戟略的な環境規制?
アスベストをめぐる政治過程
道 哉
Ⅰ.はじめに Ⅱ.アスベストとその議論 1.国際的な文脈から見た「政府の不作為」の可能性 2.国内的な文脈における「政府の不作為」の原国論 3.政府レベルのアクターの戦略性に着目した議論 −C.トウワイトとC.フツドを中心に 4.本稿のイ反説と方法 Ⅲ.アスベストをめぐる政治過程一国会における議論動向から 1.アスベストと戦後初期の政治経済 2.アスベスト政策の重層性 3.阪神淡路大震災と廃アスベスト政策 4.クボタ・ショックとアスベスト新法 5.分析 Ⅳ.おわりに Ⅰ.は じめに 長期に渡って徐々に蓄積された原因が帰結に対して長期的な影響を及ぼ (1) すという事案において,中央政府はどのような政策を採りうるのか。また 時々の政策のタイミングはどのように説明できるのか。これらは公共政策 /\の研究における大きな問いになると考えるが,「環境」を素材にするなら ば,最たる例としては地球温暖化対策を挙げることができるだろう。ここ で,こうした気候変動をめぐる政策は,国際的な交渉との関係において規 (2) 志される部分が大きいという特徴を持っている。本稿では主に中央政府レ ベルのアクターの国内向けの政策への意思や社会との関係に関心を寄せて いくため,同様の問題構造を持ちつつも相対的にその部分が小さい(しか し,全く国際的な動向が及ぼさないというわけではない)と考えられる事 例としてアスベスト(石綿)をめぐる政治過程を分析し,この間題への若 (3) 干の含意を得ることを目標とする。 さて,アスベストによる中皮腫などの健康被害の存在は,「クボタ・ ショック」によって周知の事実となったといってよい。2005年6月29日, 大手機械メーカーのクボタ(本社:大阪市)に対して,旧神崎工場(兵庫 県尼崎市)の3名の元労働者が救済を求め,同社がそれに応じうることが (4) 報じられたのである。また翌30日に見舞金が支払われたことを端緒とし, ニチアス(本社:東京都)などのアスベスト関連産業も同社に追随する動 きを示していった。そして,同社は同年12月25日の段階において,道義 的な観点から工場周辺の被害住民にも社員並みの補償をするとまで踏み込 (5) んだ。その内容には様々な批判があるけれども,関係者が「情報開示のタ イミング,質,量において前代未聞のこと」と評するほどの機敏な対応で (6) あった。他方で,政府は,このような社会の動きに乗り遅れなかった。12 月27日には,第5回「アスベスト問題に関する関係閣僚会合」を開催し, ①隙間のない健康被害者の救済,②今後の被害を未然に防止するための対 応,③国民の有する不安への対応を行うという観点から,「アスベストに 係る総合対策」を策定したのである。第164回通常国会では,石綿による 健康被害の救済に関する法律(以下,アスベスト新法)などが制定される に至った。2006年2月3日(10日公布)のことである。 こうした局面だけを見れば,企業および政府が過去の他の公害・環境対 策にも増して早い解決を図ろうとしたことが窺える。このことについて 28−1−165(香法2008) −44一
は,例えば,中皮腫は現代医療での根治が困難な病であるから,見舞金の 支払いなどは喫緊の対応としてこれまでの動向に批判的な論者も一応の評 (8) 価を与えている。しかし,今後,アスベスト関連の健康被害者の増加が予 測される状況を考慮すれば,「これらの相応によって問題の解決の幕が開 (9) いた」とさえいえる。批判の矛先は,それまで長期に渡って行われてきた 諸施策に向けられていったのである。例えば,財政学者で公害・環境研究 の第一人者である宮本憲一は,「史上最大の社会的災害か−アスベスト 災害の責任」という論考において,政治,行政,企業,専門家そして労働 小 組合などの不作為を糾弾している。 興味深いのは,宮本に限らず,多くの論者が特に政府レベルでの不作為 仕カ を指摘していることである。では何をもって,検証課題としての「政府の ここご、 不作為」と捉えればよいのだろうか。現時点では,医学,工学などの専門 家,ジャーナリスト,患者およびその関係者などによって論じられている が,分析者によってなすべきと想定される行為が十分にはなされなかった ことをもって,このように論じる傾向がある。確かにこれらは個別具体的 かつ有益な情報を提供しており,学ぶところも多いが,肝心の「政府の」 「不作為」の有り様については体系的には論じられていない。他方で,政 ㈹ 府レベルではこうした見方を基本的には否定している状況にある。 そこで本稿では,戦後の約60年という期間を歴史的に分析することを 通じて,「政府の不作為」をめぐる主張を検証する。Ⅲ節で見るアスベス ト問題の特徴からすれば,この課題に取り組むことは冒頭の問いを検討す ることと軌を一にしていることが理解されるだろう。予め結論を述べれ ば,実証的な主張としては,「不作為」というかどうかは別として,少な くともこの問題に関する政府レベルの公共政策への正統性が掘り崩された ことが示される。また,掘り崩されたのは行政,政府(執政)であって, 政治(与党)ではなかったことを主張する。具体的には,昨今のアスベス ト問題を考える鍵は,Ⅲ節の用語でいう「労働環境」と「大気環境」の政 策領域における自民党の関与の少なさ(「政治の不存在」)と,「経済問題」
の政策領域における自民党の影での動き(「隠れた政治」)とを理解するこ とにあることが示される。また,こうした解釈を導く理論的な主張として は,アスベスト問題の性質とそれに関する政策領域の布置連関が,政府レ ベルのアクターの政策選好,戦略構築と行動を意識あるいは無意識におい て限定し,結果を相当程度規定していることが論じられる。 本稿の進め方は次のとおりである。まず流布している「政府の不作為」 をめぐる主張を整理した上でこの用語に対する本稿のスタンスを示し,続 いて分析視角について述べる(Ⅱ節)。その後,これに基づいてアスベス トをめぐる政治過程を検証する(Ⅲ節)。そして最後に本稿をまとめ,そ の合意も確認する(Ⅳ節)。
Ⅱ.アスベストとその議論
1.国際的な文脈から見た「政府の不作為」の可能性 本項では,アスベスト問題における「政府の不作為」という主張が指し 、トニ1 ている現象を,国際比較の観点から概観する。そ−の理由は,第1に,その 主張の背景には概ね国際比較が念頭に置かれており,ある主張が日本独自 の文脈で語られているのか否かを見ておくことは,不作為という評価を検 討する上で重要と考えるからである。第2は,見解が大きく分かれている 国内の議論からひとまず距離を置き,水掛け論から免れようとするためで ある。まずは,その前提として,この間題の因果関係が,長期間の消費の実 績と長期のタイムラグを伴う健康被害の発生という内容を含むために,時 間的な広がり(時間範囲)を持っている点を確認することから始めたい。 アスベストとは,天然の鉱物繊維の総称である。鉱物学上の定義はなされていないが,1970年代にWHO(世界保健機関)やmO(国際労働機関)
が定義した物質である。主なものとしては,クロシドライト(青石綿), アモサイト(茶石綿),クリソタイル(白石綿)が挙げられ,有害度もこ の順に従う(500:100:1)とされてきた。しかし,現在では繊維の種類 28−1−163(香法2008) −46−は関係しないという仮説が支配的だという見解もある。ちなみに,クボ
タ・ショックにおいては,水道管に含まれるクロシドライトの使用が問題 となった。 アスベストの利用の歴史は石器時代に遡ることができるとされるが,大 量使用が始まって以降の一般的な認識は,欧州環境庁が整理するように, (16) 「魔法」の鉱物から悪魔の鉱物へというものだと考えられる。前者につい ては,アスベストが耐火性,耐熱性,柔軟性,強度性,絶縁性などの優れ た性質を持ちながらも大量かつ安価であったために,19世紀末頃から世 界の経済活動と不可分に結びついてきたことを,また後者については,そ れが化学的に安定していて分解されにくいために吸引すると長期間(20−(17) 50年)体内に残存し,中皮腫や肺がんを引き起こしうるということを指
(嶋) している。ゆえに,しばしば「静かな時限爆弾」とも呼ばれる。現時点から見れば毀誉褒皮相半ばするこの鉱物の輸入は,日本では
1890年代に始まった。富国強兵の時代を経て,アスベストは諸方面から 有用性が認められ,戦時中は中断したものの(後掲の図3も参照),1926 年から2004年の間の消費量は1,000万トンを越えたとみられている(国内生産量数は数十万トンとされる)。図1は,USGeologicalSurveyのデー
タに基づく先進国を対象とする1人当たり推定消費量のトレンドを示した ものであるが,取り急ぎ日本について見れば,60年代半ばから急激に使 用されるようになっていったことがわかる。 次に,その消費が幅広い分野で行われていたことを概観しておく。アス ベストの1955年時点での主要な用途は,表1のとおりである。その後, 高度経済成長期を言匝歌するなかで約3,000種の産業において用いられてき た。日常生活に浸透していったことが想像できるだろう。現在では輸入分 を含めたほとんどのアスベストが消費されおり,一部は廃棄されたもの の,現在も500−600万トンが建材などとして使われているとされる。ま た,建築物の解体・改修工事が2025年頃にピークを迎えるにあたって, アスベストの飛散による人体への暴露が懸念されており,今後の課題と医‖:国別推定アスベスト消費量のトレンド (人口1人当たり推定アスベスト消費量:KG) 1920 1930 1940 1950 1960 1970 1980 1990 2000 2005年 出典)古谷「各国におけるアスベスト被害と規制状況」,33頁。 なっている。こうした意味において,消費(原因)から健康被害(結果) が離れた,長期的に影響を与える問題としてアスベストは存在し続けてい るといえる。 そして,このような流れのなかで,潜在的な健康被害者は,静かにそし て確実に増加していたことが推測されるのである。図2は,WHOの MortalityDatabaseに基づいた1980年代以降の100万人当たり中皮腫死亡 Il∼−、 者数のトレンドである。比較可能なデータは少ないが,アスベスト関連の 健康被害は,海外において把握され始めていたことが窺える。この点を傍 証する情報としては,例えば,1935年にはアメリカ合衆国とイギリスに おいてアスベストによる肺がんが明らかとなったこと,中皮腫についても 同年にイギリスで発見されたのを皮切りに,52年にはカナダ,また53年 にはドイツでも報告されたことが挙げられよう。日本では,それぞれ1960 年と1973年に確認されている(後掲の図3も参照)。 では,これらの状況に対して法的規制はどのように行われてきたのか。 28−1−161(香法2008) −48−
表1:主要石綿製品の用途一覧 製品名 使用部門 使用箇所 使用石綿の 等級(クラス) 石綿糸 熟を使用する各部門 石綿布,パッキング クルード3 石綿布 造船,製鉄,自動車 防火カーテン,パッキン グ ,蒸気缶の蓋 3,4 石 ドアー,蓋の高熱部分の グ,ひも 機関車,製鉄,科学工業 パッキング 3,4
石綿ゴム引テー プ 船舶,化学,機械,製紙 エンジンのカバー,薬品 槽の蓋のテープ
3,4石綿ゴム加工 船舶,発電所,機械,化 学 パッキング
3,4 絹 ジョイントシー 蒸気フランジのパッキン 蒸気を使用する部門 グ,平面部門の高熱バッ キング 製 ード) 車 スケット(エンジン用) 5,6,7 ブレーキライニ 船舶,自動車,機械,鉄 捲揚磯,自動車のプレー 3,4,5,6, ング 道 キ部門 7 ロ =‖ 電器工業,鉄道 耐熱母体 5,6 電解隔膜 硫安工業,ソーダ工業 電気分解の隔膜 3,4 石綿紙電器,ソーダ,ダイカス 電線絶縁紙,電解隔膜 4,5,6
ト保温 −ヒ メ 防火壁 4,5,6,7 ト 警 一般,工場,家屋 煙突 5,6,7 石綿高圧管 電気,水道 上水道,電らん 4,5ブルー そ 屋根,自動車車体底部塗 装 ,タイル の グ 機械,土木 鋳鉄管 4,5 他 ベアリング用グリース 7,その他粉 出典)神山「アスベストとはなにか」,19頁。 ここでも欧米の動きを中心に概観しておきたい。まず,クロシドライトの 販売,使用の原則禁止が1983年からECに,またクリソタイル以外の全 面禁止についても91年に導入された。これらの動きはその他の国際機関 の政策とも関連している。例えば,WHOは1972年にアスベストのがん 原性を明確にし,ILOは86年にクロシドライトの使用禁止をアスベスト 条約に埋め込むなどしたのである。もっとも,初めから各国の足並みが 揃っていたわけではない。EU創設に合わせる形で93年には全てのアス ベストについて全面禁止を行うという動きがあったが,イギリスとフラン図2:中皮腫死亡者数の国別トレンド (100万人当たり死亡数) 1980 1985 1990 1995 2000 2003年 出典)古谷「各国におけるアスベスト被害と規制状況」,37頁。 スの反対を受けて見送られたのである。しかしながら,97年にフランス が全ての製造,輸入,使用の禁止を発表したことで使用禁止の流れが加速 した。これをめぐっては摩擦が生じ,輸入を望まないフランス・EUと輸 出を望むカナダがWTO(世界貿易機関)で争うまでに発展した。最終的
には,2001年3月12日にEU側の貿易制限措置を容認するということで
落ち着いたが,これによって各国はより一層の禁止措置を採り易くなり, アスベスト全面禁止へと踏み出すこととなった(製造と使用の原則禁止は 2005年。日本は2004年)。 以上に関連して,日米における消費量の推移と日本と欧米における主要 な規制を示したのが図3である 。これによれば,規制という行為は,日本 でも進められてきたように見える。すなわち,日本は世界の動きとある程度歩調を合わせつつ,諸規制の導入を試みていたのである。しかしなが
ら,既述のように,昨今の議論の多くは,政府がアスベストの規制を怠っ 28−1【159(香法2008) −50−たと評す状況にある。結局のところ,こうした対応が,「問題」としての アスベストが潜在的にはクボタ・ショック以前から政府レベルで存在して いたということを窺わせるからであろう。このことを踏まえれば,不作為 という場合には,主として規制が実質的に効力を発揮していないことを指 していると考えるのが妥当だろう。 ここまではアスベスト問題の一般的な事柄を概説するなど,主に不作為 に関する背景を確認してきたが,続けて3枚の図から読み取れることを軸 に,「政府の不作為」論の意味するところを絞り込みたい。まず,すぐ上 で述べたことと一見矛盾するような解釈であるが,不作為が,図3にある 1990年代以降などを見て日本が他国や国際機関に比して規制の時期が「遅 い」ということを指している場合もありうる。規制のタイミングについて は,基本的には経済成長のトレンドとの関係で説明できる部分が大きいと 図3:日米の石綿消費量の推移と石綿関連疾病の発生および法的規制の歴史 (万トン/年) 90 80 70 60 50 40 30 20 10 Wagnerらが南ア・クロシドライト鉱山調査で鉱夫と周辺住f引こ33例の胸膜中皮腫を壷告(1960) Dollが英庭石綿紡織工場の疫学調査(肺がんのSMRlO倍)(1955) ケベックで胸膜中皮腫の報告(1952) ACG】H5mppc† 1946−1970 5〝mβ1993− 2mg/mヨ1971一一・・・・・・ナ 米国初の石綿肺がんの報告(1935) 日本初の中皮腰の索告 日本初の石綿肺がんの覇告(1960 (1937) ﹂00hぴααmEtEt O19①②③④⑤◎⑦ 1950 1960 19m 1980 1990 2000年 1910 1920 1930 1940 Pneumo00niロSISCo=feren⊂einjDhannesburg(1969】 MCConねren⊂eOrB董0】og】Ca】E穐c【sOrAsbestosinLyon(1972) OSHApropo5モdPELofasbes【os祁0・5仇l−‘(】972) OSHApr甲05edPELorasbes【OS郎OZf加∼(lg86) ILOA5be5tOSC(】nVent】Dn162(1986) EPAproposedamleof払bes10Sbanby19g8(1989) EUbanびb怨tOSU5eW】lhsome既CeP【1Dn(2DO5) ⑩特化則の制定:石綿を究がん物質として規制(1971) ⑳通達:石綿粉じん測定方法と基準値5Ⅳmgの通知(1973) ⑫特化則の改正:石綿含有5%超を対象.石綿吹付けの原則禁止(1975) ⑱通達:作巣衣の厳重管理.基準値2f7mg(青石綿0.2仇¶g)を通知(1976) ⑳大気汚染防止法の改正:石綿をー特定粉じん」に措定.工場数地境罪過度10fソg(1g89) ⑮安衛法施行例の改正:青石綿・茶石綿の使用禁止特†鯛uの改正:石綿含有1%超を対象(Ⅰ995) ⑳安衛法の改正:石綿含有製品の製造・任用の原則禁1L石綿の管理浪度0.15仙1g(ZOO4) ⑳石綿障害予防規則の制定:建築物等の解体・改修工事の規制強化(ZOD5) 出典)神山「アスベストとは引こか」,21頁。
考えられる。経済活動の動向は,アスベストの消費および健康被害のそれ と連動するからである(なお,欧米での規制が「早い」というにしても, 一般的には消費量がかなり減少した段階で規制を導入しているという点は 割り引いて考えておかねばならないだろう)。 しかし,経済成長のトレンドなどをコントロールしても健康被害者の数 や規制の時期に差が出ているのだとすれば,他の要因がそれを説明するこ とになる。ここで前者に即して,戦敗国,後発の先進国などの観点からし ばしば比較されるドイツおよびイタリアとの関係を眺めておくことは示唆
に富む。図2をみれば,アスベストに関連する1980年代以降の100万人
当たり中皮腫死亡者数は,日本では1人程度であるのに対し,ドイツでは 10−15人程度,イタリアでは10−20人程度で推移している。中皮腫の潜 伏期間が20−50年であるのならば,この時期の死亡者は1930−60年代以 降の吸引者に該当していると考えられる。図1にあるように,両国の1人 当たり消費量のトレンドが高度経済成長を背景にして日本と似た動きを見 せていることからすれば(85年頃まで),この死亡者数の差は大きいよう にも思われる。ただし,日本で厚生省および厚生労働省が人口動態統計に おいて悪性胸膜中皮腫の死亡者数を把握し始めたのが95年であるから, この図にはそれまでの死亡者数が十分に反映されていないということを考 銅 慮しておく必要がある。ここで上述の中皮脛患者発見の「遅さ」という状 況も合わせて考えると,結果として,調査不足と解されることが「政府の 不作為」という主張を招いている可能性もあるだろう。 さらに,「政府の不作為」という主張が,1980年代以降の消費量をベー スに行われている場合も考えられる。再び図1を眺めてみると,例えば, ドイツは80年時点で急激に,またイタリアも相当程度1人当たり消費量 を削減しているのに対し,日本では逆に増えている。次項でも触れるよう に,アスベストはその優れた性質を持つがゆえに代替化の困難性が問題と されてきたわけだが,両国の採った対応と比べるならば,このトレンドは 不作為といわれる要因となりうるだろう。 28−1−157(香法2008) 一52一以上はあくまでも先行研究における資料の再解釈を通じた概観である。 しかし,それでも国際比較の観点から見て,日本で「政府の不作為」と主 張されうるポイントが現れた。それには,諸規制の効力の「弱さ」,調査 不足による健康被害者の把捉の「遅さ」とその程度の「低さ」,1960年代 以降の高水準での1人当たり消費量,そして特に先進国における80年以 降の唯一の消費量増加国であることといったヴァリエーションがありうる ことが示せたと考える。本稿では,これらの総称をひとまず「政府の不作 為」論と捉え,戦後の日本の文脈において検証する課題としたい。つまり, 従来の議論は「不作為」の中身を必ずしも明瞭には語っていないけれども, そこには状況証拠と見倣しうる論点が含まれている,ないしは根拠がない というわけではないということである。ただし,医学などの専門的な分野 からの分析を加えながらも,結論部分はやや規範的な観点から場当たり的 な不作為の指摘にとどまっていたように思われる。しかしながら,そのよ うな立場から論じるのであれば,問われるべきは,個々の「不作為」の中 身をより詳細に整理および分析しつつ,どのような要因が政府を「不作為」 せしめた可能性があるのかということなのである。とはいえ,これまでの 日本の文脈での議論のなかに「政府の不作為」の原因の指摘を見出すこと
は可能である。項を改めて,この点を論じることにしたい。
2.国内的な文脈における「政府の不作為」の原因論 本項では,流布している「政府の不作為」の原因論のいくつかを仮説の かたちに整理し直して検討する。前提として確認しておきたいのは,「政 府の不作為」を検証するには,①予見可能性,②政策の実施への意思,そ して③政策の実施能力の諸相を見るという手続きが必要であるということ である。例えば,行為をしたことによる意図せざる結果と不作為によるそ れとは区別しなければならないし,ある政策選好や戦略が存在することと それが行為に移されることとは別の次元の事柄として捉えられねばならな い。具体的には,戦後,政府レベルでは,時々においてこれらをどの程度いかに認識し,どのような意思を持って行動してきたのかを,アスベスト の「問題」としての性質を自覚的に考慮しつつ,跡づけてみる必要がある と考えられる。また従来の議論が,どの程度これらのことに自覚的であっ たのかについても合わせてみていく必要がある。 さて,政府の不作為の原因の説明を試みる第1の議論は,「製品代替化 困難」仮説である。神山宣彦は,アスベストの概要を紹介する論考のなか 糾 で,なぜ有害性が分かっていても使ってきたのかを問うている。直裁には 語っていないが,製品の代替化が進まなかったことによって,「行政」は 使用禁止にしたくてもできなかったというのが回答のようである。確か に,無い袖は振れないという状況については理解できる。彼は図3の作成 者であり,主にアメリカ合衆国との比較を念頭に置いているが,欧米諸国 では1970年代に製品の代替化が進んでいたために,80年代には規制が効 力を発揮したという。図1からもその傾向は窺える。ただし,この仮説で は前項でも見たように,1970年代頃までのアスベストの消費の傾向や経 済規模などを同程度と見倣したドイツおよびイタリアにおいて,日本とは 村照的に法的規制が短期間のうちに進んでいることが説明できない。特に ドイツでは消費のピーク周辺にあたる1986年にクロシドライトが原則禁 止とされたことを考えれば,製品の代替化の進展度というよりも政府の政 策の実施への考え方や能力がこの結果を説明する。つまり,政府による経 済活動への配慮の重要性というのは日本に限ったことではないのであっ て,この仮説の検討からは,むしろ政府がアスベストを経済以外の政策選 好との関係でどのように捉えていたのかということの重要性が浮かび上 がってくるのである。 なお,この仮説のコロラリーとしては,「産業界の意向」仮説も考えら れる。すなわち,「政府による経済活動への配慮」というのは産業界の言 いなりになったことの証左であって,政府自身の意思や戦略の産物ではな いというものである。若干ではあるが,企業自体の取り組みを含めて,こ れらの関係は次節以降で言及していきたい。 28−1−155(香法2008) −54−
第2は,「セクショナリズムの弊害」仮説である。「政府の不作為」につ いて,小幡範雄・小杉隆信・藤井禎介が「アスベストの危険を察知してい ながら,縦割り行政のなかで政府の対応が常に事後的なものであったこと 鋤 は,対策の遅れの大きな一因」とした議論および,粟野仁雄による労働 省,環境庁,建設省,文部省などの責任回避を述べた議論が代表的なもの 闘 であろう。この仮説は,政府レベルでの意思,戦略,行動に一貫性がない ことを主張していると考えられる。しかしながら,この仮説は次の意味で 糾 一面的である。すなわち,この現象は日本だけに見られるものではなく, それだけでは政府の「不作為」を説明したことにはならない。さらに行政 学の知見によれば,セクショナリズムは病理ばかりではなく,また行政だ けに見られるものでもなく,活力をもたらすなど積極的に評価されてきた 銅 点も多いからである。したがって,この仮説を発展させる上で重要なの は,例えば,どのような条件のもとで政府レベルでの病理(不作為)が起 こったのか(起こるのか)を特定するような議論の有り様なのである。そ うすることによって,より有意な仮説として捉えられる可能性が出てくる だろう。ここで,この仮説との関連で付言しておくことが一つある。「政 府の不作為」というときには,神山の議論にも見られるように基本的には 行政を意味していることが多いが,政府は行政だけで構成されるのではな いということである。執政,政治との関連において語らなければ,これも ㈹ また一面的な理解となる。 第3は,「政府の不作為」という主張との関係では一見外在的なようだ が,「静かな世論」仮説である。これは,朝日新聞記事検索データベース を用いながらクボタ・ショックまでの記事の少なさを確認している小幡・ 小杉・藤井の議論と重なる(筆者による同様の調査は後掲の図5を参照)。 また彼らは,アスベストによる健康被害というのは「企業内で起こる職業 銅 病でしかなかったのです」とも述べる。官本憲一も同趣旨のことを指摘し ているが,これらの議論の要点はアスベスト関連の健康被害が社会問題化 せず,したがって政府に対して影響を与えることができなかったために,
囲 「災害が進行した」ということにある。ここで朝日新聞関係者の声を聞い 餉 てみよう。竹内敬二・安田朋起は,1950−70年代を「無防備の時代」で あったと捉える一方,米軍基地,造船所,学校でのアスベスト使用が問題 として取り上げたことを振り返りながら,1986−88年頃を「第1次ブー ム:危機感の中途半端な輸入」と見る。そして,クボタ・ショック以降を 「第2次ブーム:溢れる情報を処理しきれず」と遷して論じている。この 流れからすれば,最近まで衆目を集めるきっかけがなかったわけではない ということになる。しかし,80年代頃も記事件数が低調だったことから して,公衆の関心は概して低く,若者達の主観的な認識(危機意識)に留 まっていた可能性がある。彼らは,「劣悪な作業環境は『過去』の話でし たが,患者の発生となるとまだ『将来』の話でした」とし,「エアポケッ 錮 トのような時期」とも書いているからである。つまるところ,世論が本格 的に活性化したといえるのは,クボタ・ショック以降と見ておいてよいだ ろう。この仮説の考察から学べることをさしあたり三つにまとめると,一 つ目は,アスベスト問題は「現在」が抜け落ちやすい可能性がある問題だ と考えられること,したがって,二つ巨=こ,全てのアクターにとって反応 しにくい問題でありうること,そして三つ目に,この間題で政府が行動を 採る際の背景には,情報の過少と過多によるものがありうるということで ある。 必ずしも網羅的ではないが,以上の仮説の考察から本稿が得た分析の指 針を整理しておく。それは,第1に,セクショナリズムの存在を前提とし ながら,中央政府レベルの行政と政治の関係を捉えていくこと,第2に, アスベストに関係する経済以外の政策領域の政府の意思や行動を考慮して いくこと,第3に,「不作為」に関する期間を検討していくこと,そして 垂 最後に,アスベストをめぐる時間範囲は長期に渡っているために,世論 は,場合によっては政府も「現在」の「問題」状況を認識しにくく,また これに関連する情報量は大きな振幅を伴いうることである。ただし,総じ て見れば,「政府の不作為」とはいうものの,これまでの議論では政府レ 28−1−153(香法2008) 一56−
ベルのアクターの意思や行動に関する部分が論じられていないことが指摘 できる。 3.政府レベルのアクターの戦略性に着目した議論 −C.トウワイトとC.フッドを中′いこ 本項では,前項未での「指針」をある程度満たし,かつ政府レベルのア クターの戦略性に着目しているC.トウワイトとC.フツドの研究を詳細に 紹介・検討する。この作業についてはレビュー論文として別に論じること もありうる選択だと思われるが,従来のアスベスト問題の研究において全 くといってよいほど欠落している視点であるということを考慮すれば,こ こで行政と政治の動態への理解を促すことには一定の意義があると考え る。とはいえ,あくまでも本稿の仮説の構築に向けての示唆を得ることが 主たる目的である。2人の議論からは,政治家と官僚が公衆の態度を考慮 しながら,時間の経過のなかで業績誇示戦略と非難回避戦略を駆使してい く様相について学ぶことになる。 ① c.トウワイトの研究 初めに取り上げるのは,アメリカ合衆国のアスベスト問題について,政 府レベルの対応,具体的には政治家の公衆に対する反応の分析をベースに して官僚や利益集団との戦略的な関係を論じたトウワイトの二つの論文で ある。管見の限りでは,この分野における唯一の本格的な政治学的研究で 糾 ある。具体的な事例の記述は丁寧で,それ自体興味深いものとなっている が,ここでは上述のような行論との関係で分析視角を中心にトレースする。 鋤 彼女の論文「アスベストの規制一政府の失敗のマイクロ分析」の問 いは,政策科学(policysciences)の立場から,アスベストの政府規制は なぜ,そしてどのように公衆の安全や健康以外の目的に供されているのか というものである。これを説明する分析道具としては,取引費用の政治学 個 が用いられる。彼女による先行研究のレビューにしたがえば,経済学的な 五
研究では,政府は周辺的に扱われ,またしばしば純粋に取引費用を下げる メカニズムなどとして見られる一方で,政治学的な研究では政府は社会ア クターが直面する取引費用(情報費用やその他の政治活動に伴う費用)を 独自の方法で変更する能力と動機を持つものとして見られてきた。ゆえに その費用を変えることによって,政府レベルのアクター(意思決定者)は
政治的なアウトカムに影響を与える誘因を持つとする。また,例えば
糾 W.A.ニスカネンなどの研究では官僚の利己的な行動に関心が向けられているが,彼女の採る取引費用の理論は,制度的な構造(institutional
struCture)が内生的に認知されるのだとすれば,政府レベルのアクターに おける行動への洞察を深めるものとなり,アスベストなどの長い潜伏期間 のある危険(long−1atencyhazard)に関する規制を適時的に理解していくの に適していることを強調する。 さらに,経済学者によれば公衆は市場メカニズムを通じてリスクを効果 的に把撞するとされるが,長期潜伏の健康被害ということを考えれば,公 衆は必要な情報を利用できないか,極度に高い費用を支払って利用するこ とになることを指摘する。そのとき,彼・彼女らは政府に情報提供や規制 の役割を期待するが,トウワイトは政府が確実にこの機能を提僕する意思 があるか,と問うのである。それに対する彼女の回答は,アクターの利己 的な行動は,市場における非効率なリスク適応という環境にあって,政府 をしてリスク情報と危険の規制の不十分な提供者たらしめているというも のである。その結果,公衆がアスベストの危険を理解する際の,彼女のい う「生来的(natural)」取引費用(全員が自分の取引費用のマイナスの側 面[wealth−reducingimpact]の最小化を試みても残る取引費用のこと)が 高くなっており,これが意思決定者の説明責任の低下と同等の役割を担う五 のだという。そしてこれを受けて彼女は,意思決定者は公衆の直面する取
引費用を下げるというよりも上げることによって,自身の自律性を高める ことを追求するだろうと予測するのである。 トウワイトは,以上の論理で政府レベルの意思決定者がアスベスト規制 28−1−151(香法2008) −58−を戦略的に行わなかったというのだが,議論の特徴の一つは,時々の政策 決定は,前項との関係でいえば,セクショナリズムによる規制の責任の分 散といった「制度的な構造」によって増幅されて取引費用に影響を与えて いるとしたところにある。そしてこれらを踏まえて,彼女は,「政府が失 敗する場合,それは個々の政府アクターの費用計算というマイクロレベル での失敗である。だから,(それを修正すべく)政策改革に着手しなけれ ばならないのだ」と締め括ったのである。なおこの論文においては,公衆 が認知する情報費用は,マスメディアなどの外生的な力に依存しながら, 政策過程の局面が変化する範囲においてのみ発生しているとされている。 これは,前節でまとめた指針と親和性があるコメントといえるだろう。 その後,彼女は,政治家の行動の説明において業績誇示と非難回避を総 合化することと,1920年代−80年代のアメリカ合衆国のアスベスト政策
を評価することを目的に,論文「業績誇示から非難回避ヘーアスベス
錮 卜管理に対する議会の戦略の展開」を著した。ここでの関心は,公衆が直 面する情報費用などの増大を通じて政治的な目的を成就する意思決定者 の,時間の経過のなかで変化していく能力などを見極めることにある。ま た,彼女のモデルは,公衆の認知の状況を,政治家による情報費用操作の 内生的な産物および,時間の流れとともに政治家の選択肢を変えてしまう 外生的な制約として措く。時間を強調しているのは,先の論文と同様にア スベスト問題を長期的な観点から捉えようとしているからであるが,この 論文ではそれが階級横断的な問題,すなわち国民全体の問題であることに も触れている。 錮 理論的な特徴としては,D.メイヒュ一に代表される前者の研究とK. 鋼 ウイーバーに代表される後者の研究を架橋しようとしていることが挙げら れるだろう。業績誇示とは,再選を目指す議員の活力源とされ,政策決定 における有権者との情報の非対称性を所与とすれば,個別具体的な利益を 分配できない際に政治家が自らの評判を高めるために昇進などを利用する ことを予測させるものである。他方,非難回避も再選を目指す政治家の戦略とされるが,有権者はよく思わか−ことに敏感(negativitybias)である から,政治家は業績誇示を採るというよりも,元来不人気な活動に対する 批判を避けること(非難回避)を望むとされる。トウワイトは,後者がよ り支配的な戦略であるという点に同調している。さらに続けて,彼女は, 有権者によって認知される正味の効用と政治家自身の政策や利益に関する 企ての効用の関数として二つの戦略の選択を措くウイーバーの議論を紹介 していくのだが,トウワイトは,その際に有権者の費用と便益を政治的な 損失と利得に移すことの難易度は外生的には決定できないという点におい て彼を批判する。というのも,彼女にいわせれば,有権者に有害な影響を 与えそうなことに関して政治家が理解しているという条件があってこそ, 政治家が目的を達成したいときに便益と費用に関する有権者の認知とそれ への負担を操作させうるからである。そして,これをベースにして先の論 文と同様に,政治家が自身の自律性と目的の達成のために生来的取引費用 を高めうるということを論じるのである。 そのための具体的な戦略は,4段階に分けられている。①活発な業績誇 示戦略,②隠蔽された業績誇示戦略,③早期段階非難回避戦略,④最終段 階非難回避戦略である。まず①は,政治家の有権者に向けての政策選択の 便益が費用を超えているときだけでなく,より一般的には敗者(有権者) の政治的な能力が勝者(政治家)に劣っているときにも行われるとする。 なお,政治家は報復を避けながら業績誇示を追及できるように,有権者に割 り当てる損失を小さくすることを目指す。②は,生来的取引費用が下がっ て①が難しくなった局面で行われる。しかし,この段階では,有権者におけ る費用の範囲を明示しないようにしながら,支持者(利益集団など)に資す る状態のままである。4段階のなかでは最もよく見られる類型とされる。 そして③は,政治家が取引費用を操作する幅がかなり狭くなっている段 階となっており,これまでの政策による潜在的な反対者に悼りながら非難 回避を採り始め,そして,これまでの支持者に対しては目立たないように 保護を続けていくとされる。最後に④では,政治家はこれまでの政策の問 28−1−149(香法2008) ¶60一
題点をもはや隠すことができない状態で,業績誇示戦略の余地はなくなっ ているが,とはいえ,無抵抗ではなく,政治家は責任を行政に転嫁しなが ら,それまでに培ってきた社会アクターとの関係を放棄する動機を持つと される。また,当該問題を誇張するという情報操作を行いつつ,問題解消 に動き,手柄を大きく見せかけもするのである。そのため過剰な規制を伴 いがちであるけれども,それでも非難の沈静を目指すというわけである。 なお,ここで注意しておきたいのは,トウワイトが確認するように,二つ の戦略は概念的には重なる部分があるということである(例えば,②から ③へという流れを参照)。事例の経過を叙述する余裕はないが,このよう な彼女の理論的な説明の試みはかなりの程度成功していると考える。 以上の彼女の議論を前項未の観点との関係を参照しながらまとめると, 第1に,公衆との関係に強く拘束された政府,政治家の戦略性を取引費用 に着目して論じていること(一つ目の論文では相対的に政府[government] に焦点があったという意味で,二つ目のそれはよりマイクロな分析を志向 している),第2に,その戦略性と時間の経過および幅広い参加者との関 係をつないだ議論を展開しているということである。そして第3に,副次 的にではあるけれども,OSHA(労働安全衛生局)やEPA(環境保護庁)な どの官僚の戦略も描いていることである(今日の本人一代理人理論に見ら れるような精緻化された議論ではない。もっとも,彼女の関心はあくまで も政治家一公衆関係に置かれているのであるが)。日本のアスベスト問題 の文脈においても,こうした分析視角は基本的に援用可能であると考える。 (∋ c.フッドの研究 トウワイトの議論を包摂するかたちで非難回避戦略などを,より一般化 紬 して論じてい るのは,C.フツドである。また,環境問題,リスク社会な どにも幅広く言及した研究としても紹介・検討する。 錮 論文「リスクゲームと非難ゲーム」では,政治家が採る相互に排他的で はか一三つの非難回避戦略として,①表象的(presentational)戦略,②政
策的戦略,③官僚(行政)委任(agency)戦略を挙げる。それぞれの戦略 の枕詞をリソースとして非難回避を図るというわけだが,例えば,トウワ イトの研究は公衆に対して諸政策を打ち出しながら政治家がポジションを 変えていく様子を描いたものなので,②に位置づけられている。一方, フツドは政治家による官僚への権限の委譲に関する③に焦点を当ててい る。これは,先にまとめたトウワイトの議論の3点日の部分を展開すると いうことでもある。 フツドは③を論じるにあたって三つのゲームを重層的に扱っている。第 1に,現職政治家が政治的支持を最大化することを前提として,まずある 政策領域で権限を行政に委任するか否かを選択すれば,それによってアウ トカムとしての有益あるいは有害な結果がもたらされることになるが,そ こで有権者が信用か非難かを決めるという単純化したゲームを著す(すな わち,選択[直接一委任]の軸とアウトカム[有益一有害]の軸で4類型 ができ,各類型における業績誇示と非難回避の戦略の程度と結果を示そう としている)。しかし,政治家の選択への有権者による有益か有害かの判 断は,トウワイトの分析にあるように諸情報に依存していること,またリ スクの増大はウイーバーが想定するよりもマイナスヘのバイアスを促進す る潜在的な力として見られうること,そして,委任という戦略が有権者か ら非難回避の成功と見倣されるとは限らないことなどを考慮してゲームを 洗練化しようとする。 これを受けて,第2に,公式の委任が委任者(政治家)よりも被委任者 (官僚)を非難することへ非難者(公衆)を導くことができる程度は世論 の状況に依存する,つまり,測定することは難しいが,公式の委任の結果 は,非難者がそれに同情的か報復的かに依存するというゲー ムを考えてい る(すなわち,選択[直接一委任]の軸と公衆の態度[同情的一報復的] の軸における,非難回避の程度と結果を示そうとしている。なおこれは, 第1のゲームのアウトカムが「有害」の類型において,政治家への非難の 結果が公衆の態度に依存していることを意味している)。第1のゲームで 28−1−147(香法2008) −62−
述べたこととの関係で特に「委任」と「報復的」からなる類型について見 ておくと,それは,委任によって非難を逸らすことが困難を伴うものであ るということを示している。具体的には,有権者が政治家を委任者(責任 者)として見るのは,例えば,官僚への委任による非難回避が失敗したと きや(blamereVerSion),不可抗力のような出来事についても委任者の責任 を問うとき(blamedisplacement)かもしれないというわけである。 さらに,第3に,被委任者(行政)が受動的ではないことなどを考慮し たゲームを考えている(委任者[非難も業績も委任一非難は委任するが業 績は非委任]の軸と,被委任者[非難も業績も受諾一業績は受諾するが非 難は非受諾]の軸で4類型を作成し,各類型が対称的な委任か,非対称な 委任か,非両立的な委任かを示している)。もちろん,フツドはここでも 委任者の戦略について語るけれども,被委任者が戦略的な対応を駆使する 姿を包括的に論じている点に特徴がある。具体的には,行政が財政などの 失敗を民間に押し付けること(privatizationblameboomerangS),明確に自 らの職域とはいえない事柄(事故)に対する非難を政治家と共有すること で逃れること(managerialblameboomerangs),そして,政治家が技術的な 判断を専門家に任せる戦略に対して,同様に技術的な側面から応じること (expertizationblameboomerangs)などを含んでいる。 これらは非難を移す(blameshif【ing)という視点であったけれども,最 後に,フツドは,被委任者(行政)によるその解消(blamedissolution)と いう戦略も残されているとする。これは彼が防衛的1)スク管理(defensive riskmanagement)と呼ぶもので,行政が上述の表象的戦略,政策的戦略, そして紹介してきたその他の委任戦略に対応する有効な手段という。それ は,危険回避的な運転(defensivedriving)の例で説明されるように,「私 的なあるいは制度化した非難や責任を避けることに集中する個人的かつ組 織的な活動」と定義される,なに振り構わず火消しに走るというものであ る(以上の流れについては,図4参照)。しかし,これを被委任者が行う ことは,様々な否定的な効果や幅広い社会レベルでのリスク操作において
実質的な歪みを生むかもしれず,さらに,その意味で公衆に対する責任を 減少させることに焦点を当てるこの戦略は,究極的には社会全体の体系的 なリスクへの注意を逸らしてしまうかもしれないとする。この点につき, 彼は行政(官僚)がこのような行動を採ることは,有権者に選ばれた政治 家が政治的な非難の回避に懸命になることに起因した民主主義の逆説であ ろうと締め括っている。 フツドの研究も前項末の観点との関係を参照しながらまとめると,第1 に,政治家の初手とその公衆への影響というゲームを前提とした上で,恒 図4:委任を通じての非難回避ゲーム 非難の反転 βJα∽e尺ピソgJTわ乃 委任は誤魔化しとして 受け取られるか?
> YES ‡
l NO l 公衆は政治家を非難する+>YES→非難の置換 、 l ..斗1▲一月「J_ 1. ′\ ことを望むか? l NO l 非難をシフトされる側は それを受け入れるか? βJα∽eか∼岬JβCe椚g乃f 非難の転移 β/‘7川パい/叫? > YES ‡ l NO -C 非難をシフトされる側は,する側に一部あるいは全て+> YES+>
の非難をシフトできるか? l NO l 非難の共有ないし反転 朗α椚g∫ゐβrg托gOr βJα〝7e尺ever∫わ乃 防衛的リスク管理(政策的,表象的,官僚委任バイアスの集合) は,非雉の解消βJdmeβf∫∫OJ〃fわ乃を達成することを意味する。 出典)Hood,TheRiskGameandTheBlameGame,p.35. 28−1−145(香法2008) −64−常的に公衆の態度を把捉して行動しようとする委任者(政治家)と被委任 者(官僚)の関係を明瞭に描こうとしていること,しかし第2に,政府レ ベルの戦略性の研究としての関心はトウワイトと共有するものの,業績誇 示戦略と非難回避戦略をトレードオフの関係として捉えないことによっ て,非難回避の効果の複雑な組み合わせや意図せざる非難を採り込んだ分 析を可能にしていること,例えば,政治家や官僚が自ら非難を受け入れ, それへの対応を図る場面をも想定していること,そしてこれに関連して第 3に,ウイーバー批判の文脈に見られるように,アスベスト問題などを扱 うリスク分析産業(マスメディアなど)の増大が公衆に様々な情報をもた らすという状況を考え,三つのゲームをベン図的に用いた上で非難回避戦 略における時間の経過を重視して議論していることである。なお,政府レ ベルのアクターの逐次的な選択が社会全体のリスクへの注意を逸らしかね ないとのフツドの指摘は鋭いが,公衆の態度以外の要因が政治過程にいか なる影響を与えるのか否かについても議論を深めていく必要があると考え る。 4.本稿の仮説と方法 以上では,まず,長期的な因果関係を伴う問題としてのアスベストに関 する議論は,「政府の不作為」をめぐる主張が断片的に行われていること から,その全体像が見えにくくなっていることを確認した。そこで,国際 比較の観点から残される「政府の不作為」の可能性についての整理を行っ た上で,従来の議論に全く根拠がないというわけではないことを示し(1 項),日本の文脈でのその原因論を考察してきた(2項)。しかし,それら においては「政府の不作為」を十分には説明できていないことに加えて, その分析の前提であるはずの「政府の」の意味するところについて従来の 議論が見逃しているものを,海外の先行研究を紹介するなかで確認してき た(3項)。本項では,こうした整理を具体的に採り込みながら本稿の仮 説を提示し,最後にその検証の方法にも言及することにしたい。
Ⅰ節でも述べたように,本稿の仮説は,アスベスト問題の性質とそれに 関する政策領域の布置連関が,政府レベルのアクターの政策選好,戦略構 築と行動を意識あるいは無意識において限定し,アスベスト問題への村応 を相当程度規定しているというものである。 検証にあたって確認しておくべき事柄について,具体的に説明を加えて いこう。まずは,時間範囲が長期的である原因と結果を伴うというアスベ ストの性質が,問題としての可視性の程度を押し下げており,政府レベル での対応を遅らせるという点である。環境社会学者の長谷川公一は,可視 的な問題(スパイクタイヤ公害)と不可視的な問題(地球温暖化)を事例 として扱うなかで,それへの政府の取り組みの程度は,①問題および被害 ㈹ の可視性,②対策の緊急性,③技術的対策の容易さに依存すると論じた。 アスベスト問題は,本稿の先行研究の整理を踏まえれば,可視性は「低 く」,対策の緊急性も「低く」,対策は「難しい」と少なくとも表面上は政 府レベルのアクターが認識してきたものと考えられる。また,トウワイト の実証研究においてもアメリカ合衆国政府の対応の「遅れ」は,アスベス トという長期的なアウトカムをもつ問題が生来的取引費用を高めることと 結び付けられて論じられたのであった。つまり,問題となった時期が日本 と異なるとはいえ,政府レベルで採られる行動は「長期的な問題」の性質 に拘束されている,あるいは短期的な問題とは異なる側面が強いと考えら れているのである。その意味では,比較の観点から見れば,この点はコン トロール変数の一つになると考えられる。したがって,ここで問われるべ きなのは,この条件の下で,どのような要因が政府レベルでのアクターの 対応を規定していくのかということなのである。 次に,その要因としての政策領域の布置連関ということに関しては,本 勘) 些 稿は,いわば限定合理性という条件の下では諸アクターは全ての領域(公 共政策)に注意を向けることができるわけではなく,意識的あるいは無意 識的に優先順位をつけて活動を行うという点を強調する。本稿の文脈で重 要なのは,後述するように,「アスベスト政策」とでも呼ぶべき政策バッ 28−1−143(香法2008) −66−
ケージに含まれているものが,経済対策,労働災害対策,大気汚染対策と いうように複数存在しているということである。しかもそれぞれの政策過 ¢勿 体頚 程の性質や,そこでのアクターの認識は異なっている可能性もある。また 本稿はこのことに加えて,関連する政策領域が複数あるということ自体が 政府レベルのアクターの行動を拘束するために,必ずしも十分にそれらが 意図したように政策を追求できるというわけではないことを重視してい く。したがって,これらをフツドの議論になぞらえて敢行してみると,例 えば,アクターAが戦っていると思っているゲームは,極端に言えば既 に終わったゲームであり,アクターBは他のゲームを戦っているという ことが起こりうるし,アクターによってはどのゲームを戦っているのか自 覚的ではない場合があるのかしれない。政府レベルのアクターがどの程 度,政策領域を意識して行動していたのかが実証によって明らかにされる べき点となる。 この点に関連して本稿は,日本の文脈では「政府の不作為」というとき に,公衆(本節1,2項の論者を含む)が行政,執政,そして政治を必ず しも明瞭に区別して批判を行ってきたわけではないために,別言すれば, 公衆がおそらく無意識的に批判の相手の範囲を「政府」あるいは「国」と いう存在に抽象的に限定してしまったために,与党のみならず省庁は自ら の存在を半ば消すことに成功しながら,自らの利益を追求することができ たのだと考える。そうだとすれば,政府レベルのアクターは,その有する 複数の政策領域への関心(政策選好)から,時々の様子をみながら余裕を もって重心を移動させて,身を処していくことができると考えられる。こ の視点は,戦後長く与党の地位を占める自民党が,複数の政策領域につい 叫 て政務調査会の部会において対応してきたことやそれに対応する中央省庁 の配置に関する議論を補完する。ちなみに,これまでの議論の多くは,「政 府の不作為」を主張しているわけだから,公衆は自分自身というよりも政 府レベルのアクターに初手を預けているものと推測できる。そうだとすれ ば,この点はフツドの議論と整合的であるのだが,従来の議論を前提とす
ると,その後のゲームは「政府」を一体として捉えてきたために,図4ほ どには明瞭な流れが観察できない可能性が高い。どのような行政,執政, 政治の関係があるのかも,次節での検証されるべき課題となる。 そして,ゲームのアリーナを変える論理が業績誇示戦略と非雉回避戦略 の組み合わせだと考えられるのである。トウワイトが分析するように,こ の二つの戦略が変化するとき,すなわち政府レベルのアクターによる公衆 の態度の評価が変化するときが,政策の変わるタイミングを説明するとい うことになる。しかし,彼女の説明では二つの戦略がトレードオフ的ある いは単線的に捉えられている点に問題がある。それでは,例えば,フツド のいう被委任者としての行政による責任の転嫁(blameshif[ing)や問題の 解消(blamedissolution)が,明示的には観察されなくなってしまうので ある。アメリカ合衆国の説明ではたまたまそれでよかったのかもしれない が,既述のように日本の文脈では,「政府」,「国」というときに,しばし ば中央省庁を意味していることが多いと思われるだけに,よりマイクロの レベルで誰の不作為なのかということが十分には分析できなくなってお り,「政府の不作為」論に混乱が起きていたのだと考える。また,時々に おいて政治過程に流れている関連情報が過少ならば,それはトウワイトの いう生来的取引費用(情報費用)が高いことを意味し,政府レベルのアク ターの行動の自由度が高いと推測できるし,他方で情報が過多ならば, トウワイトヤフツドの理論を参考にすれば,問題を必要以上に大きく見せ かけつつ,それを解くことで政府レベルのアクター,特に政治家は業績を 高めようとすると考えられる。 では,これらの諸点を踏まえてどのように記述するのか。既に述べたこ とと関連するが,本稿では,「政府の不作為」という主張を検証する試み 四 の一つとして,分析期間を可能な限り延ばすことと複数の政策過程に目を 配ることを通じて,一見すると変化のないあるいは一旦は固定化された公 式の制度や政策などについての質的な変化の有無を確認するという方法を 採ることになる。例えば,ある公式の制度の制定という決定はその問題に 28【1−141(香法2008) −68一
対する解決のメルクマールにされることが多い一方で,それと関連する制 度やそれと次元の異なる政策などが効力を発拝するために,当該政策の効 果が緩和ないし相殺されているという可能性が残されることに注意を払う ㈹ 必要があると考えるからである。すなわち,政治過程を観察する際に,そ の固定化の側面と変化の側面を両睨みにするような,あるいはそれらをト レードオフの関係と強調しすぎないような分析視角を設定しておくことが 重要だと考えるのである。本稿ではこれらの点を念頭に置きながら,政治 や行政がどのようにアスベストを問題と認識し,どのようなタイミングで 政策を打ち出していったのか,またその含意は何かなどを戦後の約60年 という期間において歴史的に分析する。
Ⅱ.アスベストをめぐる政治過程
一 国会における議論動向から 本節では,前節での議論を踏まえて,主に「国会会読録検索システム」 を用いて戦後のアスベスト政策の変容の諸相を検証していく。この資料を 用いるのは,人手可能な時系列的な資料が限られていることもあるが,そ れによってこそ政府レベルのアクターの政策選好や戦略を窺い知ることが できると考えるからである。ただし,資料の特徴として,野党の発言が多 く,与党のそれが少ないという場面も多く見られる。そうだとすれば,例 えば,大山礼子がいうような,「与党審査は内閣法案の国会提出時にはす でに決着してしまっているため,審査開始後は,与党議員の活躍の場はほ とんど残されておらず,審議を簡単にすませることだけが与党の任務とさ ・▲i【\、 、,1丁・ れている」という解釈についても耳を傾けておく必要がある。したがって, 新聞記事,「アスベスト問題に関する関係閣僚による会合」で提出された 資料などにも冒を通しながら文脈を確認し,この政治過程を再構成する。 「アスベスト政策」に含まれる議論は膨大であるが,本稿ではいくつかの 論点をアクター(資料)に可能な限り語らせながら進めていく。図5:国会および朝日新聞におけるアスベストないし石綿への言及件数 3.512 240 200 160 璧120 フ三 80 40 0 3,600 3,000 0 0 4 2 朝日新聞 0 0 8 1 0 20 1
////㊥
♂/ サ国会・・・−●一朝日新聞 出典)国会会議録検索システム,朝日新聞データベース(開蔵Ⅱビジュアル ねr Libraries)。 注)国会は本会議および委員会の件数,朝日新聞は記事の件数を表している。 その際に本節では,アスベストをめぐる政治過程に内包されている「経 済問題(商工委員会,経済産業委員会など)」,「労働環境(厚生委員会, 社会労働委員会,厚生労働委員会など)」,「大気環境(環境委員会,環境 特別委員会など)」という三つの政策領域が出現した経緯および持続の程 度と,政府レベルのアクターがそうした条件のなかでいかなる動きをみせ ていったのかということが注視される(本稿末の補遺および本節5項の表 ㈹ 2も参照)。結果として,「政府の不作為」と称される現象を引き起こして いる原因を理解するためには,政府,行政というよりも,むしろ与党の動 態をいかに捉えるかが重要であるということが示唆されるだろう。 なお,図5は,アスベストに関する戦後の議論の状況を概観する材料と して,国会と朝日新聞が「アスベスト」ないし「石綿」に言及した件数を 1945年度から5年度ごとに区切って表したものである。「2005−06」年度 28】1−139(香法2008) −70− 九は2年間のみであるが,クボタ・ショックの衝撃の大きさがわかる。ま た,国会ではマスメディアが静かなときも相対的にアスベストに言及して いるということと(この意味において,Ⅱ節2項でみた「静かな世論」仮 説は支持できない),公衆に流された情報は,前節3項で述べたように, 過少と過多の状態があったことが窺える。 1.アスベストと戦後初期の政治経済 アスベストは,第1回衆議院商業委員会18号(1947年11月8日)で 請願が出されるほどに重視された物質であった。松原喜之次(日本社会党) の発言からは,戦後初期の政治経済に占めるその位置を具体的に確認する \1t■、 ことができる。長くなるが,引用しておきたい。 石綿促進の請願につきまして,紹介議員の一人として簡単にその趣 旨の弁明をいたしたいと存じます。御承知のように,石綿は,硫安製 造の場合に電解をいたしますが,その電解の絶縁隔膜として用いられ ます副資材の最も主要原料となっておりますのみならず,自動車のブ レーキ,その他あらゆる電気の絶縁倦に用いられ,あるいはまた保温 とか保冷とかいうような用途に部分品として広く用いられておりま す。さらにまた鉄管の代用といたしまして,御承知の石綿高圧管とし て用いられますし,また石綿スレートや石綿煙突等,今日復興建築に 重要な資材として広くその用途をもっておるものでございます。…。 しかるに現状を見ますと,もはや国内にありますところの石綿原料の 状態は,ここ数箇月を出でずして底をつくという有様になっておるの であります。先ほども申します通り,非常に重要な産業の副資材とし て用いられる部面,及び製品として広くその用途をもっており,かつ その製品は日本再建の上に最も不可欠な品種であると私は考えるので ありますが,しかもこの石綿の価額たるや大したものではない。すな はち他の産業におきましてもよくわれわれの経験するところでありま ノヽ
すが,主たる原料資材等がいかに豊富に供給いたされましても,ごく わずかな副資材の不足のために,その製品の生産に重大な支障を来す というがごときことはまま見るところであります。硫安製造のために するところの電解隔膜のごときは最も重要な部面と思うのであります が,こういうふうな大した金高でもなく,しかも重要な使命をもって おる資材は進んでひとつ輸入をするというふうに,政府の方でお取計 らいをお願いいたしたいと思うのであります。さらに附加えておきた いことは,現在石綿製品の生産にあたっておりまするところの工場は 全国で百二十工場あります。それからそれに従事しておりまする者は 七千人になっております。きわめて微徴たる工業でありますけれど も,しかしながらわずかの輸入が行われないために,これらの工場が その業を続けることができず,従ってこれらの従業員が失業するとい うことは,これらの人人にとっては重大な問題であるということもお 考え願いたいのであります。なお,石綿は御承知のように戦前におき ましてはアメリカから主として輸入されておったものであります。 ・‥。以上の理由を持ちまして,この際ぜひこの石綿の輸入について特 段の御考慮をお願いいたしたい。これが請願の趣旨でございます。 Ⅱ節1項でも確認したように,魔法の鉱物として戦後初期からアスベス トが日常生活に浸透していたことがわかる。もっとも占領下にあって,政 府はその確保を連合国軍総司令部に打診していかねばならなかった。この 時点では,「日本経済再建のための重要物資と認められ」,石綿隔膜3万ト ンの輸入が実施されている。政府としてはさらなる輸入を求めていたが, アメリカ合衆国でもその確保が厳しいとされており,関係省庁協力のもと に「一層努力」していくということになったのである。他方で,企業もそ れを求めていた。例えば,朝日スレート株式会社専務取締役は,第1回参