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型や方法を遵守して子どもを引き回すことで得心し,自らを感受できない教師をつくらないために[Ⅲ]―人間存在の現象としての音楽の楽しさを磁場にした幼児音楽教育法の授業をめぐって―-香川大学学術情報リポジトリ

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香川大学教育実践総合研究(Bull. Educ. Res. Teach. Develop. Kagawa Univ.),25:27−34,2012

型や方法を遵守して子どもを引き回すことで得心し,

自らを感受できない教師をつくらないために[Ⅲ]

―人間存在の現象としての音楽の楽しさを磁場にした

幼児音楽教育法の授業をめぐって―

瀬戸 郁子

(音楽教育・幼児教育) 760−8522 高松市幸町1−1 香川大学教育学部

A Case Study of Teacher-Training for Music Education in

Kindergarten

Ikuko Seto

Faculty of Education, Kagawa University, 1-1 Saiwai-cho, Takamatsu 760-8522

要 旨 相変わらず幼児の音楽教育の教本には子どもに「∼させる」方法という発想が充満 している。子どもの外に音楽が存在していて,教育によって出会わせるという発想ではな く,音楽は子どもの中に在り,遊びの中に人類文化の発生とともに成立してきた「音楽する こと」の楽しさの原点を再発見することが肝要である。そこで人間存在の現象として音楽が 遊びと共に生成する場に開かれる幼児音楽教育法の授業を報告し,提起する。 キーワード 差異と反復 わらべうた カノン 遊び 開かれ

1 はじめに

 幼児は「音楽」だと自覚してたいこをたたく わけではない。たいこを介して世界と交信して いるのだ。こんな保育室の景色も見たことがあ る。自分のからだよりも巨きなサボテンでで きた民俗楽器を肩に抱え合って揺らしながら, 「エイッホッ,エイッホッ」とめぐり歩く子ど も達。この子どもが聴いているのは形も色も匂 いも肌触りもまるまる音に溶け込んだ世界だろ う。それらは時として保育者(おとな)には意 味不明なめちゃくちゃに聞こえることがある。 おとなの秩序立った耳の外に,文化として体系 化された「音楽」からはみ出して位置する故で ある。しかし我々おとなが「失われた子ども」 (本田 1984)への思慕として,幼児の表象の世 界を哀惜しあこがれ,また諸芸術が子どもの世 界との関わり合いの再生を追い求めるのをその 血肉としていることもまた本当である。これを 本田(1980)はおとなの生の現象に突きつけら れる子どもの異文化性に由来する「挑発性」と して意味を読み解こうとする。  平成20年告示の「幼稚園教育要領」を開いて みよう。やはり依然として,子どもを「音楽」 に出会わせる,もっと言えば学校知として規格 化された「音楽」の仕組みへと子どもを囲い

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込むという発想に内閉している。「六領域」が 設定されていた当時から比べれば文言上の括り は緩やかになっているとは言え,「音楽に親し み」は鑑賞に,「歌を歌ったり」は歌唱に,「簡 単なリズム楽器を使ったり」は器楽の領域内容 にそれぞれ当てはまる。しかもこの発想は保幼 小の連携の大波に乗って保育現場ではより強調 されている。「小学校へ上がって困らないよう に」とか「小学校の先生の手をわずらわせない ように」だとか,「要領」の言い回しがどうで あろうと,幼児と音楽に対する保育者の考え方 をますます固定化し,保育を貧弱にする要因の 一つになっている。さらに結果主義の風潮の中 で,日々の保育の成果として子どもたちを「見 せる」機会が増え,「仕上げる」ことが自己目 的になってしまった保育者の悩みを聴くことも 増えた。地域の行事や催事でのマーチングバン ドや,生活発表会を園外の大きなホールで行っ てほしいという保護者の要求にも応えなければ ならない。「子どもに無理をさせている」「つい つい命令口調で子どもを追い立ててしまう」「自 分に余裕がなくなりクラスでけんかやけがが増 える」とこぼされる。  「正しい楽器の使い方」を教わらないと奏で られないのではないし,「できるようになると 楽しくなる」のでもない。あるいは,子どもが 好きにつくった,空のプリンの容器に色とりど りのビーズやボタンを入れたマラカスは「偽物 の楽器」で,「本物に出会わせなければならな い」という発想も違う。自分と世界との関わり 合いで表現したものどもは子どもにとってみな 本物であって,そもそも本物か偽物かという次 元を超えている。さてそれでは,このような園 における音楽の二極分解,あるいは保育におけ る音楽の使い分けを通底し得る発想をどのよう に求めればよいのかを考えたい。

2 人間存在の現象としての音楽の捉え

と幼児の音楽の楽しみ

 保育者でなくとも,子どもはぐるぐるめぐり たがる人だ,という現場を目撃することは多々 あるはずだ。たとえば「ひらいたひらいた」と いうわらべうた遊び。いつ終わるともなくいつ 始まったかも遠く,思いのままにぐるぐるめ ぐって繰り返される。本田(1980)は文化人類 学の成果から,生と死と再生の象徴とされる渦 巻き模様に重ねて,子どものめぐりを「人に内 在する根源的なイメージであり宗教的儀礼と深 い所でつながっており,子どもたちは『めぐる こと』においてその生をあらわにし,『めぐる こと』を通じて世界を把握する。」と述べる。 洗濯機の中で回る水をいつまでも飽きず覗き込 んでいる子ども。立ち話している母親の周りを 喜々として旋回し続ける子ども。子どもは実に 「めぐる人」なのである。そしてこの「ひらい た」の歌が子どものめぐりにぴったりと寄り添 う。いや増幅させる。「かごめかごめ」や「な かなかほいそとそとほい」「あぶくたったにえ たった」「なかのなかのこぼんさん」などわら べうたが循環歌であるのは音組成と構造からも 明らかなのだが,それにしても,ひらけばすぼ みすぼめばひらくと延々にめぐりめぐる無窮の 同心円の陶酔に身をゆだねる子どものめぐりは 生命の輪廻と不可分で,宇宙と融合する法悦に 我々を誘い込む。今一度,私の目の前で繰り広 げられた「ひらいたひらいた」の子どもたちを 見てみたい。  「ひらいた」の一節中に手を前後に揺らす。 これを一組として旋回する。輪はところどころ できつくなったりゆるんだりする。「すーぼん だ」で一気に輪の中心へ向かうと今度はきつく くっつき合ったまま「すーぼんだすーぼおんだ」 で花芯となってぐるぐるめぐる。こすれ合う身 体,肌の温もり,息づかいなどの微かな差異の 反復を分け合って楽しみつつ,次の「ひーらい た」では緊張がほどけて,一息に花開く。手腕 をこれでもかと一杯に張り切って。そしてまた 新しくめぐり続ける。このめぐりの隣りの子ど もたちは車座になってれんげの花になってい た。膝を抱えて縮こまってすぼみ,脚を伸ばし てひらく。やがて座ったままで手をつなぎお尻 でめぐり始めた。そのぎこちなさが刻む揺れの 楽しさがさらにめぐりをめぐらせる。誰からと

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もなくどこからともなくいつからともなく発生 し,めぐれどめぐれどその度にぎこちなさは新 鮮さを醸し出す。  このように子どもの遊びは「反復」が生命で あり栄養である。「繰り返しの法則こそ,遊び の理論が最終に研究しなければならないものだ ろう」とW. ベンヤミン(1988)は言うが,遊 びの反復は決して同一なものの繰り返しではな く,差異性の生成である。同じで違う,どこか 違っているが同じでもある,というように。遊 びはすこぶる万華鏡のように転々と新しく反復 し差異を生成し続ける。言い換えれば,遊びに おける反復は意味生成する差異性の反復として 子どもたちに体験される。とは言え,遊びにお ける差異的な反復は遊びそれ自体に対して「同 一のまま己れを反復する力」をその本質として 持ち得ない限り「多様化する力と己れを多様化 する力を持つことはない」(ドゥルーズ 1992)。 それは遊びの死滅であり,この事例でのめぐり の終焉である。このような差異的反復を本質と する遊びの持つ「繰り返し」はそもそも文化を 文化たらしめてきた人間存在の現象の開かれを 生成するものであると考えられる。そしてこの めぐりを単なる繰り返しではなく,差異を生成 する反復として遊びと一体化し,永遠の生命を 吹き込んでいるのがわらべうたの音組成と構造 である。わらべうたはどこからでも始まり,ど こでも終わりになり得る優れて循環する歌,あ るいは輪廻する歌である。それは誰からともな くいつからともなくどこからともなく自然発生 する非人称の声が歌う遊び歌として,人間存在 の底の底に深く沈殿している音楽との関係を見 えるかたちで示してくれている。  このように,わらべうた遊びの中でも「ひら いたひらいた」のような旋回遊びを事例とした 以上の視点から,同一性の背後に隠された差異 的反復の遊びの楽しみを再発見する場,言い換 えれば人間存在の現象としての音楽の楽しみに 開かれる場の体験を保育者養成の音楽教育の中 で深く取り上げられねばならないと考える。そ れによって幼児の自然発生的な音楽の興味と楽 しみの内実を掘り起し,その奥行きと広がりに 共感し受容できる全身体的感覚を伴った感性を 育てることができるだろう。

3 幼児音楽教育法の事象をめぐって―

わらべうたの音組成とカノン様式に託

して

 それではこの「ひらいたひらいた」のような 遊びをもう本当には遊べなくなってしまった 我々おとな(そして保育者)の「失われてし まった子ども」に再び出会うにはどうすればよ いのだろうか。なぜならその再会に開かれるこ とは,今現在子どもである人,「ただ,存在そ のもの,出来事そのものと,ひたと向き合って いる子ども」(本田 1984)の世界との交信に寄 り添う,より多様な回路を開くことができ,そ こにより豊かな保育の可能性に開かれることに なると考えられるからだ。  繰り返しになるが前章で述べたように,同一 なままで自己反復する差異,あるいは同一性の 背後に隠された差異的反復と言い換えても同じ ことだが,この刻々と差異を生み続ける反復の 体験を遊びの本質であるとここでは捉える。し かしこのように捉えながらにして,人為的仕掛 けの場である授業において体験させようとす る,いわば自己矛盾とも言えるハードルを何と か低くできるような題材に関するヒントとなる ものを求めて考えつつ試行錯誤して吟味し今に 至っている。その一つはドミノ倒しだ。ある時 期学校現場でも流行ったことがある。子どもた ちがドミノ倒しに興じる教室を散見した。後か ら後から追いかけられるスリリングな興奮に加 えて,あっけなく倒れたドミノ牌たちが今ここ の場の風景を漸次的に塗り替えて見せる。あれ よあれよという間に,いつもの日常的な生活世 界の被膜が次々に一枚一枚めくられていく新し さの差異性を目の当たりにする興奮に追いかけ られる。だからドミノ牌を立てる作業の面倒さ もなんのその,子どもたちはまた,そしてまた とオブセッショナルに立て直す。倒すために。  とは言えドミノ倒しをそのまま授業で行うわ けではなく,ドミノ倒しの興奮と楽しみは旋回

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遊びのそれに近しいものであり,何よりも学生 たちにとっては旋回遊びより身体的記憶に浅く リアリティーを感じられるものであろうから, これをヒントとして見渡すことで音楽のカノン 様式が見えてくる。作曲技法の一つである「カ ノン」には数種あり複雑なものもあるが,学校 音楽教育では輪唱として簡便に扱われていて, もっぱら二部合唱の導入段階としてだけ用いら れている。しかしそれは残念なことで,この様 式の差異的反復という妙味をあえて去勢した用 い方であり,カノンの音遊びの楽しさとおもし ろさの体験を子どもたちから奪ってしまってい る。そこで“見えるドミノ”に重ねて“聴くド ミノ”の楽しみへいざなえる場づくりの題材と してカノン様式に着目したい。「カノンの技法 のむずかしさも,おもしろさも,先行声部に対 して,後続声部がいかに模倣をつづけていく か,というところにある。」(芥川 1971)と言 うが,それは作曲者の言い分であり小さく感じ られる。実はそれ以上に如上の旋回遊びの世界 の楽しみからすれば,カノン様式には人間存在 の奥深い所に刻印された遊びとしての音楽の根 源的な姿が生きているように思われる。いやむ しろ遊びが遊ばれて歴史的身体を持ち得た,そ の証しとして音楽文化の一つの様式に昇華され たというのが本当のところだろう。  たとえどのように遊びの理論が相互に自己矛 盾的な概念を駆使して言及しようとも,遊びの 繰り返しは繰り返すから遊びなのだと言う他は ないものだ。ただの模倣でもないし,ただ単に 後から同じものが続いているだけでもない。同 一のままで差異を産出し続ける反復を遊ぶカノ ン。これは例えばNHKテレビの人気番組『ピ タゴラスイッチ』の番組コンセプトに使われて いる。本授業で学生が繰り返し見たいとリクエ ストするのも,手を変え品を変えて提供される 差異的反復という遊びの繰り返し性のおもしろ さをキャッチしてのことだと伺える。その中で も「アルゴリズム行進」は“見えるカノン”で あり,この行進の楽しさとおもしろさは重なり 合う反復のずれの差異性が更なる反復によって しぐさと音の差異を新しく生成し続ける妙味に ある。それは単純なドミノ倒しから,ラベル作 曲の緻密な差異の構成である『ボレロ』や,ス ティーブ・ライヒらの時計仕掛けのずれの反復 のミニマル・ミュージック,さらには学生に人 気のあるロックグループRADWIMPSの『傘拍 子』という曲のトリックにまで相通じる音遊び の感覚だと捉えられる。そこで本授業では伝統 的なわらべうたや現代のわらべうた遊び,およ びことばうた遊びの体験のベースにカノン遊び を応用し,この「アルゴリズム行進」をモデル にした創作活動を授業の最終の単元を締めくく る題材として取り上げることにした。  今の学生たちにとって「わらべうた」はうん と遠い。「知らない」とあっさり言いのける人 もいる。「それって,アンパンマンのやつ?」 との返答には呆れる一方で,さもありなんと推 察される。しかしわらべうたの音調は遊びの記 憶とともに身体に沈んでいるはずで,それを 呼び覚ますにはちょっとした場の工夫が要る。 「授業」という設定の垣根を越え出るように誘 い,遊びの空間に開かれるきっかけを生み出せ ばよい。それがうまくいけばわらべうた遊びを 展開できる。「わらべうた」の音組成について の解説から始めても開かれることは難しい。そ こで頃合いを見計らって,本稿のシリーズ[Ⅱ] (本誌第22号p. 25∼36,2011年に所収)で紹介 した実践「エアー縄跳び」を行い,遊びへのきっ かけを感受できる身体に誘う。「しなければな らない」という目的志向の視線にからめ捕られ た身体感覚を「気がつけばそうしてしまってい た」とか「やってみたいと思ったわけではない のだけれど,(いつかまた)やってしまうかも しれない」という方向へほどけるようにもって いく。と,言うのは容易いが,クラス全体の様 子,季節や天候や時期,並びにその時間までの 授業の流れ具合などの実に諸々の事情を合わせ て判断して,「今ここで」という旬を逃さない ようにするためのアンテナに気を抜かず,いつ でもスタンバイしておかねばならないのが実際 で,気骨が折れるのが正直なところだ。しかし 場を開くというのはそういうものであって,一 方的なこちらの都合で開かせようとして開ける

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ものではない。正に開くその時にしか開かれな いというのが本当であろう。  とは言うもののそれらの諸事情が万事手を組 んだ時間には,エアー縄跳びの流れに乗って, 「はないちもんめ」が始まったりするケースが ある。昨年度後期のクラスだ。こんなことはす こぶるまれなことだ。「いれて」という声が聞 こえてくる。「はないちもんめ」と「いれて」 はセットで身体に刻印されていて,場の成り行 きと空気感次第ではこうして見事に蘇る。身体 の奥深い記憶とはそういうものだろう。ところ でこの「はないちもんめ」に派生して気づいた ことは,私が遊んだそれとは違って簡素化され た中身に変化していることだ。「○○ちゃんが ほしい」と名指された子は「∼でおいで」と注 文を付けられると,みんなの前でそのような身 振りをしながら相手方の一員になって吸収され る。そこの場面がすっかり抜け落ちて無いの だ。「それっていじめや」と学生は言うが,私 の世代の遊び感覚からすれば,学生たちのそれ はおもしろさがよほど薄味に感じられる。今の 世相からはそうなのだろうが,この遊びの醍醐 味の一つである即興の奥行きが失われたように 思われる。  本題に戻るが,「いれて」は遊びに参加する ための通行手形のような,あるいは仲間だとい う承認を得るための合言葉,またある時は免罪 符のようにもなる遊びへの儀礼的な唱え文句 だ。場合によって拍の取り方や音の長短やイン トネーションなどが変わるけれど,「ラソラ」 を母型として唱えられる。「はないちもんめ」 を楽しんだ後,教室へ戻って木琴や鉄琴を取り 出して「いれて」の音組成を確かめつつ,「あ したてんきになあれ」や「もういいかい,まあ だだよ」から「ほ,ほ,ほたるこい」「なかな かほい,そとそとほい」「かごめかごめ」など へと1音ずつ増やしていって,木琴をたたきな がら歌う。そして「ミソラシレ」のラ・ペンタ トニック(五音音階)の音調をグループで体験 させ,その構造を説明する。音楽の苦手意識や 楽器への抵抗を和らげ,どの学生にも近づきや すくするために,木琴や鉄琴は一片一片取り外 せるタイプのものを用意する。取り外したり加 えたりすることで,基本的な音階の学習にもな る。なお,ペンタトニックには民謡のテトラ コードの両端の音である核音が長2度で連結し たディスジャンクトに限ることにした。  次にわらべうたの音組成を使って即興で「会 話する」体験へ移る。私がテトラコードの二つ の核音をテナー木琴でたたくのに乗せて,学生 は好きに節をつくって一人一人リレーしてい く。二つの核音は節の支配力において強弱があ るが,どちらかに着地すればわらべうた的な情 趣になり,音を跳ばさずになるべく隣りへ隣り へつなげればわらべうた的な循環する終止感を つくりだすことができる。要するに,いわゆる ドレミでのメロディー創作よりも正解や間違い の線引きが緩いのと,日本語のイントネーショ ンに寄り添っているために話すようにつくるこ とができ,しかもたとえば「もういいかい」「ま あだだよ」のような対話が循環する終止感,言 い換えれば再生する終止感,あるいは始まりを 誘い出す終止感であるために対話するような節 回しが遊び感覚で味わえるのである。それがわ らべうたの音組成を節づくりに適用する大きな 利点であると私は考えて実践してきた。初めは 照れて恥ずかしそうにしていても続けている と,自分が即興でつくる一節を自分の声(=存 在感)として感じながらクラス全体で会話の一 輪を回しているという場が生まれてくる。その ために私(教師)がたたく二つの核音はオスティ ナート(同型の執拗な繰り返し)でなければな らない。特に初めは節のリレーの輪を安定して 回すために。やがて節の即興が遊びに高まる気 配が感じられたら,こちらも即興的に二音の リズムを変えたりして会話の楽しさを盛り上げ る。節の会話のめぐりが円滑になってくると, 私の役をしたいと言う学生が出てくる。長縄跳 びでも縄を回す役を子どもはしたがるのを知っ ている。それはそれで会話の全体的な雰囲気が 変わってまた楽しめる。  このように何よりも場の流れ具合や活動の旬 を尊重した授業では,どの場面でチャイムが鳴 るか,眼前で進行している活動のどの局面で本

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時を閉じるかは実に神経を使う大きな問題だ。 「今ここで」の場の一回性,いわば一期一会的 なこの場の空気は来週そっくり再生することは できない。よって一番してはならないことは, 終了時間が押してきているのに焦って,学生を 急かせて時間内に入れ込もうとすることだ。  そうしてわらべうたの音組成を使った会話に 慣れたら,今度はわらべうたをカノンで遊ぶ。 まず「かごめかごめ」を形だけでもやってみる。 なぜなら「鬼」になることや「うしろのしょう めんだあれ」で名指しできないなど,学生たち の事情にとって“嘘っぽさ”は隠しようがない からだ。形だけでも輪になってめぐり続ける と,次第に照れや抵抗感が薄らいでくる。する と「こわい」と言う。さもありなん。元々輪を 張り巡らせることは空間を切り取ることによっ てそこに異次元が囲い込まれ,遊びは一種神が かり的な空気を呼び込むことになるのだから。 それについて本田(1980)はめぐる遊びを,神 おろしという原始信仰の残滓と捉える柳田国男 の見解に与しないまでも,「人垣によって一定 の空間が囲い込まれることにより,そこに特別 の意味が発生する」と捉えている。学生によれ ば,「かごめ」や「とおりゃんせ」などの呪術 性を誇張して脚色化したサイトがあるらしい。 その影響もあってか「かごめ」にはどうしても アレルギーがあるようだが,差異的反復を狙っ たカノン体験には適したわらべうただと私は考 えている。その主な理由は,文節の最初の音が のばし気味に歌われる傾向によって,節の起伏 が循環し易いという特徴にある。だから遊びの めぐりに特有な独特の眩暈に誘われ易いのだ。  初発のグループの歌う「かごめかごめ」まで を聴いて後続のグループがそれにかぶせて入っ て歌い,先に出発したグループは最終グループ が歌い終わるまで最後の一節を繰り返し歌い続 けて待つ。このカノンを出発の順番を代えて いって音の重なりとずれの差異の反復を楽しん だら,今度は後続の入りを一拍,二拍と早くし ていって,とうとう「か」を聴いたら次の拍で 入るというところまで詰める。拍を詰めていく にしたがって,教室の空気がだんだん張り詰め ていくのが感じられる。この拍を「詰める」と いうやり方がいわゆる音楽用語の「ストレット」 で,「二つ以上の主題の入りを,密接したカノ ンの形」,「ストレットは,つまり密であること を意味し,拍を密にあるいは短くし,その結果 極めて速く演奏すべきことを示すために用いら れる。」とニューグローヴ音楽事典(1993)に ある。ここでは全体の速度は変えない。だから こそ,「か」ですぐ後から後から後から入って くる音の重なりがさらに新たな重なりを生み続 けることになる。実はそれが,計測的な速度の 概念とは異種の「速さ感」,いわばせかせかし た感じとしての速度感を生み出し,縦の音の層 (すなわち声の密集)と横の層(それは節の流れ) の織り成す声の万華鏡と化して,教室がうなり 始める。ちなみにこのような「速さ感」はガム ラン音楽の概念にも存在する。曲全体の演奏時 間はそのままで,ある拍からある拍までの一定 の時間内に規定の音型をどれだけ詰め込むかに よって速いとか遅いとかが識別される。かさや 量で速度がうんぬんされる時間で流れる音楽の 世界のワイルドな新鮮さがストレット・カノン のことば遊びの醍醐味である。  グループ単位を一人単位のカノンにする。声 のずれが密集するるつぼの中に居るという体験 を強調するために。「緊張するっ」と学生は言 う。学生たちの頬に赤味が差してくる。そして この「うなり」の余韻を肌で感じながら,はた また今まで何が生起したのかに浸るために初め のカノンに帰る。あるいは次第にクールダウン するために。最初にしたように「かごめかごめ」 の一節遅れで入っていくが,一節ごとにボール を隣りの人へ渡していく。声の受け渡しを可視 化することによって,身体間に音が行き交うの をしぐさによる実感に落とすために。言い換え ると,カノンを見えるようにするために。  さて次のステージは「しぐさのカノン」遊 び。ここまでは伝統的なわらべうたが中心だっ たが,前述のように一種の懐かしさとしての怖 さのようなものから来る違和感を学生は感じて いたはずで,それを今に生きられるわらべうた 遊びへ展開させたい。例えば谷川俊太郎作『わ

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らべうた』(1982)の詩をペンタトニックに乗 せてカノンで歌いながら,動きや身振りを付 けてカノンにして遊ぶ。たとえば「ののはな」 (谷川 1982)という詩だったら,手をつないで 渦巻き状に歩きながらフレーズの最後の拍で片 足を前に蹴り出す。先頭の人は好きなところで Uターンして渦巻きをほどいたり捲いたりして 続ける。カノンの渦巻きが途中で切れてもいい し,切れたのと切れたのが好きにつながるのも おもしろい。そのあたりは即興が差し出してく れる余白の楽しさである。さらにそれに合わせ て「なのなのな」をオスティナートで重ねたり すると日本語の律動感と分厚いずれの反復の楽 しさが味わえる。  こうしてこの単元は終幕へと向かう。いよい よ“見えるカノン”の創作である。自分たちの 「アルゴリズム行進」をグループ単位で創って 発表し,カノンの出入りの間隔を変えて自由に 楽しむ。まず実際に番組『ピタゴラスイッチ』 の「アルゴリズム行進」をやってみる。歌詞を 創作するのには何か共通の枠を決めておいた方 が作り易いし比べ易いので,五十音の各行から どれかを選んで歌詞と身振りを作り,番組の 「行進」のように「そろそろおわりかな」とい うような,カノンを閉じるための“待ち受けフ レーズ”を工夫することを約束事にした。ここ ではグループの作品のカノン様式による振付の 妙は紹介できないが,数ある傑作の中の歌詞を 一つ紹介する。パ行で脚韻を踏んでいる。   なつのよぞらにはなびが・パ   はなびしょくにんスイッチ・ピ   ちょっとここらでしつれい・プ   カトちゃんはっけんカトちゃん・ぺ   いっしょにしゃしんをとりましょ・ポン

4 まとめ―「失われた子ども」の覚醒

の悦びに開かれる場の体験としての幼

児音楽教育法

 これまで述べてきたように,遊びの繰り返し は遊びの生命であり栄養でもある。遊びが遊び である所以は一番にその特有な「繰り返し」に あり,それは時におとなの側にはただ同じこと の繰り返しに見える。しかしそうではなく,同 一に見えるものの背後に隠された,差異を刻々 と生み続ける反復が遊びの繰り返しの魅力の中 身であり,それを今生きている人が子ども,で ある。そこで本稿では,子どもの旋回遊びに見 られる「めぐり」に遊びの繰り返しの差異的反 復をつぶさに見て取り,これをわらべうたの循 環性とストレット・カノン技法に託し,音楽の 興味と楽しみの原点が生成する体験を通じて, 世界と交信する子どもの回路に開かれる手立て の可能性として学生に送り出すための幼児音楽 教育法の取り組みをデザインし実施して,ここ に報告した。  学生に手渡すのは即効性を売りにしたマニュ アルとしての方法では決してない。第二章で述 べたように,「失われた子ども」との交信に開 かれる授業の体験がやがて自分の目の前で繰り 広げられるであろう,今現在子どもである人の 交信する世界に寄り添って,身体を共鳴させる ことができる可能性を,より豊かな保育を探り 当てるための担保へと送り出すのである。  一つの授業感想を紹介する。「感動は,自分 の想定範囲内では起こりません。音楽の楽し さって,感動を伴わないと有り得ないと思いま す。それは単にできなかった事ができるように なった嬉しさのようなものではなくて,一言で は言えないけど,何か自分の予想を越えたもの に出会う時にしか起こらないはずです。」。本授 業の取り組みでは「自分の予想を越えたもの」 を,子どもの遊びに開かれる体験によって感受 されるものと前提した。それは実は,この体験 の向こう側からやって来るように感じられる。 なぜならそれは,音楽芸術や諸文化が子どもの 遊びに再び開かれることに命を賭けて果てなく 希求し続ける動機の生成に似ているからだ。だ からこそ,子どもの遊びの自然発生的な音楽へ の興味を探ることは,興味の発生する背景と文 化として認められた音楽やその他の諸文化との 関係を明らかにすることと同じであり,ここを 原点として保育者養成の音楽教育は構成されな ければならない。

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 世界は現れながら何度でも新しく生まれ続け る。「どろどろべっちゃんどろべちゃべちゃん」 と歌いめぐり,足から泥を奏でる子。ウッドス リットドラムをたたいて蟻になったり,象と話 したりする子。予定調和な日常の当たり前さの 被膜がつかの間裂け,存在の奇蹟が顔をのぞか せる「今のここ」に居合わせておりながら,や れ支援だの指導だの教育的配慮だの発達課題だ のという近代学校教育の発想によってパッケー ジ化された方法の目つきが入り込むのを許して しまう,その手前で踏みとどまり,己れの存在 の開かれとして新しく驚ける悦びを感受できる 保育者が育つ種を蒔く音楽教育が浸透しなけれ ばならない。 (畢) 引用・参考文献及び資料 ・本田和子著,『子どもたちのいる宇宙』,三省堂, 1980年 ・本田和子著,「失われたものとしての子ども」,山 口昌男他共著,『挑発する子どもたち』所収,駸々 堂,1984年,p. 53∼80 ・本田和子著,『子どもの領野から』,人文書院, 1983年 ・J. デリダ著,高橋充昭訳,『声と現象』,理想社, 1970年 ・G. ドゥルーズ著,財津理訳,『差異と反復』,河出 書房新社,1992年 ・足立和浩著,「ボレロ」,『現代思想』,1982年12月 号,p. 150∼167 ・W. メルテン著,細川周平訳,『ミニマル・ミュー ジック』,冬樹社,1985年 ・芥川也寸志著,『音楽の基礎』,岩波新書,1971年 ・文部科学省,『幼稚園教育要領』,平成20年3月告 示 ・W. ベンヤミン著,小寺昭次郎・野村修訳,『子ど ものための文化史』,晶文社,1988年 ・ニューグローヴ世界音楽大事典,講談社,1993年 ・谷川俊太郎著,『わらべうた』上・下,富山房, 1982年 ・CD,『RADWIMPS4 ∼ お か ず の ご は ん 』, TOCT-26168,EMIミュージック ・CD,『S. ライヒ―砂漠の音楽』,32XC-39,ワー ナーパイオニア ・CD,『エクロ―グ/吉原すみれ打楽器の世界』収 録,S. ライヒ「2台のマリンバのためのピアノ・ フェーズ」,36CM-6,カメラータ

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