日本とイギリスにおける大都市青年教育開発史の研
究 : 20世紀前半の東京市とロンドン教育当局を中
心に
著者名(日)
関 直規
雑誌名
東洋大学文学部紀要. 教育学科編
号
37
ページ
61-75
発行年
2011
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002452/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja61
日本とイギリスにおける大都市青年教育開発史の研究
一20世紀前半の東京市とロンドン教育当局を中心に一
関
直 規*
本研究は、東京市の「東京市連合青年団」とロンドン教育当局の「ジュニア・メンズ・ インスティテユート」に焦点を当てつつ、大規模な社会変動を経験した20世紀前半の 二つの大都市において、いかなる経緯で青年教育事業が誕生し、どのように発展した のかを論じたものである。 まず、東京市では、1920年、東京市連合青年団が発足する。その第二代団長の後藤 新平は、青年団改革を推進し、大都市に適する組織と教育的アプローチの構想を先導 した。東京市が町会の役割モデルとして、「青年団指導事業」を位置付けたことは、地 域的合意形成に役立ち、「町会分団」の普及をもたらした。大都市青年団の特質は、都 市青年団経営論への着目、都市青年の心理の理解、修養の生活化の三点である。 1925年、ロンドン教育当局のジュニア・メンズ・インスティテユートが開校した。 これは、先行するメンズ・インスティテユートの経験をベースに、ヘッドラムの尽力 によって、実現したものである。カリキュラムで最も高い割合を占めたのが、身体訓 練等であり、これに、木工・家庭大工及び一般教育を加えると、6割を超えた。その実 践は、教育院の関心を寄せるところとなり、全国の成人・青年教育関係者に向けて、 1931年に報告書がまとめられている。 両事業は、学校教育ないしフォーマルな教育の限定性や非日常性を、青年の興味や 生活を軸に再構成することで、従来の不参加青年層の新しい教育機会を開発した点に、 歴史的意義があった、と考えられる。 キーワード1後藤新平/東京市連合青年団/青年教育/ヘッドラム(Headlam, S.)/ジュ ニア・メンズ・インスティテユート はじめに 本研究は、日本とイギリスにおける大都市青年 教育の開発史について、一次資料の発掘に基づき、 実証的に分析したものである。 20世紀前半の大規模な社会変動・人口移動の 中で、日本とイギリスにおける有数の地方教育行 政機関であった東京市とロンドン・カウンティ・ カウンシル(London County Council、以下、 LCC と略称する。)は、ともに地域と生活に根ざす青 年教育事業の開発を試みた。東京市は、「東京市 連合青年団」を結成し、各区の青年団を組織化す ることで、青年たちに修養と団体活動の場を提供 した。また、LCCは、公立学校を地域の資源と して夜間に開放することによって、「ジュニア・ メンズ・インスティテユート」(Junior Men’s Institute)と呼ばれる青年教育機関を新規開校し ている。この研究は、日英の公文書館等が所蔵す る一次資料をベースに、二つの大都市における青 年教育事業の成立と展開を考察することをねらい としている。 本研究を進めるにあたって、日本では入手がで きない一次資料や学術資料を調査収集するため、 イギリスの大英図書館やロンドン・メトロポリタ ン・アーカイブス等を訪問した。また、東京市の 動向については、東京都公文書館並びに東京市政 調査会市政専門図書館、東京都立中央図書館等が 所蔵する公文書や教育雑誌、青年団報等を利用し ている。 本稿の構成は、以下のようである。まず、1で、 *せき なおき 東洋大学文学部教育学科 一61一大都市青年団史研究の動向を論じる。llでは、東 京市連合青年団の設立の経緯と、東京市長・連合 青年団長後藤新平の青年団改革を取り上げる。皿 では、青年団の全市的組織化の実態を整理する。 IVで、大都市青年団の特質を検討する。 さらに、Vは、イギリス青年教育史研究の視点 をふまえ、先行する成人教育機関で、活動方針を 共有することになる「メンズ・インスティテユー ト」(Men’s lnstitute)の概要と、ジュニア・メンズ・ インスティテユートの発足経緯を検討する,vrで は、このインスティティテユートの拡大過程及び カリキュラムの実際を整理し、現場における取り 組みとその意義を考察する。おわりにでは、以上 の叙述を要約し、今後の課題を示す。 1 大都市青年団史研究の動向 本稿の検討対象である東京市連合青年団とは、 「東京市各区青年団相互ノ連絡統一ヲ図リ其進歩 発達ヲ助成スルヲ以テ目的トス」1)もので、1920 年の設立から1941年の「東京市青少年団」への 統合に至る約20年間にわたり、東京市において 青年教育を推進した最も有力な教育団体の一つで あった2}。その第二代団長(在任期間1921年12 月∼1923年4月)として、青年団の基盤構築に 尽力したのが、後藤新平である3}。本研究は、こ れまで研究が遅れてきた東京市の青年団事業に着 目しつつ、東京市連合青年団の展開を実証的に考 察することで、大都市青年団の活動及び論理を解 明していく。 さて、我が国の青年団の歴史的性格について、 宮坂広作は「日本の社会教育は『青年団本位』で あったというほど、社会教育のなかで重要な役わ りを演じたのである」4)と言及している。従来の 先行研究では、日露戦争後の地方改良運動の中で、 農村青年集団が官製団体に転じ、事業団体の性格 を強め、大正期以降、国家主義的な指導が強化さ れる歴史が描かれてきた。他方、大都市に関する 数少ない研究の一つに、上野景三の分析がある。 上野は、六大都市青年団の組織化を概観し、行政 主導性等の性格を抽出した。ただし、大阪市の事 例が中心であり、対象が大商店や大会社の青年徒 弟だった、という結論を他の大都市に普遍化でき るかについては、慎重な検討が求められる5〕。ま た、矢口徹也は、『東京都教育史』の中で、東京 市連合青年団の設立前後から小学校区を単位に、 学校長を団長とする分団が発足した経過を記して いる6}。これは、大阪市とは異なる、東京市青年 団の動向を示唆するものの、現場の実情や経時的 変化の把握が必要であろう。日本の社会教育史で、 青年団が中核にあった点をふまえるならば、大都 市青年団史の研究は、残された大きな課題の一つ なのである。特に、村落的共同体を欠いた東京市 で、後藤が団長に就き、青年団の本格的組織化に 尽力した点は、農村とは異なる青年団の独自性を 追求した試みとして、重要な事例的意義を持って いる、と考えられる。 以上をふまえて、本稿は、東京市連合青年団に 関する一次資料に基づき、東京市青年団の成立と 展開を考察する。戦前東京市の青年団を概観する と、東京府、各区団及び区団内の分団から相対的 に独立した東京市連合青年団が組織体制の整備、 教育活動の開発、連絡調整機能等の極めて肝要な 役割を果たしており、東京市は、この組織を挺子 に、青年教育構想を具体化していった。なお、検 討対象の時期は、東京市連合青年団の存続期間で ある1920年代から1930年代とする。 ll 東京市連合青年団の設立 (1) 東京市連合青年団の発足 1919年7月、田尻稲次郎東京市長は、市内の 小学校長会に、「本市青年団の組織及設置に関し 適切なる方法如何」を諮問した。これが、東京市 連合青年団の出発点であった7〕。渋谷徳三郎東京 市教育課長は、この時の問題状況を次のように説 明している。「市内の小学校を卒業する男子は年々 一万三四千人ある中三千人位は中等の学校に進む が大部分は直に実務に就いて終ふ、そして一度び 学校を離れると之を指導する機関が無く全く野放 しの状態である、斯くては市民として甚だ遺憾な 次第だから青年団を起して之を善導しなければな らぬが自分の考へでは各小学校の同窓会員全部を 青年団員とし校長が団員となり又工場商店等の青 年に対しては区長が団長となり此両者の上に全市 を統一する東京青年団なるものを設けたら宜いか と思ふ」8}。学校卒業後、職業に従事する青年層 の教育機会が欠如しており、学校を拠点とする教 育継続化の視点から、青年団を構想していたこと がわかる。 文部省調査によると、1918年10月の時点で、 市内の青年団数は4、団員数は約七百名であり、 一62一
H本とイギリスにおける大都市青年教育開発史の研究 63 これは大阪市の146団体、約三万人と比較し、大 きく遅れていた91。小学校同窓生に注目すること で、青年団の現実的制度を設計したのである。 1919年2月に発表した設立趣意書は、「今や全国 都鄙到る処に其発達を見るに至つたけれども、我 が東京市は未だ治く其組織を見るの機運に達しな かつたことは、甚だ遺憾と云はざるを得ない」1°1 と遅れを認めた上で、「都市の社会状態は、極め て複雑であるから、修養の未だ全からぬ青年は、 動もすれば誘惑の為に浮華驕奢の幣に流れ、不健 全なる思想に誤られる虞がある。是れ本市の青年 を普く糾合せる修養団体を組織する必要ある所以 である」H,とし、大都市の修養機関の必要性を 強調している。 1920年7月、創立総会を開き、田尻市長を初 代の団長に推薦した。同年10月、発会式が開催 され、東京市連合青年団が誕生する。ところが、 田尻は、翌月、市長を辞任し、団長も退くことに なった。田尻に代わり、同年12月、第二代団長 に就いたのが、後藤新平であった。東京市長でも ある後藤は、1921年に自らが新設した東京市社 会教育課の事務分掌に、「青年団其他修養団体二 関スル事項」12)を組み込みながら、補助金を交 付し、その拡充に努めていくのである13)。 それでは、後藤は青年団をいかなるものと認識 していたのであろうか。まず、後藤は、「先輩と 後輩、上根と下根と相寄り相集つて居る間に互に 切磋琢磨して、月謝なしに、好い事を伝授する処 に青年団の妙味がある」14)と指摘し、「青年団の 空気の中に自然に養はれ、磨き上げられる事にな れば、夫れは独り其義務の発達ばかりではなく、 社会の発達にも貢献することになるのであつて、 之が青年団の任務であり効能である」ISIと論じ ている。寄合所帯の大都市における自治訓練の「手 習場所」として、青年団の教育的意義を見出すの である。さらに、「青年は希望に輝き、生々した 思想を持ち、停滞しきつた現状に嫌らずして、将 来の新らしき建設に向つて突進するものでなくて はならない。東京市の青年は此意気と理想とを持 にあらざれば、東京市の自治を完成せしむること は出来ないのである。東京をして世界の東京たら しむることは出来ないのである」[6‘と述べ、東 京の飛躍に向け、自治心を養成する青年団の役割 を重んじている。後藤は、自治精神の根本義とし た「一、人の御世話にならぬ様に、二、人の御世 話をする様に、三、そして報酬をとらぬ様に」の 三力条を、青年団の「三つの生活方針」]7,として、 団員に訴えていく。東京発展の自治的土台をなす 青年団の教育的機能の向上を図ろうと、後藤は、 発足間もない東京市連合青年団に着日して、その 整備を迅速・着実に進めていくのである。 (2) 後藤新平の青年団改革 東京市連合青年団の設立によって、市内青年団 数は二百、団員数は四万人に達し、大阪市に引け を取らない規模となった181。しかし、後藤は、「其 発達漸ク見ルベキ者アルニ至レリ、サリ乍ラ之ヲ 全体トシテ観ル時ハ外形内容トモ更ニー段ノ改善 充実ヲ要スル」19}と認識し、改革の必要性を痛 感していた。そこで、1921年12月、区団長や分 団長等を集めた協議会を開催し、青年団改革に関 する、「分団組織ノ整理変更及拡張二関スル意見 如何」、「団員ノ修養娯楽及社会的事業二関シ最モ 適切ナル事項及実施方法如何」の二つの課題を附 議するのである。審議の結果、翌年1月、次の通 り、決議している。 第一の課題については、通学区域内に居住する 青年が対象の「小学校本位の分団」は、小学校卒 業から16歳までの「年少部」と、16歳以上の「年 長部」に分け、それぞれ適切な活動を行うこと、 また、団長が奨励する「町内本位の分団」は、町 内に居住する年長青年で組織されるもので、社会 公共的活動の援助・協力に努めるべきこと等が記 されている2⑪)。母体である「学校分団」に限らず、 大都市に相応しい組織体制のあり方を柔軟に模索 していたことがうかがえる。 第二の課題は、教育活動の開発を中心に、⑦知 徳の修養、②体育奨励、③娯楽、④奉仕事業、⑤ 会館の設立の五つのテーマが報告されている。体 育と娯楽について、相撲、剣道、柔道、水泳や、 音楽会等の具体的方法を提示した。また、知徳の 修養は、日常生活に有益な国語や算術等の基礎知 識を重視する「年少部」と、実業・業務及び家庭 における実用知識が中心の「年長部」で重点が異 なる。年長向けの奉仕事業は、強制しないよう注 意を促しつつ、交通整理、町内案内標の設置、町 内風紀・夜警、火災・水難救護等を例示してい る2u。ここでは、青年の年齢段階に配慮しながら、 職業的能力や地域社会の共同性に資する観点か ら、より実践的な教育的アプローチが考案されて 一63一
いることがわかる、 1923年4月、東京市長を辞任した後藤は、団 長も辞めている:t在任期間は約二年だが、発足間 もない東京市連合青年団の団長として、大都市の 青年団に適合する組織体制と教育的アプローチを 開発する先導的な役割を担った.次章では、これ を基盤に、東京市連合青年団がどのように発展し ていくのかについて、引き続き検討しよう.、 皿 東京市青年団の全市的組織化過程 表1は、国内に現存する『東京市連合青年団一 覧』等から、東京市における青年団の組織化過程 をまとめたものである。東京市連合青年団の団員 及び組織は、各区に居住する青年を対象とした区 団を基本とするが、その中に、校長を団長とし、 小学校を中心とする「学校分団」と、町会を拠点 に、地域の有力者や篤志家が指導者となる「町内 分団」があった。また、団員資格は、満25歳以 下の「正団員」と満25歳から30歳までの「特別 団員」に分かれていたが、これは、青年の修養機 関の側面を重視し、年齢拡大傾向を抑制しようと する、連合青年団長の通牒22.に基づくものだっ た。表1の団員数は、両者の数を合算している, まず、分団数の推移を見ると、「学校分団」が 横這いなのに対し、芝区、麻布区、浅草区、本所 区、小石川区等を中心に、「町内分団」数の伸び は顕著である。分団数の増加分は、「町内分団」 によると言ってよい。その結果、1921年と1932 年の全分団に占める構成比が逆転し、「町内分団」 が全体の3分の2を占めようになるのである。 「町内分団」発展は、後藤団長下の「分団組織 ノ整理変更及拡張二関スル意見如何」の協議会決 議における「町内分団」構想の延長線上にあった、 同じ時期に、協議会は、「町本位の分団は土地の 情況に相即するを得て指導宜しきを得ば将来大に 有望なるものあり、就ては此際之が設立に関し市 名誉職町会長町内有力者在郷軍人役員等に対し勧 奨の途を講ぜられたく」23乏呼び掛けた「町内 本位其他の分団設立勧奨」を満場一致で可決して おり、現実の地域の受容過程で、「町内分団」の 発展に期待していたことがうかがえる。また、 1927年の連合青年団長名の「町分団設立勧奨に 関する通牒」は、全市への普及を目指したもので、 「市民生活の実情に応じて青年団体として採るべ き奉仕作業、警備、救急等幾多実際生活より来る 修養化の上に重大なる職能を有するものにして、 学校化的青年団を以て能事終れりとするが如き単 純なものには無之、団員個々の生活能率を増進す る実際的修養は勿論、市民生活のあらゆる福祉を 増進するところに訓練と修養の妙諦を有する」コ4 とより明確に、「町内分団」を評価する立場を表 明した。このように、東京市青年団は、「学校分団」 を母体に出発するが、実態・理念ともに、「町内 分団」に重点化し、定着が図られた。 これを可能にした地域的条件の一つとして、町 会の存在が挙げられよう。特に、東京市が、町会 の役割モデルとして、「町会附属の青年団を監理 し、若し町内所在の青年団に対し、連絡を取り町 会事業に応援を求め或は青年団事業を援助す る」25.という「青年団指導事業」を織り込んだ ことは、「町内分団」を奨励・設置する地域的な 合意の形成に役立った。加えて、連合青年団の関 係者が、市内を巡回し、活動写真を用い、その取 り組みを効果的に宣伝する努力がありコ6‘、新た な試みであった「町内分団」は、短期間で市内各 地に浸透するのである。 次に、団員数を見てみよう。「町内分団」の場合、 地域差はあるものの、合計数自体は、それほど変 わっていない。他方、日本橋区、麻布区、牛込区、 本郷区等で著しいが、「学校分団」は減少している。 「学校分団」の分団数が横這いで、団員数が減っ ているということは、「学校分団」の規模が縮小 していったことを意味する。 東京市連合青年団は、後藤団長時代の1921年 の協議会決議に基づき、年齢段階の異なる「町内 分団」の予備門として、「学校分団」を位置付け る方針を採り続けたcだが、「町内分団」の発展 と対照的に、実際には、規模の縮小とともに、「学 校分団」の衰微や不振が指摘されるようになった一/ この要因として、小学校長の職務の多忙さや経費 負担の大きさ、就職に伴う卒業生の地域離れ等が あげられている27]。ここには、学校から生活の 場への移行という大都市青年団の社会的使命とと もに、その具体化の難しさが示されている. 1932年10月、市に隣1接する郡町村を20区に 編成し、東京市に合併・編入する市域拡張がなさ れた。これに伴い、新市部の各区は、青年団を再 編し、東京市連合青年団に加盟する。表1より、 新市部では、「学校分団」が数パーセントと非常 に限定的であり、分団数・団員数ともに、「町内
日本とイギリスにおける大都市青年教育開発史の研究
表1 東京市青年団の組織化過程(1921年∼1938年)
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区名 項Ll I 種類 1921年10月 19ここ年U日 19こ5年lo月 1927 年 8 1ヨ l l932 年 2 「] 1936年こ司 1938年3月
学校分団 7 7 7 7 7 7 中団故 町内分団 D 0 ︵、 3 5 5 麹町[<: 学校分団 1.4(ユ8 Lこ76 L〔X)5 1,030 り3s 951 」・元i員数 1 ャ1勺分団 ︹︺ o o 98 475 494 …学校分団l l8 17 17 17 17 17 17 うr団数 ‘町内ラ澗 | 6 8 巳 i こo 20 22 袖田1.∼ 1学校分団 3,806 3,958 ユ,838 3268 〕、031 L654 L816 団員数 町.内分団 40 574 467 636 S15 1 667 716 学校分國 16 16 16 16 17 17 17 分団数 町「粉団1 6 8 11 15 17 B 1』 日本矯区 学校分団[ 4,511 ‘ 4,733 2,3こo こ、470 Ls5㊦ 1,49り 1,き〇三 「了頂数 町内分団 3574 4,369 ユ,5ユ4 二.b55 1,(X〕1 45{} 495 1学校分団 13 15 15 13 14 口 分団数 町内分団 コ i6 25 29 31 31 京橋「ぐ 学校分団 3,082 2225 3538 2.30正 ‘ 2.096 1,830 「」1員数 町内分日1 3,76S 371 771 1,269 L204 1.i67 L〔}71 学校分団 21 22 21 21 ユ2 22 22 芝区 分団数 lll」内分団 lI 2ユ 33 37 41 45 47 学佼分団 6,378 4,885 4,742 4,866 2,656 2,716 団員数 陶内分団 7,178 2,355 ユ.638 2552 2244 2,954 3,146 学校分団 9 q 9 lo lo 8 8 分団数 町内分団 o ⑪ 27 29 34 35 33 麻布区
学校分団 4.09i 4,426 2,076 1,932 2,Ol7 LO94 286 団員数 町内分団 o 0 2,625 3,051 2.〔∪4 ].181 ▲,619 学校分団 6 6 6 6 6 6 6 分団数 町内分川 o 0 7 川 に lo lo 赤坂区 学校分「月 3,720 3,470 2,449 L749 1,639 L710 L800 団員数 町内分団 o f︸ 389 52S 435 34フ 359 学校分団 6 6 6 6 6 6 分団数 町内分団 o o ︹︸ |3 17 17 四谷区 学校分嗣 L282 L〔[75 917 L|78 191 llO 団員数 町内分団 1205 o o ︹[ 509 L676 973 学校分団 12 12 B 5 3 2 分団数 町内分団 o 10 13 21 26 25 寸込区 学校分団 3285 810 931 751 589 672 L]1員数 町内分団 3,289 o 558 530 807 LO96 760 学校分団 2 12 12 12 12 12 巳 分団数 町内分団 0 7 19 24 29 35 34 小イ川区 学校分団 3,599 3,781 2,oO9 2,109 L981 641 L6〔賞1 [.月員数 町内分団 0 978 L6ワ 1,850 1」57 1」60 Ll59 学校分団 10 10 m f︸ 0 o 分団数 町内分団 8 16 18 22 二3 22 本郷区 学校分団 719 738 461 n o 0 団員数 町内分団 1,911 L244 2、ll6 L796 L3〔}3 4,845 3,677 学校分団 19 18 賂 18 18 17 け 分団数 町内分団 8 ll 23 30 29 33 33 卜.谷区 学校分団 2,830 3.ひoo 3,171 L424 8(16 564 団員数 町内分団 3,6り9 L633 2211 3,Ol4 1,ア32 ス,131 L898 学校分団 16 17 17 19 18 18 分団数 田丁内タ〉団 三4 17 30 34 40 31 36 浅苧.区 学校う}「・]1 3」03 2,1×0 1589 1,446 L411 6〔U 団員数 町内分団 2」83 2,497 3,196 3,354 2,306 ユ.日フ 3,217 学校分団 27 27 26 26 24 22 22 分団数 町内分団 5 16 〕4 32 36 38 33 イ調区 学校分団 4,638 3,649 3,894 三.7ω 3502 1,731 団員数 町内分団 6,786 3,555 227〔} 2.8〔風 1,792 4,583 L〔〕51 学校分団 16 15 7 5 5 B 14 分団数 町内分団 6 4 コ2 30 27 26 25 深川区 学校分団 2」69 2,353 483 388 615 LO61 1,157 団員数 町内分団 887 584 1,oo1 1328 4,849 1,908 1,776 学校分団 1▲ 1〔ハ 分団数 町内分団 466 斗69 新市部 学校分団 L775 L775 [1員数 町内分団 40,131 38,887 学校分団 194{67〔1(、〕 199「45%) 199〔39%) 181‘33%1 193[18%1 192U8%} 分団数 町内分団 10い33%} ⊇46‘S5%1 310161出} 373、67%〕 854{82%) 854↓82%1 ウ’、「、≡1 「首.訂 合計 305‘100%) 445「100%1 5⑪9110(10む: 554[1(X)%1 1.似711(jo%) L〔砕6!IOO%‘
学校分団 斗9.446け3%i 32.Ol3159%‘ 32.214156%1 25、84い53%) 2L620e4%) 19.ll山24%1 口損数 町内分団 18,16{}「27%‘ 22.403‘41%1 25.367山4%1 22,8%(47%1 67,888け6%} 61.298176%1 合計 67,606・100uむ1 54,416川00%) 57、581川{X)%) 48.73711〔X〕%1 895〔〕8日00%) 80,412(100%) 出典)東京府『青年団及壮丁学力調査』(丈書編纂第1種学事)且921年io月末現在、東京市連合青年団編『東京市連合青年団一覧』1922年11月末 現在:、1925年10月末現在、192フ年8月末現在、193〕年2月末現在、1936年2月末現在、1938年3月末現在 事項なし. 65 よ 筆者が作成.t…は不詳、/は該当
分団」が圧倒的多数を占めていることがわかる。 「町内分団」の団長に、地主や農業従事者が少な くない点から28,、「町内分団」の構成比の高さは、 旧市部と比較し、地縁的な人間関係が相対的に機 能していたことによる、と考えられるだろう, 1918年10月にわずか4団体、団員数七百人に すぎなかった東京市の青年団は、1930年代後半 になると、分団数が千、団員数が八万人にまで成 長した。特に、「町内分団」の普及については、「学 校分団」との有機的接続を欠く面があるものの、 学校と離れることで、市民生活の向上に結びつく 利点が重視されていたことがわかった. IV 大都市青年団の活動と論理の特質 (1)都市青年団経営の論理 このような大都市における青年団の量的拡大 は、実践的課題をもたらすものであった,関係者 は、農村社会とは異なる大都市青年団のあり方を 試行錯誤し、実践を進めた。現場における活動と 論理に見られる特質は、以下の三点にまとめるこ とができる。 第一に、都市青年団経営への着目である。前章 で明らかにしたように、青年団の全市的普及は、 「町内分団」の設立によるところが大きかった。 この新しい組織づくりのために、東京市連合青年 団が発刊したのが、『都市青年団経営上の実際問 題』であった。同書は、青年団の趣旨や綱領、発 団式から役員選定までの手続き、教育活動の種類 及び内容、また、青年団の弊害まで広く解説した ものである。協議会の「団員ノ修養娯楽及社会的 事業二関シ最モ適切ナル事項及実施方法」で審議 した教育的アプローチがモデルとして掲載されて いる。これは、東京市社会教育課の年次報告書で も実施要領として、紹介されている。29ノ他方で、「分 団の事業は其の環境に最もよく適合する様に実施 しなくてはなりませぬ。分団の状況はそれぞれ皆 異つてゐるのでありますから、その施設も自ら一 様に参りませぬ。だからその施設、事業はよく周 囲の環境なり土地の歴史を査察研究し、前にのべ た一般的の施設事項を参照考慮して、実施せられ たい」3°}と注意を促した。本書は、分団単位で 地域的特性を反映する余地を残しつつ、青年団の 標準的な開設と運営の手引きの役割を果したと言 えるだろう。 中里民平(東京市連合青年団理事)は、「過去 における青年団指導の傾向を見るに、何と云つて も、農村青年団に厚く都市のそれに薄かつた事は 争はれぬ事実である、従つて農村青年団の経営に 就ては、至れり尽せりの研究が致され、指導者の 熱意も、此の方面に悉く涯がれ、優良青年団とし 云へば農村青年団に限るかの観があつた」31)と いう課題意識に基づき、都市青年団の経営論を体 系的に議論した。この中で、中里が、「都市青年 団に於いて最も苦心を要すること」として挙げた のは、「団員が幾多の職業に従事しつつあるため、 集会の成績良好ならざる点」32’/である。この対 策として、公休日を利用することや、解散時間を 予め団員に知らせること、年齢別に加えて、職業 別のグループを編成すること等を提言している。 また、「実際家を職業指導方面の指導者とする事 は理論家、専門学校の先生を依頼する以上の効果 あること」3’vと活動の充実に関わる指導者の選 任のポイントを述べている。 都市青年団経営の視点から、青年団の組織体制 の一般的基準や団員の職業的な多様性に配慮した 教育活動の留意点を提示することで、大都市青年 団のあり方を見定めるのである。 (2) 都市青年の心理の理解 第二に、都市的環境がもたらす青年の心理の理 解である。池園哲太郎(東京市社会教育課長兼東 京市連合青年団理事)は、青年団の本質について、 次のように述べている。「青年団とは青年期に於 ける人々の集合体である。所謂青年心理に躍る 人々の集団である。然もそれは極めて自然な情態 に於て発達したもので、青年期において著しく現 はれる本能の動きによるのである」341。ここから、 「青年団の指導者は青年の心理をよく研究して、 青年を理解し、同情する態度を以て指導すること が、何よりも必要なことである」35/と「青年団 指導の要諦」を導き出している。 青年期の社会心理的な把握は、都市と農村の青 年の比較を一つの論点とした。自然から離れた都 市は、刺激と変化が多く、心身が少なからず疲労 しており、内省的思考が難しい。また、社会のこ とは全て人間の力でできる、という人間万能主義 に陥りやすく、その反面、美的な生活が欠如する。 その上、家族みなで働き、一家団築の文化がある 農村とは異なり、個人主義化し、無味乾燥な生活 になりやすい361。こうした悪しき環境にある青
ロ本とイギリスにおける大都市青年教育開発史の研究 67 年を指導することは、容易ではないとしながらも、 池園は、自然に接する旅行・遠足の奨励や、軽挙 盲動を正し、自己の定見を持つための読書・輪読 会を提案する。また、科学万能主義を修正するた めには、人格者の講演会が必要であるとし、家庭 の役割に代わる温かい社交や親睦は、青年の精神 を癒すもので、青年団への参加可能性が高まる、 と指摘している37‘。 このような都市青年の心理の特性に対応して、 分団行事で最適と考えられたのが、「修養懇談会」 である。休日の夜間に団員宅等を会場とし、近況 報告、団員の意見発表・読書及びその指導、趣味・ 余興的催しから成り、団員相互の親睦や啓発をね らいとするもので、現場でも広く普及していた3S)。 都市青年の内面世界を理解することで、大衆的な 孤立や疎外を克服し、地域や社会生活に結びつく 取り組みが奨励されたのである。 (3) 修養の生活化の論理 「今日尚ほ一般の人々の中には、青年団を目し てカーキー色服(1922年制定の標準団服のこと 一筆者注)を着装した若人がラッパを吹き、社会 事業に援助協力するものである位に考へてゐ る」39」と言われたように、青年団に対する周囲 の誤解も少なからずあった。そこで、青年団の存 在意義を示すことが課題となるのである。 奈須千万彦(東京市連合青年団主事)は、学校 や図書館と異なる青年団の独自性を、「地域に依 る普遍的な団体である」、「任意自発の団体であ る」、「実行の団体である」という三点に要約し、 次のように述べている。「自己の与へられたる業 務を持つ青年団員は、其の訓練体験を自己の生活 の中に織込み日常業務の中に組入れて、互に実行 し生活化してゆく、即ち修養を実際化してゆく所 に真の青年団生活はなければならない」4°)。奈須 のいう修養の生活化は、青年の将来だけでなく、 都市の原動力になっている現在を重視するもの で、日常を軽視する傾向を批判的に捉えた論理で あった。「青年の現在生活を見落としてはならな い、現在市民生活の第一線に立つものの最も多く は、彼ら青年ではないか。朝まだき省線に市電に、 寿司詰めになりながら、西に東に或は南に北に、 そそくさと群れ行く若者達を、工場にて逞ましき 腕を、機械のリズムに合わせながら、菜葉服の下 から、力強い肉隆の美を誇つてゐるのは、悉く我 67 等の青年ではないか、店頭に眼まぐるしく、燕の やうに働くにも青年であり、店舗から家庭の台所 へと走るのも亦青年である」41,.こうした大都市 の随所で見られていた、現在の立場に努力する姿 勢を重視する修養の生活化は、大都市の職業的多 様性に対応しうるもので、青年団の活動と自己の 人生や社会における地歩を統合する論理であっ た。 したがって、修養の生活化は、事業編成の視点 として活かされている。例えば、東京市連合青年 団は「一般世間に行はるる弁論会がその本を忘れ 空理空論に走り或は技巧修辞の末に堕する傾があ るに鑑み、その弊をため、修養期にある青年団員 としての真剣なる自己の青年団生活に立脚したる 諸問題並に職業上或は日常生活の上に於ける研究 発表等を発表し以て第三者の批判を乞ひ、正しい 生活の鍛成に努力するならばよしその技巧におい て、その発表方法に就て拙劣であらう共、青年団 員として自他の修養に稗益するところ少なくな い」42Fという趣旨の下、弁論大会を主催している。 1935年3月、淀橋区公会堂を会場とする大会に、 目黒区青年団代表として出席した鈴木嶺五郎は、 「如何に弁説で巧みであり美文麗句を連ね様とも 真心の籠らぬ演説は少しも人に感銘を与えぬ。人 を感動せしめる演説、それは体験談以外にない」 と当日の講評の大要をまとめながら、「社交の秘 訣は雄弁にあり雄弁の要は真心にある」43〕と参 加の所感を記している。弁論活動を、自己の日々 の体験を再構成し、社会生活を充実させる糸口と 捉えることで、青年団における修養の意味を見出 していることがわかる。 職業的多様性に対応する修養の生活化は、修養 機関としての独自性を追求した点で、町会や在郷 軍人会等の既存組織と異なり、日常生活の充実を 志向するところが、学校教育や家庭教育とも一線 を画する、大都市青年団の固有の世界を創出する 論理であった。 ところで、このような青年の成長の機会は、イ ギリスでも重視されている。そこで次章以降では、 同時代のロンドンにおける青年教育事業の誕生と 発展について、検討することにしよう。
V ジュニア・メンズ・インスティテユート
の発足 (1) イギリス青年教育史研究の視点 わが国の社会教育学におけるイギリス青年教育 史に関する先行研究を概観すると、戦前のボーイ・ スカウト運動“’と戦後のユース・サービス45‘に ついて、一定の蓄積がある,他方、20世紀前半 における「地方教育当局」(Loca1 Education Authority、以下、 LEAと略称する。)を担い手と する青年教育史の検証は、必ずしも十分ではない。 しかしながら、地域に根ざす青年の教育的支援や ユース・サービスの歴史的位置付けを理解する上 で、社会教育の立場に立つ、LEAの青年教育史 の解明は、重要な研究課題である、と考えられる, 特に、ロンドンの教育当局であったLCCは、 ユース・サービスを積極的に推進したLEAとし て知られるが、戦後、新たに事業に着手したので はなく、戦前期以来の青年教育機関の延長線上に 活動を拡充していった46J。その起源が、1925年 に発足したジュニア・メンズ・インスティテユー ト47.である。 ところで、このインスティテユートについて、 フィールドハウス(Fieldhouse, R.)が戦間期にお けるイギリス成人教育機会の拡大の文脈で言及 し48‘、また、デヴェルー(Devereux, W. A.)はロ ンドン成人教育の通史49)の中で紹介している。 さらに、かつてデント(Dent. H. C)が、一般大 衆に魅力を持つ成人教育を初めて理解したLCC の実践の一つとして、取り上げたことがある「°。 このように注日されながらも、青年教育の分野で あることから、成人教育史の本流からいくぶん離 れた系統にあり、これまでその本格的な検討はな されてこなかった。そこで、本稿では、イギリス 現地での一次資料の発掘に基づき、このインス ティテユートがいかなる経緯で設立されたのかを 具体的に検討することによって、イギリス大都市 におけるコミュニティの青年教育事業の成立事情 を明らかにしたい。なお、検討対象時期は、その 発足から、第2次世界大戦の影響を受けるまでの 期間とする。 (2) メンズ・インスティテユートの成果 ジュニア・メンス・インステfテユートは、そ もそもメンズ・インスティテユートの下級部とし 68 て設計されている。メンズ・インスティテユート とは、従来、LCCの成人教育に参加していない、 18歳以上の男性労働者を対象に、一般教育、実 用教育、レクリエーション等の機会を、夜間に提 供するもので、1920年にロンドンの人口密集地 域(バタシー、ベスナル・グリーン、デトフォー ド、ステップニー、ウォルワース)に5校が、試 験的に開校している51.。LCCは、1913年の夜問 教育改革で、商業・技術教育を担う青年教育を整 備し、同時に、i4歳以上の女性向けの「ウィメ ンズ・インスティテユート」(Women’s Institute) 並びに18歳以上の成入男女に教養教育を教授す る「ノンボケーショナル・インスティテユート」 (Non−Vocationai lnstitute、後のリテラリー・イン スティテユートーLiterary lnstitute)を設置し た52‘。しかしながら、そこでは、男性労働者のニー ズに対応する専門的な成人教育機関が欠如してい たのである53,。従来の空白を埋めるメンズ・イ ンスティテユートの試みは軌道に乗り、1924−25 年度に常設化されている。その後、1936−37年度 の学校数は14校に達し、入学者数は14,000人を 超えている5㌔そして、伝統的な成人教育とは 異なる新しいタイプの成人教育の事例として、中 央教育当局も注目するのである551。 他方、1920年代に入り、経済状況が悪化する中、 学校卒業後も無職のままでいる青年が増大したこ とや、全ての青年にとって、既存の商業・技術系 夜間教育機関が有効に対応していないことが問題 となった56’/。そこで、LCCは、メンズ・インスティ テユートの成果を土台に、1925年、その活動方 針を共有し、若年層を対象とする、メンズ・イン スティテユートの下級部に相当するジュニア・メ ンズ・インスティテユートを構想した。小学校卒 業後、教育機会に参加していない青年層の開拓を 目指し、LCCでは、「社会的平等の精神が、より フォーマルなタイプの教育に魅力を感じない青年 たちにアピールするであろう」57‘というコンセ プトを掲げ、新しい青年教育機関を計画したので ある。 (3) ジュニア・メンズ・インスティテユートの 構想 LCC教育委員会のメンバーの一人であるヘッ ドラム(Headlam. S.)は、1913年の夜間教育改 革に関し、商業・技術教育は充実したが、ヴァン日本とイギリスにおける大都lh青年教育開発史の研究 69 の助手(van boy)や使い走りの青年(errand boy) 等に配慮していない点を案じていた、「ヘッドラ ムの共感は、いつも不運な人や落伍者(down and out)に向かっていた,職場や工場で働く青年対 象のクラスに強い関心を持ち、不遇な状況に置か れている青年を魅了することを願い」5S‘、新しい 青年教育機関の創設に向けて尽力した.、彼は、 1924年に亡くなったが、手工、身体訓練及び旅 行講話等から成る青年教育課程は、「ヘッドラム・ コース」(Headlam Cours e )と呼ばれs9.、さらに、 ベスナル・グリーン地区のインスティテユートが、 「スチュアート・ヘッドラム」と命名されており、 彼のビジョンは具体化されるのである、 このようにして、1925−26年度より、ロンドン の貧困地区(バタシー、ベスナル・グリーン、イ ズリントン、バーモンジー及びノース・ケンジン トン)に5校のジュニア・メンズ・インスティ テユートが開校した。この時期にLCCが刊行し た市民向けの継続教育ガイドブックには、次のよ うにその取り組みが紹介されている6°1。 ロンドンには、種々雑多な性格の「見込みのな い仕事」(blind alley)に従事し、また、失業中の 非常に大勢の青年がいる地区もある。この青年た ちを惹き付け、満足のいくやり方で、夜間を活用 できるよう、LCCは一つの試みとして、こうし た地区に5校の新しいインスティテユートを開校 した。教育は特別な方針に基づくもので、「クラブ」 (club)の雰囲気及び感化力を導入できるよう、 最善を尽くしている。…教科は、青年たちが関心 を寄せる話題についての講話形式による英語、木 工及び金属加工、「趣味」、体操・ボクシングを含 んでいる。14歳から18歳までの学生のみが受講 可能であり、9月から7月までの年間登録料は、 わずか6ペンスである。 ジュニア・メンズ・インスティテユートの初年 度の受講者数は、5校で2」25人に達している611。 この動向について、LCCは、「新しいインスティ テユートは、メンズ・インスティテユートの成功 に匹敵しそうである」62,と報告し、手応えを感 じていた。次章では、その後のインスティテユー トの発展過程と現場のカリキュラムについて、考 察を進めたい。
VIジュニア・メンズ・インスティテユート
の発展とその意義 (1) 学校数と入学者数等の推移 まず、表2は、ジュニア・メンズ・インスティ テユートの学校数、入学者数及び一人あたりの平 均受講時間数をまとめたものであるn年々、学校 数は増大し、1930−31年度に10校に及んでいる。 LCCは、「私たちは、出来る限り、メンズ・イン スティテユートとジュニア・メンズ・インスティ テユートは同じ地区に開校すべき、と考える」631 という方針から、開設地の選択にあたって、二つ の教育機関の接続に配慮している。1928−29年度 に開校したケンティシュ・タウンの場合、既に 1924−25年度に上級部が開設されていたMl。 また、学校数の増大に伴い、入学者数も増え、 1936−37年度には1万人を超えている。これは、 発足時の約4倍であり、学校の規模も拡大したこ とがわかる。また、一人あたりの平均受講時間数 を確認すると、1930年代中葉にかけて、安定的 な推移がうかがえる。例えば、1933−34年度と翌 年度の「上級部一下級部」のデータを比較すると、 それぞれ「57.8−80.6」、「57.2−79.7」時間であ り65,、下級部が約20時間上回っていた。このよ うに、一つの試みとして始まった青年教育の専門 機関は、量的な面から見て、ロンドンの「夜問継 続学校制度」(the system of evening continuation schools)661の中で、たしかに重要な一部を構成 するようになった、と言える。 (2)現場におけるカリキュラムの開発 それでは現場では、どのようなカリキュラムが 開発されていたのだろうか。カリキュラムに関し、 かなりの自由裁量が与えられており、通常のクラ ス開講・閉講規定も適用されていなかったが67‘、 受講者を反映し、各インスティテユートの傾向は 類似している。1929−30年度のロンドンにおける ジュニア・メンズ・インスティテユート全7校の 科目別の受講時間総数の構成比は、以下のようで あったc’9,。 身体訓練・各種ゲーム・ボクシング 26% 木工・家庭大工 20% 一般教育(読み方、作文、算術等) 18% 趣味(革細工やかご細工等の手細工を含む) 7% 69一表2 ロンドンにおけるジュニア・メンズ・インスティテユートの発展過程(1 925−26年度∼1938−39年度) 年度 学校名 学校数 人学者数 平均受講時間数 1925−26年度 S而llington−street、 The llStewart Headlam”、 Middle−row、Gifford−street、 Herold’s 5 2,725 59.5 1926−27年度 .Devas、 Shmington−stree〔, The”StewalてHeadlan〕”. Middle−row、Gifford−street,}{erold’s 6 4,266 58.6 1927−28年度 Devas. Shimngton−street、 The”Stewart Headlam”, Middle−row、Gifford−street、 Herold’s、 jing and Queell−street 7 4,576 61 1928.29年度 Kentish Town、 Shillington−street、 The”Stewart Headlam「「、 Middle−row、Gifford−street. gerold’s. Sandford−row 7 5,747 67 1929−30年度 Kentish lbwn、 Shillington−street. The「’Stewart Headlam”Middle−row,G肝ord−street. geroldgs、 Sandford−row 7 6,317 75.4 1930−31年度 Kentish Town, Shilhngtol1−street, ThピStewart Headlan1”. Middle−row.Gi∬ord−street、 gerolds. Sandford−row,Chaucer. Fran㎞am−street. Upper North−street 10 7,886 77.1 1931−32年度 Kentish Town, Shillington−stree〔. The”Stewart Headlam”、 Mddle−row.G縦ord−street. geroldvs. Nelson、 Chauce輻Frankham−street、 Upper North−street、 Laystere. Powis−street 12 8,420 76 1932.33年度 Kentish Town. Shillington−street. ThピStewart Headlam’「. Middle−row、Gifford−street、 gerold’s, Nelson、ChauceC Frankham−street, Upper North−street、 Laystere、 Powis−street 12 6,963 87.3 1933−34年度 Kentish Town. Shillington−street、 The”Stewart Headla11ハ’‘、 Middle−row,Gi廿ord−street、 gcrold’s、 Nelson, ChaucerL Frankham−street、 Upper North−street, Laystere、 Powis−s〔reet 12 ス382 80.6 1934−35年度 14 8,204 79.7 1935−36年度 14 9,913 68.9 1936−37年度 Kentish Town, Sh川illgton−street, The’1Stewart Headlam”, Middle−row.Gi廿ord−street、 gerold’s、 Robert Brownillg, ChauceL Frankham−street, Upper North−street, Laystere、 K ・ingsPark,Downham、Ashbumham |4 10,453 65.3 1937−38年度 Kentish Town. Shilling⑩n−s“eet、 The「’Stewart Headlam”、 Middle−row、Gi汗ord−s【reet、 gerold’s、 Robert Browning, Chaucer FTan㎞am−street, Upper North−street, Laystere、 K .ing s Park.Downham、Ashburnham 14 12275 ..7 1938−39年度 Kentish Town、 Shillington−street, The“StewaH Headlam”, Middle−row、Gifford−street、 gerold’s. Robert Browning、 ChauceL Fran㎞am−street, Upper North−street、 Laystere、 K 奄獅〟fs Park,Downham,Ashburnham 14 14」33 出典)L・nd・n C・unty・C・uncil.・L・ndon Statistics’ , L・nd・n C・unty・C・…iH. Educati・n Service Pah・ic・uiars for the Yeat’、L・・d・n C・unty・C・uncil,・EL・eni・g lnstitute.s Ptvspecttisesより筆.者が作成=…は不詳.tt 表31936−37年度スチュアート・ヘッドラム・ジュニア・メンズ・インスティテユートの時間割 NΩ. 科目名 時間 講師名 NΩ. 科目名 時間 講師名 月曜日 25 図書室 7:00∼8:00 一 1 芸術 8:00∼9:00 1.」.Oskotsky 26 金属加.[: 8:00∼10:00 R.Si㎜onds 2 芸術 9:00∼10:00 LJ.Oskotsky 27 身体訓練・体操 8:00∼9:00 L.S. Miskin 3 ブーツ修理 8:00∼10:00 A.Boreham 28 身体訓練・体操 9:00∼10:00 L.S, Miskjn 4 討論・旅行講話 8:00∼9:(X) FTHartman 29 社会問題 8:00∼9:00 B.Green 5 討論・旅行講話 9:00−10:00 FTHartman 30 社会問題 9:00∼10:00 B.Green 6 家庭大工 8:00∼10:00 J,M. Whitenlan 木曜日 7 図書室 7:00∼8:00 一 31 芸術・工芸 8:00∼9:00 B.G. Sillence 8 金属加工 8:00−10:00 E.E. Simmonds 32 芸術・工芸 9:00∼10:00 B.G. Sillence 9 身体訓練・ボクシング 8:00∼9:00 R,L. Mamn 33 家庭大工 8:00∼10:00 W.PAlexander 10 身体訓練・ボクシング 9:00∼10:00 R.L. Martin 34 図書室 7:00∼8:00 W.LGraham 火曜日 35 金属加工 8:00−10:00 R.Si㎜londs ll 製図・デザイン 8:00∼9:〔}0 L,Kiverstein 36 身体訓練・ボクシング 8:00∼9:00 FJ.Adams 12 製図・デザイン 9:00∼10:00 LKiverstein 37 身体訓練・ボクシング 9:00∼10:0〔〕 FJ,Adams 13 一般知識 8:00∼9:00 J.W. Gibson 38 科学(ラジオ無線1 8:00∼10:00 WBoltOI1 14 一般知識 9:00∼10:00 J.W. Gibson 39 写真術 8:00∼10:00 H.Tichener 15 家庭大工 8:00∼10:00 WPAIexander 金曜日 16 図書室 7:00∼8:00 W.LGraham 40 討論・旅行講話 8:00∼9:00 FTHartm㎜ 17 身体訓練・体操 8:00∼9:00 L.S,Miskin 41 討論・旅行講話 9:00∼10:00 FTHartman 18 身体訓練・体操 9:00∼10:00 L.S. Misldn 19 レプツセー 8:00∼9:00 A.McHa錨e 42 救急療法 8:00∼10:00 Dr. Smi由& `,Weinberg 20 レプッセー 9:00∼10:00 A.McHa伍e 43 家庭大工 8:00∼10:00 J,H. Whiteman 水曜日 44 図書室 7:00∼8:00 一 21 芸術・工芸 8:00∼9:00 WJ. Pezare 45 金属加工 8:00∼10:00 R.L. Si㎜onds 22 芸術・工芸 9:00∼10:00 W.」.Pezare 46 身体訓練・体操 8:00∼9:00 J.Sanlpson 23 ブーツ修理 8:00∼10:00 A,Boreham 47 身体訓練・体操 9:00∼10:00 J.Sampson 24 家庭大工 8:00∼10:00 工H,Whiteman 出典)London County Council,ρ”osl)ectus qf’ノ1E}”Stel・1’art He‘ld∼a〃t”Men’∫lnstiti‘le tJuniotり∫ピ∬’ρ刀ノ936−37、 pp、2−3.
日本とイギリスにおける大都市青年教育開発史の研究 71 音楽(声楽及び器楽)7% ブーツ修理・衣類手入れ・家庭洋服仕立て 6% 通俗科学(ガソリン燃料・ラジオ無線等)4% その他(時事問題・旅行等の講話、金属加工、 調理・救急療法等) 12% 実用・趣味から基礎教育に関するものまで、幅 広いが、「ヘッドラム・コース」の青年教育課程 が実現していることがわかる。その中で、最も高 い割合を占めているのが、身体訓練・各種ゲーム・ ボクシングであった,これに、木工・家庭大工及 び一般教育を加えると、6割を超えており、ここ にジュニア・メンズ・インスティテユートのカリ キュラムの特色を見出すことができるだろう。 ギフォード・ストリートのハットン(Hatton, S. F)校長は、「私は、青年にとってこれ以上素晴 らしい運動や訓練はない、と確信している。実際 の運動に加えて、思考と動作の機敏さや足取りの 軽快さ、身体の完全なバランスの育成を要す る」691と、特に、ボクシングの教育的な効果を 指摘している。また、木工について、「手作業は 魅力的で、できるだけ、小学校で行った活動と違 うものでなければならない。それゆえ、木工室に おいて青年たちは、学校で経験した練習や些細な モデルではなく、自分が強く求めるものに挑戦す るように、奨励されている。…青年たちに人気が ある制作物は、トレイ、賞品台、移動式の配膳台、 蓄音器キャビネット、ホールスタンド、食器棚、 タンスである」7°1と現場を報告しており、青年 の関心や生活を尊重していたことがわかる。 表3は、LCCの公立学校を夜間に利用し、平 日夜間に開講していたスチュアート・ヘッドラム の1936−37年度の時間割である。身体訓練は、連 日複数科目配置することで、ニーズに応えている。 また、家庭大工、芸術・工芸、ブーツ修理等の実 習を伴う科目が重点的に配当されており、時間数 も二時間に及ぶものを含んでいる。他方で、一般 知識、科学、社会問題等は、科目数・時間ともに 少ないことがわかる。 なお、以上の組織的な教科教育と並んで、カリ キュラムにはない社交・レクリエーション活動を 導入している。クリケットやフットボール、サイ クリング等の各種クラブや、体操公演、ボクシン グの競技大会、社交の夕べ等を企画し、教職員や 学生相互の交流が促された71)。パンフレットに は、クラブの紹介もあり、こうした活動はインス ティテユートの魅力を高める一つの要素になって いた、と考えられる。 (3) ジュニア・メンズ・インスティテユートの 意義 LCCのジュニア・メンズ・インスティテユー トの試みは、中央教育当局の教育院(Board of Education)の関心を寄せるところとなり、「記述 する活動の本質を鑑みて、本レポートは、他の LEAや成人教育及び青年教育に関わる諸団体・ 関係者が興味を持つだろう」72,という判断に基 づき、1931年に報告書がまとめられている。 まず、報告書は、同インスティテユートが取り 組むべき課題が、夜間学校制度の発足と同じくら い古くからあるものだとし、問題の所在を以下の ように述べている。「何よりも、普通のやり方で は教育することができない青年の継続教育をどの ように行うのか、という問題である。そのような 青年たちは、技術及びアカデミックな教育コース を利用することが全くできないものの、家庭生活 や職業における不利な状況の中で、急速な堕落か ら救われるのであれば、何らかの訓練や修養を最 も必要とする存在なのだ」73)。 こうした特別な役割を担う教育の要点として、 報告書は、人材及びカリキュラムの重要性を指摘 する。「LCCが校長に任命した人物は、みな組織 者としてエネルギッシュで、機知に富んでおり、 新しい企画の成功に向けて、熱心なだけではない ことがわかった。青年たちに心から関心を寄せ、 青年たちの精神構造を理解し、自信を与える指導 者としての資質を備えている。過去5年間の経験 から、一般化できることがあるとすれば、普通の 学校以上に人的要因が重要である、ということで ある」74i。従来の不参加青年層を開拓するためは、 当事者の立場に即しつつ、対象の生活世界を理解 できる共感力が不可欠であった。 さらに、カリキュラムに関して、通常の教育が 難しい上、多様な能力や背景を持つ青年層が入学 しており、前述したように、身体訓練’各種ゲー ム・ボクシング、木工・家庭大工及び一般教育を 合わせて、6割を超えていた。この状況をふまえ、 「学校がさらにしっかりと安定するようになれば、 趣味活動の質をより高い水準に上げることができ るだろう。趣味の実践は、幅広い関心や他の知識 を得るための、出発点の役割を果たし得る」75’ 71一
と主張し、青年の興味や生活を中核に据えた、柔 軟なカリキュラムの創意工夫をポイントに挙げ たr従来の不参加青年層の継続的な受講を可能に した要因の一つは、この点に求められるだろう. このように、ジュニア・メンズ・インステで テユートは、青年の置かれた現実に即し、「自助、 協同及び進取的精神」(self−help, co−operatioll and initiative)7fiを奨励した点で、従来の夜間教育と 異なり、「教育の場」(places of education)77であ ることを自覚し続けたことが、インフォーマルな クラブとも一線を画する、新しいタイプの青年教 育機関であった、と考えられる。 おわりに 本研究では、東京市の「東京市連合青年団」と LCCの「ジュニア・メンズ・インスティテユート」 に焦点を当て、20世紀前半の両大都市において、 いかなる経緯で青年教育事業を開発し、それらが どのように発展したのかについて論じてきた。 まず、東京市では、小学校卒業後、職業に従事 する青年の教育機会が欠如しており、教育継続化 の視点から、青年団を構想する中で、1920年、 東京市連合青年団が発足した。第二代団長の後藤 の役割は大きく、新設した社会教育課の事務分掌 に青年団を組み込みながら、その拡充に努めた、 後藤は、寄合所帯における自治訓練の「手習場所」 として、青年団に教育的意義を見出し、大都市に 適する組織体制と教育的アプローチの開発を先導 した。 東京市連合青年団の団員・組織は、各区に居住 する青年を対象とした区団を基本としたが、その 中に、校長を団長とし、小学校を中心とする「学 校分団」と、町会を拠点に、地域の有力者や篤志 家が指導する「町内分団」があった。東京市の青 年団は「学校分団」を母体としたが、「町会分団」 の設立が、青年団の全市的普及をもたらした。東 京市が町会の役割モデルに、「青年団指導事業」 を位置付けたことは、地域的合意形成に役立った。 「学校分団」の不振が指摘されるようになるが、 学校から生活の場への移行という大都市青年団の 社会的使命とともに、その難しさが示されている。 1930年代後半になると、分団数が千、団員数 が八万人に成長するが、大都市青年団の量的拡大 は、実践的課題をもたらした。現場における特質 は、第一に、都市青年団経営論への着目である, 72 青年団の組織の一般的基準や、団員の職業的多様 性に配慮した活動の留意点を研究することで、大 都市青年団のあり方を模索した.第二に、都市的 環境がもたらす青年心理の理解である 青年期の 社会心理的把握は、都市と農村の青年の比較を論 点とするもので、大衆的な孤立や疎外状況を克服 し、地域や社会生活に結びつく「修養懇談会」は、 最適な分団行事と考えられていた、第三に、修養 の生活化である一/各自の現在の立場に努力する姿 勢を重視する修養の生活化は、大都市の職業的多 様性に対応するもので、青年団活動と自己の人生 や社会における地歩の統合を可能にするものだっ た。 他方、1925年、LCCの青年教育事業として、ジュ ニア・メンズ・インスティテユートが誕生してい る。これは、先行するLCCの成人教育機関のメ ンズ・インスィテユートの成功を受けて、その下 級部として構想された。学校卒業後も無職のまま の青年の増大や、既存の商業・技術系の夜間教育 機関が、全ての青年に有効に対応していないこと が問題となっていた。そこで、不参加青年層の開 拓を目指し、新しい教育機関が構想されたのであ る。その創設に向けて、尽力したのがヘッドラム であった。手工・身体訓練及び旅行講話等から成 る青年教育の課程は、ヘッドラム・コースと呼ば れる等、ヘッドラムのビジョンは具体化されて いった、, 学校数及び入学者数ともに順調に増加し続け、 一つの試みとして始まった青年教育専門機関は、 ロンドンの夜間継続学校制度の重要な一部を構成 するようになる。そのカリキュラムを見ると、最 も高い割合を占めたのが、身体訓練・各種ゲーム・ ボクシングであり、これに、木工・家庭大工及び 一般教育を加えると、6割を超えた。重点科目は、 連日複数配置し、時間数を長めに確保しており、 青年のニーズに応えている。 ジュニア・メンズ・インスティテユートの取り 組みは、中央教育当局の教育院の関心を寄せると ころとなり、1931年に関係者に向けて、報告書 をまとめている。その中で、社会的不利益を受け ている青年を対象とすることから、人材とカリ キュラムの重要性を指摘した。従来の不参加層を 開拓するためには、当事者の立場に即しつつ、対 象の生活世界を理解しうる、教育者の共感力が不 可欠だった。カリキュラムに関し、青年の興味や
ロ本とイギリスにおける大都市青年教育開発史の研究 73 生活を中核に据えた、柔軟な創意工夫を指摘して いる。これによって、青年の継続的受講が可能に なるのであるr, このように、東京市とLCCは、大都市青年に 向けて、小学校卒業後の継続教育の機会を地域に 根ざして提供したrこれは、個人と地域の相互的 成長・発展をねらいとする、コミュニティ教育の 実践を意味している。東京市の青年団は、町会の 役割モデルに「青年団指導事業」が提示されるこ とで、急速な広がりを見せていった。他方、LCC では、先行する成人教育の影響が強く、その成果 をベースに、ジュニア・メンス・インスティテユー トが展開する、という異なる軌跡を辿っている, しかし、学校教育やフォーマルな教育の限定性や 非日常性を、青年の興味や日常生活を軸に再構成 することで、従来の不参加青年層の新しい教育機 会を開発した点に、両事業の歴史的意義があった、 と考えられる。 残された課題も少なくない。東京市連合青年団 の取り組みが、どのように地域的に受容されたの かについて、中間的指導者の役割や地域差を検証 する必要があろう。また、ジュニア・メンズ・イ ンスティテユートも同様に、各インスティテユー トの実践や地域的事情を個別的に検証することは できなかった。今後は、これらの諸課題に加え、 本研究で明らかにした成果に基づき、東京とロン ドンのコミュニティ教育発展史について、さらに 検討を深めていきたい。 (付記) 本研究は、日本学術振興会科学研究費助成事業・ 若手研究(B)(研究代表者関直規)「ロンドンの アウトリーチ型成人教育におけるカリキュラム開 発史の研究」(23730767)(2011年度∼2012年度) の交付を受けたものである. 注・引用文献 1)「東京市連合青年団規約第1条」東京市教育会 『都市教育』第190号、1920年、p.21− 2)教育団体の意義について、東京市は、次のよう に認識していた。「社会教育はその施設の上に 於て、自治会館の如き固定せる機関が極めて少 い点からして、既述の公私教化団体と連絡提携 する事は極めて必要の事と云はねばならぬ。特 73一 にそれは青少年団の如く敏活なる活動を期待し 得るものに於て然りとする」.凍京市役所『東 京市政概要 昭和6年度版』1931年、p」41 ) 3)後藤と青少年団との関わりをめぐり、鶴見祐輔 は、晩年の国民指導者としての観点から論じた が、少年団により重点が置かれている (鶴見 祐輔著、一海知義校訂『〈決定版〉市伝後藤新 平8「政治の倫理化」時代1923∼1929年』藤 原書店、2006年、pp.506−525」これまでのと ころ、後藤の青年団事業についての本格的研究 はなされておらず、本稿は、後藤の教育構想を 解明する基礎的作業の意味を持つ。 4)宮坂広作『近代日本社会教育史の研究』法政大 学出版局、1968年、p」84. 5)上野景三「1920年代における都市青年団の組 織化一大阪市の青年団組織化過程を中心に 」 『信州白樺』No.59・60合併号、1984年、 pp.195−212。 6)矢口徹也「青少年団体」東京都立教育研究所編 『東京都教育史 通史編三』東京都立教育研究 所、1996年、PP.442−448。 7)東京市連合青年団編『沿革一班』1926年、p.L 8)「東京市の青年団 明ロ小学校長会で協議 野 放し同様な小学校卒業生」『東京朝日新聞』 1919年6月19日一 9)文部省『都市青年団体施設概況』1918年、 pp.2−3。東京市内の青年団は、本芝青年団、麻 布青年会、下谷区青年義勇団、神田区青年会で ある この内、東京市の最初の組織は、下谷区 青年義勇団で、1916年に設立されている/:(「下 谷青年団組織」『東京朝日新聞』正916年6月26 口。 10)東京市連合青年団『東京市連合青年団設立趣意 書附綱領規約案』1920年、p2。 lD 同上書、Pふ 12)「市役所庶務規程中改正」『東京市公報』第602 号、1921年6月1日。 13)例えば、東京市が1927年に補助金を交付した 11団体の中で、東京市連合青年団が最高の 五万円の助成を受け、それは、全体の66%を 占めていた。(東京市役所『東京市昭和二年事 務報告書』1928年、PP.224−225。) 14)後藤新平「青年団の妙味」東京市連合青年団編 『団報』第2号、1922年、p.4。 15)同」二書、P5、
16)後藤新平「東京市の青年団」『東京の青年』 1922年6月1日、p」。 17)後藤新平「三つの生活方針一青年団への三ツの 心掛け一」『東京の青年』1922年8月28日、p,1. i8)1919年に116団体、約4万人を擁した.大阪 市役所編『大阪市連合青年団史』1938年、p.97。 19)後藤新平「緒言」東京市連合青年団編『青年団 改善の方法 第1回協議会決議』1922年、p.1、 20)同上書、P.3。 21)同上書、PP.4−8。 22)東京市連合青年団編『沿革一班』1926年、 pp.25−260 23)東京市連合青年団編『団報』第2号、1922年、 P.ll3・ 24)「町内団設立勧奨に関する通牒」東京市連合青 年団編『増補青年団施設要綱』1930年、p.138。 25)東京市役所編『町会規約要領』(社会教育叢書 第4集)1924年、p」06。 26)「勧説の効見にて 町内青年団続出 全市に行 き渡らせようと連合青年団の奔走」『東京朝日 新聞』1924年11月24日。 27)石田吉三(京橋区青年団)「青年団の振興はま つ小学校分団から」東京市連合青年団編『増補 青年団施設要綱』1930年、p.226。 28)例えば、1936年2月の時点で、世田谷区内の 分団長32名中、学校長はおらず、農業従事者 及び地主を合わせて、約6割に達している。(東 京市連合青年団『東京市連合青年団一覧』1936 年3月、pp.82−84。) 29)東京市役所『東京市教育局社会教育課事業概況 昭和元年度∼昭和11年度』1927年∼1936年、 30)東京市連合青年団編『都市青年団経営上の実際 問題』1926年、p.30。本書の執筆は、東京市連 合青年団講師の宮川仁蔵による。 31)中里民平「都市青年団経営論」間宮龍眞編『都 市青年団経営論・青年と青年運動』東京市連合 青年団、tg3・7年、 p.2。 32)同上書、p.74。 33)同上書、p.39。 34)池園哲太郎『青年と青年運動』日本青年館、 1937年、P.22。 35)同上書、pp.29.30。 36)池園哲太郎「都市青年団の指導と管理」東京市 連合青年団編『青年団指導講座』文録社、1929 年、PP.4−14。 37)同上書、pp、 t 5−22,, 38)宮川仁蔵「簡単にして効果ある修養の方法 懇 談会開催に就ての意見一」東京市連合青年団編 『増補青年団施設要綱』1930年、pp.384−394。 39)池園哲太郎『青年と青年運動』日本青年館、 1937年、p.22。 40)奈須千万彦「青年団の特異性に就て」『牛込区 青年団報』第5号、1930年、p.17。 41)奈須千万彦「青年団員市民生活の現在性」『東 京市公報』1662号、1929年5月21i, 42)「市連合青年団第五回弁論大会開催」『東京市公 報』2092号、1932年3月29日。 43)鈴木嶺五郎「青年団弁論大会に出席して」『目 黒区青年団報』第2号、1935年、p.34。 44)田中治彦『ボーイスカウトー二〇世紀青少年運 動の原型 』中央公論社、1995年、上平泰博・ 田中治彦・中島純「少年団の歴史一戦前のボー イスカウト・学校少年団一』萌文社、1996年。 45)諸岡和房『社会教育・東と西一世界が模索する 現代人の教育一』全日本社会教育連合会、1985 年、上杉孝實『地域社会教育の展開』松籟社、 1993年、田中治彦「イギリスの青少年施設」 小林文人・佐藤一子編著『世界の社会教育施設 と公民館一草の根の参加と学び 』エイデル研 究所、2001年、PP.173−186。 46) Elsdon、 K.T. and Others, An Education for the People?: A History of HMI‘and Lifeiong Learning 1944−1992、National Institute of Adult Continuing Education.2001,p.103. 47)LCCは、このインスティテユートのことを “Junior Men’s lnstitute”、“Men’s lnstitute(Junior)”、 “Men’s(Junior)Institute”と複数の名称で呼んで いたが、本稿では、「ジュニア・メンズ・イン スティテユート」と統一し、表記している。 48) Fieldhouse, R.,‘’The Local Education Authority and Adult Education”, Fieldhouse、 R. and Associates, A HistotTy’ qf’Modern British Adult Education, National Institute of Adult Continuing Education,1996, p.83. 49)Devereux, W. A., Adttlt Education in lnner London /870−1980,Shepheard−Walwyn in Collaboration with Inner London Education Authority,1982, pp.95−105. 50) Dent, H. C., Education ilt Transition: A Sociological Study of the Impaet of War on English Education ∫939−1944,5th Ed., Routledge&Kegan Paul Ltd.,