No. 59, pp.11 - 22, 2009 はじめに 大正新教育のリーダー及川平治は、「研究法の訓練」として児童に研究させつつ、学び方を指導す る実践を試みた。この取り組みは、ほぼすべての教科で試され、その実践記録や授業構想は、『分団 式各科動的教育法』の中で紹介された。歴史科においても「菅原道真」を教材として、その実践が載 せられている。 そこで、本論文では、彼の「菅原道真」の実践を検討し、何をどのように研究させようとしたのか、 現代に生かすことのできる特徴は何か、ということについて論究する。その際、明治末から大正初期 にかけて、一般的に行われていた歴史科授業や明石女子師範学校附属小学校で実践された歴史科授業 と比較しながら考察を行いたい。ところで、一般的な歴史科授業とはどのようなものか、ということ について考えてみなければならない。教育実践は、一人ひとりの教師が具体的な場に即して創り上げ るものである。つまり「一般的」ということは、実態のない平均化した姿である。そこで、教授法書 から指導案を複数例示したり、授業の様子について語られた記述をいくつか取り上げ例示する中で、 一般的な姿を創り出していくことにしよう。 なお、及川平治の歴史科「菅原道真」を取り上げた先行研究としては、大森正の「及川平治の歴史 教育論」があり、大森はこの論文の中で①及川の歴史観と国体思想との関係、②及川の提唱した歴史 科の学習方法、という 2 点について考察を行っている。 ①及川の歴史観と国体思想との関係については、中野光の大正自由教育の研究に基づき、大正自由 教育のリーダーたちが「天皇制国家権力に対しては、真正面の批判を避けるか、もしくはこれに忠誠 を表明するか、いずれにしろ抵抗の牙をもっていなかった」1)という主張に及川の場合を照らし合わ せ、「及川は時代の潮流にいささかも流されることなく、自己の学問に忠実にその歴史観を展開した」 と結論づけている。一方、②及川の提唱した歴史科の学習方法については、全体的な考察は筆者の考 えるところと同じであるが、以下の点については問題があると思われる。 ア 授業の姿をイメージできていないと思われること イ 及川の歴史科指導法の問題点に言及していないこと ウ 当時の一般的な歴史科指導法との関係を論じていないこと2)
及川平治の歴史科「菅原道真」の実践
―― 当時の歴史科の授業との比較を通して ――
伊 藤 真 治
The Educational Practice of History
"Michizane Sugawara" by Heiji Oikawa
―― In Comparison with the Class
of the History in Taisho Era. ――
筆者は、大森の研究を参考にしつつ、イやウに関心を持ち、その真髄に迫りたいと思う。 1 『尋常小学日本歴史』(第 2 期国定歴史教科書改訂版)の教材「菅原道真」 歴史科の目的は、小学校令施行規則第五条第一項で次のように示された。「日本歴史ハ国体ノ大要 ヲ知ラシメ、兼ネテ国民タル志操ヲ養フヲ以テ要旨トス」。 特に、尋常小学校の 5 年生と 6 年生で教授される歴史については、時代を代表する人物を中心とし て編纂されており、教授法書の中には伝記体の教授方法として、その例を挙げて説明のあるものもあっ た。また、修身科の教科書に歴史科の教材となった人物が一部取り上げられており、馴染みがあると いう意味で、児童に分かりやすい教材もあった。3) まず最初に、教科書の記述について検討しておこう。 第十三 菅すがわらのみちざね原道 真 藤原氏は其の先祖鎌足の大功を立てしより大いにあらはれ、光明皇后より後、御代代の皇后おほむね此の氏より 出で給ふこととなりて、一門益々勢を得、遂には御幼少の天皇を立て奉りて摂せつしよう政となるの例をさえ開きぬ。中に も藤原基もとつね経の如きは、其の勢殊に盛にして、宇多天皇(第五十九代)の御代に 詔みことのりして政治はことごとく基経の 手を経しめ給へり。これ関白の始なり。されば藤原氏はいつしか朝廷の政治を心のままにし、其の一門に縁えんなき 人は、たとひ皇族にても勢力を得ること能はざるに至りぬ。かかる時に菅原道真出でたり。 道真は学者の家より出でたり。藤原氏には縁なけれども、学問に長じ行正しき人なりしかば、宇多天皇は之を見 て重く任用し給へり。天皇はかねて藤原氏の権けんりよく力のあまりに強大なるをおさへ給はんとの思召ありしかば、基経 の薨ぜし後、道真を用ひて藤原氏の勢を分たんとし給ひしなり。 宇多天皇の皇子位に即き給ふ。これを醍醐天皇(第六十代)と申す。天皇は仁慈の御心深くましまし、寒夜に民 の苦を察して御衣をぬがせ給ひしことさへありき。天皇また宇多天皇の御志をつがせられて、道真を右大臣に任 じ、基経の子左大臣時平とならびて政を行はしめ給へり。然るに道真は年も長け才学もすぐれて、御信任殊に厚 かりしかば、時平は不平に堪へず、道真をねためる人人と謀りて、之を天皇に讒ざんしたり。道真は之がために官を 降して筑前の太宰府に遷されぬ。かくて藤原氏をおさへんとの宇多天皇の御志もむなしくなり、藤原氏は益々勢 を得たり。 道真の筑前にあるや、常に身をつつしみて門外にも出でず。或時嘗て賜はりし御衣を捧ささげて君恩のかたじけなき を思ひ、詩を作りて其の心を述べたることありき。かくて其の地にあること三年にして薨じたり。これ紀元 一千五百年代の中頃にして、今より凡そ一千年前の事なり。後に道真は高き官位を贈られ、世に天満天神とあが められるに至れり。4) 教科書の話の内容は歴史物語として簡単にまとめられており、量も適当である。しかし、上の記述 を見れば分かるとおり、教科書の文体は文語調であり、使われている語句も歴史独特のものが多いう えに、漢字もそのまま教科書に載せたので、児童が読んで理解するだけで大変であった。そのため、 歴史科においては教師の説話が児童の理解を助ける意味で重要であった。及川も「我が国の現教科書 は児童には極めて難解である、さりとて教授が教師の講演にて始終し、最後に教科書で纏めるのでは いかぬ」と述べ、教科書の難解さを認めており、それを分かりやすくするために、教師の適度な説話 を求めていたのである。5) さて、実際の教授案では一人の人物を学習するのに、2 時間から 4 時間ぐらいが割り当てられていた。 菅原道真についても同様である。 2 当時の一般的な歴史科指導法 ( 1 )教授法書に示された歴史科教授の方法 及川の教育実践の特徴を明確にするために、当時の歴史科の一般的な教授法の指導構想を明らかに したい。ここでは二つの資料から推察する。
①宝文館編『新国定教科書準拠小学校教授法』1910(明治 43)年より 一、予備 前課復習の後、目的を指示し、次に児童の見聞せる事項又は既授の事項にして新教材に関係あるもの を問答すべし。 二、教授 (一)教材を二三の小節に区分し、順次に之れを教授すべし。 (二)教授には講話式を用ふべし。講話は熱心にして生気あり、言語は通俗にして平易明瞭なることを要す。 (三)講話の際は地図・絵画・遺物・古文書等を利用して児童の想像を容易ならしむべし。 (四)次に史実の原因・結果につきて判断せしめ、人物については道徳的判断下さしむべし。 (五)最後に教科書を読ましむ。 三、整理 (一)(略)一人物の事蹟を授け終りたるときは他の人物と比較せしめ、以て其の時代の特色又は其の時代に於 ける国民志操を悟らしむべし。 (二)事実の要項を綴り方の文題とし、又は人物によりて学びたる道徳的教訓を現今の時代に応用せしむべし。6) この書は「始めて教授法を学ばんとするものの為に編纂したるものなり、故に理論を避けて実際を 主とし最も平易に最も穏健に説明し」たと記述されている。7) 「予備」、「教授」、「整理」の 3 段からなり、ヘルバルト派の段階教授の影響を受けていることがよ く理解できる。「予備」は復習の意味であり、新しく教授する教材について児童がすでに学んだこと を問答して確認する意味がある。 「教授」では、教師の講話が教材を区分して行われる。平易な言葉を使って熱心に、授業に活気が 出るように行うのが理想とされている。その際に、地図や絵画・遺物等を用いて、児童が想像しやす いように配慮しようとしている。講話の途中で問答が行われ、史実については、その原因と結果、人 物に関しては道徳的な判断を答えさせるようにしている。そして、教授の最後に教科書を読ませてい る。 「整理」では、以下の 4 点が示されている。学習した人物を他の人物と比較させること、その時代 の国民的志操を語らせること、綴り方を書かせること、道徳的教訓を応用させることである。「整理」 での構想は、今の時代の教師にない構想であり、現代の授業においても参考にできることである。 ②小川正行他『各科教授法 改訂 3 版』宝文館 1911(明治 44)年 P 167 ~ 169 一、予備 修身・国語・地理等の教科にて学習せし事項の復習。 風俗・慣習・祝祭日・歌謡又は遊戯等国民生活上の事蹟の問答。 城砦・神社・墳墓・古碑等郷土に存ずる歴史的遺物の直観及び史談の問答。 二、提示 一単元の教材を適当に分節し、各節毎に歴史地図に依り、教科書又は其の絵画・肖像画等を示して直観に訴 へつゝ説話す。 教科書に就きて大体を把握し、復演せしむることあるべし。 説話の綱目・人名・地名・年代は順序正しく板書し、且説話は充分趣味あるやうに発表し、児童をして明確 に理解し且想像せしむべし。 各節毎に要項を問答し、而して後児童をして復演せしめ記憶を確実にす。
三、総括 人物の行為・事件の結果等に就き、其の真相を推究せしむ。 因果の関係を推測し、批判を加へ、社会及び人事に関する見識を養ふ。 適当の場合には、以前に教授したる事実又は現今の社会状態と比較推究せしむ。 時代又は年月に依りての事件の総合。 教科書を出して反復読誦せしむ。 四、応用 年表系譜等の作成。 伝記等の歴史的作文。 教科書の挿絵、其の他の歴史画の説明。 時代の特徴及び人物の性格叙述。 道徳的反省。8) この著作は、小川の他に、佐藤熊次郎、篠原助市が著者である。この書の目的は「師範学校に於け る教育科の系統的教科書となさんが為に、師範学校教育科教授要目に拠り、最新の学説に基づき、著 者の経験に照らして編纂したるものゝ一部なり」と、述べられている。9)後に改訂されて『新撰各科 教授法』と名前が変わるが、歴史科の教授方法は同じであり、及川が佐藤と「学校教育」誌上で論争 したとき、本書を批判していることからみても、よく読まれた書であると推察できる。10) やはりヘルバルト派の段階教授の影響があり、「予備」、「提示」、「総括」、「応用」の 4 段となって いる。「予備」は、問答形式で復習が中心であり、自分の経験を想起させる意味がある。「提示」は分 節された教材の説話であり、児童の直観に訴えるために歴史地図、肖像画、教科書の挿絵が示される。 説話の綱目が板書され、それに従って説話が行われたのであろう。最後に児童に復演させ、理解がど れぐらいできているか試された。 ( 2 )教授法書に示された菅原道真の実践 次に、実際の教授案を分析検討しつつ、当時の授業の様子を明らかにするために、及川の実践例と 比較する意味で、菅原道真の記載されている資料を取り上げる。 ① 武藤忠義著『日本歴史教授新案』育成会 1910(明治 43)年より 第十三 菅原道真 第一時、藤原氏の隆盛に赴ける次第 第二時、道真の登用醍醐天皇の御慈悲 第三時、道真の左遷 教授 此の時間には菅原道真の出でたる当時の有様を知らさんが為に藤原氏の隆盛に赴き朝権を握るに至れる次第を 話すのである。 教具の準備 一、年代図 二、天皇御系図 三、藤原氏系図 教授の方法 今日からは菅原道真公の話をするのであるが、先づ当時我が国は如何んな有様であったか云ふ事を話さう。 甲、予備 一、藤原氏の先祖は誰か、 二、鎌足は如何なる功績があったか、其の子不比等は如何、 三、皇室と藤原氏とはどんな関係があったか、藤原氏より出られた皇后は何方か 乙、教授
◎藤原氏益々勢を得 (略) ◎良房摂政となる (略) ◎藤原基経 (略) ◎菅原道真出づ (略) ◎教科書講読 (略) 丙、練習及整理 一、菅原道真は世の中の如何なる有様の時に出たか、当時の天皇は何方か、 二、藤原氏の隆盛になった元は何にあるか、 三、初めて摂政となったは誰か、摂政とは如何なる役か、 四、中にも勢の盛にあった人は誰れか、基経は、何になったか、関白と摂政は如何に異なるか 五、藤原氏以外の諸氏は如何にあったか、11) 武藤忠義の構想では、菅原道真の話は 3 時間であり、上の例は 1 時間目の菅原道真が歴史の舞台に 登場するところである。「予備」では、問答法で復習的な質問があり、「教授」は教師の説話で、藤原 氏がますます勢いを得たことから、菅原道真が登場したところまで、4 つに分けて語られている。「教 授」の最後に教科書の講読がある。「練習及整理」では、理解を問答法で問うている。この時間に学 習したことを話させることによって、復習し整理する意味があったと考えられる。 このような授業では、教師の語る時間が長くなり、時間的に足りないことが多かった。小平高明は 当時の歴史科の授業の問題点を「一、縁遠い。二、主人お留守の長ばなし。三、本読むとき鐘が鳴る。」 と、紹介している。12) また、児童にとってはただ話を聞くという受動的な態度を強いられることになりかねなかったので、 適度に問答を入れて刺激を与えたのであった。 ② 永島意之助『彙類的各科教授の実際案と其取扱』実文館 1911(明治 44)年 一、題目 尋常小学日本歴史巻一第十三菅原道真 (二時間) 一、目的 宇多天皇が道真を登用して藤原氏を抑へんとし給ひて御志の中途に挫折したる事情を知らしめ、併て 菅公の人格を敬慕せしめんとす。 一、区分 第一次 1 、藤原基経関白となる 2 、宇多天皇道真を登用し給ふ 3 、醍醐天皇 第二次 1 、道真左遷せらる 2 、太宰府に於ける菅公の事蹟と天満天神 第一次 一、目的 菅原道真の出でたる有様を知らんが為めに藤原氏の隆盛に赴き朝権を握るに至れる次第を教ふ。 一、準備 年代図、天皇御系図、藤原氏の系図、菅原道真の肖像 一、教法 1 、目的を指示す。今日より菅原道真公の事蹟を教へん。 2 、道真の事蹟につき既知の事項を問答す。 3 、当時藤原氏の権勢の盛なりしこと。 イ、鎌足の大功ありしことの問答 ロ、光明皇后の後代々の皇后は多く藤原氏の出なりしこと ハ、基経はじめて関白なりしこと ニ、藤原氏の勢力は皇族をも凌ぐに至りしこと 4 、道真の家系及幼時 イ、学者の家 ロ、幼時已に才学ありしこと 5 、宇多天皇 イ、天皇道真を登用したまふ ロ、基経の死後ますます用ひらる
6 、醍醐天皇 イ、天皇の御仁慈なりしこと ロ、道真時平とならびて政をたすけ奉る 7 、教科書の講読をなす。 8 、以上を復演せしむ。 イ、藤原氏の権力の盛になりし次第 ロ、宇多天皇はいかに道真を用ひたまひしか ハ、醍醐天皇はいかに 9 、以上を概説せしむ。 10、次の事項を問答して教訓を与ふ。 イ、藤原氏が政権を握りしことにつきての批判 ロ、宇多醍醐の二帝が道真を用ひたまひし御志はいかに ハ、道真はいかにして此志にこたへ奉りしか13) 永島意之助は、当時、福岡県女子師範学校附属小学校の主事である。「予備」、「提示」といった段 階が記入されていないのは、「教授の自然の順序によりて記述し、従来の形式的段階に拘泥せず」と して、「予備」や「応用」を取り除いたということである。14)しかし、実際は段階が示されていない だけで、1 は「目的指示」、2 は「予備」で復習であり、3 ~ 7 までが「提示」で、ヘルバルト派の段 階教授とほぼ同じ展開をしている。「提示」では教師の説話が分節されて行われており、7 のところ で教科書の読解をしている。さらに 8、9 では「復演」、「概説」が行われ、まとめとしての「整理」 となっている。10 では、「教訓を与ふ」とあり、修身科と歴史科の結びつきを考慮している。 ( 3 )当時の児童の歴史科授業に対する反応 さて、今まで紹介したような歴史科の教授案に基づく授業が、当時の子どもたちにどのように受け 入れられたかを明確にしておこう。歴史科の授業が当時の教授案どおりに進められたとすれば、当然、 児童は、教師の講話を聞くことが中心であり、教師は話が長くなりすぎないように、何を語るべきか と決めて教授したと思われる。つまり授業の正否は、教師の説話、問答の仕方にかかっているといっ ても過言ではなかった。 「僕の先生の歴史教授は、実に、此の年代記を読んでゐるのと、同じ事だ。何天皇の何年には、ど んな出来事が、あった、次の年の戦争は、こうだった、山が破裂した、湖水が湧き出た、」(中略)「だ から僕等の歴史時間と云ったら居眠りの練習には、最、適当だとこぼしてゐるよ」15) このように、授業が事実の羅列になると、興味のわかないつまらないものになったようである。一 方、「先生の歴史教授は、宛ま る で然、声色使ひさ、其の上、おまけに、身振りもなかなかうまい、(中略) 和気清麻呂公のお話が、前学期の終にあったが、この公が勅を奉じて、宇佐に出発しようとする時、 妖僧道鏡が、眼を怒らし、剣を按じて、卿、神勅を受け来て、我をして皇位を得せしめは、卿も亦、 極官の栄を得ん」といった活劇調の話をする教師もいた。 しかし、このような教授ぶりも「先生の声色を聞き身振りを見てゐる間は、随分、面白いが、教室 を出て考えてみると、僕等の頭に歴史の智識は、からぜろだ」との、問題点が指摘されている。16) 「歴史の智識は、からぜろだ」というのは、多少過剰な表現だと思われる。しかし、何が大事なの かという教材研究が不足し、細部にわたって講話をした教師も多かったようである。ただ、児童にとっ て知識は身に付かなかったかも知れないが、歴史に対して興味を持ち、歴史の授業を楽しみに思う児 童がいたことは、このような説話教授の一定の成果であると評価したい。 尾崎實も『わが国における歴史教授法の変遷』の中で、当時の教育を受けた人たちの約半数が「授 業中における教師の血を沸かすような話に興味を持った」と述べているのである。17)
3 及川平治「菅原道真」の実践とその解説 それでは、及川が以上のような歴史授業をどのように改革したの考察してみたい。 尋常小学日本歴史巻一─第十三 菅原道真─尋常五学年 一、学習動機の惹起。 第一法 ( 1 )藤原氏について学んだ事柄を話せ、─非常の勢力あること……(旧事情) ( 2 )斯る時代に藤原氏に縁のない菅原道真公が出た………(新事情) ( 3 )如何なる事件が起ると思ふか………(問題) 第二法 ( 1 )毎年、入学式の当日参拝する休天神は誰を祀ったのであるか。 ( 2 )道真公お憇みの蹠石とは何か。 明石町大蔵谷に道真公宇佐に遷る時休息せる蹠石あり、是処に道真公を祀る世に之を休天神といふ。 ( 3 )如何なる事情ありて、是処を通過せられたか、本日は其の事情を研究せよ。 二、史実の吟味。 教師が史実を吟味して着眼点を定めるためで児童の仕事ではない。 ( 1 )宇多天皇の御要求と藤原氏の行動の不一致、道真と時平の衝突。 ( 2 )藤原氏の勢力あること、(旧事情)、道真公の出でしこと、宇多天皇の御志、醍醐天皇の即位(新事情)、道 真の重用(旧事情)時平の構陥(新事情)道真の左遷贈位(結果) ( 3 )解釈及び法則。─人は権力を欲し、政権にあづかりたがるものなること。一時、栄華に暮らすものあるも、 是は必ずしも善徳の酬にあらざること、人間の価値、善行の酬は永久に亘って定まること。廟堂に立つものゝ人 物の良否は国家の安危に関すること。 ( 4 )評価の目標。─醍醐天皇の寒夜に御衣を脱がせ給へる御仁心、道真の難局に立った決心、筑前にある間の 行為、時平の行為、宇多天皇の御遺誡について評価(賞讃非難する)道真の忠誠についての所感発表。 三、題材の自力構造。 (一)、教科書の読解─児童は教科書を読む、教師は難字難句の質問に応ずる、辞書を用ひて調べることも許す、 次に、児童は欄外題目につき問題系列をつくる。宇多天皇の時の事件、何故に道真を用ひたか。醍醐天皇も道真 を御信任なされたか。時平は何故に讒を構へたか。それからどうなったか等。 (二)、資料の蒐集。教師は菅原氏の略系を描き、菅公の肖像をしめす、児童は教科書を数回読む、挿絵を考へる、 地図を見て太宰府の位置を調べる、北野神社の掛図を見る、教科書の本文を分解し、順序を附し、要点を帳簿に 記載する。表明を考へる、此の間教師は教科書読解の不十分なるものを集めて分団教授を行ふ、分団教授の際は、 単に読解のみならず、分節の定め方各節の要領をも問答する。 (三)、表明及批正。─研究したことを表明させる、表明は帳簿の要領をみながらなすことを許す、又一二生をし て黒板上に説明しつゝ図解又は表解させる。教師は表名に基き問答しつゝ内容の充填をなし、知識を系統立てる と同時に感情を動かすことを努める、故に内容の充填は具体的でなければならむ。具体的説明としては、道真と 時平の年齢才学人物の比較をなし。道真配処にあって毫も朝廷を恨み奉るの心なく、文墨を以て自ら慰め余年を 贈りし事。談話の進行中に、左遷せられ京を出づるとき庭前の梅花に対して詠める歌、九月十三夜配処にて詠じ た詩、宇多天皇御位を譲りたまふとき親書して醍醐天皇を誡めたまへる謂はゆる寛平御遺誡の一節を読みきかせ る。北野神社は官幣大社に列せられてあること、明治三十五年に菅公一千年祭のありし事などを敷衍する。 (四)解釈評価。─児童は史実の全体について数回反覆する、反覆中に現代を解釈するに足る個々の事実又は因 果関係を考へる、解釈の目標は「史実の吟味」に明記してある、若し児童が自力にて発見し難いときは斯々の史 実より因果関係を見出せと命ずるがよい。解釈終れば、之を発表させる、時に帳簿に記入させておく。次に評価 に移る、評価は史実の吟味の処にあげた目標点に照して自由に所感を述べさせる、教師も所感を述べる。全級児 童に菅公の歌をうたはせる、放課後打揃うて休天神に参拝することにする。 (五)論証。─本日研究せる史実全体を反覆させる、相対的価値を判断する、則ち人物事件の特徴を捕へる。此 の間、劣等児には反復発表させる、若し十分に徹底せぬ点あらば、再び教へてやる。児童は本日研究の経路を考へ、 史実より現代生活を解釈すべき事実又は法則を発見する方法を会得する。18) 授業の進行は、まず、「学習動機の惹起」として、児童が歴史に対して興味を持つようにしている。 及川はここで二つの動機の起こし方を例として挙げている。
一つ目は、事件の推移に興味づける方法。 二つは地域の遺跡と関係づけ、自分との距離感を縮める方法。 これらは現代にも通用する興味の起こし方である。 次に、彼が「史実の吟味」を取り上げたのは、当時の一般的な歴史教授において、教材の大事なと ころは何か、という教材研究が足りないことに対して、教材研究の仕方を読者に示し、その「着眼点」 を提示したのである。ここで( 2 )又は( 4 )は、要点のまとめ方を示そうとしたもので、どちらか が板書に書く項目(短い言葉)となったと予想される。また、( 3 )は授業の最後の「(五)論証」で、 児童に何を発見させるべきか、についての教材研究である。 続いて「題材の自力構造」である。「動的教育」は自学輔導主義の教育法であり、教師の説話より 先に、児童の自学として「(一)、教科書の読解」が行われる。しかし、教科書が児童にとって難解で あるので、教師の助けが必要であり、児童の質問に応じたり、難解な言葉を小黒板に書いておいたり、 辞書を活用して調べさせる等行っている。19)教科書が読解できた児童については、研究問題の作成を 行う。ここでの欄外題目は「藤原基経、宇多天皇、醍醐天皇、道真の左遷、天満天神」であり、児童 は「宇多天皇の時の事件、何故に道真を用ひたか。醍醐天皇も道真を御信任なされたか。時平は何故 に讒を構へたか。それからどうなったか等」といった問題を作成した。「宇多天皇の時の事件」とい うのは、教科書からは作成できない問題であり、予習がなされているのか、教師の説話が行われたの か、この問題を作った児童が何らかの方法で資料の補充を行っていることになる。 「(二)、資料の蒐集」は、教師の活動と児童の活動に分けている。教師は、系図を描き、肖像画を 示し、少しでも歴史が身近に感じられるように配慮している。一方、児童は研究問題を解決する活動 を行っている。 「児童は教科書を数回読む、挿絵を考へる、地図を見て太宰府の位置を調べる、北野神社の掛図を 見る、教科書の本文を分解し、順序を附し、要点を帳簿に記載する。表明を考へる」と、多様である が、その一方で、歴史が分解され、物語としてのまとまりが失われていると考えられる。 「表明」では、研究したことを発表させている。ノートを見ながらの発表であり、代表の児童に板 書をさせている。教師は、その発表に対して問答法を使って理解の確認を行い、説話して「内容の充 填」を行っている。その説話は具体的であることに気をつけ、児童の感情がゆさぶられるように話す ことが大事であると述べている。児童の発表に対して付け加えるということは、教師の教材研究が十 分なされていないとできないことであり、短く話すには、熟練した技術が必要であった。 「解釈評価」では、全体を振り返りつつ、現代に生かすことのできる教訓や法則の発見に努めている。 そして、その発表が終われば、評価として感想が述べられる。教師も同じように感想を話し、学級全 体で共感しつつ進められる。最後に、歌を歌ったり、放課後は、休天神へのお参りが計画されている。 「論証」は、復習である。ノートに記入させながら行われたのであろう。「劣等児」がどれだけ理解 したかに注意を払うこと、現代生活を解釈すべき事実や法則の発見の仕方の指導を行うことが意図さ れている。 さて、以上のように及川が、当時の授業を改革しようとして、歴史科においては「菅原道真」の実 践事例を『分団式各科動的教育法』に記載した。及川の実践の特徴をさらに明確にするために、明石 附属小で実践された授業を見てみよう。 4 福井訓導の歴史科授業 福井訓導は、1909(明治 42)年 3 月から 1915(大正 4)年 3 月まで明石附属小で及川と共に実践 研究に取り組んだ訓導である。彼は、教育実験界に「研究法の訓練を重視したる歴史科分団式教育の 実際」という題で実践を発表している。この実践は日付が「六月十日」とあり、火曜日となっている ことから大正二年の実践であると考えられる。明石附属小の主事日誌によれば、この日は、教生の批 評教授が行われているが、特に、歴史科の研究授業が行われたわけではなく、福井訓導の自主的な研
究であると考えられる。20) 六 教授の一実際案 一、学年 尋常科五年男女児 二、題目 聖徳太子 三、教材 教科書巻一第七全部 四、目的 (略) 五、予定 二時間完結 第一次 第十一週 六月十日 火曜第二時施行 一、教材 第七……名高きものなり。 二、時間目的 ( 1 )実質目的 太子の御聡明、及び太子の摂政と憲法を御制定せられしことを学習探究せしめ明確に把握せしむ。 ( 2 )形式目的 太子の御事蹟を中心として当時の国民理想精神を想像推究して探究的に学習せしむることに依り国民的志 操を養ひ御肖像に接しめて尊敬の念を起さしむ。 三、教順 ( 1 )予備 約五六分 1 、題目板書 2 、予習事項の調査 3 、経験事項の惹起と整理 4 、題目と感想 5 、目的の告示 一、学習事項意識 二、学習動機惹起 三、学習態度構成 ( 2 )研究 約二十五六分 1 、教科書読解研究 一、児童 読解研究一部簿上発表 二、教師 難語句板書読解指示、机間巡視して学習態度吟味、劣生の研究法指導、一般の進度点検観察 2 、教科書読解発表整理 一、児童 発表吟味 二、教師 点検指導 3 、歴史事実の探究 一、問題思考作成、七何法に依り自問自答直接内容事実を探究し或は過去経験を考慮して解決 二、教師 進度点検観察劣生指導 4 、探究事実の発表整理 一、児童 問題、内容発表吟味 二、教師 結果点検、敷衍補説。其の要点左(下)の如し。 1 、第一問題の解決 ◎太子の御聡明……主要問題 1 、立太子の件 ……従属問題 内容発表 2 、才智の件 点検補説 3 、学問の件 感想発表 (中略) 2 、第二問題の解決 ◎太子の摂政(略) ( 3 )練習 約十五六分 1 一部自学練習 2 一部指導練習 21) この実践は聖徳太子を扱っており、菅原道真ではない。まず、福井訓導の指導案においては、実質 目的と形式目的に分けられている。この分け方は、明石附小の『分団式各科動的教育法』出版前の指
導案形式である。指導案の形式は「予備」、「研究」、「練習」の 3 段であり、ヘルバルト派の段階教授 の影響が見られる。「予備」では、題目の板書、予習事項の調査等、細かい計画となっており、「学習 動機の惹起」もここに含まれている。「研究」は、及川の「題材の自力構造」とよく似ており、教科 書の読解があり、研究となっている。児童は研究問題を作成しているが、どのような問題を作ったの かは分からない。学級で解決すべき主要な研究問題として、第 1「太子の御聡明」、第 2「太子の摂政」 となっており、それに従属問題が結びついている。その研究の発表では、内容に付け加えて、教師の 補説が予定されており、及川の実践とよく似ている。また、感想を発表させていることも同じである。 「練習」については、何を自学させたのか明確ではない。 ( 5 )及川教育実践の特質とその長所 二人の教育実践の記載方法の違いもあり、どちらの授業が優れているかといった評価は難しい。及 川の書きぶりは具体的であり、児童の感情をゆさぶるように工夫されていること、教材研究が進んで いることが特徴である。特に、歌を歌ったり、遠足が計画されており、総合的な学習となっている点 で優れていると思われる。しかし、発表の様子については、及川の授業は多様であるが、まとまりと いう点では欠けている。 ここで、当時の歴史科授業と及川の授業の異なる点について、表に整理しておこう。 この表は、説話的教授法と自学主義的教授法の違いを表している。 一般的な歴史教授 及川や明石訓導の指導法 教科書 まとめのところで読む。 先に読んで研究問題をつくる。 中心的な活動 教師の講話を聞く。 児童が自ら研究を行う。 教師の説話 物語をいくつかに分けて語る。 児童の発表に敷衍する形で行う。 児童の発表 今日の学習の復演。 研究したことの発表。 児童の反応 授業の方法によってつまらない・おもし ろいが覚えていない。 (不明) 及川は、児童が自らの題材を自力構造する「動的」な授業を創ろうと、この菅原道真の実践を創り だした。 特に、当時の授業を革新する、この及川の事例の優れているところとして次の 5 点を挙げておきたい。 ①、学習動機の惹起の仕方、歌や史跡との関係づけがすばらしいこと。 ②、研究問題を作成させて主体的に学習させようとしていること。 ③、教師の説話は、児童の発表の充填として行われていること。 ④、できない児童、困っている児童への配慮があること。 ⑤、教材研究、授業計画がしっかりしており、特に史実の吟味を主張していること。 及川の歴史科「菅原道真」の実践は、以上のように、当時の教育方法を革新するという点で大きな 功績といえるのである。 しかし、事はそんなに単純ではない。それは、児童の及川の歴史科実践に対する反応がどうであっ たかということを検討しなければならない。まず児童にとって、教科書を読んで、さらに突っ込んだ 研究問題を作成することが難しいということである。研究問題を作成するということは、論理的な思 考を伴うことになる。児童の問題も「宇多天皇の時の事件、何故に道真を用ひたか。醍醐天皇も道真 を御信任なされたか。時平は何故に讒を構へたか。それからどうなったか等」と、この中に「何故に」 という問題が二つ含まれているのを見れば分かるであろう。物語としてひとまとまりであった歴史は、
児童の研究問題によって細かく分割される。ましてや問題をつくり慣れていない児童は、大事なこと を抜かして、些末な事象に目がいきやすく、有効な問題が作成できないことが多い。そう考えると、 簡単にこの授業が成功しているとは言い難いのである。 その証拠は、次の記述から明らかである。 「児童は教科書を数回読む、挿絵を考へる、地図を見て太宰府の位置を調べる、北野神社の掛図を 見る、教科書の本文を分解し、順序を附し、要点を帳簿に記載する。表明を考へる、此の間教師は教 科書読解の不十分なるものを集めて分団教授を行ふ、分団教授の際は、単に読解のみならず、分節の 定め方各節の要領をも問答する。」 多様な活動であり、これだけのことができれば質の高い授業といえるだろうが、この活動自体に児 童の学習の喜びが感じられない。まして、教科書の読解ですら不十分な児童がいたとすると、歴史を 学習する喜びを多くの児童が感じたとは思われない。 おわりに 筆者は、昨年度、実際に 6 年生の社会科を担当し、歴史科の授業で、物語を中心として教師が語る 授業と研究問題を通して研究させる授業を試みた。その結果、歴史が嫌いな児童は、教師の語る授業 を喜んだ。また、その児童たちは、研究問題の解決には意欲的になれないことが多かった。一方、歴 史が好きな児童は、研究問題に取り組むことを喜んだ。自分でどんどん調べられると積極的であった。 しかし一方、歴史が好きな児童も教師が語る授業を喜んだ。つまり、歴史に興味を持つ児童を育成す るには、まず物語としての歴史が必要であるというのが結論である。その喜びを感じさせた上で、再 度、研究して追究させる歴史授業を構築することがよいのではないかと思われる。 ただ、歴史はイデオロギーによって利用されてしまうことを考えると、歴史科の授業でどう語るか は難しい問題といえよう。 及川の歴史科の授業は、新しい教育方法として工夫されていたが、効果の上がる実践とするには、 教師の力量が必要であったこと、そして、及川の期待したとおりには、歴史科のよい「動的教育」の 実践が表れなかったことが事実なのであろう。 1 )中野光『大正自由教育の研究』黎明書房 1968(昭和 43)年 P271 2 )大森正「及川平治の歴史教育論」『東洋大学文学部紀要,教育学科・教育課程編』1984(昭和 59)年 PP13 ~ 32 3 )代表的な人物として、楠木正成・徳川吉宗が挙げられる。 4 )海後宗臣編『日本教科書体系近代編 第十九巻歴史(二)』講談社 1963(昭和 38)年 PP575 ~ 576 5 )及川平治『分団式各科動的教育法』弘学館 1915(大正 4)年 P613 6 )宝文館編『新国定教科書準拠小学校教授法』宝文館 1910(明治 43)年 PP100・101 7 )同上 序文 P2 8 )小川正行他『各科教授法 改訂 3 版』宝文館 1911(明治 44)年 PP167 ~ 169 9 )同上 凡例P 1 10)及川平治「佐藤教授に答ふ」『学校教育』第 44 号 1917(大正 6)年 P15 11)武藤忠義著『日本歴史教授新案』育成会 1910(明治 43)年 PP181 ~ 187 12)「各教科目教授の通弊」『教育の実際』第 5 巻 2 号 1910(明治 43)年 P35 13) 永島意之助『彙類的各科教授の実際案と其取扱』実文館 1911(明治 44)年 PP361 ~ 364 14)同上書 P4 15)阿竹台東『児童の見たる各科教授』水野書店 1909(明治 42)年 P157 16)同上書 PP158 ~ 159 17)尾崎實『わが国における歴史教授法の変遷』教育出版 1997(平成 9)年 P20 18)及川平治『分団式各科動的教育法』弘学館 1915(大正 4)年 PP623 ~ 627 19)同上 P614
20)及川平治「主事日誌 大正二年度」参照