易な近代化 。文学批評へ傾 く方向を押 し止める存在ではなかった だろうか。だか らこそ,彼 の後任の選出はCambridge Englishに とって大 きな意味 を持 っていた とい えよう。後任教授 には

HM.Chadwickが

選出 された。彼 はCambridge大学でClassicsを学 び

,の

ち に転 じてAnglo―

Saxon語

の専門家 となった碩学である。しか し彼 は多岐にわたる関心 を持 ち

,ヨ

ロッパ諸国の文学にも精通 していた。彼 は文学 にしろ人物 にしろ壮大なものに関心 を示 し

,ギ

リシ ア文学の骨太な厳格・ 峻厳 さを称讃する一方

,イ

ギ リス中世寓話の「 あわに も似た特質」(“Gothic frothiness")35を侮辱 した。そのためその時代 の文学の傑作 といわれる形 αガを「 まことに下 らない 作品」(“bloody nonse偲 ざ'36)と考 えた次第である。必ず しも専門分野 を偏愛 しない ことが彼の思考 の特質であ り

,こ

れがためSkeat教 授の軌道 を彼 は大 きく修正することになった。 このように広 い識見 を持った彼が,教 育 にしめる重要な学問はやはりClassicsだ と考 えていた。勿 論,CIassicsを重要視する人達 は

Cambridge,OxfOrdに

も多 くいたが

,Chadwickは

高等教育 にお け

るCIassicsを英語 と結 びつけ

,新

しく位置づ けた ところに独 自性があった。Classicsの 著作 には多 く の秀れた作品があるが

,そ

れ らを理解す るには

,古

代 ギ リシア語・ ラテン語 という大 きな障壁があ るため

,そ

れ を打 ち破 る手段 は英語の翻訳でそれ らの作品を読むことであ り

,そ

うすれば学生 には 得 るところ大 であ り

,近

代英語が重視 されるゆえんはそ こにある一そう彼 は考 えていた。彼が高等 教育 にしめる近代英語の位置 を

,重

視 していた古典学 よ り高 く評価 した理由 もここにあ る。

Anglo

SaXOn語

の教授が この ように進 んだ意見 を持 ち

,果

断 に行政手腕 を発揮 し

,か

つ若 き英語専門 の

Mansfield Forbesゃ

E.M,W.Tillyardの

協力 を得 たか らこそ

,今

日の進歩的なCambridge English

SChOOlの 礎が築かれた といってよい。

もう一つの大 きな出来事 は,1910年11月 にSir Harold Harmsworthが英文学欽定講座担任教授(a

chair Of English Literature in memory of King Edward VII)の 基金を

Cambridge大

学 に寄せた ことである。English TripOs成 立 まで実質的に条配 を振 ったのは後 に任命された英文学欽定講座担 任教授ではな く

,Anglo Saxon語

の教授であったけれ ども,これは英文学教授 となったQuiller―

COuch

の実務 を避 ける個人的な性格によるものである。現在のCambridge大学では,Anglo Saxonと English はそれぞれ別 な学部 を構成 してお り,Cambridge English Sch001の 中核 は

,組

織 において も実質

(14)

岡村俊明:The Cambridge English School

的にも,英文学欽定講座担任教授である といえよう。そ ういうことであるから,この

Harmsworthの

申 し出はCambridge English Schoolに とって まことに大 きな意味 を持 つ ことになった。またその教授 職 の条件の意義 も考察すべ きであろう。次の通 りである。

It shaH be the duty of the Professor to dehver courses of lectures on Enghsh Literature from the age of Chaucer onwards, and otherwise to promote,so far as may be in his power,the study in the University of the subject of Enghsh Literature,The Professor shan treat this subject on literary and critical rather than on philological and linguistic

hnes.37

即 ち

,英

文学欽定教授の条件 は

,ChauCer以

降の英文学 を講 じること及 び語学的でな く

,文

学的・ 批評的に学問 にアプローチする者 ということである。 この条件 は,Cambridge English Schoolの 方 向を大 きく決定づ けるものであった といってよい。 その基金が寄せ られた翌1911年に

,そ

の教授職 が正式に決定 され,Trinity Collegeの

A.W.Verrallが

初代Edward Vll Professorと して任命 され た。彼 は古代 ギ リシア・ ラテン語 を専門 とし

,そ

れ以外 にJohn Dryden研究や近代英文学作家 につ いてのエ ッセイ集 を出版 していることもあ り

,英

文学の造詣 も深い といえたが

,病

弱であったため,

任命の翌年死去 した。後任 としてSir Arthur Quiller―

cOuchが

任命 された。そのQuiller―cOuchにつ いては次章で くわ しく論 じることになろう。

このように力日速度的にCambridge Englishは 文学色 を濃厚 にしはじめたが,それに反対する者 も当 然予想で きた。Universityで もCOllegeの講師で もない“free lancer"の

A.J.Wyatt及

3人

の女性 教師(dOns for supervision)で あるMiSS Steele Smith,Miss Anna Paues(と もに

Newnham College)

及びMiss Hilda Murray(Girton College)で ある。彼女達 はみな語学の専門家であ り

,同

じ専門

のWyattと ともにこの新 しい動向に反対 したが,文学への傾斜 は押 えようがなかった といって よい。

そういう教師達の専門 を生かした無難な教室づ くりというより,Cambridge大学にぶさわ しいEnglish Studiesの 理想論が優先 し

,か

つ実現 を図るかな り大胆 な教室づ くりに向かってゆ くのである。その 際期待 されていたQuiller―Couch教授は規則制定等の仕事 にまるで関心 を示 さず,その結果

Chadwick

教授 にその仕事 が回ることになるが

,E.M.W.Tillyardも

記述 しているように

If Q had opposed Chadwick,it、 vould have been the end.But that was not at an the case, for with Chadwick's expansive ideas about the acaden c study of English Q was in complete harmOny.38

であつた。即 ち,Quiller couchは期待 された役害」こそ果 さなか ったが

,Chadwickに

反対 しなか っ た。なぜな ら

,Chadwickの

方向 こそ彼の目ざす方向であるか ら

,Chadwickに

任せ ることは

,彼

が 雑事 に煩わ され ることな く

,研

究 と迩味 にゆった りと埋没で きるか らである。

このようにCambridge Englishに とって

,二

つの大 きな出来事 を境 に,Ellglish Tripos成 立の期 待が高 ま り

,Chadwick教

授の強力 な指導性 もあって

,そ

の実現が近 い と思われていた。早期成立 を 促 した他の要因 もあった。即 ち,公務員採用試験 にEnglish papersが 課 された ことである。ついに1916 年 に「特別委員会Jは English Triposの大改革 を評議会 に答申 し,翌1917年に二つのセクション

(A:

(15)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 38巻 第

1号

(1987) 35

English SchOolは 正 式 に成 立 した。Cambridge大 学 が創 立 され て約 700年 とい う気 の遠 くな る よ うな

歳 月 が 英 文 学 科 設 立 まで に必 要 で あ った。English TripOsのシ ラバ ス は次 の通 りで あ る。 レ ε肪

%4ω

箔 燃 ヵ

L滋

紹蕨κ

f〃

θ虎 物 α%″ M9oこ9%つ

Containing six papers Of three hOurs each.

1. Questions and essays on the general histOry of Englsh Literature since 1603. 2. Passages frOm specified and unspecified wOrks Of Shakespeare for explanation

and discussion,with questiOns On language,Inetre,literary history, and literary

crlticism.

3 a. Questions On a prescribed period Of English Literature. θγ

3 b. The histOry of the English language

4. Questions On English nterature,life and thOught frol■ 1350 to 1603.

5 a. Questions On a special subiect in the general history of literaturё ,ancient and modern,in cOnnex10n and comparisOn with English Literature.

0/

5b. Passages fro■l specified Anglo―Saxon and early Norse works(the latter being optional)for translatiOn and explanation,with questiOns On literary histOry and Subiect matter.

6a. Questions On the nfe,literature,al■ d thOught Of England from 1066 to 1350,with

passages froni specified Engnsh and French wOrks fOr translation and

explanatiOn.

0″

6 b. Questions On the general history of literary criticism with special reference to English Literature.

膨 ι″θ

%B囮

務む

L滋

紹蕨

%ブ 打れ初〃

Containing five papers of three hOurs each tO be chosen fronl: 1. Anglo― Saxon and early Norse=paper 5b in Section A. 2. English histOry,Ife,and iiterature before 1066.

3. Specified subiects in early Norse literature,thought,Hfe and history. 4. The early histOry,life and literature of the Teutonic peoples.

5。 The early histOry and antiquities of Britain.

6. The early histOry,life antthterature of the Celtic peoples.

7. The Teutonic Languages, with special reference to Gothic, Angio― Saxon, early

Norse and 01d High German.

8. The Celtic Languages,with special reference tO early Welsh and early lrish.39 このEnglish TripOsによ り

,古

い学問体 系 は一挙 に近代 的・ 進 歩的 な ものへ と跳躍 していった。 Tillyardに よれ ば,そ の特色 は四つあ る♂一つは語学 の必修 を全廃 した こと,二つ は語学 の代 わ りに 文化・文明史 を導入 し

,古

代研 究 (early studies)の オ リエ ンテー シ ョンを設 けた こ と

,三

つ は「中

(16)

岡村俊 明 :The Cambridge English SchOoI

世」が占める割合 を極 めて少 な くした こと

,四

つは近代英文学研究 を古代英語か ら遠 ざけ

,そ

れを ヨーロッパ大陸

,特

に古代 ギ リシア・ ローマ研究 と深 く関連づ けた ことであ る。

ここで注意 しなけれ ばいけない ことは

,新

しいEnglish Triposは

,画

期的 といえるほ ど英文学色 濃厚 となったが

,そ

れ はEnglish Literature Triposで はな く

,実

質的に もEnglish Triposで あるこ

とヽG茂)る。 ``. .・ it〔the Tripos〕 prOmOted the study of literature not only as such but in its

historical and social setting.Щ である。 こうい うCambridgeの新 しい試みは大学外 で も大 きな議論

をよんだようである。

Anglo Saxon語

必修 の廃止並びに中英語の全廃 は

,創

立 まもないイギ リス英 文学会 (English Association)か らも反対 された。 それほど革新的なTriposで あった というべ きで あろう。

久 しく待望 されていたEnglish Triposが 制定 されたわ けだが

,さ

らに改革の動 きがでてきた。 そ れは

,英

文学会が反対 していた「

Anglo Saxon語

必修の廃止」を修正す る方向ではな くて

,近

代化 傾 向を一層強 める動 きであった。 というのは,English Triposに関 して他の学科の十分 な協力が得 られなかった ことが一つの理 由である。詳 しく言 えば次 の通 りである。English Triposで は

A,B

の二つのセクションを修得す る方法 と英語の一つのセクションと他のTriposの 一 つのパー トを組合 わせ る方法 も可能であった。実際 には,CtassicSな どのISt Partを取得後 に

,英

語の

A Section(近

代 。中世

)取

得 とい うケースが多 く見 られた。 しか しClassicsのStaffは

,学

問 としてのEnglishに す る軽蔑感が強 く

,そ

のために両者の協力関係 は必ず しもうま くいかなか った といって よい。 こう い う動 きに対処するために

,近

代部門か ら成 り立つSection Cが 附加 され

,学

生 は

Section A,B,

Cの

うち二つのSectionを選択 して,即ち,ChauCer以降 を学ぶのみでHOnours Courseの

B.A.Degree

を取得することが可能 となった。Section Aは 英文学のみに整理 され

,ま

た多 くのpaperに は指定書 が明記 され,よ り具体 的 となる。附加 された近代部門Section Cは

,比

較文学的観点及 び高度 な専門 的観点をもつことになった。その中にはそれまでSection Aに含 まれていたTragedy paper及びCriticism

paper,新

たに附加 されたpractical criticism及 びQuiller―couchの主張で新 たに設 け られたEnglish

Moralistsのpaper等 も含 まれている。なかで もpractical criticismは1980年代 において も

Cambridge

大学で確固た る位置 をしめているが

,そ

れはI.A.Richards42に 唱道 された批評方法 として有名であ る。即 ち

,1917年

English Schoolの 講師 (lecturer)と して採用 されたI.A.Richardsは

,従

来の批 評 とは異った新 しい批評の方法 を

,即

,そ

れ までの漠 としていた研究方法 を

,学

問的 に厳密なも のにしようとし,同時 に文学の解釈・批評 に際 して,心理学 を採用 したのである。またI.A.Richards

を中心 とす るCambridgeの人々に高 く評価 された1920年代 におけるT.S.Eliotの知 的な文学 は

,感

情 を重視するロマ ン主義 の文学か ら離れて

,よ

り知的な詩歌 を求める傾 向を助長 させ

,同

時 に批評 論 としてのpractical criticismへの傾向を助長 させ ることにもなった。 そうい う批評 をRichardsは

Cambridgeの学生 に教 えかつ実践 していたが

,そ

れが1926年のEnglish Tripos改 正 を機 に,Section

Aお

ょびSection Cに おいて正式 に教育体制の中に取 り入れ られたのである。

このような新 しいEnglish Trip∝成立 と同時 に,Cambridge English Schoolは ,それ までのFaculty of Medieval and MOdern Langttagesの 一部門か ら

,独

立 したFaculty of English(英 文学部

)へ

と 大 きく発展 をとげる。

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