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理学療法の50 年

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Academic year: 2021

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(1)理学療法学 第 742 42 巻第 8 号 742 ~ 743 頁(2015 年) 理学療法学 第 42 巻第 8 号. 教育講演. 理学療法の 50 年* ─黎明期からの進歩と課題─ 上 田 敏** はじめに. 師を招き,臨床実習は在日米軍病院で,あるいは国内病院(東 大等)に外国人 PT・OT を派遣して実施した。学生にとって. 半世紀前の 1963 ~ 1966 年の 4 年間は,「日本の総合的なリ. は,授業も実習も試験もレポートもすべて英語であり,明治維. ハビリテーション(以下,リハ)の黎明期」というにふさわし. 新後の「お雇い外国人教師」とその学生さながらであった。. い,記念すべき事件が次々に起こった輝かしい時期であった。. 教師陣の中心となって活躍したのは WHO コンサルタントの. 1963(昭和 38)年はリハ医学の生誕の年であり,その「三位. コニーネ女史(Tali Conine, RPT)であった。上田も約 20 年. 一体」をなす「診療・教育・研究」のすべてが出発した。それ. 間「リハビリテーション神経学」を教えた。. は順に,①教育(日本初の理学療法士〈PT〉・作業療法士〈OT〉. 〈資格制度創設の歩み〉. 学校の開校,5 月),②診療(日本初の大学病院リハ診療部門. 学校はできたが資格制度はなかった。そのため同年 6 月 2 日. の発足,7 月),③研究(日本リハ医学会の結成,9 月)であった。. に「PT・OT 身分制度調査打合会」(座長:砂原茂一)が発足. 1964 年には日本障害者リハ協会の設立(9 月)とパラリン. した。その初仕事は「PT・OT」の訳語の決定であった。当時. ピック(11 月)があった。1965 年には第 3 回汎太平洋リハ会. は定訳がなく,PT については,機能療法士(師),機能訓練. 議(4 月)と「理学療法士・作業療法士法」の公布(6 月)が. 士,物理療法士,理学療法士など,OT については,職能療法. あった。1966 年には第 1 回 PT・OT 国家試験があり,PT 協会,. 士(師),作業訓練士,作業療法士などが使われていた。結局,. OT 協会が結成された。. 調査打合会の同年 12 月 17 日の厚生大臣宛て答申は,多数決で. 筆者は,以上のほとんどに直接関与し,その後も種々の面で. 「PT は理学療法士,OT は作業療法士」とした。. 関与してきた。その立場から,半世紀の進歩を振り返るととも. 〈第 1 回理学療法士・作業療法士国家試験〉. に今後の課題について考えたい。. 理学療法士教育と資格制度の歩み 我が国初の PT・OT 学校の設立は「役人らしからぬ役人」 大村潤四郎厚生省国立療養所課長の長年にわたる努力の結実で あった。彼は東大医学部卒業(1939 年)後,1948 年厚生省に. 1965 年 6 月 29 日に「理学療法士・作業療法士法」が公布さ れ,1966 年 2 月に筆記試験,3 月に実地試験が行われた。合格 者は PT 183 名(受験者 1,217 名中),OT 20 名(受験者 60 名中) で,清瀬の学院の卒業生は全員合格(PT 14 名,OT 5 名)し, 残りは特例(5 年,のちに 3 年延長)受験者であった。 〈理学療法士・作業療法士協会の結成〉. 入り,1954 年英国の医療を視察し,1957 年に省内に部局横断. 日本理学療法士協会は 1966 年 7 月 17 日に結成された(会員. 的な「リハ研究会」をつくり,座長となった。. 110 名,組織率 60.1%)。初代会長は遠藤文雄氏であった。同. 研究会は 1962 年に厚生大臣に報告書を提出,PT・OT・ST. 年 10 月に第 1 回学術大会が開催された。. 養成の必要性を説き,1963 年度予算に PT・OT1 校の予算獲得. 日本作業療法士協会は同年 9 月 25 日に 18 名の会員で結成さ. に成功し,1963 年 5 月 1 日の清瀬の国立療養所東京病院付属. れた(初代会長:鈴木明子氏)。. リハ学院(砂原茂一学院長)の開校となった。 〈PT の教育は PT の手で〉. 日本最初の大学病院におけるリハ診療部門の発足. 大村らは世界水準をめざし,WCPT(世界理学療法連盟)・. 1963 年 7 月 1 日に東京大学医学部附属病院中央診療部運動. WFOT(世界作業療法士連盟)の基準「PT の教育は PT の手. 療法室が発足したが,それに関与したのは次の人々であった。. で」「OT の教育は OT の手で」を守った。すなわち「基礎・. 上田 敏は 1960 年から浴風会病院(東京・杉並)で「手作. 臨床医学は医師が教えてもよいが,PT・OT の専門科目と実習. り・手探り」のリハに従事していた。その動機は,東大で診て. は PT・OT が教えること」である。そのため多数の外国人教. いた神経疾患患者に「なにもしてあげられない」と痛感したこ とであった。浴風会病院でのリハが成果をあげてくるにつけて. *. The Fifty Years of Physical Therapy in Japan: The Progress Since the Early Years and Present Tasks ** (公財)日本障害者リハビリテーション協会 顧問. (〒 162–0052 東京都新宿区戸山 1–22–1) Satoshi Ueda, MD, PhD: Japanese Society for Rehabilitation of Persons with Disabilities キーワード:理学療法,リハビリテーション,歴史. も,「東大の患者さんたちにもリハの恩恵に浴させてあげたい」 という気持が強くなってきた。 椿 忠雄氏(当時東大脳研究所臨床部門助教授,後に新潟 大教授,東京都神経病院院長)は以前からリハに理解があり, 1962 年の暮に「脳研の予算で運動療法機器を買ってあげよう」.

(2) 理学療法の 50 年 といってくださった。狂喜したが,場所がなかった。. 743. 〈「小児の時代」(1920 年頃~)〉. 樫田良精氏(当時中央診療部副部長,後に部長・教授,関東. 主要な疾患は小児の骨関節結核,ポリオ,化膿性骨髄炎など. 中央病院長)は,「廊下の片隅でもいいから使わせていただけ. であった。代表的な人物は高木憲次(東大整形外科教授)であ. ないか?」とお願いにうかがった上田に,「すでに 9 年前から,. るが,柏倉松蔵(1921 年に日本初の肢体不自由児養護学校の. 中央診療部門マスタープランに『物理療法部』の計画があり, 場所が確保されていた。その一部を使おう」といってくださり,. 私立柏学園を設立)も特筆すべき人物であった。 〈「青年の時代」(1940 年頃~)〉. 事態は大きく動きだした。. これは戦時中の戦傷兵(切断,骨折,銃創)対策にはじまる。. こうして発足した運動療法室は,3 年後の 1966 年 7 月に作. その中心は臨時東京第三陸軍病院(相模原)で,戦後は「国立. 業療法室・水治療法室等を加えて拡張し,総合的な「中央診療. 身体障害者更生指導所」となり,東京戸山町への移転(1953 年). 部リハセンター」となる。さらに 1970 年 1 月に「リハ部」と. を経て,現在の国立障害者リハセンター(所沢)につながる。. して独立した。. 戦後は労災(炭鉱等)による脊髄損傷が問題となり,九州労. 〈大学におけるリハ部門の発展〉 このような東大での動きは他大学でのリハ部門の発展にもつ ながった。すなわち,横浜市立大学医学部リハ科(1968 年),. 災病院の開院(1949 年),リハセンター設置(1959 年,服部一 郎部長)があった。 〈「高齢者の時代」(1960 年頃~)〉. 独協医科大学(1974 年),川崎医科大学(1975 年),産業医科. 寿命の延長,治療医学の進歩とともに脳卒中片麻痺患者が急. 大学(1978 年)等のリハ医学講座である。. 激に増加し,今に続く「高齢者の時代」がはじまった。はじめ. ただ現在リハ医学講座のある大学は全 80 校のうち 19 校(国. はリハの診療報酬が極度に低いため地価の廉いところでしかで. 立 3,公立 2,私立 14)にとどまっている。. きず,「温泉地(遠隔地)リハ」の時代であったが,その後の. 日本リハビリテーション医学会創立 日本リハ医学会創立は次の 2 つの流れが第 16 回日本医学会 総会(大阪)を機会に融合して実現したものであった。 〈日本整形外科学会リハ委員会〉 これは 1959 年に創設され,水野祥太郎大阪大学教授が委員 長であった。そこで「リハ学会」創立が準備されていた。 〈内科系リハ懇談会〉. 診療報酬の大幅引き上げにより,「都市型(居住地近接型)リ ハ」が急速に伸びて今日に至る。 〈なぜ 1963 年が?〉 1960 年代初頭に小児から高齢者までの全世代がリハの対象と なり,さらに 1961 年の「国民皆保険」によって,財政的裏づけ が成立したことで,リハ医学発足が「必然」となったといえよう。. その後の歩みと今後の問題点. これは次の各氏が発起人となって準備されていた。すなわ. その後の歩みを概観すると,制度的・経済的な面では,1974. ち,大島良雄(東大物療内科教授),冲中重雄(東大第三内科. 年の PT・OT 診療料の新設にはじまって,その大幅改定(1981. 教授),勝木司馬之助(九州大学教授),木村 登(久留米大学 教授),砂原茂一(国療東京病院院長),服部一郎(九州労災病 院リハ部長)の 6 氏であり,事務局は上田であった。 〈2 つの流れの融合〉. 年,1992 年),「早期リハ加算」(1988 年),「回復期リハ病棟」 (2000 年)に至り,さらに介護保険(2000 年)により,「生活 期リハ」にかかわる諸制度が発足した。 以上に伴って 1990 年代以降,リハを行う病院・施設の急増,. 日本整形外科学会の「リハ学会」発起人会が,1963 年 4 月 2. PT・OT・ST などの教育機関(特に大学)の急増,これらの. 日阪大講堂で開かれ(座長:水町四郎関東労災院長),一旦「リ. 有資格者の急増(現在 PT 約 12 万人,OT 約 8 万人)が進行した。. ハ学会」設立が決議されたが,直後に質問に答えて傍聴してい. しかし,リハを専門とする医師数の伸びは遅々たるものである。. た服部一郎氏が内科系の動きを説明した結果,急転直下,両者. それらを踏まえて日本のリハの今後の問題点を挙げると次の. が一致協力して学会を設立することとなった。. ようになろう。1)PT・OT・ST 等の学校は増えたが,教育の. 2 日後の 4 月 4 日に内科系リハ懇談会が大阪市内で開かれた. 質はどうか? 2)リハ医学に関する医師の教育が不十分では. (参会者約 150 人,座長:砂原茂一)。整形外科側からもオブ. ないか? 3)「専門医不在」で,PT・OT 等だけで行うリハで. ザーバーが参加し,ここでも両者が協力して学会を設立するこ. よいか? 4)「リハビリテーション」(「全人間的復権」)でな. とが確認された。. く,「機能の回復」のみを追い求め,「訓練人生」をつくってい. 以上の結果,両者から 3 人ずつの打ち合せ委員が選ばれ(上. ないか? 5)「自立性の向上」をめざすはずのリハが受動的・. 田もその 1 員であった),合議を重ね,創立の準備をすすめた。. 保護的な他動的訓練のみに堕していないか?. 〈日本リハ医学会設立総会〉 1963 年 9 月 29 日,東大赤門脇の学士会分館で開催され,学. おわりに─総合リハビリテーションをめざして. 会創立を決議し,会則・人事を決定した。初代会長は水野祥太. 理学療法士は,患者・家族・地域を中心に,多種類の専門家. 郎氏であった。上田は幹事の一員となった。. が「横の連携」と「縦の連携」に立って協力する「総合リハ」. その時代的背景 日本のリハ対象者の変遷を振り返ってみると,まるで「人の 一生」のように,「小児の時代」「青年の時代」「高齢者の時代」 という 3 つの時代があったことに気づく。. のために,ひろい分野で活躍してほしいと願っている。. 文 献 上田 敏:リハビリテーションの歩み─その源流とこれから.医学書 院,東京,2013..

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