個人の尊厳と幸福追求権
著者
円谷 勝男
著者別名
Katsuo Tsuburaya
雑誌名
東洋法学
巻
35
号
2
ページ
65-91
発行年
1992-01
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00003519/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja個人の尊厳と幸福追求権
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勝
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六五四三二一
目 次 はじめに 思想史的系譜 個人の尊厳の意味 幸福追求権の形成と本質 幸福追求権の内容 おわりに はじめに “ヒト”は自然の摂理によって生誕し、 東 洋 法 学 教育の営みのなかで、第二の”人間〃的誕生をみる。 後者は、人格性を高 山ハ五個人の尊厳と幸福追求権 六六 める、いわば文化的生活力を修得する学習である。そして、そこで獲得した知的力をテコにして、人間の短い生涯が 終る。仏教のいう﹁生病老死﹂という不条理な重荷を背負いながら、しかも自らの価値観にそって、文字通りに、人 は一生を閉じる。この意味で、生まれ、生き、そして死んでいくのも常に、一人ひとりの重い営みである。しかし人 は、人間として社会に生存する限り、社会的諸条件に制約を受けながら、生かされて存在するのも自明のことである。 この意味で、社会は本来的には人間に生存の諸条件を提供するところであるが、近代以前の国家社会は、人間的生存 の条件を具備する場というより、むしろその抑圧者として機能したといえよう。その史的体験から、近代国家は、国 家存立の礎石に﹁人間宣言﹂を謳ったことは周知の通りである。すなわち、その集約的かつ象徴的文言は、仏革命の ﹁人権宣言﹂にあることは、異論のないところであろう。 この宣言採択から、すでに二百年が経過しているが、その理念が、必ずしも定着したとはいえない。ボーダ⋮レス ハエレ の時代にあって、人権の国際化が一つの人類共通のテ⋮マになっていることは、如実にそれを物語っていよう。また、 日本の場合も、現行憲法で、仏革命の﹁人権宣言﹂に見られるような、古典的人権と二〇世紀的人権が保障されてい るが、この人権を支える国民の人権意識が高揚されず、あらゆる生活領域に浸透化したかどうか、疑問視されるとこ ロ ハ レ ろである。戦前ならいざしらず、民主化された今臼でも、国民が日常的に生活する意識に以然として、ある種の、 ﹁む ら﹂や﹁いえ﹂という、伝統的共同体意識を優先させて、個というものをそこに埋没させているからだともいわれる。 いわば歴史的栓桔である、儒教的秩序観の上に生活が築かれているところに人権意識が高揚しない、一つの側面があ るともいえよう。
しかし一方で、社会経済の状況変化のなかで、憲法一四条以下の個別的列挙人権以外に、いわゆる﹁新しい人権﹂ ︵Z①毛胃釘9ω︶が主張されて、人間的疎外状況を解消しようとする動きも見逃すことはできまい。このことは従来 の、固有の憲法枠を克服して、新たにその枠を現代的に、再生、構築化しようとする発芽的動向ともいえよう。 いうまでもなく、望ましい民主社会を形成発展させるには、一人ひとりの、人権意識の確立が前提条件であること は論をまたない。その意味では、各自が、生活体験を通して、そのあり様を自由に思考し、発表し、行動することが、 その源泉となろう。また、その言動の試行錯誤のなかで、人権の主柱である、個人の尊厳性が確立するともいえよう。 本稿では、新しい人権が語られるなかで、主としてその法的根拠とされる憲法一三条が示す、 ﹁個人の尊厳﹂と﹁幸 福追求権﹂がどのような法的性格であるかを、論究しようとするものである。 ︵ま︶ ︵2︶ ︵3︶ 江橋崇﹁国際人権保障の新時代﹂法務省人権擁護局編﹃人権保障の生成と展開﹄六七頁以下。 小林直樹﹃日本国憲法の問題状況﹄八八頁では次のように指摘している。つまり−日本人の平均的人権感覚は、身辺的距 離にとどまり、公的な次元にまで高められていないー!さらにいいかえれば、臼由な人格価値という思想に昇華されるに至 らない⋮ー直接の私的次元に受けいれられているために、自他の人権のための闘争も辞さないという、自覚を媒介とした質 的強度に乏しいといわねばならぬ。し 明治憲法体制の底流をなす、いわば集団的実在論の傾向を研究した興味ある論文として、石田雄﹁暇本における法的思考 の発展と基本的人権﹂ ﹃東大社研編・基本的人権2﹄。ここでいう集団実在論とは﹁集団が個人によって構成されていると いう面を軽視し、集団は個人を超越した∼つの自然的有機体的一体として実在するるという考えをいう﹂ ︵同一八頁︶。ま 東 洋 法 学 六七
個人の尊厳と幸福追求権 六八 た、小林直樹﹃憲法と臼本人﹄では、今日もまた集団主義が残存していることを分析した上で﹁封建的な家族制度が示して いたように、総じて旧型のゲマインシャフトにひたり切っているかぎり、人権の意識も、育たないだろう。現行憲法の下で も、日本人のグル⋮ビズムは、意識革命を経ないまま、個人の主体化を抑制する側に働いてきたといえよう。﹂︵陶一九五頁︶ と指摘している。 二 思想史的系譜 日本国憲法第三章は、一般に、人権の章と呼ばれ、一四条以下に、歴史的に形成された個別的人権保障規定が数多 く、列挙されている。それと同時に、その先駆けとして、ご二条に人権の根幹的意義をもつ、いわば包括的人権規定 を設けている。すなわち﹁すべて国民は、個人として尊重﹂され、しかも﹁生命、自由及び幸福追求に対する国民の 権利﹂を保障している。そして、その意味するところは、前段は、文字通りに個人の尊厳の原理を定め、後段は前段 の原理を、より個人的立場において多彩かつ多様に具体的に保障しようとしたものと解されている。それと同時に両 者を一体化して、いわば個人︵国民︶は国政のあらゆる場において、最大限に尊重させなければならないという要請 ハ レ でもある︵一三条後半⋮⋮﹁立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする﹂︶。 本規定の創設は、ポツダム宣言の十条︵基本的人権の尊重︶を受けて、いわゆるマッカーサー草案一二条に由来す レ ると理解されている。また、後段の﹁生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利しの原典は、アメリカのヴァジニ レ ア権利章典︵︸七七六年︶とアメリカ独立宣言に、その淵源を求めるのが一般的である。すなわち後者のアメリカ
独立宣言では、 ﹁われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい ハせレ 天賦の権利を付与され、その中に生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる﹂と規定されているからであ る。そして、条文上の文言にある﹁生命、自由および幸福の追求﹂ ︵属9騒畳ざ聾侮藻①嘆屑ω鼻9鼠題羅霧︶と ハちレ いう権利の名称は、この宣言でいう、天賦人権の、いわば代名詞的意味を有していたと解されている。 ところで、宣言に示されている天賦人権思想が、近代自然法論に由来することは周知の通りである。また、次の﹁生 命、自由および幸福追求﹂という人権概念が、ジョン・ロックが示した自然権にその淵源を求めるのも一般的である。 ハ レ ロックは自然権を解明して、その内容は、 ﹁生命、自由および財産権﹂であるとしているにもかかわらず、アメリカ 独立宣言では、 ﹁財産権﹂という言葉が消えて、その代りに﹁幸福追求の権利﹂が置かれている。この転換した経緯 については、今日、学説は二つにわかれる。 第一説は、﹁財産権﹂と﹁幸福追求の権利﹂とは別次元の概念であるが、それを置き換えたのは、宣言の起草者ジェ ファソンらは、財産権というイギリス中産階級にとって価値ある観念を、いわば国民全体に共通した﹁幸福追求の権 利﹂に転化したという説である。すなわち﹁財産を所有しない人びとにも、同じように希望を実現させるために、財 産権とすくなくとも同程度以上に人権の尊重せらるべきことのために︽財産権︾をこえた︽幸福の追求︾という用語 アレ を使用するにいたった﹂と考える。つまり財産権をより広義な概念に転換して、この宣言の浸透化をはかったという 説である。これに対して、第二説は、ロックの﹁生命、自由及び財産狐 ︵穿8浮①議$露α霧ひ鶏霧︶を、ロック自 身がプロパティ︵甲○葛村身︶と語っていることに注目した分析である。すなわち、ロックのいう広義のプ狐パティ
東洋法学
六九個人の尊厳と幸福追求権 七〇 は、 ﹁生命、自由、財産﹂を含むと同時に、しかもこれらは、有機的結合によって幸福追求のエネルギー源となると 解する。このことを考えると、ロックのプロパティは、人格的価値を含む自然権と見ることもできる。こう解すれば、 幸福追求の権利と異ならないという理解である。そしてこの認識に立って、 二七八○年のマサチュセッツ憲法第一 条は、生来の本質的、かつ譲ることのできない一定の諸権利には﹃生命と自由とを享受しかつ擁護する権利、財産を 獲得し、所有し、保護する権利、すなわち、人々の安全と幸福とを求め得る権利が含まれている。賑ここでは、生命、 自由、財産に対する権利すなわち、幸福追求の権利とされている。生命、自由、財産がロックの言う広義の準○葛誉 ロ 紀であることは明らかであるから、この意味の呼○葛胃身は幸福追求の示す内容と同一のものである﹂と結論づける。 このように見解がわかれるが、今日の通説は後者である。 なお、生命、自由、幸福追求の権利は、アメリカ独立宣言以外にアメリカ諸州の人権宣言にみられるが、フランス 人権宣言をはじめ、その後の諸国憲法にはみられない。この事実を、この権利が単純に過去の歴史的文書のなかの宣 言文言とみるのは早計だと考えられている。前述のように、この権利は、より個人の人格的生存に関わる根源的かつ 不可譲な自然権を意味するところから、その後の法文化の発展のなかで、新たな人格的利益を創造する役割を果たし ハ レ ているからだという理解である。妥当な見解といえよう。 ︵1︶ 民法︵一条ノニ︶でも個人の尊厳原理が示されているが、 されることが、法秩序上で妥当と考えるからであろう。 これは私法秩序にもこの原理が、いわゆる解釈準則として適用
︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ マッカーサー草案一二条では﹁日本の封建的制度は、廃止されるべきである。すべての日本人は、人間であるが故に個人 として尊重される。生命、自由および幸福追求に対する国民の権利は、一般の福祉の範囲内で、すべての法律およびすべて の政府の行為において、最大の尊重を受けるものとする﹂であったが、若干の変更が加えられて現行に近い形になった︵佐 藤・阿部・池田編﹃憲法③基本的人権﹄九八頁︶。 宮沢俊義他編﹃人権宣言集﹄一〇四頁。そこでは次のように規定されている。 ﹁すべて人は生来ひとしく自由かつ独立し ており、一定の生来の権利を有するものである。これらの権利は人民が社会を組織するに当り、いかなる契約によっても、 人民の子孫からこれを︹あらかじめ︺奪うことのできないものである。かかる権利とは、すなわち財産を取得所有し、幸福 と安寧とを追求獲得する手段を伴って、生命と自由を享受する権利である。﹂ 宮沢前掲︵3︶二四頁。 清水睦碗基本的人権の指標﹄二五頁。 鵜飼信成訳﹃市民政府論﹄ 二七頁参照。 酒井吉栄﹁日本国憲法十三条の患想的背景 とくに、幸福の追求についてー﹂ジュリストニ七四号四〇頁。 種谷春洋﹁幸福追求の権利の 史的考察しジュリストエ七七号七二頁。 種谷春洋﹁﹃生命、自由及び幸福追求﹄の権利︵2︶﹂法経学会雑誌︵岡山大︶一五巻一号八一頁。 三 個人の尊厳の意味 日本国憲法一三条前段は、前述したように個人の尊厳の原理を定めている。 憲法二四条二項に定められている﹁個人の尊厳﹂と同義語と理解されている。 東洋 法 学 その意味については、通説的見解では、 両者とも、社会や家庭において、 人 七一
個人の尊厳と幸福追求権 七二 ユレ ひとりの人間は、他の何にものにも代替化できない価値があるという、いわば﹁個人主義の原理﹂を表明したと解さ れている。その意味から、史的評価としては近代人権思想の心髄を示したものといえよう。他方、憲法の立体的構造 の視点からみれば、この原則は、日本国憲法のなかの根本規範としての、 ﹁憲法の憲法﹂ともいうことができよう。 特に前者は、制定過程において、いわゆるマッカ⋮サー三原則の第三に示された、いわゆる﹁日本の封建制度は廃 止される﹂と同草案一二条に由来することは前述したところであるが、一方それを、史的側面からみると、戦前の極 端化した国家全体主義︵例えば、一億一心や減私奉公など︶と決別して、各人は平等かつ独立の人格的価値を持つこ とを宣言したといえる。換言すればその原理を、文字通りに法価値の中心に据えることによって民主社会を形成する ロ シンボル的位置に設定したといえよう。またそれと同時に、家族全体主義観を支えた、主柱的単位は、家父長的支配 の、いわゆる﹁家﹂制度であったところから、後者では家庭の民主化のために、再度﹁個人の尊重しと﹁両性の本質 的平等しを謳ったことは周知の通りである。この意味で両者は、一言でいうと天皇を頂点とした明治憲法体制下の全 パ レ 体的家族国家観からの、個人の解放であった。これらの史的経過を総括しながら、憲法二二条を解説して次のように 語っているのは、その証といえよう。 すなわち﹁もはや国民は旧憲法におけるごとく﹃臣民賑ではなく、天皇に忠節をつくすことが、その至上の道徳で はなく、実に、個人として尊い存在なのであり、人格、人間としての尊厳こそ、そしてそうした尊厳をもつ人間とし ハゆレ ての生命、自由、幸福追求の権利こそ、国家の政治、法律において最も尊重さるべきものなのである。﹂と。これら を考えると、憲法一三条の設定は、国家社会は、一人ひとりの人間存立のために存在するのであって、人間が国家の
ハろレ ために存在するのではないという、自然法思想の国家契約説の日本の有史以来の、テーゼとみることもできよう。 へ レ 一方、憲法一三条と同様の規定が、ボン基本法︸条一項にもみられるところである。すなわち﹁人問の尊厳は不可 侵である。これを尊重し、かつ保護することは、すべての国家権力の義務である﹂と謳っている。そして、この規定 が意味する、国家と国民との関係を主導する理念は、アウシュヴィッツの大量殺りくに象徴される、いわゆるナチス 全体主義を体験した歴史的原点に立って、個人主義の宣言であるとともに、他方、この意味は個人を絶対化したフラ ンス革命直後の急進的な個人絶対主義を拠斥する、いわば両者に偏向しない人格主義︵評凄8毘馨ω︶がその中心 アロ だと考えられている。換言すれば、この規定でいう人間の尊厳の底流には、全体主義と利己主義とに対立して形成さ れた人間的個人主義が流れているという理解である。 ところで、日本国憲法二二条でいう﹁個人の尊厳﹂と、前述したボン基本法一条の﹁人間の尊厳﹂は同一概念であ るというのが、日本の憲法学界では、通説的見解であるが、これに疑問視する説も見逃すことはできまい。条文上の 文言であるドイツの﹁人間の尊厳﹂︵9Φ毒費留鼠。 。客①屋魯雰︶という概念は、単純に﹁個人主義﹂︵汐蝕ξ身毘弩諺︶ に置き換えて同一視するのは問題だという声である。すなわち、日本国憲法の個人の尊重は﹁公共の福祉﹂に対して 宣言されているが、ボン基本法では、人間の尊厳は﹁国家権力﹂に対して宣言されており、その点で異なった次元が 存在すると解する。そして何よりも、人間の人格性と深く関わってドイツの﹁人間の尊重﹂を理解しなければならな いという指摘である。結論的にいうと﹁人間の尊重を定義することは同時に人格を定義することになる。例えば﹃人 間の尊重とは、人間は生れながら精神的・倫理的存在として、自己意識と自由において自己を決定し、自己を形成し、
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七三個人の尊厳と幸福追求権 七四 へ ロ 周囲の世界︵d簿≦箋︶において自己を発揮する素質をもっていることに在る﹄fという理解である。これらの 視点から﹁人問の尊重はすべての人権の根拠であるし、人間の尊重は﹃個人の尊重﹄を含むが、この二つは全く同様 のものではない︵﹃人間の尊厳﹄を尊重すべきという原則には例外があるはずがないが、 ﹃個人の尊重には例外があ レ る﹄︶ということである。これらの言葉のもつ概念の理解の相違は、その国の歴史性と深く関っているといえよう。 すなわち日本国憲法の個人の尊重は、制定経過で前述したように、明治憲法下における、家族国家全体主義を支えた 封建体制からの、一種の身分制度も含んだ個人主義の確立であった。その点でドイツの場合は、ナチス政権下の人間 の尊厳性を根底から抹殺した、暗黒の虐殺行為が大きな契機になっていることは自明のことである。その歴史的立場 れレ から、人間の尊重のバックボーンに、より倫理性の高い人格主義が流れているともいえよう。 もとより、個人は当然に人間としての個人と解するのが、国語学的にも一般的である。そして、またそう解するこ とが、形成過程で削除されたが、 ﹁人問でみ豹故に個人として尊重される︵総司令部案︵一二条︶しにそった理解と もいえよう︵傍点筆者が示す︶。このように解すると、日本国憲法二二条の﹁個人の尊重﹂と同二四条の﹁個人の尊 ねレ 厳﹂は同義であり、さらにボン基本法一条の﹁人間の尊厳﹂も、同一線上にある言葉と考えて無理がないといえよう。 いずれにしろ、憲法一三条と二四条は、民主社会の基本的前提である個人主義の宣言であるが、その宣言の意味と 存り方をめぐって憲法学の立場から、従来あまり論議がなされてこなかった。むしろ、この言葉の持つ法的意味や個々 ゑレ 人のその存り方が、法哲学から提起されたぐらいである。ただ最近の動きとして、有力憲法学者から、個人主義に対 する注目すべき問題提起がなされていることは、見逃すことはできない。
すなわち﹁憲法二二条の個人の尊重は、憲法上の利益衡量において個人の利益を重視することに尽きるものではな い。国法の介入しがたい﹃自律﹄の領域を認めることこそ、個人主義の第一の内容である。この﹃自律﹄が理解でき ない限り、個人の尊厳は理解されない。﹂。そして結論づけて﹁個人の尊厳という﹃切り札﹄が本当に役立つのは、 おレ 自律領域の確定作業においてである。憲法学は、この点をなお十分に解明しえて、いないのではなかろうかしと警鐘 を鳴らしている。 ここでいう、自律領域の確定作業の充実とは、文字通りに、公私における人間としての人格性︵人倫性︶を確かな ものにするための意識と、実践性に裏づけられた主体的哲学の形成ともいえよう。いわば草の根的発想から出発して、 国家的視点にまで広がりを持つ自律と自治の個人主義の構築作用といえよう。換言すれば、憲法ニニ条が示す﹁個人 の尊重﹂に対して、ホセ・ヨンパルト氏が、いみじくも指摘したような、歴史的視点に立った倫理性の高い、個人主 むレ 義の見直し作業ともいえよう。 ︵ま︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ 宮沢俊義・芦部信喜補訂﹃全訂日本国憲法﹄一九七頁。 小林直樹﹃憲法講義上﹄三一二頁。 明治憲法下に於いて、 ﹁家族制度﹂が政治強化のためにいかに巧妙に機能したかを分析した興味ある論文として、 ﹁イデ オロギーとしての﹃家族制度熱﹂ ﹃川島武宜著作集第十巻﹄二〇〇頁以下。 鈴木安蔵﹃明治憲法と新憲法﹄一六二頁。 ボン基本法の草案である、いわゆるヘレンキエムゼー草案一条一項では﹁国家は人間のためにあるのであって、人間が国 東洋法学 七五
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︵9︶ ︵⑳︶ ︵慧︶ ︵鴛︶ ︵B︶ ︵M︶ 個人の尊厳と幸福追求権 七六 家のためにあるのではない﹂という文言が示されていたことは、よく語られるところである。 イタリア憲法二条でも﹁共和国は、個人としての、また彼の人格が発展する場としての諸社会的結合体においての人間の 不可侵の権利を認め、かつ保障するとともに、政治的、経済的および社会的連帯の背くことのできない諸義務の遂行を要講 する﹂と規定されている。 田口精一﹁ボン基本法における人間の尊厳について﹂法学研究三三巻一二号一八二頁。 ホセ・ヨンパルト﹁日本国憲法解釈の問題としての﹃個人の尊重﹄と﹃人間の尊重﹄﹂ ︵上︶判例タイムズ三七七号一七 頁。 ホセ・ヨンパルト﹃人間の尊厳と国家の権力﹄七七頁。 若松新ーボン基本法における﹃人間の尊厳﹄﹂早稲田政治公法研究第23号∼第27号。この論文を通して﹁人間の尊厳﹂を 国家の基本法で保障しようとする試みの端緒は、ナチス・ドイツ統治下で、抵抗した者が記した歴史的ドキュメントに遡る ことを実証している。 前掲︵8︶の、ヨンパルト氏の説を解説した論文として、粕谷友介﹁人聞の尊厳と個人の尊重﹂星野・田中編﹃法哲学と実 定法学の討論﹄七五頁以下。 例えば、恒藤恭﹁個人の尊厳﹂尾高朝雄追悼記念集﹃自由の法理﹄三一頁では次のように述べている。 ﹁人間が倫理的自 由の主体であることにもとづいて、同時に法的自由の主体であり得るためには、他者の側からの、とりわけ国家の側からの 弾圧を受けることなく、自己の意志にもとづいて行動し、生活をいとなむ自由が、法的に保障されることを要する。この点 について、日本国憲法第ニニ条は、すべての国民の自由に対する基本的人権が 生命に対するそれ及び幸福に対するそれ と同時にー個人の尊厳を基礎とするものであることを明示している。ただし、このような根本思想は、憲法の規定の全体 をつらぬく精神のあらわれの一面に外ならない。﹂ 江橋崇﹁立憲主義にとっての鞠﹃個人臨﹂ジュリスト八八四号七頁以下参照。 この点で、尾高朝雄教授の論稿は、今日もなお傾聴に値えしよう。すなわち﹁個人主義の法思想は、すべての個人が人間たるに値する生活を営む権利をもつという、確乎たる価値観に立脚している。この思想の根底には牢固たる人間平等の正義 観が横たわっている。国家は個人の利益と権利を守るために存在する。個人を国家の目的のための単なる手段として利用す ることは、許され得ない。人民の意志によって法を作り、その法によって、政府の組織を定め、権力の筋道を決定するよう にしなければならない。個人主義の法思想は民主主義の政治原理を要求し、民主主義の政治原理は個人主義の法思想に立脚 して発達する。国民を拘束する法は、国民が、自らの意志により、自らの生活の利益のために作ったのである。ここに、個 人主義の法思想が、人間の平等とともに最も重んずる人間の自由があり、自治があり、自律がある。個人主義は、すべての 個人が平等の条件の上に立って、それぞれの幸福を追求しうるような社会状態を正しい秩序であると考える。個人主義は、 すべての人間が個人として尊重されることを要求する。個人主義の立場は決して利己主義ではない。個人主義の真の精神は、 キリスト教の人類愛に淵源するものであり、それが近世の人闇の自覚を通じて合理的にとらえられた形であるといってよい﹂ ︵﹃法思想史序論﹄ ︵一九六七年︶一二七頁︶。 四 幸福追求権の形成と本質 憲法コニ条後段に示されている、﹁生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利﹂ ︵以下、幸福追求権という︶の 意義、その性質については、憲法制定から、しばらくの間は論議されなかった。その理由は、この権利は憲法上で保 障する、基本的人権の総称だという認識から、その独自性がないと考えられていたこと、そして、とりわけ同条後段 に示されている、 ﹁公共の福祉﹂の文言が、憲法上の個々の人権の制約の可否に関わる議論に重点がおかれていたこ ︵1︶ となどが上げられる。 東洋法学 七七
個人の尊厳と幸福追求権 七八 一九五〇年代の有力憲法学者は、この規定は、﹁具体的な特定の権利又は自由に関する定でなく、総ての権利及び自 へ ロ 由の基礎たるべき各個人の人格を尊重することを、国政の基本として宣言して居る﹂いわば一般原則宣言と考えられ、 さらに、この権利は﹁個人の人格的生存に不可欠な権利自由を包括的に述べたものであって、憲法各条項に保障され ハ レ ている各種の権利自由の根底に存する自然法的な権利﹂である、などの理解は、憲法制定当初の動きを語っている。 他方、幸福追求権を一応認めたとしても、 ﹁第二条および第九七条にいう﹃この憲法が︵日本︶国民に保障する ハ レ 基本的人権賑を指すもの﹂と消極的に説明して、その位置づけについても明確性を欠いていた。このような動きのな かで、幸福追求権をもって﹁存在権﹂と捉える見解があったことは注目される。その説によると、人間は一般に﹁従 属的立場﹂と﹁独自的立場−︸で生活するが、本条は後者の立場、すなわち﹁人間としての存在を認められ、国家に対 して、その存在を主張し得ること﹂を定めたと考え、それを国民の︹,存在権﹂と呼称している。そして、具体的には、 ﹁人間は、人間本来の本能として、自己の生命を愛し、自由を有し、及び、幸福を追求する、という意欲を有するも のであるから、人間の存在の内容は、生命を愛し、自由を有し、幸福を追求することである。故に、これらの意欲を へるロ 有し、これを実現することを、国家に対して主張することが国民の個人としての存在を主張する権利である﹂という ハ レ 理解である。今日も、この説を容認する考えが一部みられるが、しかし、一般的には具体的にどのような性格・内容 ハマレ のもので、他の基本的人権と、どのような関係にあるのかが明確でないなどの批判が妥当とされている。 一方、日本国憲法が制定されて十数年後、高度経済が進行して、社会経済の変化をみる。それとともに、憲法制定 当時に予想しなかった、プライバシーの権利や環境権などの、いわゆる新しい人権が主張されるようになった。そし
てこれらの権利存立の根拠を、本条に求める、いわば具体的権利説の動きが出て、その性格論議が一段と活発化した パ レ ことは周知の通りである。とりわけ学説に決定的影響を与えたのは、判例の動きといえよう。 ハ レ その一は、プライバシーの権利が問われた、いわゆる﹁宴のあと事件﹂に対する判示である。そこではプライバシー の権利を﹁近代法の根本理念の一つであり、また日本憲法のよって立つところでもある個人の尊厳という思想﹂に根 拠を求めて、その実定法的権利性を承認する。 その二は、いわゆる﹁京都市公安条例違反デモ事件﹂に対する高裁及び最高裁の判決といえよう。前者高裁は、国 家権力に対する関係において、憲法一三条を根拠に﹁私生活の自由﹂や︻,プライバシーの権利﹂を導き出し、そのな ゆレ れロ かに、いわゆる﹁肖像権﹂が含まれると捉える判決を示している。そして後者最高裁は次のような判旨を示した。す なわち憲法二二条の趣旨からすると、警察権等の国家権力の行使に対して、国民の私生活上の自由が保護されている と理解した上で、 ﹁個人の私生活上の自由の一つとして、何人もへその承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態︵以 下﹁容ぼう等﹂という。︶を撮影されない自由を有するものというべきである。これを肖像権と称するかどうかは別 として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法二二条の趣旨に反 し、許されないものといわなければならない﹂と判示している。特に最高裁の判決で、二二条に独自の権利自由の根 拠があることを明確化したことは、学説から高い評価をうける結果となった。とりわけ、 ﹁私生活上の自由が、警察 権等の国家権力の行使に対しても﹂と判示しているところから、対私人との関係における﹁私生活上の自由﹂の保護 は当然のこととして措定していることを示唆していると考えられ、その意味でも、歴史的意義をもつ判例という評価 東洋法 学 七九
個人の尊厳と幸福追求権 八O パ ロ が高い。 その三は、一般的自由についての量島裁の判決であろう。被拘禁者に対する喫煙の禁止処分が、在監者の自由およ へのレ び幸福追求の権利を侵害する︵憲法一三条に違反︶という上告理由に次のような判旨を示した。すなわち﹁喫煙の自 由は、憲法二二条の保障する基本的人権の一つに含まれるとしても、あらゆる時、所において保障されなければなら ないものではない。⋮⋮喫煙禁止という程度の自由の制限は、必要かつ合理的なものである﹂。仮定的であるが、 ﹁喫 煙の自由﹂が二二条の保障内容の一環として考えても無理がないことを示している。 ここでは、この権利に具体的権利性があることを示唆した、主として最高裁の判例をみてきたが、結果的には四〇 年代︵下級審では三〇年代後半︶に入ってからの司法の動きが、この権利確認の点を線に結びつけたといえよう。そ して、学説が、面に深化するための権利形成に関わっているのが、今日的状況といえよう。 このように判例の影響をうけて、幸福追求権が、一定の具体的権利性を認めるとしても、その権利の内容をどのよ うに理解するかで、学説も三説にわかれる。第一説は、ボン基本法二条一項の、いわゆる人格の自由の発展の権利を 導入して考える、いわば人格中心説である。つまりこの権利は、基本権の心に位置して、人格と深く関わりあいがあ パぱレ る、倫理的かつ道徳的な内容をもつ権利だと考える。第二説は、人間の生活領域に関わって考える、例えば散歩の自 由、服装の自由などの、いわば一般的自由説である。そして第三説は、この権利を統一的な全体としての概念と把握 のレ した上で、人格的生存に不可欠な状態および行為をすべて含むところの、いわば包括的基本権と考えるものである。 第一説でいう権利内容は、どちらかといえば、思想および良心の自由︵一九条︶や信教の自由︵二〇条︶の領域
の問題であり、しかもそれが現実性のあるものなのか、それとともに人格の核心が﹁公共の福祉しの制約をうけると ハびレ いう背理をはらむという批判があり、学説上は二説を理解した上で、第三説が有力である。 次に、幸福追求権を全人権体系上でどこに位置づけるかであるが、第一説に立てば、当然に自由権的基本権に属す るといえよう。第二、第三の場合は必ずしも、その帰属が明確ではない。つまりその内容をどのように考えるかで異 なるからである。しかし、一三条が個人主義ないし自由主義思想の流れにあると理解すれば、自由権的基本権に属す ると考えられよう。ただし、現代国家が標榜する福祉国家の宣言を考えると、幸福追求権は必然的に核心的立場に位 置しなければならないので、自由権ないし社会権の両者の性格を併存しているともいえる。また、この権利は、︸四 条以下の個別的人権とはどのような関係に立つのか。包括的基本権と理解すれば、当然に他の個別的基本権の、いわ ば補充的立場にあると解されよう。換言すれば、各個別的基本権によって保障されない、人格的生存に不可欠な諸々 の権利が、一三条によって法的にフォローされるということである。その意味では両者は特別法と一般法との関係に びレ あるといえよう。 ︵王︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ 作間忠雄﹁幸福追求権﹂ジュリスト六三八号三六四頁。 美濃部達吉﹃日本国憲法原論賑 ︵一九五二年︶一六七頁。 法学協会内註解日本国憲法﹄ ︵一九五三年︶三三八頁。 宮沢俊義、芦部信喜全訂﹃磯本国憲法﹄ ︵︸九七六年︶︸九八頁。 東 洋 法 学 ノ\ 一
︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ ︵憩︶ ︵難︶ ︵12︶ ︵招︶ ︵14︶ ︵婚︶ ︵掲︶ ︵貿︶ 個人の尊厳と幸福追求権 八二 佐々木惣一﹁日本国憲法論﹂四〇〇頁以下参照。 桜田誉﹁憲法における人権の保障﹂関西大法学部編﹃法と政治の理論と現実﹄二五四頁。 樋口陽一他﹃注解日本国憲法︵上巻︶﹄二六九頁。 判例の動きを分析した論文として、粕谷友介﹁司法過程における憲法ニエ条﹂上智法学論集第三〇巻第二、三号合併号 二五頁以下。 東京地判昭和三九年九月下民集一五巻九号壬二一七頁。 大阪高判昭和三九年五月高刑集一七巻四号三八四頁。 最大判昭和四四年一二月刑集二三巻一二号一六二五頁。 佐藤幸治﹁憲法と人格権﹂有倉遼吉教授還暦記念集﹃体系・憲法判例研究H基本的人権㈹﹄二一五頁。 最大判昭和四五年九月民集二四巻一〇号 四一〇頁。 田口精 ﹁ボン基本法における人格の自由な発展の権利について﹂法学研究︵慶応大︶三六巻二号三六頁。 種谷春洋﹁生命、自由および幸福追求権﹂ ﹃憲法璽人権⑭﹄一三六頁以下。この権利発展に精力的にとり組んだ種谷教授 は、この権利は、憲法二二条の﹁個人の尊厳﹂の原理と不可分で、それを体現するものであるとした上で﹁包括的な内容を もち、憲法各条に個別的に保障された人格的生存に必要な諸権を含むが、このことは、憲法各条に個別的に列挙されないも ので、人格的生存に必要な諸権利を排除するものではない。けだし、幸福追求の権利は憲法以前に存する人格的生存に必要 な権利︵この意味の自然権︶が憲法上の権利にまで導入されたもの、と解されるからである﹂ −幸福追求の権利﹂ ︵別冊ジュ リスト・法学教室7三一頁︶。 佐藤前掲︵12︶壬二頁参照。 大西芳雄﹁人格権ー憲法的アプローチ﹂ ﹃憲法と行政争訟賑四一頁以下参照。
五 幸福追求権の内容 幸福追求権は、いうまでもなく憲法一三条前段の﹁個人の尊厳﹂の原理を、基礎的に体現化した側面を所有してい る。従って、権利の性格と内実は、より個人の人格価値と深く結びついていることが一つの特徴点である。換言すれ ば、民主社会の地下水の本流である、価値相対主義を、黙示的に認めた精神的風土の上に結実する権利ともいえる。 これらの意味から、その権利内容は、必然的に多種多様で、その形態を、一言で括ることができないので、いわば﹁無 まレ 名基本権﹂と呼ぶことも可能といえよう。このような性格をもった内容なので、具体的に列挙することは困難である が、あえてそれを類形的にみると、一般的自由権、人格権、そして自己決定権と整理することができよう。 一般的自由権の理解は、憲法上の人権規定は、歴史的に国家権力によって侵害された経験から学んで列挙されたも ので、他方、そのことの意味は、その外の各種の自由は、 ﹁公共の福祉﹂に反しない限り黙示的に認められていると ハ レ いう、いわば個別的自由権の間隙を埋めるための権利という考えである。そして、その権利の法的根拠を二二条の幸 福追求権に求める見解である。換言すれば、二二条は列挙された自由権から零れた自由権を、法的に確かなものに補 充しようとするものである。 この見解を端的に表明したのは、最高裁の補則意見の次のものといえよう。すなわち﹁憲法の人権と自由の保障リ ストは歴史的に認められた重要性のあるものだけを拾ったもので、網羅的ではない。従ってそれ以外に権利や自由が 存せず、またそれらが保障されていないというわけではない。我々が日常生活において享有している権利や自由は数
東洋法学
八三個人の尊厳と幸福追求権 八四 かぎりなく存在している。それらはとくに名称が附されていないだけである。それらは一般的な自由または幸福追求 パ レ の権利の一部分をなしている﹂。本件で問題になった、外国旅行の自由は勿論のこと、その他に、服装の自由、喫煙 の自由など、生活上で数かぎりなく存在しているといえよう。ただ、この権利を素直に認めるとしても、権利の性格、 内容、限界が明確でないという難しい問題があろう。また他方、幸福追求権は、 コ般的には、それのみでは具体的 な人権を生み出すものではなく、民法七〇九条など他の法令の規定による補充をうけて初めて裁判によって実現され パ レ る人権となる﹂性質のものなので、安易に、すべてを一般的自由権とすることは、疑問が残るともいえよう。また、 パうレ 一般的自由権の見解に対して、 ﹁個別的基本的人権以外には﹃一般的且由梅﹄に限定されるのであろうか﹂という指 摘とともに、幸福追求権の現代的立場︵前述したように社会権も併存して理解すべきであろう︶に立つとこの見解だ けで包括することは一つの問題性を残すといえよう。 次に、人格権であるが、この類形は、幸福追求権の中核的内容を占める一つの説といえよう。ここでいう人格とい う概念は、一人ひとりの倫理的側面と深く関わるところから、画一的かつ統一的に説明することは困難である。しか し、誰れもが、自ら学習し修得した価値観︵倫理観︶で、 ﹁我が道﹂を生きることが、結果的に充実した生活に結び つくことは否定できない。その面で人格権は、きわめて多義的であるが、あえていえば、その人の人格的価値自体、 または、それと深く関連を有する生活領域に関する権利である。 このような理解で憲法二二条の趣旨を捉えたのが、次の判旨といえよう。すなわち﹁個人の尊厳は、相互の人格が 尊重され、不当な干渉から自我が保護されることによってはじめて確実なものとなるのであり、そこで右条項は個人
の尊厳を保護する上で必要不可欠な人格的利益を広く保障する趣旨のものであると解される。そして、その一環とし て、他人がみだりに個人の私的事柄についての情報を取得することは許さず、また、他人が自己の知っている個人の 私的事柄をみだりに第三者へ公表したり、利用することは許さず、もって人格的自律ないし私生活上の平穏を維持す レ るという利益は、充分尊重されるべきである﹂と判示している。 アロ 人格権は、幸福追求権の主要な要素をなすものなので、およそ﹁個人の生命、身体、精神および生活に関する利益 ハ レ ヘ レ は、各人の人格に本質的なものであって、その総体﹂とみなされている。具体的には名誉権、氏名権、肖像権、プラ がレ イバシー権、宗教的人格権、著作者人格権、静穏権などが含まれると考えられるが、その他に身体の自由に関わる事 柄も重要となろう。ただし、包括的な私権としての人格権が、そのまま幸福追求権の内容となるかどうかは疑問であ ろう。少なくとも﹁人格的生存に不可欠な価値または法益であって、その内包と外延が具体的状況のもとである程度 れレ 特定可能なもの﹂に限定されよう。 次に、最近の動きとして、個人は一定の私的事柄について、公権力から干渉されることなく自ら独立して決定でき ると考える、いわゆる﹁自己決定権﹂が幸福追求権に含まれると考える説は注目される。すなわち、憲法一三条で個 人の尊厳性を宣言し、それを体現するものとして、後段で、いわゆる幸福追求権を保障しているので、当然のことな がら、個々人の精神的自由に裏づけられた個性的な、いわば私的ライフスタイルを憲法の人権体系に積極的に位置づ けようとする動きである。理性的で、しかも責任を兼ね備えている人間には、自己に関わる事柄は自ら決定する権利 があるという理解である。換言すれば、自己の存在は、自己の自由意志で選択し、投企し、克服することが創造的生 東洋法 学 八五
個人の尊厳と幸福追求権 八六 活に結びつくという、いわばある種の実存哲学の観念に裏づけられた主張ともいえる。また、これらの現象は、現代 社会の官僚化、画一化のなかで進行する沿個性化に対する、人間疎外からのアイデンティティの働きとも取れよう。 ただし最近は、服装、性的行為、喫煙の自由などの、いわゆる私生活全般に関わって話題になっているが、別にこの 権利が﹁人格的自律権しといわれるように、より人格と関わって、しかも、具体的権利性が重い事柄がその対象とな のレ ると考えられる。医療行為に関して、患者の自己決定権を無視することが、法律論としてどのような問題があるかな おレ どが一部で論議されているが、この説を援用した判例もなく、学説的にも最近の動きである。 パ ロ 最近の学説の一つとして話題になっているのをとり上げると、そこでは具体的に次のように整理している。①長髪、 ひげ、さらに成人の性的行為、離婚などのライフ・スタイルの自由、②喫煙、登山などの危険への接近の自由、③産 む、産まない、治療拒否、安楽死、自殺などの生死に関する自由などである。そしてこれらの自己決定権の法的根拠 めロ は﹁国民は憲法をまつまでもなく自由であり、自己決定は憲法が例示する諸自由の前提ないし上位概念と考える﹂と される。ここでいう﹁前提ないし上位概念しが何を意味するのか、今のところ明確でない。しかも、自ら﹁国民は憲 法をまつまでもなく自由である﹂と法的理解として前提が欠落した矛盾した理解をしているので、 ﹁これでは、自己 レ 決定権が﹃自然の自由臨に解消される﹂となろう。また例え、自己決定権を憲法上で保障される基本的人権と考えて も、 ﹁前提ないし上位概念﹂として、憲法上で、特定条文に法的側拠をもたないことは、解釈論的構成としても、疑 ザソ 問が残るといえよう。 以上で、幸福追求権の、法的測面をみてきたが、その権利が法的に確認されるためには、さらに、社会的にも一定
の条件を満たすことも欠かせないであろう。例えば主張される内容が、市民生活のなかで、 う、いわば歴史的かつ社会的に正当性が確認されることであり、しかも、その確認の上で、 福に関わって普遍性を有するということが必要であろう。また、同時に一三条後段が示す、 わば他人の基本権を侵害しないことが最低の条件ともいえよう。 より基本的に大切だとい 多数の市民生活上で、幸 ﹁公共に反しない﹂、い ︵ま︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ 長尾一紘﹃β本国憲法︵新版︶﹄一二五頁。 橋本公旦﹁憲法原論︵新版︶﹄一九四頁以下で、その理由を次のように説明している。 ﹁第一に、憲法の精神からみる、 国民はまず自由であり、憲法は国家権力による侵害の起りやすい自由を例示的に列挙してこれを保障したものと考えられる。 第二に、もし個々の自由権のほかに自由が認められない﹂とすると、その余の事項について権力者の意のままに自由が制約 されることとなる。したがって、個別的自由権の間隙を埋めるために一般的自由権の存在を認める必要がある﹂。 ﹁旅券発給申請拒否事件﹂における、田申、下飯坂両裁判官の補助意見︵最大判昭和三三年九月民集一二巻一三号一九六 九頁︶。 伊藤正己﹃憲法﹄一九三頁。 抱喜久雄﹁非列挙基本的人権の保障としての二一案前段についてし関西学院大法政学会﹃法と政治﹄三一巻一号八四頁。 いわゆるノンフィクション﹁逆転﹂訴訟の一審判決︵東京地判昭和六二年二月判例時報一二五八号二二頁︶。 人格権の諸類型を分析した労作として、五十嵐清﹃人格権論﹄があり、そこでは、名誉権、氏名権、肖像権、プライバシー 権、その他の人格権にわけている。尚、斉藤博﹃人格権法の研究﹄はドイツ法における人格権の発展を研究したものとして 注目される。 東洋 法 学 八七
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︵m︶ ︵蓑︶ 個人の尊厳と幸福追求権 八八 大阪国際空港公害訴訟二審判決︵大阪高判昭和五〇年二月判例時報七九七号三六頁︶。 いわゆる北方ジャーナル事件で、最高裁は︵昭和六一年六月民集四〇巻四号八七二頁︶ ﹁言論、出版等の表現行為により 名誉侵害を来す場合には、人格権としての個人の名誉の保護︵憲法ご工条と表現の自由の保障︵同二一条︶とが衡突し、そ の調整を要することとなる﹂と判示して、人格権のなかに名誉権が憲法上︵ 三条︶保障されていることを認めている。こ れに対して、 ﹁名実ともに人格権概念を承認﹂し、しかも﹁わが国の人格権法発達史の上で画期的な意味﹂をもつ判決であ ると、高く評価されている︵五十嵐清﹁人格権の侵害と差止請求権﹂ジュリスト八六七号三三頁︶。 いわゆる自衛官合祀拒否訴訟の第︸審判決︵山口地判昭和五四年三月判例時報九∼二号四四頁︶は、宗数的人格権とは﹁静 譲な宗教的環境のもとで信仰生活を送るべき法的利益﹂を意味するとした上で、憲法の保障する﹁信教の自由はその違法な 侵害に対して裁判の救済を求めるべき法的利益を保護されたものとして、私法上の人格権に属するものというべきであると 判示した。控訴審の広島高裁はこれを支持して、控訴を棄却している︵広高昭和五七年六月判例時報一〇四六号三頁︶。最 高裁の判断が注目されたが、圧倒的多数で原判決を破棄した︵昭和六三年六月民集四二巻五号二七七頁︶。多数意見によれ ば﹁人が自己の信仰生活の静認を他者の宗教上の行為によって害されたとし、そのことに不快の感情を持ち、そのようなこ とがないよう望むことのあるのは、その心情として当然であるとしても、かかる宗教上の感情を被侵害利益として、直ちに 損害賠償を請求し、又は差止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならば、かえって相手方の信教の自 由を妨げる結果となるに至ることは見易いところである。⋮⋮原審が宗教上の人格権であるとする静譲な宗教的環境の下で 信仰生活を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることができない性質のものである。﹂とされた。 ただし、これに対し、伊藤正巳裁判官は、 ﹁私は、現代社会において、他者から自己の欲しない刺激によって心を乱されな い利益、いわば心の静譲の利益もまた、不法行為法上、被侵害利益となりうるものと認めてもよいと考える。﹂と批判して いる。 阿部照哉﹁個人の尊厳と幸福追求権﹂法務省人権擁護局編﹃人権保障の生成と展開﹄一七八頁。︵壌︶ ︵13︶ ︵M︶ ︵蛎︶ ︵始︶ ︵貿︶ 町野朔﹁患者の自己決定権﹂ジュリスト五六八号四四頁以下。 訴訟として、清酒製造の免許のない者が自己消費のために製造して、いわゆる酒造法に問われた事件で、被告人は﹁個人 が自己の材料で自家用に酒を作り、それを飲んで楽しむということは、個人が料理を作って食用することなどと同様、全く 私的事柄に属することであって、憲法一三条の規定する、幸福追求権のなかの人格的自律権︵自己決定権︶に含まれ、また、 自己の財産を処分する自由︵憲法二九条一項︶があると主張した。これに対して、千葉地裁︵昭和六一年三月判例時報三 八七号一五七頁︶は、酒類製造の自由は単なる経済的自由のひとつであり、それに対する規制も著しく不合理なものでない かぎり、憲法上許されると判断している。控訴審の東京高裁︵昭和六一年九月高刑案三九巻四号三五七頁︶は﹁物を造ると いうことには、その物を造る過程を楽しむという意において幸福追求権の行使であり、また物を造ることで自己表現をして いるという意味で表現行為でもあるという側面があるにしても、生活に必要な物を造る行為自体は、利潤目的を有するか否 かを問わず経済活動である﹂と一審判決を支持している。 山田卓生﹃私事と自己決定﹄ ︵一九八七年︶三三三頁以下。 山田前掲︵U︶三四三頁。 阿部前掲︵n︶一七九頁。 佐藤幸治他﹃注釈日本国憲法上巻﹄三〇四頁。 六 おわりに 憲法二二条の法的意義と、それに対する見解動向を概観してきたが、特に後段の、いわゆる幸福追求権を、前段と の関係で、どのように体現し、権利化するかで、必ずしも統一化されていない。それは﹁人権﹂の観念をどう捉える 東洋法学 八九
個人の尊厳と幸福追求権 九〇 かという相違からくるものであろう。そして、幸福追求権という、いわば憲法上の人権体系の地下水を流れる本流の 理論構成も不充分であるといえよう。しかし、憲法が目的とする人権の保障という、思想母体のなかから、一つの流 れとして、人格権という言葉で、その概念が発芽し、形成の途上にあることは否定できまい。 たしかに、日本の精神的風土のなかでは、人格権領域の保護ということになると、これは、もはや法の領域の問題 でなく、一種の倫理の問題として考えられた歴史的経過がある。しかし、社会経済の変化、変質のなかで、それが立 法者の﹁夢﹂であることが今日問われつつあるともいえる。人格価値を侵す、多くの事象のなかから、多種多様な権 利を、憲法一三条を拠りどころとして、創設しようとする動きは、それを物語っていよう。いみじくも、この権利研 究に精力的に活躍している、佐藤教授が語っているように、 ﹁背景的権利も個別的な明確な内実を持つに至ったとき ユレ は、主として包括的人権規定を通じて、実定法的権利としての地位を取得する﹂ことが、我らの憲法の核心に示され ていることを、日常レベルで考えはじめたのは、その証しである。そしてここでは言及しなかったが、平和的生存権、 学習権、環境権、知る権利などは、憲法二二条の補充的、いわば二重包装によって、法的市民権を得ているのはこれ らの動きの、一つの結実例といえよう。いずれにしろ、民主主義社会の法的シンボルである、 ﹁個人の尊重﹂が、社 会的に良い意味で浸透し、それと連動して、国民の幸福追求権が確かなものとして開花することが、国際化時代のな かにおける、日本の文化的貢献の一つともいえよう。その意味からも、この権利理論の発展の推移を今後もみまもり たい。
︵!︶ 佐藤幸治﹃憲法﹄ ︵新版︶三五八頁。尚、佐藤教授は、 ﹁人格的自律権は、つまるところ、各人が”自己の生の作者であ
る”というところから出発しようとするものだしという考えから、この権利の現代的問題を論じているのは興味深い︵人間
の具体的生活の中の憲法し﹃人権の現代的諸相﹄二頁∼≡二頁︶。