大阪経済法科大学論集
第 112 号
大阪経済法科大学経法学会
論 文 19 世紀アメリカ合衆国の学校建築形成における建築家と教育行政家 ―公教育制度形成の一側面、教育空間標準化とS・スローン― 鈴 木 清 稔 ( 1 ) メガスポーツイベントのマネジメントに関する研究 ―2018 平昌冬季オリンピック競技場の活用を中心に― 朴 永 炅 (19) 書 誌 書誌 / 哲学教育 渡 邉 浩 一 (37) 研 究 ノ ー ト 哲学教育について何が語られてきたか ―「書誌 / 哲学教育」への註釈― 渡 邉 浩 一 (55) 翻 訳 郝斌『流水 何ぞ曾て 是非を洗わん ―北京大「牛ニュウ棚ポン」の一角―』 (二) 華 立/姜 若 冰 (79) 研究業績一覧(2016年度) (97)大
阪
経
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学
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第百十二号(二〇一七年十月) 大阪経済法科大学経法学会•••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••• ••••••••••••••••••••••••••••••••• 前 号(2016年10月発行第111号)目 次 論 文 新聞を読まない大学生と記事を書かない新聞記者 森 榮 徹 ツールレイク強制収容所の日系アメリカ人 本 多 善 翻 訳 郝斌『流水 何ぞ曾て 是非を洗わん ―北京大「牛ニュウ棚ポン」の一角―』 (一) 姜 若 冰/伍 躍/華 立 シャー・ワリーウッラー・ディフラウィー著 『か弱き下僕の生涯における優雅なる一編』 石 田 友 梨
19世紀アメリカ合衆国の学校建築形成における
建築家と教育行政家
―公教育制度形成の一側面、教育空間標準化とS・スローン―
鈴 木 清 稔
要約 近代公教育の形成には、その過程において学校制度を支える道具立てが様々必要であった。学 校普及を推進する手段として、学校や教室の標準的な設置・設営の目安も必要とされた。アメリ カ合衆国において、学校の建築仕様書を作成する動きは19世紀中期ごろからおこったが、その過 程で、建築家と教育関係者(教育実践家や教育行政家)が関わり、「学校建築」という分野が形成 されていった。 とはいえ、この両者の関係・関わりは、実際には単純な協力関係にあったと言いきれない。そ こには、緊張関係も葛藤もあり得た。そうした状況を本論文では、ペンシルベニア州の校舎の建 築仕様書を編集した、かつての州教育長バロウズと、校舎デザインを任された建築家スローンの 関係に、立場の違う両者がどのように関ったか、具体的に見ていく。 バロウズは当時の学校教育に詳しく、スローンは一世を風靡した建築家であった。それゆえに 両者が学校校舎の建築仕様書作成の任に当たったと考えられる。しかし、19世紀半ばに建築仕様 として最も参考にされたと言われるバーナードの『学校建築』を支持するバロウズには、スロー ンの案は不満な点が多かった。バロウズはスローンの案と建築仕様に、編集過程で反対意見を追 加したり、欠点を指摘したりした。 立案者と編者の間の、こうした齟齬は,単なる個人的な不和から来るものではなく、教育関係 者と建築家の、学校建築に対する姿勢や求めるものの違いに起因すると考える。 キーワード 学校建築、スローン、バーナード、公教育形成1.問題設定 2.建築家と「空間構成の影響力」 3.建築家サミュエル・スローンと学校建築 4.スローンのフィラデルフィア・プラン 5.建築家と教育行政家
1.問題設定
本論文は、19世紀アメリカ合衆国における公教育形成の歴史像を明らかにする研究 の一環である。公教育の形成(=公的な行政権による学校制度の成立・普及)は、子 どもを「教育」するという行為を正当化する理念・理論の確立と、それらの社会一般 における受容といった理念的なものや、教育分野への税金支出といった財政的側面の 充足・拡充だけでは成し遂げられない。教員の養成と供給という人的側面や、校舎の 建設、教室内の設備・備品の配置といったより物質的・具体的な道具立ての整備拡充 も必要である。 本論文は、学校制度の成立・普及における物質的な道具立てである、校舎と教室ア レンジメントの標準化と、標準化に携わった教育行政関係者と建築家との関わりに焦 点を当てたものである。校舎の建築や教室アレンジメントについて、プラン・ブッ クが作成され、建築仕様書が作られていくことは、「学校」なる物を標準化すること につながる。各地の状況に合わせられるよう、いくつかのパターンを用意しつつも、 「学校」というものに一定の標準化をもたらすことで、学校普及に大きな役割を果た すことになった。*1 というのも、この標準化によって、学校設立に当たっての用地選定や建設費用の目 安が付けやすくなったり、学校の設立準備に見通しが付けやすくなったりして、学校 設立を唱道しやすくなるからである。*2そして、それは、学校教育の規格化への一 *1 実際、後述するように、アメリカ合衆国において1830年代から50年代にかけて「学校」 を語る著作のなかには、学校の絵や教室アレンジメントの図を含んだものが出版される ようになり、そうした著作は、建築の世界でいうプラン(=設計図)・ブックやパターン (=見本)・ブックとしての役割を果たしていった。方法にもなりつつ、その一方で、人々に対して、<学校とはこのようなものである> という、「学校」というものの可視化を行うことで、普及を目指す「学校」の「あらま ほしき」姿を打ち出す役割をも果たし得たのである。実際、1830年ごろから、学校の 環境を論じた著作は、実在の学校の立地条件が悪かったり、教室が不衛生であったり する例が多いことを指摘し始めた。それだけに、著作で示される「学校」は、現実の 姿とはかけ離れていることが多かった。しかし、だからこそ、「かくあるべし」とい うイメージと標準を提示することにもなった。 実際、19世紀アメリカ合衆国において教育行政家、教育ジャーナル編集者として公 立学校制度普及に活躍したバーナード(Barnard,Henry1811-1900)は、その著書『学 校建築』において「全ての学校校舎は、共同体の全ての子ども身体的、知的、道徳的 育成を祈念して捧げられた聖堂(temple)でなければなら」ないと述べており、公立 学校制度として唱道された理念としての「学校」イメージの可視化にも貢献したと言 える [Barnard,1970(1848):55-56,Barnard,1849:41]。*3 *2 ちなみに、欧米の近代教育導入期であった明治初期日本において、各県の学校建築や 運営の指針(=「学校建築法」、「学校建築心得」の類い)作成時に参考とされ、影響が あったと言われるのが、『学校通論』(J・P・ウィッカーシャム、箕作麟祥訳、1874)で あった。同書は、SchoolEconomy(Wickersham,1864)の1870年版の翻訳である[関川 , 2000:137-139]。 この『スクール・エコノミー』は、教室内の机の配置や備品入れなど、学校校舎のフロ ア・プランを、生徒48名収容の一教室学校(one-roomschool)と同80名の一教室学校し か掲げておらず、より大きな学校については、当代の学校建築の諸著作にあたるよう指 示した[Wickersham,1867:38]。 ウィッカーシャム(Wickersham,JamesPyle1825-1891)も、後述するバーナード(コ ネティカット州教育長)同様、ペンシルベニア州教育長(1866-1882)を務め、教育雑誌 (PennsylvaniaSchoolJournal)を編集した(1871-1881)。 *3 バーナードは、コネティカット州初代教育長(theSecretaryofConnecticutBoardof CommissionersofCommonSchools,1838-1842)となって以来、学校建築と校舎の改善に ついて調査し、書き始めた。 彼の『学校建築』は、この調査と、それ以前、少なくとも1830年頃からの、アメリカ 合衆国の教育実践家たちによる校舎デザインや教室アレンジメントの議論を集大成した ものと考えられる。後述するように、彼の提案が広く知られるようになったのは、1850 年の第2回「公教育支持者国民会議」(TheNationalConventionoftheFriendsofPublic Education)に学校建築のレポートを提出したことによる。彼の『学校建築』の詳細につ いては、拙稿を参照のこと [ 鈴木1999:279-295]。
しかし、19世紀アメリカ合衆国において、「 学スクール・アーキテクチヤー校 建 築 」なるものが論じられ、校 舎の標準化がなされていくにあたっては、教育実践家、教育行政家など学校教育の関 係者だけではなく、建築家が関与していた。なぜならば、校舎は、授業などの教育が 行われる実践の場であるとともに、学校家屋(スクール・ハウス)という、学生“生 活”の場でもあり、住宅家屋(ハウス)を設計する建築家の関わる領域でもあったか らである。 実際、公教育の形成期=公立学校の制度化が、建築家と教育実践家や教育行政家が 出会う場となり、「学校建築」という分野が形作られた。それは、「学校」のパターン・ ブックの成立をもたらし、「学校」を具体的なものとして流布可能ならしめた。つま り、学校が複製可能なものになったということである。加えて、それは州の教育行政 当局による学校建築関連の規定や標準設計仕様の導入によって、教室アレンジメント の標準化が促進されることにもなった。 大まかな流れとしては、以上のように纏めることが出来るが、本論文では、このプ ロセスにおける、学校建築仕様書における建築家と教育行政家との関わりについて、 具体例に基づいて考察することを目的としている。なぜならば、「建築」を巡っては、 建築家と教育実践家の間に指向(ならびに志向)に違いがあり、しかも、学校教育普 及に関わった教育行政家が、標準的建築仕様のとりまとめに関わったからである。
2.建築家と「空間構成の影響力」
アーキテクチャーという言葉は、19世紀前半において単なる建物の建設や構築を意 味する言葉ではなく、特別な意味を持って使われた言葉であった。O.E.D. には、この 特別な意味の文献上の初出として、ラスキン(Ruskin,John1819-1900)の言明が挙げ られている。「architecture とは、人間によって建てられた構成物の光景が、人間の精 神的な健康、力、喜びに貢献するよう、その構成物を配置し、装飾するアートである」 (TheSevenLampsofArchitecture1849)。この言明に見られるように、アーキテク チャーは、単に建物をさすのではなく、それを見る者やその中にいる者に精神的な影 響を与えるべき構築物を指し、さらにはそうした影響を与えることを意図して建造し、 その内外を勘案・配置することをも意味する言葉として使われたということである。 つまり、アーキテクチャーという言葉には、人間への「影響力」が意識的に込められており、<人間精神に作用する空間構成への企て>と、そうした企てが込められた 構築物を指す言葉であった。[ 田中1997,1999]*4 <空間構成や構築物が人間精神に作用する>という発想は、逆にその作用で<人間 に影響を与えよう>という企図に転化しうる。また、その企図は、社会の改善に建築 を役立てようという発想も生み出す。実際、公共建築物を社会の改善に役立て、社会 の再形成に利用するという発想は、18世紀の最後の四半世紀に西ヨーロッパで生まれ ていた[鈴木1999:280]。アメリカ合衆国においても建国以来、共和国形成のために 公共施設建設の時代に入っていた。そこでは、ギリシア、ローマが民主主義、共和制 を象徴するとして、ギリシアやローマの建築をもとにした新古典様式、特にギリシア 復興様式の建物が多く建てられた。 しかし、当時のアメリカ合衆国において、建築家の地位が確立していたわけではな かった。建築家を名乗るための明確な基準はなかったし、その養成プロセスも確立し ていなかった。独立期から1820年代頃まで、渡米した英仏の建築家に指導を受けたり、 ともに仕事をすることで建築家になっていった。19世紀を通じて,誰でも建築家を自 称できたとさえ言われる [Clark,Jr.1986:16]。*5ちなみに、「アメリカ建築家協会」 (AmericanInstituteofArchitecture)の設立は1857年であり、建築関係の定期刊行 物の出版が始まるのは、1870年代以降だと言われる [Gebhard,1977:40,294]。大学 での建築家養成は19世紀半ば以降のことである。*6 つまり、連邦や州の議事堂など公共建築が、専門職として確立途上の建築家たち に設計されていくなかで、校舎という建物と「建アーキテクチヤー築」が、教育関係者と建築家が、そ *4 ちなみに、1830年頃、校舎や教室の改善を教育関係者が論じ始めたとき、アーキテク チャーという言葉は使われず、コンストラクションやビルディングが使われていた[鈴 木1999:279-280]。 *5 実際、1840年から1850年頃、ロードアイランド州で建築家として活躍したテフト (Teft,ThomasAlexander1826-1859)は、学校も設計したが、学校の教師をした経歴 を持っていた。このとき彼がバーナードの弟子(protege)であったという記述もある [Gebhard1977:116-7,鈴木1999:283-284]。 *6 ただし、後述するように、スローンが1868年から1870年まで、建築関係の定期刊行物 を編集、出版していた。これが最初の定期刊行物とも言われる[Bushong2009]。
れぞれ出会うことになったと言える。「共和国」という理想を象徴した建物を建設す るという建国以来の意図に加えて、19世紀に入って以降の経済的な拡張、都市の拡 大、移民の流入、工業化の進展に伴って、公共的な施設の必要性が生じてきた。それ は、「共和国」を支える市民の育成という必要性であった。そして、市民の育成のた めに、学校を普及し、子どもを教育するという方策が採られたわけであるが、その方 策は、単に、学校という場所を用意することにとどまらなかった。教育実践家や教育 行政関係者には、学校での教育活動を支える物理的な環境の「適正な設定」という企 図が生じた。そして、建築家たちは、学校校舎という公共的な建物に「空間構成の企 図」を反映させる機会を見いだしたということである。 たとえば、ブルフィンチ(Bulfinch,Charles1763-1844)は、合衆国生まれで最初の 建築家と言われるが、連邦議事堂やマサチューセッツ州議事堂の設計・建築に携わっ ただけではなかった。ボストンの集合住宅の設計を初めとしたボストンの住宅街及び 港湾部の開発と建築計画に携わるほか、教会、裁判所、刑務所さらにボストン・第3 ラテンスクールやフィリップス・アカデミーの校舎も設計したし、1816年までにボス トンの多くの学校も設計した [ 鈴木1999:281-282]。*7 こうしたブルフィンチの業績に見られるような、公共的施設の建設から住宅の設計、 住宅街の開発、学校校舎の設計にまで及ぶ幅広いジャンルにわたって仕事を行った点 に,建築家たちが、不確かな地位からその地位を確立する途上で、「学校」という建 物に関わっていく事情を見てとることが出来る。 独立期から1820年代までの建アーキテクチヤー築が、公共施設の建築に、公共秩序と公共道徳を具現 化する環境作りを目指していたのに対して、1830年代以降、さらに社会の改善に貢献 するという目的が加わった。社会の改善とは、当時の禁酒運動など、人々のモラルの 向上を訴える形のモラル・リフォームという社会改革の動きであり、そうした動きへ の「建築」による関与である。 つまり、彼らは、「人間に作用する空間構成の企て」(=建アーキテクチヤー築)を行う建築家として、 *7 彼は、ジェファソン(Jefferson,Thomas1743-1826)の勧めで訪欧し、建築への目を開 かれた。ちなみに、ジェファソンは,若い頃、建築書に没頭し、ヴァージニア大学の計 画に古代ローマ風の様式を取り入れている。
「人格やモラルの形成」を意図する教育関係者の「教育空間の整序」という企てとその 必要性に関わることになったということである。*8
3.建築家サミュエル・スローンと学校建築
そこで、ここでは、建築家の校舎の建築・設計との関わりについて、実例に則して 見ていく。取り上げる建築家は、サミュエル・スローン(Sloan,Samuel1815-84)で ある。その理由は、彼の構想した学校建築、特にそのフロア・プランはフィラデル フィア・プランと呼ばれ、評判となったが、彼のプランに関するエピソードは、学校 建築における建築家と、教育実践家や教育行政家との関係の現実的な在りようを示す と考えられるからである。しかも、それはバーナードの『学校建築』の影響力を暗に 示しているとも言えるであろう。 スローンは、ペンシルベニア州チェスター郡に生まれ育ち、1830年に大工兼家具 職人に弟子入りをした。1833年頃までにフィラデルフィアに移り、大工兼建築業 (builder)として働いた。仕事の経験を積むにつれて、1850年までには建築家として 自認するようになったと考えられる。 やがて、彼は、フィラデルフィアに拠点を置く建築家として全国的な名声を得るよ うになり、多くの住宅、教会、商業ビル、学校、病院の設計をするとともに、パター ン・ ブ ッ ク(TheModelArchitect(1852-1853)、CityandSuburbanArchitecture (1857-1858))を出版した。また、アメリカ合衆国において、建築関係で最初の定期 刊行物とされる『建築評論およびアメリカ建築業ジャーナル』(AmericanReview andAmericanBuilder'sJournal(1868-1870))の編集、出版を行った。彼のフィラデ ルフィア・プランによる学校は他の州でも多く作られた [Bushong2009,Moss2007, Splain2015]。彼の主な経歴は、以上のようにまとめられる。 ペンシルベニアに限定しても、スローンは建築家として、学校や精神病院にも手腕 を発揮した。特に、病院建築は、他の病院のモデルともなったが、学校についても *8 同時に、「人を産み育てる場」としての家庭生活や家庭教育が営まれる住宅の建築に も、建築家たちは関わっていった。この点については、拙稿参照のこと [ 鈴木1999: 295-301]。1851年から1859年の間に建てれらたフィラデルフィアのほとんどの公立学校は、彼の 事務所が引き受けたし、スローンはフィラデルフィアの師範学校の設計にも関わった [Cooledge,1964:153,Cooledge,Jr.1986:45,47,Cutler1989:2-3,Bushung2009,Moss 2017,Shelby2015]。また、住宅家屋のデザインを1855年から1863年まで有名な女性 雑誌(Godey'sLady'sBook)に発表した。 フィラデルフィア・プランが考案されるきっかけは、1851年にフィラデルフィア市 がスローンに設計依頼をしたことにあった。彼の仕事は、バーナードら教育実践家や 教育行政家の、教室アレンジメント論に始まる「学校建築」の議論や活動とは、関わ りがなかったと考えられる。彼は、あらゆる形態のタウン・ハウスや商店、ロフトな ども手がけた。それらは都市の建物だけに、敷地や予算などに制限を持っていた。と くに人口の多い都会に共通の制限は、敷地であり、狭い敷地は採光、換気、人の動線、 火災時の避難などに問題を抱えていた。そして、これらの問題は、都市の学校校舎に とっても同様に解決すべき問題であった。*9 スローンがこの仕事を始める少し前、1850年秋ごろ、フィラデルフィアでは、学校 の過剰な生徒収容が問題となり、公立学校校舎の安全な標準的デザインが必要とさ れていた。折しも、ある学校で悲惨な火事が起こった(同年7月8日)。混み合った 教室で火災が発生し、校舎のひどさが惨事を招いたと、なおさら論議を呼んだ。ちょ うどこの火事の一週間前、市の公立学校監察官委員会(theBoardoftheContollersf thePublicSchoolsfortheCityandCountyofPhiladelphia)の長となったウォートン (Wharton,GeoregeM.)は、市のデザインと建設の基準を検討する委員会を作って いた。この委員会によって、スローンは学校の建築に関わることになった。*10 ウォートンは、以前から校舎の問題に関心があり、公教育支持者国民会議(The *9 スローンは、間仕切りを使うことで都会の住居の問題点を解消しようとした。それは 壁に収納可能な引き戸であったり、レールの上を滑って動く仕切りであったりした。そ して、この仕切りにはできるだけガラスをはめ込むことにしていた。こうした方策を学 校校舎にも応用したのが後述するフィラデルフィア・プランであった。 *10 スローンは、1851年から52年にかけて作成したデザインとフロア・プランを『モデル・ アーキテクト』Ⅰ、『同』Ⅱとして出版した。この中に、デザイン17と43として学校校舎 のデザインとフロア・プランも掲げているが、その説明にあたって、1851年の8月26日 にフィラデルフィアで起こった校舎天井の崩落事故と、11月20日ニューヨークの学校で パニックになった子どもたちが押しかけたために強度不足の階段が崩れた事故について 触れている [Sloan1852a:69-76,1852b:49]。
NationalConventionoftheFriendsofPublicEducation)のメンバーであった。この 会議は、公立学校制度の拡大に伴う混乱と、校舎や設備についての全国的な標準がな いことに警鐘を鳴らす教師たちが集まり、1849年10月17日から19日にかけてフィラデ ルフィアで第1回大会を開いた。31の州から委員の派遣があったとされるが、202人 の委員のうち97人はフィラデルフィアからの出席者であり、フィラデルフィアはこの 問題に関する中心地となっていった。その第2回大会も翌年8月28日から30日にかけ てフィラデルフィアで開催され、バーナードの「学校建築」に関する報告が提出され た[Cooledge1964:151, 鈴木1999:279]。この報告によって彼の「学校建築」は学校 関係者に知られるところとなった。 スローンも、バーナードの報告を目にしたであろうが、彼のプランは、バーナード の掲げる例とは異なっていた。とはいえ、バーナードの提示する校舎に必要な条件、 採光や換気など、は満たしており、1851年、さきの悲惨な火事で焼けた学校の再建に 採用された。また、同年の第3回公教育支持者国民会議(オハイオ州クリーブランド、 8月19日~22日)で、ウォートンが彼のプランについて報告し、この報告によって、 スローンのプランは、広く知られるようになった[Cooledge1864:152,Cooledge,Jr. 1986:27-31]。
4.スローンのフィラデルフィア・プラン
フィラデルフィア・プランの最大の特徴は、州の学校校舎建築仕様となった『ペン シルベニア州学校建築』(PennsylvaniaSchoolArchitecture:AManualofDirections andPlansforGrading,Locating,Constructing,Heating,Ventilating,andFurnishing CommonSchoolHouses)所収の、生徒を多数収容する都市の学校のプラン[図1]に 見ることができる。それは、① 一つの階の大きなフロアを区切った四つの教室から なる基本単位(modularunit)を組み合わせて作ることと、② その区切りが、ガラ ス板のはまった格子状のサッシを羽目板状に組み合わせた、スライド式あるいは折 りたたみ式の移動可能な間仕切りを使用して、行われること、であった。*11四つの *11 この間仕切りは、梁からつり下げられるもので、他のプランの仕様によると、床上5 フィートから2フィートの間を遮蔽することになっていた[Burrowes1855:97-101]。 また、ガラス窓状の間仕切りを使うとは限っておらず、何枚かの板で床から3フィー ト以上を遮蔽する間仕切りを提案したプランもあった[Burrowes1855:82-85]。教室は、互いに角を接するフロアの中央の、ガラス戸のはまったベスティビュール (vestibule 連廊)で行き来できるようになっていた。 この方式を使えば、学校校舎は、敷地の広さや建築費用に合わせて基本単位を水平 方向に組み合わせたり、階を重ねたりして、建設することが出来た。これは、それぞ れの建物に応じて新たに固有の細部を作る必要がないので、何校も繰り返して建てや すく、費用を抑える事ができた。 また、間仕切りによって、授業や集会などの必要に応じて教室の大きさを変えるこ とができ、周囲からの独立性を保つこともできた[Burrowes1855:79-80]。そのうえ、 ベスティビュールとの併用で、内廊下を作らなくて済み、内部の動線を減少させるこ とができる。つまり、それだけ教室を広く取れるということであった。これらの点は、 敷地面積や経費の点で制限が厳しかった、当時の学校校舎建設において、大いに利点 となった。 さらに、板ガラスの入った間仕切りの使用は、暖房や採光、換気に関する問題の解 決を容易にした。加えて、このような教室をそれぞれ出入り口や階段にすぐつながる ようにデザインすることで、火災に対する安全性を高めることができた。 図1 4教室タイプのサッシ・ドアとベスティビュール[Burrowes 1855: 104]
そのほか、ベスティビュールについても、4教室より多い教室に応用した例[図 2]や、スイング・ドアにする例[図3]も多く提案されている[Burrowes1855:29-89,Sloan1852b:48-49]。ちなみに、スローンは、2教室の場合、4教室の基本単位
図2 パーティションとガラス戸のはまったベスティビュール[Burrowes 1855: 131]
を2分の一にしたものを提案した。その場合、[図4]のように、間仕切りの黒板近 くの部分に通路を設けた例も示した。この場合、この通路にドアを付けることになっ ていた[Burrowes1855:70,80,83,102]。*12 図4 間仕切りに通路を設けた2教室の例[Burrowes 1855: 102] *12 もちろん、スローンは全ての学校校舎について新奇なプランを提案したわけではな かった。田舎の、一人の教師による一教室で事足りる学校では、当時、一般的な形式と 変わらないものを提案した。また、全ての教室の間を間仕切りで仕切る形式を提案した わけでもなかった。2教室の学校校舎でも石壁で仕切るプランも一例は提案した(ただ し、このデザインの場合、主教室とそれに隣接する副教室の間に間仕切りを使用した) [Burrowes1855:97-101]。しかし、この例以外は、2教室の学校校舎には間仕切り使う 形式を提案した[Burrowes1855:29-104]。 このように、いずれの形式であれ、ベスティビュールを使用することがもたらす “学校管理”(school-keeping)上の利点を持っていた。その利点とは、このベスティ ビュールの部分に立つことによって、一つの階の全教室を見渡すことができる点で あった。この点は、『ペンシルベニア州学校建築』においても、言及されたし、この 特徴は「ほぼフィラデルフィア特有」のものであると記されている[Burrowes1855: 55-56,79-80,103-104,130-131]。
また、バーナード編集の『アメリカ教育雑誌』(AmericanJournalofEducation以 下、A.J.E. と略す)においても、主教師(Principal)が一つのフロアの全生徒と助教師 (assistants)見渡すことができることと、主教師が生徒全体に話したいときには、い くつかの分教室(apartment)を一つの教室にして使えることが、その特長として挙 げられている[A.J.E.1863:826]。
5.建築家と教育行政家
ここまで、述べてきたようにフィラデルフィアに拠点を置き、次第に建築家として の評価を得ていったスローンは、学校校舎の建築デザインに関わるようになり、ペン シルベニア州の校舎建築仕様書となった『ペンシルベニア州学校建築』に多くプラン を提案した。また、フィラデルフィア・プランと呼ばれた、そのユニークなデザイン による校舎は、実際に何校も建てられた。 しかし、奇妙なことにこの建築仕様書にはスローンの名前やスローンの事務所 (Messrs.Sloan&Stewart)の名は見当たらない。同書の第3章、第4章、第5章に 収められた、校舎のデザインとプランや仕様のほとんどは、間仕切りを使ったスロー ンのものである。既存の学校で、他の建築家の手になる数例については、通例、建築 家の名前が記されているが、彼の名前は発見できない。 それは、この『ペンシルベニア州学校建築』という建築仕様書の出版に至る経緯が 関係していると考えられる。1854年当時の州教育長ブラック(Black,C.A.)の依頼を 受けて『ペンシルベニア州学校建築』を編集したのは、バロウズ(Burrowes,Thomas Henry1805-1871)であった。さらに、ブラックは、編集だけでなく、教室アレンジ メントや調度、備品、校庭などについての内容を扱う章を含めて、本文の執筆と編 集・出版までをバロウズに任せた。彼は、「私より学校建築の問題を熟知している人 の助言と助力を求める」旨、バロウズに書簡を送っている[Burrowes1855:vii]。 バロウズは、1835年に州の州務長官(secretary)となり、職権により州教育長を 1838年まで兼ねていた人物である。1834年制定のコモンスクール法のもと、法の実現 に中心的役割を果たしたことで、公立学校制度成立の立役者、功労者と目されていた。 ちなみに、バロウズは再び、州教育長(1860-1863)になっている。 そして、州教育長ブラックは、学校校舎のデザインや教室のプランについて、当時評判のスローンの事務所に委嘱した。これは、自然なのことのように思われるが、実 は、スローンとバロウズの関係は必ずしも良好ではなかったと考えられる。というの は、バロウズはバーナードの支持者であり、1853年に校舎建築の標準化のためにバー ナードの『学校建築』の導入を図ったが、その立法化に失敗していたからであった。 結局、紆余曲折はあったが、その翌年制定のコモンスクール法により、学校校舎の 設計者の任命権を得た州教育長が先に設計者を選定し、その後にバロウズに本文執筆、 編集、出版までの作業を割り当てた。バロウズにすれば、スローンへの依頼は、「当 時存在する、他のものより卓越した、価値ある業績とは全く異なるプランの採用」を 意味した[A.J.E.1856:567,Cooledge,Jr.1986:48-49]。少なくとも、バロウズにとって この仕事は心楽しいものではなかったと考えられる。 実際、バロウズは、スローンのプランの特長である間仕切りの効用について、数 例でごくさりげなく触れただけであった[Burrowes1855:55,79-80,102-104,130-31]。 そのうえ、いくつかの例では、そのプランの欠点を挙げたり、反対意見を述べたり した[Burrowes1855:83,104,112,131]。そして、スローンの案と自分の意見とに齟 齬がある理由を、第5章(“ConstructionofCitySchoolHouses”)の末尾の「注釈」 (“ExplanatoryRemarks”)に付記した。彼は、建築家のプランと「異なる調度のアレ ンジメントが提案されたことの説明については」、「編者のみが答え得る」として、以 下のように述べた。 「[建築家の仕事である 筆者註]これらの図とプランは、しかるべき州当局 によって既に選定されており、編者は自分の見解に合うように変えることは遠 慮した。しかし、許されると考えられる二・三の提案をしたこと、そして正当 と考えられる所見を追加したことに満足している」[Burrowes1855:158]。*13 さらに、スローンの伝記を書いたクーリッジは、スローンが新しい州教育長カー ティン(Curtin,AndrewGregg1817-1894)に好かれていなかったため、スローンを *13 バロウズは、とくに希望して州教育長と交換した書簡を同書の冒頭に掲載した。そこ には、こうした両者の見解の違いに対して、自らの立場や見解を正当化する狙いがあっ たとも考えられる。つまり、学校建築をよく知る人物4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 に依頼したいと州教育長ブラック から依頼されたことを明らかにしておくためである。
見込んだ州教育長ブラックが交代するまで、バロウズが出版を遅らせたとの見解を示 している[Cooledge,Jr.1986:49-50]。 そのうえ、バロウズだけではなく、バーナードもスローンのプランに対してでき るだけ言及を避けたという。クーリッジは、バーナードが学校建築における地位を 脅かされるのを恐れたためにスローンをおざなりに扱ったとしている[Cooledge,Jr. 1986:48,125]。また、スローンはバーナードの信奉者からも批判され続けたという [Cooledge,Jr.1986:29,47]。 実際、『アメリカ教育雑誌』において、ペンシルベニアの公立学校プランを扱った 記事(“SchoolArchitecture:PlansofPublicSchoolHousesinPennsylvania”)が掲載 され、その中に紹介された6校のうち5校はスローンの手になるものであったが、彼 の名はそのうちの1校に関して1度しか出されていない[A.J.E.1863:818-836]。*14 では、以上述べたような教育行政家と建築家の間にあった、教室プランに関する見 解の「ズレ」は何によって生じたのであろうか。それは、個人的な感情によるものだ けではなかったと考えられる。建築家の「空間構成の企て」は、空間を構築物で構成 することによる人間精神への影響力を行使することであった。その影響力について は、教育実践家や教育行政家などの教育関係者による学校建築関係の文書にも触れら れていたし、一定の期待感もあったと思われる[鈴木1999:280-286]。しかし、彼ら の関心は詰まるところ、いかに授業を行い得るか、当時の表現で言えば、“学校維持” (school-keeping)にあり、そのために教育空間をいかに整序するかが重要課題であっ た。 つまり、教育関係者からすれば「教育空間の整序」に「空間構成の企て」を活用する 所に、興味・関心と利得があったのである。「学スクール・アーキテクチヤー校建築」の分野は、建築家と教育関 係が出会ったところに成立したのであるが、同時に、「教育空間の整序」と「空間構成 *14 これに対してスローンも“名前隠し”をしていた。彼は、『モデル・アーキテクチャー』 Ⅰにおいて校舎のデザインとフロア・プランを提示するに先立って、学校校舎の悲惨 さを訴える手段の一つとして、教育行政家の報告書を引用した。その引用とは、マサ チューセッツ州教育長マン(Mann,Horace1796-1859)の1846年の報告と、「コネティ カット州初代教育長」の1838-39年の年報からのものであったが、「公立学校の父」と言わ れるマンの名前は出しながら、同じく公立学校普及に尽力した初代教育長バーナードの 名前は出していない[Sloan1852a:79]。
の企て」の間にある、意図や狙いのズレが埋められたわけでもなかったということで ある。 当時、教育実践を支える精緻な教育哲学や教育方法の理論が、まだ発達している 時期ではなかった。柔軟に教室の大きさを変えられるスローンの間仕切りとモジュ ラー・システムを生かすだけの理論も方法もなかった。スローンが敷地の制限や費用 の制限から考え出したプランも、採光や換気等の利点を意識したていたとはいえ、当 時の教育実践家の“学校維持”方法をどれだけ考慮したものであったか疑問である。 バーナードの『学校建築』やバロウズ編集の『ペンシルベニア州学校建築』には、机 の配置などに加えて、机や椅子の形や大きさから調度や備品に至るまで事細かに記 されている。こうした記述は、実際の教室で行われる実践を想定しているからである。 スローンのプランへの批判の原因として、それまでの授業方法を採ろうとする当時の 教師たちに、スローンのプランが歓迎されなかったことが考えられる[Cooledge,Jr. 1986:31]。また、学校には、講堂のような、他の教室とは違う、固定的な広い部屋 が必要だと考えられたことも原因の一つだとも言われる[Culter, Ⅲ1989:26]。 教育実践を支える教育哲学や教育方法の理論が精緻化されていき、それらを踏まえ て校舎が建築されるようになるのは、20世紀に入ってからのことであった。そのよう な校舎は、進歩主義教育の理論に基づいて建てられたクロー・アイランド・スクール (CrowIslandSchool)の、L型教室からなる校舎の出現(1940-1941年設立)まで待た なければならない。 文献一覧 奥出直人1992『アメリカンホームの文化史』住まいの図書館出版局 鈴木清稔1999「学校建築の誕生――空間構成の企てと教育空間の整序」 田中智志、北野秋 男、鈴木清稔『ペダゴジーの誕生―アメリカにおける教育の言説とテクノロジー』多賀出 版 277-309 関川勝一、新川亮馬、馬渡龍2001「『学校通論』(原著SchoolEconomy)が明治初期の「学校 建築法」に与えた影響に関する考察」『日本建築学会計画系論文集』527:137-142 田中智志1997「教育する建築空間の誕生」『駒澤大学文学部紀要』55:1-28 田中智志1999「教育する空間の誕生――デミウルゴスの衰微」 田中智志、北野秋男、鈴木 清稔『ペダゴジーの誕生―アメリカにおける教育の言説とテクノロジー』多賀出版 221-248
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メガスポーツイベントのマネジメントに関する研究
―2018平昌冬季オリンピック競技場の活用を中心に―
朴 永 炅
要 旨 本研究の目的は、2018平昌冬季オリンピック競技場の事後活用計画と歴代の冬季オリンピック 競技場の活用例を分析することによって、オリンピック終了後の競技場活用を提示することであ る。本研究では文献調査を行い、平昌冬季オリンピック組織委員会、江陵市冬季オリンピック支 援団などが発行した報告書、歴代の冬季オリンピック競技場活用の事例論文を詳細に検討し、そ の文献の内容分析を行った。 主な研究結果として、まず初めに、過去の冬季オリンピック開催国の成功事例をもとに、 4 点 提言した。第 1 点目は、2018平昌冬季オリンピックのレガシーとして競技場の施設をできる限り 維持・活用できる案が必要である。第2点目は、冬季スポーツイベントの継続誘致及び開催のた めに冬季アジア大会や冬季ユニバーシアード大会、国際冬季スポーツ大会を平昌で着実に開催 する。第 3 点目は、平昌冬季オリンピック競技場の施設をスポーツツーリズムと連携しながらス ポーツ産業の具体的な育成計画を検討すべきである。第 4 点目は、2018平昌冬季オリンピック競 技場の施設は、「競氷」(アイスダービー)のような国策事業や施設の活用が最大化され、これら の国策事業を通じて収益も捻出していく必要がある。 キーワード メガスポーツイベント、2018平昌冬季オリンピック、マネジメント、競技場活用 目 次 1 .はじめに 2 .研究方法 3 .結果 3 - 1 .冬季オリンピック開催国の競技場事後活用事例 3 - 2 .2018平昌冬季オリンピック競技場の活用計画 3 - 2 - 1 .2018平昌冬季オリンピック競技場活用計画と方策3 - 2 - 2 .ニューホライズンコンセプトの実践を通じた競技場活用 3 - 2 - 3 .冬季オリンピックイベントの継続誘致と開催推進 3 - 2 - 4 .2018平昌冬季オリンピック施設やスポーツツーリズムとの連携開発推進 3 - 2 - 5 .2018平昌冬季オリンピック施設の国策事業化を通じた施設利用 4 .論議及び考察 5 .結論 6 .参考文献
1 .はじめに
2018年 2 月、江原道平昌郡及び江陵市などで平昌冬季オリンピックとパラリンピッ クが開催される。2011年 7 月 1 日、南アフリカ共和国のダーバンで開かれた第123回 IOC 総会において平昌が2018年冬季オリンピック誘致権を得た(江原道、2012)。人 口 4 万 5 千人の小さい町である平昌の10年以上の努力がついに実を結んだ。これで 韓国は日本に次いでアジアで二番目に冬季オリンピックを開催する国となった。ま た、夏季・冬季オリンピック、FIFA ワールドカップ、世界陸上選手権大会を開催す ることになってメガスポーツイベント達成の象徴として言われている「スポーツグラ ンドスラム」を世界で6番目に達成し、スポーツ先進国の位相が与えられた(Byon et al.、2011)。 2018平昌冬季オリンピックは、「ニューホライズン・New Horizons」というビジョ ンを提示し、「アジアが、可能性の大きい新たな舞台として、世界の若い世代が新た な地平を開く場になり、韓国の平昌郡及び江原道が持続可能な遺産を残す」という目 標を掲げている(平昌冬季オリンピック組織委員会、2016)。このように、「持続可能 な遺産」という用語を明示し、オリンピック競技場の施設を長期的な遺産として残す という意志を明らかにした。これは IOC も推奨している内容であり、オリンピック 開催誘致が成功するかどうかを決める重要な争点となった(Byon et al.、2011)。 2018平昌冬季オリンピックの開催が決定するまで、多くの機関や団体が冬季オリン ピック誘致に伴う経済効果について予測してきた。ソウル大学のスポーツ産業研究セ ンター(2005)は、平昌オリンピック開催による経済的波及効果は11兆516億円に上るとし、韓国産業研究院(2008)は2兆497億円、現代経済研究院(2011)は6,900億円の 経済的波及効果があるとそれぞれ分析している。今までの歴代冬季オリンピックの誘 致過程をみてもオリンピック招致に伴う経済的波及効果の見通しは概して肯定的だっ たことから、大会運営に必要な競技場及び様々な施設が建設されることなどにより、 誘致国のブランドイメージの向上や雇用創出など経済的波及効果が高く期待された。 しかし、最終的に開催が決定した2011年以降、これ以上の経済的波及効果に関する予 測は公表されていない。(Byon、2012)。 一方で、過去に冬季オリンピックを開催したいくつかの国と地域において、競技場 を建設する際に支出された地方政府及び中央政府の財政負担が、冬季オリンピックの 後、長い間政府の発展を阻害し、施設の事後活用も実質的には行われず、期待した効 果を示さないという問題も浮上している。冬季オリンピックがもたらす一時的、短期 的な景気浮揚と社会基盤施設の拡充によりある程度の成果は見られるが、その他の 経済的効果は非常に限定的で、財政的な負担をもたらしたという指摘もある(Yoon、 2011)。このように実際多くの資金をかけて投資した大会の施設が、財政的な負担か ら悩みの種になってしまうケースが数多く存在している。 2018平昌冬季オリンピックも競技場や支援施設、インフラ構築に1,840億円、交通 網の拡充に9,200億円、合計 1 兆円を超える国費と地方費がかかる予定である(江原 道、2014)。実際に大会が近づくにつれ、さらに多くの財源がかかるものと見られる。 冬季オリンピック施設が歴史的な象徴として残されるために、IOC は競技場の選定 及び建設時に守るべき様々な規定を提示しているが、これは施設の効率性を優先す るための規定であり、施設の事後活用についての解決案ではない。これらの規定の 下で平昌冬季オリンピック誘致委員会はオリンピック競技施設や背後施設の事後活 用案を IOC に提出したが、「これらの方策は、専門家や研究者が考察した結果ではな く、短期的な開催誘致に焦点が合わせられた性格が濃いものである」という指摘もあ る(Lee、2009)。したがって地方政府や地域住民に降りかかる負担を軽減させるため にも、冬季オリンピック施設の事後活用に対する論議が急がれる。 しかし、文化的なアプローチを通じて、オリンピック終了後競技場施設が十分活用 できる案は確かに存在し、現に競技施設の事後活用がうまく行われている例もいくつ もある。そこで本研究では、歴代の冬季オリンピック競技場の活用例を分析すること
によって、2018平昌冬季オリンピック終了後の競技場活用を提示することを目的とし た。
2 .研究方法
本研究は文献調査を行った。 最初に、歴代の冬季オリンピック競技場活用の事例論文を詳細に検討し、その文献 の内容分析を行った。歴代の冬季オリンピック競技場活用の事例としては、1980年ノ ルウェーのリレハンメル、1988年アメリカのソルトレーク、1996年イタリアのトリノ、 2000年カナダバンクーバーの 4 つの冬季オリンピックを選定し、現状とそこから見え る課題について整理した。 次に、平昌オリンピックの競技場の活用計画について検討した。具体的には、平昌 冬季オリンピック組織委員会、江陵市冬季オリンピック支援団などが発行した報告書 を用いて、活用計画の内容、>>>>について整理し、歴代の開催国の事例と比較を 行った。 最後に、以上の分析を通して見えてきた2018平昌オリンピック競技場の事後活用に ついて、提言を行った。3 .結果
3 − 1 .冬季オリンピック開催国の競技場事後活用事例 冬季オリンピック開催国の成功事例は、その方策に注目すると 4 つにまとめられる とされている(Park et al.、2014)。表4は、その冬季オリンピック種目別競技場事後 活用事例をまとめたものである。 一つ目は、シーズン期/非シーズン期で活用方法を変えるという方策であり、その 代表例として1994年に開催されたリレハンメル冬季オリンピックが挙げられる。リレ ハンメルは、人口 2 万 7 千人に過ぎないが、管理コストの最小化、施設の再活用など で競技場をうまく活用しており、人口規模などを考慮すると韓国がベンチマークする には良いモデルである。具体的には、スピードスケート競技が行われたハーマルオリ ンピックホールは、シーズン中は氷上競技場として使用され、非シーズン期には様々 なスポーツ大会やコンサートホールとして利用されている。フィギュアとショートト表 4 .冬季オリンピック種目別競技場事後活用事例 施設 (17回、ノルウェー)リレハンメル (19回、アメリカ)ソルトレーク (21回、イタリア)トリノ (22回、カナダ)バンクーバー スピードスケート場 氷 上 競 技 場、 ス ポーツ 大 会 /コン サートホール スピードスケート代 表チームの本部、室 内サッカー/アメリ カンフットボール場 展示場、室内陸上、 多目的競技場 (アイスリンク、コー多目的スポーツ施設 ト、体育館、陸上ト ラック) フィギュア/ ショートトラック競技場 アイスホッケー場、展 示 場 /イベ ント ホール 国 際 大 会、 プロバ スケットボール及び サッカー チ ームの ホームスタジアム、 コンサートホール 氷 上競技 場、展 示 場、社交パーティー、 アイスガラショー、 キッズ施設 バンクーバージャイ アンツチームアイス ホッケー専用球場 アイスホッケー競技場 多目的スポーツ 競技場 アイスホッケーチーム及びフィギュアス ケートクラブのホー ム スタジ アム、 ス ケ ート、 室 内 サ ッ カー 展 示 場、 多目的ス ポーツ/コンサート /展 示施 設、臨時 アイスリンク バンクーバーカナッ クス専用球場 カーリング ― ス ケ ート、 アイス ホッケー、 カーリン グ、 フィギュア/ス ケート競技場 ス ケ ートリ ン ク、 プール、ジム、陸上 トラック、サッカー 場 多 目 的 施 設( ホ ッ ケー、リンク、カー リング 競 技 場、 体 育館、図書館) スキージャンプ/ ノルディック競技場 ノルウェー代表チームのトレーニング場、 冬・夏季訓練場 ボブスレー/スケル トン、 リュージュ / トレーニング施設、 多目的施設、 博物館など 種目競技場 公共施設 ボブスレー/ リュージュ競技場 ボブスレー/リュージュ競 技 場、 種目 体験場 種目競技場 競技場、 多目的施設 クロスカントリー/ バイアスロン競技場 ノルウェーバイアスロン代表パワーセン ター、 自 転 車/ 陸 上 /乗 馬などの 体 験場 クロスカントリー/ バイアスロントレー ニング施設、多目的 スポーツ施設(ゴル フ、マウンテンバイ ク、スキーなど) ― 公共施設 江陵市冬季オリンピック支援団(2012)を基に筆者作成
ラック競技が開かれたハーマルオリンピックアンフィシアターは、シーズン中にはア イスホッケー場として使用され、非シーズン期にはイベント会場や展示場として使用 されている。 開・閉会式が開かれたスキージャンプとノルディック競技場は、ノルウェー代表の パワーセンターと国内外の冬・夏季スキージャンプ場として利用されている。アイス ホッケー場で使用されたハコンホールは、サッカー、バスケットボールなど15種目の スポーツ競技施設として使用しており、バイアスロン競技場はノルウェーバイアスロ ン代表パワーセンターと自転車トレーニング、陸上、乗馬など、国内外のスポーツイ ベント会場として使用されている。ボブスレーとリュージュ競技場は、国内外のス ポーツイベント、国際トレーニングキャンプ、一般人のためのボブスレー体験場とし て使用されている。 以上を整理すると、リレハンメル冬季オリンピック競技場は総じて、シーズン期に は冬季種目の大会や国の代表選手などのトレーニング施設として、オフシーズン期に はイベント会場や展示会場、コンサートホールとして使われていることが明らかに なった。 二つ目として主にスポーツのための施設として活用する方法であり、その代表例と して2002年に開かれたソルトレークシティ冬季オリンピックが挙げられる。ソルト レークシティ冬季オリンピックでは既存の 8 つの競技場が改築され、ユタオリンピッ クオーバル、ユタオリンピックパーク、ソルジャーホローの3会場のみがオリンピッ ク開催決定後に建設された。現在、ディアバレースキーリゾートやトレーニングセ ンター、ユタオリンピックパークは、レクリエーション施設や博物館、ソルジャー ホローはトレーニングセンターやレクリエーション設備、ピックスアリスアレーナは フィギュアスケートクラブのホームスタジアムやスケートレッスン場・室内サッカー 場、プロアイスホッケーチームのホーム球場、デルタセンターは、プロバスケット ボールチーム及びサッカーチームのホームスタジアム・スポーツイベント・コンサー ト会場、ユタオリンピックオーバルは、アメリカスピードスケート代表の本部・屋内 サッカー場・アメリカンフットボール場などで利用されている(Kang、2012)。 以上を整理すると、ソルトレークシティ冬季オリンピックの競技場は、競技種目の 特性に応じて、選手のトレーニングセンター、プロ種目の拠点施設、種目別協会の本
部、リゾート、レクリエーション設備、夏季のサッカー場やスポーツ空間、プロチー ムのホームスタジアム、コンサートやスポーツイベントなどで使われていることが明 らかになった。 三つ目は既存の施設を従来通りに利用するという活用方法であり、その代表例とし て2010年に開催されたトリノ冬季オリンピックが挙げられる。競技場の事後活用と して、スタジオデルトラムポリノは、スキーやノルディック競技場として従来のよう に使用されており、オーバルリンゴトスピードスケート場は展示場、室内陸上競技 場、多目的競技場として使用されている。また、トリノパラベラフィギュアやショー トトラック競技場は、氷上競技場・展示場・社交パーティー場・子供の遊び場として 使用されている(Kang、2012)。パラスポートオリンピコアイスホッケー場は多目的 スポーツ施設・コンサート場・展示施設などで利用されており、トリノエスポッシオ ニアイスホッケー場は展示場、また、セサナパリオルボブスレー・スケルトン・ルー ジュ競技場は、従来のように競技場として使われている。また、トリノオリンピック 開催後、「トリノオリンピックパーク」を設立し、オリンピック競技場を含む文化観 光資源の活用率を最大化し、外国人の投資を積極的に誘致することによって、オリン ピック施設の70%に占める株式を売却できた。 以上を整理すると、トリノ冬季オリンピック競技場は、既存の競技場をそのまま活 用しており、コンサート会場・展示場、多目的スポーツ施設としても活用しているこ とが明らかになった。さらに、トリノオリンピックパークを設立することによって、 観光資源の一拠点として活用するという方法を見出しており、これは非常に興味深い ものである。 四つ目として生涯スポーツの拠点として活用する方法であり、その代表例として 2010年に開催されたバンクーバー冬季オリンピックが挙げられる。スタジアムの事後 活用は、カーリング種目を開催したヒルクラフト・ネットベイリー公園は、ヒルクラ フトバンクーバーオリンピックセンターに改名し、アイスホッケーのリンク、 6 つの カーリング場、 2 つのプールなどが増築され多目的地域レクリエーションセンターと して使用されている。また、アイスホッケーが開かれた UBC 冬季スポーツセンター は、多目的レクリエーションセンターに転換し UBC サンダーバードスポーツセン ターに改名した。スピードスケートが開かれたリッチモンドオーバルは、スポーツ
ウェルネス国際センター(フィットネスセンター、アイスリンク、バスケットボール、 屋内サッカー場など)に変更されウィスラー市は、オリンピック競技場の事後管理の ため運営主体とするウィスラースポーツレガシーを設立し、ウィスラーオリンピック 公園、スライディングセンター及び選手会館を管理している(Kang、2012)。 以上を整理すると、バンクーバーの場合は、大都市であり人口が多いという地域特 性を踏まえて、ほとんどの施設が市民の生涯スポーツ施設に切り替えられ、冬季ス ポーツ、特にアイスホッケーリーグなどの冬季スポーツ種目の施設として十分活用さ れていることが明らかになった。
3 ー 2 .2018平昌冬季オリンピック競技場の活用計画と方策
3 ー 2 ー 1 .2018平昌冬季オリンピック競技場活用計画 2018平昌冬季オリンピック競技場活用計画は現実的で具体的な活用計画が考えられ ていた。平昌冬季オリンピック組織委員会の計画書によると、アルペンシアスライ ディングセンターは、オリンピック開催後は韓国体育大学が引き受け運営することに なっている。韓国体育大学は、所属選手と国内外の選手練習場として使用する予定で あるが(江原道庁、2015)、赤字を免れるのは難しいとみられるため、最終的には政 府と連携を取って運営する案が検討されている。関東大学に建設されるホッケーセン ターと永東大学のアイスアリーナは、教育施設や市民体育施設として活用し、江陵ア イスアリーナは、プールなどの市民体育施設及びアウトレット運営に活用する計画だ が、市郡の人口が少なく、平均所得が少ないため、収益事業の誘致としては厳しい見 方もある。 また、開・閉会式場の事後活用について 平昌冬季オリンピック組織委員会は、 4 万席のうち1万5,000席を改造してからオリンピック記念館を設けるという計画を立て ている(聯合ニュース、2015)が、人口 5 万人程度の平昌にコンサートなどの大型イ ベントを誘致することは非常に危険性があると指摘している。一方、ジョンソンアル パイン競技場、江陵スピードスケート競技場、江陵ホッケーセンターの主・補助競技 場などの 4 つの施設は、具体的な事後管理主体が定められてない状態である(文化体 育観光部、2015)。アルパイン競技場は、国・内外選手練習場、自然体験型レジャー 施設として活用することをジョンソン郡が検討しているが、実業団、運動部チームの誘致や観光客の誘致は容易ではない見通しである。 江陵ホッケーセンターは、オリンピック開催後撤去され、その後原州(ウォン ジュ)へ移転することを前提に工事が進められており、移転後は国内外の冬季訓練場 や大会での活用を検討しているが、具体的な活用方法がなければ撤去する計画である。 スピードスケート競技場は氷上種目代表チームのトレーニング施設として利用する案 が検討されているが、70%以上の選手がソウルや首都圏を中心に活動している点を 考慮すると、適切な管理策がなければ撤去するという案も検討されている(江原道庁、 2015)。 3 ー 2 ー 2 .ニューホライズンコンセプトの実践を通じた競技場活用 韓国は平昌でオリンピックを開催することによって、若い世代や冬季スポーツが遅 れた地域へ冬季オリンピックとパラリンピックを伝達することができ、よって平昌は オリンピック精神がアジアを越え全世界に発信できる新しい場として定着できるとし ている。つまり、日本、中国などのアジア近隣諸国や東南アジア諸国などの若い世代 にオリンピック精神を伝え、冬季スポーツへの関心や経験を提供すると謳っているの である。 平昌冬季オリンピック組織委員会は、冬季スポーツが遅れている東南アジア諸国だ けでなく、不毛な土地が多く、開発が遅れている西南アジア諸国も平昌の大会を通し て冬季スポーツに挑戦できることを願っている。また、平昌冬季オリンピックを契機 に、より多くの年齢層がアジアでの冬季オリンピックに参加し、アジア地域での冬 季スポーツの可能性や夢を持つ機会を提供することを目標にしている(韓国体育学会、 2012)。このため、2018平昌冬季オリンピック競技場の施設は、可能な限り撤去せず、 施設の目的を多少変更させてもオリンピックレガシーを残さなければいけないと発表 している(Park、2014)。 これらのオリンピック競技場の遺産を維持するためには、アジアが冬季スポーツの 発展のメッカとして定着できるような計画が必要である。例えば、オリンピックプラ ザなどの施設をアジア冬季スポーツの殿堂として活用するよう提案している。韓国の 南に位置している、光州国立アジア文化殿堂はアジアの価値と思想に基づいた学際的 な文化研究(アジア文化研究所)、アジア文化芸術と社会の歴史的資源の収集や保存、
アジア文化資源センター、アジア文化の専門的な人材と市民文化教育(アカデミー)、 アジア固有の知識生産と活性化のための文化実践(出版)、文化創造園(創作制作セン ター)を運営している(江陵市冬季オリンピック支援団、2012)。これらの事例をベン チマークして、競技場施設を可能限り保存活用するという観点から、アジア冬季ス ポーツの研究や開発、アジア冬季スポーツの指導者アカデミーに開催、アジア冬季ス ポーツトレーニングセンター及び競技力向上、冬季スポーツに関連する出版やトレー ニングの技術・機器開発など様々な事業を推進する必要がある。 3 ー 2 ー 3 .冬季オリンピックイベントの継続誘致と開催推進 2018平昌冬季オリンピック競技場事後活用は、優先的に競技場の機能を維持するこ とに焦点を合わせなければならない。 江原道や平昌地域が冬季スポーツのメッカに なれば、冬季スポーツの種目はある程度維持できるため、アメリカのように夏季のプ ロスポーツが活性化されている場合は夏季のプロスポーツ競技場への転換も可能であ る。しかし、韓国の現状は、冬季スポーツのメッカでもなく、冬季スポーツのプロ リーグは、活性化されているわけではない状況であり、アメリカのように他のプロス ポーツ施設への活用も容易ではない。したがって、Park(2015)は、韓国に適用でき るのはイタリア・トリノの案が適切だと発表している。これは冬季スポーツ種目も誘 致し、他の施設も多目的全天候スポーツ施設に転換が可能であるからである。 もう一つは、冬季オリンピック施設を持続的に活用するために様々な冬季大会を誘 致することである。最も有力な案としては、まず、冬季アジア競技大会を開催するこ とである。これは、平昌冬季オリンピックのビジョンであるニューホライズンコンセ プトの実践のためにも、必ず実施すべきである。つまり、冬季アジア大会の開催のた めだけではなく、アジア冬季スポーツの基盤が良くない国や地域のための冬季スポー ツサポート(韓国体育学会、2012)を通して冬季アジア大会の量的・質的拡大を目指 すべきである。第二に、冬季ユニバーシアード大会の開催である。ここでもアジア地 域の大学生や大学の選手のサポートとともに大会の開催が必要であろう。第三に、冬 季東アジア大会の開催である。第四に、パラリンピックも開催した経験をもとに冬季 障害者アジア大会の開催なども一緒に検討する必要がある。第五に、ワールドカップ 氷上 / スキー大会やアイスホッケー世界選手権大会などの世界大会を積極的に誘致す